宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名

 

1977年末、除名と反党分子社会的抹殺作戦

(日本共産党との裁判第6部)

 

(宮地作成)

〔目次〕

   1早朝6時半の除名通告

   2、除名理由の性質

     第1理由 裁判請求権行使を理由とする除名

     第2理由 通勤電車内立話を理由とする除名

   3、反党分子社会的抹殺4つの作戦

     作戦1、1カ月間にわたる尾行・張込み

     作戦2、妻へのシカト、社会的排除

     作戦3、前衛党式「村八分」

     作戦4、反党分子キャンペーン

 

(関連ファイル) 日本共産党との裁判          健一MENUに戻る

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪、中間機関民主化運動鎮圧・粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』 警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」

 

 1早朝6時半の除名通告

 1、除名経過

 このファイルは、1977年10月22日第14回大会「上訴」30秒却下後から、同年11月民事裁判仮処分申請、同年12月1日宮地除名までと、その直後からの宮本・不破の反党分子社会的抹殺作戦内容です。裁判経過や《判例》内容は、第7部、第8部でのべます。

 27日後の「却下・口頭通知」 第14回大会の翌日10月23日付赤旗記事で、私の「上訴」却下が上記『前衛』と同文で載り、却下事実だけは知りました。ところが、彼らは一向に、「却下正式通知」をしてきません。その10日後の11月1日に県から呼び出しがあったので、出向くと、「点在党員措置不服意見」の中央委員会却下決定があっただけで、「党大会却下」を言わないのです。その27日後の11月18日にようやく「却下正式通知」が“口頭”であり、第5部のような問答をしました。私に、30秒却下通知をするのに、そんな日数がかかるのは、まったく不自然でした。

 宮地規律違反情報の収集 案の定、大会後も、彼らは、却下通知するのを意図的に引き延ばしておいて、私を除名または除籍の追加処分する口実の「宮地規律違反情報」をその間、収集していたのです。却下口頭通知に続いて、県組織部長(反党分子対策部長)は、『党内問題を党外にもちだすという同じ誤りをしている疑いがある。話した人と内容について報告書を出しなさい』と指示しました。私が『一体その相手とは誰のことですか』と聞いても、彼は『思い当たるふしがある筈だ。とにかく報告書を書け』の一点ばりでした。この文全体での、これらの応答すべては、当時私がその場でメモしたり、直後に日記に書き付けたものに基づいています。彼らは、すべて口頭通告なので、私がノートに通告や応答を克明にメモするのを黙認していました。押し問答していると、県組織部長は『11月1日のことだ。その日の行動をすべて書け』とにらみつけました。その日は11月18日で、18日前の行動などすぐ思い出せません。私が『相手の名前を言ってください』と言っても、名前を明かさないのです。当日は、そのまま、ものわかれで帰りました。ところが、彼らは、私の『11月1日行為』を、下記で分析する「宮地除名理由」の一つにねつ造したのです。

 手書きの「仮処分申請書」 私は、“四重殺”への「怒髪衝天」から、〔選択肢C〕の民事裁判提訴を決断しました。それ以後連日連夜、一日10時間以上、民法・労働基準法・民事訴訟法を読みかじり、愛知県図書館にも連日のように通って「判例集」を研究し、本訴では判決まで長期間かかるので、まず最初の段階として専従解任不当の仮処分申請としました。仮処分とは、「専従としての仮の地位を暫定的に定める」目的のもので、比較的短期に決定が出ます。すでに専従解任により収入はなく、NTT勤務の妻の収入だけで、借金生計に入っていたので、弁護士なし、タイプ印刷なしの手書きの『仮処分申請書』を、11月8日、名古屋地方裁判所に提出しました。弁護士なし、かつ、手書き『申請書』など出されたことがないのか、また、原告日本共産党員、被告日本共産党中央委員会の『前代未聞』のケースなので、地裁受付側がかなりの時間をかけ、受け付けるかどうかを相談していて、心配しましたが、翌11月9日に地裁民事一部で仮処分申請受付が無事完了しました。法律上、仮処分申請では、本訴での原告のことを申請人、被告を被申請人としますが、本訴も行っており、まぎらわしいので、この文では両方とも原告・被告と統一します。

 弁護士なし 私の民事訴訟の様相は、ソルジェニーツィンが自分のたたかいを『樫の木に仔牛が角突く』という表題でたとえたと同じく、一人の前衛党員が、弁護士なしで、当時党員40万近く、赤旗HN326万部、共産党員弁護士数百人を擁する巨大前衛党組織に、素人解釈の法律だけを武器として『角突いた』ということです。Hとは、日刊紙を「本紙」というので頭文字をとり日刊紙部数、Nとは「日曜版」のことで、326万部はH、Nの合計部数です。私は、法律や裁判について、まったくの素人で、訴訟準備で弁護士に相談したいことがいっぱい出てきました。なぜ弁護士を頼まなかったかの理由は、2つあります。第一は、除名時点で、他の専従と同じく貯蓄などはなく、弁護士依頼料など出せる生計状況にありません。第二は、『国際共産主義運動史上一度もない』ような民事訴訟で、勝訴の見込も不明の裁判を引受けてくれる弁護士がいるはずもありません。新左翼系の弁護士ならいたかもしれませんが、そちらの力に頼る気にはならなかったからです。やむなく、一人で、法律を勉強して、『角突く』決意をしました。この民事裁判には、弁護士なしの原告私一人にたいして、被告日本共産党中央委員会は、専任の共産党員弁護士2人をつけるだけでなく、長谷川正安名古屋大学法学部(憲法学)教授までをも共産党側「意見書」を携えて登場させるのですが、それについては第7部で分析します。

 深夜からの査問「招集状」 1977年11月30日夜9時、県常任委員会は、私の自宅に来て、1時間後の夜10時からの査問に来いと、私に「査問招集状」を手渡しました。そこには『貴同志の最近の行動について調査するため、当常任委員会は貴同志が県委員会事務所に来られるよう招集するものです。以上』とありました。私は、彼らの“徹夜監禁査問の意図”がすぐわかったので、深夜の査問を拒否し、3日後の昼間に県委員会事務所へ行き、弁明すると文書で返事しました。そもそも、11月9日に名古屋地裁民事一部で仮処分申請受付が完了しており、日本共産党中央委員会には被告用『仮処分申請書・副本』が数日中に「書留」で配達されているのです。それ以降この査問招集日までには、2週間もあります。それなのに、なぜ、夜9時に招集をかけ、1時間後の夜10時からの異様な時間帯に査問開始をする必要があるのでしょうか。彼らの意図は見え透いていました。このような深夜の査問・逮捕システムは、レーニンがジェルジンスキーとチェーカーに『(反革命分子を)逮捕するなら、夜が好都合』とメモで指令し、そのレーニン指示を14の一党独裁国秘密警察が『深夜のドアノック』として忠実に実行しているやり方と同じものです。このメモは、1922年、多数の人文系学者追放「作戦」でのジェルジンスキー宛のレーニン「極秘指令」メモと同じく、ソ連崩壊後に明らかとなった6724点もの「レーニン秘密資料」にあったものです。

 翌朝6時半の「除名通告」 彼らは、その夜中に、党中央と相談し、県常任委員数人の査問委員だけで、私は欠席のままで、私の弁明も聞かずに、除名を「決定」しました。翌朝12月1日午前6時半に、玄関の『早朝のドアノック』で起きていくと、前夜9時の県常任委員2人が、私の除名通告に来て、立っていました。私は、通告を聞いて、除名「決定」手続きが規約に基づく正規なものでないと抗議しました。私は、『昼間の査問・弁明には応ずると文書で返事した』と主張しました。彼らは(昨夜10時から)県常任委員会で「決定」した』『(今朝6時半までに)一級上の「承認」をえたので、正式な手続きで除名は「確定」した』と言い張ります。私の再三の抗議にたいして、彼らは『本人が欠席でも、「特殊な事情」なので除名できる』『県常任委員会は昨夜10時以降正規に開催した』『一級上の党中央のどの機関が昨夜10時以降「承認」したかは、答える必要はない。「承認」ずみである』との答えしか返ってきません。

 査問委員会 これは、選挙(=前衛党式役員任命システム)による規約上の常設党機関ではなく、査問すべき規律違反が発生したとき、随時設立されるものです。今回の私のケースでは、県常任委員10数人のうち、査問委員3、4人が、夜10時からの宮地徹夜監禁査問のために待機していたにすぎません。私自身、地区常任委員のとき、査問委員側になった経験が4回ほどあるので、彼らのやり方は手に取るように分かります。査問委員3、4人が宮地除名を「決定」し、同じく中央統制委員2、3人が「一級上の承認」をするのは、党機関による規約無視の反党行為そのものです。これは、従来宮本氏本人だけでなく、袴田氏自身も、宮本裏方首切り担当として、数百人の除名・除籍にさいして、同じ反党行為をしてきました。

 規約違反手続き除名の目的 そこで、宮本・不破・戎谷氏と阿部県委員長・准中央委員はなぜこのような「党機関が自ら行う規約違反反党行為」を、あわてて、ごり押ししなければならなかったかとの疑問が起きます。この日は、仮処分申請の第1回審尋が始まる12月20日の前です。第7部『長谷川正安教授の犯罪加担』で詳しくのべますが、民事裁判開始第1日の前に、「宮地除名確定」の形式を整えておいて、民事第1部裁判長に『宮地除名は20日前に確定しており、すでに共産党員でなくなっているので、《訴えの利益》(=民事訴訟法上の用語)が消滅している。よって、仮処分申請そのものが民事訴訟法上無効になった。直ちに門前払い却下せよ』と主張したかったからです。審尋初日に、彼らと共産党弁護士2人は、大声で、何度もそれを主張しました。ただし、私も、即席付け焼刃ながら、民事訴訟法を猛勉強しており、彼らのその狙いはすぐ見抜いたので、名古屋地裁に『除名無効仮処分申請書』を追加提出しました。それにより、彼らの民事訴訟法上の最初の策謀は失敗に帰しました。

 2、除名理由

 次は、除名理由の問題です。除名通告は、文書でなく、“例によって「口頭」”なので、きちんとメモしました。除名理由は、2つありました。

 〔理由1〕は裁判提訴問題です。『党を裁判所に告訴するという党破壊の謀略行為である。党規律を蹂躙する謀略的な反党行為である』と読み上げました。

 〔理由2〕は、なんと、上記の、県組織部長が詰問した『11月1日の行動』のことでした。『党上級機関に上訴しながら、不特定の人々に話した。誰にも話してないというが、偽りである』と言うのです。

 メモ後、私が〔理由1〕にたいして、「告訴」というのは、刑事裁判上の用語で、私のは民事裁判なので「仮処分申請」または「提訴」です』と訂正すると、彼らは『そんなことは関係ない』と怒りました。憲法上、政党はすべて私的結社の一つにすぎません。私の民事裁判提訴行為は、私的結社内で発生し、解決されなかった市民的権利侵害事件について、その侵害回復を求める憲法上の裁判請求権行使です。この〔理由1〕は、まさにその憲法の基本的人権の一つである裁判請求権行使を、私的結社除名の直接理由とするものです。よくぞこんな剥き出しの憲法違反理由で除名したものですが、長谷川正安名古屋大学教授も共産党側「意見書」でこの除名を法的に正当としています。この長谷川理論は、第7部で検討します。

 2、除名理由の性質

 第1理由 裁判請求権行使を理由とする除名

 これは、憲法・市民的権利としての裁判請求権を行使したことを直接の、かつ事実上唯一の理由として、ある私的結社が、その結社構成員を「結社規約」に基づいて、「除名」することは、憲法上認められるかという、憲法32条と「結社の自由権」との関係における大問題です。これは、宮地裁判における最大の争点になりました。よって、この第1理由の検討は、かなり法律的問題になります。

 )、日本共産党という合法政党の憲法上の地位と宮地裁判の位置づけ

 結社の自由とは、多数の人が、共同の目的のために継続的に団体を結成する自由です。同時に、団体の活動が、国家により、制限、禁止されないことを意味します。それは、「結社の自律権」になります。結社には、あらゆる団体が含まれ、会社、労働組合、民主的経営、政党があり、日本全体で数百万か、それ以上あります。政党は、日本国憲法上で、たんなる私的結社の一つにすぎず、「日本共産党の自律権」は、他結社と比べて、特別の憲法的地位を持ちません。14の一党独裁国憲法は、スターリン憲法と同様、『共産党が指導政党』とする特別の法的地位を明記していました。日本共産党は、その事実を一度も具体的に批判したことがありません。

 結社構成員の権利 誰でも、2種類の権利を持っています。(1)「結社規約の構成員権」と、(2)「憲法上の市民的権利」です。他結社内と同じく、日本共産党という一私的結社内においても、(1)「党員権侵害」と、(2)「市民的権利侵害」発生の可能性があります。(1)が発生しても、それは、「政党の自律権」に属し、国家は介入できません。しかし、(2)が、日本共産党内で発生したとき、あるいは、発生したと一党員が、主張し、「市民的権利侵害」回復を求めて、憲法32条の裁判請求権を行使したとき、その面でのみ、「政党の自律権」が制約を受けるのは、当然の常識です。

 民事訴訟の権利と「除名」の権利 日本共産党員・宮地健一が、専従解任について、不当・報復的解任だと、党内で争って、「党大会上訴」で最終却下された以上、それは(2)「市民的権利侵害」にあたると主張し、民事訴訟をおこすのは、当然の権利です。それは、一私人・宮地と、たんなる一私的結社・日本共産党との「結社内部における市民的権利侵害事実」有無をめぐる私人対私人の民事裁判になります。その裁判請求権行使を直接・唯一の理由として、その私的結社は、その結社構成員を「結社からの除名」をすることが、許されるのか、その結社側行為は、“宮本・不破の反憲法犯罪”ではないのか、という前代未聞の問題になります。

 )、私的結社内の市民的権利侵害内容

 市民的権利とは、憲法が保障する、あらゆる基本的人権を含みます。その侵害形態は、多岐にわたります。暴行・不法監禁・リンチなどの肉体的侵害、脅迫・尾行・張込みの精神的侵害、生活費支給の専従にたいする不当・報復的解任という経済的・生計的侵害など、さまざまです。政党内だけでなく、いわゆる民主経営でも、どの結社でもこれらは、発生の可能性があるし、発生した事例も多数あります。その「不法行為」にたいして、泣き寝入りするのか、それとも、裁判請求権行使をして、その侵害回復を求めるのかの、2つの道の選択になります。宮本・不破氏らは、数百人の専従にたいして、その「不法行為」をしてきました。いままでは、ほぼ100%が、泣き寝入りしました。私(宮地)は、「日本共産党との裁判第1部」以降の全経過から、泣き寝入りを拒否して、裁判請求権行使をしただけの、一市民感覚の行動という、きわめて単純な話です。

 )、専従活動費の性格と専従解任正当事由存否の争い

 専従生活費 共産党は、これを「活動費」と呼んでいます。その支払額は、専従解任40歳時点で、毎月手取り10万円強で、夏冬一時金各1カ月分を合わせて、年収140万円強でした。これは、私の同年友人年収の1/3以下です。私が共産党から請われて、民青専従・地区委員長になったとき、それまでの年収の1/4以下になりました。私は、そのことで、父親から勘当されました。支払内訳は、基本給、年齢給、専従歴給、と、所得税・厚生年金保険料・健康保険料の源泉徴収でした。その使途は、100%生活費で、妻収入との合計で、子供2人との4人家族生計を立てていました。県選対部としての地区へ出かける交通費は、別途、県財政部に請求していました。この性格は、市民的権利そのものです。その不当・報復解任は、まさに市民的権利侵害になります。

 専従解任正当事由存否の争い 正当事由存否とは、「その解任行為に正当な理由があるかどうか」という法律用語です。一私的結社・日本共産党内で、その存否をめぐって、党大会上訴まで、争い、最終的却下になったからには、その主張者が、侵害回復を民事裁判に求めることも、当然の市民的権利です。不当解雇をめぐる民事訴訟は、無数ありますが、憲法上では、それと、宮地裁判とは、同質です。宮本・不破氏らが、『宮地専従解任理由は正当である』というのなら、彼らは、裁判所で、その正当事由存否を争うべきです。職場内差別行為・不当労働行為で、民事訴訟を起した職員を、その裁判請求権行使を理由として、解雇、あるいは、御用労働組合が組合員を除名したケースは、民事訴訟史上一度もありません。宮本・不破氏の反憲法犯罪は、民事裁判提訴者にたいする初めての事例です。

 )、私的結社自律権と市民的権利侵害回復裁判請求権との優位性、制約関係

 私的結社内で、市民的権利侵害事件が発生し、または、結社構成員が、不当・報復による市民的権利侵害だとして、民事訴訟を起したとき、「私的結社の自律権」は、「裁判請求権」による制約を受けることは、法曹界でも市民感覚としても常識です。そこには、「司法審査権」が生じます。これは、私的結社・日本共産党内部に発生した不当・報復的専従解任という市民的権利侵害事件にたいして、その侵害回復主張者による裁判請求権の行使があるからには、「司法審査権」の方が、そのケースに限って、「結社の自由権」より優位に立ち、侵害事実内容について、法的審理を行い、「門前払い却下」をしないとする法律解釈です。

 )、宮本・不破による前代未聞の反憲法犯罪

 ところが、宮本・不破・阿部氏らは、「裁判請求権行使」を直接、事実上唯一の理由として、「結社からの除名」をしました。「事実上唯一」とは、下記の除名第2理由が、私の反論につまって、『これは主要な問題ではない』と弁解し、それが、でっち上げ理由にすぎないことを、明確に認めたからです。

 この「除名第1理由」と行為は、宮本・不破氏の反憲法犯罪というにとどまりません。それは、彼らが、『憲法擁護』を唱える裏側において、依然として、レーニン型革命政党の『いかなる法律の拘束も受けない超法規的非合法反憲法組織』という体質を堅持していることを証明する行為です。彼らは、国家・自治体・会社などによる労働者・市民への市民的権利侵害にたいしては、裁判請求権を徹底して行使し、たたかいます。一方、憲法の根本理念である市民的権利を、革命結社構成員38万人には認めないという『反憲法結社』であることを、公然と表明したことになります。

 合法政党における『憲法の市民的権利承認・擁護』活動と、『日本革命・憲法否定体質』との不整合性が、剥き出しになった「宮地除名」でした。日本共産党は、これによって、市民社会との不整合体質を露呈したのです。不破・上田・志位氏らが、この反憲法非合法体質、不整合路線の誤りを認め、この反憲法犯罪を公然と自己批判することなしには、その犯罪的体質は、隠蔽・堅持されているのです。

 第2理由 通勤電車内立話を理由とする除名

 規律違反ねつ造手口 これは、除名直後からの「反党分子宮地、反中央毒素一掃キャンペーン」のなかで、さらに誇張、歪曲されて、文書、口頭で党内に流されました。これは、党中央批判者、異論者の『誹謗中傷』規律違反をねつ造する、宮本、不破氏らの典型的やり方なので、きちんと手口の解剖をしておきます。民青新日和見主義「宮本偽造分派」600人査問の規律違反容疑と同類です。

 『不特定の人々』 メモ後、次に、私が『不特定の人々とは誰のことですか』と何度も追求すると、彼らは『電通の人に電車の中で専従解任のことを話した。これも党内問題を党外にもちだしたことで、除名に相当する規律違反だ』と返事しました。私は、そこで、県組織部長が詰問した『11月1日の行動』の意味を、やっと理解し、『電通の人との電車内会話』シーンを思い出しました。その記憶をたどって、私が『専従解任の事実、頸肩腕症候群の病気、解任後の生計見通しの3点を、相手から聞かれて、ラッシュアワー時の帰宅通勤電車内10数分で立話をした内容が、なぜ除名に相当するのですか』と“頭へ来て”いろいろ反論すると、彼ら2人はだんだん返答に詰まって、言葉をにごし、『これは主要な問題ではない』と弁解して、そそくさと帰ってしまいました。

 映像シーンの丸ごと記憶ぐせ 私は映画が好きで、あるシーンのかなりのコマ数を映像として記憶してしまう癖があります。私は、エイゼンシュタイン監督『戦艦ポチョムキン』を7回も観たので当然ですが、オデッサの階段や有名なモンタージュ・シーン、ラストシーンなどは、クローズアップからカメラワークまで、今でも鮮明に映像丸ごと思い浮かべられます。『電通の人との電車内会話』シーンも、言われてみて、瞬時に基本的シーンを思い出しました。11月1日は、上記のように県から呼び出され、党大会後10日も経つのに「党大会上訴却下」を告げられないままで帰りました。ラッシュアワー時の帰宅通勤電車で、よく顔が会う電通支部LCにばったり会いました。彼とは、私の民青地区委員長時代の担当民青班LC、共産党地区常任委員時代の担当支部LCの一人で、妻とも電通支部関係での長い知り合いで、気心も知り合った仲でした。

 私が先に下車する10数分の通勤電車内立話 彼の職場の状況やお互いの近況を話しているうちに、たまたま私が『専従解任になった』という事実だけを話し、党の問題についてはそれ以上のくわしいことは言いませんでした。それが、彼から、支部長の地区委員へ、そして名古屋中地区委員長へ伝わりました。その支部長も私たち夫婦ともが活動上よく知り合った間柄でした。よって、その伝わり方が“密告”なのか、“あの宮地さんが解任なんておかしいという問い合わせ”なのかは分かりません。名古屋中地区委員長は、()箕浦「喫茶店グループ」の一人で、『5月問題』時点は「箕浦の腰巾着」と呼ばれていた県常任委員でした。彼は、直ちに、その「宮地情報」を県組織部長(=反党分子対策部長)に“通報”したのです。

 憶測とねつ造 県常任委員会は、その“通報”を受けて、宮地・規律違反事項をねつ造しました。

 第1に宮地「意見書」にあるような『県への不平・不満のふきだまり状態』レッテルと合わせて、“宮地は、その後も『不特定の人々に話すという規律違反』をしているにちがいない”と、憶測による、断定的ねつ造をしました。

 第2に、規律違反ねつ造・歪曲をさらにエスカレートさせました。党大会上訴却下後も組織隔離は継続され、「点在党員」のままでした。よって、私が、誰であれ、他の共産党員に『専従解任の事実』のみを話す行為も、『党内問題を党外にもちだした、除名に相当する規律違反』という宮本・不破式日本語解釈になってしまうのです。ただし、2000年、第22回大会「規約全面改定」では、旧・規約『(党外に)もちだしてはならない』を、新・規約『(インターネットHPを含めて、かつ党内外どちらにも)勝手に発表することはしない』と、さらに改悪しました。

 第3は、『電通の人』という一人との会話を、『不特定の人々に話した』と複数対象への行為にねつ造したことです。この3つの「複合汚染ねつ造」により、彼らは見事に、除名〔理由2〕を仕立て上げました。彼らは、この〔理由2〕も愛知県党内に大々的に振り撒きました。私の反論を聞かずに、県常任委員会側の、この「複合汚染ねつ造」キャンペーンだけを聞いた党員は、『宮地は、なんという悪質な反党活動をしているんだ』と信じざるをえません。これを克明に解剖したのは、これが党中央批判者にたいする宮本・不破式規律違反ねつ造手口の典型的パターンの一つだからです。1972年新日和見主義「宮本偽造2人分派3人分派」で1人除名、100人を党機関罷免・党員権1年停止処分にした規律違反ねつ造・歪曲エスカレート「工程」も同じでした。

 3、反党分子・社会的抹殺4つの作戦

 2つの専従解任理由と、除名〔理由1、2〕に基づいて、彼らは、「党外排除」の次段階として、1977年12月1日以降、私たち夫婦の「社会的排除」を目指し、陰湿な工作と「反中央毒素一掃キャンペーン」を多面的に展開しました。それを彼らの《4つの作戦》として検討します。これは、翌月1978年1月3日の袴田除名と「反共毒素一掃キャンペーン」開始の1カ月前でした。

 〔小目次〕

   作戦1、1カ月間にわたる尾行・張込み

   作戦2、妻へのシカト、社会的排除

   作戦3、前衛党式「村八分」

   作戦4、反党分子キャンペーン

《作戦1》、『宮地への尾行、張込みを連日、1カ月間行え』

 除名数日後から、彼らは、私の家への張込みを一日中行い、私が外出すると必ず尾行を付けました。尾行、張込みの具体的行動とそれへの私の対応は、妻HP『政治の季節』における『尾行』にくわしく書いてありますので、そちらをご覧ください。水田洋名古屋大学名誉教授は、それについて『お便りコーナー』にあるように、『尾行の件は前にも読みましたが、なぜそうする必要があると考えるのか、その心理も論理もわかりません』と感想を書き送ってくれました。ただ、彼らは、1カ月間の尾行、張込み以後も、断続的に続けていました。毎日追い払うのは、馬鹿らしくなったので、いちいち確認するのはやめましたが、私の日記には、10カ月後で裁判継続中の1978年10月1日にも張込みを確認し、出て行ったら、私に車ナンバーを見られないように、あわてて逃げたとあります。

 《作戦1》の理念、体制づくり 尾行、張込みの具体的状況は、妻HPにゆずるとして、ここでは、この《作戦1》の理念、体制づくりについて考えます。党中央批判者をねつ造規律違反で除名すると、党中央は被除名者を「反党分子」と規定します。除名後も中央批判活動を続けそうな「反党分子」には、尾行、張込み体制を取るよう、各県・地区機関に指示します。党中央は、各県組織部(反党分子対策部)から「反党分子監視報告書」を定期的に提出させます。日本は資本主義国ですので、宮本、不破氏らは、レーニンが10月武装蜂起の2カ月後に創設し、裁判なしの逮捕・銃殺・強制収容所送りなど無制約の権限を与え、執行させたチェーカーのような秘密政治警察を持てません。

 レーニンのシステム 宮本、不破氏らが讃美する、レーニンのシステムをパソコン用語や「LINUX(リナックス)」基本ソフト用語に置き換えて、考察します。レーニンは、いかなる法律にも拘束されない革命暴力、赤色テロル実施を何度も強調しました。レーニンは、自分が目指す一党独裁体制樹立の邪魔になるソヴェト内3大社会主義政党党員120万人に「反革命分子」のレッテルを貼り、ジェルジンスキーに指令して、粛清したという、不破哲三氏が崇拝してやまない、「もっとも偉大な革命家」でした。

 秘密政治警察創設者レーニン 権力奪取成功後の革命国家維持・強化の方策を求めて、彼は、よく知られているように、亡命中、マルクス『フランスの内乱』を暗記するほどまで熟読しました。そして、「パリ・コミューン挫折」の教訓として、一旦暴力的奪取した“少数派”による権力を維持するには、「フランス革命のジャコバン公安委員会型」秘密警察と赤色テロルしかないとの一面的な、誤った確信を抱きました。それは、エンゲルスの「ジャコバン公安委員会」への高い評価・考察も採り入れたものでした。これは、それに基づき彼が、マルクスの「抽象的な前衛理論、プロレタリアート独裁概念」を、「民主主義的中央集権制承認有無を“試金石”とする、具体的な前衛党理論、プロレタリアート層の薄いロシアでの一党独裁概念」にヴァージョンアップさせて開発したものです。しかも、レーニンは、『「われら」(革命派)か「反革命分子」か』という「二進法」を導入し、反ボリシェビキ派排除処理能力を格段に「効率化」しました。スターリンは、前衛党基本ソフト開発者レーニン独創「二進法」を継承し、エジョフ、ベリヤとともにさらに改良を加え、『「われら」(スターリン崇拝者)か「人民の敵」か』「on・off二進法」として、自国民数千万人粛清処理業務を飛躍的に「効率化」しました。ザミャーチンは1921年『われら』で、そのレーニンの「偉業」を「インテグラル(統合)宇宙船」としてSF小説化し、ソ連国内で最初の文学的レーニン批判をしたボリシェビキです。それにより、「極秘指令メモ」という『レーニン型文化人粛清「作戦」プログラム』の粛清対象となり、逮捕されました。

説明: C:\Users\My Documents\image004.jpg

 反革命分子対策 宮本、不破氏らにとって、「反党分子」とは、日本革命を起こす上での、もっとも危険な“人民の敵”となる「反革命分子」です。レーニンの教えに忠実な彼らにとって、日本の法律に違反しようとも、人権侵害になろうとも、「反党分子」「反革命分子」にたいし、非合法手段である尾行、張込みをすることは、『党と日本革命を守るための正しい行動』なのです。『党と革命を守るという目的のためには、手段を選ばない』というのは、全世界のコミンテルン型前衛党が、レーニンに倣って確立した、革命倫理、諸作戦行動の鉄則です。彼らの《作戦1》命令を受理して、阿部県委員長・准中央委員と反党分子対策部は、レーニン「文化人粛清《作戦》」命令を受理したジェルジンスキーと同じように、その体制づくりに取りかかります。県レベルでの非合法活動は、小人数要員なら県勤務員を選び、多くの人員・期日を要する《作戦》では県直属の非公然支部を選びます。

 拉致という「特殊任務」 前者の1例をあげます。『党史』、その他でも個人名が載っている、1975年愛知県民青問題のとき、県組織部は、民青元県委員長を公安スパイ容疑で、共産党愛知県委員会事務所3階(私の「21日間監禁査問」のときと同じ“査問部屋”)で監禁査問していました。ところが、彼が病気を主張するので、見張りつきで、病院に連れて行きました。彼は、病院から警察に共産党の不法監禁を電話し、救助を求め、彼は逃亡してしまいました。県組織部は、直ちに県勤務員数人を選抜し、彼の自宅近くで、車の中で、徹夜の張込みを何日も続けました。彼が数日後に、もう大丈夫かと油断して自宅に姿を現わした瞬間に、数人が車から飛び出して、彼を取り押さえ、車に押しこんで、県委員会へ「拉致」してきました。私は、この時、県選対部員でしたが、たまたま彼の張込み、拉致要員には、指名されませんでした。もし私が、要員に指名されていたら、『査問中に逃亡したスパイなんだ。拉致してもかまわん』という「特殊任務」を遂行していたでしょう。愛知県民青問題は、川上氏『査問』も触れています。これは『彼を拉致してこいとの特殊任務をきちんと果たした』と“得意顔”のメンバーから直接聞いた状況です。

 前衛党の「特殊任務」 10月武装蜂起の、早くも2カ月後に、レーニンが、反対を押しきって、強引に創設したチェーカーは、“レーニンを信じて疑わない、選り抜きの共産党員”で構成されました。レーニン、ジェルジンスキーの指令に従って、3大社会主義政党党員120万人を逮捕、銃殺、強制収容所送り、国外追放した直接執行者たちは、『俺たちはレーニンの直属組織だ。反革命分子を銃殺せよというレーニン指令の「特殊任務」を果たしたんだ』という高揚した気分にもなったと思われます。OGPU、NKVDの共産党員たちも、スターリン指令により共産党員約100万人を『深夜のドアノック』で逮捕し、ソルジェニーツィン分類32種類の拷問にかけ、銃殺あるいは強制収容所送りしたとき、『スターリン指令の「特殊任務」を完遂し、祖国と革命と党を守った』と思ったのでしょう。最低2000万人から最高5000万人推計幅のある被粛清者のうち、粛清された共産党員は100万人とする統計を、ロイ・メドヴェージェフ以外にも2、3人がしています。

 宮地への1カ月間尾行・張込み体制づくり 私への《作戦1》では、朝から夜中まで、車1台と要員2人が要り、しかも1カ月間続けるための交替要員がかなり必要になります。民事裁判提訴者への尾行・張込みは、法律違反の非合法活動ですから、その秘密を守るには、一つの支部で全要員を確保しなければなりません。しかも、通常の日勤形態支部では、そんなに有給休暇を取れません。張込み先の愛知県岩倉市にある居住支部や経営支部では、宮地に顔を知られているので使えません。そこで、彼らは、県直属支部で、多くの党員を擁し、3交代勤務形態の「トヨタ自動車・元町工場支部、三好工場支部、田原工場支部」を動員することにしました。方針として、(1)張込みは、宮地玄関が見える場所で、気付かれないよう、宮地宅に出入りするであろう弁護士、党員など支持者をチェックし、尾行し、その身元をつきとめること、(2)尾行は、宮地外出時は必ず行い、行き先、会う相手をたしかめること、(3)尾行・張込みの様子は県組織部へ文書で、その日のうちに提出すること、などを決定し、トヨタ自動車支部長、担当LCに指令しました。動員された要員は、一人は玄関を見張り、もう一人は家周辺をぐるぐる回り、外出時は尾行しました。『国際共産主義運動史上一度もない』ような民事裁判提訴をしている「反革命分子宮地」を尾行・張込みするという「違法・特殊任務」は、彼らにとって、かつて経験したことのない『革命活動』でした。ところが、妻HP『尾行』にあるように、岩倉市南部の田園地帯では、尾行行動も張込み行動も目立ちすぎて、行動パターンも見抜かれてしまい、「反革命分子宮地」による反撃まで受け、何日やっても弁護士を一人も発見できず、《作戦1》はなんの成果も上げませんでした。

 私(宮地)の「特殊任務」依頼体験 《作戦1》の内容、体制づくりが、なぜ私にそれほどまでわかるかとの疑問が起きるでしょう。実は、私は、県選対部で、選挙での情報収集において、支部を別の「特殊任務」で動員してきた、長年にわたる経験があるからです。総選挙、参院選挙では、県選対部が選挙《作戦》の中心になります。ビラまき、票読み活動やその集計だけでなく、《作戦》の重要な一つとして、他候補者の動向把握、演説会動員状況、演説内容、そこでの共産党批判内容の掌握と対応策などを日々打ち出すことが必要となります。私は、それら情報収集のため、県直属支部、地区所属支部のうち、地域ビラまきなどの公然活動ができない教員支部に、その「特殊任務」を依頼しました。その支部長やその任務担当LCに常時連絡をとって、他党候補者の演説会日時を知らせ、県購入の「指向性録音可能の、最新鋭超小型テープレコーダー」を渡し、演説会で収録したテープ起しをその晩のうちにしてもらい、翌日には県選対部に届けてもらうというシステムを作りました。私は、重要な演説は全部ナマ原稿で、そうでないものは動員数、雰囲気、主な演説ポイント、共産党批判個所全部を「報告書」に書いて、県選対部長、県常任委員会に提出するのです。宮本、不破氏らが弁士で来名するときは、県組織部が直接身辺防衛要員を動員し、県選対部が演説会場内外防衛要員の動員手配をしました。県選対部での、このような経験からすれば、宮地尾行・張込みの方針や体制づくりは手に取るように分かるのでした。

 交通事故 ただ、この「特殊任務」動員をするなかで、今でも自責の念にかられる事故を経験しました。いつものように、他党候補の演説会日時・場所を連絡しました。担当LCが、その日は、若い女性教員の党員に情報収集を頼みました。彼女は、帰る途中で交通事故に会い、首から下全身不随になってしまいました。彼女は、私が地区常任委員のころ、支部会議でも顔を合わせたことのある同志でした。党の「特殊任務」遂行中に事故にあったのです。県として、見舞程度はしましたが、それ以上のことはできませんでした。その若い女性党員にたいして、名古屋市全部の教員支部が、全面的な支援体制をとり、口に筆をくわえて、絵を描ける所までは回復しました。これは、直接私の責任でないかもしれません。しかし、私が、その支部にそのような「特殊任務」を依頼しなければ、起らなかったことです。かなり経って、名古屋地下街の共産党系書店に彼女の絵が数点展示されていました。支援カンパ込みでの1万円の、額入りの、口に筆をくわえて描いた「ユリの絵」を買って、今でも私の家の玄関に飾っています。玄関で、ときどきそれをじっと見ると、その事故が私の責任のような気もして、私の県選対部「特殊任務」活動がもたらした、ある女性の運命に自責の念をやはり感じるのです。

 銃殺・殺害任務 共産党員が仲間の共産党員を「人民の敵」として逮捕・銃殺する任務、「スパイ容疑」として拉致する任務、「反革命分子」として尾行・張込みする任務、情報収集任務など、前衛党の「特殊任務」をどう考えたらいいのでしょう。そして、革命政党指導部が与えた「特殊任務」を何の疑いもせず、忠実に遂行するとは何なのでしょうか。今から120年前の1870年代に、ドストエフスキーは、ナロードニキ革命党派において、裏切容疑者を殺害したネチャーエフ事件を素材として『悪霊』を書きました。その作品で、主人公の一人ピョートルは、革命党派基礎組織5人組の指導者として、裏切容疑者を殺害する方針を決断します。殺害任務を指令された党員たちは、その「特殊任務」をどう考えたか、どのように遂行したかを、ドストエフスキーは克明に描きました。革命党派内部における粛清、「裏切者」大量殺人というテーマについての、彼の洞察は、『ドストエフスキーと革命思想殺人事件の探求』で考察しました。

《作戦2》、『宮地の妻を査問し、裁判をやめさせよ。妻が応じないときは、反革命の片棒かつぎとして、徹底的に排除せよ』

 地区委員長の電話 妻は、それまで査問を受けておらず、名古屋中地区委員会の電通支部所属でした。私の除名翌日、地区委員長から妻に電話がありました。彼は『宮地の裁判は重大な反党活動だ。あんたが党員である以上、すぐ裁判をやめさせなさい! とにかくすぐ地区事務所に来なさい!』と電話の中で大声で怒鳴りました。妻は『夫の専従解任についての「宮本委員長宛質問書」が6通も出してあります。1年半以上何の返事もありませんよ。その回答を私にまずするのが先ではないですか』と答えました。彼は『「質問書」回答と裁判とは、別問題だ』と言い、妻は『何が別問題なんですか。その回答を先に出すべきです』と長時間の押し問答を、大声でしました。彼は、上記のように、1967年「5月問題」時点での箕浦「喫茶店グループ」の一人の県常任委員であり、かつ、『(宮地が)電通の人に話した』ことを、直ちに県反党分子対策部に“通報”した地区委員長です。

 その翌日からも連日のように、妻が職場から帰宅する時間を見計らって、彼が電話をかけてきました。『党員なら指示に従う義務がある。党員なら、あんたの質問の返事が来るまで、3年でも5年でも待ちなさい』とする内容です。何日目かに、彼は、押し問答の末、『あんたは、夫の反党活動をやめさせないと言うんだな。党の指示を拒否するんだな。そして、地区事務所への出頭も拒否するわけだな!』と脅迫にでました。妻は『拒否するなんて言っていません。「質問書」6通への回答が先だと言っているだけです』と、電話を切りました。同じやりとりの電話が10日間近くも続きました。彼らは、電話だけで、私の家には一度も来ませんでした。もし行けば、彼女のかわりに、宮地が直接出てきて、(1)除名の不当性、(2)民事裁判提訴の正当性、(3)尾行・張込みの違法性などを“とうとうとまくし立てる”のを予想して、まずいと思ったのでしょうか。この時、妻が、地区事務所に出頭していれば、彼らはその場で、妻を監禁査問にかけたでしょう。

 尾行・張込み車ナンバー その中で、妻も反撃に出ました。除名数日後からの尾行・張込みの様子について、私が、帰宅後の妻に事細かに話します。妻HP『尾行』にあるように、私がこんな違法なやり方など断じて許さないと考え、玄関から出て、抗議に行くと、要員2人が車ですばやく逃げます。数回やったなかで、やっと逃げる車のナンバーをメモすることができ、陸運局まで調べに行ったら、車の持ち主は、トヨタ自動車元町工場勤務の党員でした。県反党分子対策部もさるもので、要員からの「尾行・張込み日報」で、“個人の車では、足がついてやばい”と判断し、別の車にしました。私は、今度こそはと、大回りしてひそかに近づいて、要員2人を直接つかまえ、抗議し、車ナンバーを控えました。それもまた陸運局へ行って調べたら、その台帳には、なんと『所有者、日本共産党愛知県委員会』となっていたのでした。夫婦で、地区委員長からの電話、尾行・張込み、陸運局調査結果などを、連日、頭が痛くなるほど話し合っているなかで、妻は「県常任委員会宛抗議文」を書き、所属の支部長に渡し、回答を必ずもらってくれるよう頼みました。そこには、不当な尾行・張込みへの抗議と、決定的証拠としての「県所有車ナンバー」も記しました。

 かなり経ってから、県からの「口頭の返事」を支部長が妻に伝えました。返事の内容は、『県委員会は、そのような行為には、一切関知していない』の一言でした。この“気のきいた、すばらしい回答内容”には、私たち夫婦も、怒るどころか、笑ってしまいました。それとも、それは“怒りの笑い”とでもいうべきでしょうか。なぜなら、『007、ロシアより愛をこめて』など、多くのスパイ映画で、要人暗殺の極秘指令がテープで届くシーンがよくあります。スイッチを入れると、指令を言った後で、『当局は、この件には一切関知していないので、そのつもりで。テープ内容は自動的に消去される』という文句とまったく同じだからです。このやり方は、CIAやKGBなど秘密警察の常套手口です。日本共産党において、尾行・張込み、拉致などの非合法活動をする部署は、KGBと同じ思考のセリフが出てくるのも、当然なのかもしれません。

 職場での「シカト」指令 このように妻が(1)『1年半も返事がない「宮本委員長宛質問書」6通への回答が先』を主張して、地区事務所へ出頭せず、(2)さらに『尾行・張込み抗議文』まで提出したので、県常任委員会は、妻を“反革命分子の片棒かつぎ”と断定して、徹底的に排除する方針に出ました。まず、妻の所属する電通支部内での“シカト”です。職場では、『尾行』にあるように、総細胞長をやり、地区委員をやり、1961年綱領決定の第8回大会にも代議員として出席しました。情報通信産業という革命拠点経営総細胞長として、地区、県の党会議、活動者会議では、いつも発言するよう求められていました。以前は支部のことを「細胞」と呼んでいました。その夫が、『前代未聞』の反革命の民事訴訟を起こし、しかも、地区委員長が10日間近く、連日のように電話しても出頭して来ないのです。妻は、この5年ほど前、名古屋市内の他局舎に転勤になっていました。県常任委員会と中地区委員長は、転勤前と後の2つの支部全員をそれぞれ緊急招集して、反革命分子宮地の専従解任理由、除名理由、『党を裁判所に「告訴」する』反革命行動を、上記のように歪曲・誇張して、徹底させました。

 妻との関係だけでなく、私自身が民青地区委員長のときそれらの民青班を一貫して担当していました。私たち夫婦の300円会費・薬缶で溶かした粉末ジュースの結婚式に2つの民青班、共産党支部などから多数参加し、100人近い参加者になりました。党地区常任委員のときも2つの支部を担当したことがあり、支部のほとんどが、彼女だけでなく、夫の反党分子宮地を直接知っていたのでなおさらです。除名〔理由2〕『電通の人』とは、そのうちの一人です。県常任委員会としては、できれば、妻の何らかの規律違反をねつ造して、正式に査問にかけ、彼女を除名したかったでしょう。彼らにとって“残念なこと”に、妻にはなんの規律違反容疑もありません。民事裁判提訴について、妻は当初なかなか同意しませんでした。青春のすべてをかけ、誠心誠意続けてきた党活動を悪く言い、否定することになるという理由からです。

 そこで、彼らは、とりあえず、宮地の妻には声もかけず、電話での問合せもせず、職場食堂でも同席せず、排除せよという“シカト”方針をその党員たちに強要しました。その後、職場では、どの党員も妻に挨拶せず、仕事上転勤前の職場へ行っても、党員たちが元総細胞長を避けて通り、一体何があったのと電話をひそかにかけてくる友人も出てきません。妻HP『尾行』の後の『友人』や、私のHP『21日間の監禁査問体験』「エピソード2つ」でもくわしく書きましたが、妻が正規の産前産後休暇を取ったことと、アカ攻撃の面とから、ボーナス差別に会ったとき、総細胞挙げて、全党員が一丸となって、妻のボーナス差別反対闘争に取り組みました。総細胞結成以来の同志たちが、県・地区の一方的な反党分子宮地キャンペーンに納得したのか、それとも『宮地の妻に何か個別に問合せる行為をした党員は規律違反として査問する』という脅迫まがいの指令内容に屈したかは、不明です。彼らは、この同一指令内容を、『宮地夫婦いずれにたいしても』と拡張して、次にのべる《作戦3》でも繰り返し強調しました。ただ、このやり方は、大会社が職場内「アカ」を排除する手口とまったく同じで、珍しくもない、と言えばそれまでです。体制側が体制内「反体制者」にやる手口と、反体制組織がその組織内「批判者」にやる手口とは、奇しくも同一形態を採るものである、と私は普遍的原理化しています。

 「美女の会」 県組織部は、電通支部内での“シカト”だけでなく、居住地岩倉市内での“前衛党式村八分”にも抜かりなく手を打ちました。岩倉市内の保育運動関係党員の集りからも妻を排除しました。彼女は、職場での活動とともに、子ども2人を育てる保育運動にも取り組んでいました。長男のときは、3歳頃まで隣町や名古屋市での共同保育所運動、24時間制夜間保育所運動を行いました。岩倉市の公立保育園に長男が移ってからは、長男・長女で9年間保育運動に取り組み、その間2回、父母の会会長をしました。会長以外のときも、その役員をやり、市当局との交渉にも必ず参加して、発言しました。岩倉市の公立保育園運動は、それ以前から愛知県内でもハイレベルのものであり、全県に先駆けて、0歳児からの産休明け保育を実現させました。長女は、産後43日目からの0歳児保育の第1期生です。卒園までの6年間が終わり、当初からの父母の会役員たちが、その後も会おうと、「美女の会」と名付けた親睦会を作りました。

 前衛党式「村八分」 県組織部と愛知県尾西地区委員会、および岩倉市委員会が、その情報を探知しました。彼らの“前衛党式村八分”指令に基づいて、党岩倉市委員会の地区委員が「美女の会」メンバーの一人に、『その会は「宮地夫人を励ます会」ではないのか。会を中止せよ』と指令してきました。保育運動の中心活動家は、党員や支持者でした。彼女たちは、妻にひそかにそれを伝え、会の中止指令に従いました。岩倉市内における9年間におよぶ長男長女の公立保育園運動、愛知県初めての産休明け保育運動の仲間たちも、結果として妻への“前衛党式村八分”に手を貸しました。“村八分”のケースは他にもありますが、省略します。

 「除籍通知」 妻が、出頭しないので、彼らは彼女を査問できず、除名できません。その後、1978年7月まで、転勤後の支部で赤旗配達とカンパ活動をしました。同年9月27日支部長「書留」で「除籍通知」が届きました。「除籍理由」は、(1)支部会議や地区の呼び出しに応じない、(2)党活動に参加せず、党費を納入しない、の2つでした。この時、長男は小学4年生でした。『ワイルド・スワン』の著者ユン・チアンは、彼女の父が、文化大革命についての毛沢東批判「意見書」を提出し、ソルジェニーツィンの手紙と同じように、共産党式手紙開封事前検閲システムにひっかかり、査問・逮捕・紅衛兵式拷問・労改(=中国型強制収容所)送りされたこと、彼女の母も《「毛沢東批判意見書」を出した反革命分子の妻》として、同じ目にあったこと、自分たち子どももそれがもとで様々な迫害を受けたことを子どもの立場から、母の話も聞きつつ、驚異的な記憶力で描きました。私たち夫婦は、10日間にわたる地区委員長からの電話、1カ月間におよぶ尾行・張込み、妻への“シカト”と“村八分”、民事裁判の進行などについて、毎晩夜遅くまで話し合っていました。小学4年生の息子の、それへの敏感な反応、心配そうな様子に気付きながら、どうすることもできませんでした。当然のことながら、彼には、当時の父母の姿の記憶が鮮明にあるようです。その後、彼は、『ワイルド・スワン』や『上海の長い夜』もすすんで読みました。妻HPにあるイラストや、『オーウェル』での3DCGイラストも、すべて彼が描いたものです。

 「反革命家族」 ここで、社会主義の理想を掲げる日本共産党が、「反革命分子」本人だけでなく、その妻にたいして、そのような仕打ちをするだろうかという疑問、これはまったく特殊なケースではないのかという疑問が起きるでしょう。そこで、14の一党独裁国前衛党の粛清のやり方を見てみます。中国では、『ワイルド・スワン』に書かれたように、妻も同罪とする、さらに子どももふくめて一家を、反党・反革命家族として迫害するスタイルは普遍的なものです。ソ連では、ギンズブルグの『明るい夜暗い昼』や、アンナ・ラーリナの『夫ブハーリンの思い出』(岩波書店)に、様々な《「人民の敵」の妻》たちの逮捕・査問・銃殺・強制収容所送りのケースが描かれています。「人民の敵」は、妻、子どもともに粛清するというのが、前衛党の基本方針なのです。《「人民の敵」の妻》という言葉は、スターリン時代のものです。しかし、それはレーニンがレーニン直属秘密政治警察チェーカーを使って、ボリシェビキ以外の3大社会主義政党党員120万人を《「反革命分子」の妻》もふくめて粛清して以来のやり方です。

説明: C:\Users\My Documents\IMG00129.jpg

 ブハーリン夫人 そもそもブハーリン銃殺自体が無実の罪によるものですが、ブハーリン夫人側にも何の規律違反も反ソ・反スターリン言動もありませんでした。ブハーリンが、1937年2月に逮捕されると、彼女も9月に逮捕されます。彼女は、同年12月に、トムスクの《「祖国の裏切者」の家族のための収容所》へ送られます。スターリンは、1938年3月2日「右翼=トロッキストブロック事件裁判」を開始し、開始11日後にブハーリンに死刑判決を下し、判決2日後に彼を銃殺しました。彼らは、ブハーリン夫人を、その直後に再逮捕します。1941年、彼女に「8年のシベリア収容所での強制労働の刑」を下し、刑期満了後「5年の流刑」を追加し、その後さらに「10年の流刑」を追加しました。1956年第20回大会でのスターリン批判後に、初めて釈放され、無実だったとして、名誉回復されました。ブハーリンが無実だったとして、死後名誉回復・党籍回復決定されたのは、銃殺から51年後の1989年でした。銃殺後51年も経ってから、党籍が回復されるというのは、しかもソ連共産党そのものが崩壊してしまう2年前だとは、「戦争と革命の世紀」での最大のブラックユーモアです。私の妻にたいする、宮本・不破氏−県組織部−名古屋中地区委員長、岩倉市委員会地区委員らによる「民主主義的中央集権制型縦系列粛清指令ルート」でのやり方は、レーニン型前衛党がもつ、党中央批判者とその家族への普遍的粛清スタイルであり、組織体質です。

《作戦3》、『“前衛党式村八分”の徹底で、宮地の居住地内影響力を封殺せよ』

 岩倉市在住全党員会議 私への除名通告の20日後、1977年12月21日に、『反党分子宮地問題での岩倉市在住全党員会議』を、県常任委員会が緊急招集しました。その招集対象者は、岩倉市内の居住・経営支部だけでなく、岩倉市に住んでいる、他地区所属の全党員でした。会議テーマは、『宮地除名、反党活動問題』で、愛知県内の全地区委員会挙げて、岩倉市内在住党員を捜し出し、緊急連絡をしました。その目的は、妻への“村八分”だけでなく、“反党分子宮地本人の前衛党式村八分”を全党員に指令することでした。

 地域とのつながり 岩倉市は、名古屋市の北西に位置し、名鉄犬山線沿線上で、名古屋駅まで特急で11分の名古屋通勤ベッドタウンです。犬山市は木曽川・日本ライン下り・鵜飼・国宝犬山城などで有名ですが、そこへ行く途中にある愛知県最小の4万人都市です。岩倉市には、大きな公団団地があり、公立保育園運動も盛んで、他地区所属党員も多く、全体として党員百数十人が住み、共産党得票率が高く、市町村では愛知県最大の共産党議員団4人を擁しています。妻は、P『戦争と平和』にあるように、小学生の頃、名古屋大空襲で、岩倉市に疎開して以来の住民で、しかも公立保育園運動を9年間やっていて、友人・知人も大勢いました。私は共産党専従なので、地域大衆運動に取り組む時間的余裕はありませんでしたが、1967年「5月問題」の少し前に、岩倉市をふくんだ愛知県委員会尾西地区常任委員を1年間やっていました。岩倉市の統一地方選挙は、市町村議員選挙として後半戦にあり、私たち夫婦は、前半戦の名古屋市議選が終わると、居住地岩倉市での市議選挙に入り込み、全力で取り組んでいました。また、私が県選対部に移ってからは、岩倉市議選応援に、県としての後半戦直接支援・動員体制を組むという関係にもなりました。こうして、夫婦とも、岩倉市在住党員たちとは、密接な関係ができていました。

 全党員会議内容 まず、妻にたいして、県常任委員会は、2つの経営支部内での“シカト”強要と、岩倉市内での「美女の会」中止指令で、影響力を封殺しました。残るは、岩倉市内の居住支部、経営支部、他地区所属党員との結びつきの強い、反革命分子宮地の地域内影響力を封殺する課題です。影響力といっても、その漠然としたものを断つには、『岩倉市在住全党員会議』を緊急招集して、“宮地の村八分”を指令するしかありません。こうして会議が、数十人の参加で開かれました。県組織部長と他の県常任委員一人、および尾西地区常任委員会が招集側として出席し、県組織部長が報告しました。報告内容は、(1)憎むべき反中央・反党分子宮地が『前代未聞』の反革命行動で『党を裁判所に“告訴”』したこと、(2)宮地を『長年にわたる県への不平・不満の“吹きだまり”状態という規律違反』で、専従解任したこと、それは『党への誹謗中傷であるとともに、明白な分派活動』であること、(3)党大会に「上訴」しながら、陰で『不特定の人々に話す』という『除名に相当する規律違反』をしていること、(4)『国際共産主義運動史上一度もない』ような『裁判“告訴”』をしたので、即座に除名したことなどでした。(5)そして、私の「意見書」内容を歪曲して、宮地がいかに、反中央・反党的規律違反、分派活動を長期にしていたかを報告し、それにたいして、党中央・県常任委員会の専従解任理由2つ、除名理由2つ、裁判への対応がいかに正しいかを力説しました。(6)さらに、宮地の長大な「意見書」や、全世界の共産党員が誰も思いつかないような、『党を裁判所に“告訴”』する、奇妙奇天烈な行動、異常行動を見ると、『彼は頭がおかしくなっているのではないか』という“精神鑑定”を付け加えることも忘れませんでした。(7)最後に“宮地の前衛党式村八分”の方針も具体的に指示しました。

 私と妻は、「党大会上訴中」だったので、岩倉市の誰にも何も話していませんでした。なぜなら、誰かに、その問題を話しても、『専従解任という党内問題を党外(他党員)にもちだした』規律違反とされ、私の「党大会上訴」そのものまでもが事前に無効にされてしまう危険があったからです。ともかく、「上訴」却下10日後に、私が専従解任事実だけを電車内立話で『電通の人に話した』行為さえも、『除名に相当する規律違反』にしてしまうという、研ぎ澄まされたデッチ上げセンスを持った宮本・不破氏らが相手ですから。

 参加党員の反応 したがって、それまで何も知らなかった会議参加者たちは、『あの宮地さんが…? とても信じられない』と驚愕しました。そして会議の席では、質問が殺到しました。県反党分子対策部長の『反党・反革命の宮地』口調には、私たち夫婦をよく知っている、かなりの人が反撥をもち、疑問を抱きました。質問への一方的抑圧態度、質問者が宮地分派の片割れではないか、とするきめつけ口調に、一部の党員たちは怒りを感じました。会議後、何人かが、県の一方的報告内容に納得できず、質問への抑圧的態度に怒って、私の家に直接来て、報告してくれたり、電話をくれました。上記の会議内容、雰囲気は、彼らから聞いたものです。県の報告内容にたいして、私が具体的に反論していって、帰り際に、彼らが『宮地さんは、頭がちゃんとしているがや。なあー』とお互いにうなづきあっているのです。それを聞いた瞬間は、何を言っているのか、分かりませんでしたが、彼らの言葉は“例の「精神鑑定」”のことを意味していると思い当たりました。

 市内での出会いシーン ただ、「党中央の言うことは、すべて正しい」と信じている党員たちもかなりいます。また、「疑問を持っても、党の指令には従わなければならない」という党派性の高い党員もいます。翌日からの、岩倉市内でばったり出会う党員たちの態度や表情に、今度は私の方が驚愕しました。昨日まで、仲良く立話や挨拶を交わしていた顔見知りの党員たちが、ある者は私を見ると、道を変えたり、表情をこわばらせてあわてて反対側の歩道に移ったり、他の者は顔を背けてそそくさと立ち去るのです。なぜなら、会議のなかで『宮地に道で会ったり、挨拶されたら、どうしたらいいのか』という質問が出ました。県組織部長は『宮地とは、会っても、話してもならん。道で会って、宮地から挨拶されても、挨拶を返してはならん』と、“前衛党式村八分”のやり方を具体的に指示したからです。このようなシーンは、東ドイツの反体制派の手記や、チェコのハベル大統領がまだ反体制劇作家で何度も投獄されていたときの手記に書いてありました。それらを読んだとき、一党独裁国では本当に大変なんだなあと、他人事のような気持ちでいました。それを、資本主義国の、狭い4万人都市岩倉市内で、私が実際に体験することになろうとは考えもしませんでした。

 色あせた「村八分」 しかし、この県の“村八分”指令も、すぐに色あせてきました。私は当時、除名になり、民事訴訟の勉強と準備で、一日中家にいましたから、長女の保育園への送り迎えは、妻HP『ネンネコオートバイ』にあるように、私がやり、毎日の買物もしていました。そこで、名鉄岩倉駅周辺をいつも通っていたので、よく党員に出会います。私は、宮本、不破氏らや県常任委員会を批判し、民事訴訟をしているのであって、岩倉市の誠実な党員たちとたたかっているわけではありません。よって、市内で党員に出会えば、その会議後であろうとも、私自身が悪いのでなく、党中央と県が悪いと思っているので、従来のように、私の方からほほえんで、頭を下げ、挨拶をします。『今日は』とか『やあ』とか声を出します。そうするうちに、2、3カ月も経つと、ほとんどの党員が、会議以前の態度や表情、行動をするという間柄に戻りました。この“前衛党式村八分”は、資本主義国内だからこの程度ですみましたが、14の一党独裁国ではこの程度どころではありません。妻が、HP『映画の連想』の『青い凧』で書いていますが、一党独裁国中国では、文字通り、以前の日本農村における村八分以上のひどさで、前衛党式排除が行われています。『ワイルド・スワン』だけでなく、中国映画『芙蓉鎮』では、映像で“中国共産党式村八分”の状況が鮮烈に描かれています。

《作戦4》、『宮地を反中央毒素一掃キャンペーンで社会的抹殺せよ』

 レーニン型前衛党という革命政党は、それに逆らった党員、個人、市民を、除名・除籍という党外排除だけでなく、政党組織を挙げて、さらに、社会的抹殺までしようとする基本的体質を持っています。反対者にたいする粛清体質とは、党内外排除にとどまらず、社会的抹殺、さらには、強制収容所送り、銃殺という肉体的抹殺にまで、進化するのです。ここでは、3人への批判キャンペーンの比較分析表だけにします。下記表内容については、『ソルジェニーツィンのたたかい、西側追放事件』、および、『袴田政治的殺人事件』で分析してあります。宮地と袴田にたいする批判キャンペーンは、まったく同時期でした。

名前

年月

毒素

契機

批判キャンペーン

ソルジェニーツィン

1974年12月〜数年間

反ソ・反レーニン毒素

『収容所群島』パリ出版

ソ連国家、その全機関、全プレスで膨大な数量で計算不能

宮地

1977年12月〜1979年4月

1年4カ月間

反中央毒素

民事訴訟

愛知県党内「宮地除名」通達1回、赤旗記事4回、赤旗評論特集版1回、会議口頭宣伝無数

袴田

1978年1月〜1979年7月

1年6カ月間

名称『反共』、実質“反宮本毒素”

『週間新潮』公表

赤旗・党雑誌記事無数、赤旗全戸配布チラシ数回で1億数千万枚、「クリーンパンフ」560万冊、時事講座8800カ所・約11万人参加

 

第6部以上  健一MENUに戻る

(関連ファイル) 日本共産党との裁判

   第1部『私の21日間の監禁査問体験』 「5月問題」

   第2部『「拡大月間」システムとその歪み』 「泥まみれの拡大」

   第3部『宮本書記長の党内犯罪、中間機関民主化運動鎮圧・粛清』

   第4部『「第三の男」への報復』 警告処分・専従解任・点在党員組織隔離

   第5部1『宮本・上田の党内犯罪、「党大会上訴」無審査・無採決・30秒却下』

   第5部2『上田耕一郎副委員長の多重人格性』

   第7部『学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

   第7部・関連 長谷川教授「意見書」

      『長谷川「意見書」批判』 水田洋、「大統領」、中野徹三、高橋彦博

   第8部・完結世界初革命政党専従の法的地位「判例」