1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター
「スターリンは悪いが、レーニンは正しい」説当否の検証
第6部、クロンシュタット水兵・労働者14000人の皆殺し
(宮地作成)
〔目次〕
1、革命拠点クロンシュタット・ソヴィエト、協調派から革命派への転換 (表1)
2、ソヴィエト選挙の変質とクロンシュタット・ソヴィエトのボリシェヴィキ独裁機関化
3、バルチック艦隊水兵の不満・要求と5000人集団脱党 〔事前段階〕
〔第1段階〕、15項目の平和的要請と、自由で平等なソヴィエト新選挙運動
〔第2段階〕、レーニン・赤軍5万人による鎮圧作戦と防御的武力抵抗
〔第3段階〕、レーニン・トロツキーによる水兵・労働者皆殺しと虐殺データ (表2)
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
(クロンシュタット事件の関連ファイル)
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚 『電子書籍版』
P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』事件の全経過、14章全文転載
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』事件の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
Google検索 『kronstadt』640000件、自動的日本語翻訳機能付サイト多数
大藪龍介 『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱
1、革命拠点クロンシュタット・ソヴィエト、協調派から革命派への転換
クロンシュタットは、フィンランド湾内のコトリン島にあり、ペテルブルグ防衛のための海上要塞として建設され、バルト艦隊の主力基地だった。人口は55000人である。1905年革命では、要塞兵士1500人・艦隊水兵3000人が反乱を起こした。1917年革命で、クロンシュタット・ソヴィエトは、革命軍最大の拠点となり、「十月革命」時に、クロンシュタット労兵ソヴィエトは、武装部隊を首都ペトログラードに派遣し、革命の栄光拠点とたたえられた。
ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトは、ソヴィエト革命の二大拠点だが、1917年3月以降、すべての都市で、労兵ソヴィエトが組織された。少し遅れて、農民ソヴィエトもできた。5月400、8月600、10月900のソヴィエトが存在したと算定されている(シャルル・ベトレーム『ソ連の階級闘争』第三書館、絶版、P.61)。
私は、(1)ロシア革命と(2)ソヴィエト革命とをほぼ同義語として使っている。ただ、ソヴィエト革命と言う場合は、ソヴィエトというロシア特有の創造的政治運動組織による革命という意味を重点にしている。そして、これら『8部作』全体において、「十月革命」という言葉を、「 」つきで用いて、(3)レーニンによる単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターと規定している。十月も含め、その後、レーニンがしたことの性格は、革命ではなく、(1)(2)にたいするソヴィエト権力簒奪7連続クーデターとする。このファイル『第6部』は、第6次クーデターを検証する。
ロシア革命=ソヴィエト革命は、いつ終焉を迎えたのか。ロイ・メドヴェージェフ、ニコラ・ヴェルト、梶川伸一らは、1921年3月、クロンシュタット鎮圧と平行開催中の第10回大会における「ネップ」で、ロシア革命は終わったとしている。私も基本的に同意見ではある。しかし、レーニン・トロツキーらは、第5〜6次連続クーデターによって、ロシア革命=ソヴィエト革命の息の根を止め、「プロレタリア独裁」「労農同盟」の名前を騙った「党独裁」クーデター政権を最終的に完成させたという歴史認識に重点を置いている。
クロンシュタット・ソヴィエトの形成と変化、ペトログラード・ソヴィエトとの密接な関係については、長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社、1973年、絶版)が、詳細なデータと分析を載せている。そこから、経過を見てみる。協調派(臨時政府支持)・革命派という規定は、臨時政府にたいするソヴィエトの態度に関する長尾久の分類である。以下は、4年後に、なぜ自由で平等なソヴィエト新選挙を要請して、クロンシュタット事件が発生したのかを解明する上で、重要な背景となる。
1888 map of the Kronstadt
bay
1917年3月5日、クロンシュタット基地労働者が労働者ソヴィエトを設立した。
3月7日、クロンシュタット軍人ソヴィエトも成立した。それは、水兵18・兵士18人の執行委員会を選出した。2つが合同し、単一のクロンシュタット労兵ソヴィエトが成立した。労兵ソヴィエト執行委員会の党派構成は、エスエル108、メンシェヴィキ72、ボリシェヴィキ11、無所属77だった。この時点では、エスエルが指導的地位にあった。その後、臨時連立政府支持かどうかが、ソヴィエト内の重大争点となっていった。ペトログラード・ソヴィエトは臨時連立政府支持になった。
5月2日、クロンシュタット・ソヴィエトも、95対71対8で、連立政府支持を決議した。これは、協調派95と革命派71との対立である。クロンシュタットも、まだ、協調派路線をとっていた。
5月13日、ところが、クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会は、「クロンシュタット市における唯一の権力は、労兵ソヴィエトである。ソヴィエトは、国家秩序の問題については、全て臨時政府と直接接触する」と決議した。従来も、クロンシュタット市の権力は、事実上ソヴィエトの手中にあったが、この決議は、これを正式に宣言し、臨時政府の地方統治権に挑戦した。
5月16日、さらに、ソヴィエト総会は、執行委員会決議を、革命派側に修正した。総会は、211対41対1で、「クロンシュタット市における唯一の権力は、労兵ソヴィエトである。ソヴィエトは、国家秩序の問題については、全てペトログラード労兵ソヴィエトと直接関係を持つ」と修正決議をした。これは、エスエルが提案し、ボリシェヴィキが支持した。反対41は、メンシェヴィキと無所属である。首都を守るべき要塞が、臨時政府の地方権力否認の立場に移ったことは、政府にもペトログラード・ソヴィエトにも大きなショックを与えた。その後、政府とペトログラード・ソヴィエトの圧力を受けて、臨時政府にたいする態度が二転三転した。
5月27日、その態度変化にたいし、クロンシュタット人民の批判が高まり、総会は、クロンシュタットを訪れたトロツキーの提案もあって、「わが労兵ソヴィエトは、クロンシュタット現地の全問題における権力を掌握した」「勤労大衆の統一した力で、わが国の全権力が労兵ソヴィエトに移る時は近い」という宣言を採択した。
6月6日、こうして革命派になったクロンシュタット・ソヴィエトは、代表団をバルト海艦隊の全主要基地に送り、自己の立場を説明することを決議した。そして、ソヴィエトは、エスエル4、ボリシェヴィキ3、メンシェヴィキ2という比例代表制に基づく代表団を選出した。クロンシュタット・ソヴィエトは、新たな革命への積極的な説得活動に乗り出した。
10月25日(新暦11月7日)、レーニン・ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターにおけるクロンシュタット・ソヴィエト水兵の活躍については、ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』、トロツキー『ロシア革命史』(岩波書店、藤井一行訳、2000年)に詳しいので、ここでは触れない。ただ、「十月革命」ではなく、それは、レーニンらによるソヴィエト権力簒奪「十月クーデター」だったとするロシア革命認識については、『第1部』において検証した。
第1部『レーニンによるソヴィエト権力簒奪7連続クーデター』十月・第1次クーデター
(表1) ボリシェヴィキ支持率の急上昇 17年8月〜18年3月
年月 |
支持率 |
内容 |
出典 |
1917.10 |
57.5% |
全ロシア工場委員会評議会代議員167人中、ボリシェヴィキ96人、エスエル24人、アナキスト13人、メンシェヴィキ7人 |
『階級闘争』P.63 |
1917.11 |
(2万人) |
11月7日武装蜂起当日、ペトログラードのプロレタリアートと市守備隊の大半は「中立」を守った。冬宮襲撃参加者は、(1)ペトログラード゙守備軍兵士7〜8千人、(2)クロンシュタット水兵6〜7千人、(3)労働者「赤衛隊」5千人の計2万人によるボリシェヴィキ単独権力奪取 |
メイリア『ソヴィエトの悲劇』P.69、長尾『研究』P.376 |
1917.11 |
44.8% |
第2回全国労兵ソヴィエト大会の大会アンケート委員会集計、代議員670人中、ボリシェヴィキ300人、エスエル193人、メンシェヴィキ63人。エスエル(右派)とメンシェヴィキは、「ボリシェヴィキによる単独権力奪取」に抗議して退場 |
『研究』P.377 |
1917.11 |
24% 40.7% 36.5% |
11月12日から憲法制定議会選挙施行。エスエル40.7%・410議席(うち左派エスエル40議席)、ボリシェヴィキ24%・175議席、カデット4.7%・17議席、メンシェヴィキ2.7%・16議席 兵士・水兵のボリシェヴィキ支持率 都市のボリシェヴィキ支持率 |
『ロシア史』P.461 |
1917.11 |
45.3% 79.2% 48.7% 57.7% 50.1% 79.5% 55.8% |
憲法制定議会選挙の地域別得票率 ペトログラード市 エスエル16.7、メンシェヴィキ3.1 ペトログラード守備軍 エスエル12.0、メンシェヴィキ1.1 ペトログラード県 エスエル25.4、メンシェヴィキ1.3 バルト海艦隊 エスエル38.8、メンシェヴィキ/ モスクワ市 エスエル 8.5、メンシェヴィキ2.9 モスクワ守備隊 エスエル 6.2、メンシェヴィキ0.9 モスクワ県 エスエル26.2、メンシェヴィキ4.2 |
『研究』P.403 |
1918.1 |
46.0% |
クロンシュタットのソヴィエト選挙 57.7→46.0へ11.7%下落 |
|
1918.3 |
66.0% |
3月14日、100の郡ソヴィエト選挙結果、左翼エスエル18.9%、右翼エスエル1.2%、メンシェヴィキ3.3%、無党派9.3% |
メドヴェージェフ『10月革命』P.212 |
2、ソヴィエト選挙の変質とクロンシュタット・ソヴィエトのボリシェヴィキ独裁機関化
〔小目次〕
1、クロンシュタット・ソヴィエトとソヴィエト選挙の実態、3年4カ月間での変質
2、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪過程
3、ソヴィエト選挙の変質、ソヴィエト国家から一党独裁国家への転換点
4、ペトログラード労働者とクロンシュタット水兵はどうしたのか
1、クロンシュタット・ソヴィエトとソヴィエト選挙の実態、3年4カ月間での変質
ソヴィエトは、ロシアの労働者兵士が、1905年革命と1917年二月革命運動の中から自律的に創作した組織形態である。その特徴は、自然発生的で、地方分権・地方権力指向的だった。さらに、その運営は、直接民主主義の方式によって、自由で平等な選挙で、執行委員を選んだ。選挙権・被選挙権は、旧帝政側勢力を除いて、誰も、どの社会主義党派・無所属も排除されなかった。代表団を派遣するときも、社会主義各党派・無所属からの比例代表制で選んだ。
クロンシュタット・ソヴィエトは、1917年5月、ソヴィエト協調派からソヴィエト革命派に転換した。以後、一貫して、ソヴィエト革命派であり、憲法制定議会も否定していた。憲法制定議会の武力解散にあたって、議場閉鎖をした部隊は、クロンシュタット・ソヴィエト水兵たちだった。彼らのボリシェヴィキ支持率は、上記(表)のように圧倒的な高さだった。
自由で平等な選挙をし、革命の栄光拠点ソヴィエトであったクロンシュタット水兵・基地労働者たちが、1917年11月7日から3年4カ月後の1921年2月末から3月にかけて、一体なぜ、「自由で平等なソヴィエト新選挙」「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というスローガンを掲げ、レーニン政権にたいして、15項目の綱領・要求に基づく平和的要請行動に総決起しなければならなかったのか。
その要請内容と合法的な要請行動は、ソヴィエト権力樹立の3年4カ月間において、ソヴィエト権力が、ペトログラード・ソヴィエトやクロンシュタット・ソヴィエトという拠点ソヴィエトの意向・要求から離れ、クーデター政権によって根本的に変質させられたことを示している。
彼らが告発するソヴィエトの変質実態はどうなっていたのか。クロンシュタット事件の諸資料が明記しているように、(1)自由で平等な選挙システムが破壊され、(2)ソヴィエト執行委員会は、ボリシェヴィキ党員だけに占拠されていた。(3)社会主義他党派幹部は、チェーカーに大量逮捕され、監獄にいた。(4)ボリシェヴィキ以外の言論・出版の自由権は剥奪されていた。(5)国家権力機構となったソヴィエトは、党独裁の中央集権的ソヴィエトとなり、スタート時点のソヴィエトの特徴と正反対の党独裁型権力機構に変質させられていた。(6)「プロレタリア独裁国家の成立」という宣伝は、党独裁の実態を覆い隠すいちじくの葉・レーニンの恣意的なウソだということが、国民に認識されてきた。
2、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪過程
3年4カ月間とは、レーニンによるソヴィエト民主主義破壊、ソヴィエト権力簒奪クーデター過程だったといえる。次にその経過を検証する。
1917年、二月革命スタート時点のソヴィエトは、労働者・兵士が独創的に作りだし、自然発生性・地方分権性・分散性の性格を持った労働者・兵士代表機関だった。ソヴィエト選挙は、自由で平等なやり方でなされた。その指向方向は、絶対的中央集権国家機構を否定していた。ボリシェヴィキはその結成にほとんど関与していない。
スイス長期亡命者レーニンは、ドイツ政府・軍部の政治的軍事的思惑によって、ドイツ軍封印列車で帰国できた。彼は、暴力革命・権力奪取・一党独裁政権樹立において、ソヴィエトの利用価値が高いことに目を付けた。
1917年4月、「すべての権力をソヴィエトへ」というレーニンのスローガンは、瞬時に、労兵ソヴィエトメンバーの心を掴んだ。
1917年11月25日、憲法制定議会選挙は、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの18日後に始まった。これは、誰も、どの党派も排除しないヨーロッパ型の普通選挙だった。投票率50%弱で、投票者4440万人だった。得票率24.0%少数派ボリシェヴィキは、憲法制定議会を武力解散し、76%の他党派支持国民・党派を敵に廻した。この時点、クロンシュタット・ソヴィエトは、ボリシェヴィキ支持、武力解散賛成の立場だった。
第2部『憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』議会1日目での解散作戦
ソヴィエト選挙は、全国いっせい普通選挙と異なる。各ソヴィエトは、直接民主主義・地方分権的であり、その総会で執行委員や代表団を選ぶ。ただし、旧帝政関係の勢力、カデット党員、商人、「クラーク」など有害分子の選挙権をあらかじめ剥奪している。それ以外のソヴィエト構成員の被選挙権は、誰にもどの党派にも与えられた。県・郡ソヴィエトやソヴィエト大会への代議員は、各党派の比例代表制で決められた。
ただし、レーニンがひた隠しにしていた国家権力構想は、次の4つだった。これらは、ソ連崩壊後、明らかになった。(1)、ロシアに、労働者が2.7%・300万人しかいなくとも、それをプロレタリア独裁国家と名付ける。2.7%が97.3%国民にたいして独裁政治をするシステムである。そして、(2)、マルクス主義世界観政党として絶対的真理を唯一体現している前衛党・ボリシェヴィキが中核となる政権でなければならない。表向きに「プロレタリア独裁国家」を名乗るが、その本質は「党独裁国家」であろう。かつ、(3)、ツアーリ絶対主義的帝政にたいしての地方分権型国家ではなく、中央集権国家機構を目指す。(4)、ソヴィエト機構を、党独裁の国家権力機関として利用する。
レーニンがソヴィエト機構の利用価値を高く評価した4月時点、および、11月7日単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター時点以来、下部の労働者・農民・兵士ソヴィエトと、レーニンの密かな思惑とは、深刻な二重性・ずれを孕みつつ、1918年6月14日までは、同床異夢の状況のままで、深部で亀裂が広がっていった。
1918年6月14日、レーニンは、ソヴィエト選挙の実態を、全ロシア中央執行委員会決定で、完全に変質させた。レーニンは、ソヴィエトの二重性を暴力で破壊し、ソヴィエトをボリシェヴィキの党独裁機関に変質させた。彼は、それによって、ソヴィエト民主主義を全面的に破壊し、ボリシェヴィキによるソヴィエト権力簒奪第4次クーデターを図った。そして、7月6日反乱で、左翼エスエルも全ソヴィエトから追放した。エスエルの追放だけでなく、レーニンは、ボリシェヴィキ以外の全他党派幹部を大量逮捕し、ソ連の政治体制であるソヴィエトからの他党派完全排除を図った。
第4部『他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
クロンシュタット水兵・基地労働者が要請した「自由で平等な新選挙」とは何なのか。逆の言い方をすれば、「自由がなく、平等でなくなった、昨今のクロンシュタット・ソヴィエト選挙」「ボリシェヴィキ党員だけのクロンシュタット・ソヴィエト執行委員会」の実態はどうなっているのか。クロンシュタット15項目綱領・要求のうち、この第1項目こそ、クロンシュタット水兵が平和的要請行動をした中心テーマであり、かつ、レーニンが党独裁政権崩壊の恐怖におののいて、皆殺し対応をした謎を解くかぎとなる。
1918年6月14日以後、1921年3月1日クロンシュタット16000人集会までの2年7カ月間のソヴィエト選挙の実態はどうなったのか。ソヴィエト式選挙なので、従来からの有害分子の選挙権を剥奪するシステムが続いていた。しかし、レーニンは、6月14日決定の全面執行によって、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルなどの全他党派党員やアナキストから、代議員やソヴィエト執行委員に選ばれる被選挙権を剥奪し続けた。たまたま、社会主義他党派党員が選ばれたとしても、チェーカーが直ちに他党派所属の代議員を逮捕し、監獄にぶち込んだ。全国の監獄は、他党派党員で溢れた。ジェルジンスキーとチェーカーは、当然のように、逮捕者の後釜に、ボリシェヴィキ党員を据えた。
かくして、ソヴィエト機構は、レーニンの強烈な意志によって、ボリシェヴィキの、ボリシェヴィキ党員だけによる、ボリシェヴィキのための絶対的中央集権の党独裁国家機構に変質させられた。
3、ソヴィエト選挙の変質、ソヴィエト国家から一党独裁国家への転換点
ソ連崩壊後の研究は、ほとんどが、6月14日からの数カ月間を、レーニンによるソヴィエト国家破壊からボリシェヴィキ独裁国家への転換点と規定している。マーチン・メイリア『ソヴィエトの悲劇・上』(草思社、1997年)も、次のように書いている。「七月から八月にかけて、ボリシェヴィキ政権にとっての危機が増大するにつれて、各地のソヴィエトは完全に党の支配下におかれ、このとき以来、ソヴィエトはたんなる形式的な組織になった。
こうして夏の終わりまでに、一九一七年にはいくらか姿を現わしかけたコミューン国家は、完全に党国家にとって代わられた。チェーカーは、人民の敵、反革命、反党活動者を片っ端から摘発した。こうしてプロレタリア独裁は、レーニンの好んだ解釈どおり、すべての法を超えた無限の権力という徹底した、革命以後の意味をもつようになる」(P.212)。
その結果、ソヴィエト選挙はどうなったのか。1918年末から19年における農民ソヴィエト選挙の変質について、梶川伸一『飢餓の革命』が、ソ連崩壊後、膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘して検証している。
「ボリシェヴィキ指導官のべレゾフスカヤ郷への到着後、彼により郷特別委と郷執行委の会議が設けられ、そこで村の貧農委組織から提出された候補者の審議が行われ、調書を検討し、権利を持たない者が排除された。この後、ソヴィエト大会が開かれ、郷ソヴィエトが選出された。クルスク県ノヴォオスコル郡の一九年一月の郷貧農委大会で行われたように、選挙特別委員にはボリシェヴィキにより指名された人物が承認され、次いでボリシェヴィキにより提起された候補者名簿が読み上げられ、承認された。
ペンザ県チェムバル郡郷ソヴエト改選の際に市からボリシェヴィキ代表が到着し、彼は集会で、まずコムニストからなる候補者を指名するよう集会に通告した。このほか、様々な権力組織が改選カムパニアに介入した。一二月末に行われたオロネツ県ロデイノポレ郡の村ソヴィエト改選では、郷ソヴィエト執行委から三人のボリシェヴィキ代表が全体集会に臨席し、こうしてコムニストとシンパからなる村ソヴィエトが選出された」(P.561)。
レーニンは、ボリシェヴィキ以外の他党派をチェーカーの暴力で完全排除・逮捕し、政党間のソヴィエト選挙競争を廃絶した。ソヴィエトは、社会団体や地域からなる。そこのソヴィエト選挙は、該当ボリシェヴィキ機関が、事前調整という指令をし、小選挙区なら、候補者はボリシェヴィキ党員一人だけとなる。中選挙区なら定員と同数のボリシェヴィキ党員かシンパの候補者が立ち、投票は信任投票となった。ソヴィエトだけでなく、労働組合や他の社会団体の役員選挙も、同じとなり、他党派党員は完全に事前排除され、ボリシェヴィキ党員とシンパだけの組織に変質した。大藪龍介が規定したように、これによって、レーニンは「政党間民主主義を抹殺した」。
大藪龍介『国家と民主主義』政党間民主主義抹殺と民主主義消滅
4、ペトログラード労働者とクロンシュタット水兵はどうしたのか
一体、これが、労働者・農民・兵士ソヴィエトが目指した理想の社会主義システムだったのか。ソヴィエト、労働組合、社会団体すべてが、党独裁国家権力機構の歯車の一つにさせられてしまった。その現実にたいし、35万ボリシェヴィキ党員以外の労働者・農民・兵士は、もはや、我慢できなくなった。彼らロシア革命を担った全階層は、総反乱で応えた。レーニンは、彼らに反革命・人民の敵レッテルを貼りつけた。彼は、ジェルジンスキーと28万人チェーカーに皆殺し対応を指令した。はたして、どちらが反革命・人民の敵だったのか。
全国の労働者・農民・兵士ソヴィエトが創りだしたソヴィエト大会は、当初3カ月間に1回開くとされていた。それは、なし崩し的に、1年に1回となった。その執行機関としての全ロシア中央執行委員会の権限は、レーニンを議長とするボリシェヴィキ党員占拠の人民委員会議に奪われた。さらには、重要決定は、人民委員会議かボリシェヴィキ中央委員会の名で下された。もちろん、形式的に、全ロシア中央執行委員会の連名になることもあった。これらの変質過程を、ベトレーム『ソ連の階級闘争』(第三書館、1987年、絶版)が分析している。
それにたいして、二月革命以来、ロシア革命運動に参加してきた革命労働者・革命農民・革命兵士が、そして、社会主義他党派が、レーニン・ボリシェヴィキ批判の総反乱に決起したのは必然だった。一方、レーニンは、スイス亡命時にパリコミューンの教訓を必死に研究し、それを一面的に歪曲して受け止めた。プロレタリア独裁権力維持には、赤色テロル・反革命者の大量殺人が絶対に必要だと胸に刻んで帰国した。彼が、反対者にたいして、チェーカー、赤軍の暴力を使って、反革命・人民の敵レッテルを貼りつけ、自国民の大量殺人を指令したのも、彼の赤色テロル是認思想が生み出した当然の行為だったといえる。
1917年11月7日、ペトログラード・ソヴィエトとクロンシュタット・ソヴィエトは、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを支持した。それまでのソヴィエト選挙は、自由で平等であり、有害分子以外、誰もどの他党派党員も排除されなかった。彼らは、社会主義革命の夢に燃えていた。
それから3年4カ月経った1921年2月時点、2つの革命拠点ソヴィエトの実態はどうなっていたのか。ソヴィエトの形式名とシステムは残っていた。しかし、2つとも、ソヴィエト執行委員会は、ボリシェヴィキ党員で不法に占拠されていた。ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、ペトログラード内の全労働組合執行委員会もボリシェヴィキに占拠させていた。労働者ストライキは、当然、ボリシェヴィキ党員占拠労働組合執行委員会に対抗して、山猫ストライキにならざるをえなかった。ペトログラード・チェーカーは、彼の指令の下に、山猫スト参加労働者を大量逮捕していた。クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会も、ボリシェヴィキ党員しかいなかった。兵士委員会は、軍事人民委員トロツキー指令により解散させられ、兵士による将校選挙も途絶させられた。軍隊内のコミッサール、ボリシェヴィキ政治部が絶対的権限を持ち、水兵たちを支配した。
自分たちが創りだしたソヴィエトが、レーニン・トロツキーらによって、労働者・水兵支配の弾圧機関に変質させられたと悟ったとき、誇り高いペトログラード革命労働者とクロンシュタット革命水兵・基地労働者は、どうすればいいのか。どうしたのか。それが、1921年2月22日から3月18日までのペトログラードとクロンシュタットの25日間である。
3、バルチック艦隊水兵の不満・要求と5000人集団脱党
以下の2つは、クロンシュタット事件の背景・原因を示す重要なデータである。これらは、クロンシュタット事件の〔事前段階〕となった。
〔小目次〕
1921年1月、クロンシュタット水兵の5000人集団脱党
2月15日、第2回バルチック艦隊ボリシェヴィキ党員水兵会議と決議
1921年1月、クロンシュタット水兵の5000人集団脱党
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』は、事前の不満・要求とともに、ボリシェヴィキ党員水兵が抱いたバルチック艦隊のボリシェヴィキ政治部にたいする怒りと非難を記している。クロンシュタット事件の期間は、2月28日から3月18日までとなっている。しかし、事前の要求提起と抗議行動の面では、ペトログラード労働者の山猫ストライキより前から始まっている。
クロンシュタット水兵の怒りは、飢餓だけでなく、ボリシェヴィキの軍事方針にも向けられた。彼らは、軍事人民委員トロツキーの方針に対抗し、海軍における「政治部」の完全な廃止を要求した。海軍政治部の実態は、(1)赤軍全体にたいするボリシェヴィキの党独裁システムというだけでなく、(2)トロツキーによって、ボリシェヴィキ党員水兵にたいする統制・管理機関にも変質させられていた。1月だけで、ボリシェヴィキ党員である水兵5000人が、抗議の集団脱党をした。
2月15日、第2回バルチック艦隊ボリシェヴィキ党員水兵会議と決議
軍事人民委員トロツキーは、(1)赤軍正規軍化、(2)ツアーリ将軍・将校らを大量に再雇用、(3)ボリシェヴィキ党員からなる政治委員(コミッサール)配置、(4)将校選挙廃止、政治部の将校任命制による兵士委員会の権限剥奪、さらには、(5)自主的に結成されていた兵士委員会の廃止を強行した。トロツキーは、軍隊内の政治部を、党の方針を遂行し、他党派支持兵士を排除し、他の国家暴力装置と同じく、(6)赤軍をボリシェヴィキ党独裁軍に転換させるためのシステムに変質させていた。
会議は、300人の代議員を集めて、「バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難する決議」を可決した。それは、次の4項目である。この決議は、海軍内の党独裁機関自体が、官僚化して、ボリシェヴィキ党員水兵にたいする統制・管理機関となり、独裁政党側にいるバルチック艦隊ボリシェヴィキ党員水兵から、公然と非難される実態レベルにまで腐敗していたことを証明した。
第二回ボリシェヴィキ党員水兵会議は、バルチック艦隊政治部(Poubalt)の所業を公然と非難するものである。
(1)、バルチック艦隊政治部は、自らを大衆からばかりか、活動家たちからも切り離している。それは、水兵のあいだになんらの権威を持たない、官僚的機関へと変質してしまった。
(2)、バルチック艦隊政治部の仕事には、計画性もしくは順序だった方法が全面的に欠如している。同時にそこには、その行動と第九回党大会で採択された諸決議とのあいだの一致が存在していない。
(3)、バルチック艦隊政治部は、自らを党員大衆からまったく切断してしまった結果、その局部的イニシアティヴを全的に破壊してしまった。それは、すべての政治的活動を机上の仕事に変えてしまった。こうしたことは、艦隊における大衆組織に有害な影響を与えてきた。昨年六月から一一月のあいだに(水兵)党員の二〇パーセントが、離党してしまっている。これは、バルチック艦隊政治部の誤った指導方法により説明されうる。
(4)、この原因は、バルチック艦隊政治部の組織諸原則そのもののなかに見い出されるべきである。これらの諸原則は、民主主義をより一層拡大する方向に転換されねばならない。
数人の代議員は、その発言のなかで、海軍における政治部の完全な廃止を要求した(『クロンシュタット・コミューン』P.17)。
〔小目次〕
クロンシュタット事件には、さまざまな名称が付けられている。日本語は、「反乱」「叛乱」「叛逆」である。英語では、やはり、主として「uprising」だが、「rebellion」もある。その他に、「the third revolution」がある。クロンシュタット事件の性格規定として、どの名称がふさわしいか。研究社の英和辞典で、その意味を見てみる。
(1)、「the third revolution」は、クロンシュタット臨時革命委員会機関紙、および、アナキストが名乗っている。クロンシュタット事件を、二月革命と「十月革命」に続く、第三の革命と位置づける見方である。水兵たちが、クロンシュタット・ソヴィエトの歴史的伝統から、その意気込みで決起したことは、納得できる。
(2)、「rebellion」は、不成功に終わった反乱、政府にたいする謀反を指す場合が多い。それにたいして、「revolution」は、革命、または、思想・社会の変革で成功したものを表す。アメリカ人アナキストで当時ペトログラードにいたベルクマンは、「rebellion」と規定している。決起したが、弾圧され、成功しなかった革命という意味である。
(3)、「uprising」は、反乱、暴動と訳されている。しかし、立ちあがる、起きるという動詞「uprise」の名詞形なので、クロンシュタット事件については、総決起という意味でも使われている。
A・Berkman『The Kronstadt Rebellion』英語版全文
Google検索『kronstadt』「uprising」名称が多い、640000件
日本語も、3つの英語も、クロンシュタット事件の名称として、その一面を表してはいる。事件全過程の一部だけを見れば、間違いではない。しかし、事件の全経過を厳密に検討すると、それらの名称でひとくくりするのは、事件の真相を正確に反映しないと、私は考える。私なりの名称は、別ファイル副題のように、「クロンシュタット水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応」事件となる。それでは長すぎるとなれば、「クロンシュタット事件」が適切でなかろうか。
(4)、P・アヴリッチの題名は「Kronstadt1921」で、ヴォーリンも「Kronstadt1921」である。イダ・メットの「The Kronstadt Commune」と同じく、題名としては、「uprising」「rebellion」を使っていない。3つの段階を総合的に表すのには、これらの名称がふさわしいと、私は考える。
その名称がいいとする根拠は、上記と下記で分析するクロンシュタット事件の4段階の分類に基づいている。
〔事前段階〕、事前の不満・要求と抗議の5000人集団脱党、1921年1月〜2月15日
〔第1段階〕、15項目の平和的要請と、自由で平等なソヴィエト新選挙運動、2月28日〜3月6日
〔第2段階〕、レーニン・赤軍5万人による鎮圧作戦と防御的武力抵抗、3月7日〜3月18日
〔第3段階〕、レーニン・トロツキーによる水兵・労働者皆殺しと虐殺データ (表2)
〔第1段階〕の2月28日から3月6日の7日間、臨時革命委員会は、15項目綱領の平和的要請を、レーニン・トロツキーにたいしてしただけで、ボリシェヴィキ独裁政権にたいして、いかなる武装蜂起・攻撃もしなかった。水兵たちは、政府との平和的交渉を望んでいた。レーニンが、その交渉に応じると、彼らが錯覚していたという言い方もできよう。
臨時革命委員会の設置とボリシェヴィキ幹部数人の逮捕そのものが、反乱の開始ではないのかという疑問もある。私の見解は異なる。そもそも、1921年2月時点、クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会は、ボリシェヴィキ独裁機関に変質させられており、社会主義他党派はソヴィエト執行委員会から完全に排除されていた。クロンシュタットの他党派党員幹部は、逮捕され、監獄にぶち込まれたままだった。ソヴィエト執行委員や基地労働者の労働組合執行委員は、全員がボリシェヴィキ党員によって占拠されていた。
1921年3月が、クロンシュタット・ソヴィエト執行委員会の改選時期になっていた。通常なら、ボリシェヴィキ党員だけの候補者リストによる信任投票になる。他党派党員が立候補するか、仮に当選しても、クロンシュタット・チェーカーが、彼らを即座に逮捕し、監獄にぶち込んだ。その形骸化されたソヴィエト選挙の実態は、1918年6月14日、レーニンによるソヴィエト権力簒奪第4次クーデター以降、2年8カ月間も続いていた。革命の栄光拠点としての誇り高きクロンシュタット水兵・労働者14000人は、その犯罪的なクーデター状況をいつまで我慢すればいいのか。
そこでの水兵・労働者の要求は、自由で平等な新選挙だった。しかし、ボリシェヴィキ占拠のソヴィエト執行委員会は、新選挙を受け入れるはずもなかった。すでに、ソヴィエト執行委員会と、労働組合執行委員会が、ボリシェヴィキ独裁で、水兵・労働者にたいする支配・抑圧機関に変質していた。それら2つと、クロンシュタット・チェーカーの暴力的干渉に対抗して、自由で平等なソヴィエト新選挙を行うには、クロンシュタット臨時革命委員会という別の選挙運動組織を設置するしかなかった。それは、武装反乱を目的とした組織ではない。
クロンシュタットの水兵10000人・基地労働者4000人を支配し、抑圧する機関は、(1)バルト艦隊のボリシェヴィキ政治部、(2)ボリシェヴィキ党員に占拠されたクロンシュタット・ソヴィエト執行委員会、(3)ボリシェヴィキ党員独裁のクロンシュタット労働組合執行委員会、(4)ボリシェヴィキ秘密政治警察のクロンシュタット・チェーカーだった。その最高責任者は2人だった。バルト艦隊政治委員クジミーン、クロンシュタット・ソヴィエト議長ワシリーエフである。彼らは、3月1日の16000人集会に参加したが、そこで15項目綱領に反対しただけでなく、挑発的な発言をした。
その2人と数人のボリシェヴィキ執行委員を逮捕したのは、(1)自由で平等な新選挙を平和的に遂行し、かつ、(2)15項目綱領の要求を貫徹する上で、やむをえない措置だった。水兵・労働者たちが、4つの支配・抑圧機関に対抗し、予想される暴力・逮捕をはねのけつつ、2つの平和的要求運動を成功させるには、(3)別の選挙運動組織を絶対に必要とした。
本当にボリシェヴィキ独裁政権打倒の武装蜂起・反乱をするのであれば、最初から、いくつかの常識的な作戦と戦闘体制をとったはずである。というのも、クロンシュタットは、そもそも、戦艦2隻を含むバルチック艦隊の武装した兵士ソヴィエトだったからである。
(1)、決定的な証拠は、フィンランド湾の氷結が融ける4、5月でなく、5万人の政府軍が氷上を渡って攻撃できる2、3月に、15項目綱領・要求を採択したことである。氷が融けている時期なら、軍艦2隻を含むバルチック艦隊が自由に動き、攻撃を阻止できた。食糧も確保できた。
(2)、政府軍からクロンシュタットへの砲撃基地となった南対岸のオラニエンバウムという戦略拠点を占領しようとしなかった。そこには、当時、クロンシュタット水兵支持の将校・赤軍がいた。そこに進撃していれば、コトリン島とオラニエンバウムという2つを拠点として、ペトログラード労働者のストライキ総決起と連携することができた。
(3)、クロンシュタットの外部にいる社会主義他党派、外国亡命者、国外勢力からの軍事支援申し出が多数あった。しかし、臨時革命委員会は、それらをすべて断った。そして、レーニンにたいし、平和的合法的な要請をするという姿勢を貫いた。たしかに、帝政将校のコズロフスキー将軍は、クロンシュタットにいた。しかし、それは、レーニン、トロツキーが、赤軍強化のための軍事路線として、旧帝政将校を軍事専門家として活用するという方針に転換し、彼ら自身がクロンシュタットに砲術専門家として任命・配置したからある。トハチェフスキーも同じく旧帝政将校だった。コズロフスキーは、クロンシュタット事件において、何の役割も果していない。
〔第1段階〕の2月28日から3月6日の7日間、臨時革命委員会の方針・行動実態は、武装反乱・蜂起ではない。その性格は、自由で平等な新選挙を求めるという平和的合法的な要請だった。臨時革命委員会は、逮捕したボリシェヴィキ幹部数人を含め、最後まで誰一人殺さなかった。クロンシュタットには、ボリシェヴィキ党員が、水兵5000人の集団脱党後も、まだ2000人いた。
ボリシェヴィキ党員の彼らは、自由に行動できた。それだけでなく、そのほとんどが、臨時革命委員会を支持し、自由で平等なソヴィエト新選挙の実現を目指して積極的に活動した。それは、転載した別ファイルの5人や資料ファイルの数人が、さまざまなデータで証言している。とりわけ、ヴォーリン『クロンシュタット1921年』が、手紙11通を載せ、生き生きとした情景によって、それを証明している。
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』事件の全経過、臨時革命委員会支持の手紙11通
〔第2段階〕の3月7日、レーニンは皆殺し対応を選択した。そして、トロツキーは砲撃命令を下した。彼らは、ペトログラード労働者の山猫ストライキ武力鎮圧とストライキ指導者500人即時銃殺と同じく、一度も臨時革命委員会と平和的交渉をしようともしなかった。軍事人民委員トロツキーは、旧帝政将校トハチェフスキーを皆殺し作戦の指揮官に任命した。3月18日までの11日間、臨時革命委員会とクロンシュタット水兵・労働者たちは、降伏しなかった。戦いの性格は、防御的反撃のレベルだった。
トハチェフスキー指揮の赤軍5万人は、(1)遠隔地から急遽動員された赤軍、(2)ボリシェヴィキ党員軍、(3)ボリシェヴィキ士官学校生徒(クルサントゥイ))軍で構成されていた。(4)、レーニン・トロツキーは、ペトログラード守備隊や近隣部隊を、クロンシュタットに同調し、寝返る危険が高いとして、攻撃軍から排除した。
クロンシュタット攻撃を命令された赤軍兵士たちは、15項目綱領内容を知りたがった。革命の栄光拠点・クロンシュタット赤軍水兵を皆殺しにせよという命令にたいして、革命仲間の赤軍は動揺した。ペトログラード近辺の赤軍兵士は、部隊丸ごとで出動を拒否したり、氷上攻撃中にクロンシュタット側に寝返った。そこで、トロツキーとトハチェフスキーは、寝返る赤軍部隊を、背後から機関銃で、全員射殺するよう命じた。フィンランド湾の氷上には、クロンシュタット側の防御的反撃で撃たれた赤軍兵士とともに、寝返ろうとして背後からの機関銃で味方に殺された兵士たちが、入り混じって倒れていた。
砲撃開始の翌日3月8日から、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第10回大会が開かれた。レーニンは、冒頭で、クロンシュタットについて、「白衛軍将軍の役割」と真っ赤なウソをついた。そして、党大会代議員から300人を、攻撃軍5万人部隊のコミサールとして、急遽派遣した。彼らは、レーニンのウソを宣伝しつつ、「白衛軍の豚」「反革命の豚」を皆殺しにするよう政治宣伝活動を行った。それと同時に、彼らボリシェヴィキ政治委員たちは、攻撃軍部隊の動揺阻止、寝返り兵士の射殺任務も遂行した。派遣された代議員の内、15人が死亡した。
赤軍5万人は、コトリン島の四方から氷上を突撃して、市街戦になってもたたかった水兵・労働者を虐殺した。レーニンによる皆殺し対応の実態は、下記(表2)や2枚の3DCGの通りである。水兵・労働者たちは、防御的反撃をする中で、ペトログラード労働者が連帯して総決起しないかと、待ち望んだ。
しかし、レーニン、ジノヴィエフ、トロツキーらは、(1)ペトログラード革命労働者の山猫ストと(2)クロンシュタット事件が連携すれば、(3)革命農民の全国的総反乱とも結合し、暴力のみに依存した少数派・クーデター政権が即時全面崩壊するとの恐怖に打ち震えていた。その分断作戦を大量殺人犯罪でやりぬくことこそが、クーデター政府の崩壊を救う唯一の道だった。彼ら3人が強行した500人即時銃殺・事前分断作戦によって、第2段階の3月7日までに、ペトログラード労働者の意気込みは粉砕されていた。
イダ・メットは、この全過程を、「last upsurge of the Soviets」=ソヴィエト最後の高揚と規定した。1921年2〜3月におけるペトログラードとクロンシュタットのソヴィエト最後の高揚と、それにたいするレーニンの大量殺人犯罪によって、ソヴィエト民主主義復活の最後のたたかいは、息の根を止められた。
Ida Mett『The Kronstadt Commune』クロンシュタット・コミューンの英語版全文
レーニン、ジノヴィエフ、トロツキーらによるソヴィエト権力簒奪行動は、この第6次クーデターにより、ついに完全な成功を収めた。そして、ソヴィエト社会主義共和国連邦=ソ連邦というソヴィエト民主主義を破壊し、プロレタリア独裁の名前を騙った党独裁体制が、1991年ソ連崩壊まで、70年間続いた。
以下、クロンシュタット事件の全経過を、3段階に分けて、詳しく検証する。
〔小目次〕
〔第1段階〕、15項目の平和的要請と、自由で平等なソヴィエト新選挙運動
〔第2段階〕、レーニン・赤軍5万人による鎮圧作戦とクロンシュタットの防御的武力抵抗
〔第3段階〕、レーニン・トロツキーによる水兵・労働者皆殺しと虐殺データ (表2)
〔第1段階〕、15項目の平和的要請と、自由で平等なソヴィエト新選挙運動
〔小目次〕
2月26日、クロンシュタット水兵がペトログラード・ストライキ調査の代表団派遣
2月28日、クロンシュタット代表団帰着と戦艦ペトロパヴロフスク乗組員の15項目要求決議
3月 1日、クロンシュタット人民大会と15項目綱領の承認
3月 2日、ソヴィエト代表者会議と臨時革命委員会の設置
2月26日、クロンシュタット水兵がペトログラード・ストライキ調査の代表団派遣
(1)、ペトログラード・ストライキ調査の代表団派遣
2月26日、ペトログラードで進行しつつあった事態のすべてに関心を寄せていたクロンシュタット水兵たちは、ストライキについての事実を知るために代表団を派遣した。
クロンシュタット代表団がペトログラードに到着したとき、彼らは工場が、(1)軍隊と、(2)士官学校生徒によって包囲されているのを見出した。いまなお稼動している作業場では、(3)武装したボリシェヴィキ党員の分隊が労働者に監視の眼を光らせており、水兵らが近づいていったとき、労働者は沈黙したままだった。さし迫ったクロンシュタット事件の指導的人物ペトリチェンコが記している。「これらは工場ではなくて帝政時代の強制労働監獄である」と。
以下は、彼が書いた調査の様子である。これを、スタインベルグ『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972年)から、そのまま引用する。
「この代表団は、直接にストライキで閉鎖された工場へ赴き、労働者自身の口から説明を求める予定だった。だが、水兵の代表たちは、予期せぬ障害に遭遇した。彼らは、外部を軍隊によって包囲され、内部を武装したチェーカー部員(チェキスト)によって埋めつくされていた。労働者たちは、当惑したような目つきをして、無目的に立ちつくしていた。工場委員会議長がクロンシュタット代表団の話を聴く集会を告げた時、労働者は誰も動きはしなかった。その代りに、俺たちは彼らを、こうした代表団を知ってるさ、というような呟きを我々は耳にした。
そこで我々は尋ねた、諸君はどうして我々と物事をざっくばらんに討論しようとしないのだ? 我々は諸君の不満の原因を知るためにやってきたのに。彼らは長い間黙りこくっていた、それから誰かが言った、俺たちは、前にも代表団に会ったんだ。でも後になって代表団を信用した者は皆、しょっ引かれちまったんだ。我々は彼らに、我々が間違いなくクロンシュタットから派遣されたのだということを証明する書類を提示した。
さあ、諸君は我々を信じてくれるな? それでもなお彼らは動こうともせず、その視線は兵士や工場委員会のメンバーに向けられていた。それで我々はすべてを理解し、もはや何も言わずに、彼らの顔をじっと見つめた。彼らの涙にうるんだ目をみていると、そのうちの幾人かの頬を涙がつたって落ちていった。我々は、最後に彼らに向かって呼びかけた、でも同志たち、我々はクロンシュタットに何と報告すれは良いのだ? 諸君は口がきけなくなってしまったのか?
遂に一人の勇敢な男が口を開くと毅然として語り出した。そうだ、俺たちは自分の舌をなくしてしまったし、記憶もなくしてしまった。俺はあんた方がここからいなくなったら、俺の身の上に何が起るかを承知している。それでも、あんた方がクロンシュタットからやってきている以上は、しかも奴らが俺たちを、クロンシュタットの名前を使って脅迫し続けている以上は、あんた方は本当のことを、つまり、俺たちは飢えさせられているってことを知らなきゃいけない。俺たちには着る物も靴もない。俺たちは、精神的にも肉体的にもテロられているんだ。ペトログラードの監獄を見に行って、この三日間にどれほど多くの俺たちの仲間が逮捕されたのかを知ってほしい。それだけじゃない、同志たち、ボリシェヴィキ(コミュニスト)の奴らに――あんたらは俺たちの名前のかげに長い間隠れてきたが、もうたくさんだ!――って言ってやる時がきたんだ。自由に選出されたソヴィエト万歳!」(P.254)。
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』ペトリチェンコの証言
この代表団は、数多くの工場を訪れて回り、28日にクロンシュタットに帰着した。彼らは目撃した光景への憤慨に満ちて、クロンシュタットへもどり、戦艦ペトロパヴロフスク艦上での歴史的集会において彼らの知ったことを提示した。
(2)、当局における政権崩壊の恐怖感
ペトログラード・ソヴィエト執行委員会は、以後の行動を検討するため特別会議を開いた。バルト艦隊コミッサール・クジミーンが、ペトログラードのすぐ沖にあるクロンシュタットに碇泊している戦艦の乗組員の中に不穏な動きがあることを報告した。そして、水兵らの高まりつつある怒りに注意を促し、もしストライキの継続が許されるなら、クロンシュタットでも爆発が起きるかもしれないと警告した。(1)ペトログラードの全工場労働者、(2)ペトログラード守備隊兵士、(3)クロンシュタットの武装した水兵などの3つの勢力が、ボリシェヴィキ政権に反対して連携し、同時決起すれば、レーニン党独裁クーデター政府の即時崩壊を引き起こす。
2月28日、クロンシュタット代表団帰着と戦艦ペトロパヴロフスク乗組員の15項目要求決議
2月28日、ペトログラード・ストライキ調査代表団の報告に基づき、戦艦ペトロパヴロフスクの乗組員は、ペトログラード・ストライキと鎮圧についての事態を討議した。そして、以下のような決議を採択した。クロンシュタット水兵10000人が行動に入ったのは、正確には、この2月28日からだった。
「艦隊乗組員総会によってペトログラードにおける状況を把握するために派遣された代表団の報告をきいた結果、水兵たちは以下のことを要求する――
(1) ソヴィエト再選挙の即時実施。現在のソヴィエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。
(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。
(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。
(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
(5) 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
(6) 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。
(7) 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝に関して特権を有するべきでなく、また、この目的のために国庫補助金を受けるべきではない。政治部の代りに、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。
(8) 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。
(9) 危険な職種および健康を害するに職種についている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。
(10) すべての軍事的グループにおける、党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における、党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。
(11) 自ら働き、賃労働を使用しないという条件の下での、農民にたいする自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。
(12) われわれは、全軍の部隊ならびに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。
(13) われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。
(14) われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。
(15) われわれは、賃労働を使用しないという条件の下での、手工芸生産の認可を要求する。」
この決議を、ついで全クロンシュタット水兵総会が、また赤衛軍の多数の部隊も、賛成した。さらにこの決議を、クロンシュタットの全労働者大会も賛成した。そしてこれが、クロンシュタット事件の政治的綱領・要求となった。
3月1日、クロンシュタット人民大会と15項目綱領の承認
3月1日、錨広場で人民大会が開かれた。それはバルチック艦隊の第一、第二戦隊によって招集され、クロンシュタット・ソヴィエトの機関紙に告知された。同日、全ロシア中央執行委員会議長カリーニンとバルチック艦隊の人民委員クジミーミンがクロンシュタットに着いた。カリーニンは軍礼と軍楽隊と、ひるがえる軍旗に迎えられた。
1万6千の水兵と赤軍兵士と労働者がこの集会に参加した。議長はクロンシュタット・ソヴィエト執行委員長ヴァシーリエフだった。カリーニンとクジミーンも出席した。ペトログラードへ送られた代表たちが報告を行った。
大会は、ペトログラード労働者の正当な熱望を押し殺す共産主義者のやり方を、怒りをこめて非難した。つづいて戦艦ペトロパヴロフスクがすでに可決している決議が上程された。討議の際、カリーニン議長とクジミーン人民委員はその決議とペトログラードのストライキとクロンシュタットの水兵を非常にはげしく攻撃した。しかし、彼らの弁説は役に立たなかった。ペトロパヴロフスクの決議は、ペトリチェンコという名の乗組員によって提案され、2人を除く、ほぼ満場一致で承認された。反対者は、クロンシュタット・ソヴィエト執行委員長ヴァシーリエフとバルチック艦隊付政治委員クジミーンの2人だけだった。クロンシュタット・ソヴィエト内には当時2000人のボリシェヴィキ党員がいた。ソヴィエト議長と政治委員2人を除いて、他の全ボリシェヴィキ党員が決議に賛成したという党内状況になっていた。
クジミーン人民委員は次のような言葉でこのことを記している。決議はクロンシュタットと守備隊の圧倒的な多数で決定された。それは約1万6千の市民の出席した3月1日の市総会に提出され、満場一致で可決された。クロンシュタットの執行委員長ヴァシーリエフと同志カリーニンはその決議に反対投票をした(『知られざる革命』P.39)。
翌2日、クロンシュタット・ソヴィエトの代表者会議が3000人以上の参加で開かれた。大会の任務は、ソヴィエト執行委員会の任期が3月に終わるのを受けて、クロンシュタット・ソヴィエトの新選挙のやり方を決めることだった。官僚的なボリシェヴィキ人民委員の独断的制度に陥っているソヴィエトを、自由で平等な新選挙によって、「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というシステムを取り戻すことだった。
ちなみに、スローガンが、「すべての権力をソヴィエトへ、ボリシェヴィキ抜きで」だったという説もある。しかし、それは、ヨーロッパ亡命の白衛軍が流したもので誤りである。「政党にではなく」というスローガンは、一党独裁のソヴィエトでなく、特定の政党に占拠されないソヴィエト執行委員会を意味した。以後取り組まれた実際の新選挙運動は、ボリシェヴィキを含めあらゆる政党・党派の党員たちが、どこからも排除されず、自由で平等に活動した。
討論において、クジミーン人民委員は「もし君たちが戦争を初めようと望むなら、始めるがいい。ボリシェヴィキは決して政権を譲りはしないから。最後の一人まで戦う」と、挑発する演説をした。当然、彼は、ボリシェヴィキとチェーカー、クルサントゥイによるペトログラード労働者の山猫ストライキ大弾圧とストライキ指導者500人即時銃殺事実を踏まえて、水兵たちを脅迫したのだった。
そのとき、ボリシェヴィキの15の武装部隊が、会場に進軍中という情報がもたらされた。大会は、ボリシェヴィキ独裁ソヴィエトに変質した代表機関に替わるものとして、新選挙を行なう目的のクロンシュタット臨時革命委員会の設置を決定し、その代表を選んだ。そして、挑発・脅迫をした人民委員クジミーンとソヴィエト議長ヴァシーリエフを逮捕した。
この時点においても、クロンシュタット水兵たちは、ボリシェヴィキ一党独裁政権との平和的交渉を望んでいた。15項目の要請行動を平和的に行なう意図だった。ただ、1918年6月14日ソヴィエトからの他党派追放というレーニンのソヴィエト権力簒奪第4次クーデター以後、すべてのソヴィエトは、ボリシェヴィキ独裁で、執行委員会はボリシェヴィキ党員に占拠されていた。クロンシュタット・ソヴィエトも同じであった。人民委員とソヴィエト議長が、平和的要請決議に挑発と脅迫で応えたからには、ソヴィエト新選挙と15項目交渉をする上では、臨時革命委員会を設置するしかなかった。しかし、臨時革命委員会の設置は、まだ武力反乱という段階ではない。
〔第2段階〕、レーニン・赤軍5万人による鎮圧作戦とクロンシュタットの防御的武力抵抗
〔小目次〕
3月2日、レーニン、トロツキーが出した「クロンシュタット鎮圧命令」
3月3日、臨時革命委員会新聞『イズヴェスチヤ』第1号発行、訴え・論評、手紙の掲載
3月5日、トロツキーの最後通牒
3月2日、レーニン、トロツキーが出した「クロンシュタット鎮圧命令」
レーニン、トロツキー、ジノヴィエフは、ペトログラード労働者の山猫ストライキ鎮圧に、ムチとアメ作戦によって成功しつつあり、ストライキ指導者500人即時銃殺を遂行中だった。それだけに、クロンシュタット水兵との交渉を全面拒否し、即座の弾圧・皆殺し対応を決めた。レーニン、トロツキーが出した、3月2日の「クロンシュタット弾圧命令」を、スタインベルグ『左翼社会革命党1917〜1921』(鹿砦社、1972)から、そのまま引用する。
ボリシェヴィキは、譲歩することなど考えもしなかった。ボリシェヴィキ内のイニシアティヴは、すでに(1)地方的独裁者ジノヴィエフの手から、(2)レーニンとトロツキーの中央権力へと移っていた。そしてモスクワにおいて、彼らはすばやく自分たちの闘争手段を準備した。早くも三月二日、レーニンとトロツキーは、邪悪な嘘言と中傷に満ちた公式声明に署名し、これを発表した。彼らは、クロンシュタットの運動を暴動と呼び、水兵たちを「社会革命党の裏切者どもと結託してプロレタリア共和国に対して反革命的陰謀を画策しつつあるかつての帝政派将軍どもの手先」と呼んだ。
つづいて、ロシア人民および全世界に、以下の如き《純然たる》真実を知らせるために彼らの命令が出された。
「二月二八日、ペテロ=パウロ乗組員は、黒百人組(かつての君主主義的ギャング)の精神を体現している決議を採択した。それから、前将軍コズロフスキーが前面に登場した。かくして、帝政派将軍が今一度、社会革命党の尻押しをつとめている。この全ての事に鑑み、労働・防衛会議は――
(1)、コズロフスキーとその援助者を非合法化すること
(2)、ペトログラード管区を戒厳令下に置くこと
(3)、最高権限をペトログラード防衛委員会の手に与えること、を命令する」。
(原註) コズロフスキー将軍はボリシェヴィキ政府によってクロンシュタットに任命配属されていたのであり、叛乱に際しては、いかなる役割をも果していなかった(P.259)。
『The Truth about Kronstadt』 『Kronstadt
Uprising』
3月3日、臨時革命委員会新聞『イズヴェスチヤ』第1号発行、訴え・論評、手紙の掲載
これらの内容の詳細は、ヴォーリン『知られざる革命、クロンシュタット1921年』が、もっとも詳しく載せている。その特徴は、自由で平等なソヴィエト新選挙を実現しようとする熱烈な感情である。そこに、11通の手紙があるが、赤軍将校、現ボリシェヴィキ党員、教員たちが、臨時革命委員会の行なおうとする(1)新選挙と(2)15項目綱領を支持しているかが、よく分かる。
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』事件の全経過、11通の手紙
3月5日、トロツキーの最後通牒
次の日の3月5日、トロツキーはクロンシュタットへの最後通牒を発した。それはクロンシュタットヘラジオを通じて伝えられたし、また代表を送ることに関するふたつの電報と同じ号の『イズヴェスチヤ』にも発表された。当然、代表を送る件についての交渉もすぐぶちこわしになった。ここにトロツキーの最後通牒の全文がある。
「労農政府は、クロンシュタットおよび反逆している戦艦に対して、ただちにソヴィエト共和国の権力に服従すべき命令を出した。それに従って私は、社会主義の祖国に対して反旗をひるがえすものすべてに、即刻、武器を放棄するよう命ずる。強情に抵抗しつづける者は武装を解除されて、ソヴィエト当局へひきわたされるであろう。逮捕された執行委員とその政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降服するものだけが、ソヴィエト共和国の慈悲にあずかり得るであろう。
同時に私は武力をもって暴動を鎮圧し、反徒を平定すべき命令を発する。平和な民衆がうけるかもしれない損害の全責任は、反革命反徒にあるであろう。これが最後の警告である。
共和国革命軍事委員会議長 トロツキー
最高司令官 カーメネフ」
この最後通牒につづいて「お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ」というトロツキーの指令が出された。
3月6日までは、ボリシェヴィキ政権との戦闘は起きていない。
7日、ボリシェヴィキ政権による最初の砲撃が始まった。
7、8日、第一次攻撃は、クロンシュタット臨時革命委員会の防御的反撃に出会って、政権軍は敗退した。
8日から16日、レーニンら政治局は、第10回大会を開いた。
16、17日、トハチェフスキー指揮の赤軍5万人が、氷結したフィンランド湾の四方から、水兵1万人・基地労働者4千人にたいし総攻撃をかけた。
18日、レーニン・トロツキーは、クロンシュタット反乱を鎮圧した。
フィンランド湾氷上を突撃する赤軍 反乱者殺害・一掃の戦闘をする赤軍
『Kronstadt Uprising』imagesからの写真2枚
この戦闘・鎮圧経過は、HPに転載したP・アヴリッチ、イダ・メット、スタインベルク、ヴォーリン、ベルクマンら5つの〔関連ファイル〕にある。よって、ここでは書かない。
地図の□印は、クロンシュタット側の海上堡塁。右図の赤矢印は、三月七、八日の
第一次攻撃だが、壊滅的な損害で退却。黄色基地と矢印は、三月一六〜一七日
の南北からの第二次総攻撃で、氷結した湾内の堡塁を占領し、市街戦で鎮圧した
P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』事件の全経過、14章全文転載
ヴォーリン『クロンシュタット1921年』事件の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
クロンシュタット15項目綱領の冒頭5項目が暴露したもの
クロンシュタット事件とは、何だったのか。〔関連ファイル〕として転載した5人は、ソ連崩壊前の分析である。崩壊後の文献は、ニコラ・ヴェルトによる若干の研究結果しかない。それらを合わせて、15項目綱領の性格を再検討する。事件の本質を、この15項目が照らし出しているからである。項目別の分析は、P・アヴリッチとイダ・メットが行なっている。私は、ここで、ソヴィエト・システムとその選挙問題を中心に検討する。
1917年10月25日(新暦11月7日)、(1)ペトログラード・ソヴィエト労働者と(2)クロンシュタット・ソヴィエト水兵の大部分は、各ソヴィエト内のエスエル、メンシェヴィキ党員を除いて、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを支持した。彼らは、レーニンの(1)政権公約「すべての権力をソヴィエトへ」と、(2)政策公約「土地・平和・パン」という4つの全面実行を信じたからである。(3)土地革命を、政党の助けを借りず、自力で成し遂げた80%・9000万農民も、レーニンがエスエル政策を剽窃した土地社会化法で事後承認したので、一党独裁ボリシェヴィキ政権を支持していた。
労働者・農民・兵士ソヴィエトのレーニン政権にたいする政策的支持関係は、5カ月間続いた。その期間のソヴィエト選挙は、二月革命以来の自由で平等な選挙スタイルだった。しかし、(1)1918年4月29日全ロシア中央執行委員会におけるレーニン、スヴェルドルフ、トロツキーらによる食糧問題での農民・農村にたいする内戦路線を開始する宣言、(2)5月13日食糧独裁令と労働者食糧徴発隊組織化、貧農委員会組織化という内戦戦術の具体的開始、(3)6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定とボリシェヴィキ惨敗ソヴィエトのチェーカーを使った武力解散という一連の行為は、まさにソヴィエト権力を簒奪する連続クーデターだった。
そのクーデターは、労働者・農民・兵士すべてをして、一挙に、ボリシェヴィキから顔をそむけさせた。彼らは、4つの政権・政策公約を支持しただけで、レーニンのプロレタリア独裁理論や市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論などという革命理論を支持したわけでなかったからである。
以後、1921年2月までの2年8カ月間、レーニンによって権力簒奪されたソヴィエトの選挙は、自由で平等な選挙でなくなり、全他党派党員の被選挙権が事実上剥奪された。ボリシェヴィキ秘密政治警察チェーカーは、レーニンの強化策・豊富な資金投入によって28万人体制に増幅させられた。チェキスト(チェーカー要員)は、ジェルジンスキー命令を受けて、次々とボリシェヴィキ惨敗ソヴィエトを武力解散させ、後釜にボリシェヴィキ党員を据えた。
ソヴィエト執行委員会選挙は、自由のない平等を奪われた選挙となり、全国の各級ソヴィエト執行委員会は、ボリシェヴィキ党員だけで構成された。労働組合とあらゆる社会団体も、ボリシェヴィキ独裁の下部国家機関に変質させられた。それにたいして、各地で、残存する社会主義他党派党員や労働者・農民・兵士は、ソヴィエト再選挙要求を出したが、レーニンとボリシェヴィキは再選挙を拒否し続けた。こうして、自由で平等なソヴィエト新選挙という要求とその要請行動が、連続クーデター政権と革命労働者・革命農民・革命兵士との間における決定的な対立点に浮上してきた。
ソ連全土で、別ファイル『第3部』『第5部』(表)のように、労働者・農民・兵士の総反乱が発生した。しかし、レーニンは、スイス長期亡命中に、パリコミューンがなぜ敗北したのかという経験を徹底して研究した。そして、暴力革命によって権力奪取をした後こそ、反革命・人民の敵を赤色テロルで大量殺人をしなければ、プロレタリア独裁政権は崩壊するという一面的、かつ極端に歪曲した教訓を、1917年4月帰国時点に持ち込んでいた。彼は、帰国後、わずか7カ月間で、広大なロシアの絶対的最高権力を手に入れた。レーニンが密かに持ち帰った反革命分子・人民の敵の大量殺人という強烈な意志と、ボリシェヴィキ秘密政治警察28万人という国家暴力装置の赤色テロルを前にして、自然発生的で地方分散的な反乱は無力で、次々と各個撃破で鎮圧された。
何度鎮圧されても、各地の労働者・農民・兵士の反乱は、(1)経済要求とともに、(2)ソヴィエト新選挙などのソヴィエト民主主義要求を掲げ続けた。それらの経済要求・ソヴィエト民主主義回復要請反乱の総集約点として、ついに、革命拠点のペトログラード革命労働者とクロンシュタット革命水兵が決起したのが、1921年2月22日から3月18日の25日間だった。
15項目綱領の上から5項目の政治的要求だけを見てみる。他10項目は、政治要求もあるが、経済要求が多い。これらを文章化したのは、クロンシュタット水兵たちだが、それは、2月22日からのペトログラード労働者の山猫ストライキが掲げた要求をまとめたものである。よって、5項目は、ペトログラード労働者とクロンシュタット水兵・基地労働者とが完全一致した共通要求だった。
(1) ソヴィエト再選挙の即時実施。現在のソヴィエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この再選挙は、自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行なわれるべきである。
(2) 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党にたいする言論と出版の自由。
(3) 労働組合と農民組織にたいする集会結社の権利およびその自由。
(4) 遅くとも一九二一年三月一〇日までに、ペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
(5) 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
これら5項目すべては、ボリシェヴィキによって剥奪されているソヴィエト民主主義を復活させよという要求である。それらは、1921年2〜3月時点のソヴィエト民主主義の破壊実態が、おそるべき惨状になっていることを暴露している。(1)自由で秘密投票をする選挙になっていない。再選挙要求がボリシェヴィキによって拒否されている。(2)言論・出版の自由がない。(3)集会結社の権利と自由がない。(4)非ボリシェヴィキ党員の組織が禁止されている。(5)多数の政治犯が逮捕されたままで、釈放されない。
レーニンは、プロレタリア民主主義は、ブルジョア民主主義の百万倍も民主的であると力説した(レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』P.262)。しかし、これらの要求は、ソヴィエト民主主義の復活というだけでなく、この実態がブルジョア民主主義レベル以下になっていることを暴露した。15項目綱領・要求は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターが、プロレタリア独裁という虚構看板の本質であるボリシェヴィキ党独裁の下に、ソヴィエト民主主義を完全に破壊したことを、稲妻のように照らし出した。
ただ、2月28日から3月6日までの第2段階において、クロンシュタット水兵・基地労働者は、15項目綱領に基づいて、レーニンや軍事人民委員トロツキーらと平和的な交渉をすることを望んでいた。また、レーニンらがその合法的平和的要請に応じるだろうと判断していた。そのレーニンにたいする評価・判断は、彼らの甘さとも言える。しかし、経済要求はともかく、クロンシュタット綱領冒頭5項目の政治的要求がボリシェヴィキ党独裁権力の存立基盤を覆し、政権崩壊を引き起こすレベルとは考えなかったのか。「すべての権力をソヴィエトへ、政党にではなく」というクロンシュタットのスローガンは、ソヴィエト権力簒奪連続クーデター指導者レーニンの存在そのものを否定するものだった。言いかえれば、レーニンのクーデター政権は、二月革命以来のソヴィエト民主主義を復活させれば、即座に、政権崩壊してしまうレベルにまで腐敗していたと規定できよう。
〔第3段階〕、レーニン・トロツキーによる水兵・労働者皆殺しと虐殺データ (表2)
〔小目次〕
1、ソヴィエト権力簒奪6連続クーデター総仕上げとしての皆殺し対応
2、トロツキーがクロンシュタット事件鎮圧・皆殺しで果した役割のウソと真実
4、クロンシュタット事件の死傷者・処刑数の判明分 (表2)
1、ソヴィエト権力簒奪6連続クーデター総仕上げとしての皆殺し対応
レーニン、ペトログラード・ソヴィエト議長ジノヴィエフは、歴史的な革命拠点ペトログラードの全市的労働者山猫ストにたいし、一度も要求を話し合う態度を採らなかった。最初から、大量逮捕、工場ロックアウト、全市戒厳令で応えた。山猫ストライキ参加労働者5000人を逮捕した。ストライキ指導者500人を即座に銃殺した。ソ連全土でメンシェヴィキ党員5000人を逮捕した。
彼らは、(1)ペトログラード労働者、(2)ペトログラード守備隊と(3)クロンシュタット水兵とが連帯すれば、二月革命と10月単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターの革命拠点勢力の矛先が、今度は、ボリシェヴィキ党独裁クーデター政権打倒に向けられるのではないかという恐怖に打ち震えた。
革命労働者・革命水兵にとって、もはや、「プロレタリア独裁国家の成立」という「党独裁」の本質を覆い隠すイチジクの葉っぱは、完全に枯れ落ちた。レーニンによるそのウソ・詭弁を労働者・水兵が信じなくなったとき、彼らはどう動くのか。
しかも、ペトログラードより早く、クロンシュタットでは、1921年1月、水兵5000人が軍隊内のボリシェヴィキ政治部のやり方に抗議して、ボリシェヴィキから脱党していた。2月、水兵ボリシェヴィキ党員会議が、政治部にたいして強烈な非難決議を突き付けていた。ペトログラードとクロンシュタットの革命運動における歴史的な連帯関係を見れば、2つが結合すると、ソ連全土で、レーニンのソヴィエト権力簒奪6連続クーデター政権にたいする同時多発反乱に発展することは必然だった。クロンシュタット決起の前に、なにがなんでも、ペトログラード山猫ストライキを武力鎮圧し、クロンシュタットと事前分断する必要があった。
レーニン、軍事人民委員トロツキー、バルト艦隊人民委員クジミーンらは、クロンシュタットの15項目綱領にたいしても、平和的要請として交渉する意志は最初からなかった。なぜなら、冒頭5項目の政治的要求は、すでに党独裁権力となって腐敗したレーニンのソヴィエト民主主義破壊クーデター政権を崩壊させるレベルのソヴィエト民主主義復活要求だったからである。
しかも、その綱領は、党独裁政権下の政治生活実態が、ブルジョア民主主義以下という自由と権利剥奪レベルになっていることを、1億1250万労働者・農民・兵士と全世界に、稲妻の閃光のようにさらけ出した。しかも、80%・9000万全農民反乱や労働者山猫ストライキと違って、軍艦2隻を含む完全武装赤軍の、かつ、革命の栄光拠点バルチック艦隊水兵の15項目綱領は、平和的合法的要請段階といえども、瞬時に殲滅しなければ、党独裁政権の崩壊は、目に見えていた。レーニン、トロツキーらにとって、(1)平和的交渉か、それとも、(2)皆殺し対応かで、後者の選択肢しかなかった。
レーニン、トロツキーは、政権崩壊の恐怖とともに、革命勢力内部におけるクロンシュタットへの親近憎悪にも駆られて、クロンシュタット水兵・基地労働者14000人の皆殺し対応を決断した。レーニンは、3月8日から16日まで、モスクワで、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第10回党大会を開いていた。レーニンは、クロンシュタット平和的要請行動にたいして、白衛軍将軍の役割と真っ赤なウソをついた。そして、皆殺し作戦のために、党大会代議員300人を軍事コミッサールとして、クロンシュタットに派遣した。
当時、党内論争をしていた労働者反対派は、トロツキー提唱の「労働の軍事規律化」に猛反発し、労働組合の国家権力からの自立を要求していた。その要求レベルは、ペトログラード山猫ストライキ労働者やクロンシュタット水兵の要求と共通点が多かった。しかし、彼ら分派メンバーは、一党独裁クーデター政党の党員だった。ソヴィエト権力簒奪の党独裁政権崩壊の最大危機に直面して、彼らも、クロンシュタット水兵皆殺し作戦に賛成した。その一部は、クロンシュタット鎮圧の代議員300人に加わった。レーニンが、3月16日党大会最終日に、突如提案した「分派禁止規定」にも賛成した。
2、トロツキーがクロンシュタット事件鎮圧・皆殺しで果した役割のウソと真実
事件鎮圧後、トロツキーが軍事人民委員・革命軍事評議会議長として、事件鎮圧・14000人皆殺しにおいてどのような役割を果したのかが問題になり、国内外から強烈な批判が出された。彼は、亡命後の1937年・38年、クロンシュタット事件に関する『3論文』を発表した。なかでも、3番目の『再びクロンシュタット鎮圧について』論文において、自己の具体的役割をほぼ全面否定した。『3論文』全文は、イダ・メット『クロンシュタット叛乱』(鹿砦社、1971年、絶版)が、資料(P.131〜162)として載せている。
P・アヴリッチは、『クロンシュタット1921』(P.277)で、トロツキーのウソを暴き、彼の鎮圧行動を具体的に証明した。
一九二四年、レーニンは逝き、そしてボリシェヴィキ指導部は激烈な権力闘争のなかへ突き入れられた。三年後、中央委員会が、党の統一にかんする第一〇回大会決議の秘密条項に訴えて、トロツキーを党から追放し、その後まもなくかれを亡命へと追いやったとき、クライマックスが訪れた。皮肉にも、トロツキーがスターリンの圧制と官僚主義に対抗してかれ自身の反対派を形成したとき、クロンシュタットの亡霊が反乱の粉砕におけるかれの役割を想起した自由奔放の社会主義者によってかれに向かって呼び起こされた。
その批判者に答えて、トロツキーはかれが(1)直接には巻きこまれていなかったことを示そうとした。「その問題の事実は」、とかれは一九三八年に書いた、(2)「わたし個人としては、クロンシュタット蜂起の鎮圧においても続く抑圧においても、いささかの役割をも果さなかったということである」。(3)事件の間中、自分はモスクワにとどまっていた、とかれはいい張った。(4)ジノヴィエフがペトログラートにおける問題を取り扱っており、そして抑圧は、いかなる方面からも干渉を受けなかったジェルジンスキーを長とするチェカの仕事であった。
いずれにせよ、とかれはいった、(5)反乱は粉砕されなければならなかったのだ。理想主義者は革命を「ゆきすぎ」といってつねに非難しているが、それらは事実「それ自体歴史の『ゆきすぎ』である、革命の性質そのものから流れ出る」のである。(6)クロンシュタットは、「社会革命の苦難とプロレタリア独裁の厳しさにたいする小ブルジョワジーの武装反動」以外のなにものでもなかった。もしボリシェヴィキが迅速に行動しなかったとしたら、反乱はかれらをぐらつかせ、反革命の水門を開いたことだろう。わたしの批判者は政府にたいしてみずからを防衛したりみずからの軍隊に規律を課したりする権利を否定しているのだろうか。いかなる政府がそのまっただなかにおける軍隊暴動を黙認しえたろう。われわれはわれわれの権力をたたかうこともなく風にまかせるべきであったのか。(7)ボリシェヴィキがクロンシュタットにおいておこなったことは「悲劇的必要」であったのだ、とトロツキーは結論した。
だが、かれの批判者は納得させられなかった。その主張の一切とは逆に、(1)トロツキーは、軍事人民委員ならびに革命軍事評議会議長として、クロンシュタットの鎮圧のため全般的責任を行使したのだ。(2)かれは実際、ペトログラードへゆき、その地で三月五日の最後通牒を発した。(3)かれはまた、オラニエンバウムとクラースナヤ・ゴルカにも訪れ、そしてジノヴィエフとトゥハチェフスキーの役割ほど決定的なそれではなかったにせよ、共産党の軍事的準備を督励するうえで小さくない役割を演じた。(4)そのうえ、ドワイト・マクドナルドが指摘したように、トロツキーはボリシェヴィキが反乱を不必要なまでの非妥協性と残忍さで取り扱ったという非難にけっして答えてはいなかった。
かれらはどれほど真剣に平和的解決に到達しようと努めたのか。たとえ白軍が党内の分裂から利益を得るであろうということが本当であったとしても、大衆の圧力から絶縁された、気密の独裁制の危険性はさらに大きくさえなかったか。スターリン派徒党は、もし党が大衆により大きな参加を、左翼反対派により大きな自由を許していたなら、党の統制権をかくも容易に纂奪することができたであろうか。
だが、たしかであるのは、革命が一九二一年に滅びたということである。
結局、クロンシュタットにおける勝利者は、かれらが創り出すのを助けた体制の犠牲に陥ったのであった。トロツキーとジノヴィエフは故意に反革命をそそのかした「人民の敵」として破滅させられた(P.277)。
P・アヴリッチは、ソ連崩壊前の1970年、ロシア革命が1921年に滅びたと明記した。ソ連崩壊後では、ロイ・メドヴェージェフ、ニコラ・ヴェルト、梶川伸一らが、ロシア革命の終焉を、1921年3月と規定した。ただ、同じ3月にしても、(1)クロンシュタット事件鎮圧と(2)「ネップ」のどちらを終焉の指標にするかで、やや重点の置き方が異なる。私は、ソヴィエト権力簒奪の第6次クーデターであるクロンシュタット事件鎮圧・革命水兵ら14000人皆殺しでもって、ロシア革命=ソヴィエト革命がレーニン・トロツキーらによって息の根を止められたと判断している。
3、レーニン指令による皆殺し対応の3つのデータ
1991年のソ連崩壊後、レーニン指令による大量殺害データが、3つ発掘された。
〔皆殺し対応のデータ1〕、銃殺・死刑・強制収容所送り
ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』(恵雅堂、2001年)が、ソ連崩壊後の衝撃的なデータを載せた。「作戦は三月八日に開始された。十日目にクロンシュタットは双方数千の犠牲を出して陥落した。反乱の鎮圧は容赦ないものだった。敗北後、投獄されていた何百人もが銃殺された。最近公刊された史料によれば、一九二一年四月〜六月だけで二一〇三人が死刑、六四五九人が強制収容所へ収監となった。
クロンシュタット陥落の直前に約八〇〇○人が凍った広い湾を越えてフィンランドへ逃げ延びたが、結局彼らはテリオキ、ヴィボルグ、イノの移送収容所に強制的に収監された。彼らのうち大赦の約束に騙されてロシアに帰った者は、ただちに逮捕されてアルハンゲリスク近くの最も忌まわしい収容所であるソロフキ島とホルモゴールイに送られた。アナキスト系の史料によれば、ホルモゴールイに送られた五〇〇〇人のクロンシュタットの拘留者中、一九二二年春まで生き延びた者は一五〇〇人以下であった。同年、移送特別委員会は、事件の時、要塞にいたというだけで、二五一四人のクロンシュタット市民をシベリアに送ったのだった!」(P.124)
『共産主義黒書』クロンシュタット反乱者たちを集団溺殺 「ドヴィナ河畔のホル
モゴールイの収容所は、多くの収容者を手早く処分することで、悲しい名声を
轟かせていた。平底船で上陸した囚人は首に石を、両手に手枷をつけられて、
川に投げ込まれた。この集団溺殺は一九二〇年の六月に、ミハイル・ケドロフ
というチェーカーの指導者によって始められた。一致した証言によると、ホルモ
ゴールイに運ばれてきた多くのクロンシュタットの反乱兵やコサックやタンボフ県
の農民が、一九二二年にドヴィナ川で溺殺されたに違いなかった。」(P.124)
H・カレール=ダンコースは、『レーニンとは何だったか』(藤原書店、原著1998年)において、次の事実を発掘・公表した。
第十回大会の翌日に、ジェルジンスキーは、クロンシュタットの生き残りを「ウフタの犯罪者収容所」へ送ることを示唆した。彼は、レーニンとの合意によって、ホルモゴールイに「犯罪者収容所」を建設し、強制収容所の世界を拡大する決定を下した。ネップに転換したその裏で、強制収容所は多数の収容所に枝分かれしていった。ジェルジンスキーは、その拡大にともなって、国家や官庁や工場で雇われているメンシェヴィキやアナキストや社会革命党員たち全員を逮捕させた(P.547)。
アン・アプルボームは、『グラーグ−ソ連集中収容所の歴史』(白水社、原著2003年)を出版し、ピュリツァー賞を受賞した。そこに、レーニン時代の収容所データを、次のように載せた。
赤色テロルはレーニンの権力闘争の重要な一環だった。集中収容所、いわゆる「特別収容所」は、その赤色テロルの重要な一環だった。囚人の数についての信頼できる数字はない。ただ、一九一九年末現在、ロシアには登録された収容所が二十一カ所あった。一九二〇年末には、それが五倍以上の一〇七カ所となった(P.48)。
〔皆殺し対応のデータ2〕、クロンシュタット関係者の大量銃殺
ヴォルコゴーノフ『七人の首領・上』(朝日新聞社、1997年、原著1995年)が、「レーニン秘密資料」6000点、その他から、皆殺し対応データを発掘し、公表した。
「ボリシェヴィキの専横にたいしてクロンシュタット軍港の水兵らが蜂起したとき、レーニンは、彼に騙された人たちの自然発生的な騒乱に過酷な弾圧の提唱者となった。クロンシュタットの要塞、あるいは艦船にいたというただそれだけの理由で銃殺された。たとえば、一九二一年三月二十日、特別三人委員会(トロイカ)の会議で、戦艦ペトロバヴロフスクの水兵一六七人について審理された。三人委員会にひきだされた全員に銃殺刑が言い渡された。判決はただちに執行された。翌日、同戦艦でさらに三二人が銃殺された。そして三月二十四日にはまたこの戦艦で二七人の水兵が銃殺された…。数十の法廷なるものが活動した。ぺトログラード県チェーカー非常委員会だけで、なんと二一〇三人の銃殺刑を言い渡している。昨日まで農民だった水兵や兵士たちが、党の専横に抗議の声をあげただけなのに(注240)。
第七軍を指揮していたトゥハチェフスキーは、強襲の開始を命じた。明日中に戦艦ペトロバヴロフスクとセヴアストーポリを、窒息性ガスと有毒性爆弾で攻撃すべし(注241)。しかし、窒息性ガスの到着が間に合わなかった……。
一九二一年夏までに二一〇三人が銃殺刑、六四五九人が刑務所拘留および流刑を言い渡された(注242)。のちに、スターリンによってボリシェヴィキ的秩序が確立されると、流刑者たちはみんな銃殺されてしまった。
レーニンの権力は、テロと死刑なしにはやっていくことができなかった。暴力なしでは、権力はあっけなく崩壊したであろう。」(P.160)
(注240)、ロシア国家保安省文書保管所、クロンシュタット暴動関係資料、ファイル一
(注241)、ロシア国立軍事関係文書保管所、フォンド三三九八八、目録二、資料三六七、ファイル四〇
(注242)、ロシア国家保安省文書保管所、フォンド一一四七二八、クロンシュタット暴動関係資料、ファイル一−一五
〔皆殺し対応のデータ3〕、クロンシュタット生き残りも強制収容所で全員虐殺
内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年)で次の事実を記している。生き残って、別のソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。
『聖地ソロフキの悲劇』収容所の機関銃による虐殺 「一九二一年春のクロンシュタットの反乱
の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍
指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日
のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、
そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで
岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。」(P.55)
(3DCGは、2枚とも長男・宮地徹作成)
宮地徹HP『Grafic
World』
レーニンは、クロンシュタット臨時革命委員会が採択した15項目の民主的要求と決起にたいして、白衛軍の将軍の役割と、真っ赤なウソをついた。これが、レーニンの恣意的なウソであったことは、アイザック・ドイッチャー、P・アヴリッチ、イダ・メット、ヴォーリンらが、歴史的事実として証明している。農民・労働者・兵士の総反乱による党独裁クーデター政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、クロンシュタット水兵・労働者14000人にたいして、反革命の豚・白衛軍の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トハチェフスキーや強制収容所幹部に皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記のようになるのは必然だった。
4、クロンシュタット事件の死傷者・処刑数
この(表2)データは、あくまで判明分である。クロンシュタット事件については、レーニン、トロツキーの具体的皆殺し指令文書などを含め未発掘データがかなりある。彼らは、その証拠を隠滅・焼却した可能性もある。というのも、ヴォルコゴーノフは「レーニン秘密資料」6000点を調べたとき、スイス長期亡命時点の資金関係データやドイツ軍封印列車で帰国したときのデータが、明らかに、レーニンの直接指令の下で、秘密資料ファイルから完全に抹殺されていた証拠があると、『レーニンの秘密』において証言しているからである。
(表2) クロンシュタット事件の死傷者・処刑数の判明分
項目 |
クロンシュタット水兵・労働者 |
政府軍 |
||||
分類 |
人数 |
出典 |
分類 |
人数 |
出典 |
|
勢力 |
水兵 基地労働者 コトリン島他住民 |
10000 4000 41000 |
全文献 |
鎮圧司令官 攻撃軍、クルサントゥイ、ボリシェヴィキ党員軍など |
トハチェフスキー 50000 |
全文献 |
死傷 |
死者 負傷者 フィンランドに脱出 内帰国者 |
600〜数千 1000以上 8000 不明 |
アヴリッチと 『黒書』 |
死者 内代議員 負傷者 入院 内死亡 |
700 15 2500 4000 527以上 |
アヴリッチ |
鎮圧後の処刑 |
銃殺 内3月20日 3月21日 3月24日 銃殺刑 強制収容所送り ホモゴールイ収容所 内溺殺・虐殺 ソロフキ収容所 内虐殺 シベリア収容所 |
数百人 167 32 27 2103 6459 5000 3500 2000 全員 2514 |
アヴリッチと 『黒書』、ヴォルコゴーノフ 『聖地ソロフキの悲劇』 『黒書』 |
追放、バルト水兵と全海軍部隊 クロンシュタット・ソヴィエト |
15000 ソヴィエト閉鎖、復活させず |
アヴリッチ イダ・メットとアヴリッチ |
逮捕 |
社会主義活動家 メンシェヴィキ中央委員 内国外追放 |
2000 全員 12 |
『黒書』 |
|||
スターリン |
生残り流刑者銃殺・虐殺 |
生残り全員 |
全文献、ヴォルコゴーノフ |
これは、『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)における「名誉回復」項目の抜粋(P.742)と富田武からのメール回答である。旧版ではなかった「ソ連解体以後」の部分を、富田武成蹊大学法学部教授が執筆担当をしている。ただ、名誉回復の根拠は、『事典』に書かれていない。歴史の評価が、クロンシュタット水兵1万人・基地労働者4千人は反革命分子でなく、いわゆるクロンシュタット反乱とは、正当な15項目綱領に基づく、ソヴィエト内の合法的な要請行動だったと逆転した。
となると、(1)それにたいして「白衛軍将軍どもの役割」と真っ赤なウソをつき、(2)彼らに「白衛軍の豚」というレッテルを貼りつけ、(3)上記のような殺し方で皆殺しをさせたレーニンの評価はどうなるのか。レーニンの方こそ、ソヴィエト権力の簒奪者であり、ソヴィエト機構をボリシェヴィキ党独裁権力に変質させた6連続軍事クーデター指導者だったことになる。現在のロシア歴史学会では、十月の規定として、それを、十月プロレタリア社会主義大革命などでなく、レーニン・ボリシェヴィキによる単独権力奪取の軍事クーデターだったとする見解が、主流になってきている。
ただ、この名誉回復決定は、下記メール回答にあるように、エリツィン政権独特の政治的思惑も含む。
富田武『Professor Tomita's Platform』ソ連政治史、コミンテルン史
[ソ連解体以後]、名誉回復の対象は、ボリシェヴィキ解散・ソ連解体とともに、レーニンの下での弾圧の犠牲者にも及ぶようになった。〈政治弾圧犠牲者の名誉回復に関するロシア共和国法〉に基づき、従来〈反革命分子〉とされていたクロンシタットの反乱参加者が、94年1月の大統領令で名誉回復された。また、内戦期に大多数が〈白衛軍〉についたとされるコサックは、91年8月クーデター前に採択された〈被弾圧諸民族の名誉回復に関するロシア共和国法〉の適用を受けて、92年6月の大統領令で名誉回復された。この法に基づいて、第2次世界大戦中に対独協力の疑いでシベリア等に強制移住されたチェチェン人、イングーシ人、ヴォルガ・ドイツ人や、大戦前に対日協力の疑いでシベリア、中央アジアに強制移住(民族強制移住)させられた朝鮮人も名誉回復されている。(富田武)
〔名誉回復問題について、富田武教授への私のメール質問〕
(1)、クロンシュタット反乱者の名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由
(2)、コサックの名誉回復にいたる経過と、名誉回復理由
に関して、分かる範囲で教えて頂けないでしょうか。(なお、返事をHPに転載する了解は頂いている)
〔富田武教授からのメール返事の全文〕
宮地さん、とりあえずのお答えをします。富田武。
1)、コサックの名誉回復について:コサックはヴォルガ・ドイツ人、チェチェン人等と並べられる民族ではなく、ロシア人だが独特の歴史と文化、風俗を持つため「民族」の扱いを受けたと言えます。その名誉回復はコサック自身の運動によるものですが(モスクワでも祖父譲りの制服をまとった彼らをよく見かけました)、そこにロシア民族主義の尖兵として使いたいというエリツィン政権の思惑が働いたことは言うまでもありません。ちなみに、1992年6月15日の大統領令では「コサックに関わる歴史的公正の回復、歴史的に形成された文化的・民族的一体性をもつ集団としての名誉回復を目的とし、コサック復興運動代表者のアピールに応えて」となっています。
2)、クロンシュタット反乱参加者の名誉回復:こちらには名誉回復の運動はありませんでしたが、十月革命そのものを不当な権力奪取とみる(二月革命のブルジョア議会コースが望ましかったとする)エリツィン政権にしてみれば、水兵たちの要求(ボリシェヴィキ抜きのソヴィエト)の正当性を認めたのではなく、ボリシェヴィキの歴史的不当性を照明するためでした。ちなみに、1994年1月10日の大統領令では「1921年春のクロンシュタット市における武装反乱の廉で弾圧されたロシア市民の歴史的公正、法的権利を回復するため」とあり、具体的には、1921年3月2日の労働国防会議決定第1項(コズロフスキーもと将軍と部下を法の保護外におく)を廃止し、水兵らに対する弾圧を不法な、基本的人権に反するものと認め、事件犠牲者の記念碑をクロンシュタット市に建立するという3つの措置を決めました。
*労働国防会議決定第2項「ペトログラード市とペトログラード県を戒厳状態に置く」、第3項「ペトログラード要塞地区の全権をペトログラード市防衛委員会に移管する」。
なお、両者とも詳細な資料集が1997年に刊行されています(前者はまとめてではなく、ドン地方の『ミローノフ』など)。
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〔関連ファイル〕
『見直し「レーニンがしたこと」−レーニン神話と真実1917年10月〜22年』ファイル多数
第1部『1917年10月、レーニンによる十月・ソヴィエト権力簒奪第1次クーデター』
第2部『1918年1月、憲法制定議会の武力解散・第2次クーデター』
第3部『1918年5月、革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』
第4部『1918年6月、他党派をソヴィエトから排除・第4次クーデター』
第5部『1921年2月、革命労働者ストライキの弾圧・第5次クーデター』
第5部2『1920年3月、トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』
第6部『1921年3月、革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』
第7部『1921年3月〜22年末、「ネップ」後での革命勢力弾圧継続・強化』
第8部『1922年5月、知識人数万人追放「浄化」・第7次クーデター』
第9部『1917年〜22年12月、レーニンの最高権力者5年2カ月間』
第10部『「レーニンによる7連続クーデター」仮説の自己検証』
(クロンシュタット事件の関連ファイル)
『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』水兵の平和的要請とレーニンの皆殺し対応
『クロンシュタット水兵の要請行動とレーニンの皆殺し対応』6資料と名誉回復問題
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』3DCG12枚 『電子書籍版』
P・アヴリッチ 『クロンシュタット1921』クロンシュタット綱領、他
イダ・メット 『クロンシュタット・コミューン』事件の全経過、14章全文転載
ヴォーリン 『クロンシュタット1921年』事件の全経過
スタインベルグ『クロンシュタット叛乱』叛乱の全経過
A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』叛逆の全経過
Google検索 『kronstadt』640000件、自動的日本語翻訳機能付サイト多数
大藪龍介 『国家と民主主義』1921年ネップ導入とクロンシュタット反乱
宮地徹HP『Grafic World』