1921年民衆蜂起・ネップ・分派禁止規定
『ソ連邦の歴史1−レーニン、革命と権力』より
H・カレール=ダンコース
〔目次〕
4、第十回党大会と党
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『奪われた権力』ソ連における統治者と被統治者
リチャード・パイプス『1921年危機−党機構官僚化と分派禁止』
稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党浄化
赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)は何か
プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性
レーニンがしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデター
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判ファイル多数
これは、H・カレール=ダンコース『ソ連邦の歴史1−レーニン、革命と権力』(新評論、1985年、絶版、原著1979年)からの一部抜粋である。『ソ連邦の歴史2』はスターリンをテーマとする。本書は466頁の大著で、その第4章「一歩前進二歩後退」から、〔目次〕箇所のほぼ全文(P.205〜235)を転載した。
原著出版年から見て、ソ連崩壊後に発掘・公表された「レーニン秘密資料」や膨大なアルヒーフ(公文書)などの極秘資料やそのデータは入っていない。ただし、彼女は、〔関連ファイル〕リンクのように、ソ連崩壊後、『レーニンとは何だったか』(藤原書店2006年6月、原著1998年)において、『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』と、明白な10月クーデター説を表明した。ダンコース著書については、別ファイルのように、2つを抜粋・転載してある。なお、私の判断で、〔小目次〕、各色太字や(番号)を付けた。
ダンコースの1921年分析を、ソ連崩壊後に発掘・公表された極秘資料によって補うデータとして、〔関連ファイル〕3つをリンクした。
(1)、稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』。これは、ボリシェヴィキ不支持者・政党浄化に関する極秘資料である。私は、稲子著書『ロシアの20世紀』全体から、レーニンによるボリシェヴィキ不支持者・政党浄化を通じて、最高権力者レーニンが5年2カ月間でしたこと=人類が勝ち取ってきた歴史的遺産である政治的民主主義・複数政党制・三権分立を廃絶させる反革命クーデターだったと結論づけている。
『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』他党派殲滅路線・遂行の極秘資料
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
(2)、稲子恒夫『ロシア1920、21年〔コラム〕―8つのテーマ』ファイルで、それは、赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)は
何か。および、プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化を内容としている。
(3)、『レーニンによる分派禁止規定の国際的功罪』ファイルである。ここでは、1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦、および、分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性を分析した。私の結論としての、レーニンが分派禁止規定と異様な規模の大量除名事件によってしたこと=少数分派転落・政権崩壊に怯えた党内クーデターとする検証である。
1、一九二〇年から二一年の危機の諸要素
〔小目次〕
戦時共産主義がまだ実施されている一方で、対外的には、ソヴィエト国家は徐々にその立場を安定化させ、国際的な地位を再び獲得していった。
しかしこの同じ時期に、国内情勢は、またしてもボリシェヴィキにとって絶望的なものになっていた。戦時共産主義は、内外の脅威が続く間は、国民も何とか耐え忍んできたが、ここへきて耐え難いものであることが明白になり、指導部は、同時多発する危機に直画せざるを得なくなったのである。それらの危機の中には、前代未聞の民衆の不満の爆発にいたるものもあった。
政権が直面した第一の問題は、またしても飢饉であった。二〇年から二一年の冬は、都市住民にとってとりわけ厳しいものとなった。商店は品物が払底し、闇市だけが食糧購入を可能にする状態だった。一九二〇年十二月には、モスクワの市場で、物価は一九一三年の水準に較べて三万倍になったのである。農民は、作物をまったく価値の下がってしまった貨幣で売るより、自分で消費した方がましと考えた。都市では、この飢饉によって、一触即発の状況になっていた。
こうした最もさし迫った問題を解決するために、政府は、一九二一年二月、農村での徴発を実行に移すことにする−よりによって悪い時期に、決定が下されたものだ。というのも、農民の備蓄はまさに底をつきはじめていたのだ。この政策によって、農村には潜在的動揺が拡がっていく。いたる所で、農民と労働者は、革命で何か得をしたことがあるのかどうか疑問に思いはじめる。政権は、山積する重大な経済的難題と格闘すると同時に、この当時、今後の方向づけをめぐって、深刻な意見の対立に見舞われていた。
2、第二の問題−今後の方向づけをめぐる党内意見の4分裂
権力の分散によって、党組織の再編成が必要となったが、その再編成は、党を強固にして権威主義的なヒエラルキーに変えるにいたった。この点においても、内戦が終った段階で、党は自らの変貌について反省をはじめ、相矛盾する潮流が勢力を競ったのである。一九二〇年に起った問題は、根幹にかかわる問題であったが、同時に個人的な対立の問題でもあった。そして、ソヴィエトの歴史の中でかくも危機的な時期にあって、党が分裂しているということが、さらにもうひとつの危機の根源となったのである。
この分裂は、国の直面する経済的諸困難に対してレーニンが提案した解決策をめぐって、起ったものであったが、やがて労働組合に帰属する役割と、党の指導方法とに、疑問を投げかけることになる。一九二〇年の第九回大会で、レーニンは、下部労働者を決定と指導の過程から排除してしまうような、権威主義的構造を生産の場に導入する必要性を、主張した。これに関して、三つの重要な措置が採られるべきものとされていた。
(1)非共産党員の専門家の利用、(2)生産における単一の指導系統の採用、そして、(3)党と労働組合のレベルにおいて、規約に定められていた下部からの選挙のプロセスを、上からの指名のプロセスに変えてしまうこと、の三つである。この三番目の措置は、明瞭に表明された原則というわけではなく、単に、効率とスピードが至上命令となる一時期において、適当な方式とされていたにすぎない。
これらの方式は、必要性に迫られた結果であり、特別の理論の結果として出てきたものではなかったが、はやくも一九二〇年から、それをめぐって二つの反対勢力が形成されていくことになる。
(1)、まず、労働組合で活動する共産党員を集めた「労働者反対派」が、初期組合活動の闘士で、一九一八年には党中央委員でもあった、アレクサンドル・シュリャープニコフとI・ルトヴィーノフを中心に形成された。彼らは、組合による生産管理のテーゼと、党から非労働者分子を総て放逐すべきことを、熱烈に主張した。さらに、責任者選挙制への復帰をも要求するのだった。
(2)、もう一つの反対集団は、X・オシンスキー、T・サブローノフ、X・スミルノーフを中心として、「民主主義的中央集権制」をめぐって結集したもので、レーニンが第九回大会(一九二〇年)で表明した「民主主義的中央集権制」の考え方を、激しく攻撃した。
党指導部と、この二つの潜在的なグループとの対立は、一九一九年十二月の中央委員会で一挙に表面化した。トロツキーは、当時全面的に混乱していた運輸担当の責任者に任命されていたが、運輸再建のための自分の見解を、この中央委員会において押しつけようと努めたのである。軍の再建の際にかくも成功を収めた方法を経済にも適用し、文字通り労働の軍隊化を行おうというものであった。
『プラウダ』に拠るブハーリンと、労働組合が、この計画を独裁的と決めつけ激しく反対した。レーニンは、「労働者反対派」の熱望を、アナルコ=サンジカリズム的異端と決めつけることをためらいはしなかったが、トロツキーの労働者階級動員の企てには、きっぱりと保留の立場をとった。こうして党は二分され、個人的敵対関係−ジノーヴィエフは、トロツキーに非難が集中するよう仕向けたが、技術的論争の背後に再び姿を現わした。
第十回大会(一九二一年)は、(1)トロツキーの提案と、(2)レーニンの提案のいずれかを選ばねはならなくなっており、さらにそれに、(3)反対グループの政綱がつけ加わっていた。レーニンが不断に擁護してきた党の統一は、経済的現実によって危うくされているかにみえた。しかしながら、大会がこの論争を行うために開催されようとしているその直前に、農民・労働者の下部が、またしても自然発生的反乱によって、権力に新たな政策を採らざるを得ないよう仕向けることになるのであった。
一九二一年初頭は、三つの決定的出来事によって画されることになる。(1)タンボフならびにクロンシュタットの蜂起、(2)ネップの採用、そして、(3)第十回大会である。
一九二一年二月は、ボリシェヴィキ政体にとって、まことに異例の月となった。この月に、農民層はボリシェヴィキ政体に反抗して立ち上がり、革命の基地そのものであったクロンシュタットが、それと同様の企てを行ったのである。
〔小目次〕
1、農村の荒廃と反抗−タンボフ、ヴォルガ、ウラル、西シベリア
1、農村の荒廃と反抗−タンボフ、ヴォルガ、ウラル、西シベリア
農村の反抗は、数カ月前から潜伏していた。一九二一年冬の徴発が、それに火をつけたのである。二月になって、反乱はタンボフ州で勃発した。そこは黒土地帯であり、その叛乱は東へ向い、ヴォルガ、ウラル、西シベリアに拡がった。農民は、徴発を拒否し、いかなる権威も認めようとしなくなったばかりか、ステップをモスクワへと北上する小麦輸送車を止め、その荷を奪った。農民鎮圧のために派遣された部隊は、あちらでもこちらでも、叛徒をかくまって村ぐるみで蜂起する村々に、行く手をはばまれたのである。時として、士気も落ち食糧支給も不充分な軍が、農民の側に寝返ってしまうこともあった。
政権は、叛徒を鎮圧するに必要な部隊を手にしていなかった。政府は、叛乱が全農民層に拡がって、農民社会から決定的に遊離してしまうことになるのを恐れ、また、これらの出来事によって、農村の荒廃がいかに大きいかを悟ったのである。叛徒とならない場合でも、農民はもはや自分のためにしか生産しようとしなかった。戦前に較べて、耕地の二五%が耕作されず、生産高は、四〇%近くも落ちた。農具は一度も更新されず、修理・保全もされていない。農民層を破滅に追い込んではならない。彼らの心を捕え、新たな基礎の上に立って、再び労働につかせなければならない。
2、ペトログラード労働者のストライキ、デモの多発
農民層が蜂起するのと同時に、クロンシュタットの爆発が、突発した。この場合も、一九二一年の物質的困難が決定的な役割を演じている。労働者階級は餓死寸前にあり、このような絶望的状況に抗して、ストライキとデモが多発していた。二月二十三日、ペトログラードの主要な冶金工場のひとつである「トゥルーボチノイ・ザボード」で行われた集会は、労働者階級の気分を、よく示している。この集会で採択された決議は、(1)食糧配給量の増加と、(2)即座に靴と冬着を配布すべきことを、要求していた。
翌日、同工場の労働者たちは彼らに就労を促すべくやってきた、ペトログラード労働組合評議会議長でボリシェヴィキのアンツェローヴィッチを叩き殺したのち、デモを総ての工場に拡大していった。ペトログラードにおけるデモは、同時に、首都における連帯集会を引き起した。党の中枢における政治闘争は、労働者階級の気分を悪化させる結果にしかならなかったのである。
(1)組合をめぐっての論争、(2)「労働者民主主義」についての、ジノーヴィエフのいささか煽動的な演説、こうしたものが騒擾を政治化し、騒擾の中心は、二月二十八日に、ペトログラードからクロンシュタットへと移り、海軍基地の水兵たちが、労働者に交代して、具体的要求を作成しはじめる。彼ら叛乱水兵たちは、「自由ソヴィエト」の旗印の下に、「革命的コミューン」を結成していく。
これは、十六日間存続することになるが、それが掲げた政綱は、結局のところきわめて穏健なものだった。(1)ソヴィエトの解散と、(2)秘密投票による自由なる選挙、(3)社会主義諸党・無政府主義者ならびに労働組合に対する新聞と集会の自由、(4)農民がその収穫を自分の意志通りに用いる自由、(5)農村における捜索・徴発担当分遣隊の廃止、(6)賃金労働者を使用しない手工業者に対する労働の自由、といったものである。たんなる一地方的蜂起としては、クロンシュタットのコミューンは、現実にボリシェヴィキを脅かすものではなかった。
町は孤立しており、武装も不充分で、鎮圧は容易だった。ボリシェヴィキを恐怖に陥れたもの、それは象徴と全般的状況であった。まず第一に、象徴である。というのも、クロンシュタットで彼らに反抗して立ち上がったのは、革命の先兵たる水兵たちであり、また、労働者階級であったからだ。それが手本となって、国中のすべての労働者に叛乱の火の手が拡がる恐れがあった。
それと同時に、クロンシュタットは、レーニンの言葉によれば、一覧表を照らし出したにすぎない。峰起した農村は、タンボフではエスエルの支援を受け、ウクライナではマフノに指導され、サラトフでは、共産党員という共産党員をすべて虐殺していた。都市住民は、クロンシュタットの水兵と声をあわせて、「共産主義者なきソヴィエト」を呼号していた。都市でも農村でも住民は、昔ながらの反ユダヤ主義的傾向を目覚めさせ、共産主義者をユダヤ人と同一視して、ソヴィエト国家を「最初のユダヤ共和国」と決めつけるのだった。あらゆる社会集団から、他の主題に混って同一の要求が湧き上っていた。すなわち、農村に平和を回復させ、農民に自由を返すこと、であった。レーニンは、この飢餓の連帯を、次のような言葉で要約している。
「袋をかついだ男は、商業の自由のスローガンを掲げて、クロンシュタット要塞をさえ包囲してしまうほどの力を持っていたのだ。」
袋をかついだ男、餓饉の時期にはいつも姿を現わし、人の難儀につけこんでしこたまもうけるこうした人間が、一九二一年の春に、ボリシェヴィキの権力、ボリシェヴィキが擁護する政治体制を、他の何者よりも、まんまと死の危険にさらすことに成功したのだった。
この状況に対して、政府は、(1)労働者の叛乱は粉砕し、(2)農民層には手をさしのべるという形で、反撃する。政府のみるところ、農民層こそ立て直しの鍵を握っていたのである。
クロンシュタット叛乱の鎮圧の決定は、躊躇なく、全員一致で下された。他の点では対立していた党内のすべてのグループが、この点では一致したのだ。目の前にさし迫った危険に対して、だれもが力によってクロンシュタットの叛乱を粉砕すべきであることに賛成した。それは、「なかば無政府主義の、プチ・ブル農民の運動」とされ、おまけに、扇動の汚名まで着せられた。
トゥハチェフスキーとヴォロシーロフ率いる精鋭部隊が、クロンシュタットに派遣され、三月八日から十八日まで、砲兵隊と航空隊も加わって、全国から駆けつけた部隊が、インターナショナルの歌声を響かせる叛乱軍と戦った。国中に与えた衝撃は大きく、鉄道員たちは、ツァールスコエ・セロー、オラニエンバウムをはじめ多くの地点で、部隊の輸送を阻止し、上官に反抗して「民主主義の擁護者」に合流せよと、兵士に呼びかけようと努めた。
しかし、これと時を同じくして、第十回大会によって、農業政策を根本的に修正するとの決定が下されており、そのため、農民出身者が多数を占める兵士の間では、明らかな変化が起っていた。叛徒の側に寝返る寸前にあった彼らは、十五日にはネップという転換を知らされ、それ以降、農民の熱望に応えようとする政権の側に留まるのである。軍の支持を奪われ、農民層からも切り離されて、クロンシュタットの叛徒は敗れ去った。
戦闘が終了して、双方の死者を数えることができるようになったとき、この事件がどれほど血まみれのものだったかがわかった。氷上を進軍しなければならなかった赤軍は、死傷者および行方不明で約一万人の犠牲者をだした。増援部隊とともに、第十回大会の代議員がやってきたが、うち一五人が死亡した。叛徒側の死者は、数を確定できないが、やはり甚大であった。そのうちの多くは、戦いの終りに虐殺されたものである。指導者は、死刑の判決を受けて、執行された。数百人が、裁判もなしに銃殺されるか、チェカーの牢獄に送られた。
政権は、クロンシュタットの責任−つまり、弾圧の責任を−エスエルとメンシェヴィキに支持された白衛派衛兵になすりつけた。実際は、社会全体をおおう蜂起に参加したのは、エスエルと、水兵の間に実質的な影響力を持っていたアナーキストの、二つの党派にすぎなかった。
それにしても、クロンシュタットの叛乱、農民層の叛乱は、大衆の遺恨と希望を表現する自然発生的な民衆蜂起だった。レーニンが常に恐れていた、ラージンやプガチョーフの歴史上の大叛乱の伝統に棹さすものなのである。ボリシェヴィキは、こうした叛乱への性向に乗って、権力を手にした。しかし、新たなプガチョーフ流叛乱(プガチョーフシチナ)が彼らに襲いかかって押し流すことは、許してはおけなかったのである。
〔小目次〕
3、ネップの性質とレーニンの思惑=一時的後退・休止とそれへの対策
三月十五日、ちょうどクロンシュタットに攻撃がかけられている頃、第十回大会は、徴発の停止をはじめとする一連の農業に関する措置を採択した。それは全体として、「新経済政策」(ネップ)をなすことになるわけだが、大会代議員のひとりでマルクス研究家のリャザーノフは、これを称して「農民とのブレスト=リトフスク」と呼ぶことになる。この政策の根幹は、(1)徴発の廃止、(2)それに代えて現物累進税の採用、(3)農民に対する余剰農作物の処分の自由の承認、つまり、(4)商業復興の基盤となる自由の承認である。
クロンシュタットの反乱の時期に採用されたからといって、ネップはこの反乱の帰結であるわけではない。一九二〇年を通じてボリシェヴィキが現実に対して加えた分析の結果にほかならない。彼らの国際的孤立、そして、レーニンの考えでは、労農同盟こそが、彼の権力と社会主義実現のための不可欠な支柱であるはずなのに、権力が農民層と決裂しているという現実。クロンシュタットの蜂起は、ネップを生み出したわけではないが、ネップを必要とするにいたった、一九二一年のソヴィエト社会のあらゆる矛盾を、集中的に表現していたのである。それに、これのお陰でレーニンは、すでに一年前から考えていた転換をのみこませるのが、より容易になったのかもしれない。
というのも、ネップの着想は、すでに一九二〇年より、ソヴィエトの政策の中にすかし模様のように組み込まれており、一九二〇年二月の中央委員会において、トロツキーは、生産の軍隊化措置と抱きあわせて、このような転換を提案している。その時は、トロツキーの掟案は却下された。しかし、一九二〇年十二月の第九回ソヴィエト大会で、メンシェヴィキとエスエルの代議員が、徴発を止め、安定した公平な課税制度を導入する必要性を力説したとき、レーニンはそれらの要求を考慮に入れ、戦時共産主義の廃止につながる法案を準備しはじめた。
一九二一年二月八日、「ポリトビューロー」は、彼の法案を検討し、そのような計画のあることが、十三日付の『プラウダ』によって婉曲な表現で示唆された。二月二十四日、今度は中央委員会がこの案について討論し、数日後に迫っていた第十回党大会の議題として採り上げることに決定した。さて、第十回党大会が開かれてみると、党はレーニンの主張に従わざるを得なくなったのである。レーニンは、クロンシュタットを利用して、この蜂起ほど現在の現実の姿を示しているものはないと述べ、「他の国で革命が勃発するまでは、唯一、農民層との協調のみがロシア革命を救うであろう」と、言い切った。
それにしても、レーニシの関心が、明らかに農民問題に専ら注がれていたのに対して、党全体は、むしろ他の問題に関心を注ぎ、農村社会についての討論は二次的な位置に追いやられていたということは、意味深い。大会の議事録を読むと、ネップに関して行われた討議は、全体の十分の一にも満たないのである。採択された措置は、民衆の熱望にかなうものであったが、党内の労働者反対派の意向には、深刻に対立するものであった。恐らくそれゆえに、レーニンはこの転換を開始するにあたって、慎重な上にも慎重を期し、この議題に関して大論争が行われぬよう、限定された措置という形で提出するよう気を使ったのであろうと思われる。
4、ネップの性質とレーニンの思惑=一時的後退・休止とそれへの対策
ネップとは、何を意味するのであろうか? 一九一七年に獲得されたものを台無しにするような、ロシア社会のプチ・ブルジョワ的諸傾向に対する譲歩なのであろうか? それとも、革命を救うための一時休止なのか? 「農民のブレスト」という言葉は、論争の規模の大きさを伝えている。ブレスト=リトフスクの時と同じように、政治に携わる者たちは、農民層との和解がどのような意味を持つかで、議論を戦わせた。しかし、レーニンの書いたものは、いかなる曖昧さも残していない。彼にとって、それは一時的後退にすぎず、彼は一瞬たりとも最終的譲歩など考えたことはなかったということは、明らかである。
しかし、そうなると、もうひとつより複雑な問題が持ちあがってくる。この後退の性格と期間はいかなるものか、ということである。ボリシェヴィキが、己れの権力を回復し、ソヴィエト人民を再び掌握して、やがて社会主義への強行軍を開始できるようにするための、短い休止なのか? そうではなく、ソヴィエト社会の遅れと、世界革命の遅れという諸条件に結びついた、より長期にわたる後退なのか? 別の言い方をするなら、ボリシェヴィキは、息をつこうとしているのか、それとも、休止を利用して、新たな社会主義の飛躍的発展の諸条件を準備するために、経済と社会を発展させようというのか?
一九一七年十月におけるレーニンの態度、『革命の当面の課題』に記されている態度を考察し、彼が当初において採った行為をみてみるなら、休止というものの持つ二番目の意味の方をとるべきであろうと思われる。レーニンは、一九一七年に、ロシアの諸条件において社会主義を建設することが不可能であることを自覚していたし、一国のみで社会主義を建設することの不可能性は、常に確信していた。
一九一七年におけるレーニンの社会プログラムは、きわめて慎重なものだった。戦時共産主義は、彼の意志によって展開されたものでも、なんらかの理論に従って展開されたものでもなく、内外の情勢の圧力によって行われたものであり、レーニンは一貫して、戦時共産主義から社会的進歩が生まれてくるという考えには、懐疑的であることを示していた。第十回大会において、彼はこう言っている。「われわれは、農民に対しては手をゆるめてはならない。なぜなら、小農民を変えること、その心理と習慣を変えることは、数十年を要する課題だからである」と。同様に彼は、社会の変化の基盤である近代工業の建設について語った際、努力を完遂するには、数十年の期間が必要だと述べているのである。
こうして、一九二一年になって、レーニンは、ロシアは社会主義の条件が熟していないと考えるメンシェヴィキの主張の正しさを認め、一九一七年における自分の考えに、再び戻ったように見える。彼が努力を傾注するのは、世界革命が起るまでの間、自分が作り出した革命の基地を護り抜くことである。それまでの間、手に入れた休息のお陰で、国の経済的基盤を、ひいては社会意識を、進歩させることができるだろう。
しかしながら、いきなりソヴィエト社会の現実の状況にあわせて政治を調整しょうと努める政策は、党の全体と労働組合にとっては、容易には承服し難いものであった。なにしろ、この転換は、農民層に特権を与え、国の全般的変化とその当面の生存を、農民層に、彼らの善意にかけようというものだった。ソヴィエト社会における農民層の役割についてのこの新たな考え方を浸透させるのは、党の仕事だった。ところが、一九二一年にあって、党は内訌によって弱体化し、労働組合と権威を共有しているために、力は弱かった。
また、決定を押しつけていかねばならないという当面の問題のほかに、党は、より一般的なもうひとつの問題に直面していた。農民層に重要な地位を与えたことにより、権威の分散が起る危険があった。独立の勢力となった場合、農民層は、政治的決定に圧力を加え、最終的には己れの意志に従わせる力を持つようになるかもしれなかった。(1)農民層を、単なる経済的な役割の範囲内に押えておくためには、(2)政治権力の権威を強化する必要があった。そして、一九二一年において、政治権力とはなによりもまず党の権力にほかならなかったのである。
こうした事情から、一九二一年のもうひとつの重要な改革、第十回党大会で採択された党の改革が導き出されたのである。それは、(1)ネップへの転換が引き起す政治的効果を、(2)矯正することを目的としていた。
4、第十回党大会と党
第十回党大会がソ連の歴史の中で果たした役割は、計りしれないほど大きい。それは単に、(1)ネップを軌道に乗せたからだけではなく、(2)党内での組織的反対の可能性を除き去り、一枚岩主義を確立するという形で、党を変貌させてしまったからである。
〔小目次〕
3、レーニンによる2つの決議と採決−分派禁止規定、アナルコ=サンジカリズム的逸脱
1、労働組合問題と3つの立場の相違、2つの対決
大会が開幕したとき、その議事日程には、労働組合の政治的役割という大問題が書き込まれていた。そしてその問題の背後には、権力の源泉は何か、下部か頂上かという、より大きな問題が控えていた。第一の問題、労働組合の問題は、大会の直前になって、個人的な抗争の様相を帯びて険悪化しており、ジノーヴィエフの画策の下、文字通り反トロツキー同盟が周到に結成されつつあった二九二〇年の暗闘を経て、いまや問題は、明瞭なプログラムの形で大会に提出されるにいたったのである。
(1)トロツキーは、労働組合を行政機構の中に編入してしまい、生産の向上のために用いるべしとの考えを主張し、(2)対するに労働者反対派は、経済運営を生産者評議会に委任し、労働組合の独立性を確保しようとした。(3)これに対して、レーニンはトロツキーとは意見を異にしたが、それはトロツキーの主張する見解の根本に反対だからではなく、方法上の理由からだった。レーニンは、トロツキーがあまりにも粗暴であり、討論の相手に何の容赦もせずに自分の考えを押し通そうとする点を、非難している。二人の不一致は、明らかに方法と時機にかかわるもので、根本的選択にかかわるものではなかったのである。
一九二一年三月においては、各人の立場の相違は明白に表われている。なぜなら、さまざまなグループが、大会への選出の基礎として、相対立する政綱を掲げ、それによって代講員の数が決定されるという方式が採られたからである。スターリンの監修の下に一九三八年に執筆された『ボリシェヴィキ党の歴史』(簡約版)は、このあまり例のない方式についてきわめて単純化した形で触れ、その責任はトロツキーにありとしている。「トロツキーは、党の規律を無視して、自分の異見を世論に訴え、彼自身ならびに彼の政治的同志の名において、中央委員会の路線に反対であると公言した。彼は、第十回党大会は、主要な二つの政綱、すなわち彼の政綱かレーニンの政綱かのいずれかを選ばなくてはならないと、宣言した」。
実際は、それどころかトロツキーは、政綱を基礎にして代議員を選出すると、各人の立場を予め固定することになり、正しい討論ができなくなると力説して、その方式に反対しているのである。さらに、大会をトロツキー対レーニンの対立に限定してしまうのは誤りである。現実の状況は、明らかにより複雑だった。実際は、二つの対決が展開されたのである。(1)労働者反対派と、トロツキーも含めた党の全体との対決、ついで、(2)労働の軍隊化をめぐって、トロツキーとブハーリン対、レーニン、ジノーヴィエフ、スターリンの対決であった。
2、労働者反対派とその主張、労働組合問題に関する大会決定
第十回党大会において、労働者反対派を率いていたのは、シュリャープニコフであった。新たに反対派に加わった、著名人のアレクサンドラ・コロンタイも、彼に支援を送った。しかしこの活動的な女性の人間関係と婦人の地位に関する思想は、レーニンから、さらにはボリシェヴィキ特有の謹厳さから反撥を食らった。労働者反対派は、生産の軍隊化と同時に、党内での民主主義の不在をも告発し、平等主義を主張したが、その主張の経済的な非現実性は、プレオブラジェンスキーが、造作もなく、断固として証明するところとなった。組合問題については、大会は、トロツキーの主張と労働者反対派の主張との中間的な立場を採択した。
「労働組合の主要な方法は説得である。とはいえ、必要とあれば、組合もプロレタリア的強制の原則を実行に移して成功を収めることが、排除されるわけではない。(中略)労働組合においては、あらゆる機関の広範な選挙を保証し、指名の方法を排除すべきことは不可欠である。(中略)組合運動の指導者の選択は、もちろん、党の統制の下に行われるべきである。」
労働組合に関する決議は、労働者の擁護を確実にとり行う任務を組合に委ね、組合の組織を整備しようとの意志を示すとともに、選挙原理を再び導入することによって、増大しつつある官僚主義に反対する要求を、考慮に入れている。しかし、それと同時に、組合を明白に党の統制の下においているのである。労働者反対派は、戦いに敗れた。しかし、面目丸潰れになったわけではない。大会はその首領のシュリャープニコフを、中央委員会に選出しているのである。ここにも、レーニンがよくやる手がうかがえる。彼は、思想とは戦ったが、対立する相手を指導機関から排除することはしなかった。
一九一七年十月には、ジノーヴィエフが蜂起に反対したにもかかわらず、同じょうにして、彼を革命軍事委員会の中に加えたものだった。このような態度によって、抗争は激化することをまぬがれ、論争を越えて、党の統一が保たれてきたのである。
3、レーニンによる2つの決議提出と採決−分派禁止規定、アナルコ=サンジカリズム的逸脱
こうした対立の鎮静の空気の中で、レーニンは、中央委員会の選出も終った最後の瞬間になって、二つの決議を採決に持ち込んだのであった。それは、いずれも党の将来に計りしれない影響を及ぼす決議であり、(1)ひとつは党の統一に関するもの、もうひとつは、(2)アナルコ=サンジカリズム的逸脱に関するものだった。この二つとも、党内での討論の自由を制限していくことになるのである。
党の統一に関する決議は、多数によって否とされた思想を党内に流布することを禁じるものであった。しかし、適切な範囲内でそれを討議することは許されていた。さらにこれは、「分派」の形成を禁じる結果になったが、レーニンは、「分派」と「逸脱」とは違うことを明確に述べていた。「逸脱とは、決定的な形をとったものでも、確実にして全面的な規定を帯びたものでもない。単に、ひとつの政治的方向づけの端緒というにすぎず、その方向は党の評価を得なければ存続を許されないわけである」。
それに対して、(1)「分派」は、党への所属とは両立し得ないものなのである。大会は、(2)個々の政綱に基づいて形成された総てのグループの即時解散を命じ、(3)総ての組織に、分派活動の形成を阻止すべく監視する任務を負わせた。(4)同決議の第七項は、秘密条項とされたが、この面において党の規律が犯された場合、除名を含む、予定されたあらゆる制裁を適用する使命を、中央委員会に託するものであった。
指導機関のメンバーが対象となった場合は、除名は、中央委員会と統制委員会の合同総会が三分の二以上の賛成をもって決定する、とされた。レーニンがこの条項を秘密にしておくよう大会に要求したのは、彼によれば、それは、例外的な状況、「分裂に立ちいたるかもしれないような意見の対立が起った場合」でなければ、適用されないであろうからであった。
労働者反対派の労働組合の役割に関する見解を非とした決議は、彼らが第十回党大会において組織的反対グループとして結集したことを非難していた。しかし、この非難はまったく不当である。というのも、労働者反対派が個別的政綱に基づいて結集した形で大会に登場するように仕向けたのは、ジノーヴィエフの仕業なのである。彼は、選挙政綱の採用ということまで主張しておきながら、一転して、そうした選挙政綱の当然の帰結ともいうべき分派活動を告発した。
この策動によって、ジノーヴィエフ、トロツキー、労働者反対派間の関係は、著しく険悪なものとなってしまった。レーニン亡き後の左翼反対派の弱さの理由も、元をただせば、この策動にたどりつく。あまりにも多くの険悪な抗争が、彼らを分断していたのであった。
最後に提出されたこれらの決議は、複雑な空気の中で票決された。この空気がどんなものであったか、ラデックの次のような言葉が見事に言いあてている。「分派を禁止し、除名を組織づけるためにわれわれのとった措置は、きわめて危険なものであり、いつの日かわれわれ自身にふりかかってくるかもしれない。しかし、現在われわれの国がおかれている危険な状況の中で、党の統一を保証するために、これよりほかに手はないのである。」
実際、そこに困難があった。一九二一年において、党は、革命前に見舞われたのとほとんど同じくらい危険な状況に直面していることを、自覚していた。(1)ネップは、後退であり、農民層への譲歩を意味していたが、一方党は、(2)反抗するプロレタリアートを厳しく抑えねばならず、(3)内訌で分裂した状態にあった。ボリシェヴィキは、過去において彼らの強さは、彼らがひとつにまとまっていたことから生まれたということを承知しており、(4)党の民主化を願う点ではほとんど全員一致していたものの、党の統一と規律が今ほど不可欠となったことはないと考えて、願いとは逆の措置をとったのである。
第十回党大会が終ると、指導部人事に重要な変化が起り、下部においては、不純分子の追放が行われた。中央委員会には、三人の書記−クレスチンスキー、プレオブラジェンスキー、セレブリャコーフ−が、再選されなかった。大会の間、彼らは、除名の代わりに寛容と話し合いによるべきことを、力説したのだ。しかしそれ以前には、ジノーヴィエフの選挙政綱に関する主張が、党を分裂に追い込むことになることを予感して、それにもっとも強硬に反対していた。彼らを指導部から排除したことは、党内引き締めの路線にそった措置であった。
主要な機関で地位が上がった古参ボリシェヴィキの中には、オルジョニキゼ、フルンゼ、ヴォロシーロフ、クイビシェフ、モロトフ等がいたが、とりわけ、ますます重要な役職を任されるようになった男、それはスターリンだった。彼の特別の地位は、一年後に、『プラウダ』に掲載された短い記事によって、確証されることになる。一九二二年四月四日、党の機関紙『プラウダ』は、論評抜きで、第十回党大会において書記局の新たな構成が承認されたことを、伝えている。はじめて書記長が設けられ、スターリンがその職に就いた。そして、モロトフとクイビシェフの二人の書記が補佐にあたるという構成である。
同時に党は、下部において大規模な粛清を行った。一三万六八三六人の党員が、規律違反(二%)から恐喝や汚職のような「重大な過ち」(九%)にいたるさまざまな理由で、除名された。しかし、除名された者の多く(三四%)は、「不活動」を責められたものである。これらの除名は、最終的に党員の二四%を排除したわけだが、一九二一年の年間を通じて、一九二一年の決議の第七項の規定によって権限を与えられた統制委員会によって、順次申し渡された。
第十回党大会は、結局のところ、二つの大きな方向を秘めた、明瞭に異なる二つの政策に道を開いたといえる。(1)国民全体に向けては、自由化の政策−ネップを採用し、トロツキーの権威主義的諸原則は封じ込めた−、そして、(2)党内では、分派の禁止という権威主義的政策、の二つである。第十回大会において提案された総ての措置は、分派禁止の措置も含めて、民主化への意志の名において提案された。そのため、ラデックのような明晰な人間も、提案された決議に賛成票を投じることになったわけである。彼らは、党内民主主義を救おうと願っていたのであり、それを廃滅しようとは思っていなかった。
しかし、それと同時に、同じ決定の中に権威主義的政策が透けてみえている。(1)労働者反対派の断罪、(2)党の方針に反対の者が現われた場合、それが反対派として組織されることを許さぬ体制、(3)指導機関に除名の手段を与えたこと、等がそれである。この二つの方向の組み合わせという事実によって、その後党が直面した数々の困難、数々の変遷は説明される。党は、民主化の理念と権威主義的機構とを、ともに保持した。将来の問題とはまさに、この二つの要素のうちどちらがより強大になるか、理念か機構か、ということになるであろう。
4、第十回党大会で決定された転換とその影響
第十回党大会で決定された転換は、国家として創設された国家でありながら、革命的国家でもあるソ連邦の、対外的立場にも反響を及ぼすことになった。一九二一年の安定したソヴィエト連邦は、もはや、外部世界からの救済が即座にもたらされることを待ち望まねばならない立場にはなかった。革命によって変ることのなかった国際社会の中で、平和的にしばらくは存続することが可能になったのだ。
隣接諸国との間ですでに一九二〇年よりその気配がうかがわれた接近政策は、一九二一年よりは、ヨーロッパ列強へと拡げられていく。ソ連を法律上ないし事実上承認する国はますます増えていき、やがて、ヨーロッパ諸国の首都の大部分には、ソヴィエトの大使館や通商代表部が開設されることになる。ロイド・ジョージ〔イギリス首相〕は、自分のヨーロッパ再建計画に、ソ連も加えようと努力して、一九二二年、ジェノヴァ会議に招く。その機会にソ連は、ドイツとラッパロ条約を結び(ソ連の承認と、両国間の負債の相互の取消し)、これによってソ連の孤立状態には現実に終止符が打たれるのである。
一九二一年七月にモスクワで行われた、コミンテルン第三回大会は、こうした変化を追認する。「国際情勢に関する報告」は、一九一七年から二一年までの四年間の革命的期間は「世界資本主義も、ヨーロッパ資本主義さえも打ち倒すことなく」、終りを告げた、と指摘する。プロレタリアートは、当面防御の立場に追いやられた。したがって、己れの直接的利益を護るために戦わなければならない。こうして第三回大会は、革命運動の一時的停止を確認することによって、暗々裡に、長期的な革命への希望を総てソ連邦にこめることになった。(1)ソヴィエト国家の利害と、(2)世界革命の利害は、まだ公式に同一視されてはいなかったが、きわめて緊密に結びつけられはじめたのである。
〔小目次〕
ネップは古い経済構造の一部を蘇らせるものであったが、その推進者はそれを全面的後退だとは考えていなかったし、もちろんイデオロギー的後退だとも思っていなかった。それどころか、ボリシェヴィキ党はこの期間に、政治生活と人々の精神に対する独占を、さらにいっそう強めようとした。この独占をまず第一に強める対象は、現存の諸政党であった。ネップは、(1)ブルジョワ革命の開花を待つべきであるとするメンシェヴィキと、(2)個人としての農民の権利を一貫して擁護してきたエスエルの提案に対する譲歩であるようにみえた。
それゆえにこそレーニンは、この二つの党を彼らが力説してきた当の政策に参加させることは考えられず、彼らを存在させておくことは不可能であると、断言したのである。ラデックは、この見解を支持して、一九二一年五月の第十回党協議会で、次のように発言している。「われわれがメンシェヴィキの政策を採用したこの時にあたって、メンシェヴィキに自由な行動を許すなら、彼らは権力を要求するだろう。膨大な農民大衆が共産主義に反対している現状において、エスエルに自由な行動を許すなら、われわれは自分の首を締めることになる。」
社会主義諸党を、法的にではなく事実上非合法化してしまったことは、党がそれ自身の活動家に対して採用した権威的政策の必然的結果であった。経済面での一歩後退は、(1)政治的監視の発達と、(2)プロレタリアートの−つまり、党の−独裁の強化を伴ったわけである。この独裁のみが、社会主義の理念を維持していたのだ。ネヅプの間、レーニンは、第十回党大会でジノーヴィエフが表明した思想を、自分の考えとしてとりあげて、次のように述べている。「共産党の鉄の独裁なしには、ソヴィエト権力は、ロシアにおいて一〇年、いや三年、いや三週間さえももたなかっただろう。自覚的労働者はだれであれ、プロレタリアート独裁は、その前衛たる共産党の独裁によってのみ実現されることを、認めなくてはならない」。
しかしながら、党の独裁と大衆、つまり自分たちの利益に傍目もふらぬ農民や幻滅した労働者との間には、この時期にはひとつの溝が存在した。そして、この面においても、ボリシェヴィキ権力は、大衆と自分の間に、他のイデオロギー的影響を入り込ませまいとの意志を示し、ネップの平穏化した空気の中で、社会全体の統合の政策を、時間をかけながら遂行していくのである。この意志は、ギリシア正教会および非キリスト教の諸宗教に対する態度の中に、とりわけ明白に現われている。
正教会の地位は、すでに一九一八年の政教分離の布告によって、確定されていた。しかし、地方的にはいきすぎもみられ、内戦期には聖職者の中に反革命側につく者があったりしたが、それでも一九二一年までは、国家は教会に対して控え目な態度をとっていた。ネップの開始とともに、ようやく国家は、宗教の影響を縮小するための政策に踏み出すのである。一九二二年に、美術工芸品の所有をめぐって、教会と国家の問に危機が持ち上った。教会は、飢饉の救済のために財宝を売却することを申し出たが、典礼に用いられる品物まで売却の対象とすることは、拒絶した。
この紛争は、まず教会の階級秩序そのものを二分し、ついで教会と政府との対立となったわけだが、やがて、教会内部に分裂−そして、「生ける教会」の誕生−をもたらすと同時に、弾圧を招くような事件を、いくつか引き起すことになった。裁判が行われ、死刑の判決が下された。死刑執行された聖職者の中には、ベンヤミン総主教も含まれていた。一九二二年に、正教会は八〇〇〇人以上の犠牲者を出したのである。
権力はまだ公然と教会を攻撃していなかったが、(1)その行動の自由を制限し、(2)とくに一連の反宗教教育を展開した。一九二二年二月、最初の反宗教的出版社「無神論社」が発足する。十一月には、宗教と戦う手段をめぐる研究集会が、モスクワで開かれる。クリスマスには、キリスト生誕を揶揄する最初の行列が、首都の通りを練り歩く。(3)翌年になると、反宗教プロパガンダはより系統的に組織されてくる。二つの機関誌が創刊される。一つは、『アティスト』(無神論者)で、五日に一度刊行で、階層に応じていくつもの版を出し、もう一つは、絵入り月刊誌の『ベズボージニク・ウ・スタンカー』(仕事台についた無神論者)である。一九二三年の復活祭には、瀆神的行列がすべての重要都市で行われた。しばしば一〇万部にも及ぶ反宗教パンフレットが、農村に撒かれ、子供たちは学校で、挙手によって「神の死」を票決した。
ロシアおよび中央アジアを専門とするフランスの女性歴史学者・国際政治学者。アカデミー・フランセーズ終身幹事、欧州議会議員。パリの政治学院卒、ソルボンヌ大学で歴史学博士号、さらに同校で文学・人文科学国家博士号を取得、母校で教鞭を執った。ソルボンヌ大学教授とパリ政治学院のソ連研究課程主任を兼ねている。また、シカゴ大学のソ連民族問題研究グループにも属し、中央アジアを担当してきた。その研究分野は、ロシアおよびソ連史、中央アジア史、ソ連の外交政策ときわめて広範囲に及び、さらに、一般に現代世界における民族問題に特別な開心を寄せている。
主な著書に、『崩壊したソ連帝国』(1981.増補新版1990)、『民族の栄光』(1991)、『甦るニコライ二世』(2001)、『エカテリーナ二世』(2004)(邦訳、いずれも藤原書店)、『ソ連邦の歴史』(1985年)、『パックス・ソビエチカ』(1987年)(以上、新評論刊)、『未完のロシア』『ユーラシア帝国』(邦訳、藤原書店近刊)など。
ソ連崩壊後の1998年出版が、別ファイルに一部引用した『レーニンとは何だったか』(藤原書店、2006年6月)である。
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〔関連ファイル〕
『奪われた権力』ソ連における統治者と被統治者
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稲子恒夫『1920、21年のソ連とソ連共産党年表』ボリシェヴィキ不支持者・政党浄化
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大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』1921年
1921年クーデター政権崩壊危機とレーニン選択の4作戦
分派根絶・一枚岩統一功績と党内民主主義抑圧犯罪の二面性
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『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『見直し−レーニンがしたこと、レーニン神話と真実』レーニン批判ファイル多数