共産党の丸山批判・経過資料
1993年5月〜94年10月
(宮地作成)
〔目次〕
1、丸山氏の出版
2、丸山批判の契機――『葦牙』での久野収氏による丸山氏の援用
2)、批判対象となった4つの文献と、共産党によるその性格規定
4、丸山氏の対応
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宮本顕治 『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』「戦争責任論の盲点」を書いた動機
武藤功 『丸山眞男と日本共産党』
H・田中 『市民のための丸山眞男ホームページ』
丸山眞男関連HP検索 google
1、丸山氏の出版
1956.3、『思想』3月号(岩波書店)、「思想の言葉」として掲載。
1976.11、『戦中と戦後の間、1936〜1957』(みすず書房)に、「戦争責任論の盲点」と改題して収録。
この後、40年間近く、共産党による直接的な丸山批判は一切なかった。戦争責任の問題についての一般的な反論はある。この問題での学者による批判は、遠山茂樹、日高六郎(1956)からあった。
2、丸山批判の契機―『葦牙』での久野収氏による丸山氏の援用
1993.1、『葦牙』18号、久野収インタビュー「市民権思想の現代的意義」 『……しかし、当時、革命の旗を守って最後までたたかった「暗い絵」の学生たちのようなマルクス主義者たちや日本共産党の非転向の指導者たちはたしかに思想的には立派にちがいないが、政治的にはどうなのか。彼らは軍旗ごと捕虜になってしまった部隊ではないのか。軍旗を下ろさなかった点では立派であるが、丸山眞男ふうに言うと、木口小平は死んでもラッパを離しませんでした、というような結果になりはしないか。これは最後まで節を守ったという点では立派ですが、しかし政治というものはどんなに困難な状況であっても大衆を自分の方に引きつけて相手を克服するのが成功ですから、政治家はその任務を果たさないといけないでしょう』(『葦牙』9ページ、太字は丸山眞男の直接的援用個所)
〔小目次〕
2)、批判対象となった4つの文献と、共産党によるその性格規定
(1)、1993.5 『赤旗』評論特集版5月31日号 久野、丸山批判 「社会進歩への不同意と不確信 ――『葦牙』誌での久野収氏の議論について」(長久理嗣、思想建設局次長)
(2)、1993.6 『赤旗』6月2日号 久野、丸山批判 「久野収氏への批判論文は何を明らかにしたか」(若林義春、知識人局長)
(3)、1993.9 『赤旗』評論特集版9月6日号 久野、丸山批判 「覇権主義との闘争と文学運動」(津田孝)
(4)、1993.12 『前衛』12月号 丸山氏の戦争責任論批判 「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」(土井洋彦、文化知識人委員会事務局次長)
(5)、1994.1 『赤旗』1月1日号、『赤旗(日曜版)』1月16日号 丸山氏の戦争責任論批判 「新春インタビュー、宮本議長に聞く(丸山批判部分)。学問の世界での共産党の働き――『丸山理論への本格的批判』」
(6)、1994.3 『赤旗』、3月27日号 丸山氏の天皇制論批判 第十一回中央委員会総会での宮本議長冒頭発言。「新しい理論的探究―丸山眞男の天皇制史観への反撃」
(7)、1994.4 『赤旗』4月13日号 丸山氏の戦争責任論、天皇制論批判 「丸山眞男氏の党攻撃にたいする反撃をなぜ重視するか」(山口富男、党中央付属社会科学研究所事務局長)
(8)、1994.5 『日本共産党の七十年』(全3冊) 丸山氏の戦争責任論批判 「日本共産党にたいする『戦争責任』論攻撃の誤り」(党中央委員会、上巻146〜149ページ)
(9)、1994.5 『前衛』5月号 丸山氏の天皇制論批判 「丸山眞男氏の歪んだ日本共産党批判とその破綻―歴史の道程への閉鎖的理解と『天皇制史観』の問題点」(山口富男、社会科学研究所事務局長)
(10)、1994.5 『赤旗』5月12日号 丸山氏の戦争責任論、天皇制論、プロレタリア文学運動論批判 「いまなぜ丸山眞男氏の日本共産党論への批判を重視するのか」(土井洋彦、文化知識人委員会事務局次長)
(11)、1994.6 『前衛』6月号 丸山氏の政治と文学論、プロレタリア文学運動論批判 「傍観者の転倒した論理と変節の美化―丸山眞男『近代日本の思想と文学』批判」(足立正恒、思想建設局次長)
(12)、1994.7 日本共産党第20回大会 次の4つで丸山氏の戦争責任論、天皇制論批判
1)、中央委員会報告(志位書記局長)―三、(3)歴史に対する前衛党の責任とは何か
2)、綱領の一部改訂についての報告(不破委員長)―二、日本共産党の戦前の闘争の歴史的な意義
3)、第20回大会決議 ―第4章(18)、歴史の法則と人間の主体的なたたかい
4)、日本共産党綱領 ―(一)
(13)、1994.10 『変革の立場と傍観者の論理』(新日本出版社)を出版 上記(4)(9)(11)の3つの『前衛』論文を収録。この3つで合計269ページにもおよぶ長大な丸山批判論集
口頭報告、討議を通じた党内への徹底
これらの文書だけでなく、丸山批判は、1994年第20回大会前期・後期の28000支部総会、三百数十地区党会議、47都道府県党会議という党内のすべての会議で、および、第20回大会決定読了運動などで36万人の党員に口頭報告、討議を通じて徹底された。また4回にわたる『赤旗』の丸山批判評論で50数万人の日刊紙読者に丸山批判が伝えられた。日曜版をふくめると約250万部だが、日曜版にはこれらの評論は掲載されていない。
2)、批判対象となった30数年前発表の4つの文献と共産党によるその性格規定
(1)、戦争責任問題…「戦争責任論の盲点」(1956『思想』3月号、岩波書店)(1976『戦中と戦後の間』、みすず書房―これは1996.6現在、19刷発行)
『近代政治学の立場からの日本共産党否定論』『若い人が一生懸命論文を書いて、しかもただ丸山氏の「共産党戦犯」論の批判だけでなく、彼の学説の背景、〜』(宮本、新春インタビュー)。『学問の名に値しない反動的俗論』(不破、第20回大会報告)。『幼稚な観念論』『局視的な観念論、傍観者の立場からの理論』(志位、第20回大会報告)。「『侵略戦争を阻止しえなかったから戦争責任がある』という俗論」(第20回大会の一部改訂綱領)。
丸山氏はたしかに政治責任、結果責任としての共産党の戦争責任を言っている。しかし宮本議長新春インタビューのように『共産党戦犯』などという用語、またはそれを類推させるような言い回しは一度も使っていない。「共産党の戦争責任」と『共産党戦犯』とはまるで意味が異なる。批判する相手の論旨を歪曲、誇張して、その歪曲した内容に批判を加えるというのが、共産党が論争で使う常套手段ではある。しかし、それにしても、宮本議長のこの歪曲は常軌を逸したひどさである。
宮本氏だけでなく、不破氏も第20回大会報告で、別のひどい『論点すりかえ』の詭弁を使っている。その内容は不破報告末尾の(注)で述べた。
(2)、天皇制問題…「忠誠と反逆」(1960発表、1992筑摩書房) 「日本の思想」(1961、岩波新書 ――これは1997.4現在、68刷発行。1986年までの累計発行部数82万部の大ロングセラー)
『党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論をもってきて、いまだに自分たちの合理化をやっている。』(宮本、11中総冒頭発言)。『絶対主義的天皇制の精神構造が日本共産党にも「転移」しているなどというものであるが、……こうした議論の根本には……観念論的、傍観者的歴史観がある』(第20回大会決議)。『日本の革命運動にも「天皇制」があるとする倒錯した「天皇制転移」論。一種の「天皇制史観」』(1994.5『前衛』論文)
(3)、プロレタリア文学運動問題…「近代日本の思想と文学…一つのケース・スタディとして」(1959発表)(1961、岩波新書「日本の思想」に収録)
『科学的社会主義とプロレタリア文学運動を日本文学を襲って甚大な被害をおよぼした「台風」にみたてて、プロレタリア文学運動の「政治の優位性」論を政治による文学のひきまわしであるかのように歪曲』『丸山氏の文学史論は、事実上、変節を美化し、侵略戦争への文学者の協力を擁護するもの』(1994.6『前衛』論文)
共産党は、こうして丸山氏が共産党問題で検討、言及した、30数年前発表の文献にたいして、全面批判、全面否定をし、『反動的俗論』『傍観者の論理』とした。第11回中央委員会総会決定、第20回党大会決定というような共産党の最高機関決定として、および『日本共産党の七十年』という党史において、名指しで『丸山理論の本格的批判』(宮本、新春インタビュー)を行った。
中央委員会『日本共産党の七十年』で、名指しで批判されている学者は、1978年「田口・不破論争」の田口富久治・現立命館大学教授(下巻82、83ページ)、1984年の平和委員会・原水協問題で事実上の除名処分として除籍された古在由重氏(下巻197ページ)についで、丸山氏(上巻146〜149ページ)が三人目である。学者の理論への批判キャンペーンは、上記の「田口理論」への批判キャンペーンについで、「丸山理論」批判のそれが二回目である。
丸山理論批判との関係で、「党史」における田口理論批判、古在由重批判の内容は、上記の『日本共産党の七十年』ページを参照されたい。
〔小目次〕
2、党内効果
(1)、批判執筆者リストと指示者
批判執筆者の肩書は、(1)思想建設局次長、(2)知識人局長、(4)(10)文化知識人委員会事務局次長、(5)(6)議長、(7)(9)社会科学研究所事務局長、(11)思想建設局次長、(12)(1)書記局長、(2)党委員長である。これは常任幹部会のトップ3人、および党中央イデオロギー部門を総動員したことを示している。
戦前の党活動、プロレタリア文学運動、とくに1930年代のコミンテルン日本支部壊滅に至る時期の問題点指摘にたいして、これだけの13回におよぶ丸山批判キャンペーン、党内への徹底を集中的に展開した指示者、最終的政策決定権者は、当然、宮本議長である。
(2)、党内効果
党大会前後の期間は、支部、地区、県の「上り」「下り」の会議を通じて、36万党員を思想動員する上で最も有効な機会である。その時期での反共攻撃とそれへの反撃キャンペーンは、全党員の党防衛意識を高め、党中央の下に結集させる上で最大の効果を上げる。1994年7月の第20回大会を迎える情勢は、社会主義10カ国の崩壊、冷戦終結が焦点になっていた。党勢は、1985年、第17回大会の党員数48万人強という最高時より12万人減であり、『赤旗』日刊紙、日曜版は1980年、第15回大会の355万部という最高時より100万部減で、党勢減退傾向を食い止められないでいた。
その時点で、丸山氏の、30数年前に発表された4つの文献を、ことさらのように取り上げて、「丸山眞男の共産党攻撃」「丸山氏の『共産党戦犯』論」(宮本、新春インタビュー)として大キャンペーンを行い、党内に徹底させたことは、党の結束、思想教育のうえでかなりの効果を上げることができた。とくに、支部指導部、地区委員、県委員などの支部、中間機関幹部や党派性の高い党員たちに、丸山眞男を「共産党否定論」者(宮本、新春インタビュー)として頭から毛嫌いさせ、丸山氏の著書を今後一切読まないようにさせることができたのは最大の成果である。その点で、丸山氏の思想的影響の党内への波及を遮断する、もしくは見えないベルリンの壁ともいうべきイデオロギー・バリアー(障壁)を張り巡らすという目的は十分達成された。
このイデオロギー・バリアーについては、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(早川書房)での「真理省」「平和省」「愛情省」によるキャンペーンや、『動物農場』(角川文庫、38刷発行)後半の豚の革命指導者ナポレオンや豚の宣伝係スクィーラーによる宣伝が、その組織内の人々の思想、とりわけその心理にどのような影響を与えたかを思い起こしていただければ、イメージできるかと思われる。オーウェルはこの2作品で、(1)人為的に作りあげられた敵への憎悪、(2)所属組織が浸食・破壊される恐怖心、(3)それへの闘争心などが、上から操作されるキャンペーンによって、いかに容易に形成されるかを描写している。そしてそれらの入り交じった集団心理が、いかに強固なバリアーになるかをリアルに描き出した。
(3)、宮本氏個人にとっての意義
野坂、袴田、志賀、神山、西沢、鈴木市蔵、伊藤律、中野重治、野間宏、佐多稲子など多くの除名、山本懸蔵、杉本良吉、国埼定洞銃殺、渡辺政之輔自殺、小林多喜二、岩田義道虐殺、国領、市川、野呂等多数の獄死者、片山、徳田、蔵原、宮本百合子死亡、その何十倍、何百倍もが転向したという状況の中で、1930年代のコミンテルン日本支部活動の生き残り幹部は、今や宮本氏唯一人である。
1930年代とは、スターリンの粛清の嵐が吹き荒れ、暴力革命路線と鉄の規律=民主主義的中央集権制の下で、スターリン個人独裁のコミンテルン(単一国際共産党)日本支部としての活動時期であった。その時期の支部活動をどう評価するかは、現在の日本共産党にとっての存在意義という面から重要なだけではない。このキャンペーンは、宮本氏個人の存在意義をかけた「最后の闘争」となるものである。もっとも、レーニンはその「最后の闘争」後、60数年たって「落ちた偶像」となった。
戦前の1922年日本支部結成から、1935年袴田逮捕による日本支部壊滅に至る13年間の活動は、きわめて英雄的で、献身的なものであった。しかしそれは独立した党の活動ではなく、民主主義的中央集権制に基づくコミンテルン一支部としてのものだった。スターリン専制のコミンテルンと日本支部との関係の実態は、コミンテルン決定、指令への絶対服従、日本支部としての権利なき義務の遂行、暴力革命のための軍事的規律だった。「党史」においては、その側面からの分析が大幅に、意図的に欠落させられている。その側面からの分析としては、加藤哲郎一橋大学教授の『コミンテルンの世界像――世界政党の政治学的研究』(青木書店)、『モスクワで粛清された日本人―30年代共産党と国埼定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店)、加藤哲郎ホームページ(2)(現代史関係)がある。
(4)、党外への効果、逆効果
丸山理論批判は、第20回大会における理論・イデオロギー問題の三本柱の一つであった。他の二つは、冷戦終結否定論、14の社会主義国の性格規定論である。
第一の冷戦終結否定論は、党外にはまったく不評で、何の説得力も持たなかった。そもそも「冷戦」という用語は、抽象的な概念ではなく、第二次大戦後からソ連崩壊までの期間の「米ソ冷戦」という歴史的限定的概念である。共産党はアメリカ帝国主義の存在を強調しているが、それなら別の用語を新たに使用すべきである。
第二に、14の社会主義国中、10カ国が崩壊した状況でのその社会主義国の新たな性格規定も、党外には全く受け入れられなかった。この「社会主義国」という用語も、きわめて歴史的な概念で、当然1917年以来の14カ国の、その実態をふくめた具体的に現存する国家の概念として使用されてきた。それを共産党は、「社会主義をめざす国ぐに」と「社会主義をめざす道にふみだした国ぐに」に分類した。しかしそれは、レーニン主義(科学的社会主義)を放棄できないことによる、苦しい言い逃れ、言い訳の理論となっており、説得力に欠ける。
第三の丸山理論批判も、党外からは、30数年前の4つの文献をなぜ今更持ち出して、大々的なキャンペーンをやるのかと奇異な感じで受け止められた。1994.4.16日付、朝日夕刊コラム「窓」では『遺恨四十年』として「首をかしげたくなるようなキャンペーン」「天皇制と共産党を同一線上でさばいた論理のさえと発想の鋭さに『さすが』と脱帽したくなる」とした。また1994.4.19日付、毎日夕刊コラム「変光星」でも、共産党の丸山批判に対して「『歴史の大局』ね。日本共産党は、まだ黄門さんの印籠を持っているわけですね」という受け止めをした。もちろん丸山氏の従来からの研究者、読者からは強烈な反感をかった。その点で、丸山批判は、上記のように党内ではかなりの効果を上げることができたが、党外では逆効果の方が大きい。
1993.5〜1996.8.15死去までの間、文書による反論は一切していない。黙殺した。
1995.11丸山氏の口頭発言 「VG研究会」(比較思想史のドイツ語略)の場で、丸山氏が「戦争責任論の盲点」を書いた動機を話す。その発言の詳細な内容を研究会出席者の石田雄東京大学名誉教授が紹介している。(『丸山眞男の世界』(みすず編集部編)の中の「『戦争責任論の盲点』の一背景」)
1)新聞…8月19日から8月末までの間――朝日8回、毎日6回、読売4回、産経2回、日経2回
2)テレビ
1996.11 NHK「ETV8」丸山眞男特集、2回連続シリーズ。(1)『民主主義の発言』、(2)『永久革命としての民主主義』。1997.8 好評につき再放送
3)書籍・雑誌
1996.10 『みすず10月号、丸山眞男追悼特集』、その後『丸山眞男の世界』と改題、出版
1996.10 『世界』追悼丸山眞男(都留重人、日高六郎、福田歓一、石田雄、篠原一、坂本義和)
1996.11 『象』第26号、水田洋名古屋大学名誉教授、「アセスメントの論理、4」「編集のあとで」
1996.12 『葦牙』23号、丸山眞男追悼特集 田口富久治立命館大学教授「丸山先生から教えられたこと」。武藤功『葦牙』同人「丸山眞男と日本共産党」。山根献『葦牙』同人「丸山眞男の近代日本文学批判」。小倉武史『葦牙』同人「『寛容』についての覚書」
1997.3 『神奈川大学評論』丸山眞男追悼特集
1997.4 『丸山眞男手帖』(丸山眞男手帖の会、年4回発行)
1997.8 石田雄、カン尚中『丸山眞男と市民社会』(世織書房)
1997.9 田口富久治『戦後日本政治と丸山眞男』(立命館大学人文科学研究所、現代史研究会)
4)インターネット
1997.8 『市民のための丸山眞男ホームページ』(H.田中)上記1)、2)、3)の記事内容、書評は、このホームページを参照
1997.9現在 丸山眞男関連HP検索google
5)共産党
1996.8.19 『赤旗』15面下の二段、28行の記事を掲載。内容は死亡事実、しのぶ会日程、および6行の経歴という、人物評価、業績評価の一切ない実務的な死亡記事
6)宮地
丸山氏の戦争責任論への私の見解は、『1930年代のコミンテルンと日本支部』でまとめた。
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(関連ファイル)
宮本顕治 『‘94新春インタビュー』『11中総冒頭発言』の丸山批判
志位・不破 『1994年第20回大会』の丸山批判
共産党 『日本共産党の七十年』丸山批判・党史公式評価
丸山眞男 『戦争責任論の盲点』(抜粋)
石田雄 『「戦争責任論の盲点」の一背景』「戦争責任論の盲点」を書いた動機
武藤功 『丸山眞男と日本共産党』
H・田中 『市民のための丸山眞男ホームページ』
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