上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯
石堂清倫氏手紙3通と書評 (宮地編集)
(注)、この3通は、石堂清倫氏から私(宮地)への手紙です。そのうち、上田不破『戦後革命論争史』に関する部分だけを抜粋し、編集ました。「書評」を含めて、それらをこのHPに掲載することについて、石堂氏の了解を頂いてあります。
〔目次〕
1、『戦後革命論争史』出版の経緯について(手紙)
2、『戦後革命論争史』出版の裏話(手紙)
3、上田・不破自己批判問題と最近の不破著書(手紙)
4、増山太助著『戦後期左翼人士群像』を読む(書評)
(関連ファイル) 健一MENUに戻る
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件の真相
『追悼・石堂清倫さん』石堂論文・インタビュー6篇と関連ファイル
宮地幸子HP『師、友』『道連れ―石堂清倫氏のこと』
1、『戦後革命論争史』出版の経緯について
1997年10月9日付手紙
『日本共産党の逆旋回』ありがたく拝受。まことに貴重な資料として、くり返し読みました。
そこに書かれていた、上田不破共著『戦後革命論争史』は、世間でその経緯を知らない人が多いようですから、一筆しておきます。
あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで、三カ月ほど討論したものです。内野君がまとめる予定でしたが、氏はなかなかの遅筆で、待ちきれない大月書店がやかましく言うものですから、討論を筆記してきた上田耕一郎が内野君に代わって、執筆することになったのでした。上田君は、弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申出、一同承諾したのが実際の経過でした。内野以下五名は、五〇年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。
成立の事情がこの通りで、宮本君は最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、絶版を要求したのでしょう。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきなのに、まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです。
イタリアのグラムシ研究所(ローマ)の所長ジュゼッペ・ヴァッカの小論をお目にかけます。今年の五月号の「思想」にのせられたものです。やや抽象論めいていますが、現代政治の変化、運動形態と組織の今日的あり方について述べているので、おひまの折にでも御一見いただければ幸甚です。
一九九七年十月九日 石堂清倫
宮地健一様 』
1997年12月19日付手紙
『インターネットをつかっていると、加藤哲郎さんからきいたことがありますが、なんのことか一向わからず、わからなくても別に困りはしなかったのですが、あなたからいただき、はじめてこんな便利なものかと実感することができました。超時代おくれの老人も一つりこうになれました。
どんなに時勢におくれているか、まるでお笑い草ですが、共産党の全党的丸山批判もはじめて知ることができました。四年前から入院だ退院だと二年ばかりのあいだに「赤旗」もこなくなり、最近の党のことは何もわからず、週刊誌あたりが、宮本引退について感想を書けと言ってきても見当さえつかず、ことわっているのが現状です。この無知と怠慢は、あなたのインターネットですこし穴うめをすることができました。
丸山理論に党の「神話」が吹っとぶことを、宮本君は直感したしたのでしょうが、そこには何か党内の相当の人物かグループがあったかもしれない気がします。
あなたは、『志位報告の論理と丸山批判での詭弁術』のインターネットの文で、上田の『戦後革命論争史』を引用なさいましたが、あれには裏話があります。
「運動史研究」14巻(48〜49頁)にも触れていますが、内野壮児、小野義彦、勝部元、山崎春成、それに私が「戦後の戦略思想」について、何カ月もかかって、総括研究討論会をやったことがあります。それをまとめて、内野の名で単行本をだす計画でした。一同が五〇年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論がつづきました。
その筆記役を、まだ無名の上田にやらせたのです。上田はよくまとめましたが、肝腎の内野が超遅筆で、一向に進捗しないのに、代わってまとめることはそれぞれが時間がなく、窮余の一策として、上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。
大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって、反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟にも一部分まとめさせてよいかと申出ましたが、それもよかろうということになったのです。
これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。そんな関係で上田の結婚パーティも、内野はじめ全員が出ています。ところが、その後の経緯は不明ですが、上田は宮本派に鞍がえをしてしまいます。後日、宮本に言われて、上田はあの本を絶版にしますが、本来ならわれわれに同意を求める必要があるはずです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があったのです。
「運動史研究」の座談会出席者のうち、内野と小野、江口は亡くなっていますが、勝部、山崎は健在です。私たちのグループにたいし、宮本は敵意を抱いていたかもしれませんが、蔵原は理解を示していました。私が「現代の理論」に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです。
十一月に、グラムシ死後六十年記念国際シンポジウムをひらきました。イタリア、アメリカ、イギリス、韓国から参加があり(ドイツは誌上参加)、席上私が報告しています。私は耳鳴りがはげしく、長時間の執筆が困難なのと、入院前に全蔵書を売らなければならなかった関係上、必要な引用はほとんど断念しましたので、学術論文の体を成しませんが、第二次世界戦争後の世界情勢の根本的変化に伴う理論上のパラダイム・シフトの立場から、歴史的共産主義の退場と、「新しい思考」をグラムシ思想の新しい解釈と拡張によって主張したいと思いましたので、お目にかけます。片山さとしが生きていたら、半分くらい同意するかと思います。
来年は、私は九四才になります。体調は急速に衰えつつありますから、シンポジウムの報告が最後の発言になりそうに思っております。
一九九七年十二月十九日晩 石堂清倫
宮地健一様 』
3、上田・不破自己批判問題と最近の不破著書
(注)、これは、私(宮地)のHP『共産党の内部矛盾深化・表面化と5つの選択肢』への、石堂氏感想の手紙です。関連部分のみ抜粋をしました。
2000年9月11日付手紙
『あの「戦後革命論争史」の本のことに気がついた宮本派は、兄弟を自己批判させたのですが、そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すればよいのに、まるで自己の著作であるかのように、振舞ったのは、まだ著作家としての名声に未練があったからでないかと想像します。
上田の結婚式には、われわれのグループが全員参加しているだけでなく、友人代表として祝辞を述べたのは、内野壮児君でした。上田は、そのことをひどく光栄としていました。そのへんの深い因縁がバレルのを防ぐ気持ちがあったかもしれません。
とにかく、あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田が持っているわけはなく、内野、小野義彦、山崎春成、勝部元、それに小生が持っていたものを提供しています。
『5つの選択肢』において、宮本側近を退治した話しが不破の一人称でまとめたのは、あなたのなさったことでしょうが、痛快でした。最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。とても側近を退治するほどの勇気は、不破にはないでしょう。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。
マルクス、とくにレーニンの誤りなどと、彼の言うのは、見当違いです。最近、ロシアで、1891年〜1922年のレーニンの“知られざる著作”が刊行されました。“知られざる”というよりは、公表をはばかってきた著作というべきで、しかもその全部とは到底言えないものですが、今回公表された420点の文献を、成心なく読んだ方がよかろうと思います。レーニンは、いろいろ間違いもやり、ヘマも犯していますが、何も後来の宮本や不破を免罪するために行動した人物でないことを知るべきです。
2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。こんな“虫のいい”限定相続をやっているようでは、“何一つ学ばず、何一つ忘れなかった”人間の標本にされそうです。
来年までに、すこしまとまった講演を活字化して、お目にかけれるかもしれません。奥様のホームページも、タンノーして愛読中です。
二〇〇〇年九月十一日 石堂清倫
宮地健一様 』
4、増山太助著『戦後期左翼人士群像』を読む(書評)
(注)、これは、増山太助著『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社)についての石堂清倫氏の書評全文です。『雑誌20154−10』(2000年10月28日)号に掲載されました。この書評後半に、上田・不破『戦後革命論争史』の出版と絶版の経緯が書かれています。
『戦後期左翼の代表的活動家たち 百名をえらび特色ある経歴を語る
人物論のうちに運動論から原理論にわたる暗示を含蓄させる
この本は読んでまことに楽しい。第一回の鈴木東民と聴濤克巳から最終回の佐多稲子と原泉まで、戦後期左翼の各界の代表的活動家百名をえらび、一回五頁で特色ある経歴を語ったものである。主題は百名だが、その二人をとりまく多彩な人びとが登場する。渡部義通と三井礼子の項などには六十名の人物が関連して述べられ、運動の流れがよくわかる。前後一千名を越え繋連する人物像は人名索引をつうじていっそう具体的にわかるのであるから、再版の折には人名索引をかえてほしい。
とりあげられた人物は文化方面で特出した人が多く、しかも徳田球一レジム、志田重男レジム、初期の宮本顕治レジムにわたり、共産党の指導部にいた著者でなければえられない情報が盛られていて、ジャーナリスティックな腕前だけでは到底これだけの仕事はできなかったであろう。そのうえ著者は各方面の資料をくわしく調べたらしいことも各ページににじみでていて、文化を中心として戦後期の左翼運動がどのように展開されたかが、人物論という血肉をつうじて生々と描かれたのはまさに共産党外史と言っても過言でない。
著者は、その人柄からして、一切の先入見や好悪の感情にとらわれず、きわめて公正に大局から論じているため読者は論評を信頼することができる。
戦後の新しい条件のもとでの労働運動、農民運動、婦人運動、協同組合運動、部落解放運動、国際親善運動などで出色の活動をした人物もそれ相当にとりあげてあるが、何といっても本書の特色は各界の知識人の歩んだあとが活かされているところにある。すくなくとも戦後日本のひろい意味の文化運動は大体こここ現われた人々が方向づけたのであろうと思われる。それは戦前にくらべて万事新しい眼で判断しなければならないなかで、視角と方向を規定するのに知識人の果す役割が大きかったことの結果と思われる。いわば日本の労働者階級の自己認識のために、知識人層の寄与が必要とされたのであろう。それだけに知識人運動の含む対立と矛盾が人びとの人的関係の形で描かれているのもなかなかに有意義である。著者にはそれを識別するすぐれた能力があったから、人物論のうちに運動論から原理論にわたる暗示を含蓄させたのであろうと感じられる。
もし希望が許されるなら「転向」に加えたいことがある。西沢隆二の項に「非転向」のミダシがある。それを言うなら、「転向」は「天皇制廃止」のスローガンに遂行不可能なものがあり、不毛な「三二年テーゼ」に代るオルタナティヴのないところにやむなき「転向」の必然性があったこと、そこで「西光万吉と小林杜人」の一項があってもよかったのではないか。
本書で提起された課題の多くが現在の共産党によってどのように継承されているか、あるいは閑却されているか。そこに連続性と一貫性が見られるであろうか。登場する多彩な人士の業績が共産主義文化の資産として記憶されるのか、意識的に除外されているのか、そこに問題があるように思われる。
現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場がある。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論であるが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのであろうか。「戦後左翼人」の業績は、実質的に維持されているか否か疑念がある。一例をあげよう。上田耕一郎は一九五六年一二月と翌年一月に出版した『戦後革命論争史』を絶版に付した。ところがこの本は、上田の結婚式に友人総代として祝福の言葉を述べた内野壮児、小野義彦、勝部元それに私が加わった「戦後日本の分析」研究会の十数回にわたる討論を上田が筆録し、それを土台に内野の名義で出版するはずのものを、内野の完稿がおくれたため、止むなく上田に依頼し、その代り彼の名義で出版したものである、もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくないのである。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして私のものではない。その後内野グループから離脱し、宮本レジムの政治局員にまで昇進した上田が「自己批判」を迫られ、分析研究会のメンバーに謀ることなく絶版としたものである。それによってソ連共産党二十回大会後の新情勢下における党内理論集団の実質上の共同責任が実質的に否認された。この事実が語るように、本書にあげられた左翼の業績も相続拒否されるのでないかと疑われてくる。
現に共産党の最近の中央委員会で、「社会主義革命」や「階級闘争」は規約から除かれ、いずれは綱領的意義も失れることになる。マルクス主義を「科学的社会主義」に、プロレタリアートの独裁を「執権」に恣意的に変更することによって、実質上社会民主主義へと移行して共産党としては、これまでの左翼色を一掃するのは時間の問題になっているのかもしれない。そうだとすれば本書は日本左翼の残照ということになろう。愛惜しないではいられない。(了)』
以上 健一MENUに戻る
(関連ファイル)
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕上田・不破査問事件の真相
『追悼・石堂清倫さん』石堂論文・インタビュー6篇と関連ファイル
宮地幸子HP『師、友』『道連れ―石堂清倫氏のこと』