1921年政治危機−党機構官僚化と分派禁止
第15章−危機に瀕したコミュニズム
リチャード・パイプス『ロシア革命史』より
〔目次〕
2、労働者反対派とレーニンによる第10回大会分派禁止規定決議
3、著者略歴
4、訳者あとがき−解説にかえて−(抜粋)
レーニン1919年3月 レオン・トロツキー
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』「訳者あとがき」
稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党排除・浄化
赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)は何か
プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』2000企業「軍隊化」と労働者ストライキ
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判ファイル多数
これは、リチャード・パイプス著『ロシア革命史』(成文社、2000年)から、「第15章、危機に瀕したコミュニズム」の一部を抜粋したものである。原著は、ソ連崩壊4年後の1995年に出版された。全体444頁の大著で、第15章は37頁ある。このファイルは、その内、「新体制の危機」の冒頭1頁(P.366)と途中2頁(P.370〜371)の3頁だけを抜粋・転載した。著者紹介や本書の解説は「訳者あとがき」に詳しい。このHPに転載することについては、別ファイル時点で、成文社と訳者西山克典教授の了解をいただいてある。このファイルを読まれた方が、本書全体を購読していただければ幸いである。私の判断で、各色太字や(番号)を付けた。
彼の1921年分析を、ソ連崩壊後に発掘・公表された極秘資料によって補うデータとして、〔関連ファイル〕3つをリンクした。
(1)、稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』。これは、ボリシェヴィキ不支持者・政党浄化に関する極秘資料である。私は、稲子著書『ロシアの20世紀』全体から、レーニンによるボリシェヴィキ不支持者・政党浄化を通じて、最高権力者レーニンが5年2カ月間でしたこと=人類が勝ち取ってきた歴史的遺産である政治的民主主義・複数政党制・三権分立を廃絶させる反革命クーデターだったと結論づけている。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
(2)、稲子恒夫『ロシア1920、21年〔コラム〕―8つのテーマ』ファイルで、それは、赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)は
何か。および、プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化を内容としている。
(3)、『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』ファイルである。ここでは、1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦、および、分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性を分析した。私の結論としての、レーニンが分派禁止規定と異様な規模の大量除名事件によってしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデターとする検証である。
一九二一〜二二年に共産党を揺るがした政治危機の原因は、主に、競合する政治グループや出版物への弾圧によっても、異論は排除されず、それはただ党の隊列にもち込まれただけであるということにあった。トロツキーの言葉によれば、「我が党は、今や国内で唯一つの党である、それ故、不満は全て、もっぱら我が党を通り抜けていく」。このような事態の展開は、ボリシェヴィズムの、その成功の鍵となった枢要な教義を、すなわち、党の指導機関が到達した決定に無条件に従うことを求める規律ある統一を侵犯することになった。
そのため、ボリシェヴィキは、彼らの隊列のなかで、(1)公然たる異論に寛容たることで、統一とその利点を全て犠牲にするか、あるいは、(2)党の指導機関の硬直化や党員大衆からの乗離をともに招く危険を冒して、公然たる異論を禁止するか、困難な選択に直面した。レーニンは躊躇することなく、第二の選択肢を選んだ。この決定により、彼はスターリンの個人独裁のために基礎を据えたのである。
一九二〇年代初めのボリシェヴィキ指導者たち、とりわけレーニンの大きな懸念の一つが、彼らの体制の、一見、止まるところを知らない官僚化であった。彼らは、自らの職務を個人的利得のために使う官僚の肥大した寄生的な階級によって政府が押し潰されつつあるとの感覚をもっており、統計資料もそれを裏書きしていた。官僚制が拡大すれば、それだけ、予算はそれに食われ、それだけ為されることは少なくなる。レーニンは、彼の革命によって公務員を最小限に減らし、最終的には全廃することを期待していたが、膨れあがったホワイト・カラーの職員は、彼にとって取り憑かれたような不安の種になった。
(中略−国家の官僚化進行の分析)
官僚化は、(1)国家と同様に、(2)党の機構でも生じた。
ボリシェヴィキ党は、初めから中央集権的に構成されていたとはいえ、伝統的にその党内で一定の民主主義を遵守してきた。中央委員会が日々の決定を集団で行う一方で、年ごとの大会が党の地方組織によって選ばれた代表から構成され、全般的な党の「方針」を確定していた。
共産党は、国の運営に対してさらに一層大きな責任を負うことになったため、その隊列は膨張し、その管理機構も、まさに膨張していった。一九一九年の三月には、党は三一万四〇〇〇人のメンバーを擁していた。当時、中央委員会は書類事務を処理する書記局と並んで、二つの新しい部局、つまり、政治局と組織局を設置した(一六一頁参照)。これらの機関を創設することによって、党務においてモスクワのトップに権限が集中する過程が始まった。内戦が終わるまでに、共産党は、党務に専従するかなりの職員を抱えることになった。
この人員は、その利益を代表すると考えられた労働者大衆とは、事実上、全く接触を失っていた。そこで止まることはなく、ホワイト・カラーの人員の組織から、モスクワで党の中央機関に雇われるエリートが出現することになった。一九二二年の夏には、このグループは一万五〇〇〇人を越えていた。
バーヴァードの政治学者マール・フェインソッドによれば、「党生活の官僚化は必然的な結果をもたらした。……党務に専従する職員は、工場、あるいは政府の役所でフルタイムで働く平の党員と比べて、明らかに有利であった。専門的に党運営にあたるこのごく薄い勢力が、官僚主義を発意と指導と監督の中枢にすえた。党のヒエラルキーのあらゆるレヴェルにおいて、権力の移行が明らかとなり、初めは、大会から協議会へ、そして、それらが名目的に選出した委員会へ、次いで、委員会から表向きはその意志を執行することになっている党書記へと権力は移っていった」。
中央委員会の諸機構が、一歩一歩、自動的に、また殆ど感知されることなく、地方の党諸機関に取って代わっていき、単に、それらに代わってたいていの決定を行うのみならず、その執行委員を任命することになった。地方の党役員は、もはや地方で選出されるのではなく、中央から送られてきた。同様にして、名目上は党の最高の権能を有する大会に対しても、モスクワが代議員を指名したのであった。
中央集権化の過程は、そこで止まることはなく、冷酷な論理をもって進行した。(1)最初は、共産党がロシアの組織的な活動の全てを引き受け、(2)それから、中央委員会が党の指導を引き受け、(3)次には、中央委員会に代わって政治局が全ての決定を行い始め、そして、(4)三人の男、つまり、スターリン、カーメネフ、ジノヴイエフが政治局を担当した。(5)結局、最終的にはただ一人の人物、つまり、スターリンが政治局に代わって決定を行うことになった。(6)この過程が個人独裁まで登りつめると、その先はなく、(7)スターリンの死によって中央集権化された構造が徐々に解きほぐされ、全国に及ぶ党の権威は解体へと導かれる結果となり、最終的には、共産主義国家の崩壊に帰着した。
市民からあらゆる権利を奪っている社会において、党員が享受している権威は、汚職やその他の権力の濫用へとつながった。勤勉で慎み深い模範たる無私の共産主義者の幹部要員(カードル)というレーニンの気高い理想は、実現に向けて近づくことさえ決してなかった。党員は、彼らの公的な資格において、ツァーリの官吏と同様に法的な訴追から事実上、免除されており、そのため、彼らは意のままに威張り散らし、一般の市民に貢がせたりした。さらに一層悪いことに、党は自らの官僚制を堕落させ始めた。そのヒエラルキーで高い地位の職員は、(1)超過の食糧配給を受け、(2)特別の住居や衣服を支給され、(3)医療ケアを受けた。(4)彼らが家具備え付けの列車で旅をする一方で、普通の市民は、木の椅子を争わねばならなかった。
彼らのなかできわめて地位の高いものには、(5)国外の保養地で政府の費用で長期滞在する資格が与えられた。(6)党の指導者たちには、別荘(ダーチャ)を得る資格が与えられた。(7)最初に田舎へ引き籠り休養したのはレーニンであり、彼は、一九一八年の十月に、モスクワから三十五キロのゴールキに、ツァーリの将軍の所有した地所を接収していた。(8)トロツキーは、エスーポフ家に属するロシアで最も豪勢な地所の一つを専有し、(9)スターリンはある石油王の田舎の邸宅でくつろいだ。
党の官僚制に関しては、これまでとしよう。
(後略−国家の官僚化進行の分析)
2、労働者反対派とレーニンによる第10回大会分派禁止規定決議
ソヴエト社会の官僚化と、ロシアの国家と経済の運営において「ブルジョワ専門家」が果した決定的な役割に狼狽したのは、レーニンだけではなかった。それは、ボリシェヴィキを支持する労働者たち、とりわけ、アレクサンドル・シュリャープニコフ−彼は、ボリシェヴィキ党で高い地位を得たきわめて少数の生粋の労働者であった−に率いられた金属工組合の人々を怒らせることになった。
革命前にも、その最中でも、あらゆる組合のなかで金属工が、ボリシェヴィキへの最大の忠誠を示していた。彼らは、新政府が政治的な反対派を沈黙させ、個人の自由を制限するために発効させた全ての措置を承認していた。クロンシュタットの反乱が勃発したときには、彼らは最初に赤軍の鎮圧部隊へ志願した。しかし、「プロレタリア独裁」において、プロレタリアートには殆ど発言権もなく、権力がインテリゲンツィアの手に集中していることに、彼らの不安はますます募っていった。彼らの考えでは、このような展開によって、労働者は体制から疎外されたのであった。
党の機関専従者(アパラートチキ)は、そのような考えをもつ党員を「労働者反対派」と呼んだ。一九二〇年三月に開かれた第九回党大会で、その動きが表面化した。この大会では、経済における参事制による管理と「労働者統制」の慣行全体が廃止され、管理責任は、革命前に同じような役職にしばしば就いていた専門家に任ねられた。労働組合は、それ以降、管理に介入したり、組合員の権利を主張することはできず、労働規律の維持に専念せねばならなかった。工業を効率化するために実施されたこの政策は、労働組合に組織された労働者からの執拗な抵抗にあった。彼らは、旧体制のもとで彼らに威張りちらしたまさに「ブルジョワ野郎」の権力のもとに、自分たちが服従させられているとみたのであった。
このような展開を阻止し、労働者のための正当な地位を得るために、労働者反対派の代表は、第十回大会で二つの動議を提出した。第一のものは、日和見主義者を一掃し、党機構への労働者の参加を拡大することを党に呼びかけた。どの共産主義者も、一年のうち少なくとも三カ月は、肉体労働をして過ごすことが求められた。第二のものは、経済に対する監督を徐々に労働組合に移すことを要求していた。
レーニンは、これらの提案を「サンディカリスト的偏向」として斥け、「プチ・ブルジョワ的な自然発生性」の危険を警告した。レーニンや他の何人かのボリシェヴィキは、自らを正当化するために、真の労働者の多くは内戦のなかで命を落としており、「労働者反対派」は彼らではなく、彼らに取って代わった農民を代表していると主張した。ロシアの労働者には「兵役逃れ」が多数おり、真のプロレタリアではないとのレーニンの主張に応えて、シュリャープニコフは、第十回大会代議員で労働者反対派を支持する四十一名の内、十六人は一九〇五年以前にボリシェヴィキ党へ、そして、全員が一九一四年以前に入党していると指摘した。もう一つの反対の論拠は、労働者反対派が民主主義を物神崇拝しているというものであった。トロツキーは、たとえ「労働者民主主義という一時の雰囲気と仮に衝突する」としても、党はその独裁を擁護しうると述べた。
このようにして、党指導部は気がつくとかなり矛盾した立場におかれていることになった。党指導部は、「プロレタリアート」を代表してソヴエト・ロシアを統治していると主張していたが、そのプロレタリアートは、恐らく、国の人口の一%程度であり、その一%のわずかに二、ないし三%のみが党に属していたにすぎない。そして、そのわずかな支持労働者が路線の変更を迫るとき、党はソヴエト・ロシアに労働者階級がいることさえ否定したのである。いまや、「プロレタリアート」は、ボリシェヴィキの心のなかの一つの純粋な抽象、一つの理念であり、言葉のうえでのみ存在するものになってしまった。
労働者反対派の決議は、投票で敗れた。グループは解散を命じられ、続く何年かのあいだに、そのメンバーは党から狩り立てられ追い出された。
この闘争の重要かつ長期に及ぶ結果の一つは、第十回党大会で、「分派」が、一つの全体としての党の綱領とは異なる政綱を軸に組織されたグループと定義され、次のようにその形成を禁止する秘密決議が採択されたことであった。
「党内およびソヴェトの全ての活動において厳格な規律を維持するため、また、あらゆる分派主義を排除することにより最大限の統一を達成するため、大会は、規律が侵犯されたり、分派主義が再生したり、あるいはそれが許容された場合には、党からの追放にいたる……あらゆる措置をとる権限を中央委員会に委任する」。
歴史家のなかには、この決議を共産党とソヴエト国家の歴史における転換期とみなす人もいる。平易に述べれば、トロツキーの言葉では、それは「国家に行きわたっている政治体制を、統治する党の内部生活」に移行させたのであった。これ以降、党もまた、独裁のもとで運営されることになった。(1)異論が許されるのは、それが個人のもので、つまり、組織されていない限りにおいてのみであった。(2)その決議により、党員は、中央委員会を支配する多数に挑戦する権利を奪われた。何故なら、(3)個々人の異論は代表されるものではないとして払いのけられる一方、(4)組織された異論は違法であったからである。(5)この決議は、スターリンが無制限の権力へと昇りつめる際に、決定的な役割を果した。
ヴャチェスラフ・モロトフの回想から最近わかったのであるが、レーニン自身が分派形成に対するその規則を厚かましくも侵害し、次の第十一回党大会で、中央委員会選挙のための候補者名簿を作成するために、彼に忠実な支持者の秘密会議を召集したのである。スターリンがこの処置について尋ねると、レーニンは、満足のいく結果を確保するために必要であると説明した。(F・チューエフ『モロトフとの140の談話』モスクワ。一九九一年、一八一頁)
3、著者略歴
リチャード・パイプス Richard Pipes
1923年ポーランドのチェシンに生まれる。ロシア革命が生み出した緊迫した状況とナチスの台頭にみられる戦間期の国際情勢のなかで育ち、1939年にポーランドを襲った危機のなかで、イタリアへ逃れる。さらに、スペイン、ポルトガルを経て、1940年にアメリカに渡り、1943年にアメリカに帰化。1950年にハーヴァード大学で博士号を取得し、以降、同大学を中心に研究活動を続けた。
1981〜82年には、レーガン政権のもとで国家安全保障会議のソ連・東欧問題担当官を務めた。ロシア近代史、革命運動に関係する様々な分野で研究を進め、とりわけ、インテリゲンツィア論、ロシア社会論、革命とソ連体制論と、一連の研究成果を世に問うている。『レーニン主義の起源』(1963)、編著『ロシア・インテリゲンツィア』(1961)には邦訳がある。最近の作品としては、『ロシア革命の三つの《なぜ》』(1996)、『知られざるレーニン』(1996)、『所有と自由』(1999)などがある。
4、訳者あとがき―解説にかえて― (抜粋)
西山克典 静岡県立大学国際関係学部教授 ロシア近・現代史
本書は、ロシア史研究の大家リチャード・パイプスのA Concise History of the Russian Revolution(Alfred
Knopf, New York,1995)の邦訳である。本書は、一九八〇年代後半にソ連で始まる改革、その危機と一九八九年の東欧革命、さらに一九九一年夏のソ連そのものの崩壊といった今世紀末の歴史的な激動のなかで著された、次の二書に基づいている。『ロシア革命』(一九九〇年)と『ボリシェヴィキ体制下のロシア』(一九九四年)である。この二つの、合わせて優に千数百頁を越える大著を、一般読者向けに内容を調整し、学術書として付された注を省き簡略に一冊にまとめたのが本書である。ここには、著者のロシア革命に関する半世紀にわたる研究が、革命とその後のソ連という体制の二十世紀における意義を問いつつ、簡明に論理を提示するかたちで集大成されている。(P.409)
一九九二年七月のエピソードは、ソ連崩壊後に共産党の合法性をめぐる裁判が行われていたモスクワでのことである。パイプスは、当時、文書局の利用を許されてモスクワに居たが、憲法裁判所から、ソ連共産党が一般的な意味における政党かどうかの判断を求められた。その際、彼は、共産党が禁止された一九九一年も、それ以前においても、共産党が政党であったことはなく、国家に対する「監督の特別な《メカニズム》」であったと答えている(パイプス、前掲『ロシア革命の三つの《なぜ》』四六頁)。(P.412)
さて、パイプスの本書は、このような状況のなかで、それを構成する前二書、『ロシア革命』(一九九〇年)と『ボリシェヴィキ体制下のロシア』(一九九四年)への高い評価についで、各種の紹介欄で高い評価を得た。『ロシア革命』については、マーティン・メイリアが、「最も広範囲にわたり全般的な論じ方」を提供してくれると賞賛し、ロバート・コンクエストは『ボリシェヴィキ体制下のロシア』を、「見事な説明である……長い間、誤解され誤り伝えられてきた事件の連鎖への幅広くヒューマンな研究である」と評している。
さらに、本書に対しても高い賛辞が寄せられた『ブックリスト』(九五年十月一日号)は、次のように紹介している。「忙しいが関心をもつ読者のために、パイプスは、ロシアの悲劇的な激変に関する彼の二巻の古典的分析を要約した。共産主義によって、あの偉大な国がどのようにして重荷を課され破滅させられたかは、歴史的必然性という勝利したボリシェヴィキの主張にもかかわらず、複雑な問題である。……しかし、パイプスが、説得的、かつ、余念なく描いているように、ストルイピンの下での改革の方針は、反動的な帝政派によって妨害されたのである。アレクサンドラとラスプーチンの幕間のあとに、ケレンスキー、赤のレーニンとトロツキー、白のコルチャークとデニーキンが登場し、悲しみに満ちたドラマが展開する。その悲しみにもかかわらず、今までに革命について書かれ、最も信頼のおける方法で研究され、巧みに総合された著作のなかでも、この歴史書は、洞察に富んでいる」。
また、『パブリッシャーズ・ウィクリー』五一号(九五年八月二十一日)では、次のように述べられている。「ハーヴァードの歴史家パイプスは、一九一七年のロシアの十月革命は、実際は、クーデター、つまり、緊密に組織された陰謀による権力の掌握であり、大衆が参加したと見せながら、殆ど大衆の関与なく遂行されたと、強調している。彼の最近の二つの著作−『ロシア革命』(一九九〇年)と『ボリシェヴィキ体制下のロシア』(一九九四年)を沢山の写真と地図を配した見事な語りに総合し要約することで、一冊の極めて読み易く、有益で啓発的な、ロシア革命とその余波に関する年代記をつくり出した。
権威主義的で、狂信的で秘密主義者で不寛容なレーニンは、一九一八年に収容所の建設を命じていた。パイプスは、いかに、レーニンの一党警察国家が民主的な推進力を窒息させ、間断のないテロルと接収を通じてスターリンのために道を掃き清めたかを示している。‥…パイプスの際立って生き生きとし引きつけて止まない語りは、ページごとに洞察を呼び起こすのである」。
パイプスは、アメリカの出版・読書界でこのように高(好)評を博し、翌年には、そのペーパーバックが出され広く普及した。また、予期せぬ突然のソ連崩壊を経て「民主化」と「市場化」を目指す新生ロシアにあっても、人々には、この激動を捕らえる新しい歴史観が必要とされた。欧米の研究が競って翻訳出版され、「全体主義」論がロシアで急速に受け入れられていった。マーティン・メイリアの論文は、シベリアのノヴォシビルスクの急進改革派の『エコ』(一九九一年三号)にすでに掲載され、パイプスの一連の著作も、ロシア語に翻訳され出版されることになる。モスクワの学生は、私へ宛てた最近の手紙のなかで「このアメリカの学者〔リチャード・パイプス〕の名はロシアではかなり広く知られています。そして、かれの著作は多くの人文系大学で参照を義務づけられています」と伝え、『ロシア革命』を含む彼の主要著作を挙げている。
このような状況を、時局に便乗した「勝てば官軍」「勝ちはしゃぎ」と処断するには、あまりにも問題は大きい。それは、パイプスの革命論とソ連社会論が、アメリカの戦後半世紀にわたる知的伝統の本流にあり、この「古典」の解読と吸収、位置づけなくしては、研究の進展は覚束ないように思えるからである。(P.415〜416)
このような「自由=保守主義」の立場にありながら、彼のロシア革命論は一連の論点で際立っている。帝政ロシアの性格をマックス・ウェーバーを援用しつつ、その家産制を強調し、ロシアの知識人を近代以降の疎外され革命のために権力を志向する知識人=インテリゲンツィア論として展開し、二月革命の叙述ではツァーリの退位の決意と反乱を起こした兵士の役割を強調し、労働者を重視する立場を批判する。
十月革命論では、少数者によるクーデターとして首都の武装蜂起を位置づけ、革命派の側からの内戦の誘発を指摘し、ボリシェヴィキによるテロリズムと独裁の苛酷さを強調するのである。そして、レーニン主義とスターリン主義の関係については、スターリンは「真のレーニン主義者」であったとし、「彼のイデオロギーとやり方がレーニンのものであったという事実を曖昧にすべきでない」と明言するのである(本書四〇三頁)。
本書で展開されているロシア革命論は、革命派の指導者として活躍したトロツキー、あるいは、臨時政府の首相を歴任したケレンスキーのそれとも異なり、また、イギリスの歴史家E・H・カー、ソ連の反体制派のロイ・メドヴェージェフのそれとも異なる対照をなしている。
トロツキーのロシア革命論が、革命の渦中で生き生きと、かつ荒々しく登場する大衆を描くことに優れているとはいえ、一党制というソ連史を呪縛する問題領域に充分な説明を与えていないこと、また、ケレンスキーの『ロシアと歴史の転換点』(恒文社、一九六七年)に漂う弁明的立場と比較して、パイプスは、共産主義は勿論のこと、ロシアの自由主義にも極めて厳しい評価を下しているのである。
彼自身の政治的立場が、自ら吐露したように「オクチャブリスト」にあるとすれば、当然かもしれない。さらに、メドヴェージェフの革命とソ連論が、レーニンを擁護しスターリン体制を批判することに終始し、カーの『ボリシェヴィキ革命』が実証研究の手堅さのうちに革命とソ連体制の必然性と正当性、その容認に傾いていたのに対して、パイプスの研究は、革命とその後のソ連体制の告発を基底に据えることで、鮮明である。
パイプスの研究は、このように観てくると戦後アメリカの半世紀に及ぶ「全体主義」論の知的伝統のなかにあり、体制の改革と進展を前提にその崩壊を予期できなかったソ連史学と「修正派」への厳しい批判のなかで光彩を放っているといえよう。したがって、全体主義論の立場からのマーティン・メイリアの話題の書『ソヴイエトの悲劇』(上下、白須英子訳、草思社、一九九七年)とともに、パイプスの本書を知的古典として読む必要性を訴えたい。と同時に、メイリアが、ソ連体制を全く新しい現象として共産主義のイデオロギーから把握することを主張するのに対し、パイプスがイデオロギーの過大視に警告を発し、家産制という歴史的性格を基調に帝政とソ連という両体制の連関を問うていることにも注目する必要がある。(P.417〜418)
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〔関連ファイル〕
リチャード・パイプス『ロシア革命史−第6章十月のクーデター』「訳者あとがき」
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1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』2000企業「軍隊化」と労働者ストライキ
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判ファイル多数