丸山眞男の「古層論」と加藤周一の「土着世界観」

 

田口富久治

 

 ()、これは、田口富久治名古屋大学名誉教授が、『立命館大学・政策科学9巻2号』(2002年1月)に発表した論文です。このHPに全文を転載することについては、田口氏の了解をいただいてあります。なお、文中の「傍点個所」は太字にしました。

 

 〔目次〕

     はじめに

   1丸山眞男と加藤周一の交渉

   2、丸山眞男の「古層論」

   3、加藤周一の「土着思想論」

     むすび

 

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  はじめに

 

 第二次大戦後の日本思想界において、世界に開かれた普遍主義的視座と思想と教養をもち、しかも広い意味での日本思想史研究に卓抜した業績をあげて戦後思想界をリードしてきた思想家・研究家ないし評論家として、丸山眞男(19141996年)と加藤周一(1919年〜)をあげることに異論をもつ知識人は少いであろう。

 

 本稿での私の問題意識は、丸山が東大法学部における東洋(日本)政治思想史の講義では、丸山にとってははじめての60年代初頭の英米滞在から帰国の後、63年度冬学期において「日本思想の原型prototype」について論じることから始められ、公刊された論文としては197211月に「歴史意識の古層」として発表され、その後「原型・古層・執拗低音」(初出、1984年)等に引き継がれていった一連の考察――ここでは便宜上、丸山の「古層論」として一括表記しておく――を、丸山に比肩し、あるいは丸山以上に多彩、多ジャンルにわたる知的、美的(文学、造型美術、絵画。音楽は、丸山と同じ)等の分野で旺盛な活動をいまなお続けている加藤周一の、全体としてもまた日本思想史研究にかかわるかぎりでも多分代表的労作と考えてよいであろう『日本文学史序説』上下(最初1975225日および1980410日、筑摩書房より刊行。ここで私が用いるのはちくま学芸文庫、199948日刊行の版である。)における加藤の日本の「土着世界観」なるカテゴリー。この二つの概念の異同、関連などと比較検討してみることである。そしてその検討を通して、いまや少なくとも丸山の「古層論」に関していえば、そのもっとも身近な後継研究者においてすら、論争の的となっているこの概念1)、そして私の推測では、丸山のこの概念の加藤側のカウンターパートとなっているように見える彼の「日本の土着的世界観」論、これらについての私なりの理論的見通しを得たいということである。そのかぎりで本稿は一つの研究ノート(のはじまり)にすぎない。

 

 なお、戦後日本の日本思想史研究の、古代から現代に及ぶ画期的達成として、家永三郎の膨大な業績がある。

 私は助手になっての一年目に、丸山教授の「日本におけるナショナリズム」という院・学部合同ゼミに出席を許されたが、その前後すなわち1952年度冬学期および助手時代に一年間、病気中の丸山の東洋政治思想史の講義を代講された家永教授の講筵に列している。この四月以降、家永三郎集全16巻(岩波書店刊)を、自伝を含む第16巻を皮切りに、第1巻から第7巻までを読了し、加えて「集」には残念ながら収録されなかった『津田左右吉の思想史的研究』(初版19726月岩波書店)をも読んだ。家永が丸山や加藤が問題としたような「古層」や「土着的世界観」の問題についてどのようにその思索を展開したかを調査し2)、丸山、加藤との比較を試みたいと念じているが、これは私にとってつぎの課題となる。

 

 以下目次に記したような順序で問題に迫っていくことにしたい。

 

 

  1丸山眞男と加藤周一の交渉

 

 丸山眞男と加藤周一が、おそらくは戦後どのようにして相知るようになったかは、私は知らない。だが両人がともに府立一中から、第一高等学校文乙・理乙を経て、それぞれ東大法学部と東大医学部に進学しているが、府立一中の同窓生であることは確実であり、両人の年令差は五年あるが、加藤は小学五年から一中に入っているから、加藤が一年入学のとき丸山は五年生であったはずである3)。その時点では交渉はまずおこらない。いずれにしろ両者がお互いを意識し、交渉をもつようになったのは、敗戦後のことと思われる。

 

 このたび二人の戦後の交渉を見ようとして、丸山については、丸山眞男集(岩波書店刊)別巻の人名索引の加藤周一の項、および丸山眞男座談の総目次で検索し、加藤については、著作集全24巻(平凡社刊)について全部ではないが、丸山及び丸山の労作についての言及の重要なものは可能なかぎりひろいあげ、かつ丸山との対談については、『加藤周一対話集A』(かもがわ出版、2000年)のT丸山眞男との対話4)六点(この中には当然のことながら、丸山眞男座談における加藤〔および丸山、加藤以外の第三者を含む〕との対談が数点ダブって入っている)をひろいあげてみた。なお、丸山と加藤には、日本近代思想大系15『翻訳の思想』(岩波書店、1991年)という共編著およびその副産物としての共著『翻訳と日本の近代』(岩波新書、1998年)という、両雄、丁丁発止、読み出したら巻を措くあたわざる白熱の対論があるが、これについての私の感想は、注で記しておく5)。もちろん、これら以外の両者ないし両者を含めた共編著、共著などは、数多い。ただ両者の交渉といっても、紙幅に限りもあるので、当面の問題設定にかかわるものに限定することにしたい。

 

 まず丸山サイドからの加藤の思索についてのコメントとしては、丸山の「日本の思想」という論文6)(初出、195711月)の「おわりに」における加藤の「雑種文化論」7)(収録論文の初出の多くは、加藤の戦後最初のフランス等への長い第一回目の留学およびその直後である、50年代半ばに書かれている。講談社文庫版の初版は、19749月。解説は長谷川泉。この解説で長谷川は加藤を、「小鴎外」と評している)についての短い論評がある。短い論評だから、その全文をかかげておく。

 

 「加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。傾聴すべき意見であり、大方の趣旨は賛成であるが、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。第一に、雑種性を悪い意味で「積極的」に肯定した東西融合論あるいは弁証法的統一論の「伝統」もあり、それはもう沢山だということ、第二に、私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多用な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。

 

 私はさきごろ「タコ壷文化」と「ササラ文化」という比喩でもって、基底に共通した伝統的カルチュアのある社会と、そうでなく、最初から専門的に分化した知識集団あるいはイデオロギー集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壷」をなし、仲間言葉をしゃべって、「共通の広場」が容易に形成されない社会とを類型的に区別し、日本を役者の典型に見立てたことがある(「思想のあり方について」〔本巻所収〕参照。むろんこういう類型化は一つの特徴をきわ立たせるためのもので、何も普遍的な社会形態論として言ったつもりはない)。戦前ではともかく「機軸」としての天皇制が一種の公用語となって、「タコ壷」間をつないでいたが、戦後はそれも通用しなくなり、しかも国際的交流が激増したので、国内の各集団やグループ相互よりも、むしろそれぞれのルートでの国際的コミュニケーションの方が話が通ずるといった奇現象がうまれている。むろんその反面、戦後の社会的流動性の増大とジャーナリズムの発展は異ったグループ間の接触機会を著しく増大したことはたしかである8)。」

 

 丸山の加藤「雑種文化論」にたいするこのコメントには、「日本の思想」論文を書いた頃の丸山には、後述するように、後の「古層論」につらなる発想の発端が「開国論」というかたちで自覚されつつあることがうかがわれる。

 

 丸山が、ついで、加藤の労作、とくにその代表作ともいうべき『日本文学史序説』をかなり本格的に論じたのは、「文学史と思想史について−W君との雑談−」(初出、加藤周一著作集第5巻、月報1519805月)である。この書評は、いまでは『丸山眞男集』第11巻で簡単に読めるので、詳しい紹介は必要がないともいえるが、行論上この丸山の加藤論――日本的な「自然主義」の目で見た加藤論ではなく、「作品に即し、作品に現われたものを通じての加藤論」――を、三点に絞って要約しておきたい。

 

 第一点は、丸山の、彼を上廻る加藤の視界の広さについての高い評価と、丸山と関心の重なる領域――思想史、現代政治の問題について、「見当ちがいと思ったことが一度もない(意見のちがうことはあるが)」というその言論の妥当性への高い信頼である。以下の引用を見られたい9)。

 

 

 思想史というのも限界領域があまりはっきりしない分野であり、私は自分では研究者仲間からデイレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広い方だと思っていますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。ただ、自分と関心の重なる領域について――思想史とか現代政治の問題など――加藤君が言ったり書いたりしていることで、見当ちがいと思ったことが一度もないので(むろん意見はちがうことはあります)、さだめし自分がまったくもののいえない対象――たとえば祗園南海の文人画とか、あるいはピエル・ルイスとか等々――について加藤君が論じていることも基本的に信用が置けるにちがいない、と推論するのです。とすれば、日本で必要なのはもっと多くの加藤周一が出て来ることじゃないでしょうか。むしろもっともっと加藤周一の仕事の方向を受けつぎ発展させる人が出て来れば、私は私なりに安んじて――というと変な言い方ですが――加藤君にたいして批判できる分野で正面から批判するかもしれない。しかし現状ではあまりに希少価値の存在ですから、あまのじゃくかも知れないけれども、日本的な嗅覚からの印象評判にたいしてどうしても擁護派にまわらざるをえない、というのが正直な気持ちです。

 

 

 この加藤評価は、この書評のしめくくりで、丸山が「もっと多くの加藤周一出でよ」という命題をくり返していることでも明らかである。

 

 第二に、丸山は、加藤の『日本文学史序説』を、その扱う対象の余人の追随を許さぬ広さ――裏返していえば日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(攻略範囲)の狭すぎること――と、津田左右吉の旧版――1916年に第1冊が出た『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の四巻本――この旧版を戦後の岩波文庫版(私自身はいまのところ、この戦後版しか読んでいない)と比べてはるかに高く評価する見解を私は家永三郎の仕事で読んだ記憶があるので、このような旧版、新版の比較評価は、すぐれた日本思想史家のコモンセンスとなっているのであろう。ともあれ、丸山によれば、津田の書物が「文学に現れたる国民思想」であるとすれば(第一義的には思想史)、加藤のそれは「国民思想に現われたる文学の研究」(第一義的には文学史)なのであって、この二つの著作の間には、それを書く主体的動機や姿勢、対象の処理の仕方において、ひとに両者を比較したい衝動を起こさせるに十分なある(傍点丸山)共通性が流れている、というのである。そして丸山は比較の三つのポイントとして、()通念的な学問的対象からの解放もしくは拡大。津田は「思想」概念について、加藤の場合は「文学」概念について10)。(2)一種の「イデオロギー批判」を一方は思想史の方法、他方は文学史の方法に導入した、というのである。丸山は「イデオロギー批判」は、「現代日本の復古思潮にたいする解毒剤という意味でだけではなしに、そもそも日本の思想的伝統の一つとして『言霊信仰』があり、ザッヘ(事柄)と無関係にコトバが一人歩きして流行するという精神的風土が根強いだけに」イデオロギー批判の意味と必要はけっして消えない、という。

 

 (3)は、「非人格的な、ある『観念』や思考パターンの歴史的足跡を迫って行くという方法」である。丸山は「非人格的思想史」という。この指摘が具体的にどういうことをイメージしているかについては、わたしの貧しいパラフレーズ能力を超えており、原文に当っていただくしかない。

 

 第三に、丸山は、津田と加藤の間には、ヨーロッパの、それもヨーロッパ大陸の文化史あるいは精神史の伝統という媒介を通しての間接的なつながりがあるだろうという。この点の、丸山のヨーロッパ精神史の古典数点を引いた立証とそこで引かれているエピソードの抜群の面白さ、そしてそれを加藤の、大伴旅人の八世紀の「讃酒歌」から1920年代の「酒は涙か溜息か」に到る「酔酒」の「“光輝ある”伝統は連続として盡きることなし」につなげる絶妙さとその解釈は、丸山ならではの名人芸というべきものであろう。脱帽するしかない。

 

 以上に加えるに、丸山眞男集第12巻には、「中野好夫氏を語る」(1985年)という文章で戦後の中野のある発言について、その問題点を最初に鋭く指摘したものとして、加藤の「戦争と知識人」論文をあげており、この論文を丸山は、「加藤君の書いたものの中でも抜群の――いい意味での『イデオロギー批判』の文章だと思います」という評価をのこしている11)。また武田清子編の『日本文化のかくれた形』(岩波書店、1984年)で、丸山が、木下順二、加藤周一と三人で行った講演のことに触れているが、丸山のものが、「原型・古層・執拗低音」であり、加藤のものが「日本社会・文化の基本的特徴12」」である。

 

 次は加藤の側からの丸山の作品の評価に移ろう。加藤周一著作集、全24巻等には、人名索引がついていないようなので、加藤の丸山への言及のすべてをひろいあげることができなかった。加藤の丸山の作品にたいする高い評価を示すものとして、加藤の丸山の『戦中と戦後の間』(筑摩書房、1976年)についての書評、また丸山の『現代政治の思想と行動』イタリア語版についての書評13)があり、また丸山の死のあと、加藤が朝日新聞の「夕陽妄語」に書いた「戦後史のなかの丸山眞男14)」という小論がある。さらに丸山の歴史意識における〈古層〉についての丸山との討論「歴史意識と文化のパターン」(原題、197215))は、本稿の論点そのものにかかわる基本資料の一つである。

 

 ここでは主として前のグループの一と三に触れたい。

 私はさきに丸山の加藤の『日本文学史序説』の書評のすばらしさに触れた。それは日本文学史・思想におけるこの著作の卓抜した意義を津田左右吉との対照、さらに両者のつながりを西欧精神史・文化史の諸古典の伝統のなかに位置づけたものであり、加藤を論ずることによって、丸山の学殖と思考の豊かさが自ずから浮き彫りにされるような作品であった。同様なことは加藤の『戦中と戦後の間』の書評についてもいえる。実は加藤のこの書評は、197722223日両日夕刊「朝日新聞」の「文芸時評」なのである。文芸時評で二回にわたって、政治思想史家丸山の一冊のみを扱う! この時評は、今となっては、加藤の著作集第1巻(1976年、146155ページ)に収録されているので、まだ読んでいない読者には是非読んでいただきたい。それは、「そこに年代的にならべられた二十余年(193657)の文章をつづけて読みながら、私は劇的な興奮を感じ、まさに手に汗をにぎる思いであった」の一句で始まる。ついで丸山の二冊の主著、『日本政治思想史研究』(1952年)と『現代政治の思想と行動』(19567月)の簡潔適確な紹介があるが、これらに対して、『戦中と戦後の間』を丸山の学問の成り立ちの歴史を知り、またその歴史をつうじて著者の人間をいきいきと感じとるためには、この一巻がふさわしく、それは著者の「精神史を証言している」という。

 

 まず本書巻頭の「政治学に於ける国家の概念」(東大法学部の緑会懸賞論文。丸山は学生で二十二才)がとりあげられる。

 「時流に抗する知的勇気、論理の緻密さと解釈の独創性、またその文章の明晰さにおいて、今日の学生ではなく、社会科学者または歴史家の何人」が、これに匹敵するような文章を書けるだろうか、という感慨が胸中に湧くと、加藤は語るが、そこにはその後の丸山の学問的(と同時に人間的)な関心の方向と方法的な特徴が、早くもはっきりとその姿をあらわしている、と加藤は考える。

 

 加藤がこの一冊から例示的にひろいあげてコメントしている「神皇正統記に現はれたる政治観」(1942)、「福沢諭吉の儒教批判」(1942)、「陸羯南」(1947)、「ファシズムの現代的状況」(1953)、「E・ハーバード・ノーマンを悼む」等の文章についての加藤のコメントは、まことに適確であるが、そのおのおのをくわしく紹介する紙幅はない。

 

 その時評の「むすび」に当る節で、加藤は、この本を「血湧き肉躍る思いで再読し三読しながら」、自分の念頭に去来した感想は、内容、方法ともにこれまでの言及につきないとしつつ、丸山の、「複雑な現象の一見対立するようにみえるいくつかの性質を、単にならべて指摘するばかりでなく、その相互の関連において把える分析的かつ総合的な推論の切れ味の鋭さ」を指摘する。それではその鋭さが何に由来するのか?加藤の回答は、以下のようなものである。

 

 「それはおそらく、その人の『コミット』した価値と世界、知的勇気、想像力、細かい感受性、つまるところその人格の全体と、係ってくるものだろう、と思う。故に私は、この文集が、決して文学的な一面を含むのではなく、その全体において、全く学問的であり(外在的な世界の構造への志向)、また同時に全く文学的である(自己と世界との関係の、具体的状況における定義)、と考えるのである。」と結論する。

 

 加藤のこの「時評」は、丸山のこの本についての、管見の限りでは最高の書評であり、同時に、加藤の批評そのものが、全く学問的であり、かつ全く文学的なものであるといえると思う。

 

 つぎに「戦後史のなかの丸山眞男」は相対的に短い文章であるが、丸山の思想と方法、そして「古層」論についても、いくつかの興味ある指摘がある。たとえば、丸山における、問題意識の高度の集中性の故の内容的拡がりという思考の構造と、その集中の中心が、「適時的および共時的な日本社会の全体の本質的な性格」であったという総括。また丸山の「学問の方法は経験主義的であって合理主義的ではない」が、しかし丸山は近代的個人、主体的な個人において内面化された合理的思考をその学問の当然の前提としていたという指摘(もっとも私見では、丸山は政治(学)的思考が弁証法的思考であることを終始一貫して説いていたように思うのだが)16)。丸山「古層論」については、加藤は自然科学の知的訓練をも受けた思想家らしく、「外来思想の挑戦(challenge)に対する日本思想ないし文化の反応(response)は、(丸山のように執拗低音というような)音楽的比喩を用いる代わりに、簡単なべクトル合成の幾何学的比喩を用いることできる」(傍点引用者)と書く。その説明はそれとして説得力をもつし、かつ「未知のヴェクトルの作図は容易である」としても、またその力の大きさと方向が定まっているとしても、その中味、そのエンティティは何かという問題は、丸山にとっても加藤にとってもなお残るであろう(加藤のそれに対する解答は、すでに触れた『日本文化のかくれた形』の中の「日本社会・文化の基本的特徴」によって一応与えられていると考えるべきだろう)。以上、十分に意をつくせなかったが、丸山と加藤の知的交渉についての紹介は、これで一応了えることにする。

 

 

  2、丸山眞男の「古層論」

 

 さて丸山の「古層論」と加藤の「土着思想論」の比較対照等において、前者については「日本思想史方法論についての私の歩み」という副題をもつ丸山自身の整理「原型・古層・執拗低音」があるため、それを確認のためなぞることでその輪郭を一応つかむことができる。しかし加藤については、同じ本『日本文化のかくれた形』に、前述のごとく「日本社会・文化の基本的特徴」というまとまった論文があるが、ここでは加藤の主著と目することができる『日本文学史序説』から直接的に、「土着世界観」(ちなみに「ちくま学芸文庫」版の事項索引の中ではこの観念の関連語の索引数は最大であり、それが加藤の労作の方法的キイ概念になっていることがうかがわれる)についての彼の考えを抽出することに力点を置きたい。

 

 まず丸山の古層論について。

 丸山の戦中の労作を戦後公刊した『日本政治思想史研究』におけるアプローチが、学生時代・助手時代における丸山のヘーゲル歴史哲学等の熟讀、そしてマルクス主義の基本文献の深い批判的読解(『資本論』、エンゲルス『起源』、ローザ『資本蓄積論』、ルカーチ『歴史と階級意識』、マルクスイデオロギー論には批判的なマンハイム『イデオロギーとユートピア』等)17)、さらに1920年代から30年代半ば頃まで、学生、左翼知識人に圧倒的な影響をもっていた日本の左翼的論壇、講座派と労農派の対抗と論争、なかんづく1932年にはじまる『日本資本主義発達史講座』(岩波書店刊)の刊行という時代思潮的背景を考えれば、この時点で、原始共産制―古代奴隷制―中世封建制−近代資本主義……という歴史発展段階説を背景に置くものであったろうことには、なんの不思議もない(もっとも丸山より少し年長の左翼知識人の中には、少数ではあるが、マルクス主義から民族学(オーストリア中心)文化ないし社会人類学(米・仏・英等)へと方法論的に転換=転回した者もいて18)、後者の学問体系にはマルクス主義的発展段階説にたいして、文化接触による文化変容という視角は用意されていたのであるが)。とはいっても、丸山の場合、この歴史発展段階説の受容は、無条件のものではもちろんなく、二つの条件つきのものであった。第一に、この点はとくに講座派の理論家たちと同じく、その影響をうけてのことと思われるが、「西欧」における発展段階と日本(そして中国等)におけるそれとの類型的差異が問題になることであり、たとえばヨーロッパ封建制と日本封建制の類型的違いと比較というような問題である(この点でドイツ語のよくできた少数のマルクス主義日本史家19)、そして丸山にとって、M・ヴェーバーの『経済と社会』の「支配社会学」がこの比較の問題に多大のヒントを与えたはずである)。第二に、いわゆる史的唯物論の定式における経済的土台と上部構造ないしイデオロギー(とくに観念諸形態と訳されることの多い狭義のイデオロギー)との関連の問題である。丸山がその師南原繁の「命」によって専攻することになったのは、「東洋政治思想史」、実質的には日本政治思想史であり、その専攻者として学問形成をおこなうかぎり、発展段階説的発想における政治思想史の位置づけの問題は、丸山の頭をなやました問題であったに違いない。丸山は学生時代いらいマルクス主義の影響を受けつつも、そのいくつかの側面についてすでに批判的見解をもっていたし、とくに土台還元論ないし経済主義的見解にはなじめなかったようである。丸山のマンハイム『イデオロギーとユートピア』への注目とその完全な咀嚼(それは少し自分の頭で考えるマルクス・ボーイ〔ガール〕なら誰でも考えつく、マルクス主義自体へのそのイデオロギー論の適用、つまりマルクス主義のイデオロギー性〔存在被拘束性〕の問題に、ルカーチの弟子、したがってウェーバーのいわば孫弟子に当るマンハイムが与えた解答でもあったのだが)は、この論点について若き丸山が与えた対応でもあった20)。

 

 この本における丸山のこのようなスタンスを、『日本政治思想史研究』初版「あとがき」から短く引用しておこう。(もちろん学生の諸君には、これの全文、英語版あとがきなどを直接読んでいただきたいが)。

 

 一つは、第一章と第二章に共通するライト・モティーフは、「封建社会における正統的な世界観がどのように内面的に崩壊して行ったかという課題である。この課題の解明を通じて私は広く日本社会の狭くは日本思想の近代化の型(パターン)、それが一方西欧に対し、他方アジア諸国に対してもつ特質、を究明しようと思った。」〔比較の観点。以下中略〕「およそ思想史の方法において単なる『反映論』に陥らずいわゆる下部構造と上部構造の関連を具体的に解明して行くことは最も困難な問題であり、……思想の内在的な自己運動の抽象的な否定でなく、そうした自己運動自体を具体的普遍たる全社会体系の変動の契機(モメント)として積極的に捉える努力を試みない限り、思想史的研究と社会史的研究とは徒らに相交わらぬ平行線を描くのみであろう21)」。(後略)」

 

 もう一箇所。「本書執筆当時の思想的状況を思い起しうる人は誰でも承認するように、近代の『超克』や『否定』が声高く叫ばれるなかで、明治維新の近代的側面、ひいては徳川社会における近代的要素の成熟に着目することは私だけでなく、およそファシズム的歴史学に対する強い抵抗感を意識した人々にとっていわば必死の拠点であったことも否定できぬ事実である。私が徳川思想史と取り組んだ一つのいわば学問的動機もここにあったのであって、いかなる磐石のような体制もそれ自身に崩壊の内在的な必然性をもつことを徳川時代について――むろん思想史という限定された角度からではあるが――実証することは、当時の環境においてはそれ自体、大げさにいえば魂の救いであった22」。(後略)」

 

 そして丸山が「原型・古層・執拗低音」論文において、『研究』あとがき中で、「私の今後の日本思想史研究は本書において試みられた方法や分析を既に一義的に確定されたものとして、ただそれをヨリ豊かにして行くということにはならないであろう。(中略)新たな視角と照明の投入によって、全体の展望は本書におけるのとはかなり違ったものとなるにちがいない――という予測を持つ」(傍点引用者)と書いたことを引き、それは「まあ一種の予感みたいなもので、具体的にはどういう視角とどういう照明をあてるのかは私の念頭にありませんでした。」と述べてはいる23)。

 

 しかし、敗戦、実質的な米占領下の民主改革、新憲法の制定と逆コース、朝鮮戦争、講和、日米安保両条約の調印……と、日本列島、八世紀以降は一応「日本」の歴史における何回目かの画期的な歴史全体の、そして思想基軸の変革がおこなわれていく。丸山の「超国家主義の論理と心理」(『世界』19463月)が「思想の領域において、日本ファシズムの内側からの最初の意識化であり、最初の自己理解であり、戦後日本の知的な第一歩であった。その意味で戦後日本は丸山眞男から始まったのである。」(加藤周一「戦後史のなかの丸山眞男」)とすれば、戦後日本の巨大な変化、とくに思想の変化と、その変化にもかかわらずそこに変らないものをつきつめる知的作業を、丸山がはじめることになるのは自然なことであったであろう。(もちろん、この課題の遂行者が丸山のみに限定される理由はないが)

 

 その経過は、丸山自身によって「原型・古層・執拗低音」においてくわしくのべられているので、要点だけを箇条書きにしておく。

 

 (1)丸山は、戦後の解放・開国の中で明治維新後の思想状況を思い浮かべつつ、「開国」という問題の思想史的意味を考えはじめる。その結実が1958年執筆の「開国」論文。戦後の開国の前に、「第一の開国」(15世紀末から16世紀のキリシタン、南蛮文化の渡来、その後の「鎖国」)、「第二の開国」(幕末、明治維新。丸山によれば「使い分け開国」)がある。もっとも後には、7世紀の中国文明の輸入(仏教、儒教などと大化改新から律令制への大変革)を「第一の開国」の時期として設定すれば、第二次大戦後の「開国」は「第四の開国」ということになるだろう。また丸山は、「開国」という問題点を、日本が遭過した歴史的経験においてのみならず、フランスの哲学者ベルグソンの「閉じた社会」と「開かれた社会」というカテゴリーを使って、前者から後者への超歴史的、普遍的な問題という二重性でとらえた。

 

 ところでこの「開国」という思想的問題は、大昔はともかく156世紀以後のヨーロッパにはなく、19世紀の東アジアが、ウエスタン・インパクトを受けて西欧によって国を開くという東アジア特有の現象であり、かつ「開国」とは異質的な文化の接触=「文化接触」という問題の一つの変種である(だからそれによる「文化変容」〔acculturation〕が文化人類学的には問題になる)が、これを日本思想史の方法に導入したわけである。なお丸山はこの問題とともに日本史における段階区分の不明確さという問題、この二つの問題について思想史的にその意味を考えることが敗戦後、自分にとって切実な課題になってきた、と述べる。

 

 (2)さて文化接触の観点から日本史、日本思想史を考えていくと、日本の地理的な位置と、それに関連した日本の「風土」、いわばゲオポリティーク的要素を考慮せざるをえなくなるが、そういう空間的−文化的背景において、丸山は文化の「個体性」、具体的には日本文化の「個体性」ないし全体構造としての日本精神史における「個体性」を問題とする。そして古事記における日本神話の個性的構造(端的にいえば、北方=アルタイ系と南方東南アジア系それぞれの神活の要素の独自の統合による一つの「ゲシュタルト」の形成)を例として引きつつ、全体構造としての日本精神史における「個体性」を「外来文化の圧倒的な影響と、もう一つはいわゆる『日本的なもの』の執拗な残存――この矛盾の統一として日本思想史をとらえたい」と提言する。

 

 文化の中心部としての中国から近すぎる「洪水型」の朝鮮、遠すぎるミクロネシア・ポリネシアに対して、「雨漏り型」の日本、それは併合もされず、無縁にもならずに「自主的」に対応し、改造措置を講じる余裕をもつ。「よそ」から入ってくる文化に対して非常に敏感で好奇心が強いという側面と、それから逆に「うち」の自己同一性というものを頑強な維持するという、日本文化の二重の側面の地政学的要因を、丸山はこのように説明している25)。なお高度工業国家で日本ほど民族的な等質性を、他の高度資本主義国と相対的に比較して、保持している国はないという類の丸山の発言は、批判されているが、ここではこれ以上立入らない。

 

 (3)丸山は以上のような遍歴を経て、古来日本が外来の普遍主義的世界観をつぎつぎと受容しながらこれをモディファイする契機は何かという問題を考えるようになった。いいかえれば、ある共通する特徴が見られる「外来思想」の『修正』のパターン」の追求である。丸山がこの点を明白に出したのは、講義では1963年であった。

 

 そしてこの「修正」のパターンを、丸山は一番最初には「原型」(プロトタイプ)という用語で説明したが、ついでそれを地質学的比喩としての「歴史意識の『古層』」論文、1972年)に変え、さらにそれを音楽用語としてのバッソ・オスティナート(執拗低音)に変えていった。その理由については、直接に原文を見られたい。それは結局、「変化するその変化のパターンに何度も繰り返される音型がある」がゆえに、「一定の変らない……あるパターンのゆえに」、日本思想史はめまぐるしく変化する、というふうに説明される26)。

 

 (4)丸山は、この日本思想史における「バッソ・オスティナート」を、歴史意識(コスモスの意識)については、古事記を史料として、「ツギツギト、ナリユク、イキホイ」として抽出し、政治意識については、天皇の祖先神にたいする、また国民(臣民)の天皇にたいするまつりごと=サーヴィスとして抽象し(当初オクスフォードでの一九七五年のセミナーでは、“The Structure of maturigoto”論文で。今では邦訳され、集第12巻に収められている)、倫理意識(「活き心、あかき心」?)については、英文原稿があることになっているが、未公開である。

 

 以上は、丸山の古層論の、丸山前出論文をなぞった紹介にすぎないが、ここではこれに止めておく。

 

 

 

  3加藤周一の「土着思想論」

 

 加藤の『日本文学史序説』は、それ自体としても、丸山の思想・考察との対比という点でいっても、「古層論」対「土着思想論」という比較にとどまるものではもともとありえない。前の論点からいえば、私がこの大著を読み通した感想としては、第一に、この『序説』の序に当る「日本文学の特徴について」(その6項の細目には触れないが)は、「言語とその表記」「世界観的背景」などの検討をも含み、まことに興味深い。第二に、その章別構成、とくに第二章 最初の転換期(大陸文化の「日本化」について)、第四章 再び転換期(二重政府と文化)、第六章 第三の転換期(西洋への接触)、第九章 第四の転換期上(近代への道、国学と蘭学……)、第十章 第四の転換期下(吉田松陰と1830年の世代、福沢諭吉と「西洋化」……)の、四つの転換期論はいわゆる日本史全体の時期区分論、あるいはその政治・経済・社会・文化等各側面の時期区分論とつき合せてみる必要があるし、加藤の議論が日本史全体やその文学以外の側面の時期区分論に、一定の貢献をなし、示唆を与えるのではなかろうか。また下巻第十章、第十一章で、1830年の世代――遠山茂樹の名著『明治維新』(1951)は維新変革の起点を天保時代、1830年代に置いていたが――、1868年の世代(露伴、鏡花、大拙と国男、子規と漱石、鴎外、内村と安部磯雄等)、1885年の世代、1900年の世代という世代論を展開しているが、これも面白いし、有益であろう。

 

 後の論点についていえば、加藤の古代から徳川期、さらに第四の転換期の思想家・文学者、彼らの作品・労作についての読書範囲は広大で、丸山に匹敵するものがあり(丸山がその専門である政治思想以外の文献にそれほど多くは触れていないのに対し、加藤の労作の主要な対象となっているのは、丸山が扱っていない、広義の文学作品、文学者〔集団〕である)、両者の空海論、親鸞論、徂徠、仁斉、宣長論、象山論、福沢論などを比較してみることも必要であろう。

 しかしこれらはしばらくおくとしょう。

 

 『序説』における加藤の丸山への言及は二箇所にあるが、当面の問題との関係で、いたく私の関心を引いたのは、丸山の「軍国支配者の精神形態」論文(1949)についての加藤のつぎのような解釈である27)。

 

 

 (前略)しかもその国家の指導者が彼らの決定について責任をとらぬという、単に個人の道義的な傾向ではなくて、体制そのものに内在する仕組がある。ニュールンベルク裁判における被告との対比において、東京裁判の被告の態度の特徴は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」の二点に要約されるという(「軍国支配者の精神形態」)。前者は、「みんなが望んだから私も」主義である。みんなが望んだことは、「成りゆき」であり、事の「勢い」であり、「作りだされてしまったこと。いな、さらにはっきりいえばどこからか起って来たもの」(同上)である。東京裁判の被告の言い分によれば、日本軍国主義の指導者たちは、誰一人として太平洋戦争を望んでいなかったにも拘わらず、太平洋戦争を始めたということになる。特徴の後者は、指導者のなかの誰にも、特定の決定について、権限がなかったという主張である。たとえば軍紀を監督する権限は法規上師団長にあって最高司令官にはなかったのだから、当時の中支方面軍司令官は、南京虐殺の責任をとる必要がない! 要するに集団の行動の基準は、成員個人の意識的な決断ではなく、同質的な集団全体がおのずから特定方面へ向かう「勢い」であり、したがってその責任は、いかなる個人にも属せず、集団全体に分散される。

 

 かくして日本型「ファシズム」の特徴の分析は、単に工業化の段階や地政学的条件ばかりでなく、一方では集団に超越する価値の欠如、他方では個人の集団への高度の組込まれという各時代を通じての日本型世界観の特徴へ導かれる。三十年代に興った超国家主義は、日本思想史の例外ではなく、本来そこに内在した問題の極端な誇張にすぎなかった。このような見方は、丸山眞男の仕事の全体を一貫している、ということができる。(後略)

 

 

 つまり加藤は、丸山の49年のこの論文の中に、72年の「つぎつぎとなりゆくいきほい」という日本の歴史意識の古層把握が先取りされているとみているのである。

 

 さて加藤は、『序説』の「あとがき」で、この労作が、「日本の土着世界観が外部からの思想的挑戦に対して各時代に反応してきた反応の系列を、それぞれの時代の社会的条件のもとで、その反応の一形式としての文学を通じて、確めようとしたのである」と述べる。「土着」の意味、「世界観」の意味、また土着の世界観を発見する方法三つと加藤が採った方法については、以下の引用28)を見られよ。

 

 『日本文学史序説』という「史」すなわち「歴史」の解釈は、単に過去の個別的な事実の年代的順序に従う叙述ではなく、前の事実を踏まえて後の事実の生じる一すじの流れ、またはその意味での発展を、明かにしようとする試みである。文学の発展のすじ道は、全体としては、文学外の条件を考慮しなければ、明かにすることができない。著者はここで、日本の土着世界観が外部からの思想的挑戦に対して各時代に反応してきた反応の系列を、それぞれの時代の社会的条件のもとで、その反応の一形式としての文学を通じて、確めようとしたのである。「土着」とは英語のindigenous(仏語のindigene)で、外部からの影響がなく、その国の土から生れ育ったというほどの意味である。「世界観」(独語のweltanschauung)は、存在の面のみならず、当為の面(価値観)も含めて、人の自然的および社令的環境に対する見方を包括的にいう。

 

 土着の世界観を発見する方法には三つがある。第一、外部からの影響が及ばなかったと推定される古代文献(の部分)を検討すること、第二、地理的に(離島)、または社会的に(地方の大衆)、外国文化の影響の少ない集団の表現を観察すること、第三、外来の体系の「日本化」の過程を分析し、「日本化」の特定方向から、「日本化」を実現した土着世界観の力の方向を見つけることである。第一と第二の方法は、資料の点で、極度に限られる。『日本文学史序説』の目的の一つは、――しかしそれが全部ではない――、第三の方法により日本人の心の奥底、そこに映った世界の姿、土着世界観の構造を知ろうとすることであった。

 

 右の引用の第三の方法、「外来の体系の『日本化』の過程を分析し、『日本化』の特定方向から、体系の『日本化』を実現した土着世界観の力の方向を見つける」という方法により、「日本人の心の奥底、そこに映った世界の姿、土着世界観の構造を知ろうとすることであった」とする加藤の自作の総括には、丸山の古層論の影響が感じられないであろうか? この点は、『序説』の「序論」にあたる「日本文学の特徴について」の「世界観的背景」という項目の冒頭のつぎのような表現にあきらかに見てとれる。

 

 「日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の『日本化』によって特徴づけられる29)。」

 

 加藤のこの労作が『朝日ジャーナル』に連載されはじめるのは、197315日号ということであるから、加藤はそれまでに丸山の「古層」論文を読んでいるし、すでに述べたように、この間題について丸山と対談もしている。したがって、この点で、加藤が丸山の一定の影響をうけたとしても、なんの不思議もない。

 

 しかし同時に、その知的蓄積と能力において丸山のユタイヴアレントである加藤が、だからといって、そのいわば出店ならぬ本店である日本文学史=日本文学の歴史的総括において、丸山のアイディアをなぞるなどということはもちろん考えられない。私はそのような加藤独自のキイ概念として日本の土着世界観が提起されていると考える。したがって、以下の論究は、この概念の内実と、それを用いることによる加藤の日本文化・日本思想に対する思索の発展ないし進化と、それを活用することによって得られた、加藤のこの労作の「個体性」、独自性の究明に向けられる。

 

 加藤が日本の「土着的世界観」というキイ概念をもっとも体系的に展開しているのは、『序説』の序論にあたる「日本文学の特徴について」「世界観的背景」と「特徴相互の連関について」の項目(ちくま学芸文庫版で、上巻3446ページ)においてである。「背景」の冒頭の文章はすでに引用したが(要旨は日本人の世界観の歴史的な特徴は、土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返される外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる、というもの)、これを図式化すれば、つぎのようになる。

 

インパクト

――→

外来思想(世界観)   土着「世界観」

←――

変形(外来思想の日本化)

 

 こうして日本文学史にその背景としてあらわれる思想(文化)のタイプは、外来思想、「日本化された」外来思想、そして土着思想(それは理論的でも抽象的でも表面的には「体系的」でもないから、世界観にカツコをつけて土着「世界観」とすべきであったろう)の三種であり、それらの複雑な相互作用(interaction)というよりはトランズアクション(transactionデューイ・ベントレイの用語)30)として日本思想は展開していくことになる。なお、加藤の比較的初期の「雑種文化論」(これについての丸山のコメントは先に紹介した)は、丸山の「古層論」の吸収を媒介として、より立体化され、動態化されて、「土着世界観」概念へと彫像されていったとみることができる、というのが、私の解釈である。

 

 さて、加藤は外来の世界観の代表的なものとして、大乗仏教とその哲学(七世紀〜十六世紀)、儒学、殊に朱子学(十四〜五世紀、十七世紀以降)、キリスト教(十六世紀後半と十九世紀末〜二十世紀初頭)、マルクス主義(戦間期、知識層)をあげ、これらすべてが包括的体系をもち、抽象的な理論を備え、かつ超越的な存在の原理との関連において普遍的な価値を定義しているという。これを抽象性、理論性、包括性、超越性、普通的価値としてまとめることができよう。なおこれら四つの外来思想は、超越的存在の原理との関連における普遍的価値の性格の点で、彼岸型(大乗仏教−仏性、キリスト教−神)と此岸型(儒教−天ないし理、マルクス主義−歴史)に分類されうる。これに対して日本土着文化、土着「世界観」は、具象性、非理論性、断片性、非超越性(具体性)、特殊的価値へのコミットメントとして整理されているようであり、かつ日本文化は、中国・朝鮮など東アジア文明と共通の此岸的性格の非超越的世界観(祖先崇拝、シャーマニズム、アニミズム、多神教の複雑な信仰体系等々)をもつとされている31)(ただし、このように日本文化・土着世界観を超越的世界観との対照において規定すると、たとえば日本以外のアジア諸国(中国を除く)は、ほぼ類似の文化・世界観をもっているであろうから、日本のそれらと区別される特殊性ないしは「個体性」を明確にするためには、文化人類学およびその関連諸科学による比較土着文化論というかたちでのさらなる解明を必要とすることになるだろう)。

 

 日本列島における「非超越的な世界観」は四・五世紀までに成立したであろうと、加藤は推測しているが、外来の世界観(中国思想を含め)は、抽象的・理論的・包括的な性格、超越的な原理と普遍的価値への志向をもつという点で、まさに土着の世界観と対照的であるが故に、決定的な影響を日本文化に与えたというのである32)。

 

 もちろん、土着世界観が、外来の高度に組織され、知的に洗練された超越的な世界観と出会ったとき、(1)外来の世界観のそのままの受容、(2)土着の世界観を足場としての拒絶反応もあったが、(3)多くの場合には、外来思想の「日本化」がおこった。その「日本化」の方向について、加藤はつぎのように書く33)。そこで提示されている「土着世界観」の一つの定義について、注目されたい。

 

 このような土着の世界観が、外来の、はるかに高度に組織され、知的に洗練された超越的世界観と出会ったときに、どういうことがおこったか。第一に、外来の世界観がそのまま受け入れられた場合があり、第二に、土着の世界観を足場としての拒絶反応があった。しかし第三に、多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。外来の思想が高度に体系的な観念形態であった場合には(儒・仏・キリスト教・マルクス主義)、その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。たしかに少数の例外もあった。また以上の方向のどの面がめだつかも、場合により異なっていた。しかし外来の世界観の体系が日本の歴史過程のなかで変化したとき、変化には必ず一定の方向があり、逆の方向へ変った例はない。ということは、当然、変化をひきおこした力が、歴史のあらゆる時代を一貫し、遂に今日に到るまで失われなかったことを示唆するだろう。その力の主体を土着の世界観と称ぶこともできる。それは「土着の世界観」の一つの定義である。かくして日本文化の背景には、常に、外来の世界観、土着の世界観、日本化された外来種の世界観があったということができる。

 

 その後の文章で、加藤は、奈良時代における仏教独特の受容−非受容を、万葉集20巻について論じ、十三世紀の「鎌倉仏教」の現世否定的傾向=彼岸性、およびその超越的絶対者(浄土真宗のアミダ、禅宗の大智、日蓮宗の法華経)の役割において、日本思想史上の例外となすが(この点の把握は、丸山も家永も同じ)、その後禅宗などは、美学と実践倫理に分割されて、「日本化」の方向を示し、徳川時代の初頭には、全く世俗化して、現世的な文化現象となっていく、と論じる。

 

 ついで、徳川時代の宋学の歴史が、「非形而上学化」の歴史としてあらかじめ総括される(具体的には第七章元禄文化で)。そして、非形而上学化、非体系化、抽象的な知的問題から具体的な課題への関心の移動、日常此岸性の強調などが、朱子学の「日本化」の内容であったとされる。

 

 ついで、すでに簡単に紹介したことであるが、日本文学の世界観的背景として、一方の極端には、外来思想があり、世界観の「流行」を代表して、各時代を鋭く特徴づけ、他方の極端には、土着思想があって、日本の世界観の「不易」の面を示す。その中間に、「日本化」された外来思想のあらゆる段階がある、という。日本文学の歴史と構造の見事なゲシュタルト的把握というべきだろう。国学の思想的意味も、「決してほろびずに日本歴史を一貫し、根本的には変らなかった土着の世界観を、宣長が意識化し、儒仏に対抗する観念形態として基礎づけようとしたことである」とする(詳しくは、第八章 町人の時代の宣長の項、参照)。近代の日本文学史も、その世界観の背景において、上述の三つの流れとして叙述される(上、4243ページ、第十章、第十一章)。紹介はこの辺で止めておこう。

 

 ついで、この労作に代表される加藤の知的営為の、とくに丸山との対照における、個体性、独自性をまとめておきたい。

 

 第一に、加藤は文学史、丸山は日本政治思想史という専門の相違からして、加藤の史的分析の対象が丸山よりはるかに広範囲にわたっていることをあげることができる。いま両者の守備範囲を、交錯する二つの円ABであらわすとすれば、交錯部分(斜線部分AB)は、両者に共通する専門領域である。この両者の場合、この領域は、かなり広い。古いところでは、『十七条憲法』、『記紀』、鎌倉仏教、近世以降では徳川幕府体制下の儒学・国学(仁済・徂徠、白石、安藤昌益、心学、宣長。『序説』では第七草、第八草)、幕末・維新期以降では、諭吉、兆民、内村等。もちろん、両者のこれらの対象に迫る視角、分析方法は異るとしても、両者の考察の比較対照は可能である。

 

加藤の守備範囲  丸山の守備範囲

 

 それにたいして、加藤独自の守備範囲は、注10で言及した加藤論文で示された、加藤独特の日本「文学史」観にも影響されて、丸山独自の守備範囲(古事記、徂徠、諭吉その他についてのより深められた研究)はあるとしても、それよりははるかに広大である。たとえば、『源氏物語』と『今昔物語』(第三章)「能と狂言」(第五章)、本阿弥光悦とその周辺(第五章)、「曽根崎心中」と俳語(第七章)、忠臣蔵と通俗小説、歌舞伎と木版画、笑いの文学(第九章)、谷崎潤一郎と小説家たち、木下杢太郎と詩人たち(第十一章)など。もちろん、これらの作品と作家についての専門文学研究者等は沢山いるし、日本文学史上の著作も多いのであろうが(丸山が、津田の仕事との比較を試みていることは前述したが)、『序説』に比肩しうる体系性、方法的一貫性をもった戦後の日本文学史が他にあるのであろうか?

 

 第二に、先にもちょっと触れたが、加藤の『序説』は、「日本の土着的世界観」というキイ概念を中心として厳密に堅牢に構築された文学史の適時的共時的枠組――それはくり返しのべたように、本書の事実上の序章 日本文学の特徴についてで、開示されている――にしたがって、しかも『万葉集』の時代から、終章戦後の状況にいたるまで、七・八世紀から二十世紀の中葉にいたるまで千三百年におよぶ「史」として書かれている。それは津田の仕事に続いて、自ら文学者にして文芸評論家でもある著者の文学史の労作として後世に伝えられるであろう。本書が、ちくま学芸文庫の帯によれば、「日本研究のバイブル、英・仏・独・伊・韓・中・ルーマニアの各国語に翻訳された世界的名著」とされているのは、過褒とは思われない。

 

 第三に、人は何のために、加藤のいう意味での文学を書き、そして読むのか、そのような本質的難問はさておき、日本文学史を読むのは、日本文学の歴史を歴史としてより見通しのきくものとし、また作者・作品についてより深い理解とより豊かな鑑賞可能性、俗にいってしまえば、作品を理解し、読むことによる知的、芸術的楽しみを増すためであろう。そして加藤は彼自身作家であり、詩人であった(ある)のだから、この作品自体も、一つの文学作品として――学術的労作としてももちろん一級品であるが――書かれ、読まれることを期待したのではなかろうか。簡単にいえば、私のような朴念人が読んでも、「血わき肉おどる」ということでないと困るのである。

 

 実は私は今回この本を遅ればせながら通読して、「劇的な興奮を感じ、手に汗をにぎる」ことの連続であった。それらを全部ここで書くことはできないので、例示的に、かつ感興をそそられた部分のページ数とキイとなる短い文章のみ引用する。

 

 

 「来るべき時代におこり得ることは、このような土着的世界観による外来文化の『日本化』で、土着世界観そのものの内容の『分化』とその表現手段の『洗練』ということになるはずである。」(第一章、上巻123ページ)

 

 「伊勢物語」は、「男女関係を中心とする伝統的な現世享楽主義の意識化」である。(第二章、上巻、168ページ)

 

 「源氏物語」について。「小説が日常生活の細部の描出に徹底したのは、土着世界観の直接の表現である」、「『源氏物語』は『日本化された』仏教が生みだした作品であった。」(第三章、上巻245ページ)

 

 「『鎌倉仏教』は、日本の土着世界観の幾世紀もの持続に、深くうち込まれた楔であった。」(280ページ)、「土着世界観の著しい特徴の一つ、抽象的な全体の秩序へではなく、具体的な部分の詳細への鋭い関心……」(330ページ)、「意識の明瞭でない漢語を連らねて、考えのすじみちをはっきりさせず、しかし漠然として悲壮な雰囲気をかもし出す日本語の散文は、今日なおこの国の少年少女の大いに好むところである。戦前の「日本浪漫派」・・…・戦後の三島由紀夫と極左の学生の檄文……その源を辿れば、遠く『平家物語』に及ぶ……」(343ページ)(第四章)

 

 『徒然草』について。「兼好は、たったひとりで、日本の土着世界観を内面化しようとしていたのである。徒然草の世界は連歌(後述)にもつうじる。」(373ページ)、「『能』と『狂言』との対照は、実に世界観の対照であった。」(403ページ)(第五章)信長の評価(411ページ)(第六章)

 

 仁斉の評価(479483ページ)。徂徠の方法(483496ページ)「徂徠の鋭敏な感受性は芭蕉に劣らない」。「老樹西風冷、疎林晩照孤」を和文に移せば、「あかあかと日はつれなくも秋の風」になるであろう」(496ページ)。芭蕉の俳句の評価、「芭蕉はその発句に、古代歌謡以来の日本語の歌の全体を、つまるところ日本の土着世界観の要点を、要約し、徹底させた……その世界は日常的此岸の現在である。」(536ページ)(第七草)下巻の注目すべき箇所については、紙幅の都合で、省略する。

 

 

 

    むすび

 

 丸山の「古層論」と、おそらくはそのカウンターパートに当ると思われる加藤の日本の「土着世界観」――私の仮説では、それはすでに述べたように、加藤の「雑種文化論」の、丸山の「古層論」も一つのインパクトの源となったと思われる動態化、構造化の企て――の関係・比較の作業は、この辺でしめくくらざるをえない。

 

 丸山の「古層」−執拗低音論は、古事記等、外来思想の影響が相対的には稀薄な文献等の精査をつうじての、歴史意識論、政治意識論、倫理意識論(未公表)の各領域におけるその内容の特定化の方向をとった。これが一つの重要な理論的達成であったことは、認めなければならないであろう。これに対しては、丸山が宣長的方法論によってからめとられているという批判もあるようであるが、その批判の全部が、管見のかぎりで、公表されていないので、ここでは論じるつもりはない。

 

 これに対して加藤の場合は、すでに見たように、彼岸的志向性と此岸的志向性という相違はあるが、包括性、理論性、抽象性、超越性、普遍的価値などの共通の特徴をもつ外来思想と対照的な性格をもつものとして土着的世界観(その構造は此岸的・非超越的・日常的世界の現在にこだわる。そこで絶対的なものがあるとすれば共同体をそのもので、その倫理的体系は共同体を中心として、実際的考慮から組み立てられている等)を措定し――したがって丸山のような歴史・政治・倫理の意識の区分は立てない――、その執拗な持続による外来の体系の「日本化」がおこり、その変化には一定の方向がある、そのような変化をひきおこした力を指すとしているのである。このような把握は、丸山の各分野別の具体的内容の措定をともなう意識論より、より包括的であり、それが理論的に有効性をもつことは、『序説』そのものの成功が証明している。いずれにしろ、この両者の関連と分岐のより立入った考察は、今後の課題として残される。

 

 もう一つの問題は、バッソ・オスティナートや「土着的世界観」に、われわれがどのような価値的な主体的態度をとるべきなのであろうか。丸山は、歴史意識の「古層」、そしておそらくサーヴィスとしてのマツリゴトの構造には、個人の自律的主体性や責任の確立と「永久革命としての民主主義」の日本における前進という角度から、否定的な態度、それらを克服の対象と考えていたように思われるが、加藤の場合はどうであろうか。政治家の無責任や悪しき共同体主義を批判し、個人そして民衆の主体性を確立するという点で、加藤が丸山とほぼ同じ立場にたっていることは推定できるが、しかし文学の世界、より一般化していえば、芸術の世界において、作品に体現された土着世界観、土着思想、土着文化にたいして、あるいは「日本化された外来文化」に対して、われわれはどのような態度をとるべきなのであろうか。私は、加藤の、その他の文学論、美術論などはほとんど読んでいないので、加藤がこの辺の問題をどう考えているかは詳しくは知らない。が、『序説』を読むかぎり、加藤が、伝統的な土着世界観を凝縮したような文学作品、あるいは能と狂言、元禄文化等々についても、文化論や芸術論の観点から積極的な評価(批判を含めて)を惜んでいないように見える。この辺の問題をどう考えるか。これも私にとっての残された問題である。

 (九月六日、名大医学部附属病院病棟で擱筆)

 

 

11997年度日本政治学会研究会(十月四日)、分科会A丸山思想史学をめぐって、における報告者飯田泰三、加藤節と討論者の一人、渡辺浩との論争。

2管見のかぎりで、この点についての家永の見解は、以下の引用文に見られるように、彼のいう否定の論理によって否定されるべき「伝統的人生観」(内在・連続・肯定の論理)によって示されているといえよう。以下の『田辺元の思想史的研究−戦争と哲学者−」の第四部の以下の一節は、家永のこの点についての見解を、端的に示した文章である、と私は考える。集第七巻、368369ページ。

 

 仏教とキリスト教とは、このような一切の出発点となるところの基本的命題を提示することによって、人類に対し不朽の精神的遺産を遺したと言い得よう。しかしながら、人がこの基本的命題を理解するためには、自己の相対性有限性を自覚しなければならない。相対有限の自覚のみが相対有限を否定して絶対無限への転換への道を開く。日常の現象に埋没し、相対有限を自覚するにいたらない場合、あるいは相対有限の自覚が絶対否定を伴わず、同一の相対者有限者の内の比較級的な優勢者有力者を絶対者無限者であるかのごとく不当に絶対視するときには、否定を媒介とする真の絶対者無限者への志向は生じない。「世間(よのなか)は虚仮(むな)し、唯仏のみ是れ真なり」(『天寿国繍帳銘』所引聖徳太子の語)、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世間は、よろづのことみなもてそらごとたわごとまことあることなきに、たゞ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』所引親鸞の語)、「義人なし、一人だになし」(『ロマ書』第三章第一○節)という絶対否定のみが、相対者有限者をはじめて絶対者無限者と対立せしめるのである。日本思想史について見れば、はじめ連続的世界観と肯定的人生観としかもっていなかった日本人が、外来思想として仏教を受容することにより、観念としての否定の論理が一部知識人の間で理解されながらも、それが広く多くの人々に浸透し、親鸞に典型的に見られるごとき絶対否定の論理を自覚するためには、七世紀より十三世紀にいたる六、七百年の歳月と、平安末の社会的大変動の体験を経なければならなかった。しかも、そのような長期の深刻な体験を媒介に、もはや外来思想を観念的知識として理解するにとどまらない、日本人の血肉と化した否定の論理も、日本人の心理の深層に根強く生きる内在・肯定の伝統的人生観を根源から変革することはできず、十三世紀は日本思想史全体の中では例外的な突出した思想の時代という観を呈し、中世後半期から近世・近代へと、思想界の大勢はふたたび内在・連続・肯定の論理によって占められるにいたる。明治の開国の結果輸入されたプロテスタンティズムが、内村鑑三・柏木義円ら少数の信徒に新しいキリスト教的否定の論理を提唱させたとはいうものの、日本のキリスト教界全般が、カトリックとプロテスタントとを問わず、仏教同様に天皇制国家権力と妥協して神の義を守り得なかったのであるから、内村・柏木らは教界内にあってさえ少数意見者にとどまり、まして思想界を風靡する近代主義的肯定の論理の圧倒的な流行を動かし得る力のあるはずがなかった。一九三○年代初期の、カールーバルトの危機神学の日本への流入は、否定の論理の復活の契機となり得るものをもっていたはずと思うが、キリスト教「神学」という、教会的閉鎖性の濃厚なことが原因であったのであろうか、これまた西欧新思想の一時的流行として少数の哲学者・神学者の関心をあつめたにすぎなかった。そして、この頃から始る十五年戦争の進行は、「神」を恐れぬ驕慢な日本主義=国家絶対主義を狂信的にはびこらせ、権力に柔順な一般キリスト教徒に対してさえ、主なる神か天皇かの踏絵を迫ったほどであり、否定の論理は完全に窒息した。絶対弁証法の理論からすれば当然否定の論理の方向に深化させられねばならなかったはずの田辺哲学が、流行の民族主義の陥穿にはまりこんで国家絶対主義に堕したことは、すでに詳述したとおりである。

 

3加藤の自伝としては――これは私見では、戦後日本の知識人の自伝の傑作の一つと考えるが、『羊の歌』(岩波新書、1968年、私は初版を読んだはずだが、いま手許にあるのは、2000年の43刷)、『続羊の歌』(岩波新書、1968年、手許にあるのは、2000年の32刷)。『羊の歌』119ページ以下の「駒場」のところに、五味智英教授の回想が出てくるが、私も1949年か50年、新制東大の駒場で、五味教授の万葉集の音吐朗々の名講義を聞いた。同巻の「仏文研究室」と「内科研究室」のあたりを見れば、本郷での加藤は、医学部の学生だっただけでなく、事実上文学部仏文研究室(辰野隆、とくに影響をうけた渡辺一夫助教授、その人柄を好んだ、中島健蔵講師等がいた。渡辺一夫に親灸したという意味で、大江健三郎は、まぎれもなく、加藤の後輩の一人である)の研究生でもあった。この二冊の自伝は、加藤周一著作集R(平凡社、初版1979)に収められている。この駒場・本郷での生活を通じて、加藤は、一生涯の友人となる中村眞一郎(19181997)、福永武彦(19181979)と友人となり、1942年、彼らと「マチネ・ポエティック」を結成。三人の共著『一九四六文学的考察』を、私は文学青年だった友人の明石康に借りて、1949年に読んでいる。どれだけ理解したかは別問題だが。羊の歌の後のことについては、「『羊の歌』その後」(著作集第23巻、一九九七年初出、私は「加藤周一セレクション5」(平凡社、99年)で読んだ。)

4その六点は以下の通り。「現代はどういう時代か」(都留重人、丸山眞男)、「歴史意識における〈古層〉」(丸山眞男)『眼には眼を』に見るアラブ対西欧」(丸山眞男)、「60年代の世界を展望する」(埴谷雄高、丸山眞男)、「議会制民主主義を問う」(新井達夫、丸山眞男)、「三木清を語る−日本思想史における位置と役割」(久野収、谷川徹三、日高六郎、丸山眞男)である。初出一覧は、同書、314ページ。

5これについての本格的書評は、ここでは、できないが、御両人が、自家薬籠中のものにしているトピックTにおける徂徠、宣長論などについては、ツーカーの対論が成り立っていて面白い(とくに37ページの丸山の発言は印象的)、V「万国公法」をめぐって、では丸山の法学部卒業生としての優位(丸山は、政治学科であったにもかかわらず、法律学の講義−末弘の「民法」、田中耕太郎の「商法」などもよく聞いてかなり高い水準の法学的思考を身につけていた)が目立つ。たとえば「国際私法」の説明のあたりは、丸山の活躍が目立つ。W社会・文化に与えた影響では、自然科学の教養の深い加藤と、丸山の福沢理解の鋭さなどがかみ合って面白い。丸山が、トクヴィルが福沢に与えた影響を論じ(166ページ)、この項のおわりで、加藤は、自然科学では、西洋モデル(たとえば医学)、政治・経済・倫理の領域では和魂と洋才が対立・融合いろいろなかたちで交渉し、芸術教育では、洋画と日本画、洋楽と邦楽の二本建てにおちついた、とのべている。

6丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961年)、巻頭の同名論文。

7『雑種文化』の主要論文の若干(五本)は、著作集F近代日本の文明史的位置(平凡社、一九七九年)に収録されている。この第七巻には、『「追いつき」過程の構造について』、という日独近代史の比較について、ブンデルバールの一語に盡きる秀作と、後でも触れる『戦争と知識人』(筑摩の『近代日本思想史講座4知識人の生成と役割』の巻頭論文、599月初出)という、今日でも、というより今日こそ、必読の論文が含まれている。

8『日本の思想』(岩波新書)、243ページ。

9丸山眞男集、第十一巻、324ページ。

10そのような加藤の労作で特筆すべきは、「日本文学史の方法論への試み」(原文、ドイツ語。初出一九七一年)、著作集B日本文学史の定点(平凡社、七人年)528ページ。そこでの文学のかりの定義は、「現実の特殊な相を通じてある普遍的人間的なるものを表現する言語作品というものである。作品は作者の人格の表現であり、文学的散文の文体も、しばしば作者の人格の表現である。」加藤は、日本文学史の世評定まった著作で、文学史上の市民権を認められていない三つのジャンル(文学理論を除く理論的作品、漢文による作品、大衆文学)を文学の学問的対象へと包接した。最後の点は、思想的バックグラウンドは違うが、鶴見俊輔と共通する。

11丸山眞男集第12巻、182ページ。これは「中野好夫氏を語る」というエッセイ(八五年八月、初出)に出てくる。

12この論文は『日本文学史序説』の骨子を、日本社会、文化論として、まとめたと考えることができる論文で、その要点はつぎのように要約できよう。日本の社会・文化を一つのゲシュタルトとして理解するためのパラダイムを構成するのは、次の五点である。@集団間、集団内を含のての競合的な集団主義、集団志向性。それは極端な形式主義(独特の儀式と名目尊重)と、極端な主観主義=主観的「気持」尊重主義を伴う。A現世主義(thisworldlyness)=文化の此岸性。B時間の概念に関連して現在を貴ぶ態度(国民的健忘症と未来のことを心配しない)。「今此処」が大事主義=現在主義。C集団内部の調整装置としての、象徴の体系。(a)極端な形式主義(独特の儀式と名目尊重)、(b)極端な主観主義=主観的「気持」尊重主義。D対外的態度として外に対する閉鎖性(鎖国心理)と、同様に外国文化の受入れやすさ。そして、加藤は、その統一的な全体を日本文化の「プロトタイプ」ないし「アーケタイプ」ということができるのか、どうか?と書いている。ここでも、明らかに丸山の議論が意識されている。

13丸山眞男著『近代日本のイデオロギー 膨張主義の起源序文』、加藤周一セレクション2、日本文学の変化と持続(平凡社、一九九九年八月)、所収。

14朝日新聞、一九九六年九月十九日、夕刊。

15もともとは、日本の思想6『歴史思想集』別冊(筑摩書房、1972年)。のち『丸山眞男座談7』に収録。加藤周一対話集(2)に「歴史意識における〈古層〉」と改題して収録。

16一例のみをあげれば、社会学辞典、一九五八年四月、有斐閣、所収の「政治的認識」。丸山眞男集、第7300304ページ

17戦後、丸山が開講したゼミが、1948年、ヘーゲル『歴史哲学講義』(ラッソン版)、1949年も同じ。1950年、ルカーチ『歴史と階級意識』、1952年、マンハイム『イデオロギーとユートピア』(英訳本)であったことは、丸山がヘーゲル、ルカーチ、マンハイムを自家薬籠中のものにしていたことと示す。

18その典型例が、石田英一郎(190368)である。『朝日人物事典』(1990年)の増田義郎の解説によれば、彼は男爵を襲爵していたが、26年に爵位を返上、三・一五で検挙、起訴され、五年の禁固刑に処せられたが、獄中では転向せず、戦後、東大教養学部の文化人類学講座の設立者となった。唯物史観に批判的になるのは、この頃からのようである(同書、一三セページ)。丸山は、石田と交渉をもったことがあったろうか?

19たとえば、石母田正(191286)。その『日本の古代国家』を見よ。

20この間題にある意味で結着をつけたのが、「スターリン批判の批判一政治の認識論をめぐる若干の問題」(『世界』一九五六年一一月号)−これは、後に「スターリン批判における政治の論理」という題名で、『増補版現代政治の思想と行動』(未来社。1964年)に収録された論文であったろう、と私は考える。

21『日本政治思想史研究』1952年、「あとがき」56ページ。

22同上、8ページ。

23『日本文化のかくれた形』、9596ページ。

24同上、119ページ。

25同上、134ページ。

26同上、149150ページ。

27加藤『日本文学史序説下』、509510ページ。

28同上、あとがき、532533ページ。

29『序説』上巻、3435ページ。

30Dewey.T&Bertley AFKnowing and the knownBeaconPress1945.この本とこの概念の解説として、鶴見和子編『デューイ研究』(春秋社、1952年、226229ページ、参照。)

31『序説』上巻、57ページ。

32『序説』上巻、36ページ。

33『序説』上巻、3839ページ。

 

(追加)、丸山の没後2年に、加藤が丸山を論じた文章として、国民文化会議編、加藤周一・日高六郎『同時代人丸山眞男を語る』(世織書房、1998.8.15)pp.5−39がある。

 

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 (関連ファイル) 田口富久治論文の掲載ファイル

 

    『21世紀における資本主義と社会主義』

    『どこへ行く日本共産党』2000年第22回大会

    『丸山先生から教えられたこと』『丸山批判問題』

    『マルクス主義とは何であったか』