ロシアの20世紀−年表・資料・分析

 

「はしがき」全文と「あとがき」全文

党治国家、あらためて知るレーニン時代、レーニンの真実など

 

稲子恒夫編著

 〔目次〕

     宮地コメント

 
   1、はしがき (全文)

   2、あとがき (全文)

      1、揺れ動いた20世紀のロシア

      2、極秘文書の公開の前と後

      3、個人情報

      4、法と人権

      5、党治国家

      6、あらためて知るレーニン時代

      7、党の秘密

      8、革命の前と後

      9、レーニンの真実

     10、スターリン主義の起源

     11、日露(日ソ)関係

     12、チャストゥーシカとアネクドート

   3、編著者略歴と主要著作

 

 〔関連ファイル〕             健一MENUに戻る

    『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデター

    『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデター

    『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1918、19年コラム』

    『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1920、21年コラム』

    『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1922年コラム』

 

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数

    『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』

       他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質

       レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター

 

 宮地コメント

 

 〔小目次〕

   1、稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』の意義と位置づけ

   2、日本人研究者における「10月クーデター」説の4人目

   3、年表項目の抜粋基準と理由

 

 1、稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』の意義と位置づけ

 

 これは、稲子恒夫名古屋大学名誉教授編著『ロシアの20世紀』(東洋書房、2007年4月、1069頁)の「はしがき」(P.3〜8の全文)と「あとがき」(P.999〜1011の全文)の転載である。稲子教授はソ連法学・ソ連史研究者であり、多くの著書がある。著者は、この編著書を、1991年ソ連崩壊後に発掘・公表された大量の極秘資料を収集・分析し、70歳・1998年から80歳・2007年にわたり、自分でパソコンに入力し、途中脳梗塞になりつつも、10年間掛けて完成させた。

 

 年表範囲は、20世紀全般だが、レーニンの最高権力者5年2カ月間の極秘資料とコラムを含む画期的な研究になっている。著書の構成として、各年度の年表を多数の極秘資料に基づいて精密に記述し、年度ごとに〔コラム〕としてテーマ別に新しい視点での分析をしている。この内容レベルは、日本において、極秘資料に基づく最初の年表・資料・分析文献となった。

 

 というのも、今まで日本において、ソ連史の年表・資料文献は2つしか出版されていないからである。()『ロシア史(新版)(山川出版社、1979年)の巻末年表32頁があるが、ここにはソ連崩壊後の極秘資料をまだ含んでいない。()(新版)ロシアを知る事典』(平凡社、2004年、1090頁)のテーマ・項目別解説と巻末年表12頁は、ソ連崩壊後の新版だが、極秘資料による新分析をわずかしか入れていない。

 

 2、日本人研究者における「10月クーデター」説の4人目

 

 私は、この編著書執筆中の稲子宅に、大須事件問題の取材で伺ったが、この出版後、健康をかなり崩され、転載の了解を得られる体調でなくなった。やむなく、出版社東洋書房に転載の了解を得て、1069頁中から、〔関連ファイル〕のテーマで、レーニン最高権力者5年2カ月間の一連の年表・コラムを抜粋しつつ載せる。5年2カ月間とは、1917年10月クーデターから、1922年12月第2回脳梗塞までである。なお、稲子教授は、〔1917年コラム〕において、()1917年10月を憲法制定議会選挙運動中のクーデターと規定した。それとともに、「あとがき」では、()憲法制定議会の武力解散もクーデターと明記した。

 

 ソ連崩壊後、日本の研究者で、1917年10月を、革命でなく、レーニン・ボリシェヴィキによるクーデターと明確に規定したのは3人いる。加藤哲郎、中野徹三、梶川伸一である。クーデター説は、稲子恒夫で4人目となった。ただ、彼は、1917年10月単独武装蜂起・単独権力奪取行為だけでなく、憲法制定議会の武力解散もクーデターとした。私は、HPファイルで、レーニンの7連続クーデター説を提起しているが、彼の規定は、2連続クーデター説と位置づけられよう。欧米研究者6人と合わせると、「10月クーデター」説の研究者は10人になる。

 

    『1917年10月、レーニンがしたこと』「10月クーデター」説の欧米研究者5人文献

    ダンコース『軍事革命委員会の創設は、紛れもないクーデター』欧米研究者6人目

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』レーニンの7連続クーデター説

 

 3、年表項目の抜粋基準と理由

 

 ここでは、レーニン5年2カ月間年表と〔コラム〕だけを、抜粋・転載する。それだけでも、膨大にあるので、年表については、その中から、レーニン・チェーカーによる()ボリシェヴィキ不支持者・政党すべて排除・浄化作戦項目と、()それと表裏一体だった意図的な一党独裁体制追求路線項目を年月日順に抜粋・転載する。

 

 ()()項目だけを特別に抜粋・転載する理由は次である。

 ソ連崩壊後のヨーロッパでは、「レーニン秘密資料」6000点を含む極秘資料の公表・出版やその新年表出版が大量になされてきた。それによって、レーニンによるロシア革命勢力数十万人の大量殺人・収容所送り・国内外追放などの犯罪事実や、プロレタリア独裁国家成立・労農同盟成立などがウソ・詭弁だったことが、左翼・有権者にとって常識になっている。さらに、レーニンは10月クーデター時点から、一党独裁体制を目的意識的に追求し、そのため、ボリシェヴィキ不支持者・政党粛清・浄化する命令を出し続けた事実も常識になった。

 

    第9部『レーニンが最高権力者5年2カ月間でしたこと』ウソ・詭弁と大量殺人犯罪データ

 

 しかし、ソ連との大陸地続き・共産党犯罪の生情報流入・亡命者300万人のヨーロッパの常識は、21世紀東方の島国日本において、依然として常識になっていない。レーニンの犯罪事実ウソ・詭弁内容はほとんど知らされていない。それどころか、「レーニン神話」信奉者が、左翼・有権者の中で、異様なまでに多数残存する資本主義世界で唯一の特殊な島国になっている。その視点に基づき、レーニン最高権力者5年2カ月間の年表から、()()項目を浮き彫りにする年表箇所を抜粋する。

 

 なぜ、東方の島国にのみ、資本主義世界における前世紀の赤き遺物政党=コミンテルン博物館型政党残存しているのか、という疑問については、下記リンク別ファイルで検証した。たしかに、ポルトガル・フランス・日本では共産党名政党がまだある。しかし、ポルトガル共産党は、1974年、試金石とされるプロレタリア独裁理論・実践を誤りだったと党大会で放棄宣言をした。フランス共産党は、プロレタリア独裁理論・民主主義的中央集権制・マルクス・レーニン主義の3原則放棄宣言を党大会でした。よって、その2党は、もはやレーニン型前衛党でなくなっている。よって、日本共産党だけが、レーニン型前衛党5原則の放棄宣言をかつて一度も、一つもした事実もなく、それらを隠蔽・略語・名称変更による姑息な全面堅持をした政党として残存していることになる。

 

    『「十月クーデター」説に関するヨーロッパと日本の認識格差とその原因・経過』

 

 抜粋する期間の年表項目・〔コラム〕箇所だけでも膨大になるので、〔関連ファイル〕にあるように、このファイルを含む8回に分ける。なお、私の判断で、各色太字や番号を付けた。

 

 

 1、はしがき (全文)

 

 ロシアの20世紀は激動の100年だった.三つの革命があり,1917年の十月革命で生まれた社会主義政権は74年後の1991年に崩壊した.むかしのロシア帝国はソ連に変わったが,ソ連は1991年になくなり,その跡にロシア,ウクライナなど15の独立国が生まれた.ロシア(ソ連)は日露戦争,第一次世界大戦と内乱,ナチス・ドイツとの戦争を体験し,戦争で膨大な数の人が死んだ.

 

 国有化と農業集団化で,資本主義と個人経営がなくなり,社会主義が実現され,何回かの五カ年計画により,むかしの農業国はたくさんの工場をもつ大工業国になった.しかし農業は不振で,20年代初めと30代初めに飢饉でたくさんの人が死んだし,日常生活に必要な物がたえず不足しており,社会主義が約束した豊かな生活は実現されなかった.それでもソ連は共産主義へ向かっているとされた.革命直後からたくさんの「人民の敵」,「反革命分子」が弾圧されたが,犠牲者の数は極秘になっていた.いちばん不足していたのは情報であり,多くのことが外国人だけでなく,自国民にも知らされていなかった.

 

 この20世紀ロシア(ソ連)の理解のためには年表が必要だが,今までの年表はあまりにも簡単であり,人びとの記憶に残った多くの重要事件が載っていなかった.ソ連で作られた年表はソ連共産党製だったから,同党に都合が悪いことは年表に載らなかったし,一度年表に載った事件や人でも,党の政策が変わると,そのあとの年表には載らなかった.ソ連国外の文献はソ連の文献にない事実をあげていたが,これらは断片的で体系的ではなかった.そのため20世紀のロシアを総合的に知ることはむずかしかった.

 

 時代は変わった.ソ連末期の改革派の新聞雑誌や本は,隠され,忘れられていた事件と人物を語りはじめ,スターリン時代以後の多くのことを明らかにした.しかしレーニン時代はまだ霧につつまれていた.秘密の箱が開かれたのは,1991年のクーデターの失敗後に,ソ連共産党中央委員会とソ連国家保安委員会(KGB,カゲベー)保存の極秘文書が,ロシア連邦大統領府の文書館に移されてからである.1992年からロシアの新聞雑誌や本は,レーニン時代をふくむ,隠されていた文書をつぎつぎと載せ,1990年代半ばからは極秘文書を集めた資料集が多数出ており,極秘文書使った研究の発表がつづいている.

 

 公開の文書のなかには,レーニンの意外な事実を伝えるものがあり,レーニンは基本的に正しかったが,スターリンは重大な誤りをおかしたというたぐいの,レーニン論の根本的見直しが必要になった.トローツキーについても多くの事実が明らかになり,そのなかには,自分を語ることに熱心だったトローツキーが触れなかったこともふくまれている.スターリンが関係する文書も大量に公開された.共産党中央委員会政治局の決定,レーニンやスターリンの極秘の指示,秘密の法令,党中央委員会の各部の文書,地方党機関からの党中央委員会への報告,さらにカゲベー(KGB)保存の文書も公開されつつある.いろいろな秘密統計,犯罪,とくに反革命犯罪の統計,ソルジェニーツィンのいう収容所群島の人口も判明した.

 

 極秘文書,とくに地方からの秘密報告,ソ連検察庁保存文書が多くの事件や経済と生活の実際,世論の動向を記録していたことが判明したし,グラヴリート(検閲機関)の文書やカゲベー(KGB)保存の文書が,作家など知識人の動向を克明に記していた.パステルナーク,ソルジェニーツィン関係の極秘文書も公開された.人びとがなにを考え,どのように暮らしていたかを書いた個人の日記や回想も,同時代の証言として紹介されつつある.

 

 われわれが特に関心をもつ日露関係,日ソ関係については,日本の文献だけでなく,公開されたロシアの文書も利用できるようになった.

 

 またソ連時代には多数の文献が発行禁止になり,図書館のたくさんの本が閲覧禁止になったが,ソ連末期にこの禁止が解除になり,重要なものが再版になり、過去の禁じられた著作を利用した研究の発表がつづいている.

 

 この年表は,これらの資料を利用したので,20世紀のロシアについて膨大な数の生きた事実を記すことができた.20世紀ロシアの情報の公開はまだつづくから,これからもまだ多くの事実が判明するだろう.

 

 しかし文書の保存は完全ではなかった.1917年の二月革命のとき,怒った群衆が警察を襲撃して文書をばらまき,焼いてしまった.そのため革命前の犯罪の記録や,秘密警察が革命政党に送りこんだスパイ関係の文書がなくなった.十月革命後も文書の破棄がくりかえし行われた.革命直後には登記簿や会社の書類,株式,債権,裁判所,金融機関の書類が破棄され,故紙として再生された.そのため私有や私企業にかんする資料の大部分がなくなってしまった.革命後の文書も政治的な判断で処分されたものがあり,また保存文書を「浄化」するキャンペーンが何回か行われ,そのため1980年代末まで連邦文書総局ではなく,ロシア文書総局管轄のアルヒーフだけでも,9000万以上の文書が破棄された.文書の破棄はソ連末期に19913月のソ連共産党書記局の決定でも行われ,約660万の文書の破棄が決まったが,実際に234万の文書が破棄された.1991年のクーデターのとき同党末期の文書がシュレーダーで急いで裁断された.

 

 このため革命前の文書だけでなく,ソビエト時代の多くの文書,とくに党の最高幹部が直接に関係した文書が破棄された.それでも膨大な数の文書が「秘」,「極秘」として残っていたから,これらの公開により20世紀ロシアのわれわれの知識は数千倍も豊かになった.

 

 コラム,チヤストゥーシカ,アネクドート

 

 この年表では事実のあいだの関係が分かるようにし,いくつかの問題では特別の欄〔コラム〕で解説し,分析した.

 ソ連時代の状況と政治文化を知る貴重な資料である〔チャストゥーシカ〕(作者不明の4行詩の流行歌)と口承の政治〔アネクドート〕(小話)を載せた.これらは筆者が集めたものだが,他の人が集めたチャストゥーシカとアネクドートの邦訳については,編訳者名を記して掲載した.

 

 日付

 

 日付は正確にした.参考にした文献のなかには,法令などについて新聞で報道の日付をあげているものがあるが,この年表では採択の日付にした.またロシア語でも区別されている「以前」と「前」,「以後」と「後」は正確に訳し分けた.たとえば「21日前」は21日をふくまず(「131日まで」と訳す場合もある),「21日以前」は21日をふくんでいる.

 

 国名

 

 ロシアの国名は20世紀にロシア帝国,ロシア,ロシア共和国,ロシア社会主義連邦ソビエト共和国,ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国,ロシア連邦と何度も変わった.長いロシア社会主義連邦ソビエト共和国とロシア・ソビエト連邦社会主義共和国は,本国ではRSFSRの略語を使ってきたが,この年表では単にロシア連邦共和国またはロシアとし,ソビエト社会主義共和国連邦も原則として「ソ連」としたNHK流に「ソビエト」としなかったのは「ソビエト」が普通名詞であり,別の意味をもつことによる.

 また十月革命後のソ連結成前とソ連解体後の,たとえばウクライナの事項は[ウクライナ]で示し,ソ連時代のウクライナの事項は(ウクライナ)で示した.日本についてはロシアなど外国の対日事項は《日本》で示し,日本の政府,軍などの事項は[日本]で示した.

 

 組織,機関名

 

 組織と機関の名はできるだけ正確に訳した.しかし公式の機関名にはロシア連邦共和国(RSFSR),ソ連(SSSR)の国名がついているが,国名は原則として略語にし,また中央執行委員会を中執委とするように簡略にした.

 

 おなじministrが十月革命前は「大臣」と訳し,1946年にこの職名が復活して以後は「閣僚」と訳すという不統一はなくした.1946年までの大臣はnarodnuikomissar(人民コミサール)と呼ばれたが,不適当だが慣用の「人民委員」とした.ただし「人民委員会議,人民委員会議議長.内務人民委員」などは,「政府,首相,内相」などと記した場合がある.国家保安機関は,その年に初出のときに機関名を全訳で示したが,その他はロシア語の略語であるヴェチェカー,ゲペウ一,カゲベーで示した.ソビエト・ロシアとソ連の軍は1946年の改称まで労農赤軍と呼ばれていたが,単に「赤軍」とする.外国での作戦のときは「ソ連軍」とする.

 

 一党制の時代は,政党はロシア共産党(ボリシェヴィキー),全連邦共産党(ボリシェヴィキー),ソ連共産党だけだったから,これらは単に「党」とした.党中央委員会は党中央委,党中央委員会政治局は単に政治局にするなど,機関の名は簡略にした.

 

 行政区画

 

 20世紀初めのロシアの行政区画は県,郡,市,郷(村の集合),村(村落の集合)が基本であり,辺境地方と少数民族の住む周辺部は県ではなく,州に分けられた.192030年代に行政区画の再編成があり,州,地区,市・町・村(村落の集合)の体系に変わった.このほかに州と同格の自治共和国,地方(クラーイ)があった.地方(クラーイ)には,内部に原則として少数民族が住む自治州があった.またシベリアの地方(クラーイ)には,人口が少ない先住民族のための民族管区(1977年から自治管区)があった.

 

 1991年にロシア社会主義連邦共和国は連邦国家であるロシア連邦になり,かつての自治共和国と自治州(一つをのぞく)が共和国となり,地方(クラーイ),州,自治州(アムール自治州)とともに,連邦の構成主体となった.これにともない行政区画は連邦構成主体内の自治管区,地区,市・町・村(村落の集合)だけになった.

 

 秘密文書の種類

 

 公表の秘密文書には,「部外秘,秘密,極秘,特別ファイル,親展」の指定があり,その指定が記されていない秘密文書もあった.その中にはソ連時代に「中央委決定」として存在が知られていたが,内容不明だったものがあるが,大半は存在そのものが極秘だったものである.この年表では存在が知られていたものをふくめ,秘密文書は[極秘]とした.

 

 用語の訳

 

 日本のロシア,ソ連関係の文献では法律用語に誤訳,不適訳が多いので,正確な訳を示し,たとえばkontrolは「統制」でなく「監督」,1926年のロシア刑法典の「第58条第8項」は「第58条の8」とした.文学作品中の法律用語には誤訳が多い.そこでゴーゴリの戯曲Revizorは『検察官(Prokuror)』ではなく『会計検査官(Revizor)』とし,ドストエーフスキーの小説は『罪と罰』ではなく『犯罪と刑罰』とした.クラーク(kulak)は農民を「富農,中農,貧農」と区分するときの「富農」ではないが,これにあたる日本語がないので、クラーク(富農)とし、その意味を該当する箇所で説明した.

 

 ラテン語に由来するnomenkuraturaは「ノーメンクラツーラ」ではなく「ノメンクラトゥーラ」とした.ラテン語utopiautopia]はウトーピア,フランス語,英語はユトピア,ドイツ語ウトピー,ロシア語ウトービヤであり,ユートピアでは外国で通用しないので,この年表ではユトーピア(ユートピア)とした.

 これらについては該当箇所で簡単に説明したが,くわしいことは稲子恒夫『政治法律ロシア語辞典』(1992年,ナウカ)に書いた.

 

 人名と地名

 

 ロシアの各種事典とロシア人の姓名にかんする研究書を調べて,力点のある長母音の場所に[ー]を入れた.そうすればケーレンスキーをケレーンスキーと書き,ラーデクをラデックとし,ヤーコヴレフをヤコーヴレフとするたぐいの誤りをふせげる.この原則にしたがい,たとえばトローツキー,ゴルバチョーフ,エーリツインと記した.ロシア以外の人でも力点の場所を調べて,たとえばティート(チトーではない),ドゥープチェク,ジーラスとした.

 

 地名もおなじ原則にしたがい,たとえばスターリングラードはスタリングラードとして,レニングラードとスターリングラードという不統一をなくした.モスクワのように完全に定着している地名はそのままにし,ユーゴスラヴィアも正しくはユゴースラヴィアだが,慣用にしたがった.

 

 ロシア語の表記

 

 この年表では,ロシア語はすべてラテン文字でしめした.ロシア語を知るものは,これからロシア文字に簡単にもどすことができるだろう.

 

 邦訳からの引用

 

 邦訳利用のときは訳者名を明示したが,訳語と送り仮名は統一のため直したものがある.

 

   2006年夏 稲子恒夫

 

 

 2、あとがき (全文)

 

 公開された大量の極秘情報を使って20世紀ロシアの年表を作る仕事は10年以上かかった.この仕事のきっかけはソ連の解体後に過去のロシア(ソ連)史の根本的見直しが,ロシアと欧米で始まり,これによる新しい視点の年表が出版されたことである.そのうえ極秘資料公開され,これを使った研究が発表されたので,20世紀ロシアの年表に掲載する事項が激増した.しかし20世紀ロシアの年表を作る仕事はまだ完成していない.編集で堀江則雄氏から多大の援助を受けたが,本体の制作はパソコンを使い一人でした.このような大作業を一人でするのは無理だし,かくされていた事実の公表がまだつづいており,ロシアと各国で新しい資料を使った研究が次々と発表されているから,漏れている事実があるだろう.しかも筆者は途中で脳梗塞になり,認知症予防のため病床で仕事をした.さいわい大事にいたらなかったが,足腰が弱いのに大量の資料集の山から必要な本を探し出し,持ち歩くのに苦労した.図書館にも行けなくなった.健康だったら,シベリア出兵や関東軍と「満州国」関係のもっとくわしいデータを調べられただろう.

 

 〔小目次〕

   1、揺れ動いた20世紀のロシア

   2、極秘文書の公開の前と後

   3、個人情報

   4、法と人権

   5、党治国家

   6、あらためて知るレーニン時代

   7、党の秘密

   8、革命の前と後

   9、レーニンの真実

  10、スターリン主義の起源

  11、日露(日ソ)関係

  12、チャストゥーシカとアネクドート

 

 1、揺れ動いた20世紀のロシア

 

 この年表が事実をあげて確認しているように,ロシアの20世紀は何回も左右にゆれ動いた.

 ()20世紀は専制を信条とする保守的なニコラーイ二世と改革派官僚ウィッテの拮抗から始まった(以下年表の該当頁は事項索引を参照).

 ()1905年の第一次ロシア革命は専制をゆるがし,ウィッテが書いた憲法をもたらし,革命は強権のストルイーピンの登場で終わった.この大年表で指摘したように,彼には改革者という一面もある.

 

 ()1917年の二月革命は帝政を崩壊させた.しかしこの年表はわずか10カ月の臨時政府時代の民主化の事跡を詳細に記した.しかし二月革命後の民主化の成果は定着する前に臨時政府は十月革命で崩壊した.

 ()、十月革命はチェカー(カゲベー(KGB)の前身)で支えられた強力なプロレタリアート独裁を生んだ.

 ()、十月革命もその直後の国有化その他の社会主義的変革,戦時共産主義時代の経済,農村,食糧危機と人心,赤色テロは秘密のレーニンの著作をふくめ多数の極秘文書の公開により,多くのことが判明し,従来の理解の根本的見直しが求められている.

 

 2、極秘文書の公開の前と後

 

 ()、この年表が記すように,1921年のネップ(新経済政策)への路線転換経済だけの民主化であり,ネップの湯あか(ネップマン)の弾圧,その資産没収という経済的テロをともなっていた.そのうえネップでは政治の民主化がなく教会と野党の弾圧.検閲の強化,知識人の国外追放というプロレタリアート独裁の強化をもたらした.

 

 ()、レーニンの死後,彼の神格化,党指導者の絶対化,党崇拝が始まり,スターリンは党崇拝を個人崇拝に,党の独裁を個人独裁に変え,ネップをゆっくり手直し,超工業化のため戦時共産主義時代の暴力的な食糧政策を復活させ、農業の全面的集団化を強行した.ネップがいつ廃止されたかなど,レーニンからスターリンへの移行の多くの問題が公開の極秘資料により確認できる.

 

 ()、しかしスターリンは政策に行き詰まると,一転してテロをともなうネオネップに政策を転換した.ネオネップは新憲法の制定という外見だけの民主主義をもたらした.この1930年代のネオネップ,外見上の民主化テロの共存は従来見過ごされていたが,極秘文書の公開で判明した.

 

 ()、戦後に経済再建のため改革,とくに農業改革がひそかに検討され,党綱領の改定,新憲法の準備が進められたが実現しなかった.当時,党指導部は一枚板ではなく分裂しており,ヴォズネセーンスキーらレニングラード派が弾圧され,ジダーノフによるコスモポリタン主義批判の名目での文学,芸術が弾圧された.

 

 (10)、フルシチョーフのスターリン批判の事業は彼の失脚で終わった.

 (11)、ブレージネフのネオスターリン主義と党のイデオロギー支配の強化の路線は体制内批判派と反体制派を生んだ.

 (12)、ブレージネフ死後のアンドローポフの規律強化路線が試みられた.

 (13)、ゴルバチョーフとエーリツィンから始まった本格的改革は19918月のクーデターをまねいた.

 (14)、改革はカゲベー(KGB)出身のプーチン大統領の登場で終り,彼の側近は強権派と呼ばれるカゲベー(KGB)出身者で固められている.

 

 20世紀ロシアを大まかに見てきたが,20世紀末の転換の決着はまだついていない.長かった社会主義の後遺症は残っているし,ソ連時代の官僚機構は解体されてなく,官僚主義とその副産物である汚職はなくなっていない.1992年から市場経済移行が始まったが,それは官僚主導のノメンクラトゥーラ的民営化であり,政商中心のオリガールビア(寡頭支配)とよぶ巨大企業群を生み,ソ連時代に裏経済を支配していたマフィアが表面に現われ,民営化の功罪が問われている.

 

 20世紀のロシアの政界は複雑だった.

 20世紀に入ってロシアも政党の時代に入った.年表は何十年振りに公開された当時の資料により20世紀初めと1917年の主要政党の状況の再現につとめた.1918年から70年以上つづいたソ連(ロシア)共産党の一党制のあと,ロシアはまた複数政党の国になったが,状況は複雑である.かつてのソ連共産党の保守派の後身であるロシア連邦共産党は建前は左派だが,実態はソ連時代に郷愁をもち改革に背を向ける保守派であり,右派の国粋主義勢力と提携し,そのため赤と褐色との奇妙なブロックが作られている.再建の自由主義,社会民主主義勢力は伸び悩み,プーチン時代に力が弱まった.プーチン大統領の与党は経済界や地方政界を基盤とする中道政党である.プーチン大統領は「法の独裁」を唱えており,彼の権威主義を支持する世論の圧倒的多数が「民主主義より秩序」を重視していることで支えられている.このような20世紀末からの政治システムの大転換はまだつづいている.

 

 この状況では,いつまでも『ロシアの20世紀』を締めくくることはできない.そこで20世紀ロシアについての21世紀初めのロシアの世論調査をつたえることで作業を打ち切ることにした.

 

 20世紀ロシア(ソ連)を考えるとき,次のことを考えざるを得ない.ロシアの20世紀は多難であり,二つの大戦と革命後の大動乱,政治的弾圧,テロ,飢饉で膨大な人口を失った.この年表は要所,要所で深刻な人口損失をつたえた.

 

 この年表は新たに公開の多数の極秘文書を使えたから,極秘文書公開前の従来のソ連(ロシア)研究とは内容が大分違うものになった.従来の研究は極秘文書公開と歴史の根本的見直しの史書が出た後の出版でも,これらを十分に使っていない.そのためこれらの従来のソ連(ロシア)研究とこの年表の内容大きく違っている

 

 3、個人情報

 

 年表は従来の研究説とまず指導者の個人情報ではっきり違う

 ソ連時代は指導者の個人情報は公開されていなかった.そこで今日では『首領たちの個人生活,レーニン,スターリン,トローツキー』,『素顔のレーニン』,『われわれが知らなかった首領レーニン』などの研究があり,しかもレーニン『かくされていた著作集』にはレーニンのイネーサ・アールマンドヘの愛の手紙が出ているから,本年表はこれらを利用した.人間としてのレーニン,スターリン,トローツキーについては,古文書,彼らの知人や,親族の率直な回想が利用できるようになった.とくに本年表はロシアの最新の研究により偽名レーニンの由来を記したし,本名を使われたレーニン一家の悲劇も記した.

 

 ソ連時代にはどの会議場でもレーニンの肖像画が御真影のようにかけられ,それを描くのが画家の安定した収入源だったし,レーニンを演ずるモデルもいた.今では映画のスターリンのモデルも明らかになっている.

 

 スターリンの生年もかつては秘密だった.それは従来の1879年ではなく,1878年である.スターリンの正しい生年は1990年代のロシアの百科事典がどれも確実な資料(戸籍にあたる教会保存の出生簿)によるとして,1878年と書いているのに,日本で気がついていない.

 

 今では《偉大な首領》でなく,等身大の彼らを語ることができる.ソ連時代は彼らの背の高さまで極秘だった(日本では明治大帝の身長や天皇の声(玉声)が秘密だった).

 

 当時は絵や写真でも,彼らはみな側近より背が高く「偉大」だった.側近と並ぶスターリンは台の上にのっていた.スターリンがチビだったことは,噂かアネクドート(政治小話)のかたちで,つたわっていたが,レーニン,スターリンの推定身長は各164162cmである.

 

 日本では,レーニンの身分は世襲貴族であり,彼とイネーサ・アールマンドとの愛についても記されてはいたが,本年表はレーニンの個人情報をさらにくわしく書くだけでなく,公開された極秘情報により,さらに彼の父母双方の祖先も明らかにした.作家シャギニャーンはレーニンの父方の祖父がモンゴール系のカルムイーク人であることを明らかにしたが,スターリンは激怒し,レーニンの先祖探しを禁止した.タブーがなくなった今日では,レーニンの父方の祖父はチュヴァーシ人であり,レーニンの母方の祖父ブラーンクはユダヤ人であるという研究が発表されている.レーニンの流刑と亡命中の生活費の出所は地主である母親が得た地代であることも判明した.彼の持病と,死因について,故人にとり不名誉なこともふくむ個人情報を記した.読者のなかには偉大なレーニンを傷つけたと思う人もいるだろうが,彼は聖人ではない.スターリンの実父はグルジア人だったが,実際はロシア人の探検家ブルジェヴァーリスキーだったという官許の噂が流れていた.またブレージネフは若いときの記録はウクライナ人だったが,出世するとロシア人になった.ソ連(ロシア)は多民族国家だったから,指導者かならずしも純粋のロシア人ではなかった.スターリンの敵トローツキー,ジノーヴィエフ,カーメネフはユダヤ人であり,ロシアの革命家にはユダヤ人が多かったし,スターリンはユダヤ人きらいだった.

 

 4、法と人権

 

 法と人権を抜きにしてはロシアを語れないから,本年表には法と人権が関係することが非常に多く,しかもその多くが公開された極秘情報と特記している.ところが,従来の研究では法の地位が低く,法令集である1830年のロシア帝国法律全書と、法典集である1833年のロシア帝国法律集成が軽く取り扱われ,1860年代のアレクサーンドル二世時代の「憲法のカケラ」といわれた一連の大改革では,農奴解放以外の他の改革,地方(ゼームストヴォ)改革,検閲の緩和,大学の自治その他の教育改革,それに司法改革などは軽く扱われてきた.1864年の司法改革も軽視されてきた.さらにロシアの陪審が1864年の司法改革で生まれたことも無視された.そのため1878年のヴェーラ・ザスーリチ事件と1913年のベーイリス事件という世論をわかせた陪審の二大事件が取り扱われていない.

 

 従来は農民慣習法の体系的記述がなく,1843年の刑罰矯正罰法典による罪刑法定主義の確立が記されてなく,民法典にあたる1833年のロシア帝国法律集成第10巻,帝政ロシア憲法にあたる1906年の基本国家法に簡単にふれられているだけである.一般に憲法と憲法思想が軽視されてきた.

 

 気になるのは本年表が多数記している臨時政府の法令が日本ではまるで研究されていないことである.とくに1732の臨時政府の成立宣言とその中の人権宣言だけでなく,用意されていた臨時政府の憲法草案,暫定憲法はまったく無視されてきた.ソ連時代では19189月の赤色テロの政府決定と1930年代の大テロで使われた19121の刑訴特例法という悪法が出ていない.これらはソ連時代の歴史書の後遺症といえるだろう.

 

 従来の研究では法律家の地位が低い.たとえば立法家スペラーンスキー,裁判官コーニ,弁護士マクラーコフ,ケーレンスキー,国家学(政治学,憲法学)者チチェーリン,法哲学者ノヴゴーロツェフ,イリイーン,法社会学者コヴァレーフスキー,ソローキン,憲法学者キスチャコーフスキー,コルクノーフ,ココーシキン,行政法学者エリストラートフ,民法学者シェルシェネーヴィチ,刑法学者タガーンツェフらロシア法学の黄金時代を作り,知識人に大きな影響をあたえた法律家が登場しない(以上の内ケーレンスキーは臨時政府首相として出ており,コヴァレーフスキーはその著作がエンゲルス『家族,私有財産,国家の起源』に引用されているので出ている).ベルジャーエフは評論家として,20世紀初頭のロシアの社会思想,法思想に大きな影響をあたえたのに,彼は神学者としてしか紹介されていなかった.

 

 1980年代以後に名誉回復した知識人,たとえば1930年の科学アカデミー事件で弾圧された代表的歴史家プラトーノフも登場しない.

 従来の研究で法と法律家の影がうすいのは,ソ連で法と法学の地位が低かったことが影響している(総合大学に法学部がなかった時期がある).また革命前の法律家の多くがカデート(立憲民主党員)か,エスエル(エセール,社会革命党員)であり,十月革命後弾圧され,国外追放されたか,亡命したことも関係している.彼らの著作は長いあいだ閲覧禁止引用と言及禁止だった.検閲が廃止された1990年から雑誌『新時代』が禁書の概要の「原稿は焼かれない」の連載を始めたので,われわれは禁じられた法学の遺産を初めて知った.〔コラム〕ロシアの自由主義の歴史を参照.

 

 1990年代から帝政時代と臨時政府の重要法令,カデート(立憲民主党)その他の党の綱領等の重要文書,内乱時代の白色政権(とくにデニーキンの南ロシア政府),緑色運動(アントーノフの乱など農民反乱)の文書がロシアの出版物で読めるようになったので,本年表ではこれらを利用した.

 

 5、党治国家

 

 ソ連は法治国家でなく,国家と法の上にソ連共産党がある党治国家だった.党治国家のメカニズム,党の機構については,ソ連(ロシア)で1980年代末から多数の資料と研究が公表されているのに,日本では無視されている.本年表は新たに公表の資料により,23612の党中央委組織局決定(極秘)によりノメンクラトゥーラが制度化されたことを確認し,また極秘文書の公開により,1937年の狂気の大テロは,36731の政治局の極秘決定が「反ソ分子」弾圧という名目の大テロ作戦実施の内務人民委員部作戦命令第00447号を認めたことで始まったことを記した.

 

 本年表が記すように1937年の党中委総会の詳細も判明した.戦後のヴォズネセーンスキーを犠牲にしたレニングラード事件は漠然としていたが,今ではこれらが関係する極秘資料が解禁され,解明が進んでいるから,本年表はその成果を利用できた.

 

 当時は政治だけでなく,立法も法令の運用も,また裁判までもソ連共産党の決定によっており,第一書記は電話で裁判官に指示をあたえていたから,電話法の隠語があった.幹部会令や政府決定には党の秘密決定により,公布されないものがあった.しかし国家とソ連共産党の関係は「党の秘密」で守られていたから,具体的情報がなく,そのため日本のソ連研究にはソビエト法研究をふくめ党の秘密にふれない空白があった.党の秘密が公表された今日,本年表は党幹部の給与と特権,専用電話回線,党中央の閉鎖的情報システムなど,党の真実にせまる多くの秘密情報をのせ,これにより20世紀ロシアの政治と法,社会,経済,文化,幹部の特権そして一般国民の生活と意見を具体的に理解できるようにした.したがって党の決定で資料がかくされていた時代の,党にふれないソ連研究全面的見直しが必要だが,日本ではあまり進んでいないといえよう.

 

 この年表には時代の総合的判断のため文化,芸術についての情報も多く載せた.わが国ではソ連の文化,芸術を時代の政治状況と切り離して評価する傾向が強い.たとえば映画『シベリア物語』が傑作だと信じている人が今も多いので,本年表はこの映画の政治的背景が分かるようにした.

 

 なお従来のロシア文学研究の一般的傾向は作品が関係する法が無視されていたことである.とくにドストーエフスキーの『罪と罰』(正しくは『犯罪と刑罰』)は1864年の司法改革翌年の作品なので,これと司法改革との関連をコラムで説明した.予審制度は昔も今もロシアにないのに,邦訳では「予審判事(実際は公判前の取調官,警視庁の刑事部長,日本の特別捜査担当検事に相当する)ポルフィーリが事件の捜査に顔を出す.

 

 1905年に結成のカデートの農村部の支持者は農村知識人であり,彼らはチェーホフの作品によく登場する.彼の作品に昔の地主の経営を買い取った元農奴が出てくるが,彼は十月革命後に地主,富農,農村ブルジョアジーとして弾圧されただろう.本年表はチェーホフの作品の時代背景を知ることができるようにした.彼は1904年に死んだが,もし生きて1917年を迎えたなら,はたしてソビエト政権を支持しただろうか.本年表が記すように241024のモスクワ芸術座でのチェーホフ没後20年追悼の夕べは,未亡人の回想によると,当局側の人とチェーホフ側の人がまざった集まりになった.

 

 この年表では法令用語の訳が一般に使われているのと違う.この年表の利用者が,これを機会に法と法学に関心をもって既存のたとえばドストーエフスキーの『罪と罰』,ゴーゴリ『検察官』の邦訳をうたがい,また議会の「停止」と「解散」を区別し,17225の国家会議「解散」が,実は「停会」であったことを知り,検察官と検査官,税務査察官を区別し,監督と管理と統制を区別することを期待する.そこでたとえば党中央統制委員会(中央が下部を「統制」する委員会)と党中央監督委員会(党が中央を「監督」する委員会)とは違うことも知るだろう.

 

 筆者は10年前に『政治法律ロシア語辞典』(1991年)を発表し,そこでロシア語でも日本語でも多い難解語,類語を説明したが,まだ一般に活用されていない.筆者はこの辞典で『罪と罰』という作品名が刑法学の古典であるベッカリアの『犯罪と刑罰について』に由来すると指摘したが,あいかわらず『罪と罰』がつづいている.法学以外の世界ではベッカリアの『犯罪と刑罰について』という法学の古典は,初耳で唐突だったようだ.

 

 6、あらためて知るレーニン時代

 

 ソ連時代はレーニンの著作も検閲され,既製のレーニン論に反する彼の著作まで秘密とされていたが,レーニン『かくされていた著作集』が出て秘密が解除された.

 

 レーニンはソビエト政権初期の問題のほとんど全部に関係していたが,日本ではソ連の否定的なことは全部スターリンの「犯罪的誤り」であるとして,彼一人のせいにし,レーニンはこれと関係がなく,彼にも誤りがあったが,彼は基本的に正しかったとするレーニン無関係説が有力である.この説はレーニン時代の多くのことを不問にしている.

 

 今は極秘文書が公開され,検閲がないロシアでは,レーニンについても本年表のように多くのことが語れるようになった.たとえばスパイ・マリノーフスキーを弁護したレーニンの文書,臨時政府時代のドイツ資金関係の一件書類,レーニン時代の十月革命直後と戦時共産主義時代のプロレタリアート独裁と法一連の人権侵害−報道,出版の自由の否定,宗教の迫害,数々の政治弾圧,赤色テロ,とくに詩人グミリョーフがヴェチェカーの秘密裁判で銃殺になった19218月の「ペトログラード戦闘組織団」事件の真実が明るみに出ている.

 

 ボリシェヴィキーは中選挙区比例代表という民主的選挙法による憲法制定会議の選挙で大敗すると,19181憲法制定会議の初日にこれを武力で解散するクーデターをしたことが,今日非難されており,ニコラーイ二世一家の殺害も問題になっている.

 

 ソ連時代は食糧などの徴発食糧独裁農民弾圧がまねいた飢饉数多くの緑軍(農民反乱,チャパーン戦争,大熊手の乱,マフノー軍,アントーノフの乱,西シベリアの農民反乱,労働者のスト)など戦時共産主義時代の多くのことが秘密だった.この秘密が解除され,数多くの事実が判明した.その上戦時共産主義時代のペトログラードの労働者と一般市民の生活と動向が判明した.ネップへの政策転換をうながしたのはクロンシュタートの反乱だけでなく,本年表が克明に記すように労働者農民の支持を失ったソビエト政権が存亡の危機にあったことである.党指導部はひそかに亡命の準備をしていたことまで明らかになった.したがってレーニンの秘密が解けた今日,ロシア史研究は資料が豊富になった彼の時代の真実にあらためてせまる必要があるだろう.なお脱稿後に当時の食糧問題,農村,農民反乱については,奥田央編『20世紀ロシア農民史』(2006年)が出た.

 

 7、党の秘密

 

 年表には特定の年月日でしめせないことが多い.そこで〔コラム〕のかたちで,プロレタリアート独裁と法,パシュカーニスの栄光と悲劇,法学の亡命,党治国家,党中央委の機構,部,特に総務部と組織部,党の秘密についての決定,人民委員部の激増,ノメンクラトゥーラ,ノメンクラトゥーラ族の特権,高級幹部の給与,党中央の専用電話回線,フルシチョーフ解任の宮中クーデター,コスイーギンの経済改革とその失調,19918月のクーデターの実態,アンドローポフの引き締め路線と反体制派,政治局での『収容所群島』の出版の検討など多くの重要問題にふれたが,筆者の専門のため政治と法にかたよっている.

 

 8、革命の前と後

 

 ソ連ではレーニン以来,民主主義,自由,人権にかならず「ブルジョア的」という形容詞をつけて,これらの理念の階級性を主張し,これらと「社会主義的」民主主義,自由,人権とは異質であるとしていた.この伝統によりスターリンは経済的土台が替われば,上部構造は全部入れ替わると唱えた.このドグマにしたがい,帝政時代の刑法典で確立の罪刑法定主義は革命後に弊履のごとく捨てられた.たしかに1917年の二月革命は帝政時代の政治警察,検閲,流刑を廃止したが.十月革命二月革命の成果否定して,19世紀ロシアの政治警察,検閲,流刑復活させた.二月革命19世紀ロシアを否定したが,十月革命はその否定,つまり否定の否定である.

 

 革命をはさむ比較のため本年表は各年代,各年の犯罪数,死刑数,受刑者数と収容所群島人口などの統計それに結婚統計,離婚統計をのせたが,読者は19世紀と十月革命後の司法統計を知り,20世紀ロシアのほうが状況が悪いのにおどろくだろう.

 

 9、レーニンの真実

 

 スターリンの国家万能とレーニン無関係説は国有化,貨幣経済の廃止などレーニンの革命前後の主張と「ウラーの国有化」とその結果の経済の混乱の実際にふれないで,彼の功績をもっぱら市場経済移行の新経済政策(ネップ)の開始から始める.しかし食糧徴発の廃止とこれに替わる食糧税の実施,市場経済への移行というネップは,最高国民経済会議の専門家,農民運動,クロンシュタートの反乱,エスエル(エセール)が主張していたことであり,レーニンは乗り気でなかった.しかも彼は生前最後の221120の演説でネップを「後退のゼスチャー」と言い,新たな飛躍を宣言した.このネップの中止を呼びかける演説は『レーニン全集』に新聞報道による要旨だけが載っており,全文はやっと1995年にレーニンの『知られざる著作集』に公表された.ネップは党の戦術(長期政策)ではなく,当面の戦略だったからあいまいだった.

 

 そのうえネップには政治の改革がなかったネップとレーニン礼賛者はこの時期のエスエル裁判とメンシェヴイキーの追放による体制内野党の消滅による一党制の確立,報道の自由,出版の自由など政治的自由の否定,検閲の確立,教会の弾圧,多数の知識人の国外追放など,ネップにともなうプロレタリアート独裁の制度化にふれない.

 

 さらにネップ時代の広範な政治犯罪と類推適用を認めた1922年刑法典へのレーニンの関与,流刑の復活,法律によらない都市からのネップの湯あか(ネップマン)の追放,彼らの財産没収というレーニンのいう経済的テロも無視できないだろう.

 

 10、スターリン主義の起源

 

 誤りの全責任はスターリン一人とする説があるが,本年表が記すように,スターリンの個人崇拝と個人独裁は,レーニン時代の党組織と党文化を基盤に生まれた.レーニンが『共産主義の左翼小児病』で認めたようにロシアを実際に統治していたのは,共産党中央委員会政治局という小さい寡頭集団だったし,彼は独裁が個人独裁を生む危険についても警告していた.レーニンは首相を兼ね,常時クレムリンにいたから,政治局内で単なる同輩中の第一人者ではなかった.レーニンの党は彼を中心に高度に中央集権的に組織されていた.この状況は党中央の絶対化と官僚主義,党とレーニンの同一視,指導者個人の崇拝と礼賛を生みだしていた.スターリンは書記長,組織局員として党中央の実務と中央地方の党組織をにぎるから,党崇拝とレーニンの聖人化,個人崇拝を生みだして,レーニンの後継者である自分の大売出しに成功した.

 

 スターリン時代の重大問題については,1990年代に大量の極秘資料と研究が公表されたので,本年表はこれらを利用して,従来不明だった20年代末以後の次の多くのことが判明したので,その具体的経過を記した.農業の全面的集団化の前夜の穀物調達のウラル・シベリア方式(法令無視の強引な食糧調達,レーニンの戦時共産主義時代の暴力的食糧調達の再来),192930年の科学アカデミー事件(スラブ学者事件)での歴史学弾圧,学問,芸術文化に対する党の支配,法と法学に対する政治(政策)の優位,統計の政治化,数字の偽造.

 

 農業の暴力的集団化,外貨獲得のための飢餓輸出と大飢饉,文化財流出,第一次五力年計画の成果の偽造,大規模建設への受刑者の利用,ミーチンら党に忠実な文化官僚の即成,現実美化の社会主義リアリズム,1930年代前半の反スターリンの状況,第17回党大会と1937年の大テロへの助走,1934年のキーロフ事件とその後のレニングラードの党組織の弾圧,1935年のクレムリン事件,1936年憲法の制定過程,憲法と大テロの共存,党史の偽造,独ソ不可侵条約,大祖国戦争,戦後のレニングラード事件,芸術,文化に対するジダーノフ路線,生物学でのルイセーンコ学派の勝利等.

 

 スターリン時代,スターリン主義,スターリン問題についてはすでに多数の研究があるが,マックス・ウェーバー,キスチャコーフスキー,ジイド,アーレント,ハイエク,シュムペーター,ポッパーという非マルクス主義者,さらにヤーコヴレフ,ストルーヴェ,ベルジャーエフ,プレハーノフ,ジーラス,カーウツキーらボリシェヴィキー周辺の者の見解も考慮に入れるべきだろう.しかし亀山郁夫『礫のロシア』(岩波書店,2000年)は既存の研究を視野に入れないで,スターリン学を提唱している.

 

 11、日露(日ソ)関係

 

 本年表は日本で作られた年表だから日露(日ソ)関係に特に留意した.近現代日本の対ソ(対露)関係は日本の多くの文献にくわしいが,今までこれに対応するロシアの文献は少なかった.しかし20世紀末からカゲベー(KGB)と外務省,国防省,ソ連共産党,コミンテルンの日本関係の極秘文書が公開され,それらを利用した研究も出ている.わが国ではゾルゲ関係の文書が注目されたが,それだけでなくゾルゲ以後の在日諜報員の存在,シベリア出兵,ニコラーエフスク(尼港)事件,1927年の田中メモランダムの真相,満州事変前後のソ連の対日政策,『満州国』の反乱とソ連,新彊省とソ連,日中戦争でのソ連の中国援助(中国機を装ったソ連機の参戦,九州と台湾爆撃)など意外な事実が判明したので,本年表は新たな日ソ関係史を本文と〔コラム〕で詳細に記した.

 

 日本では1945年のソ連の中立条約破棄とソ連の「満州侵攻」(対日参戦)だけが問題となり,其の前史であるシベリア出兵,満州事変,ソ「満」の国境紛争,対ソ戦用の綏芬河,虎頭などの巨大要塞群など,それらがソ連にあたえた脅威,独ソ開戦直後の関東軍特種演習(関特演)と太平洋戦争開始後の満州での大兵力の温存は軽く見られている.また41128の日米開戦以後の舞台裏の米ソ交渉は知られていない.本年表はこれらの問題を1990年代以後のロシアの文献により,できるだけくわしく書いた.

 

 戦後の旧日本軍兵士のシベリア抑留については,抑留兵士による多数の回想があるが,これを裏づけるソ連の極秘情報が公開されたので,本年表はこれを利用できた.各地の抑留の実態の現地調査が必要だが,日露両国とも関係者が高齢化しているから,早急の調査が必要だろう.

 

 12、チャストゥーシカとアネクドート

 

 この年表には各時代の口承文化であるチャストゥーシカ(作者不明の歌詞)とアネクドート(小話)を掲載した.これにより公式の文書では分からない各時代の生きた思想の状況が分かったと思う.

 

 本年表に使用の文献の大半はナウカ社を通し入手したが,同社は本年表の脱稿後に破産した.文献入手について,宮本立江さんら同社関係者に感謝する.

 私事にわたるが,この年表は著者自身による傘寿記念出版となった.

 

       200731日 稲子恒夫

 

 

 3、編著者略歴と主要著作

 

 稲子恒夫(いなこ・つねお)。1927年生まれ。1948年東京大学法学部卒。1990年名古屋大学名誉教授。

 主要著作

 『ソビエト国家組織の歴史』1964

 『ソビエト法入門』1965

 『外国法の常識』(共著)1970年(中国語版『外国法』1984年)

 『革命後の法律家レーニン』1974

 『現代中国の法と政治』1975年(ロシア語版『中華人民共和国の法と政治』1978年)

 『日本法入門』1981年(ロシア語版『現代日本法』1981年,ベトナム語版1993年)

 『ロシア革命』1981

 『林彪・四人組裁判』(共著)1981

 『ペレストロイカは進む』1988

 『ベトナム法の研究』(鮎京正訓との共著)1989

 パシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』1958

 ステールニク『法律家としてのレーニン』1970

 『政治法律ロシア語辞典』1992

 『ロシアの社会福祉』『世界の社会福祉21998

 

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 〔関連ファイル〕

    『はしがき、あとがき』 憲法制定議会の武力解散もクーデター

    『1917年コラム』 十月革命は選挙運動中のクーデター

    『1918、19年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1918、19年コラム』

    『1920、21年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1920、21年コラム』

    『1922年、ボリシェヴィキ不支持者・政党の排除・浄化年表』

    『1922年コラム』

 

    『20世紀社会主義を問う−レーニン神話と真実1〜6』ファイル多数

    『レーニンが追求・完成させた一党独裁・党治国家』

       他党派殲滅路線・遂行の極秘資料とその性質

       レーニンがしたこと=政治的民主主義・複数政党制への反革命クーデター