不破哲三の宮本顕治批判〔秘密報告〕
日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
(宮地作成)
はじめに―宮地コメント
1、第20回大会と4つの誤り 1994年
第1、ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件
通称『ネオ・マル粛清』の『田口・不破論争』1978年〜『高橋彦博除籍』94年
第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年
第3、平和委員会・原水協一大粛清事件 1984年 古在由重氏も粛清
第4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年
志位委員長の『汚れた手』出自 「党中央青年学生対策委員」当時
5、『宮廷革命』第21、22回大会 1997年、2000年
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『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相
『綱領全面改定における不破哲三の四面相』綱領改定案と討論・代議員選出
はじめに―宮地コメント
不破氏の〔秘密報告〕スタイルは、フィクションで、200X年、第2X回党大会における報告である。ただし、〔報告〕内容は、すべて1970、80年代に、宮本・不破氏が行った「日本共産党の逆旋回と粛清事件」の事実に基づいている。
スターリンは、1953年3月に死去した。フルシチョフは、3年後の1956年2月、第20回大会で〔秘密報告〕『個人崇拝とその結果について』で、スターリン批判を行い、世界に衝撃を与えた。その内容レベルは、ソ連共産党・国家の誤りと責任を、スターリン個人の資質・独裁に転化・矮小化し、フルシチョフら側近の責任を棚上げした、まったく不十分なものだった。なぜ〔秘密報告〕が行なわれたかは、その内容・形式にしろ、スターリン死後、一定の誤りを公的に認めないかぎり、ソ連国民、2000万人から5000万人の被粛清犠牲者との関係で、ソ連型社会主義システムをそれ以上維持できないという危機意識によって、ソ連共産党政治局が一致したからである。
日本共産党において、このような〔秘密報告〕が将来発生する可能性は皆無であろうか。共産党は、党勢力ピークの1980年以降、26年間にわたって、歯止めのきかない党勢減退をしてきた。宮本路線・体質・「党勢拡大」システムを堅持するなかで、2000年11月の第22回大会時点で、『党大会報告』にあるように、党員は49万から38.6万に、赤旗HN部数は355万から199万に減り、民青は20万から2.3万に大激減している。
現在、日本共産党は、1)、対外的に、政策の部分的手直し「柔軟路線」を取り入れつつも、2)、党内において、民主主義的中央集権制という「党内民主主義抑圧・閉鎖体質=硬直路線」を堅持している。そのような党内外で矛盾した路線を続けることで、有権者の支持を減らし、かつ、国民の「共産党体質への拒否率」を高め、党内部崩壊の危機を迎えたとき、常任幹部会には、どのような選択肢が残されているのか。
(1)、危機回避手段として「トップによる宮本批判」という対症療法が不可避となる。
(2)、それとも、その場合でも、「スターリン批判」のようなスタイルを採らずに、いつものようにウソと詭弁を駆使した、なし崩し的転換手法で切り抜けようとするのかもしれない。
(3)、それだけでなく、さらに、もう一つの手口がある。レーニン死後、スターリンは、自分よりも有名で、人気のあるトロツキーを党内権力闘争で追い落とし、追放するために、10月武装蜂起以来レーニン路線と一体であったトロツキーにたいして、亡命時点の2人の対立点をことさらに強調・宣伝し、『レーニン全集』を編纂させた。レーニン最后の闘争におけるトロツキー評価・スターリン批判という屈辱を覆い隠すために、クループスカヤの反対にもかかわらず、レーニンの遺体を「化学処理・永久保存」して、レーニン崇拝で危機を乗り切ろうとした。スターリン死後のブレジネフ体制もレーニン神話依存症によってのみ、権力を維持しえた。それと同じスタイルで、不破・志位・市田体制は、「宮本神話」をねつ造、エスカレートさせることによって、かつ、宮本氏の誤りを何一つ認めないことによって、自己の党内権力の維持を図る手口を採ることも考えられる。そのケースでは、スターリン批判のような〔報告〕は一切ない。
以下の内容は、〔不破報告〕スタイルにしたために、不破氏の誤り、個人責任を追及する書き方になっていない。しかし、宮本私的分派・側近グループ支配下とはいえ、「宮本・不破体制」も実質であり、その路線・粛清事件すべてにおいて、不破氏はトップの一人として、その共同遂行者であり、宮本・不破氏は同質の個人責任を持っている。このファイルにおける私(宮地)の立場として、宮本批判内容は、「上田・不破査問事件」を除いて、すべて宮本・不破批判の内容として書いている。
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1、第20回大会と4つの誤り 1994年
私(不破)は、従来、宮本引退を求める党内外からの強い意見にたいして『余人をもってしては代えがたい人』と宮本擁護をしてきた。しかし、第20回大会決議案討論や諸決定にいたる過程で、『老齢・老害の宮本氏には引退してもらわなければならない。これを放置したままでは党がつぶれてしまう』ことを痛感した。その想いを、1997年の第21回大会における『宮本引退・党中央人事抜本的改革』実現に向けて、多くの同志たちと語らって、ひそかに行動に移した。私自身、当時の委員長として賛成したことへの自己批判を含むが、従来の情勢評価や1994年の第20回大会諸決定も抜本的に見直すべきである。
1989年の東欧革命を『あれは革命ではない。資本主義への後退である』と規定したのは完全に間違っていた。東欧革命から1991年ソ連崩壊にかけて、社会主義10カ国とその前衛党が一挙に崩壊した。わが党の『1961年革命綱領』は、それらの社会主義国全盛時代に作られ、そのレーニン型一党独裁体制を日本社会主義の理想としたものだった。また党規約、体質も、それらの前衛党とまったく同質であった。
その崩壊事実は何を示すか。『61年綱領』における理念とその前提条件の完全な破綻である。“現存した社会主義国”は、他党派すべてを秘密政治警察の暴力で粛清し、反民主主義的・暴力依存症型独裁政党でありながら、表向きは『平等、公平、正義』を看板として唱える、まったくの欺瞞的国家であった。そこでの前衛党は、国家機構を党の下部機関とし、マルクス・レーニン主義を「教義」とする一種の国家宗教政党であった。その実態は、全世界と日本国民の前に暴露されてしまった。
10カ国のいっせい崩壊は、同時にマルクス・エンゲルスの“資本主義は崩壊し、必然的に社会主義になる”とした『史的唯物論』の誤りとその空想性、非科学性を証明したのである。それは、19世紀ダーウィニズムの生物学進化論を歴史学に機械的に導入した“単線的な進歩史観”であり、単純な“階級闘争還元史観”という限界をもつ理論であることが、明らかとなっている。今や、『史的唯物論』が歴史学、政治学として正しいと唱える学者は一人もおらず、学者党員でさえもその科学性を主張する者がいない。
1994年の第20回大会は、4つの内容を柱とするイデオロギー大会であった。その4つともがすべて誤りであったと報告するには、私(不破)も委員長として、個人責任があるので、勇気がいる。その誤った決定に賛成したことについては、若干の弁明もあるが、後でのべる。
第一、綱領部分改定で、従来の『社会主義国』規定を、(1)『社会主義をめざす国ぐに』と(2)『社会主義をめざす道にふみだした国ぐに』と2つに腑分けし、性格をすりかえた。
これは、社会主義崩壊を原因とするわが党の内部崩壊を避けるための欺瞞であった。社会主義国とは、抽象的な概念ではなく、14の“現存した(する)社会主義国”を指し示す歴史的現実的用語である。この変更については、党外からも馬鹿にされたが、今や38.6万党員でこのすりかえ分類用語を使う者は一人もいない。また、国際的にみても、このような意図的にあいまい化した規定を綱領に取り入れた共産党は、どこにもない。宮本氏は、この腑分けを指令し、綱領の根幹部分を改変した。
第二、また、『冷戦は崩壊していない』と大キャンペーンを行った。
それには『共産党は頭がおかしくなったか』と党内外から罵倒され、まったく不評だった。冷戦も、抽象的な用語ではなく、第二次大戦末・終了後以来の『米ソ冷戦』という歴史的具体的概念であり、冷戦構造の一方のソ連が崩壊した以上、米ソ冷戦も消滅したのである。この『冷戦崩壊否定』論を論証しようと、アメリカ帝国主義の威圧、膨張を力説した。しかし、アメリカ単独覇権には別の日本語を使うべきで、1994年時点での『冷戦は崩壊していない』などという情勢認識はナンセンスであった。宮本氏と常任幹部会が“ひとり相撲”のキャンペーンを張っただけで、当時の36万党員も誰一人として、“心の中では”それに賛同しなかった。学者党員への大会決議案説明会では、全員から強い反対意見が出され、党中央の説明を納得させられないままで会議を終えたほどである。
第三、もう一つ、『丸山真男批判』大キャンペーンも展開した。
「前衛」「赤旗」「党大会決定」「改定綱領」「日本共産党の七十年」等で13回も丸山批判を行ったが、これも誤りだった。社会主義10カ国崩壊によって、1930年代のコミンテルンの対日本支部方針や日本支部自体の活動にかなり重大な誤りがあることが明らかになってきた。それへの一定の総括とその公表を求めた丸山氏の当時の論旨にたいして、宮本氏はスターリン全盛時代の1930年代における自己の栄光を擁護するために、過剰なまでの拒絶反応を示した。これがあのキャンペーンの本質である。しかも、丸山氏の戦争責任論批判だけでなく、そのプロレタリア文学運動論、天皇制認識批判まで広がり、ほとんど丸山真男政治学業績の全否定にまでつき進んだ。これにたいして、党内外の学者、マスコミから強烈な批判、揶揄を受けた。この批判内容とキャンペーンに反対意見をもって、かなりの学者党員が離党した。
第四、党規約改定で、(旧)規約前文(三)に『誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁である』とする文言を入れた。
それは、党内民主主義を抑圧する否定的役割を果たした。党大会準備の過程で、宮本議長85歳高齢による引退要求、意見が党内外から多数出された。マスコミでもほとんどが引退勧告を打ち出した。党内で大会決議案への正規の文書意見が367通提出された。そのうち327通を「赤旗評論特集版」で6回にわたり掲載したが、不掲載の40通、11%のほとんどが宮本退陣意見書だった。宮本氏はその意見内容を『誹謗、中傷』と断定し、不掲載を強烈に主張したのである。それ以後、党内では、党中央批判意見にたいして『誹謗、中傷』レッテル貼りが乱発されるようになった。党中央批判の抑圧にとって、これほど簡便な規約用語はない。
第20回大会では、85歳の宮本氏が健在で、これらすべてを強力に主張、指令した。これらのイデオロギー的誤りは、最高指導者高齢化による“老害”に原因の一つがある。しかし、それだけではない。第20回大会の基本評価を逆転させるにあたっては、宮本氏について、ここで他のいくつかの事実を明確にしておかなければならない。
2、宮本私的分派・側近グループの拡張と完成
宮本氏は、それまでに宮本秘書出身者を十数人も常任幹部会委員や中央役員に昇進させて、党本部内で有名な“宮本側近グループ”を作っていた。一種の“党中央内・党”という宮本私的分派を育成し、絶対的な党内実権を握っていたのである。赤旗記者をふくむ党本部専従800人、大衆団体グループ内で「ごますり」「茶坊主」といえば、そのリストが想い浮かぶほどの状況になっていた。これは、徳田球一が自ら作った最高指導者私的分派、家父長的個人中心指導と同質のものである。徳田体制、宮本体制の両者とも、その態様は、たんなる個人中心指導、個人独裁とは異なり、それと私的分派が結合したものである。
宮本私的分派・側近グループリスト
名前 |
出身 |
14回大会党内地位、1977 |
20回大会党内地位、1994 |
任務経歴 |
諏訪茂 |
宮本秘書 |
常任幹部会員 |
/ |
1972年、宮本捏造による民青新日和見主義分派査問委員、15回大会常任幹部会員。死去 |
宮本忠人 |
宮本秘書 |
常任幹部会員 |
常任幹部会員 |
書記局次長、機関紙局長。立花隆・袴田里見問題対策での「スパイ査問問題第1委員会」10人のトップ、反論大キャンペーンを組織・指導、兵本達吉もその委員メンバーだったと証言 |
小林栄三 |
宮本秘書 |
常任幹部会員(中央委員から2段階特進) |
常任幹部会員 |
文教部副部長、袴田政治的殺人「小林論文」執筆と粛清担当、教育局長、法規対策部長、思想建設局長、書記局員、山形県猪口県委員の粛清担当、『日本の暗黒』連載中断での下里正樹赤旗記者解雇・除名の粛清担当、2001年死去 |
小島優 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
書記局員、日常活動局長、統制委員会責任者、長期に赤旗編集局・拡大部門担当 |
白石芳郎 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
書記局員、選挙・自治体局長、文化・知識人委員会責任者 |
宇野三郎 |
宮本国会秘書(宮本参議院議員時期) |
中央委員 |
常任幹部会員 |
社会科学研究所長・党史資料室責任者、『党史』編纂責任者、宮本意向の理論化担当、党批判者・反党分子への反論部門担当、『民主文学4月号』問題での宮本意向を受けた民主文学同盟幹部粛清担当
|
金子逸 |
宮本秘書 |
/ |
常任幹部会員 |
宮本ボディガードで身辺防衛担当、書記局次長 |
佐々木陸海 |
宮本秘書、宮本議長室室長 |
/ |
常任幹部会員 |
国際委員会責任者、衆議院議員、書記局次長 |
上田均 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
財務・業務局長 |
有馬治雄 |
宮本秘書、宮本議長室室長 |
/ |
常任幹部会員 |
書記局次長、選対局次長 |
有働正治 |
宮本秘書 |
/ |
幹部会委員 |
選対局次長、『前衛』編集長、参議院議員 |
吉岡吉典 |
宮本秘書 |
准中央委員 |
幹部会委員 |
赤旗編集局長、政策委員長、参議院議員団長 |
1977年の第14回大会とは、袴田副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪をした大会である。宮本氏は、袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書の功績を高く評価し、常任幹部会員へと2段階特進させた。1994年の20回大会とは、宮本引退前の大会である。宮本秘書出身者のかなりを常任幹部会員に抜擢し、側近グループ・私的分派を土台とする宮本個人独裁は絶頂期に達し、完成していた。このメンバー以外にも、宮本側近グループと党本部内で言われている幹部が数人いる。いずれも宮本氏に大抜擢され、幹部会員、常任幹部会員となり、党中枢部門を担当し、宮本氏の周辺を固めていた。
これは、“前衛党最高指導者が自ら形成する私的分派”である。この現象は、宮本氏固有のものではない。14の一党独裁国前衛党でも、そのほとんどで、この性質の分派が形成されていた。徳田・野坂も、『党史』で認めているように、50年分裂当時、党勢力の約10%の宮本分派を排除して、90%からなる主流派分派を作り、地下へ潜った。90%を『分派』と呼ぶのは変だが、宮本式『党史』では、“勝てば官軍”で、『徳田・野坂分派』と規定している。その徳田書記長は、有名な『家父長的個人中心指導』という最高指導者私的分派を作っていた。
その体制の下で、第20回大会で上記4つの決定がなされた。これらの誤りには、私(不破)も委員長としての個人責任が当然ある。しかし、宮本氏とその側近グループの結束、威圧の前には、情けない話しだが、どうしようもなかったのである。今まで「宮本・不破体制」と言われてきた。しかし、その実態は、私の弁解の立場から言えば、「宮本と側近グループ“宮本秘書団”体制」であった。
1970年代半ばから1985年までの約10年間とは、どういう時期だったのか。国際・国内情勢、党内状況から検討する。その中で4つの連続粛清事件をどう位置づけるかであるが、概略的説明にとどめる。
国際共産主義運動 1973年以来、ユーロコミュニズムが台頭し、わが党もそれに急接近した。その中心のイタリア、フランス、スペイン共産党とは、それ以来、1976年にかけて、何度も会談したり、相互訪問し、意見交換をした。そして、1976年、第13回大会では、その影響もあって、「自由と民主主義の宣言」を決定した。1977年3月には、イタリア、フランス、スペイン3党書記長会談が行なわれ、その方向、傾向が明確になってきた。「ユーロ・ジャポネコミュニズム」とまで言われるほどに、その3党との一致点が増えた。こうして、宮本氏は、1976、77年には、わが党を『ユーロコミュニズム寄りに急旋回』させた。
ユーロコミュニズムはなぜ起ったのか。1970年代に入ると、ソ連・東欧型社会主義の停滞が明らかとなり、地続きのヨーロッパでは、生の情報がたえず流入し、それまでの多くの亡命者たちも含めて、その問題点・欠陥が国民的規模で認識されるようになった。スターリン問題研究が党内外で活発化し、深化した。それにつれて、従来のレーニン型暴力革命路線、反民主主義的・閉鎖的な組織原則・体質を発達した資本主義国前衛党が堅持することは、もはや不可能となり、時代錯誤とする党内認識も高まった。それだけでなく、現実にヨーロッパのすべての共産党で、党勢減退が激しくなり、選挙での後退・敗北が続いた。
そこで、まず1970年代初めから、ポルトガル共産党を筆頭として、(1)暴力革命路線放棄、(2)プロレタリア独裁理論放棄を全ヨーロッパ共産党が公然と宣言した。(3)その後、80年代にかけて、民主主義的中央集権制・分派禁止規定を『誤った組織原則だった』として、ポルトガル共産党以外の全ヨーロッパ共産党が放棄した。その方向は、スターリン批判を突き抜けて、明確なレーニン批判、レーニン路線・組織原則の否定と、党内民主主義の全面拡大を保障する規約改正へと進んでいったのである。その「断絶的刷新・転換」なしには、ヨーロッパ市民社会において、左翼政党として生き残れなかったからである。
国内政治 1975年、革新自治体が、160自治体、9都道府県に広がった。そこではすべて、各自治体首長選挙での社共政策協定が結ばれていた。1973年第12回大会の「民主連合政府綱領」が、“社共を中心とする革新自治体の中央政府包囲”の形で実現するかと思わせた。同年7月には、「共創協定」も結ばれた。「社共」と「共創」のブリッジ協定の確立である。しかし、1978年から79年にかけて、革新自治体は次々と敗退した。80年には、「社公合意」が結ばれた。わが党は、一転、社会党、公明党批判を強め、総評を“右転落”ときめつけ、対立を深めた。1980年以降、わが党は、一挙に孤立化した。1980、81年、核兵器ヨーロッパ配備等で国内外の反核平和運動が高揚し、統一行動が進展したヨーロッパとは、“逆情勢”となったのである。
党内状況 ユーロコミュニズム発展とその理論的影響を受けて、学者党員たちの間に、スターリン問題研究、ユーロコミュニズ研究の共同作業が活発になった。田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授、その他多くのマルクス主義者が、雑誌『現代と思想』等での共同研究に参加し、次々と個別論文、著書を発表した。水田洋名古屋大学教授も、マルクス主義批判をのべるようになった。党中央内でも、上田耕一郎同志が、先進国革命路線のあり方、新しい党組織論について、論文、著書を発表した。党中央機関内にも、多元的社会主義論、民主主義的中央集権制の見直し論などの影響が大きく現われてきた。それらの著書のいくつかは、当時、大月書店勤務の加藤哲郎が、編集・出版を担当していた。当時、出版労連の活動家党員たちは、学者党員たちと連携して、イタリアなどのスターリン批判著書の大量出版計画を立てて、精力的に取り組んでいた。
それらの本はかなり売れ、党内でもその論旨を支持する雰囲気が高まってきた。そこから、“上耕信仰”と呼ばれる傾向さえ生まれてきた。その内容は、上田耕一郎の理論展開を支持し、彼こそが、わが党をユーロコミュニズム型政党に発展させる次期リーダーと期待するものである。上記の学者党員たちと“上耕”とは、理論的、思想的にほとんど一致していると思われた。田口、藤井らは、その著書や「あとがき」に、上田論文を“わざわざ”引用していることからも、その一致と期待がうかがわれる。“上耕”人気が高まるのに反比例するように、宮本氏の理論的権威は低下していった。私(不破)も、それなりの論文など発表しているのに、「兄」のような人気は出なかった。なぜだかよくわからないが……。私は、1976年、「プロレタリアート独裁」を「プロレタリアートの執権」と解釈すべきとした、『科学的社会主義と執権問題』を発表した。私の人気が出るどころか、中野徹三などは、その論文にたいして、同年、その「執権規定」内容を真っ向から批判し、従来の「独裁」訳語が正しいとする、マルクス理論の分析に基く学術研究論文を公表した。
宮本氏は、それらの状況を、どう受け止め、どう対応したのか。
1976年、スペイン、フランス共産党、その他と会談した頃から、宮本氏は、ユーロコミュニズムが目指す方向に疑惑を抱くようになった。3党とも、ユーロコミュニズムの根幹理念の一つとして、スターリン批判、研究を各国の党内外で強化していた。その研究が進むにつれて、当然のことながら、レーニン主義全体にも疑問を深め、民主主義的中央集権制放棄を志向し始めていたのである。いったん、その研究を始めれば、レーニンとスターリンとは、どこが連続性を持ち、どこが非連続なのかの深淵テーマにはまり込まざるをえないからである。彼の疑惑は、その後、3党いずれもが、まずレーニン主義組織原則である民主主義的中央集権制と分派禁止規定を公然と放棄した事実からも証明された。
彼は、その進展方向に批判を持ち、1977年第14回大会前後から、一転して、イタリア共産党批判を、まず常幹内部で口にするようになった。そして、1982年7月、第16回大会で、明確に「イタリア共産党の清算主義批判」を打ち出した。私たち兄弟2人がその理論的影響を受けた、1950年代の「構造改革路線」とは若干異なるが、イタリア共産党が、マルクス・レーニン主義と断絶して、「強力な構造改革路線」政党に大転換することを、早くも“嗅ぎとった”のである。
宮本氏は、1930年代スターリン全盛時代に、検挙されるまで、コミンテルン日本支部中央委員を8カ月間だけ勤め、獄中12年間中も、レーニン・スターリン主義の絶対的信奉者だった。戦前のコミンテルン日本支部党員2300人中で、『真の「非転向」は、俺と春日(庄)ぐらい』と発言しているように、その信奉は強固だった。その彼にとって、スターリン批判だけでとどまるのならともかく、レーニン批判にまで深化し、さらに民主主義的中央集権制の放棄に行き着く研究方向などは、断じて許されないことだった。彼は、ユーロコミュニズムと波長を同じくして、当時波高くなってきた党内外でのスターリン批判の研究・出版活動を放置すれば、それは当然のようにレーニン批判に行き着くことを怖れた。
そこで、彼は、“自分と愛すべき「宮本秘書団」の党”・日本共産党をユーロコミュニズムの影響から絶縁させ、「日本共産党の逆旋回」を断行するために、全力を挙げた。彼が採った行動を、表・裏両面から見てみる。
表面では、(1)1977年第14回大会で、まず「民主集中制の規律の強調」をした。(2)1978年11月から1980年3月まで、多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行ない、その田口批判「前衛」論文の執筆を2回、私(不破)に指令した。(3)1979年2月、6中総で、田口理論批判の強化を指令し、「分散主義との闘争」を全党に呼び掛けた。(4)1980年2月第15回大会で、「田口・藤井理論に象徴される自由主義、分散主義との闘争と全党的克服」を決定した。(5)1980年11月、宮本『文芸評論集第一巻』の長大な「あとがき」で、戦前の自己のプロレタリア文学運動とその理論を、蔵原惟人批判、鹿地亘批判を含めつつ、全面正当化した。それによって、「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。(6)その流れの中で、1982年、私たち2人を査問し、その“一冊の本”を、イタリア共産党の「構造改革理論」の影響を受けた内容を一部持つときめつけた。そして、『お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した』と断定した。
裏面では、陰湿な排除・報復活動を必ず伴っている。以下の4連続粛清事件である。
〔小目次〕
第1、ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件
通称『ネオ・マル粛清』とその一つ『上田・不破査問事件』
1、『田口・不破論争』1978年〜『高橋彦博除籍』1994年
2、私(不破)にたいする2つの査問 1982年
第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年
第3、平和委員会・原水協一大粛清事件 1984年 古在由重氏も粛清
第4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年
志位委員長の『汚れた手』出自 「党中央青年学生対策委員」当時
第1、ユーロコミュニズム、スターリン問題の研究・出版活動粛清事件
通称『ネオ・マル粛清』とその一つ『上田・不破査問事件』1982年
〔小目次〕
1、『田口・不破論争』1978年〜『高橋彦博除籍』1994年
1、『田口・不破論争』1978年〜『高橋彦博除籍』1994年
『ネオ・マル粛清』とは、ネオ・マルクス主義の学者党員の研究・出版活動、出版社党員にたいする一連の粛清事件の総称である。ただし、個々のケースは、かなり違いがあり、そのため、従来はばらばらに捉えられ、統一された粛清方針に基づく事件として見られなかった。ましてや、私(不破)たち兄弟にたいする『上田・不破査問、自己批判書公表事件』は、別問題として切り離され、党史の闇に葬り去られてきた。この〔秘密報告〕は、宮本氏とその私的分派による屈辱的査問の真相を明らかにするということも、動機の一つである。
その“宮本式逆旋回”を成功させる上で、当面する最大の邪魔者たちは、“党内に巣食い、ユーロ・ジャポネコミュニズム方向を紹介、宣伝、扇動する「ネオ・マルクス主義者」たち”だった。その逆旋回に抵抗するであろう邪魔者には、3つがあった。1)ネオ・マルクス主義学者党員では、田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授らが、雑誌『現代と思想』・連続シンポジウム「スターリン主義の検討」で精力的にスターリン批判を展開し、それぞれ単行本も出版していた。2)共産党系出版社内党員では、大月書店の加藤哲郎らが、田口著『先進国革命と多元的社会主義』の編集・出版を直接担当するだけでなく、青木書店とも連携して、イタリアのスターリン批判研究文献多数の翻訳・出版も企画していた。3)“上耕”も、田口、藤井が引用した論文を発表していた。彼の当時の論文、発言、行動は、党中央最高幹部内では、ユーロコミュニズム理論、方向にもっとも接近し、それを公然と目指していた。
(1)田口富久治は、1976年7月、「朝日夕刊」のデュヴェルジェ理論紹介記事『さまざまな「傾向」が党内部で共存する権利』を発表した。それにたいして、党中央は、彼を個別党内批判・詰問をした。1977年、彼は、雑誌論文『先進国革命と前衛党組織論』を掲載した。党中央は、その内容にたいする「関原利一郎」名の批判論文を発表した。「関原利一郎」とは、榊利夫、上田耕一郎ら4人共同執筆のペンネームである。彼が、2度の批判にも屈しないので、1978年、『田口・不破論争』を公然と開始した。このとき、田口教授の下に、大月書店を退社した加藤哲郎が、法学部助手として、後房雄が院生としていた。この2人とも後に、「ネオ・マル粛清」の対象として批判した。1978年、『前衛』での「田口批判」開始と同時に、愛知県青年学生グループ会議を緊急招集して、彼を学生自治会、民青の講演会講師にいっさい呼ばないように厳重指令した。彼の理論的影響を、青年学生運動から徹底的に排除する手を打った。
(2)藤井一行には、1976年、論文『民主主義的中央集権制と思想の自由』にたいして、榊が1980年1月に批判論文を発表した。1978年、著書『民主集中制と党内民主主義』にたいして、宮本氏は、私(不破)に指令して、1978年11月、党中央理論部門研究会で藤井批判を行なわせた。
(3)中野徹三は、1980年、『田口・不破論争』参加の論文を発表し、また、不破論文批判の学術研究論文『マルクス、エンゲルスにおけるプロレタリアートのディクタトゥーラ概念』を発表した。プロレタリアート執権問題での不破批判学術論文発表の件で、その行為は“党内問題を党外にもちだした”規律違反だとねつ造し、1980年5月に査問した。学術論文発表を規律違反と見なす党中央と北海道委員会による査問にたいして、彼と大学職員支部の抵抗が激しく、すぐ処分できなかった。その後、“幸いにも”「別件問題」が現われ、それを“口実”として除名した。
(4)水田洋のマルクス主義批判には、「赤旗評論特集版」で、水田理論を“奇妙な異論”として全面否定した。
(5)加藤哲郎らのスターリン問題等の何冊もの出版計画は、大月書店、その他書店に圧力をかけ、途絶させた。加藤哲郎は、そこで大月書店をやめて、田口富久治の勧めで名古屋大学法学部の助手になった。
宮本氏は、その後も、ネオ・マルクス主義者らの研究・出版活動にたいする粛清を継続した。
(6)『日本共産党への手紙』が教育史料出版会から、1990年6月出版され、大きな反響を呼んだ。そこでの加藤哲郎論文『科学的真理の審問官ではなく、社会的弱者の護民官に』と藤井一行論文に、宮本氏は激怒して、大掛かりな“報復”をした。その編集をした有田芳生を査問し、除籍した。党員である、その出版社社長を査問し、党員権6カ月間停止処分にした。
(7)高橋彦博が、『左翼知識人の理論責任』を出版した。それにたいして、『その内容には、党への誹謗中傷が数箇所ある』といいがかりをつけて、規律違反とでっち上げ、1994年5月、査問し、除籍した。
(8)他のネオ・マルクス主義学者らの研究・出版活動に圧力をかけ、または除籍した。党中央・県役員2人が、自宅に乗り込んで、その学者党員の異論を『党中央決定違反の論旨』と詰問し、それに屈服しなければ、公然と批判すると脅かした。その結果として、“自発的に離党する”よう追い込んだ。学者党員たちは、これらを『ネオ・マル粛清』と呼んでいるが、政治学、社会思想史分野でそれを知らぬ党員はいないほどである。その宮本式脅迫に遭って、かなりの学者党員は、あまり抵抗せずに、“党中央の思惑どおり”異論発表を止めるか、あるいは黙って離党した。高橋彦博のように、自分の除籍経緯を公表するなどは、異例である。
こうして、この表裏両面からの、日本におけるユーロコミュニズム研究、スターリン問題研究、社会労働運動史見直し研究活動の抑圧が強行され、宮本氏と側近グループは、それらに関する学者党員らの研究・出版活動の全面鎮圧に成功した。そのため、日本のスターリン問題研究レベル、スターリンの粛清事実の国民認識度は、ヨーロッパの発達した資本主義国に比べて、飛びぬけた、“誇りうる低さ”になっている。
“幸いにも”、排除・報復をした数十人以外の学者党員、出版関係党員は、党中央の鎮圧行動にたいして、まるで反対意見を出さず、沈黙していた。中野徹三一人だけが、田口・不破論争は「前衛」誌上公表で行なわれている以上、それは“公開論争”であり、学者党員であろうとも、それに自由に参加できるとして、論争参加の論文を発表した。宮本氏は、それは“党内討論”であるとこじつけた。そして『党外での論文公表は規律違反』といいがかりをつけて、それも査問項目の一つとした。ルイ・アルチュセールが書いているように、フランス共産党中央の誤りにたいして、千数百人もの学者・知識人党員が、党中央の報復を覚悟で公然と抗議の声を挙げる状況が、この当時、わが党内で起きていれば、宮本氏の意図は挫折していたであろう。数万人の学者・文化人・知識人党員は、この問題に無関心だったのか、それとも、党中央の報復を怖れて“日和見を決め込んだ”。私たち兄弟の、査問による自己批判書にたいして、党外からの敏感な、過剰なほどの反応に比べて、『その内容、発表ともおかしい』とする意見書は、学者・知識人党員から一通も上がってこなかった。水田洋が言うように、わが党には、学者・知識人党員たちを『思考停止人間』にした“戦後責任”があるのかもしれない。
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2、私(不破)にたいする2つの査問−1951年と1982年
一連の党大会決定、方針にたいして、私が抵抗できなかったもう一つの要因が存在した。第20回大会評価だけでなく、今後、路線、規約の大転換をする上では、委員長でありながら、議長と側近グループに抵抗できなかった別の理由も、この際、明らかにしておく責任がある。自己弁明になるが、常幹メンバーならよく知っている2つの査問体験を、私なりの視点からのべる。経過が複雑なので、かなり長くなる。
第一、スパイ容疑・2カ月間監禁・リンチ査問事件 1951年2月
当時、私(不破)は、国際派の東大細胞に所属していた。早稲田大学細胞が捕まえたスパイが、東大にいるスパイ3名を自白したというのが発端だった。その名前は、キャップ戸塚、LC不破、都学連委員長高沢だった。東大細胞は、私たち3人を2カ月間監禁査問し、スパイの自白をせよと、殴る・けるのリンチ査問を行った。
突如武井の手が不破の顔面に飛び、なぐり飛ばされた不破の眼鏡がコンクリートの床の上で音を立てて滑った。「貴様!」武井は殴打しながら不破をなじった。戸塚と不破の顔が変形してきたが手はゆるめられるどころかはげしくなった。不破の兄、上田耕一郎が急に連絡がなくなってしまった弟の消息を尋ねて細胞の部屋に来た。もちろん誰もことの次第を彼に話すはずもない。査問はもはやリンチと呼ぶ他はない様相を呈してきた。「未だ吐かない」「しぶとい奴だ」いら立てばいら立つほど交替で追及する者のリンチは強くなっていった。私もついに戸塚に数発手を下した。「手を下す」などといった生易しいものではなかった、と、安東仁兵衛が『戦後日本共産党私記』(文春文庫、1995年)の「第七章」でその経過と結末を詳述した。
安東仁兵衛は査問委員として「殴る側」であった。「殴られた側」の私からみれば、そのリンチはそこに書かれている以上にもっと凄惨なものであった。そのリンチ程度のひどさ、階級敵にたいするような拷問査問の激しさは、キャップ戸塚がリンチにより気絶したり、その後自殺を図ったことからもうかがえる。しかし、ここでは、その査問内容、やり方をのべるのが目的ではない。
1951年2月は党分裂時期だった。国際派トップの宮本氏は、その指導下にある東大細胞から報告を受けて、監禁リンチ査問を知りつつ、一度も止めようとしなかった。なぜなら、国際派・統一会議ビューローの一人が、査問開始後に指導に来て、『スパイは徹底的にやっつけろ』とアドバイスしていったこと、宮本氏は戸塚自殺未遂後、戸塚「手記」を読んだ事実があることからも、彼は最初からこの監禁査問を知っていたことが明らかだからである。しかし、宮本氏は、私たちへのリンチ査問を止める指示を出すことができる立場にありながら、それを2カ月間放置した。
1982年の査問は、この1951年の査問と並んで、私の生涯でのもっとも屈辱的な体験である。しかも、そのいずれもが、まったく不当な、誤った査問だった。そのいずれにも宮本氏がからんでいた。
第二、『戦後革命論争史』出版行為・執筆内容査問事件 1982年
宮本氏と側近グループは、1982年、上田同志と私(不破)が26年前に出した『戦後革命論争史』(大月書店、上1956年、下1957年発行)の出版行為と執筆内容のいずれもが重大な誤りであるときめつけた。その問題で、彼らは、私たち兄弟2人を査問し、自己批判を強要し、打撃的批判を加えた。その本は、宮本氏の指令で、すでに18年前の1964年に絶版にされていたにもかかわらず、である。査問委員会の責任者は側近グループの一人だったが、その事実上の査問委員長は宮本氏だった。
2人への査問では、宮本氏は、著書執筆のための事前集団討議、出版行為が『自由主義、分散主義、分派主義』であると断定した。一体どこに『分派主義』、分派活動があったというのか。彼らは、私たちの『分派主義』への反省が足りないとして、査問中に打撃的批判を加え、何回も自己批判書の書き直しを命じた。結局、私は『自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した』ことを6回、上田同志は5回、共著者2人で計11回も書き入れさせられた。これは、『日本共産党の六十年』出版過程の党史認識・思想統制の一部として行われた。そして、宮本氏と常任幹部会は、1982年12月に、その自己批判書をようやく承認した。
常幹内部だけの査問と承認だけでなく、それから9カ月も経ってから、宮本氏は『前衛、1983年8月号』にそれを掲載するよう指令した。自己批判書の題名は、『民主集中制の原則問題をめぐって―党史の教訓と私の反省―不破哲三』(「前衛」6ページ分)、『「戦後革命論争史」についての反省−「六十年史」に照らして−上田耕一郎』(「前衛」6ページ分)とされた。
常幹内部だけにとどめずに、18年前に絶版になっている、26年前の出版行為を重大な誤りとして、党内外に“派手派手と”公表する、どんな必要があったのか。この本は、当時ある程度有名となり、売れもしたが、常識的にみて、絶版になっている本の政治的理論的影響力など残っている筈もない。『26年前の本だが、反共攻撃に利用される』との批判もされたが、それはこじつけにすぎない。したがって、それは常幹内の承認だけですむものであった。
そして、26年前の『分派主義』の誤りに関する自己批判書『前衛』公表という“異様さ”にたいして、党外からさまざまな疑惑、推測が出された。それらにたいして、宮本氏は、長大な「赤旗主張」(1983.9.25)を載せ、その疑問を『日本共産党への「新手」の中傷・かく乱』ときめつけ反論した。
この査問の不当性、誤りを証明する上で、『戦後革命論争史』出版経緯を明らかにしておく必要がある。1955年、「戦後の戦略思想」を集団で研究しようという話が出て、その研究討論会が3カ月間行われ、その内容を大月書店から出版することも決まった。メンバーは、50年分裂段階の宮本・国際派学生対策委員5人と学生側委員上田同志だった。上田同志は、討論の筆記役にすぎず、単行本執筆予定は討論側の一人だった。その予定者内野壮児が遅筆のため、上田同志が急遽、執筆することになった。その時、上田同志が申し出て、「弟」も一部を分担執筆することになった。上田同志は、当時28歳で市民運動の「新聞」編集者、私は鉄鋼労連書記で、2人とも党幹部でなく、まったく無名だった。
私は、その研究討論会には一度も参加していない。その私の一部分担執筆が、どうして『分派主義』になるのか。上田同志が筆記したメモ・ノートに基いて、2人で討論しながら書いたことが、『2人分派』になるとでもいうのか。また、共産党系の大月書店から刊行予定の、そのテーマでの本出版目的討論会のどこが分派活動なのか。5人の中に石堂清倫がいたから、『分派主義』に“汚染”されたとでもいうのか。たしかに、宮本氏は、石堂氏を、いくつかの理由をつけて、毛嫌いしていた。しかし、石堂氏は、その時点でなんの処分も受けておらず、立派な現役党員だった。そこでの私の行為には、なんの分派活動も『分派主義』もない。1955年当時の2人の行動には、1955年7月「六全協」前後の状況で、他の全党員と同じ程度には若干の規律上の問題点はあったとしても、基本的な規律違反などなかった。また、著書内容でも、一部問題点は当然あるが、基本的には正しかった。
そもそも執筆をしていた1955年とは、どういう時期だったのか。
1950年以来、5年間以上にわたり党分裂が続いていた。1955年7月の「六全協」では、“一定の統一を回復”したが、党指導部構成、準備過程、規約上で重大な欠陥を持っていた。徳田は中国で死亡していたが、その分派指導者の野坂らが準備の中心であり、統一原案はソ連側原案を基本にして作られた。武装闘争路線の事実上の指針となっていた『51年綱領』は正しいとされた。
最高時2000人いた「北京機関」はいまだ解体されず、その最終的解体は1957年3月まで引き延ばされた。その2000人は、中国共産党手配の「人民艦隊」で常時出入国し、『鉄砲から権力が生まれる』式毛沢東路線で教育され、武装闘争軍事訓練を受けていた強力な職業革命家軍団であり、日本における「火焔ビン闘争」「警察署襲撃闘争」を指導する非合法軍事委員会『Y』の経験者であった。徳田・野坂らは、1950年朝鮮戦争における国連軍後方補給基地日本での後方かく乱武装闘争を指令したスターリン、毛沢東に盲従した分派である。しかし、それは90%の勢力を擁し、「人民艦隊」で人員、資金、武器密輸をひんぱんに行い、非合法地下活動をしていた。その費用は、ほぼ100%中国共産党、一部をソ連共産党が提供した。
「六全協」とその後の経過は、はっきりいって、その武装闘争路線を中国、ソ連資金に100%おんぶして行ってきた90%主流派分派を、合法活動路線の宮本・国際派10%分派が、武装闘争総括をあいまいにしたままで、かつ、「北京機関」を解体しないままで、“吸収合併”しようとしたことなのである。それらを10%分派が“併合”し、党内指導権を握ろうとし、さらに、1956年9月「六全協八中総」で第7回大会開催を決定し、そこで新しい綱領、規約を決めようとする以上、10%と90%との激烈な指導権争いが繰り広げられていた。10%分派の国際派は、分裂時期は「統一会議」という分裂党機関をつくっていた。しかし、綱領論争が激化する中で、10%分派の国際派は、「統一会議・宮本系」と、「統一会議・春日(庄)系」に事実上再分裂したのである。実態としての“統一を一定回復した状況における新たな分派抗争”が激しく再燃してきたのが、1955、56年時点の党の実態であった。
そこでの10%分派中心指導者である宮本氏が、綱領理論問題での公的機関討議だけでなく、その裏面で、多数派になるための、さまざまなレベルにおける分派工作を一番率先して行っていたことは、当時の幹部なら誰でも知っていることである。彼は、「1961年綱領」にある二段階革命路線を制定する上での理論活動の中心であった。同時に、その路線支持に多数を集めるための宮本氏の分派活動のすさまじさは、まさに特筆すべきものがあった。彼は、まさに分派活動の天才でもあった。
徳田・野坂90%主流派分派の切り崩し、宮本分派への加入工作、説得などの裏工作=分派活動なしには、また「六全協」後、別の路線分派として誕生してきた「反独占社会主義革命路線」分派、「構造改革路線」分派との組織闘争なしには、「61年綱領」採択にまではとうてい行き着けなかったのである。そのやり方は、説得、理論論争だけでなく、違う路線分派幹部の排除、言論抑圧、除名などのクーデター的手腕を伴って行われた。その組織抗争の激しさは、1958年7月の第7回大会でも、規約は決まったが、綱領を決めることができなかったことからも証明されている。
1955年7月「六全協」から1961年第8回大会までには、党内に4つの分派が実質的に存在し、綱領路線論争と組織抗争の表裏両面での闘争を繰り広げていた。(1)「北京機関」2000人の職業革命家軍団を中心とする武装闘争路線の、90%主流派残存分派、(2)統一会議・春日庄次郎系の「反独占社会主義革命路線」分派、(3)イタリア共産党の理論的影響を受けた「構造改革路線」分派、(4)10%の統一会議・宮本顕治系「二段階革命路線」分派である。そして、「六全協」で武装闘争路線が明白に否定されたからには、(1)90%主流派残存分派を“草刈り場”として、(2)(3)(4)のいずれの分派がどれだけ多くの“支持票”を獲得するかが、その後の路線論争、分派抗争の勝敗を決したのである。
この期間は、『統一を回復』して『61年・二段階革命路線綱領』を“全員一致”で採択した、という表向きのきれいごとだけではない。裏側から見れば、それは、他の3分派を徹底して切り崩し、宮本派への“転向”を説得し、あくまで反対する者・分派は排除する“宮本分派・党内クーデターの勝利”ともいえるのである。彼は、『相手の方が悪い、規律違反を犯した』とする口実をねつ造しつつ行う反対分派排除活動の天才でもあった。
宮本氏は、綱領路線論争討議が公正、民主的に行われた証拠として、1961年3月の6中総一回だけで、春日(庄)に47回、内藤知周に68回の発言を保障したと『党史』、その他で何回となく主張している。その公的会議一回での討論回数は事実である。しかし、その裏側での分派工作にこそ、14カ国前衛党トップと同じく、宮本氏の真髄が発揮されていた。
1961年7月25日からの第8回大会直前の、22日に『21人の党員文学者連名』による“宮本氏の党内民主主義抑圧工作を告発した声明”が公表された。その内容と公表行為は、裏側での、宮本氏と宮本分派による陰湿な反対派排除工作、言論抑圧のクーデター手法の“えげつなさ”を証明している。3日前時点には、すでに各都道府県選出の党大会代議員リストが党中央に提出されていた。宮本氏は、党大会代議員の『二段階革命路線綱領』全員一致採択=宮本分派クーデターの完全勝利を、そのリストによって事前計算できていた。宮本氏は、彼ら全員を『反党声明』分派活動グループときめつけ、その『声明』内容を問答無用と排斥した。そして、瞬時に彼ら21人を査問、除名、権利制限をした。武井昭夫、大西巨人、針生一郎、安部公房、野間宏らの除名である。
余談になるが、武井昭夫は、下記の1951年2月、国際派・東大細胞による戸塚、不破、高沢へのスパイ容疑・2カ月間監禁・リンチ査問事件において、私にスパイの自白をせよと査問し、私の眼鏡が吹っ飛ぶほど、何回も、力まかせにぶん殴り、査問委員の中で、戸塚や私にもっともひどいリンチを加えた張本人であった。
この「六全協」前後における、党幹部でもない、無名の私たち2人の“一冊の本”執筆、出版行為を『分派主義』ときめつけるのであれば、宮本氏は、もっと何倍もの、明白な『分派活動』を強力に展開していたのであり、宮本氏自身が自己批判書を書くべきであろう。
それでは、なぜ、宮本氏は、自分が行ってきた、反対3分派クーデター的排除のための分派活動を自己批判せずに、当時無名の私たち2人を査問し、26年前の「誤り」を認めさせ、党内外にわざわざその「誤り」を公表させたのか。
彼は、年をとるにつれて、自分に100%服従しない、その具体的言動で忠誠心を表わさない幹部への猜疑心(さいぎしん)をつのらせた。彼は、絶対忠誠を誓い、その党派性(=自分への盲従性)の高い宮本秘書出身者しか信用しないようになった。なぜなら、他の最高幹部の多くは、分裂時期の徳田・野坂90%分派から、『二段階革命路線綱領』勝利者への“風見鶏的な転向者”であり、心底からは信用できなかったからである。彼は、自分への無条件忠誠者と、下心や異論を秘めた者、面従腹背者を“嗅ぎ分ける点”では、異様なまでに発達した嗅覚の保持者だった。彼は、党本部内で「ごますり」「茶坊主」と呼ばれる秘書出身者たちを“愛し、重用し”、側近グループとして、党中央役員につぎつぎと大抜擢した。彼と秘書出身者を基本とする側近グループは、次第にグループ活動、分派活動を強化し、公然と立ち振る舞うようになった。1994年第20回大会では、その中核メンバーは十数人にもなり、常任幹部会員のかなりを占めた。その結果が、上記党大会での4つの誤りになったのである。
たしかに彼は、私たち2人を、宮本秘書出身者でないのに、大抜擢した。その点では感謝している。綱領確定までの優れた理論活動、党勢拡大での強力な指導力発揮は尊敬している。しかし、彼は、自分の老齢化後、私たち2人が党内実権を奪って、反宮本路線を取るのではないか、多数の幹部を粛清しつつ築いてきた“自分の党”を『戦後革命論争史』にその影響が一部あるような構造改革路線、改良路線に転換させるのではないかと怖れた。
そこで、2人に自己批判させるだけでなく、『前衛』公表によって、全党に不破・上田は、実は、26年前に『分派主義』という共産党員としてもっとも恥ずべき“反党行為”の汚点経歴を持った幹部であるとして、2人を『心から信用してはいけない要注意人物』と見なすレッテルを貼ったのである。常任幹部会内部での2人の抵抗力を奪うだけでなく、全党にそのチェックを呼び掛けたのである。
しかし、この査問が、なぜ1982年だったのかという別の疑問が残る。
1982年12月9日に『日本共産党の六十年』が発行された。査問と「前衛」公表の表向きの理由は、その党史認識に合わせて、『不破、上田両氏は、この「六十年」を指針として、二十六年前の著作ではあるが、「戦後革命論争史」にみずから点検をくわえ、その「出版でどういう性格と内容の誤りをおかしたのか」を深く自己分析しています』(赤旗「主張」1983.9.25)とするものだった。しかし、それは、この査問事件が、宮本氏が企んだ日本共産党の逆旋回の一環である『ネオ・マル粛清』の一つとして位置づけることで、初めて疑問が解けるのである。
1982年の、2人への査問と『自由主義、分散主義、分派主義の誤り』断定は、これら大規模な『逆旋回』作戦の一環として、宮本私的分派が行なったものである。田口富久治、藤井一行を『自由主義、分散主義』ときめつけて、その批判論文を書いた私(不破)が、逆に同じレッテルを貼られるとは、いったいどういう不条理なのか。
宮本氏は、いったんは、『ユーロコミュニズム寄りに急旋回』した。しかし、“自分と「宮本秘書団」の党”を、急きょ、『逆旋回』させるには、上記の表向き作戦だけでは、不十分と考えた。また、自分の権威を脅かす危険が高まってきた“上耕人気”に鉄槌を下す必要があった。宮本氏たちは、『逆旋回のための自由主義、分散主義との闘争』の象徴的批判対象として、スターリンによるモスクワ「見世物」裁判のように、26年前に同じ誤りを犯したとする件で、2人を査問し、「自己批判書」を公表させ、「見世物」にしたのである。
それは、日本におけるスターリン批判研究・出版を途絶させ、ユーロコミュニズムと訣別する上で、かつ、『急接近と逆旋回』の自己責任を回避、隠蔽して、2人にその責任転化をする上で、もっとも劇的効果のある「儀式」であった。宮本氏は、実に偉大で、典型的な「前衛党指導者」であった。
これらがこの査問事件の真相である。それ以降、2人は、委員長、副委員長でありながら、まことに申し訳ないことであるが、宮本氏と彼に盲従し、強化されていく側近グループに抵抗できなくなった。『それは卑怯な言い訳にすぎない』と党内からは信じてもらえないだろうが・・・・・・。
なぜ、今、これら2つの査問事件をながながと報告するのか。それは、このような不当な査問をする党体質と断絶し、抜本的刷新をする必要があると考えるからである。民主主義的中央集権制は、たしかに党の統一と団結を守る上で大きな役割を果たしてきた。しかし、それは一方で、何百何千にもおよぶ査問事件、多くの幹部の排除・除名を含め、党内民主主義を抑圧してきた。『民主主義的中央集権制』とは、暴力革命路線のための『中央集権制軍事規律』『鉄の規律』としてレーニンが“創作”したものである。それは、ロシア・ナロードニキの『裏切者死刑・上級への絶対服従中央集権制』を基本としつつ、その上に「党内選挙制、報告制」などの『民主主義的』要素を“付加”して、『民主主義的』・『中央集権制』と名付けたものである。
この軍事規律は、帝政ロシアにおける武装蜂起路線政党の規律、内戦をたたかう赤軍内規律としては、適合性を持っていた。しかし、それをヨーロッパ、日本などの発達した資本主義国における革命政党にも適合する“普遍的な組織原理”にまで拡張し、『暴力革命』手法、『プロレタリアート独裁』理論と並んで、『それを採用するかどうかが前衛党の試金石』『コミンテルン加入規約』の一つとしたのは、レーニンの重大な誤りであった。この反民主主義的党体質の誤り、欠陥は、社会主義10カ国のいっせい崩壊によって証明された。
この暴力革命軍事規律としての『民主主義的』・『中央集権制』を『民主集中制』と略語化し、その略語によって『民主と集中の統一』という解釈にすりかえる欺瞞手法は、もうここらで止めなければならない。
この崩壊事実を直視して、反民主主義的規約と断絶すべき時が来た。イタリア、フランス、スペイン、イギリス共産党などはすでに放棄している。現在の日本では、党規約には『党内民主主義の全面的保障』だけで十分である。そもそも、日本語の『民主主義』には、『集中』の要素が当然含まれているからである。
以上の考えは、2回の屈辱的査問を受けた私の個人的体験からも言えることである。
宮本氏と側近グループは、学者らの研究活動、加藤哲郎らの出版活動への抑圧、排除だけでなく、大衆運動、その他の分野にまで、排除対象を拡張した。そこでのユーロ・ジャポネコミュニズムの思想的影響を断ち切り、共産党傘下の大衆組織を“宮本氏と「宮本秘書団」党”の指令に無条件に従う、“従順な大衆組織”に変質させようとした。それは、以下の『民主文学4月号』問題、平和委員会・原水協問題、東大院生支部『宮本勇退決議案』問題である。
(宮地・注)
1)『戦後革命論争史』出版経緯については、石堂清倫氏『手紙3通と書評』が明らかにしている。
2)増山太助著『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社)に、宮本氏の分派活動の証言がある。
『五〇年一月、党中央は「コミンフォルム論評」を受けて分裂状態におちいり、六月にはマッカーサーの公職追放令で中央委員全員が追放されると臨時中央指導部が設置されることになり、多田もメンバーのひとりに選ばれた。しかし、彼は志賀義雄、宮本顕治を支持して「国際派」を表明し、たちまち除名処分に付され、六全協まで分派活動に余念がなかった。六全協後、久し振りに会った多田は相変わらず大声を発して「宮本さんと志田君が組めば鬼に金棒や」とはしゃいでいたが、志田重男が失踪するとこんどは「宮本を中心に党をつくり直すのだ」とひとりで張り切っていた。
そして、多田は原田長司を誘って私を呼び出し「ぜひ宮本部屋に入ってくれ」と口説くので、私が「相撲部屋みたいなものをつくる気か」と言うと、二人は「宮本を取りまく組織が必要なのだ。宮顕は監視していないと何をしでかすかわからない」と、亀山幸三と同じようなことを言っていた。七回大会が近づくと、私は本部細胞のキャップに選ばれ、大会の代議員選挙に専念しなければならなくなった。』(P.192)
3)スパイ容疑・2カ月間監禁・リンチ査問事件の詳細は、安東仁兵衛著『戦後・日本共産党私記』第七章(文春文庫)が書いた。リンチ査問のごく一部の引用は、『袴田政治的殺人事件』2章後半にあります。
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第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件 1983年
〔小目次〕
2、文学同盟側の反論
5、『葦牙』側の反論
1983年4月初め、党中央は、『民主文学』4月号の『赤旗』広告掲載を、発売とともに拒否した。広告の拒否は『民主文学』にたいする党中央のきびしい批判だった。当初、広告部の責任者には、載せない理由は言えない、とつっぱねさせた。その号には、小田実寄稿文が載り、「野間宏を団長として、中国訪問した」記述が“5行”あった。編集後記には、中野健二編集長の寄稿謝辞が“一言”あった。
4月、党中央は、文学同盟常任幹事の党グループ会議を招集した。その会議へはいつものグループ会議とちがって、党中央の文化関係幹部5人を派遣した。中心は、教育・イデオロギー担当の書記局次長宇野三郎(常任幹部会員)とした。そのほかは、知識人委員会の責任者小林栄三(常任幹部会員)、文化局長兼文化部長で文学同盟の幹事でもある西沢舜一(幹部会員)、新日本出版社の幹部で文学同盟の常任幹事である津田孝(幹部会員)、文化部員の高橋芳男である。そして、4月号の問題だけでなく、最近の文学同盟の活動全般にわたって党中央が批判を行なった。宇野は、約一時間半にわたって、用意してきた原稿を読みあげた。それには三つの問題があったが、要約は以下である。
1)「4月号」問題 中国共産党はわが党への乱暴な干渉をいまなお謝ろうとしないばかりか、依然として反党分子との交渉をつづけて反省の色がない。日中文化交流協会常任理事である野間宏らの訪中もそのひとつである。したがって野間訪中の事実を記述した小田実論文をのせ、しかも貴重な原稿をいただいて感謝するという中野健二編集長の編集後記を載せるような雑誌の広告を『赤旗』に掲載できない。また、日本の革新運動の一翼をにない、中共の無礼な干渉をうけた民主主義文学同盟(注、寄贈していた『民主文学』が送り返されてきた)の立場からも、このような記述をのせることは、運動の基本方針と伝統から逸脱した軽挙であり、思想の風化がみられる。とうぜん編集長の責任が問われなければならない。
2)文学者の反核声明 1982年1月20日、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が発表され、マスコミでも大きな反響をよんだ。この声明は34名の「お願い人」が文学者たちに署名をおねがいして、約500人の賛同をえたものであったが、文学同盟では中里喜昭が「お願い人」の一人になっていた。ところが、「お願い人」のなかに「反党分子」が一人入っていた。反核運動は重要だから、党員文学者がそれに署名するのはいい。しかし、あの声明の呼びかけ人には反党分子がはいっていること、また「すべての政党・団体・組織から独立した文学者個人」の署名を呼びかけていることには、党員としてはちゃんと批判すべきである。長崎の中里には、党中央文化部長から「お願い人」などになった責任を追及するきびしい電話をした。理由はいうまでもなく、「お願い人」のなかに反党分子が一人入っているということであった。
3)民主主義文学同盟第10回大会への幹事会報告草案 (1)、中国の大国主義的な干渉が、日本の民主運動・民主文学運動に障害をもたらしている事実に言及すべきである。(2)、革新統一運動の一翼としての文学運動であることの認識が弱い。(3)、現代の危機を悲観的にとらえ、危機とたたかっている革新勢力についての記述がよわい。環境破壊や科学技術についても、文明の終末論的にとらえられていて、独占資本の経済的ゆきずまりや、科学技術を民主的にコントロールできなくなっている事実にはふれていない。(4)、戦後民主主義のブルジョア的限界にふれず、民主主義を絶対的に擁護すべきものとしてとらえている。(5)、個の確立が抽象的に強調されすぎている。(6)、『民主文学』の作品はみな褒めてあって、問題点の指摘がなく、めでたしめでたしになっている。(7)、全体として近代主義的で、思想のノンポリ化がめだつ。
文学同盟の幹事会で決定してプリントまでされた大会報告草案に、党中央が全面的に批判を加えることは、これまでないことだった。しかも、文学・イデオロギー関係の幹部5人が勢揃いして、ながながと批判した。宮本顕治氏と党中央は、「4月号」問題を機に、民主主義文学同盟の徹底的な思想改造を意図したのであった。これらの党中央見解原稿は、事前に宮本氏の見解に基き、宮本氏と5人が綿密に打ち合わせし、作成したものであった。宇野(元宮本秘書)は、それを一字一句間違えないよう、ぼう読みするかたちで開陳した。
この党中央見解には、小田実と「日本はこれでいいのか!市民連合」(以下「日市連」と略)の問題、宮本氏の1981年1月1日の『赤旗』の新春インタービューでの「市民運動がほんとうに発展するためには、反共主義的偏見は捨てなければならない」発言、上田副委員長と宮本委員長とのあいだに、「日市連」評価のくいちがい問題などが関連しているが、それは省略する。この2人の意見の違いは、後にのべる『平和委員会・原水協問題』とも関連している。
2、文学同盟側の反論
民主主義文学同盟にたいするこうした全面的な党の批判は、前代未聞だったので、みな驚き、反発して、反論が続出した。そのため、4月号問題だけでも論議をつくすことができず、討議は翌日にもちこした。
議題1)「4月号」問題について、翌日のグループ会議における、党側出席者は昨日と同じであった。宇野書記局次長はまず、昨日論議が集中した「4月号」問題について、党側見解をくりかえした。それにたいして文学同盟は、多くの人が前日にひきつづいてほぼ次のように反論した。
問題になっている小田実の文章は、「昨年くれの中国訪問で、私は何人かの中国の作家とあった。野間宏さんを『団長』としてかっての『使者』の同人仲間と一種の『作家代表団』をかたちづくって行ったので(野間さんと私の他に行ったのは、井上光晴、篠田浩一郎、真継伸彦の諸氏だ)、招待者の作家協会のほうでもそういう機会をつくってくれた」――というくだりだったが、そこを読んで、これはまずいと思った人は、津田孝のほかには誰もいなかった。
もう一つの問題とされている編集後記は、「翻訳の労をとられた福地桂子氏ならびに小田、丸山両氏のご好意に編集部として感謝したい」であり、それに不都合を感じた人も、誰もいなかったのである。当時の日中両党の関係からいって、日本共産党が野間訪中団を非難することはありうるが、小田実がそれについて、大衆団体の雑誌である『民主文学』にたった5行ふれたのが、どうして不都合なのか理解できない。小田実は野間訪中団に加わって訪中した事実をかいているだけで、それについてとくべつのコメントをしているわけでない。それに、小田は民主主義文学運動にとって数少ない理解者の一人であり、その原稿がもらえたことに感謝するのはあたりまえである。そしてなによりも、津田孝をのぞく常任幹事のだれもが小田論文に疑問をもたなかったし、幹事からも、同盟員からも、読者からも、それを指摘してきた人は一人もいない。それが世間の常識である。それを党中央がめくじらたてるのは異常ではないか、などの反論だった。
この全面批判を貫徹するために、まず、党中央文化関係の機構人事を変えた。これまでの文化局と知識人委員会を統合して文化・知識人局を新設し、局長に宇野三郎、次長に津田孝をすえ、津田を文化部長にも抜擢した。また、『赤旗』には「干渉主義を正当化する張香山発言について」という、中国共産党批判の一ページ大の無署名論文を載せ、つづいて翌日には、池上芳彦署名の「中国からの干渉の問題と民主主義文学運動の伝統」という論文を載せた。池上論文は、グループ会議で宇野元秘書が「4月号」問題についてのべた党の見解とおなじ趣旨であった。党の規約では、党内で論議中の問題は外部にだしてはならないことになっている。しかし、それは下級組織への統制、規制であって、党中央にはそういう制約はなく、自由に国民大衆に訴える権利がある、という一方的な事実を、この池上論文は示した。
さらに、党中央は「4月号」問題をたんに文学同盟の内部問題、思想・文学の問題でなく、党員としての政治的原則の問題であることを強調するようにエスカレートさせた。党中央はこの思想キャンペーンを重大視して、もし常任幹事グループがあくまで「4月号」問題の責任を認めようとしないなら、直接の責任者である編集長の党除名もありうる、また文学同盟の分裂も、『民主文学』の停刊も辞さない、という強い姿勢を“言外に”伝えた。
これら“裏側の党フラクション”党グループ会議と、“表側”の文学同盟常任幹事会は、大会後もあわせて、延べ5カ月間継続した。その中で党中央派遣5人は、宮本氏への連日報告、直接指令に基いて、常幹22人の結束を崩すことに全力を挙げた。グループ・メンバーへの各個撃破を執拗に行い、当初の姿勢を変え、あるいは軟化させることに成功した。党中央の強硬な姿勢を見て、常幹側も、5月3日の大会直前になって、最初の妥協をした。彼らは、編集長の人事問題にはしないことを条件に、小田原稿のあつかいは適切でなかったことを、常任幹事会として認めることになった。それにはまだ反対意見もあったが、編集長を救うためには、それもやむをえない、ということに追い込まれた。そこで党側の責任者である宇野も、『編集長の人事は文学同盟の問題だから、党はそれには関与しない』と明言した。
ところが、宇野発言は、“建て前だけのウソ”であった。グループ会議のあとの文学同盟の常任幹事会になると、津田常幹(党中央文化・知識人局次長・文化部長)は、『あくまで編集長を辞めさせよ』とする党中央秘密指令に基いて、編集長の責任問題をもちだした。しかし、みなの反撃にあって孤立してしまったので、『この問題は大会後の新常任幹事会でまた問題にしたい』と意見を保留した。
1983年5月3日、民主主義文学同盟第10回大会が開かれた。宮本氏と5人は、大会後の情勢はかれらに有利になる、とのヨミがあった。しかし、それはすっかりはずれてしまった。大会は、冒頭から4月号問題で荒れた。大会には幹事会の一般報告のほかに、4月号問題の非をみとめた常任幹事会の合意事項が補足報告されたが、その合意事項についての質問が殺到したのである。
合意事項は、一、野間宏を団長とする文学代表団の訪中は、文学同盟にとっても容認できない中国の干渉主義のあらわれである。二、そのことを肯定的に記述した小田実の原稿を『民主文学』に載せ、寄稿に感謝するとしたのはあやまりであった。三、この教訓をこんごに生かしていきたい。というものであったが、それは党中央の主張をおおすじで容認したものであった。
討議に入ると、その三点合意にたいする異議と質問が殺到した。とくに、二が納得できないという若い人たちのきびしい糾弾があいついだ。霜多議長はそれらに弁明した。『この問題は常任幹事会でも意見がわかれて、長いあいだ論議をかさねたすえに、やっと到達した結論である。だから、ここでこれ以上論議しても、結論はなかなかえられないとおもうので、常任幹事会ではこういう結論になったのだということを了承して、大会ほんらいの文学論議にうつっていただきたい』。この弁明はいちおう了承されて、つぎの議題にうつった。霜多の『南の風』を批判した「津田個人報告」にも、予想をこえた批判が集中した。霜多も反論したが、及川和男や中里喜昭、あるいは小田悠介、草野ゆき子など主として若い人たちからの集中攻撃をうけて、津田常幹(党中央文化局長)は立ち往生した。
大会の最後に、次期幹事を選出する選挙になった。津田より(党中央方針支持派)とみられる人たちが、こぞって低位当選、逆に編集長支持派はみな上位当選という結果になった。党中央は、津田常幹に、役員選考のさい、中野健二を編集長からはずせという“秘密指令”を与えていた。しかし、大会最終日におこなわれた新幹事会で、津田常幹による、その執拗な主張はとおらなかった。
大会が終わると、『赤旗』はさっそく大会取材記事で、常任幹事会の合意事項が大会で「採択された」と強調し、佐藤静夫文学同盟副議長も『赤旗』でそれを主張した。4月号の不当が大会で承認されたとなれば、編集長の責任追及が容易だからである。しかし『民主文学』では、中里喜昭が、大会事務局の録音テープをおこして、合意事項の補足説明は採択されていないことを証明した。合意事項には反対だという発言が続いたので、それは常任幹事会での合意であることが強調されて、そのことが了承されたのであって、合意事項が大会で「採択」などされていないことを明らかにしたのである。それにたいし、『あくまで合意事項は大会で採択された』とする党中央は、中里は大会決定違反だとして、『赤旗』その他で批判した。
1983年5月、大会後すぐ、党中央は、第4回中央委員会総会を開いた。そこでは、中国の干渉問題と「日市連」の問題をとりあげて、文学運動だけでなく、一般知識人のあいだにも思想の風化がひろがっているので、イデオロギー活動の強化が必要だと強調した。
中央委員会総会後、『「赤旗」陣容も、文化・知識人局の陣容も充実させ、共産党らしいイデオロギー活動をやる』という宮本議長の言葉どおり、文学同盟でもさっそくグループ会議を招集し、小田と「日市連」問題、中野編集長の責任問題を再び追求した。そして、その後も、大会前後で5カ月間にわたり、何回となく会議を招集し、個人的な説得もますます執拗に行なった。党中央は、5人に『常幹側意見をきくというのではなく、中央の意見をききいれるまでは、なんどでも説得を続けろ』と指示していた。このため、中野編集長を擁護してきた役員たちは、もはや党との関係では文学路線の対立解消を期待できないとして文学同盟役員を辞職することを決意した。
そこで、中野健二が編集長を、霜多が議長を、山根献も事務局長を辞退し、3人は同時に常任幹事を辞任した。そして常幹22人中、松崎晴夫、中里喜昭、上原真、井上猛、武藤功、飯野博、平迫省吾らを合わせて10人のメンバーが、常任幹事を辞任した。編集部員の織田洋子と荒砥例は退職した。
党中央としては、中里と中野の排除を目論んで、これらの行動に出た。しかし、霜多をはじめ常任幹事の半数近くが、それに反対するとは予想外のことであり、こうした結果に終わったことは、党中央としても失敗だった。その「混乱」の指導責任を問うとして、西沢文化局長を辞任させた。
1984年11月、辞任メンバーは雑誌『葦牙(あしかび)』を創刊して、抵抗した。わが党は、自分たちに対する彼らの反抗を“反党行為”とみなし、それを一切許さないと決断した。1985年4月以降、徹底した『葦牙』批判キャンペーンを、『前衛』『民主文学』『文化評論』『赤旗評論特集版』で、17回にわたって展開した。それだけでなく、党からの排除、粛清をした。
(1)霜多正次は、「離党届」を出したが、党中央は彼の“離党の自由”を認めず、4カ月間放置し、その上で規約に基く「除籍」措置にした。これは、「除名」処分と同質の党外排除である。彼は、『ちゅらかさ―民主主義文学運動と私』を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。
(2)中里喜昭は、1987年3月、「離党届」を出した。しかし、党中央はその受け取りを拒否し、半年後の9月、彼に「除籍」を通告した。彼は、『葦牙』誌上で、党中央の『葦牙』批判キャンペーンへの反論・批判文を書いた。党中央は、17回の『葦牙』批判キャンペーン中、『中里喜昭の変節と荒廃』など、6回にわたり中里名指し題名の批判文を掲載した。
(3)武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、『宮本顕治論』を発行し、そこで宮本氏の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。党中央は、武藤を「党内の問題を党外に持ち出した」として「査問」した。その「党内の問題」というのは「民主集中制」を一般公刊の書物で批判したことである。「葦牙」関係で「査問」をしたのは武藤一人である。査問は2日間行い、場所は茨城県委員会の建物の一室だった。中央委員会を代表して文化局長が、武藤「党籍」のある水戸まで出張し、茨城県委員会からは3人の常任委員(副委員長、書記長、文化担当常任委員)が党側のメンバーだった。「査問」の上、彼を「除籍」した。
彼は、「葦牙1993年1月号」で、『久野収とのインタヴユー「市民権思想の現代的意義」』を行なった。その内容、とくに丸山真男『戦争責任論の盲点』からの引用個所に宮本氏は激怒した。久野による引用内容は、『日本共産党の非転向の指導者たちはたしかに思想的には立派にちがいないが、政治的にはどうなのか。彼らは軍旗ごと捕虜になってしまった部隊ではないのか。軍旗を下ろさなかった点ではまことに立派であるが、丸山眞男ふうに言うと、木口小平は死んでもラッパを離しませんでした、というような結果になりはしないか』というものであった。13回にわたる『丸山真男弾劾キャンペーン』はここから出た。しかも、そのキャンペーンは、第20回党大会での党綱領改悪の基礎となった。
(4)中野健二は、第10回大会で編集長を辞めさせるという党中央戦略が失敗した後も、辞任に抵抗し続けた。しかし、彼が、他の常幹たちとともに辞任したので、事実上の「除名」処分である「除籍」措置にはせずに、「離党」を許可した。
(5)わが党の第20回大会前後の丸山真男批判大キャンペーンには、丸山のプロレタリア文学運動論への批判も中心の一つだった。山根献は、『葦牙』の「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。 (6)『葦牙』同人会は、その後、隔月刊誌『葦牙ジャーナル』も、吉田悦郎を編集責任者として発行した。(7)元常幹上原真は、そこで、毎号『深夜妄語』を連載している。さらに、同人会として、『霜多正次全集全5巻』を刊行した。彼らは、インターネットHP『葦牙』において、『文学運動における「自主」と「共同」』を追求しつつ、「4月号問題」とその経過を解明する、特集記事、論文を多数載せて、批判活動を続けている。
5、『葦牙』側の反論
『葦牙』側は、党中央による批判キャンペーンにたいして、繰り返し反論文を掲載した。その中で、以下は、これらの背景に関して『葦牙』側が反論として行なった、宮本『文芸評論集第一巻』「あとがき」分析の要点である。1970年代は、高度経済成長による社会構造や生活意識の変化が大きくなった。そのため、民主主義文学同盟作家たちは、現実の変革主体の形成をめぐって、これまでのような単純にたたかう労働者よりも、職場や地域での、人びとの共同・連帯をつくりだすための地道な努力を重視し、それぞれ独自の方法を追及、模索していた。二度の石油ショックで世界経済が深刻な打撃をうけたなかで、日本の企業は徹底した「減量経営」で労働者への収奪をつよめ、労働組合運動の右傾化が一段とすすんだ。1980年には、「社公合意」(社会党と公明党が共産党排除の政権構想に合意)ができ、つづく衆参両院のダブル選挙では自民党が大勝するという事態になって、宮本委員長は「戦後第二の反動攻勢の時期」と規定した。
1980年11月、宮本氏は、『文芸評論集第一巻』「あとがき」を出版した。宮本氏は「あとがき」の長大な論文で、プロレタリア文学の総括をおこなった。宮本氏は、この「あとがき」後、「もう、ぼくも文学に発言権ができた」と発言して、『民主文学』を中心に主要な論文や大会報告などを調べた。そして、文学運動は、運動を推進する強力な機関車が必要であるが、いまの文学同盟は、その機関車の役目をはたす理論活動が弱い。そのため、運動の高い峰が形成されず、裾野も広がらないことになる、と発言するようになった。宮本委員長のこのような発言は、とうぜん、まず『赤旗』や『文化評論』などの党出版物に忠実に反映され、文学の理論活動が活発に行なわれるようになった。
それだけでなく、民主主義文学同盟が討論していた、独自の方法の模索と多様化を批判するかのように、『赤旗』の文化欄で、民主主義文学とはなにか、現実をどうとらえるか、批評の基準はなにか、などというテーマがつぎつぎにとりあげられるようになった。その意図は党的な批評の基準をおしつけようとするものであったから、動員される作家や評論家たちを反発させた。党では、「第二の反動攻勢」にたちむかう民主主義文学運動は、日本の革新統一運動の一翼をになうものであることを強調し、とくにその中心になる共産党員の活動がえがかれなければならない、としていた。しかし、そのような主張は、文学同盟の作家や評論家たちの問題意識とはかなりずれていたのである。
「4月号問題」とは、「あとがき」の思考を、傘下の民主主義文学同盟運動、作品に“強行持ち込み”をしようとしたものであった。彼は、そこで「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。しかし、その戦後的文学の内実をしっかりと把握できていなかったために、「社会的発展性」とか「科学的法則性」とかいう空疎な観念でしか、文学創造の方法を見出すことができなかったという事態に立ち至った。それは「戦前回帰」というよりは「戦後認識の欠落」の文学的な現れだった。それは政治的には、政治における「戦後認識の欠落」と軌を一にする事態だといえる。当時、「4月号問題」における“宮本代理人5人”と民主主義文学同盟常幹たちとの議論で意見が分かれたのはまさにその文学における「戦後問題」だった。
つまり、辞任した10人の常幹たちは、戦後的な情況における人間認識・把握については、そのヒューマニズムや人権のあり方、男女のあり方、政治的自由のあり方など多様な実態を固定的にではなく、ビビットに描くべきだと主張したのにたいして、“宮本氏の「戦後的総括」に忠実な代理人5人”は、「社会発展の方向」を描けとか「先進部分の闘い」を描くべきだというような「戦後的階級史観」を強固に主張し、ノンポリ化やマイホーム主義を批判すると称して実質「政治の優位性」の戦後版というような作品の創造を主張した。その文学路線の違いが「4月号問題」の根底にあったのである。
小田実論文“5行”と中野編集長“謝辞一言”批判は、こじつけの口実であった。宮本氏と党中央の本音は、霜多正次の小説『南の風』など、常幹中心メンバーの作品・文芸評論内容や方向に危機感を抱いたことによるものである。彼らが、ユーロコミュニズムの一定の影響や、「文学にたいする政治(=共産党中央)の優位性」を押し付けたスターリンへの批判も根底にあって、『文学運動における「自主」と「共同」』を思考し、作品にも表わし始めていたからである。
宮本逆路線とは、第14回大会以降、ユーロ・ジャポネコミュニズム路線と絶縁し、スターリン批判の研究・出版活動をストップさせ、『自由主義、分散主義との全党的闘争』に、“宮本氏と「宮本秘書団」の党”を、再転換させようとする、一大作戦であった。この宮本・宇野式粛清事件は、その逆路線を、民主主義文学運動分野でも、“常幹辞任を強要する手口”を駆使して、貫徹させたものである。それによって、宮本氏は、“文学者として見事に復活”し、「宮本型民主文学」の偉大なリーダーになった。党派的文学とはどうあるべきかを教える、74歳現役の文学教師となった。
宮本氏は、“愛すべき”宇野三郎・元宮本参議院議員国会秘書が、文学運動分野での拷問システムを、ねばりづよく遂行し、10人を放逐した手腕にいたく満足した。「宮本・7項目批判」原稿を、一字一句も読み間違えてはいけないと、1時間半も“棒読み”をする、その絶対忠誠度に感激した。そこで、宇野・元秘書を常任幹部会員に抜擢するだけでなく、「社会科学研究所所長」「党史資料室責任者」にも大抜擢した。
宇野・宮本コンビは、1988年『日本共産党の六十五年』、1994年『日本共産党の七十年』で、“宮本賛美を文学的に粉飾、改ざん”するための、緊密なチームプレイを発揮した。宇野・元秘書は、宮本側近グループの一人として、“文学作品「宮本史観党史」を創作”する上で、偉大な貢献をした。その『党史』で、宮本氏は、“左の共産党の中にも、右の天皇制の思考、体質が反映している”と分析した丸山真男を、真っ先に槍玉に挙げた。丸山だけでなく、田口富久治、霜多正次、中里喜昭、古在由重、草野信男、加藤哲郎、藤井一行らも、“その宮本「左側」天皇に、不届きにも逆らった、「不敬罪」に該当する学者・文化人”として、『党史』に「その罪状」を掲示した。
緩慢な精神的拷問システムによって“常幹辞任を強要”された10人は、いずれも、当時、『民主文学』『文化評論』『赤旗』で活躍し、民主主義文学同盟の中心的活動家だった。10人粛清後の、“残存した”現民主主義文学同盟は、見事なほどに“「スターリン式・政治の優位性」を認める、従順な文学組織”に変質させられた。前衛党に従属し、単なるベルトになった文学組織が、どのような作品を生み出すかは、スターリン・ブレジネフ時代の「ソ連文学」を見れば分かる。前衛党“収容所群島”権力への批判・抵抗精神こそが、ソルジェニーツィンの一連の作品を生む原動力となった。
(宮地・注)、上記経過を克明に分析した、霜多正次著『ちゅらかさ−民主主義文学運動と私』の「13、4月号問題」は、HP『葦牙』の「4月号問題記録文書館」に全文が載っています。
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第3、平和委員会・原水協一大粛清事件 1984年
ユーロ・ジャポネコミュニズムの影響は、反核平和運動にまで及んできた。1977年、それまで分裂していた原水協と原水禁は、「年内をめざして国民的大統一の組織を実現する」との「5.19合意」を結んだ。ところが、金子満広統一戦線部長は、宮本氏の指示を受けて、原水協内・共産党グループが党中央の許可を得ずに勝手に、自主的に結んだ「合意」を認めないと批判した。そして、「原水禁との共闘を許さない。原水禁を解体させて、原水協による組織統一が優先」と、大衆団体レベル合意の破棄を指令した。
金子・宮本指令の根底には、何から何まで、分裂組織である原水禁を含めた共闘組織で行なうようになれば、「原水禁運動の本流」である原水協の影は薄くなり、原水禁運動の組織統一も不可能になる、という危機意識があった。その指令に基く紛糾が、「平和行進での団体旗自粛」「反トマホーク集会」問題などをめぐって、いろいろ発生した。それにたいして原水協、平和委員会から強烈な党中央批判が噴出した。宮本氏は、それを抑えきれないと見て、金子同志一人に“詰め腹を切らせ”、統一戦線部長を解任した。
平和問題担当後任は1980年以降、上田同志になった。彼は、反核平和運動の高揚を前にして、原水協、平和委員会側の提案を受け入れ、金子・宮本方針を事実上完全否定する「原水協と原水禁の限定的持続共闘論」を提起し、第1回方針転換を強行した。これによって、“上耕人気”は、先進国革命理論、新しい党組織論以外に、反核平和運動分野でも高まった。宮本権威は、大衆運動分野でも“上耕人気”に脅かされるようになった。それらが、1982年の2人への査問原因の一つとなったのである。ただ、査問後も、上田同志は平和問題担当を解任されなかった。1984年2月、市民団体が、反核平和運動の恒常的組織づくりを提案した。その運動のすべての団体が、それに賛成したが、金子・宮本氏は反対した。上田同志の賛成主張、説得工作により、党中央も賛成になった。これは、第2回方針転換であり、反核統一行動の展望を大きく開いたと、歓迎された。
ところが、宮本氏は、そこで方針を逆転換させたのである。上田同志を解任して、再度金子同志を統一戦線部長に据えた。赤旗論文を矢つぎばやに掲載して、そこで、原水禁批判、総評“右転落”批判をし、上田同志や平和委員会・原水協内党員が推し進めた限定的持続共闘論を否定した。現実的可能性の低い組織統一優先の路線に戻った。金子・宮本氏による、上記2回の転換を全面否定する、第3回目の逆転換である。
その後の経過は、さらにいろいろあるが、ここでは省略する。2回の上田“方針転換”を支持し、反核平和運動の現場から盛り上がってきた統一意志と限定的持続共闘拡大にあくまで固執して、金子・宮本“逆転換方針”に抵抗する党員は、ことごとく排除・粛清した。その粛清経過は以下である。
(1)1984年6月1日、森賢一平和委員会事務局長を、『党中央決定である。平和委員会など大衆団体を一切辞めろ。自ら辞任した形にせよ』として、事務局長の辞任決意を迫った。それは、6月2日からの平和委員会全国大会の前日だった。
(2)小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長らは、彼から聞いて、彼への辞任強要は誤りとした。6月2日の大会で、森事務局長の辞任表明とともに、小笠原、長谷川2人も抗議の辞任表明をした。大会は、そんな“逆転換方針”の方こそ誤りとして、3人の辞任を承認しなかった。そこで、金子・宮本氏らは、各都道府県レベルで、平和委員会内共産党グループを緊急招集し、“逆転換方針”支持派に大会代表を差し替えさせた。そして、“新代表”で固められた、人事問題だけの二度目の大会を、6月9日に強行開催して、3人とも辞任させた。
(3)県レベルで、辞任強要に反対する最初の大会代表数十人は、大会代表からも、党からも排除した。
(4)、森賢一を、平和委員会事務局長から辞任させた後で、彼は規律違反を犯していたとして権利停止処分にした。彼が、その『森一人だけに通告した党中央秘密指令』を、長谷川正安同志や吉田嘉清らに漏らしたのは、『党内問題を党外にもちだした』規律違反である、とした。森は、平和委員会・党グループ所属党員である。長谷川正安同志は、名古屋大学教職員・法学部支部所属党員であり、吉田嘉清は、原水協・党グループ所属党員である。森にとって、民主主義的中央集権制の「横断的交流禁止」組織原則に照らせば、他の2人は『党内』ではなく、『党外』なのである。2人に党中央秘密決定を漏らした森の行為は、規約第2条8項違反の重大な規律違反として、彼を査問し、処分した。そして、平和運動からの“永久追放処分”にもした。
(5)6月21日、吉田嘉清原水協代表理事に、『党中央決定である。代表理事と原水爆禁止世界大会準備委員を辞任せよ』と強要した。しかし、彼は、そのいずれの辞任も拒否した。原水協全国理事会は「原水協規約」で9人の代表委員が招集することになっていた。金子・宮本氏は、赤松事務局長に指示して、「吉田解任目的」だけの全国理事会を招集せよ、と指示した。しかし、代表委員たちは、5月に全国理事会を開いたばかりなので、その必要はないと決定した。ところが、金子・宮本氏の指令を受けて、赤松事務局長は、「代表委員名」を“騙(かた)って”全国理事会を招集した。その上、平和委員会での森辞任強要時と同じく、共産党ルートで全国党組織に緊急指令をして、金子・宮本逆転換路線支持=「吉田解任」賛成派に各都道府県理事を差し替えた。“その規約違反”の全国理事会は、吉田嘉清を解任した。
(6)その“からくり”に反対した代表委員草野信男、江口朴郎、小笠原英三郎、櫛田ふきら9人を、規約の「代表委員制度」廃止という第2の“からくり”を強行して、放逐した。
(7)7月10日、原水爆禁止世界大会準備委員会運営委員会で、“規約違反”全国理事会で選出された運営委員・赤松原水協事務局長が大声で、運営委員を解任した吉田嘉清がこの場に出席しているのは認めないとして、吉田退場を大声で主張した。古在由重は『吉田君が退場になると、私も吉田君と同じ意見だから退場になる』と発言した。
(8)8月9日、日中出版社が『原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る』を緊急出版した。金子・宮本氏らは、その出版を阻止しようと、様々な出版妨害活動を展開した。創価学会の言論・出版妨害事件とまったく同じ性質の出版妨害を、日本共産党が行なったのである。しかしその大がかりな工作は、妨害事実を日中出版社柳瀬宣久社長が、マスコミに公表したことにより、失敗した。彼らは、その出版は反党行為であると断定し、1985年、柳瀬社長と社員3人を査問し、全員を除名した。
(9)9月26日、吉田嘉清が反党行為をしたとして、査問し、除名した。
(10)原水協事務局山下史は、自分の意志で辞任し、理事会もそれを承認した。金子・宮本指令により、理事会は、その承認を取り消して、彼を懲戒免職とする決定をし、退職金支払いを拒否した。山下は、裁判に訴えた。東京地裁は、1985年1月、『懲戒免職の事由は認められない。申請人(山下)は退職金170万円の支払いを受ける権利がある。原水協はさしあたり120万円を支払え』とする仮処分の裁定を出した。しかし、党中央は、『その裁定を無視せよ』と指示し、原水協は“共産党直営大衆団体”として、いまなお支払っていない。
(11)10月、金子・宮本氏らは、古在由重が、提出した「離党届」の受け取りを拒否した。その上で、彼が「厳密にいえば分派活動」の規律違反を犯したとして、査問し、除籍した。
(12)1990年3月、古在由重の死去で、ほとんどのマスコミが朴報、追悼記事を載せたのに、「赤旗」は、完全黙殺した。それへの党内外からの批判が高まり、共産党本部や「赤旗」編集局に抗議が殺到し、かなりの人が「赤旗」購読をやめた。すると、金子・宮本氏らは、5月23日付「赤旗」で、『古在由重氏の死亡の報道に関して――金子書記局長の報告の要点』を掲載した。そこでは、わざわざ『原水禁運動をめぐっての1984年10月の「除籍」にいたる日本共産党との関係』として、彼の「厳密にいえば分派活動」規律違反行為をわざわざ分析してみせて、“死者に鞭打った”。
(13)9月14日、川上徹が、藤田省三らとともに、「古在由重先生を偲ぶつどい」の企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には、家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らが名を連ねた。川上徹は、1400人の参加者のまえで「つどいの経過報告」をした。党中央は、それを、“規律違反で除籍した者を偲んだ”規律違反として、川上徹を査問し、除籍した。
(14)この間、各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任をし、党から除籍をした。これらの反核平和運動内党員活動家にたいする金子・宮本式大粛清に怒って、草野信男代表委員をはじめ、多くの平和運動活動家が離党した。
(15)森賢一は、辞任したので、権利停止処分だけで、除名にはしなかったが、平和運動一切からの、事実上の“永久追放処分”にした。彼は、出身地名古屋に帰って、そこで、めいきん生協アジア連帯室長などを経て、現在はアジア・ボランティア・ネットワーク東海事務局長をしている。そして、名古屋市と友好提携を結ぶ南京市と、市民レベルの交流を進めている。交流団を派遣し、南京大虐殺記念館近くに、中国語で「二度と過ちを犯さない」と書いた石碑を建てた。また、近い将来、「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」を南京市内で開くよう、南京市・総工会との約束を取り付けた。
(16)吉田嘉清らは、その後、「平和事務所」を設立し、「ぴーす・ぴあ」誌を発行し、国内での平和運動を続けている。それとともに、チェルノブイリ被爆者の救援と、現地で被爆治療に携わる医師たちへの支援運動をねばりづよく行なっている。2人や多くの活動家たちは、“金子・宮本式平和運動”から、強制排除されたが、“自立した、自主的反核平和運動”を展開している。
(17)党中央は、「平和事務所」を分裂組織であるとして、その策動を絶対許さないとする方針を固めた。平和事務所が「暴力分子と密着した関係にある」とし、「原水爆禁止運動にたいする妨害・破壊・かく乱分子の根城である」と、くりかえし「赤旗」で批判キャンペーンをおこなった。「暴力分子と密着した関係」「妨害・破壊・かく乱分子」問題では、第一、吉田嘉清個人が東大駒場祭、早稲田大学祭に、講師で呼ばれた集会が「革マル」系だった。党中央は、“吉田は「平和事務所」を代表して彼らを激励した。よって「平和事務所」は、暴力分子と密着した関係にある”証拠とした。
第二、平和事務所が企画して、一回だけ丸木美術館に、電車と路線バスで見学に行った。党中央は、“丸木夫妻は、滝田某をかくまった容疑で家宅捜査をうけ、また中核派を礼賛している札つきの人物である。さらに、くりかえし丸木美術館にバスツアーを行なった。よって「平和事務所」は、暴力分子と密着した関係にある”証拠とした。
第三、草野信男が、1985年、市民団体の平和行進に参加した。市民団体は、彼の参加を禁止するはずもなかった。党中央は、赤旗大見出しで“平和行進にもぐりこむかく乱者草野信男。市民団体は認知せず”と載せた。これらは、金子・宮本氏が『「平和事務所」の行動を尾行、張り込みせよ。批判キャンペーンの証拠を集めよ。それらを歪曲、ねつ造して「赤旗」記事にせよ』という指示にもとづく、でっち上げであった。金子・宮本氏および党中央には、吉田・草野らがすることなすことすべて、さらにすすんで、彼らの存在自体を認めないとする考えがあった。
(宮地・注)、「平和事務所」行動への党中央、「赤旗」記者による、執拗な尾行、張り込みの事実については、吉田嘉清氏が、共産党による私(宮地)への『尾行・張込み』HPへの返事で、証言しています。
金子・宮本氏は、これら大粛清シリーズによって、「原水爆禁止運動の本流としての原水協」の独自性と権威を、立派に守り抜いた“反核平和運動の英雄的指導者”となった。
1970、80年代は、国内で第三次産業比率が高まり、国民の生活レベル、意識も激変し始め、社会構造が大きく変化してきていた。冷戦下での核配備と地域核戦争の危険も増大していた。社会主義国は停滞し、その問題点が急浮上していた。ヨーロッパ、日本における先進国革命論と、旧来のマルクス・レーニン主義理論との不適合、ずれが明らかになっていた。それらから生まれたユーロ・ジャポネコミュニズム路線とスターリン批判研究進展の影響は、党内や学者党員だけでなく、大衆運動分野でも、さまざまな模索方向を生み出していた。
共産党系大衆団体内党グループは、それらの国際・国内状況、国際共産主義運動の影響を受けて、各分野での自主的方針=党中央盲従からの自立的方向に歩みだし、その運動方向が大衆的支持を受けてきた。宮本氏にとっては、その方向を放置すれば、大衆団体内党グループにたいする党中央の統制が“制御不能になる危険性”が急速に高まってきた。これらは、それらにたいする宮本私的分派の“党中央統制再強化政策”であった。それは、1980年代になって、再びスターリン・ベルト理論を“よみがえらせて”、宮本方針が貫徹できる、文学・平和大衆組織を再構築する荒療治だった。
その点で、これは、1972年新日和見主義事件での、宮本氏と側近グループによる対民青クーデター=民青を宮本忠誠派に差し替える、600人査問、100人処分の一大冤罪粛清事件と同質のものである。対民主主義文学同盟クーデター事件、対平和委員会・対原水協クーデター事件と合わせて、これらが、宮本私的分派による『共産党系大衆団体内党グループを宮本忠誠派に総入れ替えするための、三大クーデター事件』と言われているものである。宮本氏は、上記1950年代の「4分派抗争」における、統一会議・宮本顕治系『二段階革命路線』分派を完全勝利させるために使った、さまざまなクーデター手口を、ここでも3つの大衆団体グループに向けて、全面発揮した。宮本氏こそ、そのクーデター手法の使い分けの面では、“わが党が誇りうる、天才的指導者”である。
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第4、東大院生支部の党大会・宮本勇退決議案提出への粛清事件 1985年
1、『宮本勇退決議案』提出、背景と、その粛清経過
1985年7月、東京都委員会「直属」東大院生支部指導部が、同年11月開催の第17回大会に向けて、『宮本勇退決議案』を東京都委員会に提出した。『決議案』での宮本勇退要求理由は、党中央委員会、とくに宮本議長は、1977年第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある、敗北主義・分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。
宮本批判の根底には、第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮本路線への、東大以外も含めた学者党員、学生党員の党中央批判の感情、意見を反映していた。したがって、この問題は、(1)たんに党内民主主義の問題だけでなく、(2)日本におけるユーロ・ジャポネコミュニズム・先進国革命路線の継続発展か、それとも、(3)第14回大会以降の宮本逆路線か、という、1985年時点での路線選択問題の“劇的再提起”でもあった。しかも、その逆路線批判の最初の組織的表れだった。
院生支部は、規約に基く正規の提出スタイルを求めて、中央委員会と1回、都委員会と2回協議し、私(不破)にも「質問書」を提出した。
9月、党中央は、支部にたいして、「1)大会議案は提出できる、2)提案は支部でなく、代議員個人」と正式回答した。
10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。都党会議の代議員枠2人にたいして、4人が立候補した。結果は、宮本勇退派1人、党中央派1人で、党中央の裏側での、強烈な、勇退派落選工作は失敗した。しかも、投票内容は、宮本勇退派Y23票、伊里一智13票の60%獲得にたいして、中央支持派は17票と7票で40%しかなかった。全学支部総会は、東大大学院各学部支部から選ばれた代議員60人で構成されていた。そこでの得票率は、事実上、院生党員全体の60%が『宮本解任・勇退』を要求していることを示すものだった。宮本氏と側近グループは、落選工作の目論見が外れて、大いにあわてた。なぜなら、その1人・Yが、「代議員個人」として、まず都党会議で、その『決議案』を出すことは明らかだからである。しかも、党中央は、「個人なら、規約上提案できる」と回答していた。
7月から10月にかけての、3カ月間にわたる、公然とした、合法的な『宮本勇退決議案』提起運動は、共産党の大学組織の特徴から、教職員支部、院生支部と学生支部の、この『決議案』問題に関する情報交流が、強い関心と共感、暗黙の支持の下になされていた。大学内3支部間の情報交流、共同行動は、1970年代の学部封鎖と封鎖解除作戦という“非常事態”で証明されている。それは、「安田講堂封鎖」以来の、東大全学共産党3組織にとっての“非常事態”であった。しかも、今度は、封鎖をどう解除するかという受身ではなく、自らが作り出した“宮本逆路線批判への決起行動”だった。60%もの『宮本解任・勇退』得票率は、院生党員内だけでなく、東大全学における宮本逆路線批判の強烈度合いと、その共同意志をも示すのではないかという、“今そこにある危機”を浮き彫りにした。
都党会議でのY代議員提案を許せば、公然とその討議をせざるをえず、一大問題、スキャンダルとなり、党内外への影響も計り知れなかった。宮本氏にとって、そのような屈辱は、だんじて認められなかった。また、Y代議員は、第17回大会代議員にも、「機関推薦立候補」する意志を申し出ていた。事態は、まさに、(1)東大全学60%の宮本批判をバックにして、『宮本解任・勇退決議案』討論が、都党会議だけでなく、第17回大会まで行ってしまうのか、それとも、(2)あくまで、『宮本擁護、宮本逆路線推進=ユーロコミュニズムとの絶縁路線』のための「非常手段」を採るのか、という“危機管理上の選択”となった。そこで、宮本氏は、躊躇せず、(2)の選択肢を選んだ。いかなる卑劣な「規約違反」手段を採ろうとも、Yの「代議員権」を剥奪することを決意し、指令した。
11月5日、東京都常任委員会は、「決議案は、当初5人の連名である。それは多数派工作によるものであり、分派活動である」と、でっちあげた。(1)直ちに、その5人を査問し、権利停止6カ月処分にした。(2)さらに、査問中、権利停止中であることを理由として、勇退派・Yの「代議員権」を剥奪した。
11月11日、都党会議が開かれた。そこでは、上田同志が党中央を代表して、「“宮本氏がでっちあげた”Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を40分間にわたって批判する、大演説をした。その上田同志の“宮本忠誠派ぶり”のY・伊里一智批判に幻滅を感じて、それ以後、“上耕人気”は急速に低落した。
11月19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、その経過を書いたビラを配った。
1986年1月、党中央は、伊里一智を査問し、除名した。
ブログ『伊理一智=石村多門に関する情報・コメント』多数、米原万理査問・離党
2、この粛清事件での志位「青年学生対策委員」と河邑赤旗記者の役割
この粛清では、志位和夫同志と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が、“大活躍”した。
志位君は、当時の肩書きが、「党中央・青年学生対策委員」であり、彼は、この粛清の先頭に立った。5人の査問、権利停止処分と、Yの代議員権剥奪を、直接担当した。宮本氏との直通ルートで、ひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、彼らの『決議案』を、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」ときめけた。
河邑記者は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」「ビラまき男」とする“宮本氏が大喜びする”ようなレッテルを彼に貼った。そして伊里一智の思想的・人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して、一躍名を挙げた。その記事は、当然ながら、宮本氏の事前の、個人的校閲を直接受けていた。宮本氏は、従来から、自分にたいする批判者の排除、党内外からの宮本批判への反論記事内容については、細部にわたって、直接、指示、点検、事前校閲するのが、ならわしだった。
河邑記者は、それらのキャンペーン記事によって、東大全学60%における宮本逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化してしまった。実に“赤旗・ペンの力は偉大である”。1977年第14回大会以来の宮本逆路線を批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、志位君と河邑記者の、宮本直接指令を受けた、大奮闘によって、『負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件』にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。
志位君と河邑記者2人こそが、宮本ボディガードに自ら立候補して、宮本氏を“今そこにある危機”から救出したのである。上田同志も、その一翼を担ったが・・・・・・。まさに、手に汗を握るような“危機管理ドラマ”であった。東大大学院支部粛清に怒って、多数の党員が離党した。私(不破)が、「兄」をこのように名指しで、直接批判するのは、心苦しい・・・・・・。しかし、この粛清への「兄」の加担は事実なのでやむをえない。
志位君と河邑記者2人は、宮本秘書出身ではなかった。しかし、宮本擁護のための、手段を選ばない粛清手口と、記事ねつ造手口は、「宮本秘書団」よりも、その忠誠度が高かった。“子飼いの秘書たち”以外に、このような若手の忠誠派は、宮本氏にとって、“愛すべき次期側近グループ候補”と映ったのである。スターリンの側近たちは、全員が、1930年代後半における大テロルでの大量、陰湿な密告・粛清手口をスターリンに認めてもらって、大抜擢された。
宮本氏は、志位君をその論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(36歳)」に“超・超・大抜擢”をした。志位君は、宮本氏から、“宮本擁護とあらば、いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも、いとわない、最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマン”と、「お墨付き」を頂戴した。第20回大会では、河邑記者を「常任幹部会委員」に抜擢した。かくして、『宮本解任』『宮本老齢化による退陣』を要求する党内意見、マスコミ勧告を撃破するために、『宮本−不破−志位の重層的指導体制』という日本語を“造語”して、大々的に宣伝した。
余談になるが、それでは、私は、40歳の若さで、書記局長に、なぜ異例の大抜擢をされたのか。それは、全党員もよく知っているように、志位君と違って、私は、「宮本擁護のための、手段を選ばない粛清手腕」で評価されたわけではない。
――――――――――――――――――――
これら一連の表裏抑圧・鎮圧作戦は、宮本氏と側近グループによる『日本共産党の逆旋回』と規定できる。その結果、わが党は、“マルクス・レーニン主義をほぼ100%原形保存した資本主義国唯一の前衛党”として、2001年においても、生き残っている。
今日の私(不破)の報告を聞いて、自己弁明、または宮本氏への責任転化ばかりで、私の自己批判が足らないと思われるだろう。宮本私的分派についての報告を〔秘密報告〕スタイルでなく、正式に発表するときには、それぞれの粛清事件における、委員長としての私の関与の度合と、それらに関する自己批判も、きちんと報告するつもりでいる。
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5、『宮廷革命』第21、22回大会 1997年、2000年
しかし、ついにチャンスが来た。宮本議長は、1994年第20回大会後は、85歳の高齢と病気のため、中央諸会議に次第に出席できなくなった。そこで私たち(複数)は、1997年、第21回大会を前にして、88歳の宮本氏に“強引に”引退を迫った。宮本氏はかなり抵抗したが、最終的には引退を決断してもらった。
私たち(複数)は、直ちに、次の行動を起こした。「宮本秘書団」を中核とした側近グループ=宮本私的分派の解体、排除である。
まず、党機関内における解体、排除に手をつけた。(1)宮本秘書出身の常任幹部会委員小島優同志、(2)常任幹部会委員宮本忠人同志は、「名誉幹部会委員」に“引退”してもらった。(3)宮本国会秘書出身の常任幹部会委員宇野三郎同志、(4)宮本秘書出身・元宮本議長室室長の常任幹部会委員佐々木陸海同志、(5)宮本秘書出身の常任幹部会委員白石芳朗同志は、「幹部会委員」に“格下げ”した。(6)宮本秘書出身・元宮本議長室室長の幹部会委員有働正治同志は、「中央委員」に“格下げ”した。それ以外も合わせて、側近グループ中核メンバーのうち、全部で7人の排除に成功した。
次に、衆参国会議員団に“配備”されていた宮本私的分派の解体である。(4)宮本議長室室長出身の佐々木陸海同志は、衆議院議員になっていた。“格下げ”後の2000年総選挙では、前回行なわれた比例区名簿から外し、当選見込みのない小選挙区の候補者だけにし、“合法的に落選させ”、衆議院議員団から排除した。(6)宮本議長室室長出身の有働正治同志は、参議院議員になっていた。そこで、
“格下げ”と合わせて、1998年の参院選候補者から降ろし、参議院議員団から排除した。こうして、宮本氏が用意周到に衆参国会議員団内にも送り込んでいた側近グループ解体に成功した。
また、中央機関紙編集委員会については、1999年10月、常任幹部会委員河邑重光同志を、編集委員会責任者(赤旗編集局長)から解任した。第22回大会では幹部会委員に格下げした。河邑記者は、上記の東大大学院支部『宮本解任決議案』問題で、“宮本擁護”のために大奮闘した。その“東大全学60%”による宮本逆路線批判組織的決起という路線選択問題の性格を、「ビラまき男」一人の問題にすりかえることに大貢献し、宮本氏から特別に高く評価されていた。ただ、志位君も、同じ問題での粛清において、辣腕をふるって、宮本氏から大抜擢された。志位君は、『宮本−不破−志位の重層的指導体制』の一翼を担い、“わが党における、もっとも有能で、宮本氏に絶対忠誠を誓うヤングマン”と評価されてきたので、頑張ってもらっている。
第20回大会時点での、宮本側近グループの中核は、常任幹部会委員、幹部会委員、中央委員を合わせて、十数人にのぼっていた。1961年の国際派・「統一会議」宮本顕治系分派の『二段階革命路線綱領』の勝利以来、宮本氏は、最高指導者となり、1994年第20回大会に至るまで、33年間、“資本主義国共産党における最長不倒翁”の地位を占めていた。その期間での、宮本秘書団、宮本議長室室長出身者、宮本参議院議員当時の国会秘書は、かなりの人数にのぼる。彼らは、宮本氏の指令に無条件に従うという、その党派性(=宮本氏への盲従性)の高さに応じた党内地位に大抜擢された。赤旗記者、党本部専従800人の中で、「ごますり、茶坊主」と陰口をたたかれようとも、宮本氏健在の間は、「虎の威をかる狐」のごとく、その傍若無人的党内権力をふるった。藤原道長の「満月の歌」の心境を、宮本氏とともに味わっていたのである。
もちろん、第21回大会一回の役員人事だけで、長年にわたって形成されてきた宮本側近グループとその影響力を、一掃することはできない。それに、宮本秘書出身、宮本議長室室長出身だから、または、宮本私的分派活動を一時期していたからといって、そのことだけを理由にして、私たち(複数)に忠誠を誓うように「変節・転向」した幹部までをも排除する必要はない。
(7)小林栄三常任幹部会員は、今まで、宮本秘書出身として、宮本氏の粛清指令を受ける、党中央統制部門担当だった。そこで、多くの人々の査問をし、中央役員・県役員・専従・赤旗記者の解任にかかわってきた。そこから、彼には、赤旗記者、党本部専従800人内で『代々木のベリヤ』というあだ名が付いている。しかし、第21回大会時点は、秘書出身でありながら、宮本引退と側近グループ7人排除において、私たち(複数)の側に立って、貴重な働きをしてくれた。しかし、『ベリヤ』的経歴への党本部内反発も強く、第22回大会で引退させた。
宮本私的分派・側近グループ解体措置
名前 |
出身 |
14回大会党内地位、1977 |
20回大会党内地位、1994 |
人事措置 (21)=21回大会、(22)=22回大会 |
諏訪茂 |
宮本秘書 |
常任幹部会員 |
/ |
/ |
宮本忠人 |
宮本秘書 |
常任幹部会員 |
常任幹部会員 |
引退(21) |
小林栄三 |
宮本秘書 |
常任幹部会員(2段階特進) |
常任幹部会員 |
引退(22)、2001年死去 |
小島優 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
引退(21) |
白石芳郎 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
格下げ(21)、引退(22) |
宇野三郎 |
宮本国会秘書 |
中央委員 |
常任幹部会員 |
格下げ(21)、引退(22) |
金子逸 |
宮本秘書 |
/ |
常任幹部会員 |
格下げ(22) |
佐々木陸海 |
宮本秘書、宮本議長室室長 |
/ |
常任幹部会員 |
格下げ(21)、衆議院議員排除(2000年) |
上田均 |
宮本秘書 |
幹部会委員 |
常任幹部会員 |
留任(22) 財務・業務局長 |
有馬治雄 |
宮本秘書、宮本議長室室長 |
/ |
常任幹部会員 |
引退(22) |
有働正治 |
宮本秘書 |
/ |
幹部会委員 |
格下げ(21)、引退(22)、参議院議員排除 |
吉岡吉典 |
宮本秘書 |
准中央委員 |
幹部会委員 |
留任(22) 参議院議員引退(2004年) |
こうして今や、第20回大会の上記4つの誤りを根本的に是正し、路線の大転換をする党内条件が整備された。ただし、私(不破)は、これを、あくまで〔秘密報告〕にとどめ、フルシチョフのスターリン批判のような、宮本個人批判を現時点で公表するつもりはない。それをすれば、宮本批判だけにとどまらず、私や他の常任幹部会員への批判、追求も爆発することを怖れるからである。
赤旗記者、党本部専従、国会議員秘書内には、宮本側近グループ「ごますり、茶坊主」排除を“快挙”として歓迎しつつも、それを私たち(複数)による『宮廷革命』とみなす噂もある。それだけでなく、『新たな不破私的分派・側近グループの誕生』と邪推する党本部専従も一部いる。「引退」をいやがる88歳の宮本氏を、その決断に追い込み、その強力な私的分派・側近グループを、第21回大会・第22回大会を通じての、二段階解体の形で成功させるには、一定の集団的・非公然スタッフ結成と秘密の意志統一、長期にわたる隠密行動を要するのは、当然である。それを『不破たちの分派活動』というのなら、それは『宮本私的分派解体のための正義の分派活動、あるいはやむをえざる必要悪の分派行動』といえるものである。
しかも、その役員人事は、1997年第21回大会、および2000年第22回大会での正規の役員選挙による、規約にのっとった公正な手続きを経たものであり、私にはなんのやましいところはない。そもそも、社会主義14カ国前衛党において、最高指導者の死亡、引退後には、新しい最高指導者が前指導者の側近グループ、私的分派をすべて排除、粛清し、自分に忠誠を誓う地縁・血縁・担当部署部下メンバーに総入れ替えするのは、その都度、例外なく行なわれてきたことで、なんら異常なことではない。ましてや、今回の人事入れ替えは、路線大転換の準備体制を整備するための、わが党サバイバル作戦作業の一環であって、正義の大義名分は私たち(複数)にある。そこには、宮本氏と違って、私の私的分派をつくろうとする意図などある筈もない。
2000年2月に出版した『1917年「国家と革命」』で、私(不破)は、日本共産党史上、党最高幹部として初めて、名指しでレーニン批判をした。それにたいして「AERA」のインタビューを受けた。そこでの記者の『レーニン批判は、宮本顕治名誉議長にも報告したのですか』という質問にたいして、私は答えた。『もう引いた人ですから』と。
(関連ファイル)
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕
『上田耕一郎副委員長の多重人格性』上田・不破査問事件の真相
『綱領全面改定における不破哲三の四面相』綱領改定案と討論・代議員選出