ロシア1920、21年〔コラム〕−8つのテーマ
赤色テロの犠牲者数、新経済政策(ネップ)はなにか
プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化
稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』 (宮地抜粋)
(注)、稲子編著書は、1920年年表、21年年表の後に、テーマ別に分析した〔コラム〕(P.178〜183。197〜200)を書いている。〔コラム〕は、1920年の6テーマで分析している。これらはかなり長いので、〔目次〕のように一部抜粋にした。転載したテーマについては、訂正・削除をしていない。1921年の5テーマはすべて転載をした。私の判断で、各色太字・番号とリンクを付けた。
〔目次〕
1、モスクワの生活 2、戦争と革命の犠牲者数 3、赤色テロの犠牲者数
〔1921年コラム〕−すべて転載
1、新経済政策(ネップ)はなにか 2、プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化
3、1918〜22年の農民反乱の名誉回復についてのロシア連邦大統領命令
4、1921年春のクロンシュタート市の事件についてのロシア連邦大統領命令
5、都市犯罪の増加
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ
『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデタ
『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1920、21年コラム』
『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数
他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
『1921年の農民反乱とクロンシュタット事件』ファイル・データ多数
1、モスクワの生活
法学者ヴェセローフスキー(1876〜1952)の日記から
20.12.28 モスクワは死につつある都市の姿だ.市電は動いてない.辻馬車もほとんどない.幹部の,また幹部でない「勤務員」が乗った自動車さえ,たまにしか走っていない.
21.1.1 飢えをふつうの食生活の完全な崩壊,慢性化した食べ物不足だと理解するなら,飢えはだいぶ前から存在したし,月ごとにひどくなっている.食事の乱れは不十分な食事より重大で危険である.魚は鮮魚も乾物もずっと前からなくなり出し,今はまったくない(モスクワとその近郊で).肉はほとんどないし,あったとしても非常に高く,しかも馬肉か,あまり食べたことがない子牛か子羊の肉だ.甘いものはない.今は塩も急になくなりつつある.
もっとひどいのは油脂類で,バター,ベーコン,そして植物油がほとんどないことだろう.ミルク,乳製品,チーズはほとんどなく,あっても質がわるくて値が高いから,大部分の市民には手がとどかない.たとえわれわれが住むモスクワ郊外でも1びん100ルーブルする.白パンは非常に多くの者がもう2年間以上食べていない.市民の食生活は全体的にそこなわれているが,農村も非常にひどい.
21.1.6 1週間以上,マイナス20度の寒さだ.モスクワの生活は,たぶん耐えがたいだろう.中央暖房の家屋の大部分が,水道も下水も寒さでダメになっているだろう.こんな状況では,今後どのように暮すか,考えることもむずかしい.これがいわゆる「住宅問題の解決」だ.木造家屋はこわされ,燃やされているが,立派な新しい石造家屋は不便だ.つまり暖房システム,水道管,下水管が埋められている.
第1次大戦と十月革命後の大動乱で,ロシアの人口は減ったが,正確な数は分からない.
パイプス『ロシア革命史』の推定では,第一次大戦でのロシア軍の損失は,戦死,戦傷死130万,捕虜になった者390万.内戦の死者は赤軍約100万,白軍12万7000.赤色テロの犠牲者5〜14万,伝染病による死者200万以上,国外流出150〜200万,1920〜22年の餓死者510万.
『20世紀の戦争におけるロシアとソ連.兵力の損失.統計的研究』(2001年)は,1914〜1918年の第一次大戦でのロシア軍の損失を,死者225万4400,戦傷病者374万9000,捕虜334万3900,総兵力1550万の60.3%とし,1918〜1922年の赤軍の損失は98万741,戦傷病679万1783としているが,白軍,緑軍の損失にはふれていない.『共産主義体制と人民の抵抗.1917〜1991年』(2002年)は,戦闘による死者は赤軍226万人,白軍17万人としている.
戦闘による死者のほか,1918〜1922年には伝染病,飢餓,出生率の低下,難民と亡命者の出国の結果,ロシアの人口は大きく減った.ある計算によると,旧ロシア帝国からポーランド,フィンランド,ラトヴィア,エストニア,リトアニア,西ウクライナ,西ベロロシア,カールス州(アルメニア),ベッサラビア(以上人口合計3100〜3200万)をのぞく地域の1921年初めの人口は,約1億3500万であり,この数は1914年の同じ地域の人口より2500万以上少なかった.
別の計算では1918〜23年の内戦での戦闘,赤色テロと白色テロ,飢餓,チフス,コレラなどの伝染病その他による人口の減少は1300万であり,出生率の低下を計算にいれると人口の喪失は2300万である.またある教材は内乱の人的損害を1500万,別に国外移住200万としている.
権力による政治的理由でのテロはスターリン時代に特に1930年代後半に大規模に行われた.その前史であるレーニン時代の赤色テロはレーニン評価が関係しているため,具体的な事実が関係するレーニンの著作をふくめ秘密とされてきた.1990年代から多くの極秘資料(レーニンの著作をふくむ)が公開され,革命直後から始まった赤色テロの事実が明らかになった.しかし赤色テロの犠牲者,レーニンの言う「社会の害虫」の正確な数は分からない.
1920年にヴェチェカーのラーツィスが公表した数は,1918年6185または6300人,1919年1〜7月2089人であり,その内農民3082人,反革命組織の参加者2074人,その他1704人である(総計は合わない).1918年に出た『チェカー週報』によると,1918年秋に銃殺された者2212人である.ヴェチェカーが統計を作らなかった時期があるため,赤色テロの犠牲者の総数は分からない.そのため歴史家は部分的な資料をもとに,さまざまな数を推定している.パイプスは5〜14万としているが,クリミアに残された資料による研究は,1920〜21年のクリミアだけの犠牲者は9万6000としている.
『論拠と事実』紙2000年第51号は,赤色テロの犠牲者の次の数字をあげている.アカデミー会員,作家,芸術家,学生16万,旧政権の官僚,将校,商人17万,旧政権の警察官5万,司祭4万,労働者農民130万.
労働者農民の数字は内戦での白軍と緑軍(農民反乱軍)をふくむ推定死者数だろう.
反ボリシェヴィキー側もテロを行った.彼らはチェカーの者,赤軍を指導する党員(コミサール)を捕まえると殺したし,農民から財産をうばった.しかし赤色テロとちがい,白色テロは白色政権の政策による組織的行為ではなく,ヴェチェカーのような機関が作られなかったし,テロは個々の地域,勢力,部隊の行為だった.したがって白色テロの犠牲者は赤色テロよりはるかに少なかった.そのためソビエト時代の文献は白色テロの個々の事例をあげたが,その犠牲者総数は記さなかった.
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
〔1921年コラム〕−すべて転載
〔小目次〕
1、新経済政策(ネップ)はなにか 2、プロレタリアート独裁の完成、自由抑圧のシステム化
3、1918〜22年の農民反乱の名誉回復についてのロシア連邦大統領命令
4、1921年春のクロンシュタート市の事件についてのロシア連邦大統領命令
5、都市犯罪の増加
ロシア共産党の突然の政策転換をもたらしたのは,タンボーフ県と西シベリアの農民反乱,クロンシュタートの反乱,ペトログラードの労働者のなかの反共産党気運である.ソビエト政権が存亡の危機に陥ったので,ロシア共産党は1921年3月の第10回党大会で反乱の要求の一部を受け入れて,戦時共産主義を捨て,新経済政策(Novayaekonomicheskaya politika,略称NEP,ネップ)への転換を決めるとともに,反乱を徹底的に鎮圧した.
ネップは農家から「余剰」穀物を暴力的に奪う割当供出の廃止,これにかわる収穫におうじ農家に穀物を残す食糧税の実施から始まり,布告の積み重ねで次の内容をもつものになった.
1.農業での個人経営の保護.販売,購買などの農業協同組合の奨励
2.余剰穀物の販売の自由,都市と農村間の商品経済の復活
3.農業以外での零細経営,小企業の自由.動力使用の場合は従業員10人以下,使わないばあいは2人以下
4.国有企業の一部のリース契約による経営の民間(私企業,協同組合)委託.1922年末のリース企業数は3874,従業員数6万9900人(1企業平均18人).委託企業の大部分は私企業,約3分の1は協同組合
5.商業の自由,配給制度の廃止,公益事業の料金復活,市場経済の全面復活
6.国民経済の管制高地である銀行,大企業の国有堅持
7.国有企業の独立採算制への移行
8.国有企業間の取引も契約による.ただし重要な取引は政府機関の指図による
9.利権契約(特許契約)による外資導入
10.貿易の国家独占(貿易人民委員部だけが貿易).貿易の国家独占の名目は国内経済の保護が目的だったが,1920年代後半に国家が農民から安値で調達した穀物を国際価格で外国に売り,これによる利益を工業化のための財政投資にあてるという,農業から工業への資金の「汲み替え」に利用された.
新経済政策(ネップ)についての,レーニンの主張は一貫していなかった.彼はロシアの労働者は政治権力だけでなく,工業と運輸の生産手段の圧倒的部分を国家権力の手中に収めているから,社会主義建設の途上で管理の仕事を資本家に学びながら,彼らと競争して彼らに勝ち,ネップのロシアは社会主義のロシアになるだろうと,新経済政策が長期的政策であると語った.
しかしレーニンは内々の非公開の覚書では,ネップにおける経済的テロ,つまり私的商人,資本家の弾圧の必要をくりかえし主張した.彼はネップは長期的な路線ではなく,戦略的な退却であると言明した.たとえば1922年3月の党大会で「われわれは1年間退却した.われわれは今日党の名でもう十分だと語らなければならない.退却により追求した目標は達成された.この時期は終ろうとしているか,終った.今日目標とされるのは別のことであり,力の再編成である」と語った.
さらに彼は1922年11月の生前最後の演説では,次のように新経済政策からの転換を予告した.「われわれはあるジェスチャー,ある運動をしている.いまは後退し,いわば後退している.われわれがこれをしているのは,後退し,それからはずみをつけて,これより強く前へ跳ぶためである.この条件のもとでだけ,われわれはネップの実施のとき後退した」(22.11.20参照).
レーニンは1923年2月に病床で,前年11月の自分の演説にふれないで,農業についてだけ,ロシアはネップをつうじて社会主義へ移るが,それには10〜20年かかると口述したが,農業以外でのネップの意義にはふれなかった.
党の指導者の多くはネップは戦術的な後退であると考えていた.トローツキーはネップを一時的な政策と考えており.ネップは息つぎであり,ヨーロッパ革命や世界革命の旗印をかかげてすすむ行進中の兵士の休息と考えた.
スターリンの『レーニン主義の概要について』(『レーニン主義の基礎について』)はレーニン主義からネップ関連を除いている.ブハーリンの手記によると,1925年の初めにスターリンは彼と経済について真剣に議論した.そのときスターリンは,長いあいだネップにたよれば,「社会主義的要素を窒息させ,資本主義的要素を復活させる」と言い張った.彼は経済法則の作用を理解できず,「プロレタリアの圧力」,「党の指令」,「練り上げた路線」,「潜在的搾取者の制限」などに期待していた.スターリンはネップを戦略的退却とするレーニンの教えに忠実だった.
ロシア共産党には,ネップの本質を明確に示す決定が一つもなかった.これについて左派の理論家プレオブラジェーンスキーは23.10.15『プラウダ』紙で,次のように記した.「われわれはネップの原則的決定を一つももっていない.…もう半年以上もわがソビエト号はネップの汚れた水の上を航行している.われわれが濁ったというのは,道徳とか処女懐胎した社会主義の観点からではなく,この水を見分けることがむずかしいからである.……どこからわが船の舷側であり,どこから自然現象のネップの濁り水であるかを決めることは困難である」.1923年秋に,ボリシェヴィキーの指導部は,ドイツで革命が勝利したときはネップの廃止もありうると,公然と語った.
このなかで例外的にブハーリンはネップの積極的意義を説き,先に見たスターリンの考えを念頭に入れて,1925年に『ボリシェヴィキー』誌に発表の論文「ネップとわれわれの任務」で,次のように書いた.「レーニンが食糧税のパンフレットで,正しい経済政策と呼んだネップの意味は,かつては戦時共産主義のかぎがかかっていたため,成果をあげられなかった多数の経済的要因が,今はたがいに結実することで,経済成長を促進できるようになったことである.ネップとは締め付けをもっと少なく,流通の自由をもっと多くということである.なぜならこの自由はわれわれにとり,危険はより少ないからである.行政的介入をもっと少なく,経済闘争をもっと多く,経済流通をもっと多く.私的商人との闘いは,彼らを踏みつけ,閉店させることでなく,彼らより安く,良い,良質の物を生産し,売ることに努めることである」.
しかしこの考えはロシア共産党中央の公式な政策ではなかった.これとはちがい,中国では1980年代から,中国共産党中央が経済の改革開放の路線をしめす重要決定を何度も公表し,そのため改革開放路線が長くつづき,「社会主義の道の堅持」は名目だけになっている.
梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』レーニンの「労農同盟」論を否定
『幻想の革命』十月革命からネップへ これまでのネップ「神話」を解体する
『共産主義「幻想」と1921年危機』現物税の理念と現実
2、プロレタリアート独裁の完成,自由抑圧のシステム化
ネップは経済だけの改革であり,政治のネップすなわち政治の民主化の要求は拒否された.21.3.16のロシア共産党第10回大会で労働者反対派,民主的中央集権派は党の民主化を要求をしたが,大会は分派禁止でこれに答えた.
ネップによる食糧割当供出の廃止,商業の自由はメンシェヴイキーと,社会革命党が主張していたことだから,共産党はこれらの党の影響をなくすため,メンシェヴイキーと,社会革命党を弾圧し,農民が「農民同盟」のような自主的な政治組織を持つことも禁止して,一党制を確立し,信仰,言論,報道,学問の自由を最終的に否定し,検閲制度を確立した.図書館から共産党批判の本が消え,代表的な知識人が国外に追放された.
強大な政治警察である国家保安機関が,臨時のヴェチェカー(全ロシア非常委員会)から常置の国家保安局(ゲペウー)に昇格した.
政治的自由が完全に消えたロシア(ソ連)では,政治的な論争と対立は共産党中央委員会政治局というコップの中だけの嵐になり,その中で書記局と組織局という実務機構をにぎるスターリンの権威主義が生まれ,すぐに個人独裁が成立した.
大藪龍介『党内分派禁止と反対政党の撲滅。民主主義の消滅』レーニンの犯罪
『レーニン「分派禁止規定」の見直し』1921年の危機、クロンシュタット反乱
『トロツキー「労働の軍隊化」構想と党内論争』企業「軍隊化」での労働者スト激発と弾圧
3、1918〜22年の農民反乱の名誉回復についてのロシア連邦大統領令(96.6.18)
1918〜22年の農民反乱に参加したことで弾圧されたロシア市民の歴史的正義と適法な利益の復活のために,政治的弾圧の犠牲者復権のロシア連邦大統領付置委員会の結論にしたがい,次のことを決定する.
1.1918〜22年の反乱に参加した農民に対する政治的弾圧を非難する.
2.1918−22年の農民反乱の参加者に対する弾圧は,人間と市民の基本的権利の侵害と認める.
3.1918〜22年の反乱に参加した農民は,政治的弾圧の犠牲者復権のロシア連邦の法律第4条C号の定める武装勢力の参加者であると認めることはできない.
4.親が1918〜22年の農民反乱に参加者だった者も,名誉回復の対象になる.
『革命農民への食糧独裁令・第3次クーデター』農民への内戦開始・内戦第2原因形成
4、1921年春のクロンシュタート市の事件についてのロシア連邦大統領令(94.1.10)
1921年春のクロンシュタート市の歴史的真実と,武装反乱のかどで弾圧されたロシア市民の適法な権利の復活の目的で,政治的弾圧犠牲者の名誉回復のロシア連邦大統領付置委員会の結論にしたがい,次のことを決定する.
1.1921.3.2労働防衛会議決定の,1921年春のクロンシュタート事件の参加者を法律の外におくという第1条を取り消す.
2.武装反乱のかどでクロンシュクートの水兵,兵士,労働者に対し行われた弾圧は違法であり,人間の基本的な市民的権利の侵害であると認める.
3.クロンシュタートに,1921年春のクロンシュタート事件の犠牲者の追悼像を作る.
『革命水兵の平和的要請鎮圧・第6次クーデター』水兵・労働者14000人の皆殺し
『クロンシュタット事件』ファイル多数
5、都市犯罪の増加
新経済政策による市場経済と私企業の復活は,さしあたり軍からの大量の復員,失業者の増加,餓えた農村からの農民の流入により,都市の犯罪の増加をもたらした.ペトログラード市での登録違法行為数は1920年は1万6806だったのが,1922年は2万6710だった.ペトログラード警察の統計は,次のように犯罪の増加を記録していた.
1921年 勾留6万7384,捜索2万7771,非常警戒4706,逮捕:反革命分子2824,武装分子7312,常習盗賊5万6980,脱走兵4万4639,労働忌避者8万9563,押収:小銃4747,機関銃79,短銃2704,銃剣608,武器の使用856.
1922年前半 勾留19万6947.捜索8万3829.非常警戒1万2432.逮捕:反革命分子1401.武装分子7973.常習盗賊3万8456.脱走兵2万2801.労働忌避者1万2322.押収:小銃5012.機関銃97、短銃5128.銃剣716.武器の使用2240.
1922年11月に『ペトログラード・プラウダ』紙は,「広範な大衆は夜12時以後は街に出るな,身ぐるみ剥がれると思っている.強盗はずうずうしくなっている.日中“外套は9時前はあなたの物,その後はわしらの物”の広告が貼られている」.
新聞は犯罪報道に力を入れているが,バラバラ殺人の記事が多かった.街角のショーウインドには,殺人被害者と容疑者の写真が貼ってあった.
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〔関連ファイル〕
『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデタ
『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデタ
『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『1920、21年コラム』
『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』
『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数
他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質
レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター
『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計
『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書
『1921年の農民反乱とクロンシュタット事件』ファイル・データ多数