歴史の再審のために真実の解明を

「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会−

北海道戦後史研究会会員 河野民雄

 〔目次〕

   1、宮地コメントと「白鳥事件」の位置づけ

      (表) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

      〔4事件の共通点〕

      〔白鳥事件と3大騒擾事件との相違点〕

      〔村上国治に関するエピソード1つ―焼死自殺?〕

       村上国治の死因について、3人の推測発言−兵本達吉、高安知彦、大石進

   2、札幌集会−河野民雄

      集会開催までの経過

      六全協で『軍事方針』は清算されたのか?−今西報告

      事件への関与を告白し謝罪一高安知彦元被告の報告一

      聴衆に感銘を与えた大石進氏の訴え

      講演に対する質疑と意見表明

      真実の究明に厚いカベ−新しい資料と証言期待

 

 〔関連ファイル〕      健一MENUに戻る

    (白鳥事件、1952年1月21日)

     宮地幸子『白鳥事件とわたし』

     高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

     中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

     今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF

     渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)

     wikipedia『白鳥事件』

     ブログ『白鳥事件−事件概要、「声明」、「天誅ビラ」』

     Maro『10月27日、白鳥事件を考える集い』新聞記事ダブルクリック→拡大

     川口孝夫著添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋

 

    (朝鮮戦争と武装闘争路線)

     『朝鮮戦争と日本共産党武装闘争の位置づけ(1)

        スターリン・毛沢東隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体・性格

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(2)

        軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(3)

        後方基地武力かく乱戦争行動り実践データ、効果と結果

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(4)

        「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加

     『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠

 

 1、宮地コメントと「白鳥事件」の位置づけ

 

 『「白鳥事件」60周年を迎えて札幌集会−北海道戦後史研究会会員河野民雄』は、『労働運動研究復刊第33号』(2012年12月)に掲載された。白鳥事件は、まだ未解明なテーマがかなり含まれている。この集会や、今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった()−新資料・新証言による真実』60年目の真実()()などにより、貴重な証言が出てきた。

 札幌集会の全文をこのHPに転載することについては、柴山健太郎労働運動研究所理事長と河野民雄氏の了解をいただいた。

 

 〔小目次〕

   (表) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

   〔4事件の共通点〕

   〔白鳥事件と3大騒擾事件との相違点〕

   〔村上国治に関するエピソード1つ―焼死自殺?〕

 

 まず、1952年に発生した4つの事件・裁判を比較し、そこでの白鳥事件の特殊性と謎について位置づけをする必要がある。

 

() 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

項目

白鳥事件

メーデー事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

1952121

札幌市白鳥警部射殺

殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ

逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡

白鳥警部即死

195251

講和条約発効後の初メーデー

皇居前広場での集会許可の裁判中

明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前

皇居前広場突入40008000人、逮捕1211

死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

 

殺人罪・殺人幇助罪で起訴

被告追平ら一部は検察側証人に

8年間

村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし

刑法106条騒擾罪で起訴253

分離公判→統一公判

207カ月間、公判1816

騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6

軍事方針有無

 

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

 

札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在

ブローニング拳銃1丁

軍事方針存在の全面否認

村上以外、「共同謀議」等自供

逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡

日本共産党中央軍事委員長志田が指令した

「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令

(プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒

軍事方針存在の全面否認

志田指令を自供した軍事委員なし

増山太助が著書(2000)で指令を証言

警察側謀略有無

拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造

二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定

 

項目

吹田事件

大須事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

195262425

朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅

集会23000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他

デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41

195277

帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場

 

集会1万人、無届デモ3000

逮捕400人、警官事前動員配置2717

死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

 

刑法106条「騒擾罪」で起訴111

日本人61人・朝鮮人50人、統一公判

20年間

騒擾罪不成立

1審有罪15人、無罪87

刑法106条「騒乱罪」で起訴150

分離公判→統一公判

261カ月間、第1審公判772

口頭弁論なしの上告棄却で騒乱罪成立

有罪116人=実刑5人、懲役最高3

執行猶予つき罰金2千円38

軍事方針有無

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

多数の火炎ビン携帯指令の存在

火炎ビンと竹槍(数は不明)

軍事方針存在の全面否認

公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用。党中央軍事委員は村上弘−逮捕されず

「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在

火炎ビン20発以上(総数は不明)

軍事方針存在の全面否認

共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田を共産党が除名→永田は公判で軍事方針の存在承認

党中央軍事委員は岩林虎之助−逮捕されず

警察側謀略有無

デモ隊1500人にたいし、

警官事前動員配置3070

デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ

メーデー事件 吹田・枚方事件 大須事件 ファイル多数

 

 〔4事件の共通点〕

 

 1、事件の4つとも、1951年10月16日五全協の軍事闘争路線・方針に基づく武装闘争共産党が起こした。当時の日本共産党は、ソ中両党への隷従政党だった。路線・方針・財政・人事とも、ソ中両党が日本共産党に命令していた。

 

 2、宮本顕治は、10月16日五全協、党中央軍事委員長志田重男に自己批判書を提出し、主流派に復帰していた。かつ、武装闘争共産党の宣伝部門を短期間担当した。国際派中央委員7人も全員が自己批判書を提出した。それによって、分裂共産党はなくなり、日本共産党は統一回復をした。4事件とも、宮本顕治を含む統一回復の武装闘争共産党が遂行した。

 

 3、ソ中両党・朝鮮労働党のスターリン・毛沢東・金日成は、中国成立1949年の2年後の国際情勢において、武力南進・武力統一を企んだ。朝鮮戦争の本質は、3社会主義国家・3前衛党による侵略戦争だった。彼ら3人は、アメリカの介入はないとの誤算に基づいて、朝鮮戦争を開始した。

 

 4、彼ら3人は、アメリカが参戦した中で、アメリカ軍の兵站補給基地日本において、後方基地の治安武力かく乱を必要とした。それは、戦争作戦の常識である。ところが、日本共産党は、四全協で分裂してしまった。スターリン・毛沢東は、国際派を脅迫し、主流派に屈服せよとの国際的命令を出した。「武装闘争は、分裂した一方がやった。現在の共産党は関係も、責任もない」というのは、宮本顕治の真っ赤なウソである。不破・志位も、同じ詭弁を踏襲している。

 

    (朝鮮戦争と武装闘争路線)

     『朝鮮戦争と日本共産党武装闘争の位置づけ(1)

        スターリン・毛沢東隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体・性格

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(2)

        軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(3)

        後方基地武力かく乱戦争行動り実践データ、効果と結果

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(4)

        「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加

     『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠

 

 〔白鳥事件と3大騒擾事件との相違点〕

 

 1、白鳥事件は、札幌共産党軍事委員会だけによる単独行動=白鳥警部射殺行為である。他3大騒擾事件は、五全協武装闘争共産党が計画し、共産党系ベルト組織+朝鮮労働党系在日朝鮮人を総動員した事件だった。

 

 2、3大騒擾事件は、すべて党中央軍事委員会が指令した。()メーデー事件は、党中央軍事委員長志田重男()吹田・枚方事件は、関西担当の党中央軍事委員村上弘()大須事件は、東海北陸担当の党中央軍事委員岩林虎之助だった。その事実は、他軍事委員や事件被告が証言している。ただ、誰も逮捕されなかった。被告たちは、党中央軍事委員を守るという党防衛意識で、自分が有罪になっても、自供しなかった

 

 ただ、白鳥事件では判明していない。事件当時、北海道・東北担当の党中央軍事委員は吉田四郎だった。彼は、札幌共産党軍事委員長村上国治にたいし、白鳥警部射殺を命令しなかったのか。それとも、村上国治が、党中央軍事委員吉田四郎の関与を隠蔽したのか。

 

 3、事件関与党員が、中国に逃亡したのは、白鳥事件だけである。10人逃亡時期は、六全協後だった。宮本顕治は、六全協で書記長になった。その後、志田重男と椎野悦朗を除名にした。人民艦隊で逃亡させた時期、宮本顕治は、実質的に党内の全権力を握っていた。彼は、逃亡に全面関与しているはずである。しかし、その経緯は隠蔽されたままである。川口孝夫夫妻中国「流刑」も、川口孝夫が明言しているように、宮本の手口である。

 

    (白鳥事件、1952年1月21日)

     高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

     中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

     今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF

     渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』

            新資料・新証言による60年目の真実 (2) (3)

     Maro『10月27日、白鳥事件を考える集い』新聞記事ダブルクリック→拡大

     川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋

     wikipedia『白鳥事件』

     ブログ『白鳥事件−事件概要、「声明」、「天誅ビラ」』

 

 〔村上国治に関するエピソード1つ―焼死自殺?〕

 村上国治の死因について、3人の推測発言−兵本達吉、高安知彦、大石進

 

 村上国治の刑期20年後の状況については、ほとんど知られていない。彼は、1994年11月、埼玉県の自宅2階で、焼死体となって発見された。その間、何があったのか。また、焼死体とはどういうことか。村上国治の死因について、3人の推測発言を載せる。

 

 〔死因の推測発言1〕、兵本達吉「焼死自殺ではないか

 

 私は、彼死後の2003年、元参議院議員秘書・被除名者兵本達吉と会ったことがある。私と彼とは、共産党の武装闘争実態・その全貌を調べる面で知り合っていた。当日は、メーデー事件の取材目的で、私夫婦と彼との3人で、メーデー事件前日・当日の証言者である増山太助を熱海自宅に訪問した。私だけは、もう一日泊まり込んで、取材を続けた。増山を中心とした武装闘争サボタージュグループの存在問題を含め、その貴重な証言内容は、別ファイルリンクに載せた。

 

    〔真相6〕 増山太助『血のメーデー』、『都ビューローの広場突入反対討論・決定』

    4、主流派内だが、武装闘争に反対し、骨抜きサボタージュ活動をしたグループ

    兵本達吉『日本共産党の戦後秘史(1)武装蜂起の時代()()−六全協

 

 兵本は、村上国治の1時期、1976・77年、党本部の机隣りで一緒に仕事をしたと語った。1975年、立花隆『日本共産党の研究』の連載が『文芸春秋』で始まった。1976・77年とは、それにたいし、宮本顕治が激怒し、「犬は吠えても歴史は進む」という一大キャンペーンを展開していた。赤旗・雑誌『前衛』『文化評論』・書籍やパンフ75万部・演説会などで、大宣伝をした。それは、立花を「特高の犬」と見下げ、宮本を「歴史そのもの」と持ち上げ、対比する異様な対応だった。

 

     wikipedia『立花隆「日本共産党の研究」』1975〜77年

 

 一方、宮本顕治と元秘書・中央委員小林栄三は、()立花隆批判・「特高史観」攻撃、()スパイ査問事件における宮本顕治100%擁護という2目的に基づき、党本部内に「特別チーム」を秘密に作った。そこには、弁護団・代々木病院長や医師・他分野の専門家を多数集めた。兵本達吉は、京大法学部出ということで選ばれた。村上国治は、白鳥・冤罪事件の当事者として加えられたか。

 

 以下は、兵本達吉が語った村上国治像である。仕事帰りに、彼らは数回、居酒屋に行った。村上国治は、党本部内で寡黙だった。しかし、酒好きで、居酒屋でアルコールが入ると、饒舌になった。兵本は、たまたま白鳥事件について1〜2回質問した。村上は、途端に態度を激変させ、沈黙した。「冤罪とも、無実」とも言わなかった。

 

    wikipedia『村上国治』

 

 私は、村上の死因について、もともと疑問があったので、質問した。兵本は、焼死自殺ではないかと推測を言った。ところが、今回の札幌集会において、高安知彦が、村上国治は自殺ではないかと発言したのには驚いた。不思議な一致である。ただ、当時、警察は、遺書的なものがなかったので、事故的な焼死とした。

 

 〔死因の推測発言2〕、高安知彦「焼死した国治さんは、もしかして自殺かもしれない

 

 高安知彦の発言内容の関連する個所を載せる。

 「国治さんの最期は可哀想です。あんなに党のために一生懸命やった国治さんは、党から見捨てられたのです。党は無情です、無情もいいところです。最高裁で最終決定が出た後、自転車泥棒事件で党から捨てられました。焼死した国治さんは、もしかして自殺かもしれないとぼくは見ています。

 

 あの頃、国治さんは飲みまくってアル中になっていたのです。国治さんは党の立場と個人の立場で悩みに悩んで死んでいったとぼくは思っています」。

 

 〔死因の推測発言3〕、大石進「最後は火中に自らの生を閉じることになった村上国治氏の不幸。自殺は組織に迷惑をかける。焼死は自殺か事故死かわからない唯一の死に方だった。

 

 第3に、党への忠誠故に、おそらくは心ならずも偽りの生を演じ続けさせられ、英雄に祭り上げられそして捨てられ、最後は火中に自らの生を閉じることになった村上国治氏の不幸。自殺は組織に迷惑をかける。焼死は自殺か事故死かわからない唯一の死に方だった。

 

 私は村上氏の焼死を聞いたときに、岡林弁護士が違う文脈の中で語った「彼は生きてはいない」という言葉が、リフレインしたことを記憶する。(大石進さんの講演全文中のP.11)

 

     Maro『10月27日、白鳥事件を考える集い』末尾の「管理者へのメール」

          末尾の「管理者へのメール」で、「集い」資料セット送付依頼をすれば、大石進さんの講演全文などを入手できる。

 

 

 2、札幌集会−河野民雄

 

 〔小目次〕

    集会開催までの経過

    六全協で『軍事方針』は清算されたのか?−今西報告

    事件への関与を告白し謝罪一高安知彦元被告の報告一

    聴衆に感銘を与えた大石進氏の訴え

    講演に対する質疑と意見表明

    真実の究明に厚いカベ−新しい資料と証言に期待

 

 集会開催までの経過

 

 1952(昭和27)年、121日午後740分頃、雪の札幌市内で白鳥一雄札幌市警警備課長が、何者かによって射殺されたいわゆる「白鳥事件」が発生してから60年が経過した。この事件をめぐって、日本共産党が実行したのか、それとも首謀者とされた村上国治氏らは冤罪なのか、長く論議を呼んで来た。

 

 今春416日、東京の明治大学リバティータワーで、この事件の60年を記念して講演と研究集会が開かれ、北海道から筆者を含む数名が参加した。秋には北海道でも同様の研究会を開く希望を持っていた。ところがいざとなると、地元ならではのシガラミがあって開催が危ぶまれた。ようやく8月も末になって、小樽商大特任教授の今西一氏や元大原社研研究員の手島繁一氏夫妻、札幌学院大名誉教授の中野徹三氏、それに筆者らの間で開催を目指す論議が始まった。

 

 その結果、今西氏を代表者とする北海道戦後史研究会が主催することに決まった。集会の目的は、特定の立場にこだわらず様々な人に白鳥事件について語ってもらい、それを記録として残すことにした。

 

 会の名称は「白鳥事件を考える集い」、期日は1027日、会場は札幌駅に近い小樽商大のサテライト教室と決まった。幸い、大学の刑事訴訟法専門の先生に講演していただけることになり、後は事件の当事者である元北大生被告高安知彦氏、東京集会で知り合った日本評論社元会長で法律にも詳しい大石進氏、社会運動史が専門の手島繁一氏にも話題提供してもらうことで集会の概要が決まった。

 

 ところが、案内のビラの作成中に肝心の大学の先生が急に講演を辞退することになり、その代役探しでテンヤワンヤの末、代表者の今西氏に引き受けていただき、手島氏が当日の司会に回ることになった。

 

 当初の見込みでは、当日は定員60人の教室がサラッと一杯になれば良いと思っていたが、メディアの協力により事前の新聞報道があったほか、呼びかけ人として新たに北大、広島大、その他の方が加わっていただいたこともあり、当日は100名近い参加者が集まった。椅子が足りなくなり、主催者が慌てる一幕もあった。

 

 また、参加者の中には現在も組織に属している方々も多く見受けられ、文字通り様々な立場の人の集いになったと思っている。集会は、「白鳥事件から60年の節目の年に、歴史の再審を行うつもりで事件の歴史を振り返るのが、本日の集会の目的です」という手島司会者の言葉で始まった。

 

 六全協で『軍事方針』は清算されたのか?−今西報告

 

 最初の講演者の今西一氏は、「今日このような集会を開いたのも、裏切り者とかユダと悪罵を投げかけられながらも60年間ジッと耐えて我慢してきた高安さんに一回しゃべってもらい、記録に残したいというのが、大きな目的の一つなのです」、と前置きしながら日本共産党の50年問題と白鳥事件の関連について、要旨次のように話した。

 

 「506月の朝鮮戦争は、物凄い破壊と犠牲をもたらした。この戦争を仕掛けたのは北朝鮮であり、ソ連や中国がこれを後押しし、日本共産党も51年の軍事方針によってこれに参加した。白鳥事件は、5全協の軍事方針の忠実な実行のスタートであり、その後メーデー事件、大須事件、枚方事件などへと続いて行った。ただ、大須や枚方事件は在日朝鮮人の参加が多かったが、白鳥事件と在日朝鮮人の関連についての研究が弱い。

 

 また、6全協によって軍事方針は清算されたとされているが、それはウソだと思っている。白鳥事件の主犯格の佐藤博氏や鶴田倫也氏の亡命は、55年の6全協の後である。しかも、その後北京機関が解体したのに、彼らは四川省という辺境に追いやられ、島流し状態になった。私は6全協というのは、軍事闘争の隠蔽工作であったと考えている」。

 

 また、この事件が北大の学生運動に与えた影響として、「505月のイールズ闘争や原爆展などの、地道に積み上げてきた取り組みを破壊してしまった。50年代には、この事件は共産党が関係していたことを知る人が多かったため、一部の人を除き事件に関心が薄かった。60年代になると裁判に稚拙な点が多かったため、白対協(白鳥事件対策協議会)の運動が起こり、結果としてこの事件に対する批判が封じられてしまった」と述べた。

 

 事件への関与を告白し謝罪一高安知彦元被告の報告

 

 今西講演の後、参加者の中には事件の内容や裁判経過をあまり知らない方もいると思われるため、予定外で筆者が事件に関する初歩的な話をすることになった。話の冒頭に、筆者が今西先生と共著で、「白鳥事件と北大一高安知彦氏に聞く」という高安氏からの聞き取りを小樽商大『商学討究』に発表した。ネットでも公開されているので、アクセスしてほしいとの話があり、続いて事件の概略や物的証拠不足の裁判経過について説明した。

 

 河野は最後に、「今となっては、長期にわたる裁判の争点を蒸し返しても余り意味がない。むしろ、裁判の過程で見落とされていた視点はなかったかを再検討する必要がある。小論を発表して親しい友人に送ったところ、どういう根拠があって冤罪説を否定するのかという質問が寄せられた。私もつい数年前までは、冤罪説を信じていたので、そういう質問が出るのは当然だと思う。

 

 簡単な理由を一つだけあげると、日中国交回復後にこの事件で中国に亡命した人たちに会った人が多数存在すること、また地元の当時を知る人がようやく口を開き始め、高安氏や中国で亡命者に会った複数の方から話しを聞くことができた。これが冤罪説を否定するに至った直接の動機である」ことを明らかにした。

 

 次いで、聴衆には一番関心の深い事件の当事者で、逮捕後に脱党して組織の関与を供述し、懲役3年執行猶予3年の有罪判決を受けた高安知彦氏が講演した。高安氏は、軍国少年としての生い立ちから北大入学直後の505月、イールズの反共演説に憤りを感じて正義感から日本共産党北大細胞に入り、5110月頃、村上国治氏らが組織した北大生を中心する秘密の軍事組織、中核自衛隊への参加。山村工作や石炭列車を止める「赤ランプ事件」のなどの実施。年末の検事や札幌市長宅への投石。そして警察への抗議葉書や年頭の対警宣言の発送、白鳥殺害のための行動調査などについて、訥々と話は進められた。

 

 白鳥事件後高安氏は、党の常任活動家として1年半ほどの一般市民と接する経験を通じ、自分たちのやった軍事闘争に疑問を抱き、思い上がりも甚だしいことに気付き始めたという。その矢先の536月、道北の名寄で逮捕された。担当検事は後に検察批判を展開した異色の安倍治夫であった。高安氏は1ケ月の黙秘後、脱党届けを出して事件について知る全てを自供した。高安氏が大勢の前でこの事を話すのは、今回の集会が最初のことであり、このことを新聞は大きく報じた。

 

 「白鳥事件は政治テロ。殺人事件に変りはない。幼稚な考えで標的にしてしまい、白鳥警部やご遺族に申し訳ない気持ちで一杯だ」、「検察側証人として法廷でかつての仲間と激しい応酬を練り広げたため『日本のユダ(裏切者)』との批判も浴び、裁判後は口をつぐんだ。だが、『仲間はみな死んだ。生き残った人間として、青春時代の行動に向き合う必要がある』と話し、党の関与を否定したかっての仲間には『党は個人に優先する』、が当時の考えで仕方のないことと思いやった」(『毎日新聞』、121028日付)

 

 最後に高安元被告が青春を捧げた共産党に対して、その思いを次のように語った。「共産党は55年の6全協で極左冒険主義を清算したと言います。だが、その具体的内容には触れておらず、白鳥事件のことなど一切出てきません。それどころか、事件は一部の分派の飛び跳ねた部分がやったということで、ぼくらや仲間のやったことを切り捨て、現在の党には関係ないといいます。果たしてこんなことで、一般の国民を納得させられるでしょすうか」。

 

 聴衆に感銘を与えた大石進氏の訴え

 

 最後の講演者は大石進氏である。大石氏は人権派弁護士の草分けである布施辰治のお孫さんで、目下三鷹事件再審を支援する会の代表者として活躍している。氏は先ず自身の大学時代の中核自衛隊経験から語り始めた。

 

 「私は上級の指導者から『お前は誰々を殺せと命じたら、実行できるか』と確認され、『はい』と答えた記憶がある(中略)、軍隊とは殺人を目的とする組織であるから、私自身が白鳥警部殺害の実行犯であってもおかしくなかった」。

 

 ついで、大石氏は次のような事実などをあげて、村上国治氏の事件へのかかわりに黒の心証を持ったと話した。事件当時北大に在学して中核自衛隊の人たちと同期で、新聞会編集長などをつとめ、後に北大教授になったイトコの布施鉄治から1955年頃、「白鳥事件はかかわったとされる多くの党員学友が行方不明になっている。某は自分の親友だった。おそらくは中国へ脱出したのだ。この事件を冤罪と思っている人は北大にはいない。白鳥事件を三鷹事件や松川事件と同列に論ずるわけにはいかない」、だからこの事件に「深入りしてはいけない」と忠告を受けた。

 

 また、法律誌編集者として多くの裁判に関心を持ち続けてきた大石氏は、松川裁判の勝利後、岡林辰雄弁護士が広津和郎に引き続き白鳥事件に取り組むように要請したが、広津が拒否した、政治主導の運動を嫌ったためだと思われる、と語った。この親戚同然の岡林弁護士に関しても、1960年代末の『法律時報』誌編集長時代のエピソードを紹介した。

 

 当時、大石宅に同居していた布施辰治未亡人を見舞いに訪れた岡林弁護士に、大石氏が、白鳥事件再審の見通しについて質問したところ次のような答えが返ってきた。「村上の無罪は主張できるかもしれないが、彼の部下の誰かが白鳥を殺したという事実は消えない。村上には組織の責任者として重い政治責任がある。もし、実行犯が逮捕されて重刑を科され、村上が無罪とされたら、村上は生きていない」。また重ねての確認に対して、岡林弁護士は、「幌見峠で発見されたという弾丸は偽物だが、党員による射撃演習の実在は疑いのない事実だ」と答えて大石氏にショックを与えた。

 

 以上は黒の心証を得た一例だが、大石氏は裁判の面から見ると違った結論になると自説を述べた。刑事裁判の大原則は、「検察の提示する証拠が合理的疑いを容れない程度に被告の犯行を証明しているか」の一点に尽きる。ところが検察側は被告人の有罪を完全には証明しきっていないとして、@証拠弾丸が極めて疑わしいこと、A実行犯の身柄が確保されていないこと、B別件逮捕、見込み捜査の上に事件が成り立っていること、

 

 C軍事組織における「共謀」とは何か、軍事組織では命令で足りるのではないか、D検察側証言は長期の勾留の後なされたものであること、伝聞証拠が混ざっていること、E自供した共犯者に配慮が加えられた可能性のあること、などを理由に、「限りなく黒に近い灰色無罪」が正しいのではないかという。

 

 また、氏はこの事件に関しては、公安側と組織の側双方に、原則からの逸脱があったという。@当時の警察は国家警察と自治体警察の二本立てだったが、両者は不仲で共産党に関する情報を共有しておらず、連携が良ければ事件を未然に防止することも可能であった。A51年綱領や武装闘争は、朝鮮戦争への日本共産党の対応である。北大の軍事アルバイト闘争や赤ランプ事件まではこの戦略にのっとった闘争であった。

 

 しかし白鳥事件は朝鮮戦争と直結した闘争ではないし、在日朝鮮人の参加も見られない。むしろ52年暮れの投石事件や警官に対する脅迫行為、翌年1月の白鳥事件は、朝鮮戦争反対の戦略から逸脱した闘争というべきである。先ほど紹介した岡林弁護士の村上被告に対する「政治的責任がある」との批判は、このような事情をも含意している。

 

 大石氏は、この事件の終局では白対協による裁判闘争など政治が持ち込まれたことを取り上げ、弁護側や白対協の運動は、逸脱した事件の被疑者を見殺しにしたくない援護射撃の側面もあったと指摘した。また、運動を主導した日本共産党が、武装闘争放棄へと路線を変更したための摩擦や軋轢がこの事件に集中的に現れ、それにともなう不幸が生じたとして、5つの不幸をあげ、この不幸に真摯に向き合うことが必要であるとした。

 

 @真実を語った者に対する非難と社会からの抹殺の対象になった者の不幸、A真実を知るが故に中国に送られた10名の党員の不幸、B党への忠誠の故に、偽りの生を演じ続けさせられ、英雄に祭り上げられそして捨てられた村上国治氏の不幸、C被告人のためではなく、組織のための弁護を続けた弁護士たちの不幸、D今なお黙して語らない関係者たちの不幸。

 

 そして、最後に大石氏はこう結んだ。「現在この国において、私が批判めいたことを述べた組織には、もっと頑張ってもらわなければならないと思っている。今こそ必要とされているとも思っている。ヒューマニズムを標榜する組織が、白鳥事件のもたらした無数の不幸について黙したままで素通りすることは、許されるべきでない。

 

 組織は革命的熱狂の中ではなく、市民的誠実さの中に生きなければならないのだから、賢明でもないと思っている。とはいえできることは限られている。亡くなった方には花を供え、なおご健在の方には心からの謝罪といたわりの言葉をそえる。人の世で、これ以上のことは出来ないと思っている」

 

 初めて耳にする貴重な情報を淡々と語る大石氏のお話は、会場の多くの人々の共感をよんだ様子であった。

 

 講演に対する質疑と意見表明

 

 大石氏の講演で予定されていた発表は全て終った。なるべく様々な意見や質問を受ける時間を多く取った積もりだったが、予定時間をかなり超過していた。司会者は、「会場の都合で残りの時間は20分ほどしか取れないが、自由に発言して下さい」と呼びかけると、

 

 早速手があがり、旭川市から駆けつけた村上国治氏の姉弟とも近しい方から、高安氏に対して質問が出された。その一部と高安氏の回答を紹介しよう。

 

 まず、「分離裁判をしたわけだが、何故一緒にやって黒白をつけなかったのか」との質問には、「ぼくは事件を認めております、彼は認めておりません。一緒にやろうという手紙を国治さんからもらったことがあるが、一つの事件で被告同士が争っていては、一緒に裁判のやりようがないのです。それで、国治さんの申し出は断りました」と回答。

 

 「高安さんは殺人幇助罪で裁かれたわけですが、今日のお話を聞いていてどこが幇助罪に当たるのか」との質問に、「殺人幇助罪というのは、ぼくらは白鳥さんの動向調査をやった。たとえば出勤や帰途の時間や経路をつけて歩き、それを上部に報告しています。それが、幇助罪に当たるのだと思います」と答えた。

 

 最後に、「村上さんは最後まで自分は無実だと言い切り、私もそれを直接聞いております。高安さんの話を伺っていると、村上さんはウソをつくとんでもない奴、人非人でけしからんということになりますが、そういう人物だったのでしょうか」との質問が出た。

 

 これに対しこう答えた。「党員は党を守るためにはウソをつきます。国治さんは個人的にはすごくいい人だと思います。ただ、そういう人でも党のためにはウソをつきます。当時はそれが当然とされていました。先ほどの大石さんの話にもあったように、党員弁護士は党員個人よりも党という組織を守ることを優先します。刑事事件であっても、個々の党員に不利益になっても、組織の防衛が優先されるので裁判でも、時にはウソをつきます。

 

 国治さんの人柄を示す一つのエピソードを紹介します。国治さんは刑期の途中で仮釈放され、札幌の勤医協病院に検査入院しました。多分その時だったと思いますが、恩師であり党員でもあった太田嘉四夫先生からぼくのところへ、国治さんが会いたいと言っているという連絡がありました。会ったらぼくの考えをはっきり言おうという覚悟で、会うことを承諾しました。そして太田先生の真駒内のお宅で会い、2時間くらい話したと思います。

 

 国治さんはぼくに一言も事件のことなど話さないで、事件と関係の無い昔の懐かしい話をして別れました。国治さんのお姉さんが書いた本の中で、刑務所から出たら高安に何としても謝らせるのだと言っていたようですが、そんなことは一言も無かったのです。この事を信じるかどうかの判断は皆さんにお任せします。

 

 国治さんの最期は可哀想です。あんなに党のために一生懸命やった国治さんは、党から見捨てられたのです。党は無情です、無情もいいところです。最高裁で最終決定が出た後、自転車泥棒事件で党から捨てられました。焼死した国治さんは、もしかして自殺かもしれないとぼくは見ています。あの頃、国治さんは飲みまくってアル中になっていたのです。国治さんは党の立場と個人の立場で悩みに悩んで死んでいったとぼくは思っています」。

 

 高安氏は、自ら客席前方に進み出て、以上のことを一気に話した。

 

 最後に、本会の呼びかけ人の一人である中野徹三氏から、自ら党員であった学生時代の事件直後の時点で、この事件は党がやった事だと確信するにいたった体験が説明された。その上で、「自分だけでなく、当時の札幌の党の主要ポストにあった人の多くは、事件のあらましについては知っていたはずである。

 

 ところが、その後党中央が先ず言い出し、その後白対協の運動なども、これは三鷹や松川と同じデッチ上げ事件であるとされた。確かに物的証拠は不足していたが、事件にかかわりまたその周辺にいて逮捕されたほとんどの人は、自分が関わった事実を自供した。そしてこうした事実を語った人は、ほとんどが真面目に活動していた党員ですが、裏切り者とかスパイなどと悪罵を浴びせられて否定されました。

 

 つい最近も、この事件が冤罪ではないという証言が地元紙に掲載されると、共産党の広報部は、新聞の問い合わせに対して『党内が分裂していた当時の一方の側に関わる問題であり、コメントする立場にない』と述べて、ひたすら逃げています。だが事件は分裂していた両派が五全協(5110月)で、一応統一して軍事方針を実行していた中で行ったのです。

 

 そしてもはや冤罪とは言わず、すべての責任を下部の党員たちに負わせて、われ関せずという。しかも長く国民を欺き続けた罪を、ほおかむりし続ける。こんなことが許されるでしょうか。この責任をはっきり取ることこそが、日本共産党が21世紀で本当に人間を大事にする政党になる第一歩であると考えます」と述べた。

 

 ここで司会者が、「皆さんの前で発言したいと思っていた方には大変申し訳ありませんが、時間が来てしまいました。この後、近くの居酒屋で懇親会もあるので、発言できなかった方は、ぜひ参加してほしい」と呼びかけ、会は終了した。

 

 真実の究明に厚いカベ−新しい資料と証言に期待

 

 懇親会には15名が参加し、アルコールが多少入った中で自由で率直な意見が交わされた。番外編として、その時の発言で筆者の印象深かった話を紹介する。発言者は、白鳥事件当時の党員学生のようで、今日の高安氏の講演をこう評した。「白鳥事件を今取り上げることは、現在の政治状況下では反共という効果しか持たない。問題は真相かどうかではなく政治的効果です。政治闘争では真実よりも、これをどう生かすかが大事です。今日の印象では、検察は高安という良いタマを見つけた。高安の発言のために皆な逮捕されたのです。ですから、仲間は高安に対する怨念で一杯なのです」。

 

 これに続く発言では、この方はその後ある事情で離党し、その時党から耐え難い人権侵害を受けたが、共産党批判になることを慮って我慢してきたとも言っている。現在の共産党に対して不満を持っている様子でもあった。

 

 実は筆者の周辺には、事件のごく近いところにいた先輩が幾人かいる。しかし、多くの方々は一切黙して語らず、この事件に関心を持っている筆者や、過去を語り始めたかつての仲間を極度に敬遠し、時には強く批判していることを耳にしている。その中には、離党して現在の党に批判的な人もいる。筆者は、これらの人の気持ちがどうにも理解できずにいたが、たまたま、飲んだ席での元学生党員の発言で、その心理の一端が理解できた。

 

 それを一言であらわすと、これらの人々は未だもって「党員は死に至るまで党内秘密を守る」という、秘密政党員としての規律の呪縛から解放されていないということである。「組織は革命的熱狂の中ではなく、市民的な誠実の中に生きて行かねばならない」とする大石講演の最後のフレーズをもう一度噛みしめたい。

 

 以上が集会の報告である。事件後60年ということで関係者が少なくなり、事件の記憶も薄れて行く危惧がある反面、今春の東京集会の際、渡部富哉氏らの努力で社会運動資料センターから、『白鳥事件裁判資料・重要証言摘録』と『追平薙嘉手記』が刊行され、入手できるようになった。全裁判記録の刊行も計画されているとも伝えられている。また、近く渡部氏による研究書や高安氏や斉藤孝氏、故川口孝夫氏らによる事件の回想録も刊行される予定と聞いている。

 

 60年経過した今日、資料が増えることにより、かえって、過去を突き放して客観的に研究することが可能となり、白鳥事件の研究がより進化して行くものと期待している。

 

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 〔関連ファイル〕

    (白鳥事件、1952年1月21日)

     宮地幸子『白鳥事件とわたし』

     高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

     中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、(添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」

     今西一・河野民雄『白鳥事件と北大−高安知彦氏に聞く』小樽商科大学PDF

     渡部富哉『白鳥事件は冤罪でなかった(1)−新資料・新証言による真実』 (2) (3)

     wikipedia『白鳥事件』

     ブログ『白鳥事件−事件概要、「声明」、「天誅ビラ」』

     Maro『10月27日、白鳥事件を考える集い』新聞記事ダブルクリック→拡大

     川口孝夫著(添付資料)『流されて蜀の国へ』の「終章・私と白鳥事件」抜粋

 

    (朝鮮戦争と武装闘争路線)

     『朝鮮戦争と日本共産党武装闘争の位置づけ(1)

        スターリン・毛沢東隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体・性格

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(2)

        軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(3)

        後方基地武力かく乱戦争行動り実践データ、効果と結果

     『朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党(4)

        「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治

     『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加

     『嘘つき顕治の真っ青な真実』五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠