1930年代のコミンテルンと日本支部

 

志位報告の論理と丸山批判・詭弁術

 

(宮地作成)

 〔目次〕

    はじめに 志位委員長の経歴と「詭弁術」事始め

  1、志位報告の論理

  2、丸山批判における4つの詭弁術

   第一、回答回避の詭弁

   第二、歴史の偽造、歪曲にもとづく強弁

    1)、コミンテルンの社会ファシズム論と日本支部の教条的実践

    2)、コミンテルンの対戦争方針と日本支部の機械的実践

    3)、32年テーゼの天皇制の転覆、打倒という革命戦略と実践

   第三、論点すりかえと虚構の論証

   第四、レッテルはり

  3、『共産党』存続の理論的基礎

 

 〔添付資料〕                  健一MENUに戻る

    (1)、丸山眞男「戦争責任論の盲点」文末22行分抜粋

    (2)、埴谷雄高「『1930年代日本共産党私史 宮内勇著』跋」抜粋

    ()「丸山氏の『共産党戦犯』論」という宮本氏の歪曲的規定

    ()不破氏による『論点すりかえ』の詭弁 レジスタンスとの比較

 

 (関連ファイル)

    『共産党の丸山批判・経過資料』

    宮本顕治  『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判

    志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判

    共産党   『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価

    丸山眞男  『戦争責任論の盲点』(抜粋)

    石田雄   『「戦争責任論の盲点」の一背景』

    田口富久治『丸山先生から教えられたこと』。丸山批判問題

             『丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」』

    水田洋   『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

             『記憶のなかの丸山真男』

    武藤功   『丸山眞男と日本共産党』

    H・田中   『市民のための丸山眞男ホームページ』

    丸山眞男関連HP検索 google

   はじめに 志位委員長の「詭弁術」事始め

 このファイルは、1994年第20回大会における、志位書記局長「中央委員会報告」の一部『丸山眞男批判』内容の分析である。丸山眞男批判キャンペーンは、党大会前から13回にわたり大々的に行なわれ、その中心は、宮本・不破・志位3人だった。党大会では、志位報告が、丸山批判の基本をなしている。そのキャンペーンにおける3人の「詭弁術」揃い踏みは、〔添付資料〕にあるように、華麗なものだが、なかでも、志位報告は、書記局長としての最初の党大会報告における「詭弁術」事始めとなった。

    共産党『志位書記局長「中央委員会報告」の一部』

    『丸山眞男批判キャンペーン』

 この志位委員長「詭弁術」事始めを、彼の党専従歴の中で位置づける。

 1980年、東京都委員会専従、都委員会勤務員(26歳)彼は、地区委員会専従を一度も経験していない()、315地区の地区専従は、あらゆる階層の支部を直接担当し、支部の実態を知る上での専従活動の第一歩の場である。()、都道府県委員会専従は、一部「直属」支部担当をのぞいて、支部との直接的関係を持たず、専門部活動を通じての各地区委員会という一級下の中間機関にたいする指導・点検をする「党内管理部門」の任務を持つ。通常は、20歳代なら、最低でも、数年間、地区専従体験を経てから、都道府県委員会専従になる。1950、60年代ならともかく、80年代において、地区専従を経ずに、いきなり「党内管理部門」専従になるのは、きわめて異例なことである。なぜなら、彼には、それまでに、高く評価されるような、東京都レベルでの大衆団体・運動経歴、民青専従経歴、理論活動・発表経歴など、何一つないからである。それとも、宮本・不破体制には、「霞ヶ関官僚キャリア育成システム・27歳税務署長」と同じような、陰湿な「東大出・党官僚キャリア・システム」が、作動しているのか。

 1982年、中央委員会専従、中央勤務員・青年学生対策委員。4000人の共産党専従のうち、党中央本部には、党中央公報部の「中日新聞」への正式回答で、中央委員と勤務員が800人いる。それは、赤旗記者、社会科学研究所所員、新日本出版社社員も含む。彼が、2年間で、「党中央・青年学生対策委員」になったのも、異例のことだった。宮本顕治が、彼を、なぜそこまで引き立てたかは、下記の連続抜擢のやり方を含めて、一つの宮本顕治と志位和夫との個人的関係疑惑となっている。それは、彼が東大学生のとき、宮本家の家庭教師だったことである。党活動以外のプライベートな問題なので、書かなかったが、党本部専従800人のほとんどが知っていることなので、彼の経歴の一つとして確認しておく。

 1985年11月19日、第17回大会。同年7月から党大会直前まで、東大院生支部の『党大会・宮本勇退決議案』提出運動とそれへの粛清事件が発生した。そこにおいて、「中央勤務員・青年学生対策委員(31歳)志位和夫は、宮本顕治の直接指令を受けつつ、上田耕一郎副委員長、河邑赤旗記者とともに、粛清の先頭に立った。宮本顕治は、彼の粛清手腕、宮本擁護と宮本指示への絶対服従・遂行を高く評価した。

    『東大院生支部の『党大会・宮本勇退決議案』提出運動』

 1987年、第18回大会。宮本顕治は、その論功行賞として、彼を「最年少の准中央委員(33歳)にした。さらに、翌1988年には、書記局員(34歳)に任命した。

 1990年、第19回大会。宮本顕治は、彼を「中央委員・新書記局長(36歳)」に超・超・大抜擢をした。

 1994年、第20回大会。宮本顕治は、彼に「党大会・中央委員会報告」をさせた。これは、志位和夫の党大会報告デビューだった。そこで、彼は、丸山批判キャンペーンの総仕上げとして、以下分析する丸山眞男批判報告をした。これは、彼にとって、「宮本無条件擁護、宮本絶対忠誠心」を発揮する二度目の舞台となった。

 一つは、東大院生支部の「党大会・宮本勇退決議案」提出での宮本擁護とあれば、手段を選ばない粛清を平然と行うという、実践面での党派性(=宮本盲従性)の証明である。志位委員長の「汚れた手」出自は、ここにある。

 二つは、この丸山批判報告での、戦前における宮本中央委員の革命活動の栄光を、「すべて真理だった」として、下記「4種類の詭弁」を駆使して、守り抜くという、理論面での党派性(=宮本盲従性)の高さを、全党に披露した。

 かくして、彼は、「デビュー報告」で、いきなり、以下にのべるような「詭弁術」を使いこなす手腕を見せた。そのレベルの志位和夫であれば、偉大な詭弁家宮本・不破に続いて、「綱領全面改定」という、新・委員長としての「デビュー仕事」を、立派になしとげられた。

 ただし、彼の理論水準をあまり高く評価するのも、彼の実態にそぐわないかもしれない。この「デビュー報告」については、別の評価が成り立つ。それは、宮本・不破が書いた「丸山批判」文の、たんなる「朗読者」にすぎなかったとする見方である。

1、志位報告の論理…丸山批判の四段階論法

 志位報告といっても、志位和夫個人のものではなく、党中央委員会、とくにこの丸山批判部分は常任幹部会で機関決定されたものである。そこでの論理は、宮本顕治の「新春インタビュー」と不破報告とを合わせた常任幹部会の論理である。「報告」の論法は、以下である。

    共産党『宮本顕治の「新春インタビュー」』 『不破報告』

〔第一〕、丸山眞男の日本共産党論の内容規定

 丸山眞男は「日本共産党は侵略戦争の防止に失敗した」という点で、「ファシズムとのたたかいに負けた」、だから「日本共産党にも戦争責任、結果責任がある」としている。

〔第二〕、その責任論への前衛党の回答

 歴史が提起した問題に正面から立ちむかい、社会進歩の促進のため、真理をかかげてたたかうことが前衛党の責任である。それが責任論の回答である。真理は力関係のもとで実らないこともある。方針さえ正しければ、どんな場合でもその方針は必ず実現するはずというのは幼稚な観念論である。

〔第三〕、歴史の大局、第二次世界大戦の結末

 歴史を局視的でない、長い視野でみれば、軍国主義とファシズムへの勝利者は明りょうである。宮本顕治は「新春インタビュー」で、「けっして日本共産党は負けたのではありません。第二次世界大戦の結末を通じてあきらかになったことは、日本共産党が先駆的展望をしめしていた」とする。また「11中総冒頭発言」で、「丸山眞男の一番大きな誤りは、歴史を大局的に見ることができない」としている。

〔第四〕、丸山眞男の「共産党の戦争責任」論の性格規定

 よって、これは局視的な観念論、幼稚な観念論、傍観者的立場からの議論である。不破報告では「学問の名に値しない反動的俗論である」とする。歴史を大局的に見ることができない誤りである。

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2、丸山批判における4つの詭弁術

  共産党の丸山批判では、じつに様々な詭弁が使われている。全体として以下の4種類の詭弁について考えてみる。宮本顕治の「丸山眞男の「共産党戦犯」論」という歪曲、および不破の「「論点すりかえ」の詭弁…ヨーロッパのレジスタンスとの比較」については、それぞれの(注)で述べたので、ここでは除外する。

    『宮本「丸山眞男の「共産党戦犯」論」』 『不破「「論点すりかえ」の詭弁」

 第一、日本共産党は、政党の、とくに前衛党の結果責任という概念を認めるのか、認めないのか−回答回避の詭弁

  丸山眞男は「戦争責任論の盲点」において、「政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は……まさに最も能動的な政治的敵手である」としている。

  石田雄東京大学名誉教授は「「戦争責任論の盲点」の一背景」の中で、丸山眞男のこの論文の執筆動機として、1952年メーデー事件での共産党の「結果責任に対する意識の欠如」への批判があったことを触れている。

  田口富久治立命館大学教授も「戦後日本政治と丸山眞男」の中で、石田氏のエピソードに関して、共産党の結果に対する責任意識、その無責任さに言及している。

  この結果責任という概念は、丸山眞男の政党観、前衛党観の基本をなす。それは「日本の思想」(岩波新書)、「忠誠と反逆」(筑摩書房)で展開されている天皇制の無責任体制への鋭い分析、追及と対応する。

  この結果責任という基本概念に対して、志位報告は一切回答していない。そして(1)、天皇制の最も能動的な政治的敵手であり、かつ(2)、前衛党の看板をかかげた政党は、戦争突入を許したという結果に対する政治責任があるとする具体的事例での結果責任の指摘についても、宮本、不破、志位のいずれも一切の認否を回避している。「前衛」論文でも、この概念はマックス・ウェーバーが展開したという解説だけで、認否をしていない(「変革の立場と傍観者の論理」38ページ)。

  そして真理をかかげてたたかうことが前衛党の責任であると全く的はずれな回答をしている。即ち前衛党の「たたかう」という政治責任は認めているが、結果責任の存在、発生という提起にはなんの回答もしていない。

  丸山眞男が提起しているのは、上記()()の性格をもった政党は「たたかったか、たたかわなかったか」の政党行動に対しての政治責任だけでなく、その政治闘争の結果に対して責任が発生するということである。一般的な世間常識としても、その性格の政党である以上、その闘争に「勝ったのか、負けたのか」の峻厳な結果責任が問われるのは当然の論理であろう。

  水田洋名古屋大学名誉教授は「象」22号「敗戦五〇年」の中で、「「敗軍の將」にも、戦争犯罪の主犯たちとはちがった意味での責任があるのはあたりまえだし……」とその結果責任の発生を当然視している。

  そもそも、上田耕一郎現副委員長自らが、絶版にさせられた「戦後革命論争史」(大月書店)において、「丸山眞男が戦争責任問題のなかで鋭く提起したように、反戦闘争を組織しえなかった共産党の政治指導の責任にたいする反省が欠けていたことが、当時の(終戦直後の)国民感情を底深くつかむことを妨げ、共産党を国民的共感の組織者としての国民的政党として出発させえなかった根本的な原因であったということができる」と共産党の結果責任をはっきり認めている。

  共産党側が、丸山批判において、前衛党とは、本来、マックス・ウェーバーの影響を受けた政党の結果責任という概念などは認めない、あるいは「政党の政治的責任は、峻厳な結果責任である」という理論を認めない政党であると言うのなら論理としては明快である。それならそれをきちんと明言、回答すべきであろう。

  それへの無回答、認否せずという対応は、回答回避の詭弁そのものである。これも論点すりかえの詭弁の一種である。相手が提起、批判している基本論点に、まったく答えないか、的はずれの回答をしておいて、そこからずれた別の論点で反批判するというやり方も、共産党が論争において多用する詭弁術の一つである。

 第二、戦争突入か阻止かの政治闘争において、コミンテルン日本支部の方針は「真理」にもとづいていたのか。前衛党の戦略、戦術に根本的誤りはなかったのか−歴史の偽造、歪曲に基づく強弁

 〔小目次〕

   1)、コミンテルンの社会ファシズム論と日本支部の教条的実践

   2)、コミンテルンの対戦争方針と日本支部の機械的実践

   3)、32年テーゼの天皇制の転覆、打倒という革命戦略と実践

  丸山眞男は「有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に大胆率直な科学的検討を加えて、その結果を公表するのが至当である」として、そういう形での結果責任のとり方を提案している。

  それに対して、共産党は、戦争阻止闘争における戦略、方針についての決定的な誤りの存在を、丸山批判では一切認めていない。それだけでなく、志位報告では、「真理をかかげてたたかった」として、当時のコミンテルン日本支部の方針は「真理」であったことを強調している。丸山批判部分で、あまり出てくるので数えてみたら、「真理」という言葉をそこで11回も使用している。

  そして「真理はさまざまな客観的な政治的力関係のもとで、そのときどきの歴史的局面、断面で実らないこともある」としている。これは方針は正しくて、「真理」であったが、戦争阻止は「力関係」でできなかったという日本支部の外部的要因に原因を求める論理である。日本支部の内部的要因に根本原因はなかったとはたして言い切れるのか。

  以下、これについての私見を述べる。

  コミンテルンの対日本支部方針のうち、三つの基本方針が根本的な誤りであり、それを機械的、教条的に実践した日本支部は、反ファシズムの統一行動を作り上げる点で、方針上でも、実践上でも決定的な誤りを犯し、戦争突入を許した面での明白な結果責任が存在すると考える。

  ただし、誤りという判断の歴史的、資料的根拠および詳しい分析については、他の問題とも関連性があり、長くなるので、別の文で検討する。他の問題とは、現在の日本共産党のスターリン批判とその当時のコミンテルン批判の有無、程度問題である。日本共産党はなぜスターリン批判をきちんとやらないのか。1997年9月の第21回大会不破報告で「スターリンの犯罪的誤りが、この事業を決定的に変質させ」と言いながら、スターリン恐怖政治下の当時のコミンテルン批判、検討をなぜ避けるのか。そして党内外でのスターリン批判の研究、出版活動をなぜ、どのように抑圧してきたのかという問題である。

  今回は、三項目の提起とその最低限の分析にとどめる。最低限といっても、テーマがテーマだけにかなり長くなってしまうが…

1)、コミンテルンの社会ファシズム論と日本支部の教条的実践

  これは反ファシズムでの統一行動、統一戦線の分裂、破壊方針と実践だった。コミンテルンでの経過と日本での実践を見る。

(1)、1927年、27年テーゼの中に、統一戦線戦術で、社会民主主義政党、運動を排除、攻撃するというセクト主義があり、日本支部はそれを教条的に実践した。

()、1928年、コミンテルン第六回大会で社会民主主義主要打撃論が決定された。その内容は、社会民主主義政党および労働組合の改良主義的指導部は労働者階級内部での帝国主義の主柱であり、革命の最大の障害である。したがって革命の主敵であるとした。よって、日本支部による統一戦線運動は軍部ファシストなどファシズムとの闘争ではなく、社会民主主義政党、団体との闘争に収斂されていった。具体的には、左翼合法無産政党排撃、全ての社民組織の打倒、解体に邁進した。

(3)、1929年、コミンテルン第10回執行委員会で、社会ファシズム論が採択された。

()、1932年、32年テーゼでは、社会ファシズム論が対日本支部方針として定式化された。

  それは、社会民主主義主要打撃論を土台として、その誤りをさらに拡大した。その内容は、強力な社会民主主義政党のある諸国におけるファシズムの特殊な形態は社会ファシズムであるとし、そこでの統一戦線戦術とは、大衆をめぐっての改良主義的、社会民主主義的諸組織との非妥協的な闘争であるとした。

  そして日本支部の実践は、「プロレタリアートの党は共産党唯一つ」であるとして、既存の合法無産政党批判、攻撃だけでなく、京都・労農大衆党など各地で共産党以外の無産合法政党が結成されることも批判、妨害し、左翼勢力の育成と統一を全力あげて破壊した。

  さらにコミンテルン日本支部は、これを機械的に大衆運動、戦争反対運動に持ち込んた。その結果、政党次元の問題だけでなく、全協(日本労働組合全国協議会)、全農全会(全国農民組合全国会議)、共産主義青年同盟、日本反帝同盟(反帝国主義民族独立支持同盟日本支部、17の団体参加)、ナップなどすべての前衛党影響下の左翼大衆団体が、それぞれの階層、分野で対応する左翼社会民主主義的団体を、「主要敵」としてその排撃、解体のために全力あげて行動した。1932年、総同盟、全労、海員組合など9団体、28万人が、反ファシズムをスローガンとして結成した日本労働組合会議をも「主要敵」として攻撃した。

  もっとも、社会民主主義政党や団体も、左右対立の中で、日共系の団体に様々な攻撃をしてきた。これは1917年ロシア革命以来、全世界的に激しくなった社会主義運動の左右二潮流への分裂と対立による。具体的には、労働争議とともに、小作争議が頻発し、盛り上がった農民運動の中で、従来の日本農民組合を改組して、1928年、58000人規模で全国農民組合が結成された。その後、組合の政党支持問題をめぐって、左右対立が激化し、右派指導部が日共系左派幹部4名を除名し、12府県連合会の解散を命令する問題が起きた。それへの対応を契機に、左派は、1931年、「労農政党支持強制反対全農全国会議」、略称、「全農全会」を結成し、右派を「主要敵」の「社会ファシズム」として攻撃した。軍部ファシストに対する「反ファシズム」の統一行動がもっとも必要とされた、満州事変勃発の1931年に、左右分裂、相互攻撃は、こうして泥沼化していった。右派の側にも、その誤りや責任があるのは当然である。しかしコミンテルン日本支部系左派がかかげた上記基本方針の根本的誤りがそれで免責されるわけではない。

  日本支部の実践は、軍部ファシストとの闘争よりも、上記のような社会ファシズムとの闘争が最優先された。これは反ファシズム、反戦平和の統一行動をわざわざ破壊し、前衛党の政治的孤立をもたらし、戦争突入を許す重要な要因となった。

(5)、1935年7月、コミンテルン第七回大会では、社会ファシズム論を見直し、反ファッショ人民戦線に転換した。これではじめて反ファシズムが第一義的課題となった。

  しかし日本支部は、すでに1935年3月、袴田中央委員の検挙で壊滅していた。ただ1934年以降、上記政策転換過程の途中で、日本の軍部ファシストが「主要敵」であると、コミンテルンがようやく設定した。しかし1933年12月宮本検挙、1934年1月スパイ査問事件での小畑死亡発覚で党中央は壊滅寸前の状態にあり、未検挙の中央委員は袴田、秋笹だけだった。よってその設定指令が二人に伝達されたかどうかも不明である。

  したがって日本支部の13年間は軍部ファシストを「主要敵」とする反ファシズムを第一義的課題としてたたかったことは一度もない、というのが歴史の事実である。もちろん戦争反対スローガンは掲げていた。しかし、それも次に述べる特殊な対戦争方針の一つであり、あくまで第一義的課題は、社会民主主義政党と社会民主主義的労働組合、団体を「主要敵」とする社会ファシズムとの闘争と天皇制の転覆という革命課題を即時実践することだった。

2)、コミンテルンの対戦争方針と日本支部の機械的実践

  志位報告では、日本共産党は反戦平和の真理をかかげてたたかったと強調している。しかし当時の実践は「反戦平和」「反ファシズム」というスローガンを社会ファシズム側のものであるとして批判、全面否定した。そして以下の特殊な対戦争方針を「赤旗」(せっき)や街頭ビラで宣伝し、大衆組織にも持ち込んで、反戦平和運動、反ファシズム統一行動を破壊した。コミンテルンの方針およびその指令に基づいた日本支部の方針と実践は次の内容である。

(1)、社会ファシズム論に基づき、社会民主主義政党、改良主義的労働組合、その他の「反戦平和」をスローガンとした運動をすべて批判、排斥した。

  1929年8月、賀川豊彦らの全国非戦同盟を「平和主義」として批判し、また「一切の戦争に反対する」という社会民主主義的平和運動を、小ブル的運動と攻撃し、コミンテルン日本支部の運動との区別を強調した。

  1933年9月に上海反戦大会が開催されることになった。これは1931年以来の日本の中国侵略への国際的、国内的反戦運動として、超党派的な幅広い運動となり、大きく盛り上がった。ロマン・ロラン、アンリ・バルビュスのよびかけが発せられ、国内でも加藤勘十、鈴木茂三郎が幹事となり、団体参加も広がった。コミンテルン日本支部は、「赤旗」などで当初はそれを好意的に報道し、代表派遣も呼びかけた。しかしその直前になって、社民排撃の立場から、一転してその大会を批判し、開催に反対し、反戦の統一行動を破壊した。

(2)、たんなる「反戦」を否定し、「反帝」「帝国主義戦争の阻止」でなければならないとした。

  そのため1929年11月には、それまでの戦争反対同盟を国際反帝同盟日本支部に改組した。

  田中真人同志社大学教授は「一九三〇年代日本共産党史論」の「日本反帝同盟の研究」において、様々な反戦運動、反帝運動と組織を当時の「赤旗」記事等で分析している。その上で「革命運動とはことなる独自の論理をもつ平和運動という認識は否定されるべきものとされ、それは絶対平和主義、ブルジョア平和主義、社会民主主義というような否定的レッテルがはりつけられた。たんなる「反戦」のスローガンはブルジョア平和主義的弱点をもつものといわれかねず、「反戦」から「反帝」への「質的飛躍」が強調された」としている。

()、「反帝」「帝国主義戦争阻止」でたたかうが、いったん戦争に入ったら、ロシア革命のように、「戦争を内乱に転化せよ」というスローガンをかかげ、大衆組織に持ち込んた。

  そのためには軍隊を利用せよとして、召集令拒否という態度を批判した。また兵役拒否は社会民主主義者の小ブル的反戦闘争であるとして反対した。

(4)、帝国主義戦争反対の中に、「ソ同盟擁護」の方針を併立させて提起した。

  その内容は、日本帝国主義の反ソ戦争阻止、しかしいったん戦争になったら対ソ戦争を内乱へ転化せよ、というものである。これを重要課題として全協という労働組合にもかかげさせた。

  さらにソ連の資本主義国への戦争は、肯定されるべき戦争であるとして、その勝利のために全力を尽くすという方針も打ち出していた。

()、民族解放運動の支援も当然入っていた。この方針を認めないものは社会民主主義的平和運動であると区別し、排撃した。

  コミンテルン日本支部は、これらの()から()の方針を、1928年、コミンテルン第六回大会の「反帝国主義戦争テーゼ」の反帝国主義戦争・戦争の内乱転化と革命成就・ソ同盟擁護を一体の内容とする方針と社会ファシズム論とを結合させて実践した。

  上記の方針は、全協の加盟労働組合すべて、全農全会、共産主義青年同盟、日本反帝同盟および前衛党影響下の全ての大衆組織に機械的に指令され、日本支部とその「補助組織」あげて実践した。「補助組織」とは、前衛党傘下の大衆組織のことでスターリン主義のベルト理論による「伝導帯」と呼ばれており、党の方針、指令は大衆組織という「ベルト」を通じて大衆にストレートに伝導され、実践されるものとされていた。

  コミンテルン日本支部とその「補助組織」が実践した、これらの対戦争方針は、一般的な「戦争反対」「反戦平和」方針とは、その性質が根本的に異なる。反帝国主義戦争とともに、いったん戦争に突入したら内乱に転化せよという一種の革命戦争肯定方針、革命方針なのである。日本支部とその党員、支持者が帝国主義戦争に反対して、もっとも勇敢に、権力の弾圧に屈せず、英雄的にたたかったのは明白な歴史の事実である。しかし上記のような特殊な方針、実践を「反戦平和の真理をかかげてたたかった」と、自分が排斥したスローガンに言いかえる、または抽象的に言いかえるのは、歴史の偽造、歪曲にほかならない。

3)、32年テーゼの天皇制の転覆、打倒という革命戦略とその実践

  1935年までの13年間、日本支部の革命戦略は、コミンテルンの5種類の革命類型論が変化したのにつれて動揺した。この変化と動揺は、スターリン粛清のコミンテルン幹部への広がりとも直接の関係があった。ただテーゼ決定過程では、日本支部側の意見も当然入っている。この5種類の革命類型論の変化や各国への類型適用のやり方については、加藤哲郎一橋大学教授の「コミンテルンの世界像」(青木書店)で詳細な分析がされている。

(1)、1927年、27年テーゼは、日本支部の任務として、君主制の掃蕩をふくむブルジョア民主主義革命から、強行的速度をもって社会主義革命へ転化せよ、と指示した。

(2)、1931年、31年政治テーゼ草案では、それが「ブルジョア民主主義的任務を広範に包含するプロレタリア革命」とされ、天皇制との闘争は、第二義的課題とされた。

()、1932年、32年テーゼは、ふたたび二段階革命論にもどり、天皇制との闘争を第一義的課題とした。それは権力構造の分析というたんなる理論問題ではなかった。それは「日本における革命情勢の切迫、革命的高揚がある」という日本情勢の主観主義的評価に基づき、「天皇制の転覆、打倒、ブルジョア民主主義革命による天皇制廃止の労働者、農民のソヴェート政権樹立」を即時実践の革命課題として、コミンテルンが指令したものである。

  コミンテルン日本支部は、革命は近い、として全力を挙げて取り組んた。宣伝だけでなく、天皇制打倒行動に大衆を決起させようとした。

  日本支部は、前衛党影響下の赤色労働組合協議会である全協にも、上述の「ソ同盟擁護」というスローガンとともに、「天皇制打倒」を労働組合行動綱領に採択させるという暴挙まで行った。

  党員でもある全協幹部のほとんどが、労働組合がこのような革命実践課題を組合綱領に掲げるのは誤りであると、この採択に強く反対していた。しかし党中央は裏工作で党員幹部の切り崩しを行い、1932年9月第一回中央委員会において、一票差の票決で、強引に決議させた。

  全協は、1932年には32000人の組合員を擁し、左翼勢力では最も強力で、戦闘的な労働組合だった。全協は、この行動綱領を理由として、治安維持法取り締まり団体とされ、1933年一年間で、4500名以上の幹部、活動家が検挙され、そのうち512名が起訴され、1934年には219名が起訴され、組織的に崩壊していった。治安維持法は悪法である。しかし天皇制打倒綱領とは、国体の変更を綱領とすることであり、その団体は、取り締まり団体とされ、完全非合法となり、幹部全員が検挙対象となることは自明のことだった。全協内の共産党員は非合法で、労働組合は合法という半非合法状態から、国体の変更を目指すとして、労働組合そのものが完全非合法になった。

  1931年当時の労働、農民運動の状況は、労働組合818で、368,975人、組織率7.9%、同盟罷業864件で、参加人員54,515人であり、農民組合4,414で、306,301人、小作争議3,419件、参加人員81,135人という広がり具合だった。兵士の中での運動については、1932年7月から3カ月間、呉海兵団で党員3名の細胞が存続し、機関紙「聳ゆるマスト」を6号まで発行し、党員、同調者5名、一年前までの水兵5名、計10名という規模だった。軍隊内での党細胞は、呉海兵団以外になく、兵士への手がかりもわずかだった。

  コミンテルン日本支部は、それらの状況にたいして、コミンテルンの主観主義的情勢評価指令ともあわせて、「労働者、農民、兵士は革命化しており、日本は革命前夜の情勢にある」という根本的に誤った情勢判断を下した。そして「天皇制打倒」の革命スローガン、方針を労働組合に押しつけ、国家権力に弾圧の口実をみすみす与えるという形で、最大の大衆組織を自らの誤りによって崩壊させた。

  高橋彦博法政大学教授は、近著「日本国憲法体制の形成」(青木書店)において、帝国憲法から日本国憲法への変化を政治史として様々な角度から分析している。その「結び」で、「そもそも戦間期日本において、コミンテルンの三二年テーゼがいう「天皇制の転覆」が政治日程化され、政治争点化された瞬間がなかったのであり、天皇制との対決を帰結する構造分析のあれこれは、コミンテルン型左翼特有の経済分析としてしか評価されていなかったのである」としている。

  絶対主義的天皇制という日本の権力構造の分析が、たんなる理論問題、経済分析として使用されるだけなら、政治的力関係には直接の影響はない。しかしその打倒と天皇制廃止による労働者、農民のソヴェート政権樹立という革命への決起が、第一義的実践課題となると、これは文字通りの、日本の現実から遊離した、主観的で、極左的な方針と実践だった。

  日本共産党は、従来から、「天皇制とたたかった唯一の党」と自己主張している。確かに、たたかったのは事実であるが、その方針の性質は極左的なものであり、実践の実態は上記のように、重大な損害をもたらした、根本的に誤ったものであり、「真理」とはとうてい言えない。

  この方針、実践が、いかに現実から遊離したものであったかは、合法政党となった現在の日本共産党の対天皇制方針からもわかる。「週刊金曜日」(1997.10.24号)で、高橋教授は、「共産党はどこまで伸びるのか」の中で、志位書記局長が憲法50周年記念日に天皇制廃止を「今日の政治的要求とする考えをとっていない」「それは横に於いて…」と発言したことへの、一党員の批判を紹介し、共産党の「済し崩し」型原理転換方式を指摘している。そして「体制内「改革」を採用した日本共産党にとって、コミンテルン型戦略としての「天皇制転覆」(三二年テーゼ)を撤回する作業が避けられない課題となった」として、現在の共産党による天皇制反対スローガンのなし崩し的隠蔽作業をさらに検討している。

  上記1)から3)の方針と実践については、1930年代のコミンテルンと日本支部との関係の実態を踏まえて、検討することが必要である。

  コミンテルンは、単一の国際政党であり、レーニン死後のスターリン恐怖政治下で、かつソ連邦共産党が実質的な唯一指導政党だった。そこと日本支部とは、鉄の規律の民主主義的中央集権制、実態としては暴力革命路線による「軍隊的」な上級下級関係にあり、そしてこれら3つの方針の即時、無条件実践を義務づけられる関係にあった。

  具体的には、1927年、27年テーゼ作成とあわせて、コミンテルンが、福本、徳田、佐野の中央委員罷免、山本、国領の新中央委員選任を日本支部に指示するという関係にありた。また加藤哲郎一橋大学教授のホームページの「日本人のスターリン粛清」や加藤氏の著書「モスクワで粛清された日本人たち」(青木書店)にあるように、山本懸三、国埼定洞、杉本良吉銃殺をはじめ、数十人におよぶモスクワ在住の日本人党員、支持者のほとんどが、スターリンとコミンテルンによって粛清されたという関係にあった。旧ソ連秘密文書など記録による粛清確認者は28人で、内銃殺15名、強制収容所5名、国外追放3名、逮捕後行方不明4名、釈放1名(野坂竜)だった。

  日本人の粛清については、藤井一行富山大学教授のホームページでも、野坂参三夫人・竜のモスクワでの逮捕問題をはじめとして、詳細な研究がされている。さらには、党中央の誤った指導への批判活動として、形成された、1934年の多数派問題に対して、コミンテルンは党中央壊滅寸前の日本支部の党内状況を正確に把握していないのに、分派であると断定し、その解散を指令するという根本的に誤った決定をした。この多数派問題は、1930年代党史上ではきわめて重要な問題をふくんでいる。ここではこれ以上ふれないが、とりあえず文末に〔添付資料〕として、それに言及した埴谷雄高氏の一文を載せる。

  私が、戦前の前衛党を、「日本共産党」といわずに、あえて「コミンテルン日本支部」という用語を使っているのは、上記の理由からである。現在の自主独立の日本共産党と戦前の民主集中制の世界政党一支部とは、政党としての性格が決定的に異なるからである。だからといって、日本支部の3つの方針、実践の誤りが、コミンテルンの方針そのものが根本的に誤っていたということで免責されるものではない。

  この3つは理論問題なのではなく、即時無条件実践の運動方針だった。コミンテルン日本支部は、それらを絶対服従の義務、任務として、自らの宣伝、組織活動だけでなく、全協をはじめとする前衛党影響下のすべての大衆組織にもその無条件実践を指示した。

  それによって、日本支部の戦争阻止運動は、国民からまったく孤立し、遊離し、社会ファシズム論の実践によって一般的な反戦運動とも断絶し、前衛党傘下の大衆運動も自らの誤りで崩壊させた。

  党自体も、この誤った方針についていけない党員の大量転向を生み出し、内部崩壊していった。1933年6月以降に発生した転向の雪崩現象の中には、いわゆる裏切り、変節も当然あった。しかし大部分は、特高による検挙、拷問や治安維持法に基づく起訴の下とはいえ、根本的に誤った方針をかかげた運動体からの正常な離脱といえるものとして見直す必要がある。

  宮本顕治は、11中総冒頭発言で、「党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論を持ってきて、いまだに自分たちの合理化をやっている…」と言っている。宮本顕治や現在の党中央は、折にふれて、党を離れた者や転向者を「脱落者」「変節者」呼ばわりしている。宮本顕治が、拷問にも屈せず、非転向を貫いたのは、個人としては立派で、英雄的である。尊敬に値することである。自分の12年間の非転向・獄中生活を誇りにし、転向か非転向かを当時の人物評価の価値基準とすることは理解できないわけではない。

    共産党『宮本顕治の11中総冒頭発言』

  しかし全協関係で検挙された4500人、起訴された512人の党員、活動家たちや、その他多数が活動から離脱した原因の大きな部分が、あるいは心ならずも転向した原因の一つが、宮本顕治をはじめとする党中央の根本的に誤った上記方針、実践指令にあるとしたら、その人達に「党から脱落したりあるいは変節した連中」という言葉を投げつけるというのは、当時の最高指導者として、また一人の人間としても許されることか。

  戦争突入か阻止かという1930年代の一大政治決戦において、コミンテルン日本支部は「真理をかかげてたたかった」のではなく、誤った方針をかかげてたたかい、反ファシズム、および反帝闘争の統一行動を分裂させ、運動を内部崩壊させ、戦争突入を許したのである。

  これが、共産党の戦争責任論に対する私の結論である。厳しい評価のようであるが、具体事例に基づく歴史的事実として認めることが必要だと考える。

  ただし、ここには考慮すべき点もある。

1)、特高、治安維持法など国家権力による弾圧の激しさと、その権力と前衛党との力関係である。相次ぐ検挙によって、党中央委員会は、13年の間に4回も壊滅させられ、活動は断絶した。埴谷雄高氏は、〔添付資料〕でその状況について、リアルに、かつ文学的に表現している。党員の90%が一年以下の活動期間しか持っていなかったことも警保局資料で明らかになっている。それでは高度な理論武装や活動技術を身につけることも困難だった。

2)、丸山眞男も認めているように、「非転向コンミュニストが…あらゆる弾圧と迫害に堪えてファシズムと戦争に抗してきた勇気と節操」である。また非転向者のみでなく、上記の原因で転向したり、離脱した大部分の党員たちも、その生命と青春をかけてたたかった。その転向者をふくめた個々人の奮闘は、1930年代の輝かしい記録となる。

3)、現在の日本共産党は、「日本共産党の七〇年」で、断片的、または理論面だけであるが、その時点の誤りを認めている。27年テーゼでのセクト主義や、社会ファシズム論の理論的誤り、全協に天皇制打倒の綱領を採択させた理論上の誤りなどである。

  この3点を考慮に入れても、上記の方針、実践に決定的な誤りがあり、その誤りと戦争突入を許したことに因果関係があるということは解消できない。

  方針上、実践上の根本的な誤りがあるのに、それを一切認めないだけでなく、それらを「真理」だと言い張るのは、まさに歴史の偽造、歪曲に基づく強弁である。それは同時に、明白な誤りに対する無責任体質でもある。共産党は、都合が悪くなると、よくこの強弁を使って、問答無用の無責任な態度をとる。

  最近では、ルーマニア問題があった。宮本顕治は二回もルーマニアを訪問し、チャウシェスク賛美、ルーマニア賛美の共同声明を発表した。東欧革命後に、著名人をふくむ党内外多数から、その誤りの指摘、強い批判が出された。それに対し、共産党は、誤りの存在を一切認めず、宮本顕治の個人責任もとらず、それらは当時では正しかったという強弁を押し通した。ここにも共産党の結果責任をとらない無責任体質が明白に表れている。加藤哲郎一橋大学教授ホームページ内、「日本共産党への手紙」で、および加藤氏の「東欧革命と社会主義」(花伝社)「あとがき」で、その強弁の内容が分析されている。

  この強弁も、共産党がよく使用する詭弁術の一つである。

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 第三、戦争阻止での「負け」という結果責任は、10年後の第二次大戦の結末で免責されるのか。またその結末は、日本支部の戦略の正しさを証明したと言えるか−論点すりかえと虚構の論証

  志位報告では、「長い視野で見れば、軍国主義とファシズムへの勝利者は明りょうである」とし、日本支部が勝利者であると暗示している。

  宮本新春インタビューは、「けっして日本共産党は負けたのではない。第二次大戦の結末を通じてあきらかになったことは、日本共産党が先駆的展望を示していた」と強調している。

  不破報告でも、「戦争の結末そのものが、わが党の戦略路線の正しさを証明した」と言い切っている。

  ここには二種類の詭弁がある。

  第一、論点すりかえの詭弁

  根本的に誤まった方針、実践により、戦争突入を許した「政治決戦での負け」という結末と、それと全く無関係な軍部ファシズムと連合国軍との戦争の10年後の結末とを並べて、比較し、後者の軍事的勝利が、前者の政治的勝利につながる、あるいは「負けたのではない」とするのは、まさに論点をすりかえた詭弁である。

  丸山眞男が提起している結果責任の発生期間は、1922年結成から1935年壊滅までの13年間のコミンテルン日本支部の活動期である。そしてその責任適用範囲は、国際的力関係でなく、日本における対極的政治勢力である天皇制と前衛党との国内的力関係である。

  侵略戦争突入か阻止かという国内政治決戦での結末は、10年後の1945年の国際的軍事的結末とは何の関連性もない。コミンテルンの1935年の反ファッショ人民戦線への路線転換は、たしかに国際的結末と関係がある。それはファシズムへの国際的勝利に大きく貢献した。しかし上述したように、きびしい言い方であるが、日本支部はその転換した路線でたたかったことは一度もない。

  この論理は、前者を主張する者に「局視的な歴史観」というレッテルをはり、後者を強調する側を「歴史の大局」として、無関係な二つの結末を「局視的」か「大局的」かと対比させ、後者の国際的軍事的勝利結果でもって、10年前の国内的政治的敗北結果の責任を免責しようとする詭弁術である。自己主張の論拠としては、使えようもない、無関係な事例をもちだして、論証ができたとするのは、論点すりかえの詭弁である。これは不破報告の(注)「論点すりかえの詭弁…ヨーロッパのレジスタンスとの比較」と同じ性質である。

  また、これは、1930年代の結果責任をたなあげし、自己の免責を図るというだけではない。それは、論点すりかえによって、丸山眞男を「歴史の大局が見られない、局視的な歴史観」の持ち主として、丸山眞男の歪曲像を作り上げるというきわめて悪質な手法である。これが、共産党が共産党批判者に対して常用するレッテルはりの操作手口である。

  第二、虚構の論証という詭弁

  それは、1945年の結末によって、1935年までの13年間に日本支部がかかげた戦略、方針、実践の正しさが証明されたとする詭弁術である。

  1945年の結末における戦略、方針と、10年前までのコミンテルン日本支部の戦略、方針とが一致しているのであれば、この論理も成り立つ。

  第二次大戦結末での連合国側の戦略、方針とは、(1)、反ファシズム、軍国主義復活阻止、(2)、資本主義枠内での日本の民主化、(3)、象徴天皇制への国体の転換だった。ただし、連合国といっても、日本敗戦一週間前に日本との戦争に参加したソ連の思惑は異なる。それは、日本を、少なくとも北海道を、現在の北朝鮮のように社会主義国化することだった。

  それに対し、日本支部の戦略、方針、実践は、上記第二で分析したように、(1)、反ファシズムでなく、「反社会ファシズム」、反戦平和でなく、「反帝国主義戦争、戦争の内乱への転化、ソ同盟擁護」、(2)、資本主義枠内での改良、民主化でなく、「労働者、農民、兵士は革命化しており、革命前夜の情勢に基づくブルジョア民主主義革命から急速な社会主義革命への転化」、(3)、象徴天皇制でなく、「絶対主義的天皇制の打倒、転覆と天皇制そのものを廃止した労働者、農民のソヴェート政権樹立」だった。

  二つで、一致しているのは、帝国主義戦争反対という点だけである。

  したがって、第二次大戦の結末は、帝国主義戦争反対という点以外は、コミンテルン日本支部の戦略、方針、実践が、すべて誤りであったことを証明している。不破報告「戦争の結末そのものが、わが党の戦略路線の正しさを証明した」など、一体どこから言えるのか。

  むしろ、第二次大戦の結末が、その正しさを証明したものという言い方をするのなら、それは、社会民主主義政党、団体がかかげた、()、「反ファシズム」「反戦平和」、()、資本主義枠内での「改良」路線である。

  ()の象徴天皇制問題については、現在の日本共産党は「憲法の平和的民主的条項」という用語を使い、暗に反動的条項とを区別し、象徴天皇制を反動的条項の中に入れている。したがって、これも日本支部の戦略の正しさの証明にはなりえない。なぜなら、そもそも戦前の日本支部も、戦後の日本共産党も、いかなる形態であろうとも、天皇制の存続を主張したことは一度もないからである。

  日本共産党は「戦前、天皇制とたたかった唯一の党」と上記方針、実践の根本的誤り、その実践がもたらした重大な損害を隠蔽した上で、「たたかった」という抽象的事実主張、宣伝だけをしてきた。したがって、戦後、ほとんどの国民、知識人は、「自分は、天皇制とはたたかわなかった」として、共産党へのコンプレックスにとらわれた。そして、象徴天皇制に転換するにあたっては、日本支部の「たたかい」が重要な役割を果たしたと錯覚してきた。

  コミンテルン日本支部や日本共産党の路線、方針は、その転換になんの影響も効果もなかった、とすれば、それでは、他のどのような要因がその転換をもたらしたのか。

  象徴天皇制となった原因の一つには、占領下日本支配への連合国側の思惑がある。それと並んでもう一つの要因として、戦前の日本の政治動向において、それまでの天皇制を転換させる様々な動きがあったという歴史的事実を見直すべきであろう。この戦前、戦中、敗戦直後の憲法動態については、君主制の「社会化」構想の流れとして、高橋彦博法政大学教授が「日本国憲法体制の形成」(青木書店)で綿密な研究を行っている。

  このように、第二次大戦の結末によって、日本支部の戦略路線の誤りが証明されたにもかかわらず、全く正反対の「正しさが証明された」というのは、どういう論理、政治倫理から出てくるのか。

  正しさの証明にならない事例、あるいは、かえって誤りの証明になる事例でもって、正しさが証明されたとするのは、虚構の論証という、もっとも厚かましい詭弁術である。

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 第四、丸山眞男の見解は、()反動的、()傍観者的、()幼稚な、()局視的、歴史の大局を見られない、()学問の名に値しない、()俗論、()観念論、()「共産党戦犯」論……なのか−論証、証明されていない性格規定をするというレッテルはり、あるいは歪曲、詭弁に基づくレッテルはり

  これらは、第二十回大会の志位報告、不破報告、大会決議、および宮本新春インタビューで使用されているレッテルである。丸山批判の3つの「前衛」論文でも使われている。

  丸山眞男は、日本の政治状況の中で、天皇の戦争責任を明確にすることを第一義的に主張している。さらにあらゆる階層、グループ、職業とその中での個々人の戦争責任を確定していくことの重要性を説いている。

  それらを確定していく上での重要な問題として、天皇制の対極にいた前衛党が戦争突入か阻止かの政治闘争に「負けた」理由を検討し、公表するという形での結果責任のとり方を提案している。

  この短い論文「戦争責任論の盲点」全体、あるいはみすず書房版601ページからの文末22行分の共産党問題言及個所のどこが、上記(1)から(8)の性格規定になるのか。そのいずれもが論証抜きの規定、あるいは歪曲、詭弁に基づく規定というレッテルである。そのうち(3)の「幼稚な観念論」というレッテルだけを検討してみる。

  志位報告では「真理は、さまざまな客観的な政治的力関係のもとで、そのときどきの歴史的局面・断面では、実らないこともある。方針さえ正しければ、どんな場合でもその方針はかならず実現するはずだとするのは幼稚な観念論であるし、それなら革命運動はひどく楽である(笑い)」としている。

  丸山眞男が、志位報告通りの趣旨のことを言っていれば、確かに丸山眞男は幼稚な観念論の持ち主であろう。そうなら、党大会で、丸山眞男を馬鹿にした(笑い)が出されても仕方がない。

  添付資料の「戦争責任論の盲点」文末22行とを対比検討してみる。1)、丸山眞男は、共産党の方針が真理であったとか、または正しかったなどと述べていない。2)、また方針が正しければ、かならず実現するはずだ、とも言っていない。用語としても、それを類推させる言い回しもしていない。他の文献でも述べていない。

  とすると、志位報告は、この1)、2)に反して、丸山眞男の論旨を勝手にでっちあげ、誹謗目的のために歪曲したものである。宮本顕治による「丸山眞男の共産党戦犯論」という歪曲と同じ性質のものである。そして自らが勝手に歪曲した論旨に「幼稚な観念論」というレッテルをはりつける手法を使っている。さらにその歪曲とレッテルでねつ造された「幼稚な観念論」の持ち主、丸山眞男への党大会代議員1000人の嘲笑(笑い)をさそっている。

  しかも第二で述べた、コミンテルンの対日本支部3方針、および日本支部の実践が根本的に誤っていたという私の見解に立てば、これらの(1)から(8)は全く的外れで、低級なレッテルになる。

  田口富久治立命館大学教授は、「戦後日本政治と丸山眞男」の中で、日本共産党の丸山批判について「私自身が、このキャンペーンをどう受け取めたかといえば、批判者の側は、丸山の議論とその趣旨を正確に理解する能力(「意欲」)を欠いており……」と述べている。そして「日本共産党が、このような無理解、低級な批判、そして反動的俗論というような(私の目からみた)丸山に対する誹謗を撤回するようになる日がいつか来るのでしょうか」としている。

  なんの根拠もなく、論証されてもいないのに、あるいは歪曲、詭弁に基づいて、相手の人物、理論の性格規定をすることを「レッテルはり」と言う。できるだけ打撃的、侮辱的なレッテルをはりつけることによって、論争相手のイメージダウンを狙うという姑息な論争方法である。このレッテルはりも共産党が論争において多用する得意技である。

  こうした居丈高で、こけおどしの論法は、「科学的真理」の唯一の認識者、体現者と自称する前衛党特有の詭弁術の一つである。即ち、一つの国には一つの前衛党しかありえず、その唯一前衛党以外の他政党、他団体、個人は、「真理」を認識できないとする、うぬぼれた前衛党理論に基づくヨーロッパ中世異端審問官的レッテルはりなのである。

  前述したように、志位報告が11回も「真理」という言葉を丸山批判で使っている思想的根拠には、この前衛党理論がある。世界政党史上で、これほどうぬぼれた、かつ排他的な理念をもつ政党は、前衛党以外にはない。この理念をもつ政党が、国家権力を暴力革命で奪取すれば、他政党、批判者すべてにレッテルをはりつけ、異端者として排除し、一党独裁に行き着くのは必然の成り行きだった。

  したがって、この前衛党型レッテルはりの元祖は、レーニンである。それは「レーニン全集」でもわかる。しかしソ連崩壊後に明らかにされたレーニンの6000点以上もの膨大な秘密文書、未公開資料に基づいて書かれたドミートリー・ヴォルコゴーノフ著「レーニンの秘密上・下」(NHK出版)でさらによくわかる。そこではレーニンが、いかに悪質な、異端審問官的レッテルはりを多用していたか、そのレッテルに基づく財産略奪、銃殺、粛清をいかに大量に指令していたかが暴露されている。レーニンは、そのレッテルはりの害悪をコミンテルンを通じて世界中に流行させ、スターリンはレーニンの忠実な弟子として、さらにそれを拡大、蔓延させた。

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3、「共産党」存続の理論的基礎

  日本共産党の理論的基礎は、マルクス・レーニン主義(=科学的社会主義)、民主集中制に基づく党組織論、公平、平等の原理的なソーシャリズム理念などいくつかある。その一つとして、戦前13年間のコミンテルン日本支部の活動評価がある。

  しかし、上記第二で述べたように、コミンテルンの3つの基本方針と日本支部の方針、実践が「真理」どころか、根本的な誤りであったとなると、その理論的基盤が大きく揺らぐ。

  私の「共産党の体質研究」の「コミンテルン型共産主義運動の現状」で分析したような、そのヨーロッパでの終焉とアジア四党の生き残りという差異はどこから生じたのか。ユーロコミュニズムの諸党は、ポルトガル共産党を除いて、またフランス共産党では党中央の抑圧がいろいろあったが、党内外でのスターリン批判が自由に、徹底的に研究され、発表された。()スターリン批判、()1930年代のコミンテルン批判、()その時点における自国コミンテルン支部の批判的検討をやればやるほど、全く弁明の余地がない決定的誤りの論証がされてきた。そして「共産党」としては理論的に存続できないという帰結となった。

  上記第二の冒頭で、日本共産党はなぜスターリン批判、コミンテルンの批判的検討をやらないのか、それだけでなく党内外でのその研究、出版を何故、どのように抑圧してきたのかと述べた。それは日本でも党内、党外で自由に研究、発表をすれば、決定的誤りが明白になり、日本共産党が存続する理論的基礎の一つが崩壊してしまうことを、宮本、不破をはじめとする常任幹部会はよくわかっていたからである。ただそれらの党内外の研究、出版活動抑圧の事例分析は、これまた長くなるので、別の文で検討する。

  こうして、この(1)、(2)、(3)の徹底的検討の自由さと抑圧の度合い、およびその本質的誤りの認識程度によって、ヨーロッパとアジアという二つの対応の差が出てきた。

  「週刊金曜日」(前掲号)で、高橋教授は、「共産党はどこまで伸びるか」において、国家社会主義理念からの離脱方式にふれ、「日本社会党の方針転換は、一九九一年におけるソ連共産党の場合と同じ、公開清算方式であり、自己解体方式にほかならなかった。中国共産党がソ連共産党の解体清算方式を回避したように、日本共産党は日本社会党がとった公開清算方式を忌避している」と二つの対応に分類している。

  そして「日本共産党は、「革新統一戦線」戦術を消去し、「天皇制打倒」方針を横におき、「帝国主義」概念を点滅させるというフェイド・アウトの手法(済し崩し型原理転換方式)によって基本方針を転換させ、社会民主主義への実質的転換の既成事実化をはかっているのである」と、1997年の第二十一回大会方針を分析している。

  後房雄名古屋大学教授は、「共産党は「普通の政党」になれるのか」という、同号「週刊金曜日」論文の中で、ユーロコミュニズムのフランスとイタリアの転換の先例を分析しながら、「自分が望むものをすべて得られないのなら、すべてをぶち壊すという…「最大限綱領主義」的な「政治体質」を続ける限り、具体的な連合相手は得られないまま、…共産党の想定する方向とは異なった展開をみせ、共産党はかって七〇年代に掲げたスローガンに続いて、再び民主連合政府の期限を先延ばしにすることにならざるをえないであろう」と指摘し、「共産党の「政治体質」の変化に注目したい」としている。

  「共産党」としての存続をやめたイタリア共産党の転換については、後教授の「大転換」(窓社)が、その詳細な紹介をしている。それは、理論問題の研究だけでなく、1991年の転換党大会にも参加した臨場感あふれるルポルタージュにもなっている。後教授のこの著書、およびそこに収録されている3つの異なった潮流から提出された3つの大会議案のどれをみても、イタリア共産党の党内外で、いかにスターリン、コミンテルン、自国のコミンテルン・イタリア支部の批判的検討が、自由に、徹底して行われてきたかが分かる。それらのテーマを党内外で自由に研究、出版活動をした結果として、もはや「共産党」としては理論的に存続できないという全党的合意が形成された。それは民主集中制の功罪を明確にした上で、民主集中制の放棄と分派禁止規定の削除に基づく、党の完全な民主化を規定したイタリア左翼民主党の規約となって表れている。私の「共産党の体質研究」の「イタリア左翼民主党の規約を読む」が、その規約に基づく分析を行っている。また直接には、イタリア左翼民主党ホームページ(イタリア語)にある。

  フランス共産党は、まだ「共産党」として存続している。しかし1995年の第二十八回大会で、民主集中制の放棄を、賛成1581人、反対22人という圧倒的多数で決定した。これはレーニン・コミンテルン型党組織論、組織理念の完全な放棄である。ただし、その前にフランスでは1985年、第二十五回大会頃より、党員が党外マスコミで、党の路線や民主集中制への批判的意見を発表することも規制されなくなっていた。フランスにおいても、党内外での自由な研究、討論、出版を通じて、民主集中制がスターリン粛清の最大の武器となった歴史的事実、それが持つ反民主主義的抑圧機能が明白となり、その結果、「民主集中制」を維持することは、理論上でも、党運営の実際上でも誤りであるとする全党的合意が出来てきた。そして1997年現在、後教授の「週刊金曜日」論文でも分析されているように、社会党と統一戦線を組み、ジョスパン内閣に三人の閣僚を送り込んでいる。さらに、ユー全国書記は、「市民のための開かれた党」という路線を打ち出し、1998年1月にはすべての歴史家、ジャーナリストに党の保管文書を公開すると約束した。当然、その時には、1930年代コミンテルン・フランス支部関連の保管文書も全面公開されるはずである。これも直接には、フランス共産党ホームページ(フランス語)にある。ソ連共産党の路線、方針のほとんどを支持し、そのためソ連共産党の長女と言われたフランス共産党は、マルシェ書記長の引退(1997年死去)もはさんで、もはや後戻りの出来ない党民主化に踏み出した。ここまでくれば、この党も、「共産党」として存続することは誤りであるとする合意が形成されるのは、時間の問題であろう。

  ただし、イタリア、フランスいずれの場合でも、その転換の要因は単純ではない。上述したことは、負の、消極的要因というべきもので、それは10カ国の社会主義国がそれ以上一党独裁型政治、経済体制を維持することが不可能になったものと同じである。歴史の負の遺産ときっぱり断絶するということで、イタリア左翼民主党では、それを「断絶的刷新」といっている。それ以外の要因には、現在の世界政治、経済における情報革命とグローバル化の構造変化がある。それに対して、マルクス、レーニンの歴史観、世界観は、史的唯物論という、生物進化論を人類の歴史にも単純に取り入れた、単線的な社会発展段階説であり、この変化に対応できない。10カ国の社会主義国の崩壊でその破綻が証明された史的唯物論、「共産党」型情勢分析、思考方法、組織運営原理という従来の古い型では、そのグローバルな変化に前向き、積極的に対応できないという状況認識が、党内外での自由な研究、出版活動を通じて、同時に作られてきた。この両側面の要因が、これ以上「共産党」というコミンテルン型政党スタイル、あるいは「民主集中制」という反民主主義的組織運営スタイルを維持することは誤りであるとする全党合意を形成した。

  このイタリア、フランス、その他のユーロコミュニズムの諸党に比べて、日本共産党の批判、異論への対応の実態はどのようになっているのか。

  1930年代のコミンテルン日本支部史(戦前の日本共産党史)およびスターリン、コミンテルンとの関係史は、その間「真理をかかげて不屈にたたかった」とする日本共産党の神話の世界、理論信仰の世界に属するものだった。党内外の者が、公式党史とは異なる視点を持って、その世界に踏み込むことは、輝かしい神話を崩壊させ、「共産党」存続を危うくさせる行為として、タブーだった。

  丸山批判が始まった1993年当時、「民主文学四月号」問題での共産党中央による民主主義文学同盟への不当な干渉、人事介入に抗議する形で、結成された同人誌「葦牙」(あしかび)に対して、共産党はそれを目の敵にして、「葦牙」批判キャンペーンを繰り広げていた。そうした時点に、久野収氏がその「葦牙」誌上のインタビューで、丸山眞男の「戦争責任論の盲点」を、発表30数年後に援用して、コミンテルン日本支部史のタブーに触れた。そこから、「共産党の丸山批判・経過資料」で分析したような、13回にもわたる、執拗な丸山批判キャンペーンと党内への徹底現象が発生した。

  その前には、1989年、作家森村誠一氏と党中央委員会との共同執筆契約による「日本の暗黒」「赤旗」連載中に起きた問題がある。そこでは、戦前の党活動、特高などの動向とスパイ査問事件を内容とし、「悪魔の飽食」連載時と同じように、綿密な考証と取材に基づいて、好評のうちに連載が進行していた。スパイ査問事件にいよいよ入る直前での、理由のない、突然の連載中断をめぐって、森村氏が日本共産党と断絶、「赤旗」購読中止をし、共産党側で連載を担当していた下里正樹赤旗記者が解雇され、除名されるという事件が起きた。これも戦前の党活動およびスパイ査問事件というタブーにふれたことが原因といえる。この連載中断、下里氏除名問題の真相については、「共産党の体質研究」の「作家森村誠一氏とスパイ査問事件」で詳しく述べた。

  さらにその前には、1976年の立花隆批判キャンペーンがあった。立花氏もやはり、「日本共産党の研究(一)(二)(三)」(講談社文庫、14刷発行)で戦前のコミンテルン日本支部史を膨大な資料に基づいて、綿密な考証のもとに、リアルに再現して、タブーに触れた。そのとき立花氏は「犬」呼ばわりされ、共産党は「犬は吠えても歴史は進む」として、党史上最大と言えるほどの大反撃キャンペーンを行った。

  ただし、公式党史とは異なる視点に基づく、1930年代の日本支部史およびコミンテルンと日本支部との関係史というタブー以外に、もう一つのタブーがある。それは民主主義的中央集権制への異論である。

  スターリン批判、1930年代コミンテルン批判、その時期の日本支部史の批判的研究、出版を抑圧することと、民主集中制改革、廃止の異論を抑圧することとは、表裏一体のものである。なぜなら、民主集中制を緩和したり、放棄したら、スターリン、コミンテルン、日本支部批判を抑圧する歯止めがなくなり、日本共産党内外で、その研究、出版がいっせいに出され、「共産党」存続の理論的基礎の一つが完全に崩れてしまうからである。

  民主集中制が、党内における自由な研究、発表に対して、どのような反民主主義的抑圧機能を持っているかは、崩壊した10カ国の社会主義の実態で完全に暴露された。私の「共産党の体質研究」の「なぜ民主集中制の擁護か」で、日本共産党内での、その抑圧機能について、事実に基づく実態分析をしてある。

  尚、今回は、加藤哲郎一橋大学教授著「コミンテルンの世界像」(青木書店)、高橋彦博法政大学教授著「日本国憲法体制の形成」(青木書店)、田中真人同志社大学教授著「一九三〇年代日本共産党史論」(三一書房)、渡部徹京都大学教授編「一九三〇年代日本共産主義運動史論」(三一書房)、日本共産党中央委員会「日本共産党の七〇年」ほか多数の文献を参考にした。1930年代の様々な事例の文献的根拠については、割愛させていただいた。

  なお、加藤哲郎氏は、加藤HPで次の研究を発表している。(1)「日本共産党の70年」と日本人のスターリン粛清(2)第一次共産党のモスクワ報告書(3)「1922年9月の日本共産党綱領」(4)「非常時共産党の真実−1931年のコミンテルン宛報告書」

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〔添付資料、()〕、丸山眞男「戦争責任論の盲点」

 みすず書房版の文末22行分、共産党問題の直接言及個所である。尚、論文全体については、このホームページの丸山眞男「戦争責任論の盲点」にある。

 「共産党――ヨリ正確には転向コンミュニストが戦争責任の問題について最も疚しくない立場にあることは周知のとおりである。彼等があらゆる弾圧と迫害に堪えてファシズムと戦争に抗して来た勇気と節操とを疑うものはなかろう。その意味で鶴見俊輔氏が非共産主義者にとって戦争責任をとる、具体的な仕方として、あらゆる領域で共産党を含めた合議の場を造る必要を説いているのは正論と思う。しかしここで敢てとり上げようとするのは個人の道徳的責任ではなくて前衛政党としての、あるいはその指導者としての政治的責任の問題である。

 ところが不思議なことに、ほかならぬコンミュニスト自身の発想においてこの両者の区別がしばしば混乱し、明白に政治的指導の次元で追及されるべき問題がいつの間にか共産党員の「奮戦力闘ぶり」に解消されてしまうことが少なくない。つまり当面の問いは、共産党はそもそもファシズムとの戦いに勝ったのか負けたのかということなのだ。政治的責任は峻厳な結果責任であり、しかもファシズムと帝国主義に関して共産党の立場は一般の大衆とちがって単なる被害者でもなければ況や傍観者でもなく、まさに最も能動的な政治的敵手である。この闘いに敗れたことと日本の戦争突入とはまさか無関係ではあるまい。敗軍の将はたとえ彼自身いかに最後までふみとゞまったとしても依然として敗軍の将であり、敵の砲撃の予想外の熾烈さやその手口の残忍さや味方の陣営の裏切りをもって指揮官としての責任をのがれることはできない。

 戦略と戦術はまさにそうした一切の要素の見透しの上に立てられる筈のものだからである。もしそれを過酷な要求だというならば、はじめから前衛党の看板など掲げぬ方がいゝ。そんなことは夙くに分かっているというのなら、「シンデモラッパヲハナシマセンだった」式に抵抗を自賛する前に、国民に対しては日本政治の指導権をファシズムに明け渡した点につき、隣邦諸国に対しては侵略戦争の防止に失敗した点につき、それぞれ党としての責任を認め、有効な反ファシズムおよび反帝闘争を組織しなかった理由に大胆率直な科学的検討を加えてその結果を公表するのが至当である。共産党が独自の立場から戦争責任を認めることは、社会民主主義者や自由主義者の共産党に対するコンプレックスを解き、統一戦線の基礎を固める上に少からず貢献するであろう。」

(思想の言葉、「思想」昭和三十一年三月号、岩波書店)

〔添付資料、(2)〕、埴谷雄高「「一九三〇年代日本共産党私史、宮内勇著」跋(おくがき)」(三一書房)冒頭部分の抜粋

  以下の抜粋は、「跋」の冒頭から五分の一にあたる。残りは埴谷氏と宮内氏との雑誌「農民闘争」時代の関係や敗戦時点までの関係が書かれている。その部分は省略する。

  「跋              埴谷雄高         

  もし私達がある期間にわたって一貫して継続している党の歴史を眺めようとすると、不思議なことに、どの国においても現在の指導部を讃えるために敢えて歪められた「一つの恣意的な歴史」を眼前に見るので、客観的な歴史に接することは容易でないが、それに加うるに、吾国においては、昭和四、五年からはじまる非合法の、短くきられた闇の歴史の時代がはさまっているので、なおさら的確な歴史のかたちを眺め渡しがたいのである。

  この時代においては、逮捕されるまで、党の仕事をつづけたものの平均活動年数は恐らく、二年くらいであって、誰もが、その極めて短い時代における極めて狭い自己の周辺、巨大な闇のなかへ驚くほど小さな光の輪をようやく投げかけたごとき僅かな範囲しか知り得なかったのであるから、この時代における党の歴史は精密にはつながらないのである。

  ところで、この手記の筆者宮内勇は、昭和四年から昭和九年まで「生きて」いたのであって、当時における党活動の内容の記録者として一つの希有な例を私達の前に、提出しており、この手記の第一の特色こそは、当時において容易に得がたいその珍らしい持続性にあるといわねばならない。

  農民運動という側面からみた当時における党活動の生々しい雰囲気がまずここに活写されているが、筆者はさらにスパイ問題とリンチ事件という革命の重大な暗部に直面して、その当時における党内の混乱した状況を私達に伝えている。これはこの手記の第二の特色であるが、さらに、この手記の白眉というべき第三の特色は、その怖るべき疑心暗鬼時代の混乱のなかから指導部の革命性とは何かを問うて、中央部奪還闘争、多数派の運動を開始したことである。

  反中央部、反幹部の闘争はどこの党においても屡々みられる事例であるけれども、この多数派の運動におけるごとき一種のスターリン批判の先取り、中央部の官僚主義的抑圧に対するところの本質的な底辺の抵抗を、理論的に、また、広い範囲にわたって、組織的におこなった例はまことに稀であるといわねばならない。

  このような質の抵抗がなされたのは、この手記の筆者が「長く生きのびていた」事態に由来するけれども、そこにまた党活動への積極的な純粋性がなければ、ここに示されたごとき多数派の率直なアッピールは書かれなかったに違いないのである。

  昭和五年の晩夏、私は平田良衛が主宰するプロ科農業問題研究会から「農民闘争」へもらわれていった。私をもらったのは伊東三郎で、彼の指示のもとに雑誌「農民闘争」の編集の仕事が私に始まったが、しかし、……宮内勇とは翌六年のはじめになるまで顔をあわせなかった。」         以上

〔添付資料、(3)〕 (注)、「丸山眞男の「共産党戦犯」論」という宮本顕治の歪曲的規定

   これは、宮本顕治「新春インタビュー」の末尾(注)と同じものである。

〔目次〕、1、宮本顕治による歪曲のひどさ

     2、「共産党には戦争責任は一切ない」というのは正しいか

     3、宮本顕治の歪曲的規定の根拠となる丸山眞男の文献は存在するのか

     4、私がこの歪曲にこだわる理由

1、宮本顕治による歪曲のひどさ

  「共産党戦犯」論と「政党の政治責任としての戦争責任」論とでは、その意味がまるで異なる。

  侵略国側の戦争責任といった場合、天皇、軍部、財閥等の戦争推進者の戦争責任は絶対的なものであり、それは戦争犯罪に相当するものとして、「戦犯」となる。

  それ以外の国民、各階層、各政党は、被害者であると同時に、直接間接の加害者となったのであり、侵略国側の国民としての加害責任が全てに問われる。ただしそれは政治責任、結果責任としての「戦争責任」であり、アジアの国々を侵略し、2000万人の死者を出したという加害の責任があるとしても、捕虜虐待等の事例を除いては、「戦犯」という性質のものではない。

  宮本顕治は、丸山眞男の「共産党の政治責任としての戦争責任」論を「丸山眞男の「共産党戦犯」論」とする、ひどい歪曲をしているのである。

2、「共産党には戦争責任は一切ない」というのは正しいか

  次に、国民全体の中で、(1)、戦争に積極的に協力、加担した個人、団体、政党、(2)、戦争進行に消極的加担、無作為、無抵抗だった者には戦争責任が存在しる。そして(3)、戦争に一貫して反対し、闘った政党にも戦争責任が存在するのか、それとも一貫して反対したが故に戦争責任を「免責される」のかという問題が出てきる。具体的には、コミンテルン日本支部は日本における唯一の「免責団体」となるのかというテーマである。

  宮本顕治は、コミンテルン日本支部にとって、1922年結成から1935年壊滅までの13年間、戦争に一貫して反対し、闘ったことが「絶対的免責事由」なのであり、政治責任、結果責任としての戦争責任を問われるいわれは一切ないという立場に立っている。

  それに対して、丸山眞男は、果たしてそう言い切れるのか、天皇の戦争責任と共産党のそれを先験的に除外するという「大多数の国民的通念」は正しいのかという疑問を提起したのである。その根拠として、次の二点を挙げている。

  第一は、戦前の日本共産党が、戦争推進か阻止かという点で、「体制」か「反体制」かという点で、天皇制の対極にいた政党であり、「最も能動的な政治的敵手」であったことである。

  第二は、前衛政党、即ち前衛党の看板を掲げた政党だったことである。前衛党とは、科学的真理の、世界と日本における唯一の認識者、体現者であり、政治的実践における無謬者であると自己規定してきた政党である。そういう「前衛党」の看板を掲げる以上、戦争突入という結果になったことに対する責任をのがれることはできない。そこから独自の立場での戦争責任を認めるべきではないかという疑問を提起しているのである。

  天皇の戦争責任が徹底的に追及されず、同時に国民全体、各階層、各政党の戦争責任問題の位置づけを確定するのが弱いことが、日本の政治状況にとって重要な問題となっている。天皇制の対極にいて、かつ上記の規定の前衛党を名乗る日本共産党が「日本共産党だけは一切戦争責任がない」としているのは、それらを追及し、確定していく上での重大な障害の一つになっているという状況認識が、丸山眞男の見解の根底にある。

  この点については、水田洋名古屋大学名誉教授は、「象、22号」で、「日本共産党は、最近、丸山眞男が四十年近くも前に書いた共産党戦争責任論に、むきになって反論しているが、「敗軍の将」にも、戦争犯罪の主犯たちとはちがった意味で責任があるのは当たり前だし……」と批判している。

  また、高橋彦博法政大学教授は、「左翼知識人の理論責任」(窓社)の「戦争責任論の欠落部分――左翼の側の権威主義」の章において、同じような論旨を展開している。

3、宮本顕治の歪曲的規定の根拠となる丸山眞男の文献は存在するのか 

 「共産党の丸山批判・経過資料」、3−2)の(注)でも書きたが、上記の「丸山眞男の「共産党戦犯」論」(新春インタビュー)という宮本顕治の断定的規定はどの文献を根拠としているのでしょうか。私の調査、検索では、丸山眞男によるその用語使用、それを類推させるような言い回し使用は一切ない。

 もしそれが丸山眞男のどこかの文献に存在するのであれば、(注)で述べた私の意見は撤回しる。その存在をご存知の方は、メールで教えていただけないでしょうか。もしそれがないのであれば、宮本顕治および共産党は、「学問の世界での日本共産党の働き」などと「学問」を語る資格はない。

4、私がこの歪曲にこだわる理由

 第一は、共産党という民主集中制の上意下達の組織においては、最高指導者の発言は絶対的な重みを持つからである。とくに党大会前後のすべての「上り」「下り」会議=県党会議九十八回、地区党会議千数百回、支部総会約五万回での口頭報告、討議において「丸山眞男の「共産党戦犯」論」「共産党否定論」が、丸山眞男の論旨の様々な歪曲をからめながら、まことしやかに伝えられ、徹底されたからである。それを聞いた36万党員は、「共産党戦犯」などという丸山眞男を全く軽蔑し、頭のおかしい馬鹿げた学者だと笑い者にし、さらに強い敵意を抱くことになる。

 第二に、この「共産党戦犯論」は、「赤旗」1994年1月1日号で50数万人に、「赤旗(日曜版)」で200万人に、最高指導者による丸山眞男人物像として、公式見解の形をとって宣伝されたからである。

 これはやはり見過ごすことはできません。他にも、丸山眞男の論旨を歪曲した個所が丸山眞男の天皇制論をふくめて、多々あるが、ここではふれません。これ以上書くと、(注)の範囲を超えてしまいるので、別途改めて考察することとしる。

以上

〔添付資料、(4)〕、(注)、不破による「論点すりかえ」の詭弁……ヨーロッパのレジスタンスとの比較

    これは、第二十回大会、不破報告の末尾(注)と同じものである。

 水田洋名古屋大学名誉教授は「象」26号、「編集のあとで」において、「不破報告は、「レジスタンスの戦争責任」に論点をすりかえている」と批判している。

 ここには、二種類の論点すりかえがある。

 第一は、侵略戦争を起こす国の側での戦争阻止運動の戦争責任と、侵略された国の側での反侵略・抵抗運動の戦争責任とを並べて、前者の戦争責任論を後者のそれに「すりかえ」て、免責を図ろうとする論理である。

 第二は、侵略国における前衛党の戦争責任と、被侵略国における市民的な対独抵抗運動の戦争責任とを並べて、政党の政治責任を大衆運動のそれに「すりかえ」て、自己の免責を証明しようとする論理である。

 ヨーロッパのレジスタンスは、侵略された国の側での運動である。しかも政党ではなく、大衆的反ナチス抵抗運動である。それと同質なものとして、比較できるのは、中国における抗日統一戦線運動、朝鮮での抗日パルチザン活動、ベトナムの反仏・反日ゲリラ闘争などでしょう。これらの反侵略・抵抗運動が、裏切り、内通行為を除いて、その「戦争責任」を問われることはありえません。

 それに対して、1922年結成から1935年コミンテルン日本支部壊滅に至る13年間の日本支部の活動は、侵略戦争を起こす側の国での戦争阻止運動である。これと比較しうるのは、ナチスの侵略戦争を阻止しようと活動した、コミンテルン・ドイツ支部としてのドイツ共産党による運動しかない。侵略国の側だからこそ、天皇・軍部・財閥等の戦争推進者の戦争責任は絶対的なものとして、同時にその国民および各階層、各政党の「戦争責任」「加害責任」の有無や軽重も問われるのである。

 もし、あえてヨーロッパを持ち出すとすれば、レジスタンスという市民運動との比較ではなく、被侵略国の前衛党としてのコミンテルン・フランス支部の戦争責任とを比較すべきである。

 その中で、科学的真理の、日本における唯一の認識者、体現者であると自己規定し、天皇制の対極にあった前衛党は、自国の侵略戦争に一貫して反対していたが故に、政党の政治責任としての戦争責任を「免責される」のか、コミンテルン日本支部は日本国内における唯一の「免責団体」になるのか、というテーマを丸山眞男は突き付けたのである。戦争に一貫して反対したということが、上記の自己規定をし、前衛党を名乗る政党にとっての「絶対的免責事由」になるのかという疑問を、丸山眞男は投げかけたのである。

 このようにまるで性質の異なった、比較できようもない二つの運動を、比較して見せて自己主張の論証とするレトリックは、水田氏の言うように「論点すりかえ」の詭弁術そのものである。しかも二種類の詭弁を併用するというテクニックを用いている。

 宮本顕治が,丸山眞男の論旨を「共産党戦犯論」と歪曲・誇張して、それに批判を加えたという論争のやり方と並んで、不破の「論点すりかえ」の技法も、共産党が論争において多用する詭弁術である。しかも重要なことは、この詭弁が第20回大会という最高決議機関において承認、決定されたということである。そして36万党員が、この「論点すりかえ」を何の異論も出さずに受け入れたことである。

以上

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 (関連ファイル)

    「共産党の丸山批判・経過資料」

    宮本顕治  「‘94新春インタビュー」「11中総冒頭発言」の丸山批判

    志位・不破 「1994年第20回大会」の丸山批判

    共産党   「日本共産党の七十年」丸山批判・党史公式評価

    丸山眞男  「戦争責任論の盲点」(抜粋)

    石田雄   「「戦争責任論の盲点」の一背景」

    田口富久治「丸山先生から教えられたこと」。丸山批判問題

             「丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」」

    水田洋   「民主集中制。日本共産党の丸山批判」

             「記憶のなかの丸山真男」

    武藤功   「丸山眞男と日本共産党」

    H・田中   「市民のための丸山眞男ホームページ」

    丸山眞男関連HP検索 google