記憶のなかの丸山真男

 

水田洋

 

 ()、これは、同人誌『象・45号』(2003年春)に掲載された水田洋名古屋大学名誉教授論文の全文です。『象』は、水田氏が編集責任者です。このHPに全文を転載することについては、水田氏の了解をいただいてあります。健一MENUに戻る

 

 〔目次〕

   記憶のなかの丸山真男 1〜6

   水田洋のHP掲載論文リンク

 

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 もっとつきあっておけばよかったという、悔恨をのこして逝く人はすくなくないが、丸山真男は、ほかにくらべようもないほどの悔恨をぼくにのこして、逝ってしまった。悔恨の内容を整理してみると、三つあるようにおもわれる。第一は思想史研究の先達として、もっと教えをうけておけばよかったということ(そのなかには、もっと教えてあげればよかったということが含まれていないわけではない)、第二は、近代主義あるいは永久革命民主主義というスタンスを共有していたのだから、そのレヴェルでも交流があってよかったのではないかということであり、第三は、まったくの言訳になってしまうが、続々と出版される著作集や講義ノート、さらには丸山真男論などに圧倒されて、いかにそれらを読んでいなかったかを、おもいしらされたということである。

 

 第二と第三は比較的かんたんなので、そこからはじめよう。といっても、第三はかんたんすぎて、「二号雑誌」におわった『人文』(一九四七年、文部省人文科学委員会編集、印刷局発行)の「科学としての政治学」は、おなじ号の恩師の論文(高島善哉「体制概念と価値法則」)をさしおいて読んだのはよかったが、そのあとは、『日本政治思想史研究』(一九五二年)を一回半と『現代政治の思想と行動』(一九五七年)を熟読した痕跡があるだけなのである。『日本の思想』(一九六一年)は、そこにあげられているエミール・レーデラーの日本批判(虎の門事件)をおぼえているので、読んだはずなのだが、手もとにある本には、読んだ痕跡がない。『忠誠と反逆』(一九九二年)は、著者署名つきで贈られながら、とおりいっぺんのお礼しかいわなかったような気がする。こういうことなので、丸山真男の思想と行動を正面きってとりあげる資格は、ぼくにはまったくないのである。

 

 つけくわえておくと、ぼくが読まなかった『戦中と戦後の間』(一九七六年)を、当時の愛知県知事、仲谷義明(オリンピック誘致に失敗、自殺)が、『中部読売』(七七・一・二〇)に、「わたしの一冊」としてとりあげていた。「暗い谷間の時代を生き……希望を将来にかけて生きてきた著者の良心と、特定の体系に拘束されない柔軟の思想」を評価した仲谷は、この本を「私たちが立ち戻り、そこから出発するための原点である」としたのである。仲谷自身の思想と行動を考えるとおかしな感じだが、あんがいこのあたりに、丸山政治学のヴェクトルが見られるのかもしれない。

 

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 以上のほかにも、証拠はのこっていないが読んだものが、とくに新聞雑誌の論文などであるかもしれない。ひとつはっきりおぼえているのは書評紙かなにかのコラムでの、デリバレイションの説明である。そこでは熟慮や審議と訳されるこの言葉が、自由から決断へと自由を否定していく過程、つまり、デ(否定)リバレイション(自由化)を意味するのだということを、思想史的にはジョン・ロックの段階の特徴として説明されていた。ちょうどそのとき、ぼくは『リヴァイアサン』を訳していたので、この問題がホッブズではどうなっているだろうかと、考えたことをおぼえている。

 

 じっさいに読んだのは痕跡の範囲よりいくらかひろいとして、いまふりかえってみると反撥の記憶がないとともに、教えられたという記憶もない。ぼくの記憶が老化によってうすれたことや、専門の領域に日本とヨーロッパという距離があることによるのではあろうが、そういうグレイ・ゾーンを無視して考えると、あとには、ほとんどすべてが同感だったという印象がのこるのである。その同感をささえるのが永久革命としての民主主義、あるいはラディカルな民主主義だということになるだろう。

 

 専攻領域のちがいにもかかわらず、ということは後で述べるとして、ちがいからくるギャップの一例をあげると、『丸山眞男手帖23』の「聞き書き庶民大学三島教室()」にLSEすなわちロンドン政治経済学校のことがある。この種の発言を専攻領域の問題としてとりあげるのは、見当ちがいだといわれそうだが、ある意味では象徴的なのである。そこでラスキがオクスブリジに対抗して労働者学校としてLSEをつくったとされているのは、全部まちがいであって、シドニ・ウェブの主導でLSEが設立されたのは一八九五年であり、ラスキがハーヴァードから帰国して参加するのは、一九二〇年なのだ。スクールであって「大学とは言はなかった」にいたっては、あたりまえの話でこのスクールは一九〇〇年にファカルティ(学部)として、ロンドン大学に包摂されたのだから大学と名のるわけにはいかないのである。労働者学校は、バークベック・カレジであってLSEではない。オクスブリジへの対抗者としてなら、LSEではなく、ベンサムやミルのユニヴァシティ・カレジ・ロンドンをとりあげるべきだっただろう。

 

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 こういう異和感はいくつもあるのだが、永久革命としての民主主義については、共感はゆるがなかった。ところが、死後の丸山は、ナショナリストとして批判されることが多くなったし、たしかに丸山自身にかれなりのナショナリズムがあることは、本誌前号の今井論文も指摘するとおりである。では、丸山におけるデモクラシーとナショナリズムは、どうむすびつくのか。

 

 論点は三つある。第一は、丸山の民主主義の性格、第二は丸山のナショナリズムの性格で、このふたつはあたりまえすぎと思われるだろうが、それほどあたりまえではない。それに第三は、批判者の側の力量と教養のレヴェルである。ただしぼくは、批判者たちをいちいち資格審査する準備はないので、経済思想史での例をあげるだけにしたい。それは、一五年戦争期のいわゆる生産力理論(大河内一男が代表とされる)が、一時は体制批判思想として評価されたのに、最近では戦争協力思想として批判されているということである。

 

 ぼくの理解では、生産力理論というのは、戦時経済が要求する生産力の増強のために、合理化をおしすすめていけば、やがてそれは体制をささえる非合理的要素にはねかえってくるという考えかたであった。戦時経済は合理化を必要とするが、合理化は戦争主体をつきくずすというのである。天皇制や国家神道が排除されるのはもちろんだし、生産の現場でも、たとえば労働力不足による農業の機械化は過小農制と地主制とにぶつかるだろう。ようするにこれは、コミンテルンの日本にかんするテーゼのブルジョア民主主義革命、すなわち純粋資本主義の成立にほかならない。生産力理論がもっているこのような合理化要求(たとえば労働力保全)に、戦争協力をこえたものをあとから読みとるには、当時の戦争主体のもとでの日本社会の性格(反近代と要約しておこう)について、かなりしっかりした認識が必要であって、それは生産力理論の字づらからはわからないだろう。

 

 三二テーゼすなわちコミンテルンの「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」は、そのタイトルのとおり、当時は非合法であった日本共産党にたいして、活動方針を指示したものであって、これに先行する「二七テーゼ」とともに、いわゆる日本資本主義論争にも影響をあたえたのだが、その経過にはふれる必要はないだろう。ここではただ、「日本において当面する革命の性質は、社会主義革命への強行的転化の傾向をもつブルジョワ民主主義革命と規定される」という一行を引用するにとどめる。つまり、ブルジョワ民主主義革命すなわち純粋資本主義化は、社会主義への展望をふくんでいたのであって、その社会主義が、現実にはスターリン体制しかなかったということは、ほとんどだれも気づいていなかった。勝野金政の『赤露脱出記』(一九三四年、本誌前号参照)やジッドの『ソヴェト旅行記』(岩波文庫、一九三七年、発行と同時に発売禁止)も、幻想を破壊するにはいたらなかったわけだが、逆説的には、近代化をこえた展望が純粋に維持されたことを意味する。

 

 直接にいまの主題とは関係のないことながら、「三二テーゼ」におけるふたつの革命の関係について一言しておきたい。それは邦訳でふたつの革命が「強行的転化」としてほとんど直結されているようにみえるのにたいして、英語原文では「急速に社会主義革命へ発展する傾向をもつブルジョワ民主主義革命」となっているということである。すなわち、ドイツ語では einer bürgerlich-demokratischen Revolution mit der Tendenz eines forcierten Umschlagens in eine sozialistische Revolution であるが、英語では a bourgeois-democratic revolution with a tendency to grow rapidly into a socialist revolution であって、あきらかにテンポがちがう。ふたつの文章は、コミンテルンの公式情報誌であった『インプレコール』のドイツ語版(一九三二・五・二〇)と英語版(一九三二・五・二六)に出ているのだが、日本共産党はドイツ語原文から翻訳したものを採用した。この違いが、コミンテルン内部でのドイツ系とイギリス系の見解の相違からきたのかどうかは、いまではたしかめようもない。日本共産党のおもいの表明としてはドイツ文がこのまれたにしても、広汎な左翼知識人のメンタリティは英文に近かっただろう。

 

 もっとも、その当時は、こういうことは何もわかっていなかった。ぼくは三二テーゼにしても、そのまえの二七テーゼとともに、うわさで知っていただけで、日本語でも読んだことはない。それでも、日本資本主義論争の余波のなかにいた学生としては、ブル・デモ革命から社会主義革命へという二段革命は、すくなくとも頭のなかではおなじみの観念であり、現実の生活のなかにある封建的諸要素の廃棄が、社会主義への展望によって力づけられるなら、ねがってもないことだった。だからコミンテルンのテーゼなどというまでもなく当時のマルクス・ボーイにとっては、『資本論』で十分だったのである。社会主義社会が、資本主義が成熟したあとにくるとすれば、資本主義の純粋化、全面的発展は、社会主義への道でもあるだろう。第一巻第二四章の「資本家的私的所有の鐘(弔鐘)がなるDie Stunde des kapitalistischen Privateigentums schlägt」というのは、そのことをさしていると考えられた。

 

 マルクス・ボーイにとっては、資本主義がくればそのつぎに社会主義がくるはずであり、資本主義が純粋化されることは、その意味でのぞましいことであり、純粋化の必要は、日常の生活感情のなかで痛感させられていた。中学生が通学のために明治神宮前(いまの表参道)から市電にのると、発車したとたんに神宮にむかっての敬礼をうながされ、銀座にいこうとすれば虎の門で、神田に本を買いに行けば靖国神社前で、おなじ目にあわなければならない。これでは天皇制と国家神道、つまり前近代的権力の象徴に嫌悪感をもたないほうがおかしいのだ。

 

 このような、単純な反封建、資本主義・社会主義待望論から見れば、生産力理論は戦争遂行の必然性を逆手にとった、抵抗の理論なのだった。大河内の著書のどこかに、生産力増強のための社会政策の「思われざる結果」ということばがあって、それをぼくは資本主義をこえた社会主義への第一歩を意味するものとして読んだ。ところが、こんどしらべてみたら、このことばは『戦時社会政策論』(一九四〇年)のなかに、「国内改革は凡百の革新論の旗幟の下からではなく、戦争という不可避の事態の想われざる結果として進行する」(かなづかい変更)という文脈で使われていて、高畠通敏はこれを「翼賛理論としての大河内理論」の一例として引用し、「彼〔大河内〕の得意や想うべきものがある」とつけくわえている(思想の科学研究会編『共同研究 転向』中巻二一七)。マルクス主義による名著『ドイツ社会政策思想史』の著者は、このように転向したというわけである。

 

 山之内靖は、「大河内の社会政策論〔で〕は……労働者の主観的側面は……『思わざる結果』にかかわる領域」であったと、このことばを理解している。文脈の理解はともかくとして山之内にとっても、大河内の社会政策理論は戦時動員体制の理論であり、杉山光信はおいうちをかけるように、「大河内は生産力理論は『暗黒の時代』にひとつの抵抗として書かれたのだといったが、かれの戦争期に書かれたテクストは必ずしもその説明どおりにうけとれるものではない」という(山之内は岩波講座『社会科学の方法』3の第五論文、杉山は『総力戦と現代化』の第五論文)。かれらによれば、風早八十二も、『日本社会政策史』から『労働の理論と政策』へ、おなじように転向したのだということになる。

 

 だが、たしかに杉山がいうように、一般に事後における著者の自己正当化は、うたがいをもって見られるべきだとしても、この場合、ふたりの著者のそれぞれふたつの著書を、一貫した抵抗の書として読んだ読者がいたという事実はどうなるのだろうか。そういう読者が、ぼくひとりではなかったことは、断言できるのだ。われわれは、レーニンが発明したらしい「奴隷のことば」という概念をしっていたし、日本独特の伏字という猿ぐつわもしっていた。それらを読みとく技術も多少は心得ていたのである(戦後、GHQの検閲は伏字の使用を禁止した)。恩師の著書の用語を「奴隷のことば」にかえることさえ、われわれはあえてした。

 

 たとえば、生産力理論を代表する文学作品といわれる久保栄の『火山灰地』で、農場長雨宮が「ぼくの考えてることが……社会主義者なんかのいうこととおなじような結論におちつくとすると……途中の推理が……かならずまちがっているはずだ」というのを読めば、それは良心的な農業技術者=科学者の論理が、意識しないで社会主義に到達することを意味するのだと、われわれは理解したのだ。

 

 ただ、この雨宮の発言では、反封建的資本主義から(観念のなかだけでも)いきなり社会主義になってしまうのだが、それは三二テーゼを「強行的転化」の二重革命論とうけとることによるだろう。われわれの先輩たち(久保栄もふくめて)は、そう理解していたかもしれないが、太平洋戦争とともに大学を追いだされたわれわれの世代には、そぅいう明確な社会主義への展望はなかった。はっきりいえば、純粋資本主義=民主主義と社会主義は、隣あわせというより、ほとんど同一視されていた。それが戦後に一方では、永久革命民主主義となり、他方では大塚史学の広汎な受容となったのである。市民社会思想と呼ばれるものは、以上のような、抵抗の思想としての生産力理論から出てきたのであり、戦中戦後一貫して抵抗の思想なのであった。(網走番外地のことではなく)体制内の問題としては、抵抗を理解しないで転向を論ずることはできない。

 

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 丸山のナショナリズムを検討するのに、ずいぶん遠まわりをしているようにみえるかもしれない。丸山の思想のなかにナショナリズムを見るとすれば、初期においてはそれは、このようなコンテクストにおける批判概念として成立し、おそらく戦後に、民主主義革命と矛盾なくむすびついたと考えるべきでないだろうか。そのナショナリズムは、前述の生産力理論のように、三二テーゼのブルジョワ民主主義革命による近代的国民国家を目ざすものであった。もちろん、そのさきに展望される社会は、三二テーゼのばあいとちがって、民主主義の永久革命の中にあるだろうし、それは国民国家自体を解体させていくだろう。ただし、国民国家の解体までが、丸山の論理のなかにくみこまれていたわけではなく、その点ではかれはリアリストであった。市民運動の国際的展開はまだ先の話であって、かれが参加しえた国際運動は、きわめて限定されていた。

 

 『丸山眞男手帖23』で、高田勇夫は安保時代の弟子として「かれをアナーキストとよぶ人の気持ちのほうがはるかに理解しやすい」と書いているし、ぼくも佐藤誠三郎が丸山をアナキストとして批判したときに、それはとうぜんで、民主主義の極北はアナキズムしかないと反論したおぼえがある。丸山もおそらく、こうした論理的必然性には気づいていただろうが、国民国家の枠のなかにとどめておいたようにおもわれる。高田が、一方でアナキストとよばれ、他方でナショナリストとよばれることが、丸山真男の本質だといっているのは、この点をさすのだろう。

 

 丸山の直系ともいうべき福田歓一は『近代政治原理成立史序説』(一九七一年)で、ヨーロッパ近代思想史のなかに、近代国家への個人の内発的な統合原理を探求した。ぼくは書評で、近代国家というものは個人の内面にかかわらない外面国家なのだから、内発的統合原理をもとめても無理なのではないかと書いた(『歴史学研究』一九七三・五)。丸山の『日本政治思想史研究』に、そういう統合原理の探求があっただろうか、そこでは徂徠の主体的作為の立場が「ゲゼルシャフトの論理を内包している」もの(ブルジョワ的個人の主体性)としてとらえられ、結論的な第三章第三節は「前期的国民主義の諸形態」となっている。福田がもとめていたような統合原理は、問題にさえなっていない。

 

 しかし、乱暴ないいかたをあえてすれば、「作為」の個人主義(これも前期的)と前期的ナショナリズムの歴史的継起が、戦後の丸山政治学のなかに民主主義永久革命(アナキズム)とナショナリズムとして、洗練され再生産されていたのではないだろうか。福田のように内発的統合原理をもとめるには、丸山は近代社会の個人主義の性格を知りすぎていたが、それでもなお、なんらかの統合形態をもとめないわけにはいかなかったのである。東京帝国大学法学部の教授が、アナキズムにとどまることは、たてまえとしてだけでなく、ほんねでもさけたかっただろう。

 

 ほんねの方の結論が、「古層」論であったかどうかは、現在のぼくには不勉強でいう資格がない。たてまえの方は、外がわからの推測でいえば一中(東京府立第一中学校、現日比谷高校)・一高・東大のエリート官僚、しかも思想言論のリーダーであることを期待されている法学部教授としての、ナショナリズムである。

 

 手もとに『日比谷高校百年史』という三巻本があり、その中巻が歴代生徒の作文を中心に編集されていて、土岐善麿や谷崎潤一郎というようなおそろしい先輩の名前がならぶなか、昭和五年(一九三〇)のところに、五年己組丸山真男の英文作文「小野の道風と蛙」が掲載されている。それは「不幸にして入試に失敗した人びとへ」という副題で、「意思と努力はすべてのことをなしとげる」と書きはじめられている。おそらく副題のよびかけは、四年で一高の入試に失敗した丸山自身にもむけられていたのだろう。

 

 この文集には、編集者木下航二のいたずらで、ぼくが国語の教師あたりにおだてられてつくったらしい皇太子生誕奉祝歌まで掲載されていて、具合が悪いのだが、さいわい木下はぼくの作品を二年、三年、四年と続けてのせてくれたので、その変化がわかって本人にもありがたかった。よけいなことだが、ぼくの奉祝歌とおなじ年には、五年の隅谷三喜男(三里塚の隅谷委員会の長)が、英文で「荒野に叫ぶ声」を書いている。こういうことが、よけいなこととばかりいえないのは、丸山と隅谷が、すでに一中・一高・東大のエリート知識人の典型としてあらわれていて、このエリート・コースからのドロップアウトを自覚的にくわだてるようになった劣等生のぼくと、対照的だという点である。

 

 大河内一男と高島善哉のアダム・スミス研究を読みくらべて感じたのは、東京帝国(主義)大学の教授には、国家への政策提言者としての義務感があるのではないかということで、これは一九世紀末の社会政策学会の創立に明示されていらいの伝統だろう。大河内のばあいは、生産力理論にしろアダム・スミス研究にしろ、この義務感にうらずけられていて、そのために結論が明確になるという長所があった。誤解のないようにいっておかなければならないのは、それは大河内が権力迎合であったことを、まったく意味しないということである。マルクス主義の最大の温床は、帝国大学であった。まえに言及した三二テーゼが、ドイツ語から翻訳されたのも、社会政策学会いらいのドイツ学の伝統によるものだろう。改造社版のマルクス・エンゲルス全集に『経済学批判』を訳した早稲田出身の猪俣津南雄は、英訳によっていた(これはかれがアメリカ仕込みのボルシェヴイキとしてアメボルとよばれていたことからのまったくの推測による)。

 

 もちろん、周知のように、右翼のはげしい攻撃の矛先は、天皇機関説をもった東京帝国大学法学部にむけられていた。学生協会という右翼団体も活発で、かれらは働きかけに応じない資本主義(商科)大学に業をにやしたのか、中学でぼくの一年上級だった男が、国立駅の改札口までビラまきにきていた。商科大学では予科、本科、専門部ともにそういうものを受けつける余地がなかった。やや可能性があるかにおもわれた専門部でも、主事の中世史家上原専禄が、学生団体としての認可を拒否した(ぼくはその当日の夜、上原の自宅でそのことをきいた)。

 

 こう書いている途中で、はっと気がついたのは、この段階でのナショナリズムとは、美濃部憲法と我妻民法の国家をさすものではないかということである。我妻栄の岩波全書版『民法』は、生まれてはじめて読んだ法律書だったが、一九三九年か四〇年の二月に、民法の試験の直前に読んで、「なんだ『資本論』じゃないか」とおもったおぼえがある。川島武宜の法社会学は、その延長線に出てきた。

 

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 以上、文献実証の手続きを経ないままに書いてきてしまったが、書くほうも残りの生存時間はかぎられているので、書けるときにあたえられた条件のもとで、書いておくしかないのである。

 思想史研究における尊敬する先達をおくるにさいして、なお個人的な追想を書いておきたい。それは主として、ぼくの研究者としての出発点にあたっての丸山の役割である。序曲は『日本政治思想史研究』とともにはじまる。この本の書評で、松島栄一は「防空暗幕のために薄暗かった一つ橋学士会館の一室で、はじめて著者の学問的体系とその苦闘に接しえた、歴史学研究会の部会は、共通に灰色の青春の思い出として、なお記憶に生ま生ましい」と書いた。それを読んでぼくは、灰色の谷間からぬけだした思想史研究者の先行集団の存在をしったのである。その集団のひとりとして松島からは、いろいろな機会に側面からの援助をうけてきたのだが、それはここでは省かなければならない。ただ、この丸山と歴研日本史部会との接触から、ヴェーバーやボルケナウが日本史研究者のあいだ(とくに奈良本辰也)でとりあげられるようになったのではないかという点は指摘しておきたい。丸山もあとがきで「遠山君や松島栄一君の度々の紹介」に感謝しているし、松島は書評のなかでヴェーバーとボルケナウに言及している。

 

 ところで、もし丸山があとがきで、「とくに示唆をあたえたヨーロッパの社会科学者」として、マンハイムとヴェーバーをあげたのちに、「なお翻訳で読んだF・ボルケナウの『封建的世界像から市民的世界像へ』もすくなからず稗益した」と書いていなかったら、そのときのぼくの親近感の度合は多少減少したかもしれない。というのは、翻訳は前半しかなく、数冊輸入された原書はどこにあるかわからないというこの本について、ぼくは戦争中にジャワのバタフィア法科大学図書館に原書があることを発見して、タイプライターによるコピーをもちかえったほどだったからである(全訳は『封建的世界像から市民的世界像へ』みすず書房、一九六五年)。

 

 丸山はマンハイムとボルケナウについて、「思想史の方法を模索して」でややくわしく言及している。この論文は『名古屋大学法政論集』(一九七八年九月)に掲載されたのだが、この号は「故守本順一郎教授追悼論文集」であって、丸山論文は守本への追悼と反批判をかねていた。この論文でのボルケナウへの言及が、『日本政治思想史研究』のあとがきにくらべて、はるかにくわしくなっているのは、論文の主題からいって当然だというだけでなく、その間にボルケナウの全訳が、グロスマンの批判論文をそえて翻訳され、守本が『東洋政治思想史研究』(一九六七年)で、ぼくの『近代人の形成』(一九五四年)とともにボルケナウを利用していたことにもよるだろう。そうだとすると、守本がすでに故人なのだから、丸山のボルケナウ批判はぼくにもむけられていたのかもしれない。

 

 丸山のボルケナウ批判は、尊重しながらの評価であって、分析にさすがとおもわせるものがあり、この点への安丸のコメントは浅きに失する(安丸良夫「丸山思想史学と思惟様式論」、大隈利雄・平石直昭編『思想史家丸山眞男』所収)。ぼくにはボルケナウを弁護する必要はないのだが、丸山がボルケナウの方法の破綻を見たところに、ぼくはそのおもしろさを読んだし、かれの方法がその後の思想史研究に継承されなかったのは、方法の欠陥というよりも、対象の歴史的変化によると考えている。基本的には、あれは一八世紀末あるいは一九世紀なかばまでの、すなわち近代社会成立過程の思想史に、適応されるべきものなのである。

 

 ことのついでにいえば丸山がここで、思想史研究の方法におけるヴェーバーからの影響を否定しているのは、前掲の「あとがき」とは対立するが、当然だろう。しかし、もうひとつついでにいうと、フライヤーとテニエスをひとまとめにして、「ズルズルとナチズムに追随」したといっているのは、どうかとおもう。フライヤーはたしかに「ハイル・ヒトラー ハンス・フライヤー」と署名したのだが、テニエスは、一九三二年に選挙にさいして、ナチスにではなく社会民主党に投票するようにと、公開状で呼びかけた。かれは一九三六年に、八一才になる直前に死んだのだが、さいごの四年間に右旋回をしたとは考えられない。

 

 丸山には以上のほかに、「思想史の考え方について――類型・範囲・対象」という論文(武田清子編『思想史の方法と対象』一九六一年)があるが、そこにはいま紹介したような方法論(イデオロギー論)はない。したがって、丸山をこういう議論にさそいだしたのは、名古屋の守本でありぼくであるといえるかもしれない。

 

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 じつは守本が東洋政治思想史の担当者として名古屋大学法学部にくるようになったきっかけは、丸山からぼくにあてた推せん状だった(もちろん決定したのは法学部教授会である)。ぼくはそれまでに、守本とは一度しかあっていないし、それも田添京二の結婚式で塩田庄兵衛が、守本をマレンコフに似ているとからかうのを、いっしょになって笑っていたという程度だった。名古屋大学法学部の政治思想史の主任教授としては、丸山にとっては南原門下の先輩にあたる五十嵐豊作がいるのに、なぜぼくがたのまれるのだろうという疑問を、そのときぼくがまったくもたなかったわけではない。この手紙をもらったのがいつであったか、はっきりしないのだが、守本の着任が一九五五年夏であり、ぼくは一九五四年夏にはイギリスへ出発したのだから、手紙は五四年前半かその前年ぐらいと考えられる。ところでこの五四年前半には、ぼくの『近代人の形成』が東大出版会から出版されていて、まったく東大に関係のない研究者に出版会が目をつけたいきさつを、編集者としての山田宗睦がつぎのように書いている。

 

 水田洋「ホッブズ解釈における二つの系列」は『歴史学研究』にのっていた。日本史の論文をおっていて、この論稿にぶつかったとき、いくらか奇異な感じがした。わたしは哲学が専攻だから、編集者として日本史の分野に着目しはしたが、ホッブズの名をみて、異国で隣人にあったような気がしたのである。そんな親しさを感じて読んでみると、これがなかなかおもしろかった。それから水田洋という名に気をつけて、なお二つ、三つを読んだ。戦後になって、にわかに民主主義、個人主義、近代主義が、啓蒙的に説かれてきた。わるくはないが、それだけでは既製服を輸入しているようなもので、もっとヨーロッパの近代思想史のオリジナルな形成過程を高めなくてはならない。そう考えていた。水田の思想史関係の論文は、結果の解釈ではなく、思想形成の過程における問題意識をひとつひとつ見分け、形成された思想のなかのあれこれの思想の要因を、こんどは隣接もしくは敵対する思想の形成過程のなかで検証してみて、ホッブズならホッブズの思想形成のオリジナルな根をあきらかにする、というものであった。そこに感心した。ある日、丸山真男を訪ねたとき、水田洋の仕事にふれ、これを本にすることの可否をきいてみた。先に書いたように、思想体系に内在するカテゴリー、要因の組合せ、対応について、このおそるべきアカデミシアンほど信頼できる人はない、と考えていたからである。予想したとおり、賛同の返事がかえってきた。

 

 はじめにあげられた論文について歴研の編集委員会から「もっと問題意識のあるものを」と批判されたおぼえのあるぼくとしては、このたいへん好意的な要約に、われながら「ほんとかね」とおもうのだが、とにかく、丸山真男がこの論文を知っていたことは、まちがいなさそうである。

 

 このころ、丸山とぼくをつなぐ線がもうひとつあった。それは五四年二月に岩波文庫版の『リヴァイアサン』()が出ていることからの推定なのだが、丸山は前年ぐらいに岩波に推せんしたらしい。日本評論社の倒産で挫折したこの翻訳の、岩波文庫での継続を主張したのは、内田義彦だった。しかし当時の内田は岩波文化人になっていなかったので、丸山に依頼し、丸山はおそらく、一中で同期の塙作楽が岩波の編集部にいたのを、くどいたのだろう。丸山が内田にたいして推せんのおくれをわびたはがきが、内田からぼくへ回送されてきて、そのなかには、いま岩波に手紙を書いているのだが、それを「女房のやつ監視中」というようなことばがあった。これだけ近いところにいて、研究者としての交流がほとんどなかったのは、ぼくの無精を別にすれば、東京と名古屋の距離と西洋と日本の研究対象のちがいとによるといっていいだろう。ようやくぼくが日本にふみこむようになって、抜刷をおくろうかとおもったときは、病状の悪化が伝えられて、遠慮せざるをえなかった。

 

 直接にことばをかわす機会は、二度しかなかった。一度は偶然に新幹線のなかであって、「守本君がさっぱり書かないんでこまるんですよ」といったときであり、二度目は守本が丸山に名古屋大学法学部に集中講義にきてもらったときである。一度目の出あいの直後に、守本が猛烈ないきおいで書きはじめたのは、ぼくのことばの間接的効果だったのではないかと、おもっている。二度目は講義のあとの慰労パーティでのことで、カラヤンとストラヴィンスキーの評価が話題のひとつになった。どちらも(もちろん一方は指揮者として、他方は作曲者として)、特にすきではないがまあきいてやってもいいな、という結論になり、土方和雄(教養部社会思想史担当)があきれたような顔をしていた。「水田君、君の旅行記のなかの会話は、メモでもとっているの?」ときかれて、「いや記憶だけですよ」とこたえながら、ほめられたのはありがたいが、そんなものまで読まれてはかなわないなとおもったのが、記憶にのこっている。

 

   付記 木下航二について

 日比谷高校百年記念文集の編集者として木下航二の名をあげておいたが、詩誌『騒』41(二〇〇〇・三)に「木下航二さんを偲ぶ」(井之川巨)があったことをおもいだした。木下が日比谷高校出身でそこの教師であったことは知っていたし、文集編集について手紙の往復もあったのだが、教頭になり校長にまでなったとは知らなかった。

 この追悼文では、かれが『原爆許すまじ』の作曲者であったこと、知ってか知らずか「山村工作隊」に参加したことが述べられている。故神保登代が名古屋の女性運動の旗手として活動していたとき、「木下君の影響でしょう」ときいたら「はい木下先生です」と即答された。日比谷の後輩だといってきた朝日の女性記者も、そうだったかもしれない。そういう教師はいなくなった。

 

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 (水田洋論文・インタビュー HP掲載ファイル)

    『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

    『住民運動は民主主義の実践』インタビュー

    『社会思想史研究の60年−1939〜99』

    『名古屋市長選の「複雑怪奇」』