朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党()

 

後方基地武力かく乱戦争行動の実践データ、効果と結果

 

(宮地作成−全体は4部作、目次1〜14)

 〔第3部・目次8〜11〕

    8、後方兵站補給基地武力かく乱戦争行動の実践データ

      1、後方基地武力かく乱戦争行動のデータ沈黙・隠蔽の命令者?

      2、後方基地武力かく乱戦争行動の項目別・時期別表 (表5)

      3、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表 (表6)

      4、武装闘争4大事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無 (表7)

      5、大須事件中、共産党が隠蔽したもう一つの真実 (4事件中の4番目)

      6、火炎ビン多用軍事命令の始期

    9、日本共産党参戦行動の効果と結果

      1、後方兵站補給基地の兵站補給・治安の武力かく乱効果

      2、日本の大衆運動の進展における逆効果

      3、党勢力の増減、国政選挙の増減 (表8)

   10、「戦後史上最大のウソ作戦」

   11、スターリン死後処理→国際的な戦後処理

      1、ソ連共産党・マレンコフ→フルシチョフ

      2、中国共産党・毛沢東

      3、朝鮮労働党・金日成

      4、国際共産主義運動

 

 〔第1部・目次1〜4〕  スターリン・毛沢東指令隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体と性格

 〔第2部・目次5〜7〕  軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助

 〔第4部・目次12〜14〕「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治

 

 〔関連ファイル〕               健一MENUに戻る

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    Wikipedia『朝鮮戦争』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

 

 8、後方兵站補給基地武力かく乱戦争行動の実践データ

 

 〔小目次〕

   1、後方基地武力かく乱戦争行動のデータ沈黙・隠蔽の命令者?

   2、後方基地武力かく乱戦争行動の項目別・時期別表 (表5)

   3、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表 (表6)

   4、武装闘争4大事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無 (表7)

   5、大須事件中、共産党が隠蔽したもう一つの真実 (4事件中の4番目)

   6、火炎ビン多用軍事命令の始期

 

 1、後方基地武力かく乱戦争行動のデータ沈黙・隠蔽の命令者?

 

 日本共産党が遂行した武装闘争とは何か? それは、朝鮮侵略戦争参戦において、日本共産党「軍」が遂行した後方基地武力かく乱戦争行動のことである。それを、いくつかのデータで検証する。その完璧なデータを保管しているのは、()現在の日本共産党、()中国共産党、()元ソ連共産党「赤軍参謀部」記録保管所である。日中両党は、今日にいたるまで、それを見事なまでに隠蔽している。

 

 日本共産党も、政府・自治体に要求するだけでなく、そろそろ自らの情報公開を、率先して断行したらどうなのか。というのも、フランス共産党は、(11994年に民主主義的中央集権制を放棄しただけでなく、(2)1998年、市民のための開かれた党という路線を打ち出し、すべての歴史家、ジャーナリストに党の保管文書を公開したからである。もっとも、フランス共産党は、朝鮮戦争参戦していない。朝鮮戦争参戦行動のデータそのものが存在しない。

 

    『フランス共産党の党改革状況』『共産党のなかでこれ以上続いてはならないこと』

 

 元共産党員で、武装闘争の参加体験を書いたものがいくつかある。しかし、それらは、個々の断片的記録にとどまっている。増山太助、大窪敏三の2著は、党中央、東京軍事委員会レベルの大きな分析をしているが、実践データを載せていない。

 

 後方基地武力かく乱戦争行動のデータを沈黙・隠蔽せよとの命令者は誰なのか、どの共産党なのか。それは、朝鮮戦争敗戦処理をしたソ連共産党・スースロフとフルシチョフ中国共産党・毛沢東である。2党と敗戦処理者たちは、モスクワでほとんど崩壊した日本共産党を再建する会議を、六全協に開いた。

 

 その場において、ソ中両党は、日本共産党「軍」にたいする後方兵站補給基地武力かく乱戦争へのソ中両党による参戦指令の公表を禁じた。日本共産党「軍」が遂行した武装闘争データの完全沈黙・隠蔽を指令した。具体的総括・公表禁止命令の存在は、不破哲三も著書で公式に認めている。ただ、「極左冒険主義の誤り」という抽象的な日本語規定だけ公表してもよいとした。

 

 2、後方基地武力かく乱戦争行動の項目別・時期別表 (表5)

 

 全国的な後方基地武力かく乱戦争行動データを載せているのは、現時点で、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)だけである。よって、以下の諸(表)は、それを、私(宮地)の独自判断で、分類・抽出したものである。

 

(表5) 後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表

事件項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)

2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)

3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)

4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃

5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む)

6、暴行、傷害

7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)

8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争

9、山村・農村事件

10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの)

 

 

 

 

 

 

 

2

1

1

95

2

48

11

20

8

15

19

9

23

1

 

 

 

 

5

 

2

 

3

96

2

48

11

29

13

11

23

10

27

総件数

4

250

11

265

 

 ()の説明をする。本来は、統一回復五全が行なった武力かく乱戦争実態を、六全協日本共産党が、これらのデータを公表すべきだった。しかし、NKVDスパイ野坂参三・ソ連内通者袴田里見指導部復帰者宮本顕治ら3人は、ソ連共産党フルシチョフ、スースロフと中国共産党毛沢東、劉少奇らが出した「具体的総括・公表を禁止する」との指令屈服した。そして、公表許可をされた上っ面の極左冒険主義というイデオロギー規定だけにとどめ、武装闘争の具体的内容・指令系統を、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙を続けている。

 

 このデータは、『戦後主要左翼事件・回想』(警察庁警備局発行、1968年)に載っている数字である。そこには、昭和27年、28年の左翼関係事件府県別一覧、その1〜4が265件ある。総件数を、私が(表5)の10項目に分類した。警察庁警備局も、このような事件の性格別分類をしていない。

 

 3、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表 (表6)

 

(表6) 武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表

武器使用項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21)

2、警官拳銃強奪

3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む)

4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき

5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む)

6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む)

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

総件数

0

71

0

71

 

 (表6)の6項目も、私の判断で分類した。(表6)件数は、すべて(表5)に含まれており、そこから武器使用指令(Z活動)だけをピックアップした内容である。この『回想』は、283ページあり、これだけの件数を載せた文献は他に出版されていない。もちろん、警察庁警備局側データである以上、警察側の主観・意図を持った内容であり、そのまま客観的資料と受け取ることはできない。しかし、五全協日本共産党による武装闘争指令とその実行内容を反映していることも否定できない。

 

 (表6)後方基地武力かく乱戦争行動の攻撃対象には、特徴がある。米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃件数は、11件/265件で、4%だけである。それにたいして、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)件数は、145件/265件あり、55%を占める。

 

 このデータ件数比率からは、次の判断が成り立つ。ソ中両党の日本共産党「軍」にたいする後方基地武力かく乱攻撃命令対象が、米軍基地・軍需輸送の直接破壊ではなく、後方基地日本全体の治安の武力かく乱にあったのではないかということである。

 

 (表6)使用武器の大部分は、火炎ビンだった。ただ、使用総本数について、『回想』も明記していない。『戦後事件史』(警察文化協会、1982年)という、1232ページの警察発行の大著がある。そこでは、1952年6月25日、吹田事件翌日の新宿駅事件について、次の記述をしている。「朝鮮動乱二周年目の二十五日、夕方から新宿の東京スケートリンクで行われた国際平和記念大会に集った約二千五百名が、散会後の九時四十分ごろ新宿駅付近にくり出し、警戒中の約千名の警官と衝突、例によって硫酸ビン、火炎ビンを投げつけて大乱闘となり、検挙者三十名、警官隊の負傷者二十名、新聞記者、カメラマンの負傷者三名を出した。投げられた火炎ビンはこれまでの事件では一番多く総数五十本以上で、投げ方も非常に正確であった」(378)。この本数を見ると、使用火炎ビン総数は、火炎ビン投てき件数35件で、数百本と推計される。

 

 4、武装闘争4大事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無 (表7)

 

 〔小目次〕

   1、4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無 (表7−1、2)

   2、白鳥事件

   3、メーデー事件

   4、吹田・枚方事件

 

 1、4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無 (表7−1、2)

 

 北朝鮮系の在日朝鮮統一民主戦線(民戦)とは何か。武装闘争において、民戦・祖防隊が果たした役割・比率は大きい。日本共産党軍事委員会・民族対策部(民対)は、民戦を指導下に置いていた。当時のコミンフォルム路線は、一国一前衛党方針だった。そこから、在日朝鮮人内の共産党員は、全員日本共産党の党員になっていた。

 

 当時の民戦は、在日朝鮮人60万人中、45万人を傘下に抱えていた。在日朝鮮人の日本共産党員が中核となっていた戦闘部隊が、祖国防衛委員会・祖国防衛隊だった。彼らは、これらの武装闘争やZ活動を祖国解放戦争参戦行動と受け止めて、日本人共産党員兵士よりも、先頭になって実践した。それだけに、当局による逮捕・弾圧、職場解雇などの犠牲は甚大だった。

 

    Google検索『在日朝鮮人と武装闘争』

    『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』北朝鮮系在日朝鮮人組織と運動の3段階

 

 下記でのべるように、六全協の野坂・宮本指導部は、彼らを見殺しにし、日本人共産党員兵士ともども極左冒険主義路線実行者として切り捨てた。武装闘争発令の日本人中央委員たちは、誰一人として、武装闘争・Z活動事件で逮捕・有罪・下獄にならなかった。日本人指導者たちの自己保身=在日朝鮮人の実践兵士見殺し政策にたいする怒りと批判が、金日成の思惑による呼びかけもあって、1955年六全協と同時に、日本共産党指導下の民戦から、朝鮮労働党指導下の朝鮮総連に組織転換する下地にもなった。

 

(表7−1) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

項目

白鳥事件

メーデー事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

1952121

札幌市白鳥警部射殺

殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ

逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡

白鳥警部即死

195251

講和条約発効後の初メーデー

皇居前広場での集会許可の裁判中

明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前

皇居前広場突入40008000人、逮捕1211

死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

殺人罪・殺人幇助罪で起訴

被告追平ら一部は検察側証人に

8年間

村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし

刑法106条騒擾罪で起訴253

分離公判→統一公判

207カ月間、公判1816

騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6

軍事方針有無

 

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在

ブローニング拳銃1丁

軍事方針存在の全面否認

村上以外、「共同謀議」等自供

逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡

日本共産党中央軍事委員長志田が指令した

「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令

(プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒

軍事方針存在の全面否認

志田指令を自供した軍事委員なし

増山太助が著書(2000)で指令を証言

警察側謀略有無

拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造

二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定

 

(表7−2) 4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

項目

吹田事件

大須事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

195262425

朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅

集会23000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他

デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41

195277

帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場

 

集会1万人、無届デモ3000

逮捕890人、警官事前動員配置2717

死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

刑法106条「騒擾罪」で起訴111

日本人61人・朝鮮人50人、統一公判

20年間

騒擾罪不成立

1審有罪15人、無罪87

刑法106条「騒擾罪」で起訴150

分離公判→統一公判

261カ月間、第1審公判772

口頭弁論なしの上告棄却で騒擾罪成立

有罪116人=実刑5人、懲役最高3

執行猶予つき罰金2千円38

軍事方針有無

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

多数の火炎ビン携帯指令の存在

火炎ビンと竹槍(数は不明)

軍事方針存在の全面否認

公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用

「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在

火炎ビン20発以上(総数は不明)

軍事方針存在の全面否認

共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田は公判で軍事方針の存在承認→共産党は永田除名

警察側謀略有無

デモ隊1500人にたいして、

警官事前動員配置3070

デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ

 

 これらの4事件について、軍事方針有無警察側謀略有無の面だけを検討する。

 

 2、白鳥事件

 

 軍事方針存在と事前活動は事実だった。白鳥警部射殺の軍事委員会会議と計画の存在も、村上札幌市軍事委員長以外の会議参加者ほぼ全員が自供しているので事実である。札幌地検は、1955年8月、彼らを殺人罪で起訴した。射殺がでっち上げならば、射殺実行犯とされる1人をふくむ10人を、統一回復日本共産党が、中国に亡命させる必要はない。

 

 また、第一審公判最中に法廷に提出された警察・検事調書党中央命令で再検討・審査した軍事委員川口孝夫を、宮本顕治・ソ連内通者袴田里見らが、六全協後の1956年3月に、白鳥事件の真相を知りすぎた男として、人民艦隊を使って、中国・蜀=四川省の奥地永久流刑させる必要もない

 

 永久流刑とは、北京機関代表・ソ連内通者袴田が、宮本顕治と協議し、中国共産党側担当幹部にたいして、「日本革命が起きるまでは、川口を日本に帰さないでくれ」と依頼したことである。その事実は、中国幹部が川口に直接話したことから判明した。さらなる疑惑がある。朝鮮労働党が、よど号事件犯人を厚遇・利用しているのと同じように、中国共産党が、白鳥警部射殺実行犯とされる佐藤博の中国における死亡後も、鶴田倫也1人を、今なおかくまい続けることは、まったく不自然である。

 

 第一審札幌地裁は、1957年5月村上被告無期懲役の判決を出した。控訴審札幌高裁は、1960年5月懲役20年の実刑判決をだし、上告棄却により、村上軍事委員長下獄した。事件・裁判の概要は、下記HPにある。

 

 警察側謀略があったのか。幌見峠で発見された試射銃弾は、その旋条痕・腐蝕度の諸鑑定からみて、警察の謀略によるでっち上げ物的証拠である。日本共産党は、使用したブローニング拳銃、自転車を廃棄・隠蔽し、その実行犯など10人を人民艦隊で中国共産党側に逃亡させ物的・人的証拠の完全隠滅に成功した。中国共産党は、犯人隠匿に全面協力した。

 

 警察側にあるのは人的証拠としての村上札幌市軍事委員長を含む逮捕者55人だけだった。その3分の2は、白鳥事件への関与を認めて自白した。自白調書だけによる公判維持は、きわめて困難である。そこで、警察側がでっち上げたのが幌見峠試射銃弾だった。

 

 白鳥事件については、3つの文献がある。中野徹三『現代史への一証言、白鳥事件』、川口孝夫『私と白鳥事件』添付、高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に、である。

 

    中野徹三『現代史への一証言、白鳥事件』川口孝夫『私と白鳥事件』添付

    高橋彦博『白鳥事件の消去と再生』『白鳥事件』(新風文庫)刊行の機会に

 

 3、メーデー事件

 

 軍事方針はあったのか。皇居前広場突入軍事方針の存在と発令は事実である。その経過を、増山太助東京都ビューローキャップが『左翼群像』(225)において明確に証言した。メーデーの前日共産党の都委員会は拡大都委員会を開き「会場問題」について意志の統一を図ることになり、査間中の私も求められて出席することになった。ビューローキャップの枡井ら多数は「少なくとも共産党の部隊は人民広場に入り、使用させなかったことの不当性を抗議すべきではないか」と主張したが、私は「メーデー実行委員会の意向を尊重して人民広場に入るべきではない」と反対した。

 

 そして、白熱の討議の結果、「人民広場には入らず」「中央コースのデモ隊が広場側を通過する際、シュプレッヒコールで抗議の意思表示をおこなう」ことになり、関係方面にその旨を伝えた。

 

 ところが、その晩志田の使者・沼田秀郷が、枡井、浜武司を通じて全都の共産党地区委員会に「党員は大衆を誘導して人民広場に突入せよ」と命令し、いわゆる「血のメーデー」の事態に発展した。もちろん、宇佐美の「独立遊撃隊」も宮島の「カメラマン集団」もこの命令に従って出動した。そして、臨中も、またこの日から放送を開始した北京の自由日本放送も、「血のメーデー」の激突を「民族独立」の「英雄的決起」とほめたたえた。

 

 警察側謀略はあったのか。講和後初のメーデーで、警察も、事前に大規模な警備体制をとっていた。警察側の謀略作戦内容は、公判で明らかになり、判決もそれを認定した。メーデー事件被告団団長岡本光雄は、『メーデー事件』(白石書店、1977年、絶版)で、事件経過について綿密な論証をしている。

 

 警察側作戦は、二重橋広場の一番奥まで、デモ隊の行進・突入を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという騒擾罪でっち上げ目的を持った謀略だった。判決は、警察の襲撃は違法行為と認定した。

 

 メーデー事件については、インターネットで5つのファイルがある。

 

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』「部外秘」『メーデー騒擾事件の捜査』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    法政大学大原社会問題研究所『四つの騒擾事件』

 

 4、吹田・枚方事件

 

 軍事方針はあったか。吹田事件については、『回想』データを見るかぎり、多数の火炎ビン投てきと竹槍所持は事実である。2003年4月になって、枚方(ひらかた)事件・元被告の脇田憲一から、枚方・吹田事件の資料と証言を得た。この詳細は、彼の著書にある。彼の資料を参考にする。

 

 枚方事件とは、1952年6月23日深夜から24日未明にかけて、日本共産党大阪府ビューロー・軍事委員会の軍事方針に基づいて、旧陸軍造兵廠枚方製造所パルチザン(遊撃隊)9人が侵入し、時限爆弾2発を仕掛け、1発が爆発した軍事行動だった。

 

 さらに、24日夜から25日未明にかけて、日本共産党東大阪地区の青年党員、在日朝鮮民主愛国青年同盟員らが、百数十人の行動隊を結成し、枚方工廠の小松製作所払い下げ運動の中心人物小松正義宅に押し掛け、火炎瓶数本を投げ込んだ事件である。旧枚方工廠爆破事件・小松正義方襲撃事件で、警察・大阪地検は、100人を逮捕し、65人を起訴した。裁判期間は、15年3カ月間だった。判決は、有罪59人、内懲役実刑3年から5年が5人、無罪6人だった。このデータは、上記()吹田事件の数字とは別である。

 

 吹田事件については、彼の事件概要資料のごく一部をそのまま引用する。

 吹田事件は、朝鮮戦争二周年記念六・二五闘争を代表する事件であった。また、当時の日本共産党の軍事闘争として、その計画性と規模において、また、その社会的影響力において戦後最大の反権力、反戦闘争だった。統一回復日本共産党は、この事件を革命闘争の前進として評価した。一方、検察当局治安警備の大失敗であったと総括している(検察資料「吹田・枚方事件について」検察研修特別資料第十三号・一九五四年三月発行)。

 

 筆者脇田憲一は、この検察資料の入手によって、はじめて検察側から見た吹田・枚方事件の全体像を知ることができた。この資料は検挙した被告の自供調書と押収した日本共産党および朝鮮人団体の内部文書により、事件の計画、実行、総括の全貌を明らかにした。この資料を当時の日本共産党大阪府ビューロー(地下指導部)のメンバーであったU氏に目を通してもらった。彼は「自分が関係した部分に関してはほぼ正確である」と認めた。

 

 朝鮮戦争二周年記念日闘争の戦略を裏づける文書として「大阪民対六・二五闘争報告」を取り上げる。検察側はこの文書を次のように重視している。「本文書は押収文書中もっとも重要なもので、六・二五記念日闘争の全般について詳細かつ正確な記載で満たされている。六・二五闘争の基本方針と具体的戦術、準備活動は本文書で述べ尽くされているごとき感があるのである。特に重要と思われる点は、枚方における小松正義方の放火未遂事件と旧陸軍枚方工廠の電動水圧ポンプ爆破事件が、六・二五闘争の一環として、吹田騒擾事件と相呼応して敢行されたものであることを示している点である。六・二五吹田騒擾事件と六・二五枚方事件との関連性を示す最も価値のある文書である」(「検察資料」一〇〇頁より)。

 

 さらに国警大阪府本部と大阪市警視庁はこの文書の真実性を裏付ける文書として民戦中央委員会、関西祖国防衛委員会、日本共産党西日本ビューローの闘争指令を入手している。これらの文書によって朝鮮人側の軍事闘争を指導する大阪府民族対策部の代表を、この六・二五闘争に関して党大阪府軍事委員会メンバーを加える決定をしていることが示されている。つまり、吹田・枚方事件は、東京のメーデー事件に対抗した大阪の闘いとして朝鮮人側と日本人側の組織が合流し、統一司令部を形成して実行したことが窺える。筆者はこの事実を先述の党大阪府ビューローメンバーU氏の総括文書「大阪の一隅に生きて七十年」−私の総括(六四頁)、夫徳秀の「第一回吹田事件研究会」の報告メモ、名古屋大須事件・酒井博元被告の証言などによって検証した。

 

 一日違いの2事件の性格・関係と位置づけについて、脇田憲一は、枚方工廠爆破行動の方が、主要目的の軍事作戦であり、吹田事件は、それを成功させるための大衆行動としての陽動作戦である、と位置づけている。そして、彼は、2事件を統括する軍事方針の存在は明白だとしている。日本共産党が、武装闘争=朝鮮戦争後方基地武力かく乱戦争行動において、時限爆弾を使用したのは、この枚方工廠爆破行動のケースだけである。それだけに、事件後、共産党大阪府ビューローは、総括で、「東京のメーデー事件と比べて、意識的具体的に計画し、軍事行動と結合させた行動」と自賛した。2事件の公判とも、それぞれ担当の軍事委員長は、軍事方針の存在・軍事指令実態を具体的に陳述した。

 

 警察側謀略があったか。デモ隊1500人にたいして、警官事前動員配置を3070人もしていたことは、メーデー事件の後とはいえ、過剰警備といえる。ただ、「検察当局は治安警備の大失敗であったと総括」したというデータや根拠については、脇田憲一著書がある。

 

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』 『私の山村工作隊体験』略歴

    高橋彦博『枚方事件について』脇田憲一氏の『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』を読む

 

 5、大須事件中、共産党が隠蔽したもう一つの真実 (4事件中の4番目)

 

 〔小目次〕

   1、警察側謀略の有無と、検察側謀略の有無

   2、大須事件とメーデー・吹田事件との相違点

   3、私と大須事件被告たち

 

 1、警察側謀略の有無と、検察側謀略の有無

 

 警察側謀略があったのか。警官事前動員配置は2717人だった。デモ開始わずか5分後250m進行時に、警察放送車内火炎ビンが発火したことが最大の疑惑である。警察・検察側は、その最大の物的証拠である火炎ビンを、公判26年間中に、21年間も提出しなかった。

 

 警察放送車に火炎ビンを投げたとされ、デモ隊先頭グループにいた鵜飼昭光が警察側スパイであったことは事実で、警察も彼がスパイであったことを公判で認めた。「大須事件の作り変え」の決定的証言を6回した警官清水栄は、弁護団の7回目の再尋問請求から、突如、家出・失踪した。

 

 警察側が無届デモ隊3000人にたいして警察放送車内火炎ビン発火と同時に、いっせい先制攻撃をしたタイミングよさは異常である。大須事件被告団・弁護団発行の『大須事件の真実、写真が語る歴史への証言』(1980年、絶版)が、多数の写真、現場岩井通り地図をふくめて、「騒擾罪でっち上げ目的」の警察側謀略作戦を論証している。

 

 共産党愛知県委員会は、1970年愛知県国民救援会事務局長を、「長期にわたる公安スパイだった」として、除名した。事務局長は、大須事件裁判過程にあった被告団・弁護団活動やその実務の中心にいた。当然、被告・弁護団側の裁判闘争方針や内部の実情は、彼を通じて、警察・検察側に筒抜けになっていた。彼が、事件後のいつからスパイであったかの実態は、闇の中である。事件当日・公判過程の謀略作戦や、救援会事務局長をスパイに取り込む作戦など、警察・検察側は、騒擾罪をでっち上げる目的で、あらゆる手段を行使した。

 

 軍事方針があったのか。集会1万人にたいして、無届デモ参加者は3000人だった。前日の7・6広小路デモ逮捕者12人中の一人から発見された、翌日集会後「無届デモとアメリカ村、名古屋中警察署への抗議行動をする」という軍事委員会指令のメモが存在したことは事実である。警察は、軍事メモという物的証拠を前日に入手して、色めきたった。警察発表の火炎ビンは20発以上ある。

 

 2、大須事件とメーデー・吹田事件との相違点

 

 大須事件が、メーデー・吹田事件と異なるのは、3点ある。()軍事委員会指令メモという物的証拠が存在し、前日に警察側の手に渡ったこと、(2)警察側スパイ鵜飼が、デモ隊先頭グループにおり、警察放送車に火炎ビンを投げたと公判で証言したことである。()名古屋地検・名古屋市警察が、メーデー事件裁判経過を学び、吹田事件の翌日6月26日に会議を開き、はやくも名古屋の今後の集会に擾乱罪を適用する準備を整えていたことである。

 

 事件後、安井名古屋地検検事正は「この大須の擾乱事件を名実ともに日本一の事件に仕立てあげたい」と豪語した。ここには、5・1メーデー事件担当東京地検、6・24吹田事件担当大阪地検、7・7大須事件担当名古屋地検どうし間における、どこの警察・検察側が騒擾罪適用判決を勝ち取るかどうかの、熾烈な地検間成績争い競争もあった。擾乱罪適用をさせるための名古屋地検・名古屋市警察の意気込みと謀略作戦の諸データは、『大須事件の真実』が載せている。これらは、3番目の7・7大須事件裁判闘争をたたかう上での、他2事件にない特殊条件だった。

 

 公判進行途中に、共産党は、共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ・大須事件被告永田末男除名した。いったい、共産党は、なぜ、どういう口実で彼を除名したのか。彼は、1958年の共産党第7回大会に愛知県選出代議員として出席しているから、除名は、その後の時期である。

 

 彼は、他2事件にない3つの特殊条件を持つ法廷闘争の進め方について、党中央と意見が対立した。永田被告は、それらの特殊条件がある以上、党中央指令に基づき、彼と軍事委員会が出した火炎ビン携帯の軍事命令を認めた上で、火炎ビンを携帯したが投げてはいないとして、警察側の謀略とたたかうべきだと、党内で主張した。彼は、裁判闘争方針について、「軍事指令の存在に関して、全面否認のウソをつき続けるか、それとも、真実を認めるという転換をするのか」という2つの選択肢を提起し、第2の道を選べとの方針大転換意見を提起した。

 

 宮本顕治は、裁判途中で、今さらそんな闘争方針転換を認めたら、デモ参加・逮捕者だけでなく、党中央機関全体が逮捕・弾圧されると、恐怖におののいた。刑法106条「騒擾罪」で起訴された愛知県150人の朝鮮戦争参戦の日本人兵士・在日朝鮮人兵士だけに、武装闘争実践責任を押しつけておけば、彼らが26年間、大須事件被告として裁判にかけられようとも、党中央委員会は、安泰である。

 

 永田被告も代議員として出席した、1958年共産党第7回大会後の野坂参三議長・宮本顕治書記長は、「あくまでウソをつき続けよ」との方針を決定し、被告団・弁護団内共産党員グループに命令した。は、党中央決定に逆らって、公判で火炎ビン携帯軍事指令の存在を認め、一方で警察側謀略告発した。

 

 共産党の永田除名理由は、「党内問題を党外にもちだした=真実を公判で陳述した」という反党行為規律違反だった。武装闘争実践において日本共産党が、事件指導者を除名したケースは、この大須事件永田愛知ビューローキャップ一人だけである。永田被告を除く、大須事件被告団・弁護団は、野坂・宮本命令に従って、「火炎ビン携帯の軍事委員会指令など出していない。火炎ビンが有ったのかどうかも知らない。すべてが警察側の謀略であり、完全無罪である」との法廷戦術を続けた。

 

 火炎ビン携帯指令が存在した事実を全面否認せよ=「3つの特殊条件があろうとも、法廷でウソをつけ、真実をのべてはならない」との野坂・宮本方針による裁判闘争26年間の結果は、3大騒擾事件中、大須事件だけに「騒擾罪」の成立を許した。日本共産党には、このような特殊条件下の裁判闘争方針の正否、および、永田除名経緯を総括・公表する義務がある。

 

 大須事件元被告・当時愛知第2地区の地区委員長酒井博は、HPで次の事実をのべている。「7月7日夜のデモの進路を変更して中警察署やアメリカ村には行かず、上前津の交差点を右折して金山方面に向かってデモ行進を行い、金山体育館で流れ解散する、という方針をたてていた。これは全組織を通じて流されたので、7日の夜には私たちのところにも指令は届いていた。官憲が弾圧を加えてくることは分かっていたので、アメリカ村に行くと見せかけながら、官憲にかたすかしを食わせる、抗議はするけれど実力行動はやらないということだった。このような方針が出たので、私も地区の党員に今日は火焔瓶を持っていくなと伝えた

 

 それでも共産党というのはおかしくて、Y=軍事委員会の方針は独自に情勢分析をやって火焔瓶を持たせていた。大衆的なデモをするという方針を出しながら、裏のほうでは中核自衛隊という自衛組織に火焔瓶を持たせていたのである。党の組織は二重になっていた」。「私を8月30日に逮捕したねらいは、後で考えてみれば、私は軍事委員会でも中核自衛隊でもないけれど、当時の共産党の中では比較的大衆闘争をやっていたということで、政治的に私を逮捕する効果が大きいと考えたのでしょう。最初弁護士は、選挙が終ったらすぐ釈放されると楽観していた。私も楽観していた。

 

 しかし、その後保釈されるまでに235日、独房で暮らす事になった。一方、軍事委員長は捕まっていないのである。結局本当に大須事件を企画し、実行した軍事部門の、特に中核自衛隊等の連中はほとんど捕まっていない。その理由はわかりません。そういうことを共産党は明らかにして、その上で総括する必要があると思う。事件があってそれが騒乱罪で裁かれて終ったという事だけではなく、大須事件の真実を明らかにすべきだと思う。その後控訴審、最高裁と26年に及ぶ長期の裁判闘争だったが、結局、大須事件では、騒乱罪が成立した。私の最終的な判決は付和随行で、6000円の罰金刑に2年の執行猶予がついた」。

 

 名古屋市警・名古屋地検は、講和条約後の日本法制史上、初の刑法106条「騒擾罪」成立判決をさせるかどうかの、東京・大阪との地検間レースに勝ち抜いたことで、勝利の祝杯をあげた。日本共産党の野坂議長・宮本書記長らは、永田被告の反逆・反党行為があったのにもかかわらず、大須事件の被害が党中央に及ばなかったことで、安堵の息をもらした。

 

 3、私と大須事件被告たち

 

 この事件に関連して、私の体験をのべる。私は、名古屋生まれの名古屋育ちである。大須・上前津の交差点付近は、古本屋が集中しており、古本屋めぐりが趣味の私は、その近辺を数十回歩き回り、事件現場も熟知している。ただ、1952年当時は、まだ15歳で、事件の記憶は残っていない。

 

    『日本共産党との裁判第6部〜8部』民事裁判提訴→除名、尾行・張込1カ月間→判決

 

 永田被告は、懲役3年の判決を受け、日本人2人、在日朝鮮人2人とともに、1978年下獄した。彼は、三重県津市で学習塾をしていた。その時、彼の友人が、「日本共産党との裁判」中の私に電話をかけてきた。下獄中、学習塾を閉鎖したくないので、同じ除名・反党分子仲間の私にやってくれないかという依頼だった。私も、いろいろ考えたが、自分の裁判と学習塾運営のかけもちは無理だと、断った。彼が仮釈放になったのは、1980年だった。

 

 酒井元被告には、2003年、話しを聞いた。彼の意見は、現在も上記のとおりである。それ以外にも、愛知県党の諸問題について、強烈な批判意見を持っていた。

 

 私の共産党専従以来の友人に、同じく共産党専従だった千田貞彦がいる。彼は、逓信のレッド・パージを受けた労働者で、大須事件の直前まで名古屋市軍事委員長だった。名古屋では、1952年5月30日金山橋事件7月6日広小路事件7月7日大須事件と続いた。

 

 ところが、彼は、金山橋事件で逮捕され、大須事件当日も留置所にいた。そこで、後任の軍事委員長は、柴野一三になった。永田、柴野らの軍事委員会が火炎ビン携帯命令を出した。千田貞彦が軍事委員長だった5月頃には、まだ火炎ビン携帯軍事命令は、党中央軍事委員会から降りて来ていなかった。よって、彼は、金山橋事件被告になったが、大須事件被告にはならなかった。彼も、永田除名の経緯は、上記のとおりと証言している。

 

 私は、個人的にも、他に大須事件被告を十数人知っている。高校生時代の先生・図書係3人がいる。後に民青中央常任委員になった図書係のアドバイスで、『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』『チボー家の人々』などを読んだ。愛知県の共産党専従時代では、先輩の専従、議員、民商事務局員らの何人かは、大須事件被告で、裁判をたたかっている最中だった。

 

 これらの個人的体験からも、3000人無届デモにおいて、火炎ビン約20本携帯の軍事委員会指令が、中核自衛隊・独立遊撃隊や在日朝鮮人祖防隊に出ていたとしても、大須事件は、警察側謀略が基本要素であって、3000人に「暴行・脅迫の共同意思」が成立していたはずもなく、「騒擾罪」成立判決は、まったく不当である、というのが私の判断である。

 

 被告2人の証言はインターネットファイルに載せた。被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判、元被告酒井博『講演−大須事件をいまに語り継ぐ集い』、『証言−名古屋大須事件、歴史の墓場から蘇る』が詳しい。

 

    第1部『共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備』 『第1部・資料編』

    第2部『警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備』 『第2部・資料編』

    第3部『大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否』 『第3部・資料編』

    第4部『騒擾罪成立の原因(1)=法廷内闘争の評価』 『第4部・資料編』

    第5部『騒擾罪成立の原因(2)=法廷内外体制の欠陥』 『第5部・資料編』

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

 

 6、火炎ビン多用軍事命令の始期

 

 党中央軍事委員会が、実際の火炎ビン携帯・多用の軍事命令を出したのは、いつ頃か。それは、1952年5月末からである。5・1メーデー事件以降、名古屋には、5・30金山橋事件においても、その軍事命令が、党中央から降りて来ていない。火炎ビン多用ケースは、6・24吹田事件数十本6・25新宿事件50本7・7大須事件20本である。共産党側がその本数を認めるはずもないので、これは警察発表数字である。

 

    由井誓『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』

 

 共産党側の唯一の証言は、由井誓早稲田大学中核自衛隊長5・30新宿駅前事件についてのべた『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』ケースである。「実際に火炎ビンを持って街頭に出たのは、私の記憶に間違いがなければ五・三〇であった。当日は雨模様ではあったが、新宿駅前で破防法粉砕総決起大会が予告されており、なにごとかを期待する群衆が夕方からたむろしていた。早稲田の隊は二幸側から、東大の隊はガード下の方から、居住の隊は武蔵野館の方から駅前交番めがけて火炎ビンを投げた

 

 三方向の連絡には夜の女をよそおったお茶大の隊員があたった。それまでは夜陰に乗じての襲撃方法が一般的で、群衆の目の前での火炎ビンがめずらしかったのか『火炎ビンがバカスカ』というように表現されているが、実際に投げたのは三方向から一〇人ぐらいがひとり二本ずつだったろう。材料入手も簡単でなかっただけに扱いも慎重だった」。このケースは約20本である。

 

 党中央軍事委員会は、5・1メーデー事件において、警察側の「違法攻撃」にたいするデモ隊の怒りを、「日本人民が、共産党の武装闘争路線を支持して、ついに決起した」と錯覚した。軍事委員会は、その人民蜂起を持続・発展させるために、Z活動(武器使用)としての火炎ビン多用戦術に、武装闘争方針をエスカレートさせた。そのスタートが、5・30新宿駅前事件20本だった。

 

 そして、7・7大須事件においては、酒井博証言のように、彼が表側で火炎ビン携帯を禁止したのに、裏側で中核自衛隊がそれを携帯したのは事実である。共産党の民主主義的中央集権制とは、レーニン以来鉄の軍事規律=武装蜂起軍隊の組織原則だった。

 

 党中央軍事委員会の火炎ビン携帯軍事命令がないのに、下部部隊の名古屋市軍事委員会が独自判断で、火炎ビン携帯を戦闘組織である中核自衛隊・在日朝鮮人祖防隊にたいして、独断専行で指令することなどありえない。酒井証言は、火炎ビン携帯の党中央軍事委員会命令が降りて来ていたことを証明している。

 

  

 

 

 9、日本共産党参戦行動の効果と結果

 

 〔小目次〕

   1、後方兵站補給基地の兵站補給・治安の武力かく乱効果

   2、日本の大衆運動進展にたいする逆効果

   3、党勢力の増減、国政選挙の増減

 

 1、後方兵站補給基地の兵站補給・治安の武力かく乱効果

 

 (表5、6)から見て、米軍基地襲撃、軍需生産の阻止・妨害、朝鮮向け軍需物資鉄道輸送妨害の戦争行動は、ほとんどない。(表6)米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃数は、11件/265件、4%であり、本格的な集団攻撃はない。

 

 スターリン・毛沢東日本共産党「軍」に与えた軍事命令内容は、結果から見るかぎり、兵站補給基地日本における治安の武力かく乱戦争行動だった。1955年10月五全協後、統一回復日本共産党は、続々と軍事方針を発表した。その一つが、11月22日付『(警察)予備隊工作の当面の重点』『警察工作の立ちおくれを克服するために』(『球根栽培法』第2巻第23号・通巻第32号)(『戦後党史』137)だった。その軍事指令に基づく参戦行為が、(表5)における警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)95件、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)2件、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)48件」の合計145件/265件、55%である。

 

 もちろん、これは、武装闘争の第2性格、吉田内閣・警察の弾圧にたいする抵抗自衛の非合法活動でもあった。これらの参戦行為は、(表7)の3大事件と合わせて、治安の武力かく乱の面で、一定の効果を挙げたかに見えた。しかし、それは、国民の感覚から浮き上がり、さらなる弾圧の口実を与え、全面的な逆効果の結果となった。

 

 2、日本の大衆運動進展にたいする逆効果

 

 この時期の全体評価については、小山弘健が『戦後党史』第3章極左冒険主義の悲劇(133〜178)で、詳細にのべている。要約だけでも、かなり長くなるので、その一節のみを引用する。これは、私の評価とまったく同じである。

 

 「第二章でみたように、一九五〇年春以後一カ年半にわたる苛烈きわまる分派闘争は、わかいまじめな党員や同調分子の大衆を党からひきはなした。昨日までの同志を、一夜にしてスパイ、帝国主義の手さきとみなした。個人のひみつをまで平然と敵にばくろする非人間的やりかたは、多くの人たちに二度と回復できない心理的衝撃と不信感をあたえ、永久に戦列から去らしめた。それがやっとおさまったとみるや、今度は一年たたないうちに、いっそう実害の多い火炎ビン闘争の極左冒険主義への突入となり、いくたの青年たちを生涯とりかえしのつかない破めつのふちにおいこんだ。

 

 党地下指導部のまちがった戦術のぎせいとなった多数の青年・学生・朝鮮人が、その後何年間も追及をうけ裁判にかけられて、その青春をむなしく朽ちはてさせられた。またこの火炎ビン闘争は、広範な大衆に党を誤解させ恐怖させ嫌悪させて、ながく党からひきはなすうえに最大の役割をはたした。これらすべてにたいして、この時期の党指導部は全責任を負わねばならない」(148)。

 

 3、党勢力の増減、国政選挙の増減

 

 統一回復日本共産党の根本的な誤りは、()朝鮮侵略戦争に参戦したこと、()スターリン・毛沢東の軍事命令に隷従し、後方基地武力かく乱戦争行動に突入したことだった。それは、多くの党員、支持者たちを犠牲にし、党勢力を一挙に激減させた。

 

(表8) 党員数、国政選挙議席・得票数の増減

事項

党員数

届出党員数

総選挙

参院選

勅令→団規令

議席

得票数()

議席

1945

1946

1947

1948

1949

12.1 第4回大会

2.24 第5回大会

12.216回大会

(発表) 1181

(発表) 6847

(推定) 70000

 

(徳田論文) 200000

 

 

625

16281

 

5

4

 

35

(2名連記)

213

100

 

298

 

 

4

 

1950

1951

 

1952

1953

1954

1.6  コミンフォルム批判

2.22 四全協

10.16五全協

12  全国軍事会議

7.27 朝鮮戦争休戦協定

12  全国組織防衛会議

(発表) 236000

() 83578

 

(推定) 75000

(推定) 73000

(推定) 62000

106693

59033

51113

48574

 

 

 

 

全員落選0

1

 

 

 

90

66

3

 

 

 

全員落選0

1955

1956

1957

1958

7.27 六全協

 

 

7.21 第7回大会

(推定) 35000

(推定) 36000

(推定) 38500

(発表) 3万数千

 

 

 

2

 

 

1

73

 

 

101

 

2

 

 

 (表8)のデータは、『回想』巻末の「日本共産党年表」(276〜283)にある数字である。(発表)数字は、日本共産党の正式発表である。(推定)数字は、警察庁警備局側のものである。第7回大会発表が「党員数3万数千」であるので、それ以前の(推定)数字も近似値といえる。「党員数236000人」は、1950年4月29日、第19回中央委員会総会の発表数字である。

 

 2つの(発表)数字を比較する。236000人−3万数千≒−200000人である。党員残存度は、3万数千÷236000人×100=15%となった。この−20万党員、−85%のほとんどは、その後も、日本共産党に戻らなかった。総選挙は、35議席から、全員落選0を経て、1議席になり、得票数は、3分の1に激減した。大衆団体も、数字的データはないが、崩壊・解散、および会員数が激減した。

 

 

 10、「戦後史上最大のウソ作戦」

 

 『史上最大の作戦』とは、第二次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦の映画題名である。「Dデェイ」については、映画『プライベート・ライアン』の冒頭30分シーンでも、鮮烈な映像で再現された。これは、連合国軍によるウソいつわりのないフランス上陸作戦だった。

 

 それにたいして、「戦後史上最大のウソ作戦」とは、第二次世界大戦終了5年後に開始された朝鮮半島38度線突破侵略戦争のことである。金日成・スターリン・毛沢東のコミンテルン型前衛党3党が所有する国家と軍隊が、侵略戦争を始めたことは、歴史の真実として、今や明らかになっている。ところが、この戦争は、「李承晩軍事独裁政権が先に38度線を突破し、侵略を開始したので、社会主義国家がやむなく反撃した」という20世紀史上最大のウソを、1991年ソ連崩壊までの、ほぼ41年間も、世界に信じ込ませるという、見事なまでのペテン成功事例となった。それ以前にもほぼ暴露されていたが、スターリンの暗号電報など完璧な証拠データが発掘・公表されたのは、41年後だった。

 

 この事例は、()政治的ウソが、スケールが世界的で、大きければ大きいほど、信じられやすく、かつ、()ウソをつかず、真実のみを語ると公言してきた世界的なレーニン主義最高権力者3人がねつ造したウソほど、ばれにくいというレーニン流テーゼを証明した。20世紀世界の戦争作戦史において、これほどの長期にわたって、世界中をあざむき通したウソ作戦成功例は、皆無であろう。

 

 しかも、彼らコミンテルン型前衛党党権力者たちが、この全世界をあざむくという党独裁・党治国家型ウソを、侵略開始前から作戦要諦の基本として、位置づけていたことも証明された。萩原遼は『朝鮮戦争』第11章「金日成の謀略」において、次の証拠を載せている。

 

 「それは金日成が戦争開始後最初におこなった演説のなかにある。この演説は開戦の翌日、一九五〇年六月二十六日午前八時からラジオを通じておこなわれた。李承晩の軍隊による全面的な侵攻によって祖国に大きな危機が迫っているとして全国民に総動員、総決起を訴えたもので、全文約七千字。重要な部分はつぎのくだりである。『売国逆賊李承晩かいらい政府の軍隊は、六月二十五日、三十八度線の全域にわたって三十八度線の以北地域にたいする全面的な侵攻を開始した。

 

 勇敢な共和国警備隊は、敵の侵攻を迎えうって苛酷な戦闘を展開しながら李承晩かいらい政府軍の進攻を挫折させた。朝鮮民主主義人民共和国政府は現情勢を討議し、人民軍に決定的な反攻撃戦を開始して敵の武装力を掃討せよ、と命令した。人民軍は共和国政府の命令によって、敵を三十八度線以北の地域から撃退し、三十八度線以南の地域へ十〜十五キロメートル前進した。人民軍は甕津(オンジン)、延安(ヨナン)、開城、白川(ペクチョン)などの各都市と多くの村落を解放した』」(247)

 

 スターリンが、1950年1月30日金日成にたいし、朝鮮侵略戦争開始の同意を与えた機密暗号電報内容は、上記に載せた。『謎と真実』の著者トルクノフは、ヴォルコゴーノフ将軍の個人コレクションやスターリン・金日成の3回会談参加者へのインタビューを根拠として、次の構図を描いている。

 

 「スターリンは、朝鮮民主主義人民共和国の軍事力を、量的にも質的にも大幅に増強する問題を持ち出した。攻撃の詳細な計画もまた不可欠である。三段階にわたって作戦を分けるのが適当である。()はじめに三八度線付近に部隊を結集する。()その後、朝鮮民主主義人民共和国が平和統一の新たな発議を行う。()ソウルはそれを拒否し、そして攻撃を仕掛けるであろう。

 

 ()甕津半島に沿って攻撃を加えるという発想はよい。()これは最初に誰が軍事行動を始めたかという事実を隠蔽するのに役立つからだ。()南からの反撃の後、前線を広げるチャンスが訪れる。()戦争は電撃戦でなければならず、敵に北側へ入る機会を与えてはならない」(98)。ただ、これに関して、スターリンが直接出した機密暗号電報、および3回の会談記録そのものは、まだ発見されていない(97)。

 

 

 11、スターリン死後処理→国際的な戦後処理

 

 〔小目次〕

   1、ソ連共産党・マレンコフ→フルシチョフ

   2、中国共産党・毛沢東

   3、朝鮮労働党・金日成

   4、国際共産主義運動

 

 1、ソ連共産党・マレンコフ→フルシチョフ

 

 スターリンは、「フィリポフ」「フィン・シ」の偽名を用い、()金日成、毛沢東らに直接、暗号電報で秘密指令を出し、()戦争を操り、()休戦を阻止した(『謎と真実』全体)。彼は、1953年3月5日死去した。彼の死後、ソ連は、朝鮮戦争継続の政策を直ちに変えた。ソ連共産党は、戦争終結への新方針を確立し、それを毛沢東と金日成に伝えた(『謎と真実』370〜)。

 

 朝鮮戦争におけるソ連側の人的損害は、秘密参戦したミグ戦闘機パイロット一部以外はなかった。スターリンは、ソ連軍事顧問団を、米韓軍が鴨緑江に迫る前に、安全地帯の中国に待避させる命令を出していたからである。ソ連側の経済的損害もなかった。なぜなら、スターリンは、北朝鮮に貨車1千輌の軍需物資を送ることと引き換えに、金日成に毎年25000トンの鉛を現物でソ連に提供せよと求めたからである(『冷戦』140)。スターリンは、毛沢東にたいしても同じような取引をした。スターリンのしたことは、無償の軍需物資援助ではなく、一種の武器輸出経済だった。これらの2冊は、ソ連崩壊後に発掘された膨大な暗号電報・秘密指令で、論証した。

 

 3月5日スターリン死去→3月6日マレンコフ首相→6月7日東ベルリン・反ソ暴動、ソ連軍鎮圧→7月10日ベリヤ・ソ連副首相兼内相解任、党除名(12月13日銃殺)→7月27日朝鮮戦争休戦協定成立→8月8日ソ連・水爆保有を公表→9月12日フルシチョフ・ソ連共産党第1書記。

 

 スターリンの死後処理は、大変だった。スターリンは、古参ボリシェヴィキやライバルを銃殺・暗殺でほぼ皆殺しにしていた。死後の指導権争いメンバーは、スターリン別荘にたむろしていたスターリン側近だけだった。彼ら側近は、スターリンの4000万人粛清、大テロル期の600万人粛清・68万人から100万人処刑犯罪の共犯者だった。

 

 ソ連国民の怒りを逸らすために、早速、(1)7月10日ベリヤを解任・除名・銃殺にした。それだけでは、ソ連共産党への犯罪糾弾は収まらない。(2)フルシチョフは、1956年2月第20回大会で、『スターリン批判の秘密報告』をした。その内容は、まさに衝撃的だった。しかし、それは、共産党の自国民大量殺害犯罪の責任を、スターリンの個人的資質・犯罪にすりかえ、共産党一党独裁システムを崩壊から救済するという謀略報告だった。

 

 国際的なスターリン死後処理の面で、ソ連共産党が採った路線は、東欧のソ連衛星国政権内スターリン批判運動・自立運動にたいする徹底した武力弾圧と一層の完全従属化だった。(1)6月7日東ベルリン・反ソ暴動をソ連軍が鎮圧した。(2)1956年10月、スターリン批判を受けて勃発したハンガリー民衆蜂起事件を、ソ連軍戦車が制圧した。ソ連軍は、3000人を殺害し、20万人を亡命に追い込んだ。()1968年8月プラハの春・チェコスロバキア事件で、ソ連等5カ国軍戦車が、全土を占領した。そして、ドゥプチェクをはじめ党員50万人を除名し、職場追放をした。

 

 ブレジネフがこのとき唱えた「制限主権論」とは、コミンテルン・コミンフォルム以来の暗黙の鉄則であるソ連共産党の国際的支配権=東欧をふくむ全世界の前衛党の完全従属理論を、あらためて宣言した内容にすぎない。小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』がスターリン批判の性質を分析している。

 

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』スターリン批判の性質

 

 2、中国共産党・毛沢東

 

 中国共産党は、朝鮮戦争開始から、()事実上の参戦を、朝鮮人部隊14000人派遣で遂行していた。さらに開戦に、約3万人の第2次派遣も、完全装備つきで行なった。これらの事実については、萩原遼・中国人研究者・ロシア人研究者2冊の計4冊ともが証明している。(2)中国人民義勇軍30万人の正規の鴨緑江渡河は、1950年10月19日である。朝鮮戦争の34カ月間/37カ月間という92%期間は、仁川上陸作戦により、半ば壊滅した朝鮮人民軍にかわって、のべ300万人の中国軍が参戦した実質的な中米戦争だった。

 

 中国人民義勇軍の死者は100万人にのぼった。侵略戦争に参戦したことによる人的・物的損害は甚大だった。しかし、金日成の戦争目的と毛沢東の参戦目的とは異なる。毛沢東の意図と決断は、米韓軍が鴨緑江まで迫ったという戦況において、アメリカの対中侵略の意図を長期的に阻止することだった。鴨緑江から38度線まで押し戻して、戦線を固定させたことは、彼にとって勝利ともいえる戦果だった。彼も、スターリン死去による戦争終結方針を歓迎した。彼の権威は、中国共産党内だけでなく、ソ連、北朝鮮内でも高まった(『毛沢東の朝鮮戦争』第11章全体)

 

 ただし、スターリンが、()参戦当初、ソ連空軍の派遣・援護を拒否したこと、()朝鮮戦争後、軍需物資に代金を請求したことなどにたいして、毛沢東は、強烈な不満を持った。その時点では、それをめぐる対立は表面化しなかった。しかし、そのスターリン批判内容は、3年後の中ソ論争の伏線を作った。

 

 ソ連共産党のスターリン死後処理=1956年スターリン批判とその内容に、毛沢東が反発し、イデオロギー対立として表面化した。1960年ソ連人専門家引揚げ以降、中ソ対立は決定的になった。ただ、ソ連崩壊後、対立の根底は、スターリン批判めぐる意見の相違でなく、中国共産党による原爆開発目的・意図ソ連共産党によるその阻止意図・行動があったとの証言データが多数出ている。

 

 3、朝鮮労働党・金日成

 

 金日成にとって、侵略戦争の結果は、悲惨だった。北朝鮮側死者は250万人になった。国土・産業は、2度のローラー型戦場になって、荒廃した。彼の4つの誤算は、上記に書いた。

 

 ソ連の戦争終結方針を、金日成は、興奮して歓迎した。この経過は、彼と毛沢東らが、ともに戦争終結の最終的決定権限を、スターリンによって、その死後もソ連共産党によって剥奪されていた事実を証明している。

 

 「三月二九日朝、ソ連の特別代表クズネツォフとフェドレンコは、ソ中両党の新方針を金日成に伝えた。北朝鮮指導者のこの情報への反応について、特別代表は以下のようにクレムリンに報告した。《クズネツォフ、フェドレンコ→ソ中両党》《われわれのコメントを聞いて、金日成は大いに興奮した。彼は、良いニュースを聞いてたいへん嬉しい、この文書をさらに研究したのち、再度会う機会を与えてくれないか、と言った。》。三月二九日の二回目の会談で、「金日成は、ソ連邦の朝鮮問題に関する提案に完全に同意するし、この提案が速やかに実施されるべきであると思う」と語った」(『謎と真実』379)。

 

 惨敗結果にたいして、朝鮮労働党内で、金日成批判が噴出した。彼は、それに全面的な粛清=返り討ちで応えた。7月27日休戦協定成立→8月6日南労党系12人に「反革命罪」で有罪判決、10人死刑→8月25日許ガイ・北朝鮮副首相「自殺」と発表→12月15日朴憲永北朝鮮副首相兼外相、南労党系粛清裁判の一環として、「アメリカのスパイ」として、除名・処刑。金日成は、これらの大粛清によって、彼らを、侵略戦争惨敗責任全面転嫁のスターリン主義式いけにえにした。

 

 4、国際共産主義運動

 

 ソ連共産党と東欧社会主義国前衛党は、この朝鮮侵略戦争期間中の1951年と、戦争後の1955年資本主義世界のコミンテルン型前衛党にたいして、初めてのいっせい秘密資金援助を交付した。「資金」配布の目的は何か。

 

 資金援助年度と額のデータは、「Jiji Top Confidential(時事通信社、2002年1月22日号)に掲載された『名越健郎の20世紀アーカイブス(24)』の記事に基づいている。それは、名越健郎が『ソ中両党で入手した基金リスト』によるもので、出典はソ連崩壊後の機密資料である。ただ、彼は、資料名・文書保管所名を書いていない。しかし、フランス共産党、イタリア共産党は、その「資金援助年度と額」データを事実として認め、党本部が受領したことも正式に認めている。よって、その機密資料の出所と内容の信憑性は証明ずみである。

 

 以下引用する。「筆者がソ中両党で入手した基金のリストによれば、五一年の緩助総額は三百二十三万ドルで、受け入れ先はフランス共産党が百二十万ドルでトップ。日本共産党も基金から十万ドルを受けた。五五年には総額が六百二十四万ドルに増え、受け入れのトップはイタリア共産党。日本共産党も二十五万ドルで六位にランクされている。六三年の援助総額は千五百三十万ドルで、日本共産党の受領額は十五万ドルとなっている。この共産圏の秘密基金は、ソ連解体前年の九〇年まで維持され、四十年間で五億ドル以上が世界の左翼政党に支払われた」。

 

 1951年統一回復日本共産党本部受領額は、10万ドル×360円×200円・倍≒約72億円だった。国際共産主義運動に配布した323万ドルを、日本円に時価換算すると、323万ドル×360円×200円・倍≒約2326億円になる。1955年統一回復日本共産党本部受領額は、25万ドル×360円×16.6円・倍≒約15億円だった。国際共産主義運動「配布」分624万ドルの日本円に時価換算額は、約373億円になる。

 

「左翼労働組織支援国際労組基金」の

各国共産党に対する援助額

1951(計323万ドル)

1955(計624万ドル)

1961(計1044万ドル)

1963(計1530万ドル)

1 フランス共産党(120万ドル)

2 フィンランド共産党(87万ドル)

3 イタリア共産党(50万ドル)

4 イタリア社会党(20万ドル)

5 日本共産党(10万ドル)

1 イタリア共産党(264万ドル)

2 フランス共産党(120万ドル)

3 オーストリア共産党(50万ドル)

4 フィンランド共産党(45万ドル)

4 イタリア社会党(45万ドル)

6 日本共産党(25万ドル)

1 イタリア共産党(400万ドル)

2 フランス共産党(150万ドル)

3 フィンランド共産党(60万ドル)

4 オーストリア共産党(50万ドル)

5 クルド民主党(イラク33.5万ドル)

15 日本共産党(10万ドル)

1 イタリア共産党(500万ドル)

2 フランス共産党(150万ドル)

3 インドネシア共産党100万ドル)

4 フィンランド共産党65万ドル)

5 ベネズエラ共産党(60万ドル)

19 日本共産党(15万ドル)

79 日本共産党志賀グループ(5千ドル)

 

    名越健郎『日本共産党のソ連資金疑惑−闇の日ソ関係史』クレムリン秘密文書は語る

 

「国際労組基金」から日本共産党に25万ドルが

支払われたことを示すソ連共産党文書(1955年)

 

 この秘密資金援助目的は、いろいろある。ただ、その一つとして、資本主義世界のコミンテルン型前衛党にたいする「戦後史上最大のウソ作戦」のウソ口裏合わせ料・口止め料の狙いも含んでいた、と推定するのは、行き過ぎだろうか。なぜなら、1991年ソ連崩壊まで、いかなる資本主義世界のコミンテルン型前衛党も、スターリン・毛沢東・金日成の大ウソにたいし、その真実を暴露する論文、または、疑惑コメントを、何一つ発表していないからである。

 

 国際共産主義運動とは、この面に限って言えば、口止め料をもらった、ウソ口裏合わせ連帯・従属運動だった。当時、ソ連共産党から自主独立していた資本主義国前衛党は、東欧のソ連衛星国政権党と同じく、皆無だった。

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    Wikipedia『朝鮮戦争』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」