戦争の民営化
―どこまで続くdirty war ?
水田洋
(注)、これは、『象49号』(2004年夏)に載った水田洋名古屋大学名誉教授の評論です。『象』は、東海地方の総合文芸同人誌で、水田氏が編集責任者になっています。このHPに全文を転載することについては、水田氏の了解をいただいてあります。
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戦争の民営化1、2、3、4、5
電車の中吊広告に「福田長官撃沈す」というのがあった。撃沈は他動詞にしか使えないのに、誰を撃沈したというのだろうと考えてみたが、思いあたるものがない。しばらくして気がついたのは、撃沈を他動詞的用法に限定していたのは帝国海軍の伝統だったということであり、その伝統には艦艇が自沈、自爆することはありえなかったのである。第二次大戦中に、ドイツかフランスの戦艦が自沈したという報道があったような気がする(たとえばグラーフ・シュペ一号)が、それは港にとじこめられるか、自国の敗北によって敵国に接収利用されるのを、こばんだばあいであった。自沈は自爆とちがって、ひきあげの手数をかければ再利用ができるのである。
太平洋を墓場とした帝国海軍のばあいは、敵を撃沈するか、敵に撃沈されるかであって自動詞の撃沈はありえなかった。自沈能力がないほどにいためつけられた艦は、味方に撃沈してもらったのである。太平洋はひろいからそのまま漂流させておいてもよさそうなものだが、武士の情で介錯ということもあったし、かれらにとってもっと大事なことに、菊の紋章をもっている陛下の軍艦を敵にわたしてはならなかったのである(ただし駆逐艦以下には菊がない)。陸軍では、捕虜になった将校は、自決を命じられた。中国東北部に展開していた帝国陸軍の野戦重砲兵部隊は、敗戦の報をきくと、菊の紋章のついた重砲にまたがって全員自爆した。
帝国海軍にも自沈にちかいものがあった。それは事実上海軍としての戦闘能力がなくなって日本の港にいた艦艇が、空襲または自力によって沈んだばあいである。沈没というとかっこうがわるいので着底(海底に着く)とよんだが、港で着底すれば安定した砲台になりうる。着底の一種に擱座というのがあって、これは自力で陸にのりあげて砲台になることである。巨大戦艦大和にあたえられた最後の任務は、沖縄に辿りついて擱座することであった。海軍の職場抛棄である。
撃という字の意味からすれば、自動詞にはなりえないはずなのに、週刊誌的用法が成立したのは、戦後がはるかになったからにはちがいないが、それよりも戦争があたらしい段階にはいったとみるべきではないのか。情報収集の手段と能力を充分にもっていた福田は、合理的な計算にもとづいて自沈したのである。大きなマイナス情報としてあげられるものは、国内的には年金問題、対外的には北鮮無法国家との対応、大義なきイラク戦争でのアメリカ追随であり、そのすべてにわたる小泉の無責任発言である。野党に追及能力がないからすんでいるようなものの、冷静な計算では、政権はとっくに崩壊している程度の惨状なのだから、福田にそれが見抜けないはずがない。自民党のなかでも安倍幹事長のノーテンキぶりと対照的である。
北鮮無法国家と書いて思いだしたのは、名古屋オリンピックに反対したわれわれを『朝鮮時報』が「右翼民族主義者」とよんだことである。
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戦争のあたらしい段階というのは、たんなる進行ではなく戦争の性格の変化であり、戦争の民営化である。「戦争とはちがった手段による政治の継続である」という有名なクラウゼヴィツのことばの、政治を経済におきかえてみれば、あたりまえなことのようだが、そのばあいには政治は民営化できないが、経済は民営化ができる。あるいはどちらも民営化できるのだが、やりかたがちがうというべきであろうか。政治権力が私利私欲の問題であることは、古今東西基本的にはかわりがないとはいえ、大統領を頂点とするアメリカ民主主義はそれを、「義務を負う貴族」(あるいは合理主義官僚機構)の伝統のない国ぐにに、グローバライズした。アメリカは国王も貴族もない共和国として出発したし、ロシアは社会主義革命で皇帝と貴族を抹殺した。政権をとることは金もうけの機会をつかむことだというのは、いわゆる途上国の民主化のことだとおもっていたのは、まちがいだった。もっとも、これは政治の民営化であって、戦争の民営化はこれとはちがった次元のことである。民主主義そのものが政治の民営化ではないかという意見もありうるが、ここではそのことにたちいらない。
しかし、そのこととは別に、また軍需産業とも別に、イラク戦争は民営化されているようにおもわれる。それを最初に感じさせたのは、ブッシュの終結宣言後、ただちにチェイニー副大統領系の建設会社ハリバートンが現地いりをしたことである。土木建築業は、つくってもこわしてももうかるのだから、そのこと自体は当然なのだが、従来とちがうのは、本来ならば軍隊がやるべき業務をはやばやと系列民間企業にまかせたことである。戦争終結宣言は、かれらに営業の自由をあたえ、その下請け孫請けとして多国籍企業群を活動させるためであった。ある労働者は結婚資金目あてに、他の労働者は住宅新築費をかせぐために、イラクにきて殺された。生命保険がどうなったかはしらないが、それで住宅は建っても、結婚はもうできない。
かれらは労働者として雇われてきたのだが、正規軍の兵士たちも失業者であったり、奨学金で大学進学を目ざす学生であったりした。後者は第二次大戦にさいしてつくられた制度らしく、ぼくがグラーズゴウ大学にいたとき、同宿したアメリカ人学生、トマス・ハーディ・パークはそういう男だった。親がトマス・ハーディの愛読者だったために、こういう名前をつけられたこの男にとって、戦争の大義というものがどうであったかはきく機会がなかったのだが、すくなくともあのときには、反ファシズムという大義名分があっただろう。しかし、大量破壊兵器が発見されていないイラクでは、どうだろうか。
本誌四七号で紹介したように、国際学士院連合は、イラクの国立博物館・国立図書館所蔵の文化財が略奪されたことについて、占領軍の無策ぶりを批判する声明を発表した。加盟団体の枠をこえてこの声明の普及を、という書記局の要請に、日本学士院はこたえていない(紀要五八・三に邦訳を収録)が、普及が何を意味するかを考慮したうえでのことだろう。略奪がイラク人民衆の行為であるかのように新聞では伝えられたが、大義なき戦争に参加した歴史なき国の兵士たちが、それに参加しなかったとはいえない。本誌のそのときの解説でも書いたように、日本のカメラマンも記念品として手榴弾をひろってきたし、きょうのテレビによれば、フセインが逮捕されたときにもっていたピストルは、ブッシュの手中にあるという(兵士の私物になっていた)。
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戦争の民営化がはっきり表面化したのはアブグレイブ刑務所での虐待事件である。これはアメリカ軍のごく一部のしわざであるという非難と弁明については、はやくから、それは全体の悪行から目をそらせるためのスケープゴートだという指摘があった。
日本の新聞記事のなかに虐待犯人として「技術兵」というようなことばがあって、気になっていたが、『ガーディアン週報』には情報スペシャリストということばがあった。情報と訳したのでは、「インテリジェンス」の意味を正確に伝えられないので、「スパイ・拘束・訊問のスペシャリスト」とつけ加えておく。「利潤目あての汚い戦争は法律をくぐる」という記事によれば、イラクには警備会社(複数)が二万人の従業員を派遣して、要人とパイプラインの警護にあたらせ、かれらがしばしば実戦にまきこまれるのだという。ファルージヤで殺された四人のアメリカ人は、そういう会社の一つ、ブラックウオーターの従業員だった。戦争は終わったといいながら、法の支配には程とおいので、会社としてはうまい商売ができるのである。
これは序の口で、アブグレイブの「技術兵」と呼ばれる者のなかには、軍の機構のなかにくみこまれた請負業者の従業員もいるのだ。キューバのグアンタナモからアブグレイブに転勤した情報将校は、民間企業まかせのため、業者は「料理人でもトラック運転手でも」訊問要員として送りこんでくるとなげいている。
かれらはたとえばCACIインターナショナルという警備会社(何の略号だろう)の従業員であり、ヴァージニア州北部にあるこの会社は、国防総省やCIA本部との接触が容易で、会社のウェブサイトによれば「本社は情報社会に適時の解決を提供することによって、急速に世界のトップに成長した」のである。こうした請負業者のなかには、現在では解約されたが、ボスニアで人身売買や売春組織を運営していた会社もあったという。
請負業への依存は、九・一一以降、軍の負担が激増して、人員・費用ともにたえられなくなったためだといわれる。しかし、安あがりの戦争が同時にもうかる戦争であるとしたら、帳尻はどこへもっていかれるのだろうか。日本でもあちらこちらで警官の見はりが目につくようになった。警備会社がとってかわる日がくるかもしれない。
安あがりですむのは、コックや運転手が「自己責任」で応募するからだ。かれらの生命はかれら自身の保険金で償却されるだろう。コックや運転手をそのまま使うのだから、訓練にも金はかからないらしい。だが、そういう連中の訊問がどういう役にたつのだろうか。この疑問へのこたえがアブグレイブだった。ここであきらかにされた虐待のあれこれはすべて、囚人に人間としてのほこり、自主的判断の能力を失わせて、いわれるとおりに誘導されて署名させる手段だったのである。グアンタナモに収容されているイギリス人が、その結果、虚偽の自白に署名させられそうだという訴えが、姉か妹から出ている。こういう問題についてイギリス国防省は、アメリカにたいして口を出せないようである。
そもそも、誘導訊問による自白が何の役にたつのかという疑問がある。まさかそういうことで大量破壊兵器の存在にかかわる情報がえられるわけではないだろう。重大情報が重大であればあるほど、最終的にはでっちあげに適していないことは誰も知っている。そうだとすると、でっちあげ自白は、大量逮捕を正当化するのに使われるとしか考えられない。つまり大量逮捕と大量自白は、すべてでっちあげであっても、請負業者の請負料を正当化する根拠にはなる。根拠にされたイラクの民衆はたまったものではない。
この自己責任ということばは、日本人市民運動家(と総称しておく)がイラクで拘束されたときに、自民党あたりから出てきたらしいが、自由主義、民主主義のなかで使われるこの言葉の、本来の意味は、利益の追求は自己責任でということで、投資の失敗は当事者が背負うということである。落選議員にあてはまるばあいがあるかもしれないが、溺れそうになる人をたすけようとして自分が溺死したばあい(二重遭難)に、自己責任とはいわない。
小沢一郎が金丸信に、「民主主義は数です」(金まみれの数でも)といったのをきいたとき、戦後の民主主義教育の(慶応義塾大学のことはいうまい)実体を見たよう気がした。もともと民主主義は、少数者の抵抗の論理であるのに、支配する多数者がそれを利用すると、こういうことになる。
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アブグレイブのやりかたは、キューバのグアンタナモに移送したアフガニスタンの捕虜についてはじめられたといわれている。ブッシュはかれらについて、捕虜取扱いのジュネーヴ協定は適用されないと言明して国際的な非難をあびた。アフガニスタンもイラクも、かってにブッシュが攻めこんだのだから、たしかに戦争ではないだろう。これはアメリカ政府が「民主主義」を輸出する方法のひとつであって、めずらしいものではない(もうひとつの方法はカイライ政権を支援することによる内戦である)。
しかもブッシュはタリバーンもアルカイダも、テロリストであって、交戦団体ではないから、ジュネーヴ協定の適用外だとしている。この論理をみとめるとすると、拘束の正当化のために、すべての囚人にテロリストであることを認めさせなければならない。囚人の順応化と自白がどうしても必要になるわけだ。
人権は国境をこえられるか、すなわち明白に人権がじゅうりんされている国に、国境をこえた救援活動(軍事行動)をおこないうるかという問題については、議論がかさねられたが結論がでたとはおもわれない。アメリカは人権を民主主義といいかえて、それに「国益」をしのびこませ、第二次大戦後も対外軍事行動をくりかえしてきた。人権、民主主義、国益は、この種の一見普遍妥当的な標語のつねとして、内容について議論の余地がおおいにあるのだが、いまはそれを問うまい。また第二次大戦後と限定したのは、それ以前なりふりかまわぬ帝国主義では通用しなくなったからである。人権や民主主義が濃淡の差はあれ、世界的に通用するようになったからである。ところが、こまったことにアメリカは、じつは政治の民営化(ビジネス・チャンス化)にほかならないアメリカ型民主主義を、民主主義のモデルとおもいこんで、世界に輸出しはじめたのである。しかも強大な軍需産業にあとおしされて。
この輸出民主主義の軍事行動は、朝鮮戦争とヴェトナム戦争においては、正規の政府の正規軍を相手にしていたから、捕虜を発生させえたが、アフガニスタンやイラクでは、テロリスト・ゲリラを相手にしているのだから、交戦国相互間の対等の関係は存在せず、民主主義を教えるものと教えられるものとが存在するだけなのである。
これは多くのアメリカ人、とくにブッシュ政権の骨の髄にしみこんでいる差別意識の表現であり、末端でそれを表現したのが、アブグレイブの虐待である。もっともそこではさすがに、けしかける犬に民主主義を代表させることはなかったようだが。しかしアメリカ軍のなかには「かれらは力を尊敬する」と称して、大量逮捕、住宅破壊、集落包囲を正当化する将校たちがいる。こうした単純な自己正当化と、京都議定書や国際刑事裁判所を、アメリカ人に都合がわるいからとして拒否するブッシュと、かさねあわせるとアメリカの民主主義がみえてくる。かれは九・一一を、アメリカの生活様式への攻撃ととらえたし、おなじときにあるアメリカの知識人は「アメリカがこれほどきらわれているとは」と嘆いた。しかしこの衝撃の意味はまったく生かされていない。
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アブグレイブの犯人たちの裁判が、イラクで進行中と伝えられ、裁判官は法廷をバグダッド以外に移すことを拒否したという。虐待者が処罰されることを現地で示すことがイラクに民主主義をもちこもうとしているアメリカ軍にとっては、ショウとして必要なのだ。したがってまた、容疑者(兵士)たちに弁護人をつけることも、人権とショウとの双方の理由で必然なのだが、その弁護人がバグダッドに到着することが困難なので裁判がおくれているという。圧倒的な軍事力を示したあとで、軍事法廷の弁護人が到着できないとは、どういうことなのだろうか。ラムズフェルドもブレアもこられたし、ブッシュ自身もペルシャ湾の空母まではくることができたのである。何かほかの理由、たとえば弁護人の選任あるいは懐柔の困難を想像したくなるのも当然だろう。
弁護側の重要論点のひとつに、虐待が上官の命令だということがある。それが犯罪を正当化することにならないはずなのに(東ドイツの崩壊にあたっても議論されたように)、上官あるいは政府筋のだれが命令し、だれがどこまで了承していたかの、追跡調査がはじまっている。しかし、軍の組織と機密の壁があって、高級将校へのインタヴュウには手間がかかるものらしい。日本の警察の壁の一角が内部告発でようやく崩れたが、そのまえには神奈川県警のように司法を無視し続けることができた。アメリカ三軍の組織の現役将校ともなれば、壁は外にたいしてだけでなく、内にたいしてもあついだろう。
責任追及をさかのぼらせていけば、当然、ブッシュとラムズフェルドに到達する。ちょうどそれに対応するかのように、ホワイト・ハウスは、抑留者取扱いにかんする討議メモを公開した(上院の要求によるという)。メモは、イラク占領にいたるまでのペンタゴン最高レヴェルの協議をふくんでいて、そのなかでブッシュは次のようにのべていた。「私は自分が〔大統領として〕合衆国とアフガニスタンとのあいだに、ジュネーヴ協定を停止する権限を有するという、検事総長と司法省の法的結論をうけいれ、この権限を現在および将来の紛争で行使する権利を留保する」。この点はまえにものべたとおりだが、ブッシュが抑留者への人道的取扱いを主張したのにたいして、ラムズフェルドが、グアンタナモでの虐待の継続を主張して自分は八時間か十時間、立って仕事をしているのだから、囚人を四時間起立させおいてもかまわないと主張し、のちにそれを取り消したことが記録されている。このようなメモが到底、上院の期待にこたえるものではないという批判がただちに表明された。それは自己正当化にすぎないというのである。
政権の混迷に追いうちをかけるように、国連安保理は、国際刑事法廷にたいするアメリカ兵の免責を、これ以上延長しないことを決定した。ブッシュがくりかえして主張している、アメリカ人(集団であれ個人であれ)の利益に反することは受けいれないという原則への、反撃である。メモのなかで、副検事総長ジェイ・バイビーは、囚人への拷問、あるいは殺害でさえも、アメリカの安全保証のためなら正当化されるとのべていたのだ。
このところ、ブッシュにとって唯一の救いは、かれを支持する「合衆国南部洗礼派」が、洗礼派の世界的な「リベラリズム」と反アメリカ主義を非難して、組織からの離脱を宣言したことであるが、かれらは抑制された資本主義でさえ反アメリカ的だというのだから、ブッシュとともに孤立をふかめることにならざるをえないだろう。
戦争の民営化の最も単純明快な例は、中世末期の傭兵隊だが、フランス革命の農民兵についても利益追求の動機が指摘されている。しかし、二つのばあいでは誰が生命を捨て、誰が「利潤」を受けとるのかが違っている。
(〇四・七・四 グラズゴウ)
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非戦情報『反戦平和アクション』 『worldpeacenow』