自衛隊イラク派兵差止訴訟の原告意見陳述書

 

原告 水田洋

 

 ()、2004年9月3日名古屋地裁法廷において、自衛隊イラク派兵差止訴訟第2回口頭弁論が行われました。これは、第2回口頭弁論における原告・水田洋氏の意見陳述(全文)です。このHPに全文を転載することについては、水田氏の了解をいただいてあります。ここでは、レバノン大使だった天木直人氏も、原告の一人として、意見陳述をしました。私(宮地)たち夫婦も原告団の一員として参加しました。当日の内容は、原告団HPを見てください。第3回口頭弁論は11月5日です。原告団HP『自衛隊イラク派兵差し止め訴訟』

 

 〔目次〕

   1、水田洋の原告意見陳述

   2、水田洋論文・インタビュー HP掲載ファイル

   3、(関連ファイル)              健一MENUに戻る

 

 水田洋の原告意見陳述

 

 自己紹介からはじめます。名前はみずたひろし、生まれは1919年9月3日、現在の東京都港区、今日でちょうど85歳です。学歴は、青山の青南小学校から東京府立第一中学校(現在の日比谷高校)を経て、東京商科大学(現在の一橋大学)を1941年12月、すなわち太平洋戦争がはじまった月に、くりあげ卒業させられました。1943年のいわゆる学徒出陣の予告編です。卒業論文は『生成期国民国家の思想史的研究』という題で、イタリア・ルネサンスを中心とするものでしたが、近代民主主義思想の根源をさぐるとともに、日本の軍国主義を含めたファシズム批判を意図していました。これはその後の生き方の原点というべきものですが、これについてはまた後で述べることにして、略歴を続けます。

 

 卒業後一年間、東亜研究所でアメリカの戦時経済の調査に従事した後、陸軍属3としてジャワ軍政監部調査室で、主として農村事情の調査を担当しました。戦後は、通訳として日本軍の降伏交渉を助けるためにスラウェシ島に派遣されて、約8ヶ月捕虜生活をしましたが、オーストラリア軍との接触から、民主主義について学ぶところがありました。その最大のものは、良心的兵役拒否が制度として確立されていたということです。

 

 復員後は、母校の特別研究生を経て、1949年に名古屋大学助教授として着任しました。それから、つまり30歳から現在の85歳までの55年は、名古屋大学および名城大学で、ほぼ一貫して民主主義の歴史としての社会思想史を教育し研究してきました。現在は、名古屋大学名誉教授であるとともに、日本学士院における唯一人の社会思想史研究者として、自分の研究と後進の育成に従事しています。

 

 この間、名古屋オリンピック招致計画反対運動など、いくつかの市民運動に参加しましたが、その基本的立場は、民主主義(とくに納税者民主主義)、平和主義、環境保全です。このうちで平和主義は、この訴訟に直接に関係があるだけでなく、あの戦争のなかで、自分は戦闘に参加しないまでも、何人かの親友を失ったものとして、当然のことでしょう。失ったなかには従兄もあり、妹の婚約者もあります。

 

 

 こういう経歴をもっているので、今の世の中を見ていると、何だか昔に似てきたなという感じがします。似ているというのは、根底では破局に向かっているのに、表面では日常生活、経済活動が、何事もないかのように行われているということで、昔でいえば、いわゆる満州事変がおこったのが小学校6年生のときで、2・26事件は大学入学の直前でした。こまかいことは省くとして、このように国の内外で危機が深まっているのに、日常生活は軍需景気と紀元二千六百年祭典とかで、むしろ浮かれていました。ちょっと脱線するようですが、この紀元二千六百年というのは、西暦1940年がいわゆる天王紀元で、2600年にあたるとして、日本帝国の優越を誇示したもので、「紀元は二千六百年」という歌までつくられました。今ではこれは神話と歴史を混同したデッチあげであったことは、広く知られていますが、当時それを指摘するには大変な勇気が必要でした。私のばあいには、中学の教室でこれがデッチあげだと教えられたことが、天皇制そのものへ疑問へと発展しました。私は今でもその国史(日本史)の老先生の「へんだね」という口調をおぼえています。東京府立第一中学校の教師としてこの発言は、石原都政下の学校で日の丸・君が代で起立しないことに劣らない勇気を必要としたでしょう。いや孤立という点ではそれ以上だったでしょう。なんでもないこの発言が孤立するほど、当時の言論界は窒息させられていたのでした。

 

 窒息させる方法としては、表だったものでは著名言論人(大学教授を含む)の検挙・起訴・免職、あるいは美濃部達吉の天皇機関説のばあいのように、議会での非難演説と暴力による襲撃との双方が実行されました。こうした公然たる弾圧は、報道されるのでよくわかりますし、人びとのくちを閉ざさせる効果をもちます。しかし、特定の人または人びとの執筆禁止、あるいは特定の出版物の出版禁止は、口をつぐむまえに考える能力を失わせます。岩波文庫の社会科学部門の絶版を、自発的に行うように強要されたことが、一例です。

 

 こういう公然隠然の抑圧が、犯罪行為に関するものではなく、特定の思想と想定されるものにたいするものであることに注意して下さい。これは近代国家の法律上は、ありえないことなので、ここでこういうことをいうのは釈迦に説法、裁判官に対して失礼なのですが、「過激派のアジト」の発見、つまり国民が相互に疑うことを、警察庁がポスターですすめている現在では、やはり指摘しておきたいと思います。日本の警察は、神奈川県警のように徹底的に司法を無視することができますし、われわれが日常生活で接触するのは、司法の前に警察なのだからです。

 

 思想の抑圧ということについて続けます。ここで思想というのは、多少とも筋を通して自分でものを考えることだと、理解してください。そういうことに対する世間の風当たりは、日本ではいわゆる先進国のなかで特に強いように思われます。最近ではイラクで拘束された人びとに対して、また太平洋戦争中には、連合軍捕虜について「お気の毒」といったことに対して、非難の雨がふりそそぎました。直接に暴力を振るわれなくても、こうして世論のなかで孤立させられることは、思考力そのものを萎えさせます。ふりかえってみると、私自身が学生時代にはそういう状態におかれていたのかもしれません。戦後、定年時代になって、大学時代の友人たちが、「お前はあんなことを書いたけど、俺たちには分からなかったんだよ」といいました。「あんなこと」というのは、学生新聞などに書いた戦時経済の分析でした。先輩たちは風水害救援や読書会を組織しただけで逮捕・退学という目にあっています。

 

 さいわいに小物だったので、そういうことにはなりませんでしたが、ふつうなら無用な緊張感につきまとわれていました。どこまで持ちこたえられるかは、日本軍国主義との根くらべだったわけです。

 

 治安維持法違反者には予防拘禁という制度がありました。ナチスがダッハウ収容所で行ったのと似ていますが、再犯のおそれのあるものを拘束する制度です。この制度の対象であったある学者は、敗戦の解放感を「警察に何もいわないで旅に出る 15年ぶりの夏の夜あけだ妻よ」という歌に残しています。非合法日本共産党にいくらかの資金力ンパをしただけで、裁判がすんだあとも15年間監視下におかれていたのです。その間、大学の図書館も慶応大学を除いて、かれを受け入れませんでした。私が強調したいのは、この孤立がかれの研究者としての能力を奪ってしまったということです。かれは戦後ただちに復職しましたが、まとまった著作を構想することができず、性格も偏狭でした。京都帝国大学教授で非合法共産党員になった河上肇についても、同じ様なことがあるのかもしれません。

 

 また昔のようになるのではないかという怖れが、私に昔を思い出させるのですが、はたしてこしてこれは全く的はずれなのでしょうか。

 

 

 日本国憲法の下では、そういうことはありえないといわれるかもしれません。しかし裁判所は少数の良心的な裁判官をのぞいて.憲法による人権擁護をさけてきました。たとえば、政教分離訴訟はたいてい、習俗論によって斥けられてきましたが、宗教は習俗に化したときに最も頑迷に人心を拘束するものですし、かりに百歩ゆずって完全な習俗だとすれば、これこそ世論の暴力であり、憲法19条、20条に保障された思想・良心・信教の自由を侵すものではありませんか。

 

 世論の支配にはさまざまな方法があります。そのひとつは、説明ぬきに事実を作ってしまって、動かせない事実として承認させることで、支配権力の所有者、とくに独裁者が利用する方法です。ところで、われわれ日本国民は、小泉首相がいうようなアメリカとの同盟が一番大事だということについて、納得するような説明をきいたことがあるでしょうか。それが小泉首相とブッシュ大統領との関係にとって、あるいは日本の自動車産業にとって重要だというなら、事実としては理解できますが、国民生活の全体についての説明にはなりません。もしこの発言の根拠が、9.11事件に逆上して大儀なき戦争を始めたブッシュへの忠誠心にあるならば、「国民の厳粛な信託による」権力を、私心を以って乱用するものといわなければならず、それにともなう自衛隊の派遣から多国籍軍への参加にいたるまで、すべて憲法違反といわなければならないでしょう。

 

 このように見てくると、戦時生活の経験者は、小泉首相と東条元首相とどこがちがうかと考えたくなります。つまり、二人とも、まぎれもない独裁者、ファシストなのです。日本の首相にこんな勝手なことができるのかと驚いて見まわすと、行政権力をチェックすべき立法と司法が、その機能をはたしていないことに気がつきます。日本国憲法草案についてのアメリカからのアドヴァイスに、首相を大統領なみにという意図があったのとも考えてみましたが、チェックの機能はアメリカのばあいより弱いようです。とくに国会にいたっては背任ではないかといいたくなります。たしかに選挙したのは国民なのですが。

 

 権力を信託された首相が答責義務をはたしていないこと、したがってそのようにして行使された権力は、違憲であること、これが原告となった理由です。したがって、被告有利の判決をしようとするなら、首相、あるいは国が、国民に対して権力行使について十分な説明をしたという、証拠を提示することが必要だと考えます。

以上

 

 

 水田洋論文・インタビュー HP掲載ファイル

    『戦争の民営化―どこまで続くdirty war ?―』

    『記憶のなかの丸山眞男』

    『民主集中制。日本共産党の丸山批判』

    『住民運動は民主主義の実践』インタビュー

    『社会思想史研究の60年−1939〜99』

    『名古屋市長選の「複雑怪奇」』

 

 (関連ファイル)       健一MENUに戻る

    『自衛隊イラク派兵差し止め訴訟』原告団に参加を

    原告団HP『自衛隊イラク派兵差し止め訴訟』10月5日第3回口頭弁論

    訴訟運動『イラク派兵違憲訴訟の会・東京』 『自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟』

    宮地幸子『戦争と平和』自衛隊のイラク派兵差し止め訴訟の原告陳述書

    加藤哲郎『イマジン』 加藤HP

         『大儀の摩滅した戦争、平和の道徳的攻勢―「アブグレイブの拷問」をめぐる情報戦』

    多国籍軍参加問題 朝日 読売 毎日 Yahoo Google検索

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