「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用

指令とレーニン「労農同盟」論の虚実(2)

 

(宮地作成)

 

 〔目次〕

   1、「1918年〜21年のレーニンと農民」のデータと文献 (1〜3、別ファイル)

   2、レーニン・政治局による「反乱」農民射殺・人質指令の『極秘』資料

   3、農民「反乱」規模と射殺・人質数データ(表1、2、3、4)

 

   4、「労農同盟」論の虚実 逆説のロシア革命史(2)

       ボリシェヴィキ権力と農民との関係史の根本的見直し

    1)公認「ロシア革命史」における農民「土地革命」の評価と位置づけ

    2)4つの「革命」「反革命」潮流と相互抗争

    3)農民の第2要求「穀物・家畜自由処分権」とレーニンの拒絶

    4)余剰穀物とレーニン・スヴェルドロフが仕掛けた「内戦」

    5)「食糧独裁令」第1過程と「富農・中農・貧農」というレーニン型分類法

    6)「食糧独裁令」第2過程と「クラーク反乱」レッテルによる大量殺人

    7)戦時共産主義期における4潮流抗争の類別

    8)誤りの遅すぎた撤回としての「ネップ」と500万人飢饉死亡者

    9)梶川伸一による新しいネップ規定の重要性 (追加)

 

 (関連ファイル)            健一MENUに戻る

    『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実(1)』

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

           1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

          『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』

           食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

           レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

          『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する

          『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』ネップは宥和政策か

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』

    ダンコース『奪われた権力』第1章

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革

 

 4、「労農同盟」論の虚実 「逆説のロシア革命史()

      ボリシェヴィキ権力と農民との関係史の根本的見直し

 

 「逆説のロシア革命史()」は、『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』文末で、短く書きました。このファイルは、その各論としての「階級別逆説史・農民編」です。ロシア農民・農村問題に関する私(宮地)の知識の基本部分は、梶川著書2冊、メドヴェージェフ著書2冊に基づいています。ただ、以下は、その要約ではありません。私なりのロシア革命史知識と合わせて、自由に解釈したものです。

 その基本視点は、4つの「革命」「反革命」潮流が段階的に発生し、その相互抗争、または連携の経過として、ロシア革命史を把握し直すということです。この視点自体が、きわめてユニークな「逆説」になります。それにたいしては、違和感を感じる人も多いでしょう。

 

 私(宮地)の「逆説」は、2つの側面を持っています。一つは、「二月革命」「土地革命」「十月革命」を3つの革命として、ほぼ同列に評価、位置づける点において、公認「ロシア革命史」、「レーニン神話」にたいする「逆説」です。しかし、他のロシア革命研究者で「土地革命」を高く評価し、「十月革命」との「複合革命」であると規定する研究も多いので、それらにたいしては「逆説」ではありません。

 二つ目は、ソ連崩壊後に公開された上記「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)に基づいて、そもそも「労農同盟」が存在していなかったのではないか、とする私の「逆説」です。ソ連崩壊以前の研究では、「同盟の亀裂」を指摘しても、誰もそこまでを主張していません。崩壊後の研究では、梶川氏だけが、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』の表紙裏で『「労農同盟」論を否定』と明記しています。メドヴェージェフにしても、そこまでは明記していません。私は、このファイルで、2氏4冊・その他に基づいて、「労農同盟」が存在していなかったとする「逆説」の見解に立っています。その面からのユニークな「逆説」ということです。

 

 「労農同盟」の存否というテーマだけに、論証が長くなり、「(2)のファイル」を印刷すると、26ページになります。

 

 

 1、公認「ロシア革命史」における農民「土地革命」の評価と位置づけ

 

 「プガチョフの乱」の伝統と再発

 

 これは、1773年から75年、ロシア南部に、プガチョフを指導者として起きた大規模な農民反乱です。コサック、ロシア人農民、工場農奴などが、ツアーリと農奴主である貴族の支配にたいして、決起した「農民戦争」でした。1973年末には、砲86門、3万人の大部隊となり、、南ウラル一帯を制覇しました。政府討伐軍によるプガチョフ逮捕・処刑後も、各地の農民反乱が、1975年夏まで続きました。それ以降、150年の間、ロシア農民は、2大要求を掲げてたたかってきました。第1要求は、農奴として働くこと、地主土地の耕作に縛り付けられることからの解放を切望します。そして、自分が、あるいは、自分たちの農村共同体(ミール)が所有する土地を持ち、耕し、ロシアの大地で穀物を生産し、家畜を飼育することです。第2要求は、自分の労働の余剰生産物である穀物・家畜を自由に処分できる権利を勝ち取ることでした。

 このロシア的伝統が、()、1917年5月以降によみがえって、地主土地没収・共同体内再配分をする、農民が自力で成し遂げた「土地革命」となりました。()、さらに、1918年5月以降は、「食糧独裁令」撤廃=余剰生産物の自由処分権を要求した「対ボリシェヴィキ反乱」となって激発しました。

 

 公認「ロシア革命史」における農民「土地革命」の評価と位置づけ

 

 レーニン、ボリシェヴィキにとって、農民とは、「小ブルジョアの穀物・家畜生産者」です。「プロレタリア独裁」政権下の保守的な被統治階級です。しかし、ロシアは農民国家でした。当時、ロシアの人口は、約1億4千万人でした。その人口比率の「国家統計」は、1924年まで出ていません。その年度「統計」の人口比は、「プロレタリア独裁」階級である労働者10.4%、農民76.7%、商工業者・その他12.9%です。1917年時点の農民は、一般的に、80%、9000万人といわれています。このファイルでは、その数字を使います。

 

 武装蜂起し、単独権力政党となったボリシェヴィキ党員数や党組織数はどれだけだったのでしょう。メドヴェージェフが、そのデータを明らかにしています。1917年「二月革命」時点で、24000人でした。レーニンらは、亡命先スイスにおり、その時点で、ボリシェヴィキは帝政打倒に基本的な役割を果していません。10月には、40万人に急増していました。9000万農民と広大な農村に、ボリシェヴィキ党組織は300が点在しているだけでした。農民への政治的影響力はなく、エスエルが農民の要求を代表していました。エスエルは、7月に100万人の党員を擁していました。

 

 「二月革命」後の1917年5月、全ロシア農民大会が開かれました。それ以降、農民の自力による「土地革命」の嵐が、ロシア全土を覆いました。その内容は、9000万農民が、旧貴族・地主の土地を暴力的に没収し、個人所有にするのではなく、従来からの農村共同体(ミール)内で再配分したものです。それは、「プガチョフの乱」以来の、『自分たちの土地を所有する』要求を勝ち取る「9000万農民による自力大革命」でした。世界史上でも、これほどのスケールの「農民・土地革命」はないでしょう。

 

 レーニン、ペトログラード・ソヴェト議長トロツキーは、「二月革命」「土地革命」の連続革命の嵐により、“権力の空白の裂け目”が生まれた歴史的一瞬を捉えて、武装蜂起による権力奪取という第3革命=「十月革命」を成功させました。レーニンは、その瞬間を嗅ぎ分ける、天才的な“蜂起の技術者”でした。2連続革命の嵐のおかげで、第3革命当日の双方死者は、10数人だけでした。しかし、権力者となったレーニン・政治局も、自力で「土地革命」を先行的に成し遂げつつある80%農民との「労農同盟」をしなければ、政権維持ができません。レーニンは、そのため、繰り返し「労農同盟」の必要性を書き、演説しました。そして、「労農同盟」が実現していると力説しました。

 

 しかし、従来の「レーニン神話」や公認「ロシア革命史」は、きわめて一面的な内容、歪曲した歴史記述になっています。このファイル・テーマに関連した問題点は、3つあります。第一は、「十月革命」にたいして、「二月革命」を低く評価し、ほとんど無視しています。第二、「農民革命」の経過と成果に触れず、9000万農民による「先行した土地革命」を、「ロシア革命史」から事実上抹殺しています。第三、「ロシア革命」とは、「十月革命」から始まったとし、それ以前の二大革命を、その革命史範疇からカットするという歴史記述をしています。記述するとしても、「十月・社会主義大革命の前史」とするにすぎません。

 埴谷雄高は、「共産党史」について次のように言っています。『共産党権力者が書いた「歴史」は、どの国でも、現在の指導部を讃美するために、あえて歪められた「一つの恣意的な歴史」を眼前に見るので、客観的な歴史に接することは容易でない』。「レーニン神話」とは、「客観的な歴史」なのでしょうか、それとも、「一つの恣意的な歴史」=“勝てば官軍”史なのでしょうか。このファイルは、「労農同盟」の存否に関する歴史検証です。

 

 

 2、4つの「革命」「反革命」潮流と相互抗争

 

 〔小目次〕

   (1)、1917年2・3月、第1段階第1潮流「二月革命」

   (2)、1917年5月以降、第2段階第2潮流「土地革命」

   (3)、1917年11月7日、第3段階第3潮流「十月革命」

   (4)、1918年夏以降、第4段階第4潮流、白衛軍・地主部隊の「反革命」

 

 (1)、1917年2・3月、第1段階第1潮流「二月革命」

 

 当時、首都ペトログラードでは、食糧難、燃料難がもっとも激しく現われました。そこは、全国一の工業都市であり、かつ、軍隊の集結地で、労働者38万人と兵士47万人がいました。帝政・貴族政治反対の資本家急進派や自由主義知識人も急増していました。『ロシアにおける資本主義の発達』の下で、それらを中心としたカデット(立憲民主党)も、1905年革命から結成され、野党色を強めていました。

 

 2月14日、資本家急進派と結んだ戦時工業委員会労働者グループは、国会請願デモを呼びかけました。しかし、ボリシェヴィキなどの反対で失敗しました。

 2月23日、婦人労働者の「パンをよこせ」のストライキとデモをきっかけに、それが全市に広がりました。鎮圧部隊がデモ隊に発砲し、多数の死者を出しました。それに反発して、25日、全市ゼネストに発展します。

 2月27日、一方、鎮圧部隊側の兵士が、「鎮圧命令を拒否」して、反乱を起しました。それは、近くの3連隊にも波及し、彼らは監獄から政治犯を解放しました。その日、ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェトと、国会臨時委員会とが成立し、帝政打倒の「二月革命」が達成されました。

 

 「二月革命」は、政党主導型ではなく、自然発生的な面がかなりあります。そこでの政党の役割の面では、メンシェビキ、エスエルが中心です。ボリシェヴィキは、国会請願デモに反対したように、積極的役割を果していません。ブルジョア民主主義革命と規定する「二月革命」の性格からだけでなく、その点からも、レーニン・政治局は、その成果を軽視、抹殺したいのかもしれません。帝政・貴族政治体制を打倒した点で、「二月革命」は、ロシア史上まさに画期的な革命です。その性質は、「労働者・兵士の革命」であり、かつ、「ブルジョアジー、自由主義知識人の革命」でした。農民は、まだ、この時点で立ち上がっていません。

 

 レーニンは、この革命を「ブルジョア民主主義革命」と軽視し、「連続的な社会主義革命への移行」を説きました。「ロシア革命」第1潮流の担い手は、労働者・兵士が中心であり、急進派ブルジョアジー・自由主義知識人も支援し、政党としてはメンシェビキ、エスエル、(カデット?)でした。私の見解は、この担い手から見て、たんに「民主主義革命」という性格規定でよいとするものです。なにも、“西方の”マルクス主義革命概念を、教条的に、この“東方の”「二月革命」に押し付ける必要はありません。

 

 これ以来、第1潮流は、「民主主義革命」の要求を掲げて、一貫して流れました。私が、このファイルで「潮流」という言葉を使うのは、4つの「革命」「反革命」が、その時点だけで終わったのでなく、それぞれが異質な潮流として持続し、その相互抗争と連携をしながら、「ロシア革命史」を貫いている、という見解に基づくものです。レーニンは、()、1921年のペトログラード労働者ストライキ、クロンシュタット水兵反乱の武力鎮圧、“指導者皆殺し”作戦、()、1922年の「反ソヴェト」知識人の大量追放作戦による“肉体的排除”、『浄化』路線、(3)、チェーカーによるメンシェビキ、エスエルなど他党派逮捕・粛清、一党独裁型政治体制の追及路線などによって、この潮流を途絶させました。

 

 

 (2)、1917年5月以降、第2段階第2潮流「土地革命」

 

 1961年の農奴解放は、きわめて不十分なものでした。1917年「二月革命」後も、旧貴族・地主の土地は、そのまま残っていました。帝政時代の「プガチョフの乱」以後も、農民反乱は頻発していました。1917年5月、ペトログラードの全ロシア農民大会で、“将来公約”としてのみ「地主土地没収・共同体内再配分」方針が確認されました。農民側は、その「即時実施」を要求しました。その農民第1要求に、臨時政府、エスエル、メンシェビキも及び腰でした。レーニンは、大会前の4月28日、『最大限の組織性をもった形で、ただちに農民に土地を譲渡させること』を主張しました。一方、『無政府的な占拠には断固反対する』とのべました。分裂(12月)前の左派エスエルだけが、裏で賛成しました。

 

 農民たちは、150年間、()自分たちによる土地所有と()余剰穀物・家畜を自由に処分できる権利という2大要求を掲げてたたかってきました。5月4日から28日まで、1カ月間近く開かれた農民大会での、臨時政府、与党による「11月の憲法制定議会選挙とその招集まで待て」という公約にたいして、「二月革命」を体験した農民は同意しませんでした。5月から1918年はじめにかけて、ロシア全土で9000万農民が、自力で「土地革命」に総決起しました。それは、レーニンが主張した『最大限の組織性、譲渡』に反する、暴力的な「没収」でした。レーニンの『断固反対』主張に逆らった『無政府的な占拠』形態でした。

 

 9月には、タンボフ県をはじめ47県で、「地主土地没収・共同体内再配分」の農民革命が激化しました。ツアーリの鎮圧部隊はすでにありません。臨時政府もそれを鎮圧しようと部隊を派遣しましたが、とても抑えきれません。その“権力の空白”をチャンスとして、47県で、1430件の農民直接行動が起りました。そのうち317件が、中央黒土4県(ヴォロネジ、クルスク、タンボフ、オリョール)に集中しました。ヴォルガ川流域のすべての県で、農民運動が勃発し、レーニンが『断固反対』した無政府的な土地占拠は、次第に暴力的形態をとって進行しました。1917年11月から1918年7月までのヴォロネジ、タンボフ県で生じた184件の農民運動のうち、132件が、放火、集団的略奪となりました。

 

 ロシア全土での9000万農民による、嵐のような農民運動は、18年初めにかけて、旧貴族・地主土地没収、農村共同体(ミール)内での土地再配分という「土地革命」を、自力で成し遂げました。その農民革命は、どの政党の支援も受けず、むしろ、左派エスエル以外の、すべての政党に逆らって、進行しました。5月以前は、ヨーロッパ型の資本主義的個人農を増やすという「ストルイピンの土地改革」が進行していて、個人的土地所有が増え、800万戸、51%になり、共同体的土地利用は、740万戸、49%でした。1920年時点では、98から99%が、共同体的土地利用となり、農業経営農家は、2000万戸となり、460万戸も増えました。「土地革命」は、土地利用の均等化という農村内平等性を実現する一方、経営の零細化=都市向け商品穀物生産の減少ももたらしました。

 

 「二月革命」「十月革命」は、ペトログラード、モスクワなど大都市における百数十万の労働者・兵士のデモ、ストライキ、反乱、武装蜂起形態の革命です。「土地革命」は、それらとは異質な、ロシア全農村を覆った9000万農民の自力による革命でした。それは、他の2つの「革命」に比べて、参加人数の多さ、革命地域の広大さの面で、けた違いなスケールを持つ革命でした。「十月革命」は、2つの連続革命の嵐による“権力の空白”をついて、少数派による、政党主導型の、“とりあえず”国家暴力装置を奪取する、上からの革命でした。それにたいして、「土地革命」は、80%農民による、政党支援なしの、“とりあえず”第1要求を暴力的に勝ち取る、下からの農民・農村関係の根底的変革でした。それにより、「十月革命」の路線・政策は、「土地革命」の成果と結果により、決定的な制約を受けることになったのです。

 

 従来の「レーニン神話」、公認「ロシア革命史」では、この「革命」を意図的に過小評価し、または、事実上隠蔽してきました。政治局は、「土地革命」を高く評価し、正しく位置づけようとする、ボリシェヴィキ内外の「複合革命」論を徹底して批判し、抑圧しました。「複合革命」論とは、1917年を、「ボリシェヴィキ十月社会主義革命」と、それに先行、および平行した、農民による自力「土地革命」の“複合変革過程”とする歴史研究です。ソ連崩壊後、抑圧されていた歴史解釈が再び浮上し、活発に討論され始めています。トロツキーは、この農民運動の経過と高揚について、『ロシア革命史()(岩波文庫、藤井一行訳、2000年9月)の「20、農民」(P.239〜267)で、リアルに分析しています。ただ、彼は、「土地革命」という表現を使っていません。

 

 労働者・兵士と同じく、農民の要求課題も、「土地、平和、パン」でした。農民にとって、3番目の「パン」とは、農民第2要求「再配分ずみの自分の土地で生産した穀物・家畜の自由処分権=自由商業」であり、それを勝ち取ることでした。これ以来、第2潮流「農民革命」は、獲得した第1要求「再配分した土地」に依拠して、第2要求を掲げ、それを抑圧・禁止するボリシェヴィキ権力、または白衛軍にたいするたたかいとして、一貫して「ロシア革命史」を流れます。第1要求による「農民革命」は、「食糧独裁令=自由商業禁止・穀物割当徴発」を押し付けるボリシェヴィキ権力=チェーカー・赤軍という国家暴力装置にたいする農民「反乱」に転換していったのです。

 

 その農民闘争は、1918年5月「食糧独裁令」発令から、1921年3月「ネップ=自由商業承認」で、レーニンが『一時的戦術的後退』をするまで、2年10カ月間続きました。その間、ロシア全土で千件以上もの「食糧独裁令」撤廃の武装要求行動、一方で、数百件の撤廃要求請願運動が発生しました。レーニンは、9000万農民、2000万農家の要求にたいし、その間、幾度となく『後退』を選択するチャンスがあったにもかかわらず、それを拒絶し続けました。そして、農民「反乱」にたいして、「クラーク反乱」のレッテルを貼りつけ、上記『指令』『データ』のように、武力鎮圧をし、数十万人の大量殺人を続けました。1921年6月、「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令によって、第2潮流も、暴力で途絶させました。

 

 

 (3)、1917年11月7日、第3段階第3潮流「十月革命」

 

 当時、労働者は、1924年「国家統計」上では、10.4%、1400万人でした。しかし、いわゆる意識の高い「プロレタリアート」となると、きわめて少なくなります。それは、『ロシアにおける資本主義の発達』があるにしても、ペトログラード、モスクワ、ウクライナ、ウラル、カフカースなどの5大工業地域に集中して存在した薄い層でした。工業労働者数は、ダンコース『ソ連邦の歴史1』(新評論)によれば、1917年300万人です。1920年1月に150万人に減り、その後も減り続けた、としています。山川出版の『ロシア史(新版)』によれば、1918年8月31日で労働者1254000人が、1920年6月1日には、867000人に減った、としています。減少の原因は、赤軍徴兵、内戦による戦死、飢餓による農村への脱出などです。工業労働者数300万人は、総人口1億4千万人の2%強です。農民9000万人との比率は、30対1です。「プロレタリア独裁」とは、2%による独裁体制、1920年時点では1%による独裁でした。しかも、その実態は、「ボリシェヴィキ一党独裁」でした。それは、1922年ソ連共産党員528354人+チェーカー・赤軍による「ボリシェヴィキ一党・軍事独裁」を本質としてのみ、生き残ることができたのです。

 

 「二月革命」とレーニンの「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」のよびかけで、国家暴力装置の旧ツアーリ軍隊内統制力は、半ば崩壊しかかっていました。5月以来の「土地革命」の嵐で、臨時政府の国内統制力も著しく低下していました。軍事独裁を図った8月の「コルニーロフ将軍の反乱」も、旧帝政軍隊内の支持を得られず、かんたんに敗北しました。「二重権力」状態とはいえ、それまでの2段階、2つの「革命」潮流の中で、臨時政府の国家暴力装置も、事実上、機能麻痺に陥っていました。

 

 7月以降、「土地、平和、パン」という具体的なスローガンを掲げるボリシェヴィキへの支持が、ペトログラード、モスクワの大都市工業労働者、兵士の間で、劇的に高まりました。大都市ソヴェト内でのボリシェヴィキ支持が、エスエル、メンシェビキを抜いて、「二月革命」以降初めて第1位に躍り出ました。一方、臨時政府が決定した11月の憲法制定議会選挙にボリシェヴィキも賛成し、その協議に参加していました。(1)臨時政府は、ブルジョア政党カデットと、エスエル、メンシェビキで構成されていました。(2)武装蜂起をしなくとも、“社会主義連立政権”を平和的に樹立し、議会制度に基づく民主的国家運営に転化させることが可能な選択肢としてありました。(3)実際の選挙結果で明らかになったように、3大社会主義政党の得票率は、エスエル40.4%、ボリシェヴィキ24%、メンシェビキ2.6%でした。(4)カデット(得票率4.7%)を除いたその選択がいかに容易であったのかは、11月7日武装蜂起・権力奪取による双方の死者が10数人しか出なかったことからも証明できます。「十月革命」は、事実上の“無血革命”でした。

 

 『レーニンが書き、演説したこと』(レーニン全集)には、内戦発生を防ぐために、レーニンが、社会主義3政党の「連立政権」を望んで、いかに努力したかが、何度も書いてあります。「レーニン神話」では、単独で、“抜け駆け”的権力奪取をしたレーニンが、その翌日、11月8日の第2回ロシア・ソヴェト大会で、その事後承認要求とともに、「連立政権」を望んだのに、メンシェビキのマルトーノフが、それを拒絶して、一方的に退場したので、せっかくの連立構想が崩れたという歴史解釈をしています。

 

 『レーニンがしたこと』は、その公認「ロシア革命史」とは、異なっています。レーニンの本心は、3つありました。

 一つは、国際情勢評価です。ヨーロッパ革命、とくにドイツ革命が目前に迫った、という情勢認識です。よって、それに先駆け、ボリシェヴィキが単独で権力奪取をして、ロシアを世界革命勃発の導火線にさせる、とした目論みです。

 二つは、政党評価です。社会主義政党といっても、エスエルは、ナロードニキの路線を受け継ぎ、ロシア特有の農村共同体(ミール)内の平等性を過大に評価し、それに依拠して、共産主義を実現できるとする農民革命政党である。メンシェビキは、ボリシェヴィキと同根のロシア社会民主労働党から分裂したマルクス主義政党であるが、ヨーロッパと同じ堕落した第2インター系社会民主主義政党である、と見なすものです。ボリシェヴィキだけが、正統な唯一のマルクス主義革命政党であり、真理を体現しているという独善的思想です。12月に分裂する左派エスエルだけが、ボリシェヴィキの路線・政策に賛成しているので、唯一の連立政権の相手になりうる、という評価でした。

 三つ目は、憲法制定議会の評価です。その選挙で、社会主義3政党が圧倒的多数(得票率67%)をとり、連立政権を作ったとしても、それはヨーロッパ的なブルジョア議会制度である。その堕落したブルジョア・システムでは、ボリシェヴィキ型革命を遂行できない、という否定的評価です。『すべての権力をソヴェトへ』というプロレタリア独裁権力システムこそ、最善の権力機構となるという思想です。憲法制定議会の他政党が、1918年1月18日の第1日目で、武装蜂起政権の正統性を認め、ボリシェヴィキが提案した路線・政策を無条件で承認するのであれば、その存続を許す。しかし、それを拒否したからには、武力解散してしまえ、という威圧的思考でした。これらレーニンの本心に関する論証は、いくらでもあります。R・ダニエルズが、『ロシア共産党党内闘争史』において、詳細なデータで、「蜂起か連立か」の情景の描写をしており、その論証をしています。

 

 レーニンは、第1、第2潮流が生み出した「権力の空白」の歴史的一瞬をとらえ、第1潮流を“出し抜いて”、権力を奪いました。彼は、「蜂起の技術者」として、ペトログラード・ソヴェト議長トロツキーとともに、その蜂起の組織能力と「3つの本心」に基づく強靭な党内異論説得力を発揮しました。これが、「十月革命」以降の第3潮流です。ボリシェヴィキ党員40万人、労働者・兵士数10万人による「社会主義革命」の旗を掲げたボリシェヴィキ革命でした。

 

 ただし、この第3潮流は、「二月革命」第1潮流を“出し抜いたもの”だけに、第1潮流側にとっては、レーニン・トロツキーの『3連続クーデター』そのものでした。いうなれば、「鳶に油揚げをさらわれた」ときのような、強烈な怒りと反発を抱きました。『3連続』とは、()抜け駆けの単独権力奪取クーデター、(2)カデット機関紙「レーチ」、ブルジョア新聞閉鎖措置クーデター、(3)憲法制定議会の第1日目武力解散クーデターのことです。かくして、単独権力を握った第3潮流と、それを批判する第1潮流との、ロシア革命内の内部抗争と一時的連携とが一貫して流れることになりました。最初の連携は、左派エスエルとボリシェヴィキとの連立政権でした。それは、1917年12月から始まりました。しかし、1918年3月3日のブレスト講和条約締結是非問題で決裂し、連立は3カ月間で終わりました。それ以後、1991年ソ連崩壊まで、レーニン、スターリン、ブレジネフらは、一党独裁政権を続け、74年間、普通選挙を、一度も行いませんでした。レーニン自身、および「レーニン神話」、公認「ロシア革命史」は、これらの抗争を『「革命」と「反革命」のたたかいである』と何万回も唱え、ソ連国民とコミンテルン、世界の左翼に“刷りこみ”をしてきました。これらは、「反革命」ではなく、あくまで「3つのロシア革命」内部における抗争でした。

 

 メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』において、ソ連崩壊後の資料に基づき、「レーニン神話」が振りまいてきた「内戦の基本原因」を否定しました。「神話」は、それを、(1)外国軍事干渉軍と(2)その支援をうけた白衛軍としてきました。74年間、世界の誰も、その「原因説」を疑いませんでした。彼は、「新・内戦原因説」として、(1)憲法制定議会の第1日目武力解散、(21918年5月の「食糧独裁令」を挙げました。(2)については、後でのべます。

 

 (1)憲法制定議会選挙と招集は、臨時政府の公約でした。ボリシェヴィキも賛成し、その協議に参加していました。11月25日選挙施行も政府、全党派が合意していました。11月8日には、第2回全ロシア・ソヴェト大会が予定されていました。ボリシェヴィキ内では、レーニンだけが、上記「3つの本心」に基づいて、武装蜂起による権力奪取手段を強烈に主張し、10月には、それを党の基本方針とさせました。この経過と党内論争は、ダニエルズが書いています。権力奪取したボリシェヴィキは、自らの政権下で、選挙を、延期することなく、施行しました。メドヴェージェフは、その「選挙開始日を遅らせるべきだったし、その選択肢が存在した」と分析しています。なぜ予定どおり施行したのでしょうか。一つは、ボリシェヴィキ自らも含め全党派が合意していた選挙を破棄するには、あまりにも第1、第2潮流による憲法制定議会向けての公約、期待が高まっていたからです。二つは、『第1、第2の連続クーデター』にたいする全他党派の怒りが強烈で、さらに選挙破棄までもしようものなら政権が崩壊してしまう危険がありました。三つ目は、レーニンが、ペトログラード、モスクワの大都市ソヴェトでのボリシェヴィキ支持が第1位に初めてなったことで、ロシア全土でも第2潮流の支持を受けて、議会第1党になる、と“錯覚”していた面も考えられます。結果は、投票率約50%で、得票率24%、議席獲得率25%、第2党の「少数派の政権政党」にとどまりました。

 

 これでは、とても正常な議会運営などできません。一方、ソヴェト大会、各地方ソヴェトという、新しい権力機構が急速に作られつつありました。レーニンの「3つの本心」から見れば、憲法制定議会という『邪魔者は殺せ』となるのは当然でした。ところが、残念ながら、それを『殺す』口実が見つかりません。『階級敵を殺す』目的のためには、手段を選ばないというのは、レーニンの本質的な体質でした。彼は、「2つの口実」をねつ造しました。第1口実――ボリシェヴィキ政権側は、1918年1月18日、招集第1日目、全他党派が、武装蜂起・権力奪取したボリシェヴィキと12月分裂の左派エスエルとの連立政権の正統性を認めること、ボリシェヴィキの路線・政策を無条件に承認すること、を議会に要求しました。『2つの連続クーデター』への怒りと反発から、全他党派がそれを拒否しました。その拒否行為を口実とし、クロンシュタット水兵を使って、第1日目だけで、議会武力解散をしました。第2口実――左派エスエルは、12月に分裂・結党しました。選挙は、その前の11月25日に開始されました。エスエルの「統一名簿」は、当然、分裂前のものです。第1位得票率40.4%もそうです。レーニンは、『選挙は、「統一名簿」で行なわれた。しかし、現在、左派エスエルが分裂している。よって、選挙結果そのものが無効である。よって、憲法制定議会も無効である』としました。

 

 「2つの口実」は、なんとも低劣で、なんの説得力も持ちません。暴力をバックにした問答無用の武力解散でした。全他党派の怒りと反発は、この『第3クーデター』によって、頂点に達しました。これは、反レーニン・反ボリシェヴィキ「反乱」に、決定的な大義名分を与えました。『憲法制定議会再開』スローガンは、レーニンが、暴力で、第2潮流を殲滅しつくす1922年まで、「反乱」農民・政党によって掲げられました。中野徹三氏は、『社会主義像の転回』で、「憲法制定議会選挙と解散論理」を克明に研究しています。メドヴェージェフが、ソ連崩壊後の資料研究によって、このレーニンの「暴挙」を、『内戦の第1原因』と規定したのは、画期的な新見解でした。

 

 

 (4)、1918年夏以降、第4段階第4潮流、白衛軍・地主部隊の「反革命」

 

 公認「ロシア革命史」は、『内戦原因』論を、外国軍事干渉軍と、その支援を受けた白衛軍としてきました。メドヴェージェフは、それを否定し、『内戦の原因』を、()憲法制定議会武力解散、(2)食糧独裁令と規定しました。白衛軍の国内構成者・支援者は誰でしょう。第1潮流「二月革命」によって、ツアーリ・貴族支配体制から追放された元将軍・将校が軍事指揮をとります。第2潮流「土地革命」によって、土地を奪われた地主たちが白衛軍に参加し、さまざまな支援をします。第3潮流「十月革命」の企業国有化によって、工場・資産を剥奪された資本家も、全面的な経済支援をします。ツアーリに忠誠を誓ってきたコサック騎兵軍団十数万人もいます。しかし、「十月革命」で、首都ペトログラード・コサック守備隊が中立を守ったように、コサック軍団は、「赤いコサック」と「白いコサック」とに分裂して、流動的に「赤」と「白」が入れ替わっていました。なぜなら、ボリシェヴィキ政権は、「土地に関する布告」において、「土地革命」の一般農民と同じく、コサック身分440万農民にも、従前の「優遇的土地利用」を承認していたので、その面でのボリシェヴィキ批判はなかったからです。

 

 たしかに、1918年3月9日、イギリス軍のムルマンスク上陸を初めとして、4月5日、日本軍のウラジオストック上陸、8月、連合国軍のアルハンゲリスク上陸、日本・アメリカのシベリア出兵宣言と、外国軍の侵略と干渉が続きました。しかし、外国干渉軍は、一番最後まで侵略を続けた日本軍のシベリア出兵による一時的占領地域の矮小さと全体の成否を見てもわかるように、広大なロシアの大地に奥深くまで侵入することは不可能でした。あくまで、外部からの政治的圧力と白衛軍への武器援助にとどまったのです。

 メドヴェージェフの『原因論』は、白衛軍が、外国の軍事支援を受け、「反・二月革命」の元将軍・将校、貴族、「反・土地革命」の元地主、領主、「反・十月革命」の資本家たちが、内戦を起そうとしたとしても、それだけでは、内戦のあのような一時的占領範囲、戦争規模、戦争期間、700万人もの内戦犠牲者にはならなかった、別の上記『2原因』が、その基本になっていた、とする論旨です。

 

 それを証明する論拠があります。1917年の「3つの連続革命」のすべての過程において、当然それぞれにたいする「軍事的な反革命」動向が発生していました。それは、1918年5月「食糧独裁令」発令までたえずありました。しかし、その動向は、1年2カ月間、「内戦」という性格の戦争には、一度も発展していません。(1)憲法制定議会武力解散、()「食糧独裁令」という『2つの原因』にたいする全他党派、9000万農民の怒りと反発が重なったという歴史的条件を、レーニンが“製造した”ことにより、それを国内栄養源として補給しつつ、白衛軍が、形として2年半、実質として約2年間生き長らえることができたのです。

 

 白衛軍の本質は、「反革命」です。ただ、どの「革命」にたいする「反革命」なのかを見る必要があります。公認「ロシア革命史」は、それを、当然のように「反ボリシェヴィキ革命」としてきました。なぜなら、「レーニン神話」は、第1、第2潮流に、ボリシェヴィキが直接の、積極的な役割を果していないので、最初から、低い評価と位置づけしかしていないからです。それどころか、「ロシア革命」とは、「十月」から始まったのであって、それ以前の「2つの連続する革命」を意図的に無視するという“歴史の歪曲”をしてきました。権力者の都合のいい歴史記述になるのは、権力者側が書いた世界中の歴史書に共通しています。その同じケースとして、公認「ロシア革命史」「レーニン神話」も、“勝てば官軍”史になりました。

 

 白衛軍は、3つの「革命」潮流すべてにたいする全面的な「反革命」でした。ツアーリ・貴族支配体制の復活を目論んで、第1潮流「二月革命」にたいする「反革命」です。没収された土地を9000万農民から軍事力で奪い返して、地主制度回復のための「反・農民革命」です。もちろん、資本主義制度と国有化された資本家工場・資産を取り戻すために、社会主義政権打倒をめざす「反ボリシェヴィキ革命」でした。それは、1億4千万国民のうちの、一握りの旧帝政貴族・将軍、地主、資本家が、3大「革命」潮流の流れを、すべてせき止めようとする「反国民的あがき」でした。

 

 3つの「革命」潮流内に相互抗争・対立が起きなければ、白衛軍が、外国軍事干渉軍の武器援助を受けたとしても、あれほどの「内戦」期間・規模・犠牲者になるはずがありませんでした。しかし、第3潮流による1918年5月の「食糧独裁令」は、第1、第2潮流との根本的対立と激突を引き起こしました。それを仕掛けたのは、レーニンの側でした。白衛軍は、その基本原因を最大限に利用しました。

 

 これら4つの「革命」「反革命」潮流と相互抗争が、1921年6月の「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令まで続いたとするのが、私(宮地)の「逆説のロシア革命史()」の基本です。以下、農民問題、「労農同盟」存否に関して、さらに具体的に分析します。

 

 

 3、農民の第2要求「穀物・家畜自由処分権」とレーニンの拒絶

 

 当時、ソ連の人口は、1億4千万人でした。その内訳は、80%、9000万農民、2000万農家の農民国家でした。「国家統計」上の労働者は、10.4%、1400万人いても、工業労働者は、2%、約300万人いたにすぎませんでした。「十月革命」前のレーニンが何度も認めているように、『ロシアにおける資本主義の発達』がある一方、全体としては、ロシアにおいて「マルクスの社会主義青写真」を実施する、あるいは実現できる客観的・主体的条件はありませんでした。レーニン、トロツキーが熱望したように、ヨーロッパ革命、とりわけ発達した資本主義国ドイツでのプロレタリア革命が連続して勃発し、成功したという条件が重なるときにおいてのみ、それを“絶対的前提”とした「十月革命武装蜂起」は、“導火線の役割”を果し、生き長らえることができる、という世界革命史上最大の“ギャンブル”だったのです。ドイツ革命は鎮圧され、ローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは惨殺されました。レーニンの「ドイツ国内情勢分析」が、主観的願望に基づく楽観的なものであり、ドイツ革命成功とは“幻想の革命”であったことが証明されました。

 

 1917年、「土地、平和、パン」の要求解決が、焦眉の課題でした。農民自身による土地所有の要求、第一次世界大戦終結・離脱の要求、飢餓の克服要求です。どの階級、どの政党がそれらを解決できるのかが、切実、緊急のテーマになりました。「平和、パン」を求めて、「二月革命」をペトログラード労働者・兵士が成功させました。しかし、それにより成立した臨時政府は、戦争終結・離脱をせず、「パン=飢餓」も解決できませんでした。一方、「土地革命」を9000万農民が、自力で達成しました。臨時政府は、地主の土地没収を認めず、農民への鎮圧行動を行い、抑圧しようとしました。3課題を何一つ解決できない臨時政府への不満、批判が高まり、7月以降、一転してボリシェヴィキへの期待が急上昇しました。

 

 「2連続革命」により生じた“権力の空白”を突いて「十月革命」で権力奪取したボリシェヴィキは、1918年3月3日、ブレスト講和条約締結により、1914年以来の第一次世界大戦から単独離脱し、「平和」をもたらしました。しかし、左派エスエルは、「世界大戦を世界的内乱、世界革命戦争に転化せよ」と、戦争継続路線を主張し、連立政権を3カ月間だけで離脱しました。なぜなら、レーニン自身が、そのスローガンを、従来から強烈に唱えていたのに、「単独離脱」など、“1歩前進どころか、3歩とも後退”で、“世界とロシアのプロレタリアートにたいするレーニンの裏切り”であるとの批判を持ったからです。ボリシェヴィキ党内でも、ブハーリンをはじめ、戦争継続路線に基づく強烈な反対意見が出ました。しかし、この「単独離脱」の選択肢を採ったことによって、ロシア国民と「十月革命」勢力は、“息つぎ”期間をえました。

 

 レーニンが抱いていた「マルクス主義青写真」の社会主義農業路線は、()土地国有化、()大規模農業・集団農場システム、()穀物・家畜をふくめ自由商業・市場経済の廃止(貨幣経済も廃止)()中央集権型の社会主義計画経済などでした。しかし、彼が「マルクス主義青写真」どおりの権力奪取をしたとき、先行した80%農民の「土地革命」により、(1)98%以上の農地が農村共同体(ミール)所有・利用になった土地「社会化」、(2)没収土地の再配分による2000万農家という農業経営「零細化」が発現していました。党員40万人、プロレタリアート300万人、得票率24%の「少数派の武装蜂起政権」は、9000万農民の自力「土地革命」成果を否定することはできませんでした。レーニンは、権力維持のため、やむなく、(1)(2)の「青写真」をあきらめました。しかし、その力関係の中で、(3)(4)に固執して、その強行突破を図ったのです。しかし、この(3)(4)の「青写真」そのものが、マルクスの根本的誤りであったことは、74年後における10の一党独裁型社会主義国とその前衛党が一挙に崩壊したことにより証明されました。レーニンは、その誤った「青写真」を、教条的に「十月革命」で実験しようとしました。

 

 「平和」の実現により、残ったのは第3課題「パン=飢餓の克服」だけになりました。9000万農民は、ボリシェヴィキ政権が、第1要求「地主から没収した土地の共同体利用」だけでなく、第2要求「穀物・家畜の自由商処分権=自由商業」も認めると思いました。「十月革命」後、エスエル支持を続けつつも、ソヴェト内代表選挙で、ボリシェヴィキも支持しました。臨時政府は、戦争継続中で、「穀物専売制・配給制=固定価格による買上げ、自由商業禁止」政策を採ってきました。その政策は、飢餓を進行させました。1918年2月まで、ボリシェヴィキ政府も、戦争継続中もあって、その政策を踏襲しました。農民は、くりかえし第2要求の実行、転換を請願しました。ところが、レーニンは、3月講和後も、「穀物専売制=自由商業禁止」政策を、一向に放棄しようとせず、継続しました。なぜなら、自由商業承認は、「青写真」(3)に反し、“世界初の社会主義政権が資本主義経済への後退を認める”敗北路線となり、なんのために「十月社会主義大革命」をしたのか、となるからです。

 

 レーニンの「労農同盟」論とは、社会主義建設という共通の目標で一致した、300万プロレタリアートと9000万農民との政治的・軍事的同盟が必要であり、かつ実現しているとする説です。農民が、ボリシェヴィキ一党独裁とプロレタリア独裁を積極的に支持しているという説です。実態は異なります。農民は、「土地革命」を承認する政権であれば、臨時政府、エスエル、ボリシェヴィキのどれでもよかったのです。ところが、臨時政府は、土地没収運動に反対し、鎮圧部隊もくり出しました。片や、ボリシェヴィキ政権は、『土地に関する布告』と、エスエル起草の『土地「社会化」法』によって、やむなく、「土地革命」成果を“追認”しました。

 

 レーニンが“追認”し続けるかぎりにおいてのみ、農民は、プロレタリア独裁政権の存続を“消極的支持”したという関係でした。その関係を「労農同盟」と呼ぶことはできません。「穀物専売制」継続の期間において、『レーニンが書き、演説した』レベルでの「労農同盟」は存在していません。

 

 それだけでなく、3月の「平和」実現と同時に、レーニン「青写真」と自力「土地革命」をした9000万農民との、(3)(4)をめぐる根本的対立が、いよいよ顕在化することになったのです。レーニンは、農民の第2要求、請願を拒絶し、「穀物専売制=自由商業禁止」政策を続けました。その結果、飢餓が一段と進行しました。その政策と飢餓進行との関係は複雑です。簡潔に説明します。この政策は、農民から穀物・家畜を政府決定の「固定価格」で買上げ、都市消費者に「配給制」で配るシステムです。かつ、農民への鋤・釘、砂糖・塩などの農業用製品・生活必需品を、政府決定の「流動価格」で供給するシステムでした。これは、()中央集権型の戦時統制経済でした。2つの「価格」が釣り合い、一方に不利に変動しなければ、また、農業用製品・生活必需品が需要に見合うだけ供給されれば、流通がスムーズにいきます。しかし、政府は、買上げ「固定価格」を低く設定しました。国家運営資金に乏しい革命政府は、紙幣を乱造しました。“赤衛隊強襲”方法で、銀行・工場をすべて国有化しました。レーニンが『国家と革命』において、「料理女でも簡単に記帳、工場経営ができる」との幻想は、瞬時に破られました。資本家・経営者を追放したボリシェヴィキたちは、まともな工場経営ができず、農業用製品・生活必需品を十分生産できません。少しの生産品しかないので、その「流動価格」は跳ね上がりました。インフレは革命前と比べて1万倍にもなりました。2つの「価格」の格差は、一方的に農民に不利になりました。9000万農民は、「固定価格」の値上げを何度も要求しました。レーニンは、それを拒絶しました。農民は、低「価格」での穀物・家畜調達に抵抗し、調達をしぶります。飢餓は極限状態にまで進行しました。

 

 そこから、5つの激流が生まれました。第1、農村と都市とを結ぶ“袋をかついだ男”(闇のかつぎ屋)の激増です。第2、都市住民・労働者数十万人の、食糧を求めた農村への脱出です。第3、レーニンのチェーカーを使っての「投機者=かつぎ屋、反革命分子」の摘発と、その場での射殺です。都市向け穀物・家畜輸送の鉄道員のサボタージュ、農民の鉄道除雪の怠慢への人質、射殺脅迫です。これら「事実上の赤色テロル」は、かくして、1918年前半から大々的に展開されました。第4、各県・郡ソヴェト機関は、その地域の飢餓も激化するので、穀物・家畜をそこで消費し、モスクワ、ペトログラードへの輸送をしぶりました。飢餓対策としての各ソヴェト機関の地方分権・分散化傾向でした。第5、それもあり、飢餓の激化を止められません。なんらかの「食糧政策」の転換が絶対に必要となりました。9000万農民と全他党派は、「平和」が実現した以上、「穀物専売制=自由商業禁止」政策の廃止と「現物税、自由商業承認、中小私的企業承認」政策への転換を要求しました。この転換内容は、3年後にようやく、レーニンが認めた「ネップ(新経済政策)」と、まったく同じでした。

 

 1918年3月3日から4月末時点で、「ネップ」への転換の客観的条件がありました。メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次の3つの条件を挙げ、「ネップ」の選択肢があり、かつ、可能だったとしています。しかも、そこで転換をしていれば、内戦があのような規模、期間、犠牲者にはならなかった、と分析しています。1)、「平和」が回復し、復員も終わりに近づいていました。2)、通信、交通、都市経済は比較的正常に機能していました。3)、工場の国有化は進行していても、金融・商業制度はまだ完全に破壊されていませんでした。彼が主張する『選択肢的歴史分析方法』とは、たんなる「歴史のIF」と異なります。まず、その選択しかなかったとする「唯一選択肢による歴史決定」論を否定します。そして、その時期の主体的客観的諸条件を分析し、そこには、他のいくつかの選択肢が存在したし、かつ、そちらを選択することが可能だった、という『歴史分析方法』です。私(宮地)は、このファイル、他ファイルでも、彼の『方法論』を使っています。

 

 ところが、レーニンは、別の選択肢を採りました。マルクスの誤った「青写真」に固執して、さらに急進的な「市場経済廃止」路線の誤りに転換しました。それが、1918年5月発令の、悪名高き「食糧独裁令」です。これは、2つの過程を持っています。

 第1過程は、「貧農委員会」期です。それは、1918年11月までの7カ月間だけで失敗しました。第2過程は、「軍事=割当徴発」制です。それは、1921年3月まで強行され、全階級・政党の「食糧独裁令」撤廃要求の総反乱を招きました。それに敗北して、レーニンは『一時的戦術的後退』としての「ネップ(新経済政策)」採用に追い込まれました。レーニンは、「食糧独裁令」を、1921年6月、タンボフ県「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令による農民大量殺人まで、事実上3年間続けました。

 

 

 4、余剰穀物とレーニン・スヴェルドロフが仕掛けた「内戦」

 

 「平和」実現後における飢餓の克服、食糧調達の中心問題は、「余剰穀物」でした。農民が生産した余剰穀物を、どのように流通、または徴発するのかという問題でした。選択肢は3つありました。〔第1選択肢〕、「穀物専売制」の継続ですが、これは飢餓を進行させるだけでした。〔第2選択肢〕、「穀物・家畜の自由処分権」という農民の第2要求を認めることですが、これは「青写真」に反します。それは、資本主義経済への後退につながり、マルクス「市場経済廃絶」主義者レーニン、ボリシェヴィキはとうてい容認できません。となると、残るは、〔第3選択肢〕、「穀物専売制」を一段と改悪した“中央集権型の「余剰穀物」徴発システム”としての「食糧独裁令」しかありませんでした。

 

 〔第3選択肢〕は、「十月革命」のレーニンと、「土地革命」の9000万農民との利害の根本的対立をもたらしました。レーニンが先に仕掛けた「余剰穀物」を持つ農民への、第2要求を拒絶した「内戦」でした。同時に、第2要求を支持・要求する「二月革命」潮流への“宣戦布告”でした。レーニン・政治局の側に、プロレタリア独裁権力側から小ブルジョア生産者である農民・他政党側にたいして、先に「内戦」を仕掛け、その戦火を通じて社会主義体制を『浄化』するという明白な意図があったという証拠があります。

 ダンコースは、『ソ連邦の歴史1』(新評論、1985年、P.154)で次の発言を挙げています。『一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。「われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」』。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた“共同意思”でした。

 

 レーニンとスヴェルドロフが、『村に内戦の火をつける』ための「食糧独裁令」を仕掛けたのは、どういう性質を持つのでしょうか。それは、ボリシェヴィキ40万党員の「市場経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦でした。「市場経済廃絶」軍は、党員だけでなく、チェーカー・550万(1920年)赤軍という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、「赤色テロル」を行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開しました。「市場経済回復・実現」軍は、「土地革命」を自力で成し遂げた農民とともに、エスエル・左派エスエル・メンシェビキ・アナキストという全他党派が参加しました。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びました。それは、他党派にとって、レーニンの『第4回目クーデター』でした。

 

 レーニンの側から“火をつけた内戦”は、マルクス「社会主義青写真」の「市場経済廃絶(貨幣経済も廃止)」理論にもとづく戦争でした。しかし、ホブスボームのいう『短い20世紀』(1914年第一次世界大戦〜1991年ソ連崩壊)において、「市場経済廃絶」革命が失敗であったことは、10カ国の「市場経済廃絶」実験国の崩壊によって、完全に証明されました。その「廃絶」実験運動は、700万人の内戦犠牲者を生み、500万人の飢饉死亡者を“人為的に”創り出しました。スターリンは、「ネップ」をとりやめ、レーニンの実験を再継承・拡大し、1000万人の「クラーク」を粛清しました。

 

この「内戦」の中心争奪物は、極限状態になった飢餓を克服するための「余剰穀物」でした。余剰穀物・家畜とは何でしょう。農民は、現金収入の道を、直接持ちません。ただ、1917年時点、都市労働者の約30%が、都市近郊農村に「耕地」を持っていた、という統計があります。人口の10.4%の労働者×30%=3.4%です。その層だけが、現金収入(現物支給)+耕地を持っていたにすぎません。2000万農家は、春まき作物、秋まき作物を栽培し、家畜を飼育します。

 

 農民は、穀物・家畜を次のように使います。()春・秋2回の収穫物からの家族1年分の食糧、()次年度の春まき種子、秋まき種子の保存、()凶作・飢饉時の予備食糧、()鋤、家畜用具、釘などの農業用工業製品購入のための商業販売向穀物・家畜、()砂糖・塩などの生活必需品購入のための販売向穀物・家畜、(6)生活向上のための多少の販売向予備穀物・家畜などです。生活維持のためには、(1)から(5)は、絶対必要物でした。「余剰穀物」といえば、(6)ぐらいしかありません。そこでの9000万農民の第2要求は、臨時政府以来の「穀物専売制」を撤廃して、「10%程度の現物税と穀物・家畜の自由商業承認」に政策転換することでした。それが、農民にとっての「パン」の要求でした。「市場経済承認」になれば、(4)(5)(6)が自由商業ルートでスムーズに流通します。また、農民も、「10%現物税」程度なら抵抗なく収められます。レーニンは、「3年間にわたる市場経済廃絶の内戦」に“事実上”敗北し、一党独裁政権崩壊の危機に直面し、やむなく、『一時的戦術的後退』としての「ネップ(新経済政策)」を採りました。3年後の「自由商業承認」転換により、余剰穀物がスムーズに出回るようになりました。

 

 飢餓の克服がようやく実現すると思われました。しかし、レーニンの「マルクス主義理論に基づく教条的実験の内戦」は、3年間の軍事的余剰穀物収奪システムを通じて、9000万農民の労働意欲を萎えさせました。それは、ロシアの農業経営を破壊し、穀物・家畜の生産量を、革命前の1916年と比べて、4、50%も減少させました。その人為的結果に、偶然的天災が重なったことにより、レーニンは、1921、22年の飢饉で、“500万人を餓死させました”。

 

 

 5、「食糧独裁令」第1過程と「富農・中農・貧農」というレーニン型分類法

 

 レーニン・政治局は、「食糧独裁令」という「農民にたいする内戦」を、1918年5月から1921年3月(実態は6月)まで、3年間続けました。そこには、2つの過程があります。第1過程は、「貧農委員会」期です。この路線は、1918年11月までの7カ月間で、失敗し、さらに改悪路線に転換しました。第2過程は、「軍事=割当徴発制」期です。レーニンは、それを、公式的には、1921年3月、ソ連共産党(ボリシェヴィキ)第10回大会での「食糧独裁令」撤廃=「ネップ」への転換路線まで1年3カ月間続けました。実態は、1921年6月の「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令による大量殺戮まで継続しました。

 

 第1過程「貧農委員会」期の本質は、スヴェルドロフ発言のように、「土地革命」後の農村において、人為的に“階級闘争をでっち上げ、都市型の農村内革命を起す”というものでした。レーニンは、その方策により、必要な余剰穀物量を徴発できると錯覚しました。ところが、上記のように、「固定、流動価格の格差」は広がる一方です。無謀な紙幣乱造により、通貨価値は激減しました。1913年秋を100とした場合、1918年11月の物価指数は1285、1919年7月には、1万倍に達しました。

 

 一方、権力政党ボリシェヴィキは、マルクス「青写真」による工場・企業国有化を、嵐のような“赤衛隊的強襲”で実現しました。ところが、レーニンが、『国家と革命』でふりまいた「国家権力さえ握れば、どんな労働者でも簡単に工場経営ができる」という幻想は、すぐ破綻しました。資本家・経営者を追放したプロレタリアートたちは、農業用製品も十分生産できませんでした。例えば、国有化2年後の1919年においても、2000万農家が、50万台の鋤を必要としたのにたいして、穀物との「物々交換」によって供給されたのは、5.5万台にすぎませんでした。したがって、一党独裁権力と農民との関係において、農業用製品や砂糖・塩などの生活必需品の供給が絶対的に不足する以上、それらと穀物との「物々交換」自体も成り立ちません。いきおい、「食糧独裁令」とは、レーニン・政治局の発言多数にあるように、『将来は、それら農業用工業製品の生産を増やして、農民に渡す。その公約を信じて、当面、まず穀物を出せ』という一方的収奪になったのです。

 

 「土地革命」に基づく地主土地の農村共同体内再配分により土地利用は、ソ連全土の98%以上で“均等化”されていました。旧来の村スホード(集会)が、家族単位で再配分を決めます。再配分の基準は、その家族の勤労人員、消費人員の2つです。ただ、土地の肥沃度、立地による不平等があります。それにたいして、村スホード(集会) は、定期的に“土地の総割替”をする方法で、“土地利用条件の平等化”をしました。その割替は、実態として1年毎に行なわれました。もちろん、“均等化” “平等化”されていても、余剰穀物量・飼育家畜数に差がでます。その原因は、家族の農業経営意欲や勤労人員数の多少による合理的生産性の差しかありません。その2000万農家は、余剰穀物徴発をしぶります。物価指数1万倍になった乱造紙幣をもらっても、なんの役にも立ちません。紙幣は、ルーブルでなく、フント(重さ)で量られるほどに、通貨価値が無意味になりました。穀物の隠匿が起きます。“袋をかついだ男”(闇のかつぎ屋)が激増し、彼らが、かろうじて、都市と農村とをつなぐ「自由商業」のパイプとなりました。レーニンは、彼らを「投機者」「反革命分子」として摘発させました。チェーカーに、それら「害虫駆除」の指令をして、『見つけ次第、その場で射殺』をさせました。「赤色テロル」は、はやくも、この形で始まったのです。

 

 その現状にたいして、レーニン・スヴェルドロフは、第1過程構想として、次の詭弁を考えつきました。それは、その状況の2000万農家を「富農・中農・貧農」と、恣意的に3分類することでした。もはや、地主は一人もいません。となると、「富農・中農・貧農」とは、何を基準にして仕分けするのでしょうか。レーニンは、『富農を絞首刑にせよ』とか、『「クラーク反乱」を鎮圧せよ』『余剰穀物を出さないクラークから人質をとれ』という指令を無数に出しています。しかし、「富農の具体的規定」を一度も明確にしていません。抽象的な「余剰穀物の多少」によるだけの“非科学的・恣意的”判別理論でした。ただ、一般的には、余剰穀物の多い農家は、5〜7%ありました。

 

 それでは、「貧農」は、その“均等化” “平等化”農村に存在していたのでしょうか。「土地革命」前はいました。梶川氏は、2冊の著書で、レーニンのいうレベルでの「貧農」層などは、「土地革命」後の農村にいなかったと明言しています。ただ、飢餓により、都市から農村への流入・脱出者は多数いました。復員兵も農村に帰りました。農業経営意欲が乏しく、余剰穀物の少ない農民もいます。レーニンは、それらをかき集めて、すべての県・郡・郷・村ソヴェトに、そこでの「貧農委員会」を結成し、「富農打倒の階級闘争を起せ」、「富農から余剰穀物を収奪せよ」と指令を出しました。各村の数%の農民を組織して、全土に「貧農委員会」を作り、「農村における内戦に火をつける」実験を始めました。

 

 マルクスの「階級闘争」史観は、『世界のすべての歴史は階級闘争の歴史である』とするものです。それは、あらゆることを「階級間」闘争に単純に還元し、矮小化し、他の性質の闘争を軽視・無視してしまうという“階級闘争還元主義”の誤りを持っているということが、ソ連崩壊後の定説になっています。レーニンの「農村における内戦」策謀は、マルクスの一面的な理論を、“均等化” “平等化”された農村に無理矢理持ち込んだものです。実在もしていない「クラーク層・貧農層」をねつ造し、「農村における階級闘争を人為的にでっち上げる」という、驚くほど幼稚、かつ、教条的な『左翼小児病』的誤りでした。

 

 いったい、政治局員には、農業・農民問題の政策立案ができるメンバー、経験者がいなかったのでしょうか。カリーニンは、農民出身で、人気もありました。梶川氏は、『飢餓の革命』(P.)で次のようにのべています。『「農民の父」と呼ばれたМИ・カリーニンが二五年に述べているように、共産党の農民政策の一〇分の九はレーニンに負っていたとするならば、その誤りはレーニンに帰すべきであろうか。そうではない。これら乏しい農民観は一人レーニンだけでなく、このような瑕疵(かし)は都市プロレタリアを基盤としたボリシェヴィキ権力が広く共有していた。カバーノフは「ボリシェヴィキの悲劇は、ボリシェヴィキが農民を理解しなかったことにあった」と適切に表現した。』

 

 この恐るべき“無理解による悲劇的”路線は、穀物調達の上で、ほとんど成果を挙げることができませんでした。それどころか、農村において、組織面での大混乱を起しました。この路線により、郷・村には、3つの組織が並立し、対立しました。()旧来からの村スホード(集会)()成立したばかりの村ソヴェトという最末端行政機関、(3)作為的に“でっち上げられた”貧農委員会です。3つの組織の位置づけ、穀物調達システムにおける役割などの調整がつきません。貧農委員会の主なメンバーは、農業経営経験のない都市からの流入労働者、復員兵、生産意欲が薄く村スホードの信頼を得ていない農民などでした。そのメンバーが、村を巻き込んで、『村における富農打倒の階級闘争』などを、指導できるわけがありませんでした。

 

 「食糧独裁令」の第1過程「貧農委員会」というレーニンの“机上の空論”システムは、わずか7カ月間で失敗しました。飢餓は一段と進行しました。この失敗が明白となり、次の転換政策が模索された時点でも、「現物税、自由商業」(=「ネップ」)への転換要求が、農民・エスエルから強烈に出されました。レーニンは、ここでも、「ネップ」採用要求にたいして、3度目の拒絶をしました。1度目は、権力奪取時、2度目は、「平和」後の3、4月時です。彼とボリシェヴィキは、あくまで、マルクスの「市場経済廃絶」理論の誤りに固執したままでした。

 

 1918年5月から11月の「食糧独裁令」第1過程においても、「労農同盟」は、存在していません。ただ、300万プロレタリアートと「貧農委員会」という農民の数%との“同盟”は創作されました。その性質は、90数%農民を「敵」とし、レーニン・スヴェルドロフが仕掛けた『農村に内戦の火をつける』ための“同盟”でした。それを、レーニンが演説したレベルでの「労農同盟」と呼ぶことはできません。

 

 

 6、「食糧独裁令」第2過程と「クラーク反乱」レッテルによる大量殺人

 

 第2過程は、「軍事=割当徴発」制です。その特徴は、5つあります。

 第1、穀物徴発対象を「中農」にする路線に転換しました。

 

 「富農層」など実在しないことが分かったので、穀物徴発対象を、約90%近い「中農」にしました。役に立たなかった「貧農委員会」は、“使い捨て”の解散にしました。失敗の総括も公表しませんでした。「富農・中農・貧農」というレーニン式3分類法を実態として放棄しました。ただ、“均等化” “平等化”農村においても、余剰穀物に余裕のある農民層が数%、余裕穀物の乏しい農民層が数%発生していたことは、上記にのべた理由からみて当然です。

 しかし、レーニンの“頭がいい”のは、「クラーク(富農)」という名称だけを残したことです。彼は、割当徴発に抵抗したり、反乱する農民にたいして、『クラークから穀物を没収せよ、人質を捕れ』『抵抗するクラークを絞首刑にせよ』『「クラーク反乱」を鎮圧せよ』という意図的な詭弁レッテルを使いました。飢餓の原因は、『人民の敵』である、一握りのクラークにある、とする“刷り込み”大カンパニアを、抜かりなく展開しました。それによって、誤った「市場経済廃絶」政策による飢餓激化の責任を逃れ、かつ、その責任を架空の「クラーク」に転化しようとしました。

 

 第2、「村スホード」「村ソヴェト」に徴発量を割当てる中央集権的システムへの切り替えです。

 

 第1過程における穀物徴発システムは、「個別農家」ごとを対象とした徴発でした。それを事実上やめました。まず、政治局と「中央食糧人民委員部」が、全国的な徴発目標を、“生産供給量”からでなく、“飢餓克服の必要量”に基づいて決定します。その目標を、県・郡・郷・村にたいして、「民主主義的中央集権制」原則により、上意下達式の「村単位の割当」をします。あとは、「決定を達成したか」という点検と追及です。レーニンは、無数の「追及、督促のメモ、電報」を出しています。これこそ、マルクス「青写真」に基づく「市場経済廃絶下での社会主義計画経済システム」の“世界初の偉大な実験”でした。 “真理の認識者”である社会主義国家権力トップが、「割当徴発の目標」を“正しく”決定し、末端行政機構「郷・村ソヴェト」にまで、それを貫徹します。その「計画経済」により、割当徴発がスムーズに行くはずでした。飢餓の克服ができるはずでした。「中央食糧人民委員部」という社会主義的官僚機関は、飢餓の克服課題を成し遂げるために、人員を急速に膨張させ、権限を急拡張させました。この官僚機関は、秘密政治警察機関チェーカー、トロツキーを軍事人民委員とする赤軍と並んで、国家機関の中心機構にのし上がりました。

 

 第1過程において、各県ソヴェトは、その地域で激化する一方の飢餓を克服できないので、徴発穀物・家畜を、その地方で消費してしまうという“地方分散的傾向”がエスカレートしました。せっかく徴発した余剰穀物が、都市に届かないので、レーニンは激怒しました。「手紙、電報」を出しても、餓死の恐怖から、その“分権的傾向”が直りません。業を煮やしたレーニンは決断しました。そして、「ボリシェヴィキ一般による食糧独裁令」を、さらに「中央食糧人民委員部に全権を集中させた官僚主義的中央集権制による食糧独裁令」に改悪・転換させました。

 

 第3、「中央決定の割当徴発量」を達成できないケースへの軍事的暴力の使用です。

 

 上記全体の状況から、農民は、穀物を出し渋り、または隠匿します。どの県でも、割当徴発量の目標に達しません。食糧人民委員部は、「目標未達成の村」にたいして、村スホード(集会)に共同責任をとらせ、割当徴発量の穀物を出すまで、「人質」を捕ります。レーニンは、この「食糧独裁令」の3年間中、一貫して「人質を捕る手段を使って、目標を達成せよ」と指令し続けました。いったい、レーニンは、どこから、この「人質」政策を思いついたのでしょうか。それでも、目標に達しません。そこで、チェーカー・赤軍という国家暴力装置を全面的に押し出しました。食糧人民委員部、秘密政治警察、赤軍という3機関が一体となって、郷・村、各農家に突入し、余剰穀物を収奪しました。その収奪範囲は、上記の農民余剰穀物のうち、(1)以外をすべて奪うところまでいきました。(1)も、1年間分でなく、当初は1カ月間分を残し、さらには、1週間しか残さないところまで、収奪しました。(2)の春まき種子、秋まき種子も略奪しました。「収奪・略奪」という意味は、それにたいする対価としての農業用製品、生活必需品も与えないという、一方的な「軍事=割当徴発」だったからです。3者からなる割当徴発部隊は、「収奪・略奪」に抵抗する農民多数を、その場で、『裁判なし射殺』をしました。実態として、レーニンは、「中央決定の割当徴発量」達成の目的のために、「人質」「収奪・略奪」「裁判なし射殺」という手段を採ることが正しいとし、むしろその軍事的暴力手段の使用を、「追及、督促のメモ、電報」を通じて奨励しました。

 

 第4、農民は餓死の恐怖に追いこまれ、「餓死から逃れること」が第3要求となり、爆発しました。

 

 3機関は、余剰穀物の(1)を、1カ月間分、さらには、1週間しか残しません。家畜も、土地耕作用以外をすべて「収奪・略奪」しました。ところが、3機関は、目標量達成だけで集めた穀物・家畜を、都市向け鉄道輸送の不備から、鉄道駅周辺の穀物・家畜備蓄置場に放置し、小麦を腐らせ、家畜を餓死させました。それにたいする農民の怒りが激化しました。余剰穀物()の春まき種子、秋まき種子も略奪していく際に、それを蒔く時期がきたら配給すると約束したのに、それをまったく守りません。春、秋になって、蒔く種子が奪われたままで、農民は大パニックに陥りました。餓死の恐怖、穀物・家畜を腐らせることへの怒り、種子なしのパニックが、まさに極限にまで達しました。

 

 一方、レーニンは、「白衛軍との内戦」のため、赤軍を徴兵制にし、1920年末に550万人に増強していました。そのうち、農民出身兵士は、単純比例計算すれば、550万人×80%=440万人になります。政治局は、「赤軍兵士家族にたいして、穀物調達量を緩和し、家族の生活を保障する」との指令を出していました。しかし、現地での徴発実態として、レーニンの「徴発量目標の達成追及」を受け続けて、県・郡ソヴェトは、そこになんの配慮もせず、画一的に赤軍兵士家族からも「収奪・略奪」する“指導”をしました。農家の働き手を徴兵された家族も、餓死の危険に追いこまれました。そこから(表1)のように、徴兵忌避者が激増しました。それは、脱走兵と徴兵逃れの両者を含みます。3機関は、徴兵忌避者本人の“捕獲”作戦だけでなく、それら両者の家族から「人質」を捕り、射殺しました。これへの不満・批判は、1921年3月のクロンシュタット水兵反乱において、赤軍兵士が持つ共通の怒りとして集約的に爆発しました。

 

 「食糧独裁令」は、農民の第1要求「土地の共同体所有・利用」という「土地革命」の成果にたいして、手を付けていません。しかし、その「貧農委員会」システム、「軍事=割当徴発」制という2つの過程は、第2要求「穀物・家畜の自由処分権」承認=「ネップ」への転換を、正面から拒絶、かつ、敵対し、「市場経済廃絶下の社会主義計画経済」路線をごり押しするものでした。しかも、その「収奪・略奪」実態は、第3要求「餓死から逃れること」を、9000万農民の緊急課題に急浮上させました。この「餓死の恐怖」が真実であったことは、1921、22年の飢饉において、レーニン路線が、500万人を“殺した”ことから証明されます。

 

 「内戦」には、2種類があります。農民「反乱」は、レーニン、スヴェルドロフが“望んだ「農村における内戦」”どおり、第1過程の1918年から、第2過程の1919年にかけて、(表1)のように、各地で勃発しました。第2種類の「白衛軍との内戦」は、1920年夏頃までには、大部分の地方で終結しつつありました。1920年8月のタンボフ県「反乱」勃発と期を同じくして、(表2)のように、3大反乱地方だけでなく、ソ連全土で農民「反乱」が勃発しました。その性格は、農民の第2、第3要求に基づく、3機関の「軍事=割当徴発」制撤廃、「ネップ(自由商業)」承認を求める総決起でした。「青写真」に基づく「市場経済廃絶」路線の強行か、それとも、「市場経済回復・実現」かをめぐる「内戦」でした。ボリシェヴィキ権力の武力鎮圧軍と第2、第1潮流の武装要求軍との戦争でした。第3要求「餓死から逃れること」は、文字通り、生死をかけた要求です。それは、9000万農民にとってだけでなく、1921年2月ストライキに決起したモスクワ、ペトログラード労働者、3月に15項目綱領を掲げたクロンシュタット水兵など、農民・労働者・兵士の共通の要求となって、激発したのです。

 

 このファイルで、私は、農民反乱を、「カッコ」つきの「反乱」と書いています。農民「反乱」とは、レーニンの根本的に誤った「市場経済廃絶」路線、割当徴発の暴力システムにたいする、9000万農民側の「餓死の恐怖に基づき、ネップ採用を求める、正当な武装要求行動」である、という意味から、「カッコ」つきにしました。例えを一つ挙げます。日本の戦国時代、江戸時代における、数百・数千件の「農民一揆」です。封建領主の悪政・過酷な収奪にたいして、餓死の恐怖から、首謀者斬首を覚悟で、決起した「一揆」にたいして、『年貢を下げろ』との武装要求をした農民側が悪くて、封建領主側が正しかったという人は、誰もいないでしょう。「軍事的収奪者」レーニンにたいする農民「反乱」も、同じ性格の、正当な武装要求でした。

 

 第5、「ネップ」転換要求を拒絶し、「反乱」農民の大量殺人をする「赤色テロル」路線です。

 

 1920年夏までに、「白衛軍との内戦」は、ロシア南部の一部を除いて、事実上終結していました。そこで、またまた、「軍事=割当徴発」制の撤廃、「ネップ」への転換要求が噴出しました。その要求は、農民からだけでなく、県・郡ソヴェトの現地ボリシェヴィキ幹部からも強烈に出されました。その時点で、トロツキーは、前線における直接体験から、一度だけ、「撤廃の意見」をレーニンに送りました。レーニンは、「ネップ」採用要求の4度目のチャンスも『時期尚早』として拒絶しました。

 

 レーニンは、4回も「ネップ」への転換要求とチャンスを拒絶し続けました。それだけでなく、夏以降さらに激化した農民「反乱」にたいして、大量殺人「赤色テロル」を指令しました。その殺人・人質データは、(表3、4)にあります。ボリシェヴィキは、『クーデター』・得票率24%少数派・一党独裁政権でした。ソ連崩壊後に公表された「反乱」農民射殺・人質指令の『極秘』資料は何を示しているのでしょう。レーニンの指令にあるのは、「反乱」農民にたいる「憎悪」と、剥き出しの「殺意」です。別ファイルの10の指令・命令、布告にある『レーニン・政治局が使用した用語』のいくつかをピックアップして検証します。

 

 ()、レーニン『正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること。昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない』。

 

 ()、レーニン『反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』。

 

 ()、レーニン・政治局『コサック上層部全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること』。

 

 ()、レーニン『叛徒の猖獗(しょうけつ)を「醜悪の極み」として、タムボフ県のぼんくらなチェー・カー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じた』。

 

 ()、レーニン・政治局『(タンボフ県農民「反乱」にたいして)全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。()ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること』。

 

 (9)レーニン・政治局・トゥハチェフスキー『(タンボフ県)敗北集団や単独行動の盗賊の生き残りなどが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること』。

 

 (10)、レーニン『同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェビキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う』。『すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい命題を公然とかかげるということがそれである。法廷はテロを排除してはならない』。

 

 これら『レーニン・政治局指令の用語』の解釈については、3人の発言で十分です。

 メドヴェージェフ『二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない』。

 山内昌之東大教授『赤軍は、タンボフ県地方の農民たちが飢餓や迫害からの救いを求めて決起したとき、脆弱な自国民には毒ガスの使用さえためらわなかった。もちろんレーニンは、この措置を承知しており、認めてもいた。毒ガスとレーニンとの組み合わせは、十二分に議論されてしかるべきテーマである』(『レーニンの秘密・下』、P.378)

 ソルジェニーツィン『私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわしい』。

 

 『レーニンが書いた』レベルの「労農同盟」など、5つの特徴を持つ「食糧独裁令」第2過程「軍事=割当徴発」制においても、まったく実在していません。それどころか、「労農同盟」破壊内戦の結果として、1921、22年に、500万人を飢饉に追い込み、“殺し”ました。80%農民国家として単純計算すれば、500万人×80%=400万農民を“餓死させ、殺し”たのです。

 

 

 7、戦時共産主義期における4潮流抗争の類別

 

 『戦時共産主義』という言葉は、レーニンが「白衛軍との内戦」が完全に終った1921年に使ったものです。彼は、それを“否定的”な意味で用いました。なぜなら、「白衛軍との内戦」に勝利しても、一方の「農民との内戦」には、農民・労働者・兵士の総反乱によって、レーニンの「市場経済廃絶」路線が敗北したからです。そこから、『誤りもあったが、戦時共産主義だったから、やむをえなかった』という言い訳的な意味で使った用語です。彼は、政権崩壊の危機に直面して、権力執着プラグマニストとしての天才的能力を発揮しました。彼は、やむなく、マルクス「青写真」から、『一時的』かつ、『戦術的』な『後退』をし、4回のチャンスでも拒絶し続けた農民第2要求「穀物・家畜の自由処分権」を認める「ネップ」政策を採りました。

 

 その政策こそ、社会主義革命家レーニン・ボリシェヴィキにとって、「資本主義経済としての自由商業」に『後退する、屈辱的な大敗北』でした。レーニンは、『戦時共産主義期に犯した誤り』も認めました。しかし、その内容は、まったく抽象的なものです。「食糧独裁令」そのものや農民大量殺人事実にたいしては、どこでも、『誤り』と明言していません。レーニンは、「資本主義経済を認めるネップ」後退によって、1918年3月の「ブレスト講和条約という“世界革命戦争”路線放棄」に続いて、ボリシェヴィキ党内の強烈な反対意見を押し切り、2度目の『一歩前進二歩後退』をしました。

 

 「白衛軍との内戦」は、1918年夏から1920年夏までの2年間です。正確には、白衛軍が、クリミアからトルコに大撤退した20年11月までです。「食糧独裁令」という“レーニン・スヴェルドロフが農民に仕掛けた”「農民との内戦」は、1918年5月から1921年3月までの2年8カ月間です。実態は、タンボフ県「反乱」農民にたいする『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令を出した21年6月までです。この期間における4つの「革命」「反革命」潮流の相互抗争を5つに類別して、考察します。「レーニン神話」、公認「ロシア革命史」は、この期間を、単純に、「ボリシェヴィキ革命政権・赤軍と反革命白衛軍との内戦」、「労農同盟軍と白衛軍との内戦」と規定してきました。5種類の抗争実態は複雑で、交錯していて、「神話」と異なります。また、6種類目として、民族問題抗争がありますが、このファイルでは省略します,

 

 第1種抗争、レーニンが仕掛けた「農民との内戦」、1918年5月〜1921年6月

 

 レーニンは、「穀物専売制」をさらに改悪し、「食糧独裁令」システムによる穀物・家畜収奪路線に転換しました。彼の構想は、()穀物収奪戦術による飢餓の克服と、()「市場経済廃絶」戦略との両者を統合したものです。ところが、それは、「土地革命」を成し遂げたばかりの農民にとって、第2要求を全面拒絶するものでした。それでは、何のための「土地革命」だったのか、ということになります。したがって、「ネップ(自由商業)」転換要求の拒絶は、事実上、プロレタリア独裁政権が、小ブルジョア生産者である農民第1、第2要求にたいする“全面的な敵対権力”となって、立ち塞がったことを意味したのです。

 

 武装蜂起・権力奪取以降の「穀物専売制」時期において、農民は「土地革命」の最中でした。臨時政府がそれにたいして反対し、鎮圧部隊派遣までもしていました。それに比べて、ボリシェヴィキ政権は、『土地に関する布告』で、地主土地没収・共同体内再配分という「土地社会化」を認めました。その限りにおいてのみ、農民は、武装蜂起政権を“消極的支持”していただけでした。レーニンが構想していた社会主義的土地政策は、「共同体所有の社会化でなく、土地国有化」「再配分による2000万農家への零細化でなく、国家管理の大規模農場システム」でした。レーニン・ボリシェヴィキにとって、9000万農民による「土地革命」の本質は、“社会主義農業政策に反する、一種の反革命”だったのです。しかし、権力奪取時点で、9000万「土地革命」農民に敵対すれば、政権が瞬時に崩壊します。やむなく、目をつぶって、エスエル起草法案を“丸呑み”して、『土地社会化法』を提起したのです。「土地革命」の性格と、「十月革命」の農業構想との本質的敵対でした。その背景を理解しないと、「レーニン・スヴェルドロフ側から仕掛けた、農村に内戦の火をつける」という一大戦略の真意を読み取れません。

 

 “でっち上げた”貧農層数%からなる「貧農委員会」と各ソヴェト機関は、“思惑どおり”、農民「反乱」を各地で勃発させました。農民「反乱」の地域と規模は、(表1)に書きました。「白衛軍との内戦」が事実上終結した1920年夏以降、「軍事=割当徴発」制の撤廃を求める農民「反乱」は、一挙に広がり、激化しました。「貧農委員会」「軍事=割当徴発」制こそが、「白衛軍との内戦」を発生・拡大させた第2の基本原因とするメドヴェージェフの論拠は、ここにあります。

 

 第2種抗争、「反・社会主義革命」の外国干渉軍・白衛軍が仕掛けた「ボリシェヴィキ政権との内戦」、1918年5月〜1920年夏(〜11月)

 

 1918年初めから、「反社会主義革命」の外国干渉軍の策動がありました。内戦勃発・拡大の導火線となったのは、5月のチェコ軍団の反乱でした。ただ、これは、白衛軍とは異なります。チェコ軍団問題の背景や、「白衛軍との内戦」経過は複雑ですので、このファイルでの説明を省略します。公認「ロシア革命史」は、「戦時共産主義」期間を、この第2種抗争だけで記述し、さまざまな段階に分けて、分析しています。コルチャーク軍、デニーキン軍などとの「白衛軍との内戦」は、1920年夏までに、550万赤軍側の勝利によって、終結の見通しが明らかになりました。ウランゲリ軍8万人にたいする「白衛軍との内戦」は、マフノ農民軍と赤軍との「政治・軍事協定」に基づく共同作戦によって、1920年11月に、赤軍・農民軍側の勝利で終結しました。

 

 第3種抗争、「反・土地革命」白衛軍・地主部隊と「土地革命」農民との内戦、1918年5月〜1920年夏

 

 9000万「土地革命」農民にとって、「敵」は2つになりました。最悪の敵は、白衛軍・地主部隊です。彼らが、内戦で勝てば、土地を奪い返されてしまいます。しかも、白衛軍は、武器支援を外国干渉軍から受けていたとしても、軍隊の穀物を現地徴発します。それは、ボリシェヴィキ政権の「軍事=割当徴発」よりも過酷な“略奪、焼き討ち、殺戮”を伴っていました。白衛軍・地主部隊にとって、白衛軍占領地域の農民は、地主から土地を没収した“憎むべきボリシェヴィキ支持者”だったからです。それらにたいする農民の恐怖と怒りは決定的でした。

 次なる敵は、「ネップ」を認めず、「軍事=割当徴発」制を強行するボリシェヴィキ政権でした。その現地先兵となった食糧人民委員部、秘密政治警察、赤軍でした。

 

 農民にとって、「2つの敵との2種類の内戦」が交錯します。白衛軍に占領されなかった中部ロシア、タンボフ県では、「農民とボリシェヴィキとの内戦」になりました。しかし、白衛軍に占領されたウクライナ、シベリアでの内戦は、農民にとって複雑になりました。白衛軍が優勢なときは、ボリシェヴィキ・赤軍を支援し、協力して白衛軍とたたかいます。白衛軍が敗北、撤退すれば、「軍事=割当徴発」部隊にたいする農民「反乱」を再び激発させました。

 

 シベリアには、日本軍75000人が最大の干渉部隊として侵略し、コルチャーク軍を支援しました。1919年1月から、農民たちが、最悪の敵である白衛軍・地主部隊と日本軍にたいして、パルチザンを組織し、決起しました。有名な日本軍・田中大隊を全滅させたのも、パルチザン部隊でした。一方、彼らの壊滅もあります。ファジェーエフの『壊滅』を読んだ方も多いでしょう。それは、白衛軍と日本軍に包囲され、壊滅したパルチザン部隊の悲劇を扱い、隊員たちの性格や心理をリアルに描いたものです。シベリアでの赤軍勝利は、後方での農民パルチザンの決起と一体のものです。シベリアでの内戦が終結するやいなや、次なる敵である秘密政治警察・赤軍が、「軍事=割当徴発」をしました。西シベリアは、タンボフ県などのロシア中央黒土地帯、ウクライナと並ぶ、3大穀倉地帯でした。それだけに、レーニンは、その地方での穀物徴発の目標達成と農民「反乱」鎮圧とを強烈に指令し続けました。よって、そこにおける「穀物・家畜の収奪・略奪」は、過酷でした。それが、3大農民「反乱」地域と3大穀倉地帯とが一致している理由です。「ネップ(自由商業)」を求めた西シベリアにおける農民「反乱」は、5地方、8県、14郡にわたり、6万人、300組織が決起しました。シベリア方面の赤軍は、20年5月だけでも、「反乱」農民5000人を殺害し、42人を銃殺しました。

 

 ウクライナのマフノ農民軍5万人は、アナキストが中心で、農民の要求を守る立場でたたかうため、赤軍から、“脱走兵・裏切者”と狩り立てられていました。しかし、農民軍は、農民にとって最大の敵であるウクライナ占領のドイツ軍とたたかい、その後デニーキン軍とたたかいました。その白衛軍との戦闘では、赤軍と協力しました。デニーキン軍の後方を突破し、カスピ海のほとりの都市を解放しました。1920年10月、ウランゲリ軍が、クリミア半島に入り、南部で8万人になりました。マフノ軍は、赤軍と「政治・軍事協定」を結びました。農民軍は、白衛軍の背後をついて、総崩れに追いこみました。11月、白衛軍がクリミアから最終的に撤退すると、今度は「軍事=割当徴発」制の撤廃=「ネップ」を求めました。司令官フルンゼは、レーニン・トロツキーの指令を受け、マフノ軍を「ソヴェト共和国と革命の敵」と宣言し、その武装解除を命令しました。ついに、マフノ軍と赤軍とが激突しました。双方が数万人ずつの死者を出し、1921年、赤軍がマフノ農民軍を殲滅しました。1921、22年の飢饉で、ウクライナだけで、飢饉死亡者が100万人出たことは、定説になっています。殲滅後に、レーニン式報復としての、コサック農民にしたような「穀物完全没収による“意図的”飢餓殺人」政策が行なわれたという推測もあります。しかし、それは、「500万飢饉死」のデータが隠蔽され、現時点で公表されていないので分かりません。そのデータは、6000点の「レーニン秘密資料」の中にあるはずです。

 

 白衛軍の流動的な占領地域、および、そこでの一時的占領期間においてのみ、「土地革命」農民は、最大の敵とたたかうために、赤軍と協力しました。その特定地域・期間において、「労農同盟」が存在していたといえます。しかし、白衛軍の撤退とともに、「軍事=割当徴発」制により、レーニンの側から、その「労農同盟」を破壊しました。この経過を見ても、「戦時共産主義」期間中、ソ連全土で「労農同盟」が実在していたとは、とうてい言えません。

 

 第4種抗争、ボリシェヴィキ一党独裁政権と「二月革命」政党との抗争

 

 「二月革命」の中心政党であるメンシェビキ、エスエルにとって、()ボリシェヴィキ武装蜂起・権力奪取、()カデット機関紙、ブルジョア新聞閉鎖による「言論・出版の自由権」剥奪措置、(3)憲法制定議会武力解散、(4)「食糧独裁令」は、『ボリシェヴィキによる4連続クーデター』でした。彼らは、農民とともに、最初から「ネップ(自由商業)」を要求していました。レーニンは、4回の転換チャンスともすべて拒絶しました。それだけでなく、「反乱」農民の大量殺人を強行し続けました。

 

 とりわけ、憲法制定議会武力解散問題は、彼らに、一党独裁政権打倒の「大義名分」をあたえました。ボリシェヴィキを含めて、全政党が合意した憲法制定議会選挙で、40.4%で第1党になった多数派エスエルからなる政府こそ、唯一の正統政府である、という論理です。『ボリシェヴィキくたばれ! 憲法制定議会を再開せよ!』が、全他党派と「反乱」農民のスローガンとなりました。これが、メドヴェージェフの言う「内戦の第1基本原因」となったのです。それが、「第2基本原因」である「食糧独裁令」と重なったとき、ソ連全土での農民「反乱」に“火をつけた”のでした。白衛軍は、1)、憲法制定議会武力解散という『第3回目クーデター』にたいする全他党派の反発と強烈な怒り、2)、レーニン側から仕掛けた「農村における内戦」という“国内栄養補給源”、3)、外国干渉軍という“国外からの武器援助補給”という3つによって、9000万「土地革命」農民の「最大の敵」であるにもかかわらず、2年間も生き長らえることができたのです。

 

 ただ、この第4種抗争の経過は、きわめて複雑です。このファイルは、農民問題が中心テーマですので、これ以上は、省略します。

 

 第5種抗争、一党独裁政権と「二月革命」「十月革命」労働者・兵士との抗争

 

 ペトログラード、モスクワの労働者ソヴェト、兵士ソヴェトは、「二月革命」「十月革命」のいずれにおいても、帝政打倒、臨時政府打倒の中心的実働部隊でした。彼らは、J・リード『世界をゆるがした十日間』にあるように、「十月革命」も熱狂的に支持しました。ところが、1921年2月、モスクワ、ペトログラードで全市的な労働者ストライキが勃発しました。3月、“革命の栄光拠点”クロンシュタット・ソヴェト水兵が、一党独裁政権にたいして、15項目綱領を掲げ、その要求を飲むよう、武装要求行動を起こしました。それは、まさに農民・労働者・兵士の同時多発反乱でした。その3年余の間に、何が変化し、何が、彼らをして、自らがたたかいとった革命政権にたいするストライキ、武装要求行動という、異常な形態を採らせたのでしょうか。

 

 彼らをして、ストライキ、武装要求行動に決起させたのは、独自の個別要求と、全階級的要求でした。

 労働者は、工場における労働者統制の実現を目指しました。しかし、資本家や管理職員の抵抗もあり、『国家と革命』でレーニンが幻想を抱いたようには、生産がうまくいきません。1918年3月、政府は、中央管理部が任命する経営評議会を作る法令を出しました。従来からの労働者統制委員会はその下部に位置づけられました。また、トロツキーは「労働の軍事化」を唱えました。上からの統制強化、中央集権化とともに、プロレタリアートは、“レーニン、ボリシェヴィキの公約違反、裏切り”を悟るに至りました。

 

 兵士は、軍隊の民主化を求めました。レーニンは『戦争を内乱に転化せよ!』のスローガンとともに、それを公約し、兵士を「十月革命」の味方につけました。要求内容は、軍隊内階級差の撤廃と将校選挙制でした。それによる兵士委員会が作られました。しかし、レーニンと陸海軍人民委員・革命軍事会議議長トロツキーは、何よりも赤軍の強化を図りました。それは、「内戦」対策とともに、「世界革命戦争」の軍隊となるものでした。トロツキーは、旧帝政軍将校・軍事専門家の登用に熱心で、正規軍化の方針を強力に進めました。1918年3月、レーニン・トロツキーは、将校選挙制と兵士委員会とを廃止させました。7月10日、赤軍を、志願制から徴兵制に転化させました。

 

 そして、部隊統括システムを、()軍当局が任命する軍事司令官と、()ボリシェヴィキ一党だけで任命するコミッサール(党員)という中央集権化した2人体制に変質させました。軍事コミッサールとは、赤軍内における政治指導者であるとともに、旧帝政軍将校の監視の任務を持ちます。トロツキーは、命令に従わない旧帝政軍将校を、ただちに射殺するよう、コミッサールに指令し、執行させました。トロツキーは、そのため、レーニンにたいし、「コミッサール全員へのピストル緊急配備」を求める電報を打ちました。

 トロツキーは、全員がボリシェヴィキ党員であるコミッサールに指令し、軍隊内革命裁判所も統括させ、脱走兵に銃殺刑を下し、24時間以内に処刑させました。(表1)にあるように、1919年の脱走兵は、176.1万人います。20年も同じとすると、2年間で352万人の脱走兵が出たことになります。(表3)のように、1921年の脱走兵銃殺の「公式統計」は、4337人でした。1918年徴兵制以後の4年間を同じとすると、17000人以上の赤軍兵士を銃殺したことになります。ヴォルコゴーノフは、『国内戦の初期(18、19年)には銃殺者がはるかに多かった』としています。

 

 かくして、兵士たちは、ボリシェヴィキとレーニン、トロツキーが、「二月革命」「十月革命」の精神を“裏切った”と判断せざるをえなくなったのです。

 

 一方、全階級的要求が、ストライキ、武装要求行動に決起させた決定的要因でもありました。クロンシュタットの15項目綱領の内容が、その集約的表現になっています。これを見れば、全階級の同時多発反乱が発生した真因としての、極限的不満、餓死の恐怖が分かります。クロンシュタット・ソヴェト反乱勃発は、1921年2月28日でした。ロシア共産党()第10回大会の開会は、3月8日でした。レーニンと共産党大会代議員たちは、“革命の栄光拠点ソヴェト”、“ソ連海軍の中心部隊”、“国家暴力装置の基幹”の反乱を聞き、綱領内容を読んで、一党独裁政権崩壊の恐怖に打ち震えました。

 

 15項目綱領の内容は、以下です。

() ソヴェト再選挙の即時実施。現在のソヴェトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。

() 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。

() 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。

() 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。

() 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。

() 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。

() 軍隊におけるすベての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝にかんして特権を有するべきでなく、また、この目的のために国庫補助金を受けるべきではない。政治部の代りに、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。

() 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。

() 危険な職種および健康を害するに職種ついている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。

(10) すべての軍事的グループにおける、党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における、党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。

(11) 自ら働き、賃労働を使用しないという条件の下での、農民にたいする自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。

(12) われわれは、全軍の部隊ならびに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。

(13) われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。

(14) われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。

(15) われわれは、賃労働を使用しないという条件の下での、手工芸生産の認可を要求する.

 

 これらの内容は、「ロシア革命」にたいする反乱という性質のものではありません。これは、「二月革命」「十月革命」の精神と伝統に基づく、「ロシア革命」勢力内部における武装要求でした。イダ・メットと、P・アヴリッチが、15項目のそれぞれについて、解説しています。

 

 

 8、誤りの遅すぎた撤回としての「ネップ」と500万人飢饉死亡者

 

 レーニンが行った3年間の「食糧独裁令」は、(1)飢餓の克服という当面する目的のための誤った戦術だけではありません。()それは、マルクス「青写真」を、80%農民国家において、『左翼小児病』的に遂行した「市場経済廃絶」方針に基づく戦略でした。メドヴェージェフは、レーニンの誤りを『急進主義』と規定しています。政治局がいかに「青写真」を“信仰”していたのかの例は、スヴェルドルフの『農村に内戦の火をつける』という発言だけではありません。1920年末には、労働者の報酬も現物給付になり、農民には現物給付もなしの穀物・家畜収奪となりました。物価指数は1万倍となり、貨幣ルーブルは、重さフントで量られ、意味をなくしました。それにたいして、ブハーリンや共産党理論家プレオブラジェンスキーらは、「青写真」どおりの「貨幣の死滅」過程が始まったと規定し、喜んだのです。

 

 レーニンは、「ネップ」НЭП、NEP(New Economic Policy、新経済政策)によって、「食糧独裁令」を撤廃しました。それに変わる政策として、()10%の現物税、()余剰穀物・家畜の自由商業、(3)中小企業の国有化を解除して、資本主義的生産と商業を認めました。

 「ネップ」内容と経過、その期間中の実態については、多面的な分析が必要です。ただ、このファイルは、「労農同盟」の存否をテーマにしています。その範囲でのみ、「ネップ」の性格を簡単にのべます。

 

 第1、“新”経済政策は、レーニンの独創でなく、9000万農民第2要求とエスエル農業政策を、3年遅れで“丸呑み”したものです。

 

 余剰穀物・家畜の自由処分権は、「土地革命」農民の一貫した第2要求でした。エスエルだけでなく、全他党派も、その政策を提起していました。「レーニン神話」は、それらの歴史的事実をすべて隠蔽して、“レーニンの独創的偉業”としています。

 自発的な決断でもありません。“丸呑み”の契機は、全階級「反乱」、とりわけクロンシュタット「反乱」による政権崩壊の危機意識でした。その証拠は、第10回大会演説のための「レーニン秘密メモ」です。P・アヴリッチが、『クロンシュタット1921』(P.271)で公表しました。レーニンは、そこに『クロンシュタットの教訓:政治学では――党内における隊列(および規律)の閉鎖、メンシェヴィキと社会革命党にたいする一層の闘争。経済学では――中産農民を可能なかぎり満足させること』と記していました。

 

 第2、遅すぎた選択でした。

 

 レーニンには、この選択肢を採るチャンスが4回もありました。第1回は、武装蜂起・権力奪取時点です。ただ、そのときは、ドイツ軍との戦争状態を継承中という特殊条件がありました。第2回、「平和」回復後の1918年3、4月の2カ月間です。レーニン側に「青写真」戦略さえなければ、「ネップ」に転換できました。第3回、貧農委員会システムのわずか7カ月間での失敗と解散時期です。すでに、転換を求める農民「反乱」が頻発していました。第4回、「白衛軍との内戦」が事実上終結した1920年夏です。それ以降、農民「反乱」は激発しました。いずれのチャンスにも、その要求は、レーニンに届いていました。彼は、それを知りつつ、すべて拒絶しました。

 彼は、1920年末から1921年3月にかけての全階級反乱、とりわけクロンシュタット反乱によって、一党独裁政権の崩壊危機を悟りました。しかし、レーニンの権力奪取・一党独裁執着度は、異様ともいえるほど高いものでした。彼は、その窮地に陥っても、一党独裁放棄・連立政権という選択肢だけは、拒絶しました。やむなく、涙を飲んで、「小ブルジョア生産者」9000万人の要求を受け入れました。

 

 飢饉死亡者500万人は、この遅すぎた選択と直接的関係があります。「食糧独裁令」は、農民「反乱」を引き起こしただけでありません。現物給付もなしの穀物・家畜収奪は、2000万農家の農業経営意欲を萎縮させました。その結果、農業経営を破壊し、農業生産規模を40%以上も激減させました。全国民を、餓死させる極限状態に追いこんだのです。レーニンは、遅すぎた選択によって、500万人を“誤った戦略で殺した”のです。ただ、この恐るべき「1921、22年飢饉史」データは、「レーニン秘密資料」の中に隠蔽されたままで、公表されていません。よって、天災を主要原因とする死亡者数と、意図的政策結果としての“被殺人者”との分別は、分かりません。(表)データにあるように、ランメルは、意図的政策による飢饉死亡者を250万人と推計しています。

 

 第3、「ネップ」は、『一時的戦術的後退』です。レーニンにとり、「屈辱的な大敗北」でした。

 

 これは、「戦略的転換」ではありません。たしかに、「ネップ」後、穀物・家畜が自由商業で出回るようになり、農民は、現物税を収めるようになりました。レーニンは、その予想外の進行を見て、戦術的効果を評価する発言もしています。しかし、あくまで『後退・退却』とする観点を変更していません。なぜなら、「ネップ」は、社会主義政権が、資本主義経済に後退する政策を、権力奪取から約3年半も経ってから、一時的にせよ、採らざるをえないという「屈辱的な大敗北」だったからです。政治局、ボリシェヴィキ内で、論争になったテーマは、『この後退をいつまで、どこまで続けるのか』ということでした。「いつになったら、後退を中止し、社会主義農業政策に戻るのか」が、重大関心事でした。「ネップ」期間中、いかに秩序だった後退を行うのかが、政権崩壊のがけっぷちから、生き長らえる最大問題でした。

 

 レーニンは、この危機において、一党独裁システムを放棄せずに生き残るため、他にも、3つの作戦を採りました。

 ()、農民・労働者・兵士「反乱」の指導者を“皆殺し”にし、今後の「反乱」の芽を根絶する作戦です。

 3大穀倉地帯における3大農民「反乱」を武力鎮圧し、『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令で、コサック農民を合わせて数10万人殺しました。ストライキ労働者・メンシェビキ5000人を逮捕し、即座に500人を拷問死させ、銃殺しました。クロンシュタット・ソヴェト55000人を殺戮、銃殺、強制収容所送り、移送中の殺人、強制収容所での拷問死・銃殺で殲滅しました。

 

 ()、「反乱」の危険因子を持つ階層にたいする“予防的殺人”“予防的肉体的排除”作戦です。

 それを、1922年に強行し、一党独裁国の『浄化』を図りました。レーニンは、22年前半、聖職者全員銃殺を指令し、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害を強行しました。22年後半、第1回発作後、「反ソヴェト」知識人数万人を3方針で肉体的排除しました。

 

 (3)、1921年、『秩序ある後退』をするために、党内規律強化と党員粛清の作戦を決行しました。

 「ネップ」発令の第10回大会で、「分派禁止規定」を大会最終日に、レーニンが突如、提案し、決定しました。1921年夏前後、『党の頂上から底辺までの粛清』を指令しました。除名党員数データは、さまざまです。P・アヴリッチは、『全党員のほぼ4分の1を除名』(P.273)としています。ダンコースは、『党員の24%、136836人を「規律違反」「重大な誤ち」「不活動」で除名』(『ソ連邦の歴史1』P.223)と書いています。『ロシア史(新版)』は、『約20万人を除名』(P.482)と推定しています。

 

 レーニンは、1922年3月においても、この『後退、退却』観を堅持していました。R・ダニエルズ『ロシア共産党党内闘争史』(P.131)を、そのまま引用します。

 『一九二二年の三月末から四月はじめにかけて開催された第一一回党大会は、レーニンの指導下における最後の党大会であった。更にいっそうの団結と規律というのが』党指導者の考えた主要なテーマであった。

 レーニンは時を移さず、党の団結を維持するには無慈悲さが必要なのだ、と断じた。「もし人々が狼狽をもちこむならば――こういう瞬間には、どんなわずかな規律紊乱も、厳重に、手ひどく、容赦なく罰する必要がある」。ネップは一種の退却であるから、党の隊列における秩序はそれだけますます必要である。「本物の軍隊にこのような退却が行なわれるときは、機関銃をすえる。そして正常な退却が無秩序な退却になっていくときには、『射て!』という命令がくだる。しかもそれは正しいのである。」

 レーニンは反対派活動の弱まりを認めたが、代議員たちは分派主義を根絶するために倍旧の努力を献げるように要請された。「党全体とその地方諸組織の全権力をあげて、党の組織を分裂させるあらゆる種類の現われと決定的な闘争を行なわねばならない。……党全体が、あらゆる異論と不一致の表現を党に対する最も重大な犯罪とみなさねばならない。」』

 

 第4、スターリンは、レーニンの『いつかは後退、退却を中止する』思想を忠実に継承しました。

 

 スターリンと政治局は、1927年12月、第15回大会で、「農業集団化」方針を決定し、「ネップ」政策を実質的に廃止しました。スターリンは、それによって、レーニン、政治局が熱望した「市場経済廃絶」「大規模国営農場システム」「社会主義計画経済の5カ年計画」に“逆転換”しました。なぜなら、「資本主義経済への後退・退却というネップ」期間を早く終えて、「社会主義計画経済」に向けての“三歩前進”を再開することは、レーニン、スターリン、ブハーリンら当時の政治局全員の“共同意志”だったからです。

 

 その後、スターリンは、「穀物危機」に直面して、新しく「村ぐるみコルホーズ加入」作戦を強要しました。1930年3月、コルホーズ農民は50%以上になりました。これに反対する農民110万経営、1000万人に「クラーク」というレッテルを貼り、「富農撲滅」運動を展開し、彼らを逮捕・銃殺・流刑・強制移住にしました。スターリンは、1932年には、ミール共同体をコルホーズとし、集団化を完了させました。それにより、共同体の自治機能を完全に剥奪しました。9000万共同体農民を、コルホーズ農民に転化させました。かくして、スターリンは、マルクス「青写真」実験を再開し、レーニンがやろうとしてやれなかった社会主義農業政策を全面開花させました。その路線に『マルクス・レーニン主義』と命名しました。

 

 スターリンは、穀物“収奪量”を増加させ、穀物輸出を拡大しました。その「社会主義的原始的蓄積」を、大規模工業化資金に振り向けました。その政策結果として、1932、33年にウクライナを初め、主要な穀物地帯で第2回目の大飢饉を発生させました。彼は、レーニンの“500万人殺人”にたいして、今度は、“餓死による600万人殺人”をしました。

 

 レーニンとスターリンとの連続性を示すデータは、これ以外にも多々あります。とりわけ、『下水道の歴史』においては、ソルジェニーツィン『収容所群島』の膨大な証言者内容と資料にあるように、「2人の連続性」が基本です。粛清思想・方針の継承性問題だけを簡単にのべます。スターリンは、レーニンが農民「反乱」、全階級「反乱」によって、挫折させられたことを貴重な教訓としました。“三歩前進”の再開にあたって、レーニンの敗北を繰り返さない手段は、レーニンの「粛清思想・手口など、政治局内における5年間の直接指導」内容を厳格に守り、かつ、拡大・発展させることでした。

 

 (1)、レーニンは、『害虫駆除』『社会主義国の浄化』思想を強調し、『反革命分子』『人民の敵』というレッテルを多用しました。スターリンは、1921年にレーニンが決定してくれた『分派禁止規定』を全面的に活用し、また、1922年に彼宛に出されたレーニンの『浄化』指令の手紙の精神を守り、数千万人にたいして『分派』『人民の敵』というレッテルを貼りつけました。

 

 ()、レーニンは、「反乱」を根絶するために、「反乱」農民・労働者・兵士たちの指導者“皆殺し”作戦を採りました。それだけでなく、「反乱」を未然に防止するために、1922年、“予防的殺人”として、聖職者数万人銃殺・信徒数万人殺害をし、かつ、“予防的肉体的排除”として、「反ソヴェト」知識人数万人を追放しました。スターリンは、レーニンのそれら「政治局内における5年間の直接指導」を忠実に継承し、4千万人という「反乱の芽」をことごとく、事前に摘み取りました。

 

 (3)、レーニンは、権力奪取の翌12月、秘密政治警察チェーカーを創設しました。彼は、自分の誤った食糧政策により発生した「抵抗」農民や“袋をかついだ男(闇のかつぎ屋)”にたいして『反革命』のレッテルを貼り、チェーカーに「逮捕」「その場で射殺」などの無制限な権限を与えました。これにより、「事実上の赤色テロル」政治を開始しました。5年間、一貫して秘密政治警察の暴力システムを拡大・強化し続けました。ただ、スターリンは、レーニンのチェーカー・レベルや規模では、「反乱」の発生を抑止できなかったことを、直接体験を通じて痛感しました。レーニンの敗北は、最初からの政治局員スターリンにとっても、同じだったからです。「反乱」抑止力は、チェーカーを一段と拡大・強化した秘密政治警察NKVDしかありません。

 

 (4)、レーニンは、「反乱」農民・労働者・兵士だけでなく、すべてのエスエル党員・メンシェビキ党員を、『反革命分子』『武装反革命』と断定し、『逮捕するなら夜が好都合』との極秘指令メモを出しました。スターリンは、レーニン指令を忠実に実行し、密告された者数千万人に、『深夜のドアノック』をしました。

 

 (5)、レーニンのチェーカーと、スターリンのNKVDは、逮捕されたソ連国民にたいする、共産党が行う『32種類の拷問システム』を“共同開発・継承”し、『分派の自白とサイン』をさせました。

 

 (6)、レーニンは、「人質」政策を大規模に展開し、その手段により「食糧独裁令」を成功させようとしました。1920年までに、84カ所に強制収容所を創設し、内戦捕虜24000人以外に、25000人の「収容者」を“肉体的排除”していました。スターリンは、レーニンの「強制収容所への“肉体的排除”」政策を堅持しつつ、それを拡張し、ソ連全土を『収容所群島』に変質させました。スターリン時代の各年度毎の「ラーゲリおよびコロニー内における強制収容者」は、二千数百万人いました。ただ、レーニンと違って、スターリンの“独創性”は、「強制労働10年、15年判決」を数千万人に出し、その「ただ働きの奴隷労働」を駆使して、鉄道・運河建設、林業、土木工事など、さまざまな「収容所産業」を興したことです。

 

 (7)、レーニンは、「赤色テロル」路線を、1918年当初から“事実上”、1918年9月5日からは“公式的・合法的”に遂行しました。それにより、レーニンは、「反乱」農民・労働者・兵士、「反革命」全他党派党員の数十万人を粛清しました。スターリンは、レーニンの「赤色テロル」路線を忠実に受け継ぎつつ、さらに、それを拡大し、約4000万人を粛清しました。スターリンは、レーニンが行った粛清規模の百倍前後ものソ連国民を粛清しました。ただ、そこでの、4000万人の密告・逮捕・拷問・銃殺か強制労働10年、15年判決などのシステム、強制収容所への配分・移送システム、二千数百万人の強制収容所「ただ働きの奴隷労働者」を“運用”する社会主義的計画経済システムなどの点に、“レーニンとスターリンとの非連続性”があります。

 

 レーニンとスターリンの連続性と非連続性のテーマは、「レーニン秘密資料」が全面公表されれば、さらに明確になるでしょう。

 

 「労農同盟」は、この「ネップ」期間中においても、存在していません。9000万農民は、第2要求を“丸呑み”しただけの「ネップ」を、喜んで受け入れました。しかし、一党独裁政権を支持した内容は、「自由商業」政策に後退した政権への消極的承認というレベルでした。それは、「社会主義建設の目標で一致した政治的軍事的同盟」とは、まるで異なります。その後のスターリン・ブレジネフ時代においても、「労農同盟」は、一度も実在しませんでした。

 

 9、梶川伸一による新しいネップ規定の重要性 (追加)

 

 このファイルを書いた時点、ネップに関するロシアの現実データは、ソ連共産党や日本共産党の公式規定しか出ていなかった。レーニンの「後退」発言以外に、内外の研究論文も発表されていなかった。ただ、農民問題については、梶川伸一の2著書が出版されていた。彼は、それらの著書において、食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、レーニンの「労農同盟」論を否定し、「ロシア革命」の根本的再検討を提起していた。ただ、2著は、まだネップ時期の研究にまで入っていなかった。このファイルは、それらのデータに基づいて書いたものである。

 

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

         『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』

 

 ところが、その後、梶川伸一は、他2著書を出版した。彼は、そこで、ロシア革命の現実として、ネップは農民・労働者への宥和政策ではなく、ネップの現物税徴収は、軍事割当徴発と同程度の食料収奪の継続だったことを論証した。それは、私のネップ観を根底から覆した。よって、このファイル「8、誤りの遅すぎた撤回としてのネップ」の論旨を全面的に変更する必要が生じた。

 

 ただ、その論旨を信じる人も多いので、そのまま残す。私は梶川伸一の新しい規定に同意するので、彼の2著を読んでいただきたい。

 

    梶川伸一『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する

          『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』ネップは宥和政策か

 

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 (関連ファイル)

    『「反乱」農民への裁判なし射殺・毒ガス使用指令と「労農同盟」論の虚実(1)』

    第3部『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』

           1918年5月、9000万農民への内戦開始・内戦第2原因形成

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年

          『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』

           食糧独裁令の割当徴発とシベリア、タムボフ農民反乱を分析し、

           レーニンの「労農同盟」論を否定、「ロシア革命」の根本的再検討

          『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する

          『レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか』ネップは宥和政策か

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』

    ダンコース『奪われた権力』第1章

    中野徹三『社会主義像の転回』制憲議会解散論理、1918年

    大藪龍介『国家と民主主義』1921年ネップ導入と政治の逆改革