朝鮮戦争と日本共産党武装闘争の位置づけ()

朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党

 

スターリン・毛沢東指令隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体と性格

 

(宮地作成−全体は4部作、目次1〜14)

 〔第1部・目次1〜4〕

   1、はじめに−朝鮮戦争とそこにおける日本共産党武装闘争の位置づけ

      1、日本共産党武装闘争の本質に関する逆説=朝鮮戦争への参戦行動

      2、朝鮮戦争の性質=北朝鮮・ソ連・中国という社会主義3カ国が仕掛けた南進侵略戦争

      3、宮本顕治による六全協後のウソ詭弁=武装闘争の主体

      4、宮本顕治による異様な丸山眞男批判キャンペーン13回とその背景

   2、朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争データ、文献の存否−5種類

      1、日本共産党側データ・文献

      2、研究者・関係者側文献

      3、朝鮮戦争文献

      4、警察庁警備局側データ

      5、インターネットHPデータ

      6、データ出典の省略による掲載

   3、スターリンの戦争作戦体験とそれに基づく朝鮮戦争作戦計画規模と事前欠陥

      1、スターリンの豊富な戦争作戦体験

      2、それに基づく朝鮮戦争作戦計画規模=4前衛党参戦 (表1)

      3、事前欠陥と誤算4つ

   4スターリン・毛沢東指令隷従の日本共産党軍事方針・武装闘争の時期、主体と性格

      1、朝鮮戦争の経緯と日本共産党への参戦指令と時期・期間

      2、日本共産党の軍事方針と武装闘争の主体=統一回復五全協

      3、軍事方針・武装闘争の性格

 

 〔第2部・目次5〜7〕  軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助

 〔第3部・目次8〜11〕 後方基地武力かく乱戦争行動の実践データ、効果と結果

 〔第4部・目次12〜14〕「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治

 

 〔関連ファイル〕               健一MENUに戻る

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    Wikipedia『朝鮮戦争』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

 

 1、はじめに―朝鮮戦争とそこにおける日本共産党武装闘争の位置づけ

 

 〔小目次〕

   1、日本共産党武装闘争の本質に関する逆説=朝鮮戦争に参戦事実

   2、朝鮮戦争の性質=北朝鮮・ソ連・中国という社会主義3カ国が仕掛けた南進侵略戦争

   3、宮本顕治による六全協後のウソ詭弁=武装闘争の主体

   4、宮本顕治による異様な丸山眞男批判キャンペーン13回とその背景

 

 1、日本共産党武装闘争の本質に関する逆説=朝鮮戦争への参戦行動

 

 このファイルは、かなり前にアップした『武装闘争責任論の盲点・2部作』大幅に加筆・改定したものである。その理由は、ソ連崩壊後、朝鮮戦争に関するソ連側・中国側の新資料がかなり出版され、それら発掘・公表されたデータに基づいて、加筆・改定をする必要が生まれたからである。ただし、日本の研究者側日本共産党側新資料はまったく発掘・公表されていない。さらに、日本共産党は、2012年7月党創立90周年として大宣伝する準備をしている。武装闘争とは、朝鮮戦争への参戦行動だった。その本質は、ソ中両党命令に基づく反国民的隷従犯罪と規定できる。90周年を前にし、この反国民的前衛党犯罪の全体像を再度検証しておくことには意義があると考える。大幅加筆をした結果、4部作・目次1〜14にした。

 

 1991年ソ連崩壊後、朝鮮戦争の原因・経過に関するソ連側の膨大な機密電報・スターリン指令、中国側の新資料が発掘・出版された。それらは、四全協・五全協の日本共産党が行なった武装闘争の本質が、その武装闘争期間から見て、朝鮮戦争への参戦行為であったことを証明した。このファイルは、その武装闘争の本質に関する根本的な逆説である。

 

 逆説の基本観点は、次である。(1)朝鮮戦争とは、ソ連・中国・朝鮮・日本という4つのコミンテルン型前衛党「軍」が仕掛け、遂行した共同作戦の南進侵略戦争であったこと、(2)日本共産党の武装闘争とは、朝鮮戦争の本質的な作戦の一つであり、スターリン・毛沢東の参戦・軍事指令に盲従した統一回復日本共産党「軍」による後方兵站補給基地武力かく乱戦争行動として位置づける必要がある、ということである。()日本共産党は、武装闘争を通じて、朝鮮戦争に参戦したことが歴史的事実である。

 

 ところが、隣国日本における歴史学者・ジャーナリストは、朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争との直接的な関連について、誰一人として、研究や指摘をしていない。武装闘争実態については、ソ中両党の隠蔽指令への隷従者宮本顕治によって、ほぼ完璧に隠蔽・抹殺されてきた。軍事委員会支配による半非合法時期だったので、非合法出版物以外に直接資料がない。

 

 唯一の資料は、警察庁警備局側データ3冊だけである。()警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)()警察文化協会『戦後事件史』(警察文化協会、1982年、絶版)()警察庁警備局『左翼運動』(警察庁警備局、1968年、絶版)である。

 

 朝鮮戦争と武装闘争との関係についての著書は、警察庁データを含め、皆無である。朝鮮戦争については、萩原遼和田春樹の著書がある。しかし、彼ら2人とも、日本共産党の武装闘争との関係=朝鮮戦争参戦という性質になんら触れていない。和田春樹は、『朝鮮戦争』2冊において、日本共産党の武装闘争に触れてはいる。しかし、その内容は、朝鮮戦争時期、日本におけるなんの関係もない事件と位置づけているだけである。

 

 2、朝鮮戦争の性質=北朝鮮・ソ連・中国という社会主義3カ国が仕掛けた南進侵略戦争

 

 朝鮮戦争は、1950年6月25日に勃発した。仕掛けた側が北朝鮮・ソ連・中国という社会主義3カ国であったことは、歴史の真実として今や明白になっている。スターリン・毛沢東・金日成ら3人は、韓国・アメリカ側が最初に侵略したとする20世紀史上最大のウソの一つをつき続けた。世界のなかでも、そのウソにすっかり騙され、信じ込んだ度合いの高さは、隣国であったにもかかわらず、日本の左翼全体、ジャーナリズムが一番であろう。その原因には、日本における戦後ジャーナリズムの左傾化の影響があった。

 

 それは、社会主義を名乗った体制・政党が行なった戦後最初の侵略戦争だった。それに呼応して、日本共産党が、侵略戦争加担武装闘争を、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定成立日までの1年9カ月間展開した。日本共産党は、当時、ソ連・中国共産党にたいして、自主独立・対等平等関係どころか、完全隷従状態にあった。そこから、日本共産党は、スターリン・毛沢東による後方基地武力かく乱戦争決起指令によるものとはいえ、世界の資本主義国共産党の中で、侵略戦争行動を遂行した唯一の政党になった。

 

 ただ、日本共産党「軍」といっても、それを計画的に組織しようとしたのは、一部だった。他は、まき込まれた党員、追随した党員などに分かれている。そして、「軍」を意図したが、その実態は社会主義を名乗った体制並の軍隊機能を持たなかった。

 

 3、宮本顕治による六全協後のウソ詭弁=武装闘争の主体

 

 それにたいし、現在の日本共産党は、「武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことであり、(現在の)わが党は、それになんの責任もない。よって、その具体的データを公開したり、改めて総括し公表する必要も義務もない」としている。その時期の問題や事件が話題になる度毎に、宮本・不破・志位らは、その論旨をのべるか、「分裂した時期のことなのでノーコメント」とする態度を一貫してとっている。

 

 この言い分は、真っ赤なウソであり、科学的社会主義式詭弁である。このファイルは、それがウソであることを、武装闘争の具体的データによって、論証するとともに、その分析によって、日本共産党の結果責任たなあげ体質を批判することを目的とする。

 

 丸山眞男は、『戦争責任論の盲点』において、2つの盲点を指摘した。その内容として、(1)天皇の戦争責任を追求し、明確にすべきだと主張するとともに、(2)天皇制の対極にあり、もっとも活動的であった日本共産党にたいしても、戦争突入を許した総括とその公表を求めた。彼が、その短い論文を『思想3月号』(岩波書店)で発表したのは、1956年3月であり、1952年メーデー事件の3年後だった。論文発表の背景には、丸山眞男が抱いた、メーデー事件における日本共産党、当時の党中央軍事委員会による皇居前広場突入指令=武装闘争軍事方針の実行と結果、および、メーデー事件の結果責任にたいする無総括=責任回避の誤りに関する強い批判があった。

 

    丸山眞男『戦争責任論の盲点』

 

 批判の基本は、日本共産党が、その突入指令と結果について、具体的総括をせず、公表しないという結果責任たなあげ体質に向けられた。丸山論文のいま一つの、その真意については、石田雄東大名誉教授が『「戦争責任論の盲点」の一背景』で具体的に指摘している。丸山眞男の論旨は、文末の「政治的責任は峻厳な結果責任であり〜」という語句に表されている。

 

 4、宮本顕治による異様な丸山眞男批判キャンペーン13回とその背景

 

 宮本顕治は、1993年久野収が丸山論文の一節を引用した『葦牙18号』インタビュー記事(1993年1月)を読んで、その論旨が含み持つ、二重の日本共産党批判にたいし、異様なまでに激怒した。宮本顕治は、なぜ、37年も前に発表された『戦争責任論の盲点』にたいする批判キャンペーンを、1994年第20回大会前後にかけて、13回も展開したのか。

 

 その経過は、私のHP『丸山眞男批判キャンペーン』ファイルで詳細に分析した。それを指揮した宮本顕治の真意は、()『盲点』本文が批判する栄光ある宮本顕治・戦前中央委員8カ月間活動内容にたいする自己弁護のみでなく、()1951年10月から1953年7月までにおける日本共産党の朝鮮侵略戦争加担武装闘争結果責任たなあげ体質批判にたいする感情的な対応だった。

 

    『共産党の丸山批判経過資料』13回の批判キャンペーン

 

 それは、まさに、丸山眞男が、日本共産党のアキレス腱である無責任=誤りの無総括・たなあげ体質を、戦前・戦後とも二重に指摘したことにたいする、異様なまでの拒絶反応だった。その動機には、二重批判にたいする心底からの恐怖があったと思われる。宮本顕治は、1956年発表の『戦争責任論の盲点』内容が、その背景として、()たんにメーデー事件批判だけでなく、()はるかに大きな「武装闘争責任論の盲点」批判を含むものと判定を下した。

 

 丸山眞男『戦争責任論の盲点』には、二重批判潜在していた真相については、石田雄が明記している。それだけに、その波及効果恐れおののいた彼は、そのキャンペーンを、丸山眞男全学問業績否定・圧殺運動にまでエスカレートさせた。

 

    石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』

 

 それは、コミンテルン型前衛党挙げて、共産党批判をした一人の政治学者の政治的学問的人格的殺人を謀った運動だった。かくして、彼は、前衛党の最高異端審問官の地位にまで、自らを昇華させた。もっとも、彼の時代錯誤的な感情的拒絶反応は、党内において「丸山眞男文献を一切読むなと」いう効果をもたらした。しかし、党外にはまったく逆効果の反発を引き起こした。それだけでなく、多くの学者党員が、宮顕のやり方に憤激して、離党した。

 

 宮本顕治の「満月の歌」期間は、1955年7月六全協以降、宮本秘書団を中核とする最高権力者私的分派を強化・拡充しつつ、かつ、宮本批判者・異論者を全面排除しつつ、39年間続いていた。ただ、その内の27年間は、ソ連共産党NKVD工作員野坂参三と組んだトップペアだった。ソ連スパイという黒雲に半分蔽われた満月の3分の2期間の日本共産党党史をどう評価したらいいのであろうか。しかも、宮本顕治は、戦前のスパイ査問事件を含めて、スパイ・挑発者との闘争における最高権威者・摘発者を自称していたのにもかかわらず、ソ連スパイ野坂と27年間同志的トップ関係を結んでいた。

 

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宮本顕治は、ソ連スパイ野坂と、まる27年間「野坂・宮本指導部体制」を続けた。

それは、1955年7月27日六全協から、1982年7月31日第16回大会で、野坂参三

を名誉議長にするまでである。その間、宮本顕治は、トップの相手がソ連工作員で

あることに、まったく気付かなかった()「スパイ挑発者との闘争」権威者だった。

 

 しかし、1997年第21回大会に向け、不破哲三グループが遂行した宮廷革命=党内クーデターによって、「満月の歌」期間は、丸山眞男批判を展開した1994年第20回大会までで、幕引きされた。不破哲三グループは、2000年第22回大会と合わせて、宮本私的分派の解体・排除に成功した。しかし、不破・志位・市田新体制は、日本共産党の武装闘争に関する宮本顕治・野坂参三のウソと詭弁を、100%継承している。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)宮本私的分派リストと宮廷革命

    『1997年第21回大会、「宮廷革命」=党内クーデター』

 

 

 2、朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争データ、文献の存否−5種類

 

 〔小目次〕

   1、日本共産党側データ・文献

   2、研究者・関係者側文献

   3、朝鮮戦争文献

   4、警察庁警備局側データ

   5、インターネットHPデータ

   6、データ出典の省略による掲載

 

 本来なら、多数ある文献を末尾に載せる。しかし、この逆説テーマを書くからには、引用文献やデータの信憑性が問題になる。冒頭でわずらわしいが、データ・文献リスト私の判断を最初にのべる。

 

 この具体的データを、武装闘争指令・実行者である日本共産党は、完全に秘匿し、公表していない「極左冒険主義の誤り」という抽象的な日本語規定だけである。ソ連崩壊後になって、初めて公開されたレーニン秘密資料6000点膨大なアルヒーフ(公文書)によって、レーニンが、ロシア革命・ソヴィエト勢力である反乱農民・ストライキ労働者・反乱水兵や聖職者を数十万人殺害した指令・データが判明した。

 

    『「赤色テロル」型社会主義形成とその3段階』レーニンが「殺した」ロシア革命勢力の推計

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 それと同じく、日本共産党が崩壊、もしくは、大転換すれば、共産党が秘匿している武装闘争データが発掘されるであろう。中国共産党が崩壊すれば、北京機関収集の日本国内の武装闘争資料が大量に発見されるであろう。しかし、現在では、共産党以外のデータ・文献に依拠せざるをえない。

 

 1、日本共産党側データ・文献

 

 ()、『日本共産党の七十年上下・党史年表』(日本共産党中央委員会、1994年)

 ()、不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録上下』(新日本出版社、1993年)

 ()、『日本共産党50年問題資料文献集4冊』(新日本出版社、1957年)

 ()、『日本共産党の八十年』(日本共産党中央委員会、2003年1月)

 

 ()で公表しているのは、『上』(240頁)において、分裂した一方の徳田・野坂分派が行なったとする軍事方針、武装闘争、中核自衛隊、山村工作隊という抽象的用語だけである。そして、それらのイデオロギー規定としての「極左冒険主義」である。武装闘争の数字的・年月データ完璧に隠蔽している。

 

 ただ、徳田分派というレッテルは、少数分派だった宮本顕治が、第8回大会以降、恣意的につけた名称である。徳田・野坂分派というレッテルへの変更は、27年間トップペアを組んでいた相手が、ソ連スパイだったことが判明してから、宮本顕治がそれに気付かなかったことへの自己批判抜きで、つけた名称である。この文では、主流派と規定する。なぜなら、両者の党員比率については、一般党員レベルでは9対1、専従活動家レベルでは7対3だったとする説があるからである。

 

 宮本顕治は、『党史年表』(138頁)に、1952年2月1日、徳田・野坂分派が「中核自衛隊の組織と戦術」を内示(非合法誌『球根栽培法』二月号)し、都市と農村での抵抗自衛闘争の拡大と中核自衛隊・山村工作隊なる武装集団の組織を主張。軍事委員会を設置、と書いた。『年表』(143頁)に、1954年1月、ソ・中両党の政治的、思想的、財政的隷従下に北京機関が「党学校」を設置(関係者千数百人〜二千人)とした。この人数が唯一の数字的資料である。

 

 ()の『下・第十部』(314〜355頁)において、不破哲三は、当時のソ連共産党・中国共産党による、日本共産党への干渉と指令をかなり具体的に分析している。しかし、武装闘争データについては、『党史』内容以上の記述を避けている。

 ()の内容は、4冊もあるのに、コミンフォルム批判による党分裂経過資料のみで、武装闘争関係資料一つも載せていない

 ()は、不破哲三創作党史である。しかし、彼は、宮本顕治と宮本秘書・当時の社会科学研究所長宇野三郎創作の『党史年表』を全面削除した。

 

 2、研究者・関係者側文献

 

 ()、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)。第三章1、五全協と中核自衛隊の登場。2、メーデー事件と火炎ビン闘争の展開(133〜148頁)

 ()、増山太助(「五全協」選出中央委員候補)『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)。第3部、トラック部隊、人民艦隊、山岳拠点、日本人民軍、軍事闘争、血のメーデーなど 宮地HP掲載

 ()、大窪敏三(現役党員、84)『まっ直ぐ』(南風社、1999年)。第3章、占領下の共産党軍事委員長、第4節、地下軍事組織“Y” 宮地HP掲載

 ()、川口孝夫『流されて蜀の国へ』(自費出版、1998年)。終章、私と白鳥事件 宮地HP掲載

 ()、中野徹三『現代史の一証言、白鳥事件』 宮地HP掲載

 

 ()、松本清張『日本の黒い霧』(文芸春秋、1973年、および「清張全集」)。白鳥事件(109〜150頁)、白鳥事件裁判の謎(453〜482頁)

 ()、藤井冠次『伊藤律と徳田・北京機関』(三一書房、1980年、絶版)。自由日本放送の全体像、人民艦隊記述も 宮地HP掲載

 ()、運動史研究会『運動史研究4、特集・50年問題』(三一書房、1979年)。51年綱領と極左冒険主義のひとこま、私の山村工作隊体験など(43〜68頁) 宮地HP掲載

 ()、岡本光雄(メーデー事件被告団団長)『メーデー事件』(白石書店、1977年、絶版)

 (10)、大須事件被告団・弁護団『大須事件の真実』(東海共同印刷、1980年、絶版)

 

 ()は、このテーマの通史として、客観的な記述をしている。しかし、武装闘争の具体的数字データはない()()()は、3人とも軍事委員体験者である。現場からの証言として、リアルで、内容が正確である。()()()は、白鳥事件の分析である。()は、自由日本放送の全体像に関する証言である。()は、山村工作隊体活動の実態を浮き彫りにしている。()(10)のメーデー事件、大須事件については、下記()で評価をのべる。

 ただし、いずれも、日本共産党の武装闘争の全体像、とくに、その数字的データを載せていない

 

 3、朝鮮戦争文献

 

 ()、朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争、中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波書店、1991年)

 ()、萩原遼『朝鮮戦争、金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社、1993年)

 ()、ヴォイチェフ・マストニー『冷戦とは何だったのか、戦後政治史とスターリン』(柏書房、2000年)

 ()、A・V・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実、金日成・スターリン・毛沢東の機密電報による』(草思社、2001年)

 ()、ヴォルコゴーノフ『七人の首領―レーニンからゴルバチョフまで』(朝日新聞社、1997年)

 ()、和田春樹『朝鮮戦争』(岩波書店、1995年)、『朝鮮戦争全史』(岩波書店、2002年)

 

 これらは、すべてソ連崩壊後に出版された。()から()は、中国、アメリカ、ロシアで発掘された朝鮮戦争の最新データに基づく研究である。しかし、和田著書は2冊とも、さまざまな問題点を含んでいる。彼の著述姿勢、データの取捨選択・評価において、偏った北朝鮮側擁護・弁護の個所が多々見られる。その面で、北朝鮮拉致事件問題を含めて、萩原遼、藤井一行教授や多くの人が、和田批判を行なっている。よって、私は、このファイルで、和田2冊内容をデータとして取り上げない。

 

 4、警察庁警備局側データ

 

 ()、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)

 ()、警察文化協会『戦後事件史』(警察文化協会、1982年、絶版)

 ()、警察庁警備局『左翼運動』(警察庁警備局、1968年、絶版)

 

 ()は、詳細な「1950、51、52、53年の左翼関係事件府県別・月日一覧表」を載せている。五全協から朝鮮戦争休戦協定成立日までのデータである。統一回復日本共産党が実行したのは、「朝鮮戦争の後方基地武力かく乱・侵略戦争加担行動」だった。『回想』は、それらの事件をすべて網羅している。この一覧表以外は、282頁にわたって、その期間中の主要13事件に関する警察庁、担当警官側の手記だけで構成されている。一覧表はかなり客観的データだが、手記は恣意的要素が多い。

 

 ()は、題名どおり、まさに『戦後事件』すべてを載せた文献である。第7章、日本の独立―破防法の成立に、白鳥事件、メーデー事件、吹田事件、東大・早大事件を書いている。しかし、とくに、新しい事実を載せていない。()は、左翼運動の警察側からの概説だけで、武装闘争事件の具体的データはない。

 

 警察庁警備局『回想』データ使用にたいする私の立場を明らかにしておく。

 1、主要13事件の手記内容は、警察側の一方的な見方であるので、とりわけ批判的に見る必要がある。ただ、事件経過の真実を一定反映している。

 2、3大騒擾事件について、他文献を含めた私の総合的判断をのべる。それらは、基本的要素が、警察側による騒擾罪適用の謀略・事前計画であり、3事件とも当然無罪であるが、他面で、日本共産党中央軍事委員会による軍事方針・武装闘争指令とそれに基づく実践が存在したことも事実であるとするものである。下記()で分析する。

 

 3、「府県別・年月日別一覧表」は、日本共産党が全国的な武装闘争データを完全秘匿している現時点において、唯一の府県別の武装闘争全国データである。事件項目だけなので、その内容不明のもある。別ファイル()は、このデータに基づいて私が独自判断した分類である。戦前の日本共産党史の研究においても、共産党が数字的データを隠蔽しているので、特高資料を使用せざるをえない。その特高・検察側データに基づく、優れた研究が、田中真人同志社大学教授著『一九三〇年代日本共産党史論』(三一書房、1994年)渡部徹京大教授編『一九三〇年代日本共産主義運動史論』(三一書房、1981年)である。このファイルは、その研究精神と資料使用スタイルを拝借する。私は、2人の著作内容を参考にして、戦前日本共産党史に関する2つのファイルを書いた。

 

    『1930年代のコミンテルンと日本支部』 志位報告の論理と丸山批判・詭弁術

    『「転向」の新しい見方考え方』 戦前党員数2300人の分析

 

 5、インターネットHPデータ

 

 )、朝鮮侵略戦争とスターリン・毛沢東の侵略戦争加担指令を原因とする50年分裂問題

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

 

 2)、日本共産党の後方基地武力かく乱・朝鮮戦争参戦行動

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属独立遊撃隊関西第一支隊

    増山太助『戦後期左翼人士群像』日本共産党の軍事闘争

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より血のメーデー

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する、白鳥事件

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    高橋彦博『上田耕一郎・不破哲三両氏の発言を求める』

 

 6、データ出典の略称による掲載

 

 武装闘争の事実関係データの出典は、略記し、頁数は数字だけを載せる。()『七十年』は、『日本共産党の七十年』、()『党史』は、『日本共産党の七十年・党史年表』、(3)『干渉と内通』は、不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録上下』、()『左翼群像』は、増山太助『戦後期左翼人士群像』、()『回想』は、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』が出典である。

 朝鮮戦争関係で、()『冷戦』は、『冷戦とは何だったのか、戦後政治史とスターリン』、()『謎と真実』は、『朝鮮戦争の謎と真実、金日成・スターリン・毛沢東の機密電報による』が出典である。

 

 

 3、スターリンの戦争作戦体験とそれに基づく朝鮮戦争作戦計画規模と事前欠陥

 

 〔小目次〕

   1、スターリンの豊富な戦争作戦体験

   2、それに基づく朝鮮戦争作戦計画規模=4前衛党参戦計画 (表1)

   3、事前欠陥と誤算4つ

 

 1、スターリンの豊富な戦争作戦体験

 

 スターリンとソ連共産党・軍は、第2次世界大戦の全期間を通じて、豊富な戦争作戦体験を積んできた。()ソ独戦争と反攻()ベルリン進撃・占領()東欧8カ国のソ連衛星国化()日ソ条約一方的破棄・満州進攻・日本人軍事捕虜60万人の拉致・シベリア抑留などである。

 

 1、ソ独戦争と反攻

 

 スターリンは、ヒットラーを過信し、ソ独戦争冒頭でドイツ軍のソ連進攻に無防備だった。その前には、トゥハチェフスキーを初めとする赤軍幹部の大粛清をしていた。敗北・後退を重ねる中、ウラル地方でソ連軍戦車の大増産をした。スターリングラード攻防戦で、戦車1000台を投入し、ドイツ兵10万人を捕虜にした。それを転機に、反攻作戦に大転換した。

 

 2、ベルリン進撃・占領

 

 一気に、ベルリン進撃を進めた。アメリカもパットン戦車軍団を先頭にベルリン進撃・占領スピードを争った。ソ連軍とパットン戦車軍団がほぼ同時にベルリンに突入した。

 

 3、東欧8カ国のソ連衛星国化

 

 ベルリン占領と同時に、スターリンは、アメリカ軍の手が回らなかった東欧8カ国の占領を図った。モスクワ帰りの各国共産党幹部たちが、ソ連軍戦車・軍隊とともに、東欧8カ国に突入した。ソ連軍戦車とともに、ソ連衛星国を樹立した。ソ連、モンゴル、ポーランド、東ドイツ、ハンガリー、チェコ、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの9カ国の社会主義世界体制を創立させた。ユーゴは、チトーがパルチザン闘争で自立的に社会主義国家を確立した。

 

 4、日ソ条約一方的破棄・満州進攻・日本人軍事捕虜60万人の拉致・シベリア抑留

 

 スターリンは、ヤルタ協定に基づき、ドイツ占領のソ連軍を、シベリア鉄道で、一挙に満州国境に移動・配備させた。彼は、日本敗戦の1週間前、一方的に、日ソ条約を破棄し、満州進攻をした。日本降伏と同時に、事前計画を建てていた日本人兵士・民間人60万人軍事捕虜とした。そして、「東京ダモイ」とウソで騙し、全員をシベリアに大量拉致し、2000万人戦死で欠乏したソ連労働力の補充として酷使した。

 

    『シベリア抑留から見た戦後日本共産党史』1945〜1955「六全協」

 

 2、それに基づく朝鮮戦争作戦計画規模=4前衛党参戦 (表1)

 

 スターリンは、これらの豊富な体験に基づき、朝鮮戦争作戦計画を立てた。その参戦動員規模・範囲は、東欧8カ国の同時占領計画と同じく、朝鮮半島周辺ソ連・中国・北朝鮮の社会主義3カ国軍と前衛党、および、非政権前衛党である日本共産党だった。

 

 彼は、モスクワ帰りの共産党幹部を東欧8カ国に送り込んで、ソ連衛星国を樹立させた。それと同じく、彼は、ソ連軍将校だった金日成も、ソ連軍戦車とともに、北朝鮮に送り込んで、ソ連衛星国を樹立させた。毛沢東と八路軍は、1945年日本敗戦後、49年までの内戦4年間で、勝利し、中華人民共和国樹立を宣言した。

 

 金日成は、その情勢を受け、武力南進→朝鮮統一・社会主義化を図った。しかし、それには、スターリン・毛沢東の許可と武力支援なしに、自力での戦争は不可能だった。

 

 日本共産党は、1922年党創立以来、レーニンのコミンテルン型共産党日本支部だった。1968年自主独立までの46年間は、ソ連共産党隷従政党→ソ中両党隷従政党だった。その歴史認識に基づいて、朝鮮戦争と日本共産党の武装闘争の位置づけをする必要がある。それを6段階に分けて検証する。

 

 なお、(表1)のデータは、基本的に、ソ連崩壊後に初めて発掘・公表されたソ中両党の秘密資料・文献4冊に基づく。

 ()、A・V・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実、金日成・スターリン・毛沢東の機密電報による』(草思社、2001年)

    これは、3人と3前衛党間で交わされた数百通の電報・報告文書の正確な直接引用と分析である。

 ()、ヴォイチェフ・マストニー『冷戦とは何だったのか、戦後政治史とスターリン』(柏書房、2000年)

 ()、朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争、中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波書店、1991年)

 ()、萩原遼『朝鮮戦争、金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社、1993年)

 

(表1) ソ中両党隷従日本共産党の朝鮮戦争参戦経緯6段階

ソ中朝3党による朝鮮戦争

ソ中両党による日本共産党への命令

隷従共産党の参戦経緯

〔段階1、朝鮮侵略戦争開始前

49.3.5 スターリンと金日成が会談→軍事援助

49.510 ソ連大使は、スターリンに朝鮮情勢について何度も詳細な報告。スターリンからも何回もソ連大使に暗号電報

49.10.1 毛沢東の中華人民共和国成立

 

50.1.20 毛沢東は、人民解放軍の朝鮮人部隊1.4万人を北朝鮮軍に完全武装で編入

50.3.304.25 金日成訪ソ、スターリンから南朝鮮への侵攻同意を得る

50.5.13 金日成訪中、毛沢東から南朝鮮への侵攻同意を得る

50.6.15 進攻の綿密な計画完成

49.10.29 ソ連情員の極秘文書「組織全体を非合法状態に移行ケース」の分析

 

 

50.1.4 ソ中両党が劉少奇テーゼを公認=植民地型武装闘争の指令

50.1.6 コミンフォルム批判―ソ連共産党スパイ野坂参三の占領下平和革命論を全面否定、スターリン執筆が証明→日本における暴力革命路線への転換命令=朝鮮戦争参戦への実質的命令

50.1.17 毛沢東が「日本人民解放の道」で、武装闘争指令

 

 

 

 

 

 

50.1.12 政治局が「所感」決定、宮本ら反対

 

50.2.23 四全協、ソ中両党命令に隷従し、劉少奇テーゼに基づく植民地型軍事方針決定

 

50.4.29 コミンフォルム批判をめぐって党分裂、主流派は非公然体制に移行、北京機関準備開始

〔段階2、朝鮮戦争期間中 1950625日〜1953727

50.6.25 金日成の武力南進朝鮮戦争

50.6.28 北朝鮮軍、ソウル占領

50.8.20 北朝鮮軍、釜山を除く韓国の90%以上を支配下に

50.9.15 国連軍が仁川上陸→北朝鮮軍退却

50.9.21 スターリン、ソ連空軍部隊派遣を決定

50.10.19 国連軍が平壌占領

50.10.25 毛沢東が中国人民志願軍100万人参戦

50.11.7 毛沢東は、スターリンに大量武器要請

51.1.4 北朝鮮軍・中国人民志願軍、ソウル再占領

51.4.3 国連軍が38度線を突破し北進、中国軍も反撃→38度線付近の攻防、戦線膠着状態に

 

 

 

50.9.3 中国共産党「日本人民は団結して敵にあたる時」と朝鮮戦争参戦指令

 

 

 

 

 

51.4.5 スターリン・中国共産党招集のモスクワ会議、徳田・野坂参加。スターリンは、宮本ら反徳田5分派を「分派」と断定

51.8.10 コミンフォルム機関紙が宮本ら反徳田5分派を「分派」あつかい

51.10.16 スターリン命令により、五全協で統一回復、スターリン執筆証明の51年武装闘争綱領決定

 

 

5089 ソ中両党命令で徳田・野坂は中国へ移動、ソ中両党隷従の北京機関結成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

51.10 五全協、宮本・蔵原は、スターリン命令に屈服し、宮本分派解散→志田重男に自己批判書提出→武装闘争五全協に復帰=共産党の統一回復

〔段階3、統一回復の武装闘争五全協 1951101617日〜

 

 

 

 

 

 

 

 

52.10.65 スターリン休戦引き伸ばし、戦争継続意図。休戦会談決裂→無期休会

53.3.5 スターリン死去、74

53.4.11 スターリン死去により、モスクワの方針転換→休戦会談で捕虜交換協定調印

51.10五全協後 ソ中両党は、後方兵站補給基地日本における武装撹乱闘争の即時総決起を指令。金日成も北朝鮮系在日朝鮮人に即時総決起を指令

 

 

52.5.1 毛沢東命令で北京機関の自由日本放送開始、すべて中国共産党資金で

51.10.16 五全協で統一回復、武装闘争方針具体化

51.10.16 五全協後、宮本顕治は統一回復共産党による武装闘争宣伝担当

52.1.21 白鳥事件、札幌市軍事委員会が白鳥警部射殺

52.2.1 軍事委員会設置―中核自衛隊・山村工作隊の武装闘争組織約2000

52.3.291 小河内村で山村工作隊23人逮捕

52.5.1 北京機関の自由日本放送開始

52.5.1 メーデー事件

52.5.1 吹田・枚方事件、火炎ビン武装闘争

52.7.7 大須事件、火炎ビン武装闘争

〔段階4、休戦協定日 1953727

53.7.27 休戦協定日

7.27 日本の武装闘争中止命令

武装闘争の即座全面停止−以後1件もなし

〔段階5、休戦協定以降 1953727日〜

54.1 北京機関に「党学校設置」命令

54 モスクワでソ中両党代表招集で北京機関6人と六全協決議案作成。「極左冒険主義の誤り」という抽象的規定のみに限定、武装闘争の具体的データ公表・総括禁止、ソ中両党命令の存在隠蔽を指令?

55.1 ソ中両党は、六全協決議案に基づく、志田・宮本秘密の手打ち会談を命令?

55.3.15 ソ中両党は宮本顕治を武装闘争五全協の中央指導部員にするよう命令?

54.1 北京機関が「党学校」設置、関係者千数百〜二千人

54.11 宮本は、武装闘争五全協共産党の東京1区で立候補→落選

55.1 北京機関がソ連共産党に資金援助要請

55.1 志田・宮本秘密の手打ち会談―六全協計画で一致

 

55.3.15 宮本顕治が武装闘争五全協の中央指導部員

〔段階6〕、六全協とそれ以降 195572729日〜

55.7.271 ソ中両党命令で六全協開催。フルシチョフ第1書記は、ソ連赤軍情報局スパイ野坂参三を同じ肩書の第1書記に、宮本顕治を常任幹部会責任者に任命?

 

55.12.31 毛沢東が、自由日本放送閉鎖指令?

57.3 毛沢東が、北京機関の「党学校」閉鎖指令?

 

55.7.271 ソ中両党命令に基づく六全協開催。

55.8 宮本顕治・志田重男で全国の党会議に出席。各党会議で武装闘争の具体的データ公表・総括要求が噴出、宮本顕治は、それらの要求を「後ろ向き」と批判し、抑圧→公表・総括に全面沈黙・隠蔽

55.12.31 自由日本放送閉鎖

57.3 北京機関の「党学校」閉鎖

 

68.6.29 宮本顕治は、NHKインタビューにおいて、「火炎ビン事件は、指導部が分裂していて、統一した中央委員会の方針ではなかった」と党史偽造歪曲発言

 

 3、事前欠陥と誤算4つ

 

 萩原遼は、元赤旗平壌特派員だった。彼が赤旗外信部副部長のとき、編集長が理由も告げないで解任を通告した。朝鮮労働党・金日成が彼を嫌い、解任圧力を日本共産党にたいしかけたことが背景にあると思われる。彼は怒って、辞表を出し、朝鮮戦争研究のため、アメリカに渡り、公文書館で膨大な資料=160万ページを調べた。その成果が、萩原遼『朝鮮戦争−金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋社、1993年)の出版になった。朝鮮戦争に関し、厳密な検証に基づく、これほど説得力のある文献はないであろう。

 

 詳細な経緯分析がある。そして、著書の第13章に「誤算の連続」がある。その項目4つだけを載せる。

 第1の誤算、米の介入を予期しなかった。

 第2の誤算、短期に終わるとみた。

 第3の誤算、立ちあがらぬ南労党員。

 第4の誤算、南人民の支持がなかった。

 

 

 4スターリン・毛沢東指令隷従の日本共産党軍事方針・武装闘争の時期、主体と性格

 

 〔小目次〕

   1、朝鮮戦争の経緯と日本共産党への参戦指令と時期・期間

   2、日本共産党の軍事方針と武装闘争の主体=統一回復五全協

   3、軍事方針・武装闘争の性格

 

 1、朝鮮戦争の経緯と日本共産党への参戦指令と時期・期間

 

 1、スターリンによる最初の朝鮮戦争加担軍事指令 1950年1月6日、『コミンフォルム批判』

 

 ソ連崩壊後に発掘されたソ連共産党秘密文書や、2001年11月に出版された大量の朝鮮戦争めぐる金日成・スターリン・毛沢東間の軍事機密暗号電報は、この『批判』の解釈を一変させた。スターリンが直接書いたことも判明したコミンフォルム批判は、表裏の狙いを持っていた。()表面は、野坂参三を名指しにした占領下の平和革命論批判であり、そこには、武装闘争指令文言はない。しかし、()その裏側の狙いは、ソ連NKVD工作員野坂参三だけが判読できる暗号を含んでいた。その暗号内容とは、ソ連スパイ野坂にたいし、日本共産党を、朝鮮侵略戦争加担武装闘争路線へまるごと転換させよという指令だった。アメリカ占領軍も、この暗号内容を正確に読み取っていた。

 

 なぜなら、スターリンは、この時期、朝鮮侵略戦争の50年6月頃先制・奇襲攻撃開戦をほぼ決断しており、朝鮮人民軍の武力実態・戦争遂行能力の調査を克明に行ない、金日成に大量の武器・弾薬・戦車を輸送する方向で検討をしていた最中だからである。そして、コミンフォルム批判24日後50年1月30日、スターリンは、北朝鮮派遣のソ連大使シトゥイコフに暗号電報を打ち、金日成にたいする朝鮮戦争開戦準備の同意を与えた。

 

 ヴォイチェフ・マストニーは、『冷戦とは何だったか―戦後政治史とスターリン』(柏書房、2000年)を出版した。そして、ソ連崩壊後の新資料を駆使し、冷戦の本質を再構成した。彼は、朝鮮戦争について、コミンフォルム批判の直前時期の電報、資料から分析している。金日成は、1949年3月と9月24日に、スターリンにたいし、武力南進の許可・支援を要請していた。しかし、2回とも、スターリンにより却下されていた。49年10月1日、毛沢東が中華人民共和国成立を宣言したという情勢転換は、先制・奇襲攻撃作戦にも、きわめて有利に作用した(『冷戦』P.73)

 

 AV・トルクノフは、『朝鮮戦争の謎と真実―金日成、スターリン、毛沢東の機密電報による』(草思社、2001年)を出版した。そして、朝鮮戦争の準備、開戦から休戦協定までをめぐる3人、およびコミンテルン型前衛党3党間の交渉を、ソ連崩壊後に発掘された、膨大な数の機密暗号電報本文を積み重ねる手法を使って、社会主義3カ国が遂行した朝鮮侵略戦争の実態と本質を浮き彫りにした。

 

 「自らの南朝鮮進攻計画に青信号を得ようと、一九五〇年一月には金日成はクレムリンへの圧力を強めていた。一月三〇日、ようやくスターリン金日成に次のように伝える旨、ソ連大使に待望の指示を送った。

 

 《スターリン→シトゥイコフ(北朝鮮のソ連大使)》《……同志金日成の不満はわかるが、彼が実行を望んでいるような、南朝鮮に対するこのような大事業には、大がかりな準備が必要だということを理解しなければならない。リスクが大きすぎることのないよう、事を行なわなければならない。もしも金日成がこの件に関して私との会談を望んでいるならば、私は金日成を迎え入れ、会談の準備を整える。以上すべてを金日成に報告し、私がこの件について金日成を支援する用意はできていると伝えてほしい。》」(フォンド45、目録1、文書346、リスト12)(『謎と真実』P.92)

 

 毛沢東も、スターリン・金日成と共謀して、中国人民解放軍にいる朝鮮人部隊2個師団14000人を特別に編成して、武器装備ごと北朝鮮に派遣する方針を立てている最中だった。コミンフォルム批判17日後1950年1月23日、その朝鮮人部隊が鴨緑江を渡り、北朝鮮に入った(朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争―中国が鴨緑江を渡るまで』P.26、岩波書店、1991年)

 

   

1991年          1993年          2000年         2001年

 

 不破哲三も『綱領を読む』において、「ところが、コミンフォルム批判という形で、日本共産党への干渉にのりだしたスターリンらの狙いは、この文章に表向きに書かれたものとは、まったく違っていた。いまから見ると、日本の情勢についてというこの文章は、非常に陰謀的なにおいの強烈な文章だったのである」と断言した。非常に陰謀的なにおい、と断定する根拠は、不破哲三が『干渉と内通』(P.278〜313)において、ソ連共産党秘密文書に基づき、詳細に論証している。

 

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

 

 1950年4月安斎庫治らが中国に渡り、日本問題研究班を結成し、北京機関の準備を開始した(『党史』P.131)。これは、不破哲三も明言しているように、スターリン・毛沢東による日本共産党の革命指令部を北京に設置する共謀作戦命令に基づくものである。

 

 ソ中両党は、2カ月後6月25日に開始する朝鮮侵略戦争における後方基地武力かく乱戦争指令部の性格を、北京機関に持たせた。侵略戦争作戦計画を立てるからには、クラウゼヴィッツの『戦争論』を引くまでもなく、日本という後方兵站補給基地の武力かく乱戦争作戦準備を進め、完全隷従下の日本共産党という戦闘・前衛部隊に、国際的な軍事命令を下すことは、戦争参謀部の基本常識である。

 

 1950年3月30日〜4月25日、スターリンは、朝鮮戦争開戦準備・打ち合わせのために、金日成をモスクワに呼んだ。モスクワ滞在中、金日成は、スターリンと3回会談し、赤軍参謀部とも軍事支援の具体策を練った。スターリンは、この会談で、武力南進に全面的な承認と支援策を与えた。金日成は、会談後、(1)スターリンから、貨車で1千輌分の軍需物資を受け取った。(2)毛沢東は、5万から7万人の完全武装をした朝鮮人部隊を金日成指揮下に贈った。さらに、()ソ連軍将校チームが、平壌に到着し、先制攻撃作戦計画を完成させた(『冷戦』P.14)

 

 1950年8月末〜9月徳田球一、西沢隆二、野坂参三らが、中国に渡り、北京機関を結成した(『党史』P.133)。彼らの密航については、有名な映画撮影監督である共産党員宮島義雄が、密命を帯びて中国に事前密航し、中国共産党の軍事命令を受けて準備した(『左翼群像』P.225)

 

 共産党を地下に潜らせておいて、日本全土を、後方基地武力かく乱戦争の舞台にさせる作戦では、戦争指令部を安全な土地=中国に移動・設置することも、中国革命を1年前に成功させたばかりの毛沢東・劉少奇らの戦争作戦常識だった。9月とは、朝鮮人民軍が、釜山橋頭堡以外の南朝鮮全土に侵攻し、ほぼ90%を占領しており、あと釜山さえ陥落させられれば、朝鮮半島全体の武力統一・社会主義化を達成できることが目前の時期だった。

 

 2、朝鮮戦争経緯の激変と、ソ中両党軍隊の参戦

 

 1950年9月15日、ところが、スターリン・毛沢東・金日成にとって、大誤算が発生した。9月15日米軍を中心とした国連軍が仁川に上陸したのである(『党史』P.133)。補給路が伸びきっていた朝鮮人民軍は、寸断され、釜山から反撃・北上する米韓軍と仁川上陸軍の挟み撃ちにあい、一挙に壊滅状態に陥った。南朝鮮に侵攻していた朝鮮人民軍10万人は、米韓軍に包囲され、退路を断たれた。金日成は、戦力の半分を失った。それだけでなく、10月19日国連軍が平壌を占領し、一気に中国国境にまで迫った。

 

 もちろん、ここには、金日成らによる侵略戦争の意図・作戦計画を事前に熟知していたマッカーサー、トルーマンが、先に奇襲攻撃をさせておいてからたたくという真珠湾攻撃並みの謀略があった。毛沢東・中国共産党は、アメリカ軍の仁川上陸計画の存在をわずかに事前察知したが、それに対応しきれなかった。

 

 萩原遼が『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋、1993年)において、アメリカ国立公文書館所蔵の160万ページの文書に基づいて、両者の側面を論証している。彼は、『朝鮮戦争』第13章「誤算の連続」(P.277〜292)において、大誤算の内容を4項目に分析している。誤算4項目は、上記に載せた。

 

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

 

■赤い範囲は北朝鮮占領地域
■青い範囲は韓国(国連軍)占領地域

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 1950年10月19日、毛沢東は、中国人民義勇軍28万人の鴨緑江大渡河を命令した。11月24日に、その総人数は、戦闘部隊38万人を中核として、45万人に達した(『毛沢東の朝鮮戦争』P.321、343)。彼ら3人の侵略戦争計画自体が、中国革命の体験から、短期決着戦争ならば、米軍は参戦しないという打算に基づいていた。毛沢東は、結局、のべ300万人の中国人民義勇軍を投入した。

 

 この日以降、休戦協定成立日まで、朝鮮戦争の32カ月間/37カ月間という86%期間の内実は、中米戦争に転化した。米ソ冷戦期におけるアメリカの真意と対応、および、南朝鮮の社会主義化にたいする大いなる幻影に基づく侵略戦争だった。その経過詳細は、A・トルクノフが『朝鮮戦争の謎と真実』(草思社、2001年)において、ソ連崩壊後に発見された、大量の金日成・スターリン・毛沢東間の機密暗号電報を使って分析している。

 

 南北朝鮮人死者以外は、中国人民義勇軍死者100万人(『岩波小事典』No.791)米軍死者3万4千人(アメリカ国防省発表数字)だった。スターリンは、中国参戦当初、毛沢東が強く要請したソ連空軍支援を拒否した(『毛沢東の朝鮮戦争』全体)制空権を米軍に握られて、地上戦だけの戦闘を強いられた中国軍の犠牲は甚大だった。スターリンが、ソ連空軍将校団やミグ戦闘機部隊を、安全な中国に配備して、秘密参戦させたのは、一カ月後だった。ヴォルコゴーノフのデータで見ると、ソ連空軍パイロット死者は、319機・319人である。

 

    Wikipedia『朝鮮戦争』

 

 1950年11月14日、スターリンは、ソ連軍の秘密裏参戦を命令した。

 ヴォルコゴーノフは、『七人の首領』(朝日新聞社、1997年)のスターリン分析において、ソ連崩壊後の機密資料を使い、朝鮮戦争へのソ連軍参戦実態とスターリンによる参戦行為隠蔽工作を暴露した。その個所(P.349、350)を引用する。

 

 「大祖国戦争で多くを学んだスターリンは、中国義勇軍が兵力の数では圧倒的に優位であっても、しっかりした空軍の援助がなければ、うまくいかないことを理解していた。あれこれ熟考し、軍部とも協議したのち、十一月十四日、援護のための特別軍団を編成するよう命じた。この軍団は、第六四戦争飛行軍団と命名された。編成はいつもとちがっていた。二個戦争飛行師団、二個高射砲師団、それに一個飛行・技術師団であった。

 

 軍団の編成は絶えず更新された。師団は八〜一〇カ月、いくつかの師団は短い中断をはさみながら一年、それぞれ戦争に参加した。三年にわたる戦争で、一五個空軍師団と数個高射砲師団が実戦を経験した。

 

 軍団の作戦基地は、中国北部の飛行場があてられ、かなり地の利に恵まれていた。戦闘飛行隊は、アメリカの爆撃機や戦闘爆撃機が北朝鮮領空に現れたとの合図を受け取ると、彼らにたいして不意をついた急襲をかけた。しばしばアメリカ空軍は、燃料を使い果たしたソ連の戦闘機を、中国領空まで追撃した。そのうえソ連の飛行士たちは大きな制約を受けていた。戦線に近づいてはならず、ましてや「あちら」側にはいったり、海上を飛行してはならなかった。

 

 スターリンの厳しい命令は絶対であった。ひとりの顧問、飛行士も捕虜となってはならない、と。これは、兵士たちの身を案じたからではない。ソ連がこの戦争に直接関与しているという動かしがたい論拠を、アメリカに与えたくなかったからである。ミグ一五Bの標識も中国式で、飛行服も中国または北朝鮮のものだった。毛沢東バッジすらつけていた……。それはともかくとして、ソ連の軍人がアメリカの捕虜となったケースは明らかになっていない。

 

 軍団を構成する基本的なメンバーは、大祖国戦争の経験のある飛行士たちで、彼らの活躍ぶりは目ざましいものがあった。一九五〇年末から戦争のピークまで、軍団は一三〇九機を撃墜した。うち一八パーセントは高射砲隊によるものであった。一方、軍団は三一九機を失った

 

 軍団は一万〜一万五〇〇〇人にのぼった(さまざまな時期に軍団に編入された部隊の数にもとづく)。「侵略者」と戦っているのだ、とみんなそう信じていた。彼らはじつに見事に戦ったが、当初スターリンはまったく表彰しようとはしなかった。彼は国内で公になるのを恐れた。のちになってやっと、軍功に報いることにし、数千人が勲章やメダルを授けられた。」

 

 3、軍事方針・武装闘争路線の決定 1951年2月23日四全協

 

 1950年6月7日、または、8月31日〜9月 50年分裂期日の確定。これには、2つの見解ある。(1)1950年6月7日、66追放翌日、徳田らが、宮本ら7人の中央委員を排除して、非公然体制に移行した日である(『党史』P.132)。(2)分裂が組織的に確定した1950年8月31日〜9月である。8月31日宮本ら5つの反徳田派が、全国統一委員会を結成し、9月徳田・野坂らが北京機関を結成した月日で、分裂が固定した(『党史』P.133)

 

 1951年2月23日、徳田派が四全協を招集し、「劉少奇テーゼ」にもとづく軍事方針を決定した。また、宮本ら反徳田派を分派と規定する「分派主義者に関する決議」を採択した(『党史』P.135)。四全協にたいする「劉少奇テーゼ」押付けとは、日本の暴力革命と朝鮮戦争加担武装闘争を中国革命スタイルで展開せよとする、人民解放軍そのままの毛沢東盲従の植民地型軍事方針だった。

 

 4、武装闘争の開始と展開 1951年10月16日五全協〜1年9カ月間

 

 1951年10月16日統一回復五全協は、スターリン直接執筆の51年綱領(文書)と武装闘争方針を採択した。統一回復日本共産党は、中核自衛隊・山村工作隊活動を、1951年末から1952年7月にかけて集中的に遂行した(『党史』P.138)。ただ、日本共産党が武装闘争を完全中止したのは、ソ連・中国共産党の軍事命令によるもので、朝鮮休戦協定成立日である。

 

 宮本顕治ら反徳田5分派は、スターリンの「宮本らは分派」裁定に屈服した。宮本顕治は、()宮本分派組織を解散し、()主流派・志田重男に自己批判書を提出し、()主流派に復党した。よって、()分裂解消・統一回復は六全協でなく、五全協である。その証拠は別ファイルに載せた。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説

 

 5、武装闘争の中止 1953年7月27日朝鮮休戦協定成立日

 

 1953年7月27日、朝鮮休戦協定成立日以降、武装闘争事例は、見事なまでにぴたりと止んだ。ただ、ソ連・中国共産党による武装闘争停止命令の文書、暗号電報は、発見されていない。

 

 2、軍事方針・武装闘争の主体=統一回復五全協

 

 主体とは、武装闘争を遂行した組織に関する2つの見解である。

 (1)宮本・不破・志位らの主張、党史は、武装闘争をやったのは、分裂した一方の徳田・野坂分派であり、(現在の)日本共産党・宮本顕治にはなんの責任もない、としている。

 

 (2)私の見解は、次の内容である。五全協前に、宮本顕治がスターリンに屈服し、宮本分派を解散・志田宛に自己批判書を提出したことにより、日本共産党は統一回復をした。具体的な武装闘争の開始と展開は、統一回復五全協・共産党が遂行した。しかも、六全協選出の中央委員会は、野坂参三を筆頭とする武装闘争指導部のほぼ全員を再選し、受け継いだ。宮本顕治は、その中央委員会のトップ・常任幹部会責任者となった。

 

 さらに、六全協の武装闘争総括内容レベルは、フルシチョフ、スースロフ、毛沢東の干渉と具体的総括禁止命令を受けたきわめて表面的な極左冒険主義の誤りというイデオロギー総括だけのものに止まっている。よって、日本共産党には、それを本格的に総括し、武装闘争データと合わせて公表する責任と義務が、現在もある。それこそ、丸山眞男が指摘するマルクス主義前衛党としての結果責任の取り方である。

 

 1951年4〜5月、スターリン・中国共産党によるモスクワ会議での「宮本らは分派」裁定

 

 1951年4〜5月、スターリンは、中国共産党代表も参加させて、徳田、野坂らをモスクワに呼び、会議を数回持ち、党の統一を主張する宮本らを「分派」と断定した。そして、五一年綱領(文書)を押しつけた。宮本ら全国統一委員会の立場を説明するために派遣されていた袴田は、スターリンに屈服し、自己批判した(『党史』P.136)。これは、明白な干渉であるが、同時に、当時の日本共産党がソ中両党にたいして完全隷従の実態にあったことを証明する事例である。なぜこの時期に、スターリンが、モスクワ3党会議を招集したのかという背景を、朝鮮戦争の経過から検討する。

 

 日本共産党は、1950年1月6日スターリンによる朝鮮戦争参戦(暗号)軍事命令第1号=コミンフォルム批判を受け、その解釈、対応をめぐって、分裂状態に陥った。あげくの果て、1950年9月分裂が固定してしまったのは、スターリン・毛沢東の大いなる誤算だった。日本という後方基地内の前衛部隊が軍隊として分裂してしまったのでは、兵站補給の武力かく乱戦争目的を達成できない。治安かく乱効果さえも挙げられない。

 

 毛沢東は、あせって、9月3日の人民日報で、「今こそ日本人民は団結して敵にあたる時である」を発表し、統一回復命令を出したが、効果がなかった(『党史』P.133)。その原因の一つは、ソ連共産党NKVDエージェント野坂参三の力量不足によるものなのか、それとも、彼がスパイとして、いいかげんで、楽観的な党内情報を、彼の上級機関である赤軍情報部に報告していたからなのであろう。

 

 スターリン・毛沢東は、37、38度線付近の一進一退戦線からの脱却・再攻勢作戦をいろいろ練った。その一つが、いつまでも分裂している日本共産党という前衛軍隊の統一回復をさせ、新たに、日本国内の治安を武力かく乱する第二戦線を立ち上げることだった。日本共産党「軍隊」のだらしのなさにたいして、しびれを切らしたスターリン・毛沢東が、徳田・野坂らをモスクワに呼びつけて、一喝したのが、1951年4、5月の会議である。他の一つが、1951年5月23日の中国軍の5月攻勢だった(『謎と真実』巻末地図)。

 

 1951年8月10日、コミンフォルム機関紙での「宮本らは分派」とする報道

 

 コミンフォルム機関紙「恒久平和」が、四全協の「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」を報道し、日本共産党の内部問題にかんする重大な干渉をした。徳田・野坂らを公然と認知し、党中央と党の統一をもとめる宮本らを分派あつかいした(『党史』P.137)。スターリンは、4、5月モスクワ会議の「宮本らは分派」裁定に服従するよう、宮本ら反徳田5分派に強要した。

 

 1951年10月初旬、宮本・蔵原が全国統一会議(宮本分派)の解散声明発表、宮本顕治の志田宛自己批判書提出

 

 10月初旬、全国統一会議が、「党の団結のために」と題する解散声明を発表した(『党史』P.138)。これは、宮本顕治が五全協前に、スターリンに屈服したことである。「宮本自己批判書」の存在は、反徳田派中央委員だった亀山幸三が証言している。宮本顕治が、宮本分派=全国統一会議を解散し、日本共産党中央軍事委員長の志田宛に宮本自己批判書を提出したことは、彼が臨時中央委員会(臨中)を承認したとともに、スターリン執筆の51年綱領という武装闘争路線認めたことである。

 

 宮本顕治のスターリン・毛沢東にたいする無条件屈服を最後として、反徳田5分派はすべて解散し、日本共産党は統一回復をした。徳田・野坂指導部は、スターリン・毛沢東の干渉によるものとはいえ、ソ中両党にたいする完全隷従のコミンテルン型前衛党として、10月初旬以降正規の統一回復日本共産党中央委員会となった。

 

 宮本顕治には、スターリンの「宮本は分派」裁定の干渉に納得できなければ、スターリンによる名指しの宮本除名、ユーゴのチトー並に国際共産主義運動からの永久抹殺を受けるという誇り高き男・コミンテルン型前衛党党幹部としての選択肢があった。しかし、彼は、熱烈なスターリン崇拝者として、その選択を避け、スターリンへの屈従の道を選んだ。なぜなら、彼は、1年前の1950年12月、シベリア抑留記『極光のかげに』にたいして、「あの本は、偉大な政治家スターリンをけがすものだ。こんどだけは見のがしてやるが」という、スターリン信仰とシベリア抑留60万人の記録敵視の脅迫せりふを、著者高杉一郎に投げつけていたからである。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、“スターリンへの屈服”』資料編と解説、宮本自己批判書

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』宮本顕治の抑留記『極光のかげに』批判発言問題

 

 1951年10月16日、統一回復五全協が、武装闘争方針を決定し、武装闘争活動を展開

 

 五全協は、51年綱領(文書)と武装闘争方針を採択した。宮本顕治も屈服・復帰した統一回復日本共産党が、中核自衛隊・山村工作隊などの武装闘争活動を、1951年末から1952年7月にかけて集中的に展開した(『党史』P.138)。たしかに、宮本顕治は、徳田・野坂らから組織隔離・報復措置により、武装闘争指導部から排除されていた。よって、宮本顕治には、五全協以降の1年9カ月間に及ぶ武装闘争期間の指導部としての個人責任はない。この期間、彼にあるのは、スターリンへの屈服と復帰をした統一回復日本共産党の一党員としての武装闘争路線賛成の個人責任である。

 

 しかし、彼は、五全協武装闘争共産党の期間中、()五全協中央委員会指導部員になった。これは、現在の常任幹部会員と同じレベルである。()しかも、五全協から総選挙東京第一区の候補者になって、五全協活動をした。これは、共産党にとって中心選挙区だった。もともと、主流派幹部たちは、神山だけでなく、宮本顕治も除名せよという意見が強かった。その宮本排除・除名意見を押さえ込んで、彼を大抜擢した人事力学の背景は、スースロフ・毛沢東の人事命令があったと推測される。それは、下記で検証する。ただ、その証拠はない。

 

 したがって、「武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派がやったことである」というのは、宮本顕治が得意とする形式論理の詭弁であり、科学的社会主義式ウソである。

 

 3、軍事方針・武装闘争の性格

 

 統一回復日本共産党が遂行した武装闘争は、2つの性格を持っている。

 

 第一、朝鮮戦争加担というコミンテルン型前衛党が遂行した侵略戦争行動

 

 武装闘争とは、中国共産党の植民地型軍事方針を教条的に導入し、そのまま実践したものである。この武装闘争を、()朝鮮戦争との関係で直接的に位置づけるか、それとも、()それと切り離し、日本国内の独自の「極左冒険主義の誤り」に矮小化するかどうかで、このテーマの認識がまるで違ってくる。宮本顕治だけでなく、日本のマスコミ・歴史学者たちも、この武装闘争を朝鮮戦争との関係で分析し、位置づけた研究・出版はほとんどない。

 

 朝鮮戦争とは、金日成の朝鮮武力統一願望と要請に基づいて、1950年1月スターリン・毛沢東が戦争計画と開戦を承認し、北朝鮮にたいして、1950年4月から武器・弾薬・兵員・戦費を全面的に提供した戦争だった。それは、戦争の最初から、社会主義3カ国と前衛党が共同謀議の上に開始した侵略戦争だった。

 

 14の現存した(する)社会主義国家とは、コミンテルン型前衛党が所有した(している)国家と規定できる(下斗米伸夫法政大学教授著『ソ連=党が所有した国家』講談社、2002年9月の題名と内容)。そこに、国家未所有の日本共産党も参戦した。そこからみれば、朝鮮戦争とは、第二次世界大戦後初めて、国際共産主義運動とコミンテルン型前衛党4党が一体となって起した、大規模な革命輸出戦争だった。

 

 ただ、1951年7月10日に休戦会談本会議が始まり、一方で、38度線付近の攻防をめぐって数カ所の高地争奪の激戦が続いていた。すでに本格的な中米戦争となっていた戦線全体は、膠着状態になっていた。それでは、スターリンは、なぜ、朝鮮侵略戦争開始1年4カ月後の1951年10月16日統一回復五全協時点になってから、日本共産党「軍」に武装闘争開始をわざわざ命令したのであろうか。それは、彼の戦争継続主張に基づく、朝鮮戦争第二戦線を日本で新設するという性格を持ったからである。ソ連崩壊後、スターリンの思惑を証明する暗号電報が多数発見された。

 

 「これ以降スターリンは、戦線での状況がいかようであろうとも、戦争の継続を主張した。理由は、ソ連指導者にとって朝鮮戦争が共産圏に有利であるからであった。というのも、世界の舞台でも国内でもワシントン政府の立場に損害を与えるからであった。一九五一年六月五日、スターリンは、毛沢東の立場に一見同調したように見えながら、実際には中国に対し悪夢のような問題を押しつけた。《スターリン→毛沢東》《私は貴下の意見に同調するが、朝鮮戦争の完遂を急ぐ必要はない。なぜなら、戦争継続によって中国軍は現代戦の技術を習得し、第二に、米国のトルーマン政権を弱体化させ、英米の戦争の威信を低下させるからである》」(ソ連軍参謀本部第2総局第3410号暗号電報、フォンド45、目録1、文書339、リスト17〜18)(『謎と真実』P.332)

 

 スターリンは、ソ連一国の国家利益のために、(1)休戦会談を続けつつ、(2)米軍によるソ連侵攻の心配のない、朝鮮半島38度線付近の中米戦争をやらせ、(3)日本共産党「前衛軍隊」と北朝鮮系在日朝鮮人・祖国防衛隊を使い捨て利用して、米日政権を弱体化させる、という三面作戦を選択した。スターリンは、1953年3月5日に死ぬまで、これら三面作戦命令を出し続けた。スターリンが死んだ4カ月後、1953年7月27日、休戦協定が成立した。

 

 第二、日本国内の弾圧・レッドパージにたいする非合法の抵抗自衛行動

 

 アメリカ政府・占領軍は、朝鮮問題への対応とは別に、1949年10月中国革命成功によって、やむなく中国本土から手を引くという戦略選択を迫られた。韓国からも、米軍を引き上げた。そして、戦略立て直しによって、米ソ冷戦にたいする東アジア防衛線を日本―台湾ラインに設定し直した(『冷戦』122〜)。その世界戦略に基づいて、アメリカは、対日戦略も転換させた。その内容は、()日本を不沈空母にさせるために、()占領をやめて、主権国家に回復させることとの引き換えに、()日本全土に米軍基地を置いた方が効率的であるとする作戦だった。()その作戦内容の一つが、1951年9月4日からのサンフランシスコ講和会議であり、9月8日の単独講和・日米安全保障条約の調印である。

 

 ()もう一つの作戦は、講和に伴う日本国内の治安対策と政治体制整備である。アメリカ対日戦略と吉田内閣の対極にある勢力は、日本共産党共産党系労働組合北朝鮮系在日朝鮮人などだった。マッカーサーとGHQは、それらにたいする弾圧命令を次々と発令した。在日朝鮮人組織・朝連解散、1950年6月6日、共産党中央委員24人全員の公職追放、7月から9月にかけて、マスコミ・公務員を筆頭とする大規模なレッドパージを強行した。

 

 当時の共産党東京軍事委員長大窪敏三が、軍事方針・武装闘争の性格を、現場体験に基づいて、ずばりと規定している(『まっ直ぐ』、P.207)

 

 「四全協以降にしきりに暴力革命を叫んでいたことにしたって、ありゃあ、熱くなってる共産党周辺の大衆や一般党員、あるいは八方ふさがりでどうしたらいいかわかんなくなってる連中に対する言葉だよ。俺は、そう思ったし、いまもそう思ってるよ。軍事方針っていうのは、差し迫っている暴力革命のため、なんてもんじゃねえよ。軍事方針のほんとうの意味には、二つあったと思うんだな。

 一つは、当時半非合法化されていた共産党と共産党傘下の労働運動の抵抗自衛だよ。

 

 全面的な弾圧がはじまっていたわけだからな。共産党自体が、半分非合法化されちゃった。そうしたら、合法的な抵抗だけでなく、非合法的な実力による抵抗自衛を組織しなくちゃならないのはあたりめえだろ。それだけのことだよ。武装蜂起の準備とか、そういうことじゃねえわけだよ。実力行動っていうのは、デモやストライキのときだって必要なんだよ。ましてや、半非合法化されちゃったら、法に頼るんじゃなくて、実力に頼る度合いが高まるのはあたりまえだ。だけど、それと武装蜂起の準備なんていうのは、まったく次元が違うんだよ。半非合法のもとでは、法に頼らない実力防衛が必要だ。それは明らかなことだし、俺たちがやってたのは、そういうことだったんだよ。法に縛られない運動の防衛の手段をとる。それだけのことだよ」。

 

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』東京都委員長、地下軍事組織Y

 

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 〔関連ファイル〕

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    Wikipedia『朝鮮戦争』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」