不破哲三こと81歳上田建二郎の策謀

 

80歳過ぎても党内実権を継承・維持できるには

不破社研分派が支配する分派禁止規定政党

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、はじめに―上田建二郎67歳〜81歳の裏側略歴

      1997年第21回大会、「宮廷革命」=党内クーデター、67歳 (表1、2)

      1998年不破の中国共産党訪問=共産主義友党関係回復、68歳

      2000年第22回大会、不破規約に全面改定、70歳

      2004年第23回大会、不破綱領に全面改定、74歳

      2006年第24回大会、議長退任→平常幹+社会科学研究所長、76歳

      2010年第25回大会、平常幹+社研所長=不破社研分派公然化、79歳→2月80歳

   2、不破哲三こと81歳上田建二郎の党内実権継承・維持目的の策謀5つ

     〔策謀1〕、老齢批判かわし目的の76歳議長引退→平常幹+社研所長

     〔策謀2〕、党内権力継承・維持組織としての社会科学研究所

     〔策謀3〕、引退と同時に津久井自宅に社会科学研究所のお手盛り移転

     〔策謀4〕、社研スタッフの大増強=不破社研分派の公然化と合法化 (表3、4)

     〔策謀5〕、綱領・古典連続教室における3目的の陰謀

   3、死後の恐怖=党内外から不破批判勃発と業績抹殺・人格全面否定

      1マルクス評価

      2、レーニン評価

      3、スターリン評価

      4、野坂参三の死後評価

      5、不破哲三による宮本顕治の死後評価と業績抹殺 (表5、6)

 

 〔関連ファイル〕        健一MENUに戻る

    Wikipedia『不破哲三こと上田建二郎』経歴

    『不破哲三の「宮廷革命」第21、22回大会−1997年、2000年』

    『不破哲三と中国共産党との関係経緯』時系列ファイル多数

    『42年ぶりの規約全面改定問題』ファイル多数

    『43年ぶりの綱領全面改定問題』ファイル多数

    『党資金横領常幹政党=毎年6000万円横領の特権常幹上田建二郎』

    『不破哲三批判』ファイル多数

 

 1、はじめに―上田建二郎67歳〜81歳の裏側略歴

 

 不破哲三こと上田建二郎の生年月日は、1930年1月26日である。2011年1月、81歳になった。彼の67歳から81歳までの裏側略歴を確認する。その間14年間裏側とは、宮本顕治引退強要と同時に、不破グループが遂行した宮本秘書団私的分派解体という党内クーデター前後から、現在までを意味する。

 

    Wikipedia『不破哲三こと上田建二郎』経歴

 

 〔小目次〕

   1997年第21回大会、「宮廷革命」=党内クーデター、67歳 (表1、2)

   1998年不破の中国共産党訪問=共産主義友党関係回復、68歳

   2000年第22回大会、不破規約に全面改定、70歳

   2004年第23回大会、不破綱領に全面改定、74歳

   2006年第24回大会、議長退任→平常幹+社会科学研究所長、76歳

   2010年第25回大会、平常幹+社会科学研究所長、79歳→2月80歳

 

 1997年第21回大会、「宮廷革命」=党内クーデター、67歳

 

宮本議長は、1994年第20回大会後は、85歳の高齢と脳梗塞2回のため、中央諸会議に次第に出席できなくなった。不破哲三はそれまで秘密に形成していた不破グループとともに、第21回大会を前にし、88歳の宮本議長に強引に引退を迫った。宮本顕治はベッドの上で「私は何か悪いことをしたのか」とかなり抵抗した。しかし、最終的には引退を決断させた。

 

 不破グループは、直ちに、次の行動を起こした。「宮本秘書団」を中核とした側近グループ=宮本秘書団私的分派解体、排除である。引退以前には、宮本分派の存在とメンバーリストは、民主集中制・分派禁止規定という党内民主主義を抑圧する犯罪的完全閉鎖システムによって、党内外に漏れ出ていなかった。

 

 ただ、この時点における不破グループのリストも判明していない。2010年第25回大会で公表した社会科学研究所の下記(表3)不破社研分派リストを公然化し、かつ、合法化した。

 

 不破哲三と不破グループによる解体、排除行動は、彼らによる党内クーデターだった。それが秘密裏に決行されたので、「宮廷革命」とも呼ばれた。その意味は、分派活動規律違反での除名・除籍を伴わない常幹引退・格下げという合法的で穏便な排除手続きだったからである。第21〜22回大会における合法的な役員人事異動に基づく引退・格下げリストによって、党内クーデターの全貌が初めて党内外に知れ渡った。そのリストと引退・格下げ時期と経過を確認する。

 

(表1) 宮本秘書団私的分派・側近グループ解体措置

名前

出身

14回大会党内地位

1977

20回大会地位

1994

人事措置

(21)=21回大会、(22)=22回大会

諏訪茂

宮本秘書

常任幹部会員

死去

死去

宮本忠人

宮本秘書

常任幹部会員

常任幹部会員

引退(21)

小島優

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

引退(21)

白石芳郎

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

格下げ(21)、引退(22)

宇野三郎

宮本国会秘書

中央委員

常任幹部会員

格下げ(21)、引退(22)

金子逸

宮本秘書

常任幹部会員

格下げ(22)

佐々木陸海

宮本秘書、議長室室長

常任幹部会員

格下げ(21)、衆議院議員排除(2000年)

有馬治雄

宮本秘書、議長室室長

常任幹部会員

引退(22)

有働正治

宮本秘書

幹部会委員

格下げ(21)、引退(22)、参議院議員排除

吉岡吉典

宮本秘書

准中央委員

幹部会委員

留任(22) 参議院議員引退(2004年)

 

    『不破哲三の「宮廷革命」第21、22回大会−1997年、2000年』引退・格下げ時期と経過

 

(表2) 不破グループに変節→宮本分派裏切・自供・分派全員資料提出

名前

出身

14回大会党内地位

20回大会地位

人事措置

小林栄三

宮本秘書

常任幹部会員

常任幹部会員

留任(1) 病気引退(22)2001年死去

上田均

宮本秘書

幹部会委員

常任幹部会員

留任(22) 2011年も財務・業務局長

岡宏輔

宮本議長室室長

宮本秘書

議長室室長

留任(22)幹部会委員・党史資料室責任

 

 「宮廷革命」とは、表面だけを見れば、党大会における人事変更であり、除名・除籍などの規律違反措置を伴っていない事実を意味する。ただ、最初にHPで検証した時点では、なぜ分派活動規律違反処分でなく、引退・格下げという平和的手口での党内クーデターが可能になったかは、調査したが分からなかった。

 

 その理由が始めて判明したしたのは、2007年幹部会員岡宏輔が「しんぶん赤旗」に載せた立花隆批判論文の内容からだった。彼は、その論文において、私の名前を隠蔽したままで、私の宮本顕治批判ファイルに抽象的な反論を書いた。その論文において、彼は、自己の経歴を、1985年以降、宮本秘書であり、1994年中央委員になるとともに、1997年まで宮本事務室の責任者(=議長室室長)だったと自白した。

 

    『現幹部会員・岡宏輔の宮本秘書団経歴と昇進経緯』

 

 宮本引退強要時点最後の議長室室長だったのにもかかわらず、引退・格下げでなく、逆に幹部会員に昇進した。宮本秘書団私的分派メンバー中、留任したのは、(表2)の3人だけだった。

 

 以下は、最初のファイル後発覚した幹部会員岡宏輔経歴を合わせ、党内外から収集した全情報・データに基づく私の新しい推理である。もちろん、忠誠派党員は、私の新分析をまったく信じないで、拒絶反応を示すだろう。

 

 3人は、不破グループに説得・工作され、宮本分派裏切り、不破グループに変節した。そして、()自己の分派活動自供とともに、()他分派メンバー10人全員の宮本秘書団私的分派活動の全貌資料を提出した。

 

 ()最後の議長室室長岡宏輔は、他分派全員の分派行動実態をすべて把握し、資料保管ができる立場にあった。()小林栄三、初代代々木のベリア袴田里見粛清の功績で、中央委員から2段階特進で常任幹部会員になっていた。彼は、宮本秘書団私的分派の中心で、分派活動の全体を掴んでいた。()上田均は、赤黒い共産党裏金の担当者であるとともに、宮本秘書団私的分派にも裏金を手渡す秘密任務を遂行し、そのデータを記録していた。

 

 彼ら3人宮本分派裏切り、詳細な密告をすれば、他分派10人は全面的に分派活動事実を認めざるをえない。個別に監禁査問され、分派活動を自白し、自己批判書不破グループの私的査問委員会に提出した。不破哲三は、党内クーデターの本質を覆い隠す目的で、第21、22回大会の2回に分け、除名・除籍措置でなく、合法的な党大会人事異動手口「宮廷革命」を見事なまでに成功させた。

 

 ただ、小林・上田・岡ら3人が、自ら進んで、不破グループに寝返ったとは思えない。東欧・ソ連10カ国の党独裁・党治国家内の無数の内部裏切りケースや、私の愛知県における21日間の監禁査問体験における裏切り・密告者製造ケースがその手口を物語っている。それは次である。

 

 不破グループは、まず裏切らせるメンバー3人を抽出・特定した。彼らの分派活動規律違反データを完璧に集めた。その実態を密かに個別の監禁査問で突きつけた。同時に、赤黒い不破式司法取引を持ちかけた。()他分派10人全員の分派活動実態を全面的に自白せよ、そうすれば、3人それぞれの分派規律違反免罪にしてやる。小林・上田留任させる。は幹部会員に昇進させる。()もちろん、裏切・密告をしなければ、正式査問→除名・除籍措置にする。()不破哲三は、脅迫つきの選択肢を提示した。3人は、赤黒い司法取引に応じた。

 

 不破グループによる党内クーデターは、平和的合法的な党大会人事異動の形で、党内外の誰にも分からないような「宮廷革命」形態となった。不破グループは、2010年、下記(表3)リストに載せたような不破社研分派として公然化し、合法的分派となって、君臨している。

 

 なお、この「宮廷革命」は、集団査問により行われた。集団査問ケースは、ソ連分派・中国分派などがある。しかし、具体的実態が判明しているのは2つしかない。1967年愛知県「5月事件分派」と、1972年新日和見主義分派事件である。「5月事件分派」は、私を首謀者と断定し、地区専従7人・地区委員と支部長数十人集団査問した。新日和見主義分派事件で、宮本・不破らは、民青幹部約600人集団監禁査問→100人党員権1年停止・民青専従解任・民青追放をした。

 

    『私の21日間の「監禁査問」体験』「愛知県5月問題」

    『新日和見主義「分派」事件』その性格と「赤旗」記事

 

 不破グループは全員が集団査問者側の体験者である。そして、「宮廷革命」での査問は、(表2)最初の3人(表1)他分派メンバー10人だけだった。不破哲三は、集団査問のやり方、大量査問体制構築のベテランになっていた。分派個々の自供事実の年月日・発言内容の相互突合せを、警察・検事以上の厳しさで、監禁査問にして遂行した。集団監禁査問とは、日本共産党という非権力レベルのコミンテルン型共産党式拷問である。

 

 東欧・ソ連における集団査問はどうだったのか。最初の逮捕党員にたいする監禁査問・共産党式32種類の拷問→自白→分派リストのでっち上げ自供→芋づる式大量逮捕と拷問→スターリンによる4000万人粛清→内除名元共産党員100万人銃殺・現役共産党員100万人銃殺をもたらした。この数値は、ロイ・メドヴェージェフの調査結果である。レーニンはロシア革命・ソヴィエト勢力の労働者・農民・兵士数十万人を、ジェルジンスキー・秘密政治警察チェーカーを使って殺害した。

 

    ソルジェニーツィン『収容所群島』第3章「審理」32種類の拷問

    『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』ウソ・詭弁7つを検証

    『レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通』大量殺人指令と報告書

 

 裏切・密告者は、()東欧・ソ連10カ国だけでなく、()愛知県5月問題や()新日和見主義分派事件のすべてのケースにおいて、留任昇進をした。愛知県集団査問をもたらした裏切・密告者は、地区常任委員→県常任委員になった。新日和見主義分派600人集団査問事件における裏切・密告者浦田宣昭は、民青委員長→共産党常任幹部会員に昇進(68歳)している。

 

 1998年不破の中国共産党訪問=共産主義友党関係回復、68歳

 

 2000年第22回大会の2年前1998年、不破哲三は、中国を訪問した。文化大革命以来、宮本顕治と決裂していた中国共産党との共産主義友党関係を回復した。

 

 不破哲三は、()党内クーデター開始時期1997年と、()中国共産党との友党関係回復=中国共産党べったり・国際的問題も無批判の密約成立時期1998年とを、同時に謀った。党内向け作戦と中国共産党との屈従的密約作戦とは、()宮本顕治引退強要1997年作戦開始前から、不破グループによって企まれていたと判断できる。

 

 その本質は、中国共産党べったり・中国共産党無批判・中国3回訪問不破80歳の3人独裁・党内民主主義抑圧政党である。

 

    『不破哲三と中国共産党との関係経緯』時系列ファイル多数

    共産党『不破哲三議長の中国訪問』2002年8月、6記事・論文

    山椒魚『不破哲三の資本論「研究」と中国「賛美」の老害ぶり』

 

 これら不破哲三による()宮本顕治引退強要と党内クーデターの同時遂行()不破路線・体質・人事体制確立()中国共産党との同質・同類性を明確にしないと、現在の日本共産党の本質・実態認識に誤りが生まれる。

 

 2000年第22回大会、不破規約に全面改定、70歳

 

 不破路線・体質・人事体制は、2000年に確立した。国民の民主主義を抑圧しつくす一党独裁の中国共産党と、党内民主主義を抑圧する民主集中制・分派禁止規定堅持の不破路線・体質・人事体制の日本共産党とは、同質・同類政党である。不破新規約の本質は、党内の批判・異論党員を排除しつくす反民主主義体質としての党内犯罪システム継承路線である。

 

 彼は、引退させた宮本顕治に取って代わって、直ちに、日本共産党議長の椅子を手に入れた。志位和夫を委員長に昇格させ、市田忠義を書記局長に任命した。これで、不破・志位・市田ら3人独裁体制を確立できた。

 

    『42年ぶりの規約全面改定問題』ファイル多数

 

 2004年第23回大会、不破綱領に全面改定、74歳

 

 綱領改定に関する不破哲三の本当の狙いは、2000年不破規約に全面改訂直後に、臨時党大会を開いて、不破綱領に全面改定することだった。ところが、改定の準備に参加していた社会科学研究所員から私宛にメールが来た。その内容は、()すでに新綱領全文が完成している。()不破哲三が第22回大会の同一代議員によって、綱領討論もいいかげんにし、臨時党大会での採決を強行しようとしている。()これは重大な誤りであり、許されない。()私のHPで暴露してくれないかという怒りの要請だった。

 

 私は彼と何度もメールのやりとりをし、名前が特定されないようにした。ただ、社会科学研究所員からの通報と書いてもかまわないとの返事だった。HP公表は大きな反響をよんだ。掲示板でも大問題になり、マスコミも取り上げた。そこで、不破哲三は臨時党大会を諦めた。不破綱領決定は4年後に延期された。

 

 不破綱領の本質は、綱領最後にあるように、革命綱領である。しかも、「国会で安定した241議席を占める」という空想的社会主義路線である。結果として、不破規約・綱領路線10年間は、赤旗部数激減と共産党議員喪失の面で絶大な破壊力を発揮した。

 

    『43年ぶりの綱領全面改定問題』ファイル多数

 

 2006年第24回大会、議長退任→平常幹+社会科学研究所長、76歳

 

 退任同時に、下記で分析する思惑に基づいて、実態として開店休業中だった社会科学研究所長に就任した。かつ、党本部内にあった社会科学研究所を津久井自宅へのお手盛り移転を強行した。そして、毎年6000万円の党資金横領という党内犯罪を続けている。

 

    『党資金横領常幹政党=毎年6000万円横領の特権常幹上田建二郎』

 

 2010年第25回大会、平常幹+社研所長、不破社研分派公然化、79歳→2月80歳

 

 ()社会科学研究所長として、中国共産党との理論交流をしている。()「赤旗まつり」では、毎回のように、『科学の目』講演をしてきた。そのレベルは非科学の目である。()さらには、志位和夫と2人で『綱領・古典連続教室』の講師をし、マルクス・エンゲルスの不破式解釈を、党費納入25万党員中の2.5万人に注入している。ここにも彼の陰謀3つが潜む

 

    『不破「科学の目」教室と参院選惨敗原因の責任転嫁』

 

 

 2、不破哲三こと81歳上田建二郎の党内実権継承・維持目的の策謀5つ

 

 〔小目次〕

   〔策謀1〕、老齢批判かわし目的の76歳議長引退→平常幹+社研所長

   〔策謀2〕、党内権力継承・維持組織としての社会科学研究所

   〔策謀3〕、引退と同時に津久井自宅に社会科学研究所のお手盛り移転

   〔策謀4〕、社研スタッフの増強=不破社研分派の公然化と合法化

   〔策謀5〕、綱領・古典連続教室における3目的の陰謀

 

 〔策謀1〕、老齢批判かわし目的の76歳議長引退→平常幹+社研所長

 

 上田建二郎は、76歳で共産党議長を引退した。ただ、兄・上田耕一郎のように、中央委員も引退したのではなかった。と違って、の方は、平常幹に留まるだけでなく、社会科学研究所長の椅子に座った。

 

 その選択における狙いは何か。宮本顕治は老齢88歳になっても、共産党議長の椅子を手放さなかった。党内外、とくにマスコミからの年寄り批判が沸騰した。宮本顕治は、不破委員長に批判にたいする弁明の命令をした。委員長は、命令に服従し、わざわざ記者会見を開き、「余人をもっては代えられない人」と、議長の椅子を庇った

 

    Wikipedia『宮本顕治経歴』脳梗塞2回→88歳で議長引退

 

 上田建二郎は、その苦い体験に基づき、早晩、自分にたいしても、76歳老齢議長批判が噴出することを怖れた。そこで、2006年第24回大会で議長引退を選択した。しかし、引退後の党内実権確保への手配りを綿密にした。平常幹になるだけでは、党内実権が奪われる。奪われないような手口はないか。それには、党内権力を保持できる組織が要る。その組織とは、それまで開店休業状態だった社会科学研究所長の椅子を手に入れる策謀だった。

 

 〔策謀2〕、党内権力継承・維持組織としての社会科学研究所

 

 社会科学研究所長になると同時に、秘密裏に、1997年「宮廷革命」=党内クーデターを遂行した不破グループを社研スタッフに採用する。それなら、上田建二郎の策謀見抜く者はいない。

 

 平常幹だけでなく、党中央機関の一つを握れば、孤立させられることなく、党内権力を密かに継承し、維持することができる。宮本顕治の議長執着という誤りによる老齢議長批判を避けられるだけでなく、党内権力継承・維持組織も確保する一石二鳥の策謀になった。

 

 〔策謀3〕、引退と同時に津久井自宅に社会科学研究所のお手盛り移転

 

 その策謀だけではない。議長引退と同時に、津久井上田建二郎名義敷地989.72坪の3階建て不登記ビルで社研会議を開くことができるように企んだ。党本部内にあった社会科学研究所を、党本部から車で2時間もかかる津久井自宅敷地にお手盛り移転させた。

 

 党中央の社会科学研究所であるからには、それなりの人員7人体制・資金毎年6000万円が要る従来からの実質的な不破分派グループである書記局長市田忠義・副委員長内野忠夫・常幹の上田均財務業務委員会責任者ら3人に同意させ、毎年6000万円を党中央財政から支出させる。

 

    『党資金横領常幹政党=毎年6000万円横領の特権常幹上田建二郎』

 

 〔策謀4〕、社研スタッフの大増強=不破社研分派の公然化と合法化

 

 上田建二郎は、開店休業状態だった社会科学研究所を、議長引退→社研所長就任と同時に、スタッフを増強させた。2010年1月第25回大会では、下記リストに一段と異様な大拡張させた。ただ、共産党HP公表の社研名簿だけでは、その異様さが分からない。そこで13人の中央役員ランクと党中央部署を共産党HPからピックアップする。

 

 社会科学研究所幹事リスト13人 2010年1月第25回大会で決定

 所長 不破哲三

 副所長 山口富男

 幹事 足立正恒 緒方靖夫 笠井亮 川田忠明 小池晃 田川実 田村一志 谷本諭 辻慎一 盛美彰

 事務局長 小野秀明

 

    共産党『中央委員会の機構と人事』→社会科学研究所13人リストと部署

 

(表3) 社会科学研究所リスト13人と中央役員・部署

名前

年齢

中央役員

党中央部署

備考

不破哲三

79

常任幹部会員

社会科学研究所長

2011181

山口富男

55

常任幹部会員

社会科学研究副所長

不破へ茶坊主インタビュー者

緒方靖夫

62

常任幹部会員

副委員長、国際委員会責任者

不破中国・チュニジア訪問同行

笠井亮

57

常任幹部会員

政策委員会副責任者

衆議院議員

小池晃

49

常任幹部会員

政策委員会責任者

参院落選→東京知事選立候補

足立正恒

71

中央委員

学術文化委員会・宗教委員会責任者

川田忠明

50

中央委員

平和運動局局長、国民運動委員会

田村一志

47

中央委員

宣伝局次長

盛美彰

55

中央委員

「前衛」編集長

田川実

45

准中央委員

書記局員、国際委員会委員

辻慎一

45

准中央委員

書記局員、学術文化委員会事務局次長

谷本諭

39

准中央委員

政策委員

小野秀明

社会科学研究所事務局長

中央役員と党中央部署は、共産党HPに記載したデータ

 

(表4) 実質的な不破分派メンバーの他リスト4人

名前

年齢

中央役員

部署

備考

市田忠義

67

常任幹部会員

書記局長

浜野忠夫

77

常任幹部会員

副委員長、人事局長=粛清も担当

小林栄三→3代目ベリア

上田均

75

常任幹部会員

財務業務委員会責任者

元宮本秘書団分派→留任

岡宏輔

62

幹部会員

党史資料室責任者

元議長室室長→昇進

 

 社会科学研究所とは、本来何をする所か。日本共産党にとって、社会科学研究とはマルクス・レーニン主義研究とその研究成果発表を指す。ところが、このスタッフは、不破以外、誰もそのマルクス・レーニン主義研究成果を著書・「前衛」論文として発表したことがない。せいぜい小池晃が選挙政策を発表するか、は自分の担当部署の現状分析論文を執筆する程度だけである。

 

 この研究所スタッフを見れば、共産党HPにおける党中央の他委員会・局と比較してもまるで性質が違う、異質な部門である。そもそも、13人中常幹5人、中央委員・准中央委員7人もがいる。「前衛」編集長までもいる。彼らは、党中央部署も他委員会・局のトップを兼ねている。

 

    共産党『中央委員会の機構と人事』→社会科学研究所13人リストと部署

 

 それなら、津久井に移転させた社会科学研究所の本質・狙いは何か。それは、完璧なまでの不破社研分派である。上田建二郎は、1997年党内クーデターを平和的秘密裏に遂行した不破グループを率いてきた。彼は、第25回大会79歳になった時点で、それを不破社研分派として公然化し、合法化した。社会科学研究所会議が、()津久井の上田建二郎名義敷地989.72坪の3階建て不登記ビル内で開かれようと、()党本部内であろうと、合法的に不破社研分派会議が自由にできる。

 

 宮本顕治のケースは、宮本秘書団私的分派だった。彼は、(表1)のように常任幹部会秘書・秘書室長の出身者で占拠させた。

 

 不破哲三も書記局長→委員長→議長時期に多数の不破秘書・不破秘書室長の出身者を抱えていた。彼らを、不破への絶対忠誠者として鍛え格上げしてきたはずである。彼は、自分の秘書・秘書室長たちをどこに配置してきたのか。社研スタッフ12人内不破秘書・秘書室長出身者の誰がいるのか、現在は分かっていない。

 

 東欧・ソ連10カ国のコミンテルン型前衛党は、国家権力・党内権力を赤色テロルの暴力手段で維持してきた。10カ国のトップたちは、崩壊後に発掘・公表されたデータによれば、100%がトップ分派を形成していた。レーニンの犯罪的なDemocratic Centralism+分派禁止規定は、党内民主主義を抑圧する党内犯罪システムを通じ、官僚的中央集権制に変質した。それは、党内において最高権力者分派を必然的に形成させる。レーニンこそ、党内犯罪を拡張させる誤った組織原則創作反民主主義者だった。

 

 宮本・不破ら日本共産党トップは。10カ国の党内犯罪独裁者同質で、トップ分派を創った。()宮本秘書団私的分派→()不破グループによる宮本引退強要・宮本分派解体の党内クーデター→()不破社研分派である。

 

 社会科学研究所長と社研スタッフ12人の位置づけを、宮本秘書団私的分派に続く、不破社研分派と規定するかどうかで、2010年第25回大会〜11年現在の日本共産党の体質にたいする認識がまるで違ってくる。

 

 〔策謀5〕、綱領・古典連続教室における3目的の陰謀

 

 共産党は、2010年末から「綱領・古典連続教室」を開いた。志位和夫綱領教室を担当し、上田建二郎古典=マルクス文献の講義をする。党費納入25万党員中、10%の25000人受講料毎年2000円を払って、党本部会議室や315地区事務所の共産党インターネット通信で聴く。一見、なかなか良い企画と思われている。

 

    共産党『綱領・古典の連続教室開始と募集』2010年10月15日

 

 しかし、そこには上田建二郎の陰謀3つが秘められている。彼は2010年80歳になった。そろそろ自分の寿命=残りの生存年数も考えざるをえない年齢である。すべての独裁者死後の恐怖に捉われる。それは、肉体が死ぬことだけではない。自分の死後自己にたいする評価がどうなるかである。80歳老人は、そのため「綱領・古典連続教室」を企画した。80歳老人の裏側目的を推し測る。

 

 もちろん、上田建二郎を善意に溢れ、マルクス・レーニン主義に関する知識も豊富で、「現代のマルクスだ」と絶賛する共産党員はいる。党費納入党員中、10%の25000人も、そのような不破信者だと思われる。

 

 ただ、私は共産党専従13年半の実体験を通じ、上田建二郎は、党内犯罪システム政党犯罪的独裁者であるとの評価をしている。彼は、無数の党内犯罪を遂行し、それにたいし一度も誤りを認めていない。彼にたいする私の憤りと不信・軽蔑は、私の党内における個人体験からも強烈である。党内犯罪を直接体験していない不破信者たちは、幸せなのかもしれない。私の怒りのレベルにたいし、辟易し、拒絶反応を起こす党員も多いと思う。

 

    『日本共産党との裁判第1〜8部』21日間の監禁査問〜民事裁判

    『不破哲三批判』ファイル多数

 

 「綱領・古典連続教室」企画・開始における上田建二郎の陰謀=裏側目的3つを推測する。

 

 〔裏側目的1〕不破出版マルクス関係著書売りつけ=教室生徒25000人×数冊×売上代金×印税6%の特別収入

 

 党費納入25万党員の10%生徒は、講義を聴くだけでなく、基本教材として半ば強要される不破著書をほとんどが買う。その印税収入は大きい。ただ、81歳で、津久井生活費は100%党中央寮名目による負担なので、自己出費はない。その印税収入の使い道は何か。金正日は、側近に高額な贈り物と資金を渡し、独裁権力の継承・維持を図ってきた。同じように、特別収入は、不破社研分派12人に使う秘密資金になると推測される。

 

 〔裏側目的2〕死後における不破批判勃発、業績抹殺・人格全面否定の危険予防策=不破信者の大拡張

 

 東欧・ソ連10カ国におけるコミンテルン型共産党独裁者評価の死後180度逆転ケースは限りない。それを生前に予防する方策はないか。不破社研分派12人+実質的な不破分派4人だけでは足りない。キーポイントは、党費納入25万党員中に、不破信者を大量に製造することである。「古典連続教室」生徒25000人だけでも少ない。赤旗拡大だけでなく、全中間機関にたいし不破生徒の大拡張を指令してある。

 

    共産党『第3回「古典教室」開く』2月1日、不破社研所長が講義

 

 〔裏側目的3〕志位を「綱領連続教室」担当=不破綱領への忠誠度確保の踏み絵

 

 不破は、自分の「古典連続教室」とともに、志位「綱領連続教室」をわざわざ併設させた。綱領とは、不破創作綱領のことである。創作した路線とは、議会で過半数の241議席を獲得し、社会主義を目指すという荒唐無稽空想的社会主義綱領である。それを志位にやらせる狙いをどう考えたらいいのか。私の解釈は、それが、志位和夫にたいする不破綱領=不破哲三への忠誠度確保踏み絵の性質を持つ。この解釈を思い過ごしと判断する人もかなりいるかもしれない。

 

    『「国会で安定した241議席を占める革命」綱領』

    『綱領全面改定における不破哲三の四面相』

 

 不破哲三は、宮本顕治による忠誠度判定と忠誠確実化の踏み絵3度も踏まされた直接体験を持つ。志位不破綱領連続教室」は、不破自身踏み絵体験の志位に対する適用ではないか。その体験3回を長くなるが検証する。

 

 第1回目踏み絵体験―党中央理論幹部抜擢と『戦後革命論争史』絶版命令との赤黒い取引き

 

 上田耕一郎・上田建二郎の兄弟は、1961年第8回大会前の綱領論争時点、構造改革派だった。党大会には、宮本顕治らの二段階革命綱領派、一段階社会主義革命綱領派、石堂清倫らの構造改革派という3派が論争していた。宮本顕治は、1958年第7回大会において、宮本綱領代議員40%の反対で、採決できなかった。

 

 宮本・袴田里見らは、3年間他2派全員にたいし、分派活動規律違反などをでっち上げ、除名・除籍・格下げ・専従解任などで大粛清をした。これが宮本・袴田らによる第1次党内クーデターと言われる。40%全員粛清と代議員を宮本派に総入れ替えの結果、1961年第8回大会は、宮本綱領を満場一致で採決した。

 

 宮本・袴田の党内クーデターにより、党中央理論幹部が払底した。宮本顕治は、『戦後革命論争史』執筆兄弟とその理論レベルに目を付けた。著書はベストセラーになっていた。ところが、その著書は、石堂清倫らの集団討論会の内容が中心基礎で、党史分析において構造改革理論を色濃く反映していた。兄・耕一郎は会議メモ係に過ぎなかった。宮本顕治は2人抜擢にあたって、絶版を条件にした。彼ら2人は、()構造改革派から宮本綱領派に変節をした。それとともに、()党中央理論専従就任と()絶版という踏み絵赤黒い裏側取引きに応じた。その経緯は、石堂清倫から私宛の手紙に詳しい。

 

    石堂清倫『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』手紙3通と書評

 

 第2回目踏み絵体験―ユーロコミュニズム勃興、民主主義的中央集権制放棄・見直し機運と田口・不破論争執筆命令

 

 1970年代、ヨーロッパにユーロコミュニズムが勃興した。原因は、東欧・ソ連10カ国の経済停滞・人権侵害・腐敗現象がヨーロッパ有権者に広がり、従来のマルクス・レーニン主義理論・体制の権威が急激に低下したことにある。コミンテルン型共産党のままでは、国政選挙で連続惨敗し、共産党員も激減してきた。そこからの脱出策として、大運動だった。

 

    Wikipedia『ユーロコミュニズム』1970年代〜1991年ソ連崩壊

 

 宮本顕治や上田兄弟も、イタリア共産党・フランス共産党・スペイン共産党何回も会談した。その接近レベルから、ユーロ・ジャポネコミュニズムとも言われるほどになった。しかし、ユーロコミュニズム諸党の方向は、レーニンの民主主義的中央集権制+分派禁止規定は誤った組織原則であり、その見直しか、放棄へと党内論議が高まった。それは、分派禁止規定放棄と党内の複数潮流を認めることが明確になってきた。

 

 スターリン崇拝者宮本顕治は、その動向に強烈な恐怖と危機感を抱くようになった。宮本顕治の理論的権威も、上田耕一郎の前衛党見直し論文の影響などもあって、急激に低下しつつからでもあった。そして、彼は、ユーロコミュニズム諸党と決裂し始めた

 

 田口富久治は、1976年7月、「朝日夕刊」にフランス共産党学者党員デュヴェルジュ理論紹介記事「さまざまな「傾向」が党内部で共存する権利」を発表した。それにたいし、宮本顕治は、分派理論と断定し、恐怖もあって怒り狂った。査問委員を派遣し、有名な学者党員である彼を個別党内批判・詰問をした。1977年、田口は、雑誌論文『先進国革命と前衛党組織論』を掲載した。党中央は、その内容にたいする「関原利一郎」名の批判論文を発表した。「関原利一郎」とは、榊夫、上田耕一郎ら4人共同執筆のペンネームである。田口は、2度の批判にも屈しなかった。1978年、宮本顕治は不破哲三命令し、「田口・不破論争」を公然と開始した。

 

 不破哲三による田口批判論文2回の中心は、分派禁止規定の全面擁護であり、田口理論を「分派容認論」とでっち上げた。宮本顕治は、民主主義的中央集権制の見直し、党内規律の緩和動向にたいし、分派禁止規定の絶対的擁護者として不破哲三に2回目の踏み絵を踏ませた。これが「田口・不破論争」の本質である。

 

 宮本顕治は、民主集中制+分派禁止規定の全面擁護を目的とし、ユーロ・ジャポネコミュニズム決別した。そして、スターリン主義政党への日本共産党の逆旋回を決断し、4連続粛清事件を発動した。これが、宮本顕治による第2次党内クーデターになった。それにより、宮本顕治は、日本共産党の民主化の道封殺させた。

 

    『宮本顕治による日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件』

 

 第3回目踏み絵体験―『戦後革命論争史』絶版から18年後、著書内容にたいする査問と自己批判書公表

 

 スターリンは、ライバルや側近にたいする異様なまでの猜疑心で有名である。キーロフ暗殺疑惑やトロツキー暗殺がある。

 宮本顕治はスターリン崇拝者で、スターリンと同じレベルの強烈な猜疑心の持ち主である。それだけでなく、宮本批判・異論者にたいする報復スタイル・ケースはすさまじい。ライバルを次々と粛清した。彼の死後恐怖からすれば、上田兄弟は、死後宮本の業績抹殺・人格全面否定をする可能性を隠し持つ危険人物となっていた。

 

 そこで、著書出版26年後絶版18年後にもかかわらず、1982年、2人を査問し、自己批判書を書かせた。執筆中心だった上田耕一郎にたいしては、監禁査問=座敷牢をしたとも言われている。しかも、1983年、2人の自己批判書全文を『前衛』にわざわざ公表させた。彼らが、宮本にたいする反逆=分派活動をする危険思想を持っていたとの事実を全党員に暴露し、公表した。

 

    『「戦後革命論争史」に関する不破哲三「自己批判書」』分派主義思想の自己批判5カ所

    『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』分派主義思想の自己批判7カ所

 

 彼らの自己批判内容は、なんとも自虐的で、分派主義思想何回も認めさせられていた。2人で12カ所もある。これが3回目踏み絵だった。事実上の査問委員長は、宮本顕治だった。宮本秘書団私的分派常幹たちが、党内地位bQとbRを査問する査問委員を務めた。宮本顕治は、これで彼にたいする2人の反逆=宮本・宮本秘書団私的分派排除の党内クーデターを、病気や死後も阻止できるはずと錯覚した。

 

 しかし、不破哲三にとって、宮本秘書団私的分派常幹たちは、共産党員として最大の屈辱を味わさせた人間であり、いずれ報復=粛清すべき党内犯罪者だった。「宮廷革命」=報復のチャンスは、宮本脳梗塞2回で、ついに到来した。

 

    『不破哲三の「宮廷革命」第21、22回大会−1997年、2000年』

 

 「綱領・古典連続教室」において、志位和夫に不破創作綱領の講義を担当させる不破哲三社研所長の狙い・陰謀は、志位和夫に不破創作綱領絶賛させ、荒唐無稽空想的社会主義の不破綱領批判をさせない踏み絵作戦にあるのではないか。長々と、宮本顕治による不破哲三の忠誠心を確保する踏み絵作戦3回を書いたのは、それと同質の陰謀とも考えられないか。それは、私の思い過ごしだろうか。

 

 

 3、死後の恐怖=党内外から不破批判勃発と業績抹殺・人格全面否定

 

 上田建二郎は、典型的な共産主義的人間である。共産主義的人間の特徴は、国家権力や党内権力にたいする異様なまでの執着性である。それは、反面、老齢になるにつれ、死後の恐怖に捉われる。死後、自分の業績・人格にたいする評価がどうなるのかに恐れ戦く。共産主義独裁者であればあるほど、180度の逆転評価に大転換するケースが無数に発生しているからである。

 

 マルクスやコミンテルン型共産党トップたちの死後評価の逆転ケースを何人か確認する。詳しくは、多数のリンクで検証する。上田建二郎は、2011年1月81歳になった。他ケースから連想すれば、彼も党内外からの死後評価が気にかかるはずである。上田建二郎もおそらく同じ運命を辿る。ファイル多数リンクで彼らの死後評価を検証する。

 

 〔小目次〕

   1マルクス評価

   2、レーニン評価

   3、スターリン評価

   4、野坂参三の死後評価

   5、宮本顕治の死後評価と業績抹殺 (表5、6)

 

 1、マルクス評価

 

 これは、ソ連崩壊後、ほぼ半分が逆転評価になった。イタリア共産党は、マルクス・レーニン主義との断絶的刷新をした。フランス共産党は、ソ連の失敗は、マルクス主義の失敗が原因との党大会宣言をした。ポルトガル共産党は、マルクスのプロレタリアート独裁理論は根本的な誤りだとし、1974年、ヨーロッパで一番早く放棄決定をした。

 

 半分逆転評価のテーマは何か。まず、()マルクスのプロレタリアート独裁理論が誤りだったということは、日本共産党以外の全共産党が認め、党大会宣言をしている。プロレタリアートを画一的に捉えた。その優位性の一面的誇張によって、農民や他階層をプチプルとして蔑視した。()私有財産の否定論も一面的だった。レーニンは体制としてその理論を全階層・国民に強要した。私企業も私有財産と断定し、強制廃止を赤色テロルで遂行した。()弁証法的唯物論はともかく、史的唯物論は当時の単純で単一発展史観の誤った側面を持っていた。()資本主義の次の段階が社会主義体制になるという分析は、まさに空想的社会主義願望と理論だった。

 

    リチャード・パイプス『共産主義が見た夢』マルクス主義の誤謬

 

 ヨーロッパのコミンテルン型2大共産党が、()理論・運動としてのマルクス主義と、()それを体制として実践したレーニン主義を2つとも全面否定した意味は、世界史的にきわめて重要である。

 

 今や21世紀になっても、()党資金毎年6000万円横領をしつつ、()「綱領・古典連続教室」でマルクスを賛美し続けるのは、東方の島国における81歳の老人しかいない。

 

 2、レーニン評価

 

 これは、ソ連崩壊後、180度逆転した。レーニン神話は、「レーニン秘密資料」6000点や膨大なアルヒーフ(公文書)によって崩壊した。彼の歴史評価は次の通りである。()レーニン・トロツキーが1917年10月にしたことは。革命でなく、臨時政府権力とソヴィエト権力という二重権力にたいする単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった。()レーニンは、ソヴィエト・ロシア革命勢力である労働者・農民・兵士数十万人殺害した大量殺人犯罪者だった。()彼が創ったのは社会主義国家でなく、党独裁・党治国家だった。()彼は、世界中の左翼を欺いた天才的なウソ詭弁家だった。レーニンの誤りと犯罪については、ファイル88編で検証した。

 

    『レーニン神話し真実1〜6』ファイル宮地32編+転載56編

    『ウソ・詭弁で国内外の左翼を欺いたレーニン』

       基本テーマに関するレーニンのウソ・詭弁7つを検証

 

 3、スターリン評価

 

 これは、1936年前後大テロル規模を中心とし、ソ連国民4000万人粛清犯罪者として、評価が定着している。

 

    『スターリンの粛清』ファイル多数

 

 4、野坂参三の死後評価

 

 ソ連崩壊後、野坂ファイル発掘・公表によって、彼がソ連秘密政治警察NKVDの一組織である赤軍情報部エージェント・スパイだった事実が確定した。彼は、コミンテルン内NKVDトップ・ディミトロフに密告し、山本懸蔵を銃殺させた行為も証明された。ただし、山本懸蔵もモスクワ在住の日本人共産党員数人を密告で銃殺させた行為も判明している。

 

 宮本顕治は、100歳の彼をベッド上で査問し、山本懸蔵密告・銃殺させたとして除名にした。ただ、宮本・不破・志位らは、ソ連スパイ事実を公表していない。

 

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』野坂参三スパイ事実

 

 5、不破哲三による宮本顕治の死後評価と業績抹殺

 

 不破哲三は、脳梗塞2回の宮本顕治に議長引退を強要した。彼は、宮本秘書団私的分派メンバー中裏切・密告者の小林・上田・岡ら3人を除く全員10人を秘密裏の集団査問結果に基づく引退・格下げ手段によって排除した。他にも、彼が行っている宮本顕治業績の抹殺事例はいくつもある。

 

 その一例だけを挙げる。宮本顕治著書の絶版とその範囲問題である。新日本出版社とは、事実上の日本共産党中央出版局である。有田芳生『日本共産党への手紙』出版問題で、査問→除籍されたときも、彼は新日本出版社勤務という党本部所属専従だった。不破哲三は、2010年1月、まだ宮本著書を、新日本出版社HPに、26冊→減らしたが15冊載せていた。しかし、2011年2月時点宮本著書3冊以外すべて絶版にした。検索しても3冊しかない。これは、上田建二郎による宮本顕治死後180度逆転評価・業績抹殺作業と言える。それにたいし、「不破哲三の本」として、分野別に45冊を掲載させている。

 

(表5) 2010年1月時点−不破哲三と他3人の出版著書データ

名前

冊数

出版年

最新著書名と経歴

不破哲三

9697

197010

03年議員引退06年議長引退→常幹・社研所長留任

宮本顕治

2615

196702

著書大量絶版9497脳梗塞→不破は議長引退強要

志位和夫

1314

199110

07『ベトナム−友好と連帯の旅』『日本共産党とはどんな党か』

上田耕一郎

1010

199106

06『人生の同行者−対談集』。06年党中央役員引退

2011年時点、新日本出版社『不破哲三の本』45冊 宮本顕治の本を検索→3冊のみ

不破著書6分野別にし45冊表示、宮本著書は検索しないと表示されない

 

 3冊とは、『宮本顕治獄中からの手紙、百合子への十二年、上下』『宮本顕治公判記録』だけである。中央委員会出版の『日本共産党の七十年』も絶版にしてある。これは、宮本顕治と宮本秘書団私的分派宇野三郎ら二人が創作した党史である。宇野は、宮本分派中心の一人で、かつ、当時の社会科学研究所長だった。宮本業績を過大に評価し、偽造歪曲・隠蔽に溢れた宮本賛美党史になっていたからだった。

 

 不破哲三は、自分の講演・講義録・野党外交記などもすべてを、無条件で、新日本出版社から出させている。本にする前に、それらを『前衛』『経済』に掲載させてきた。党中央の他幹部が出版するとき、書記局や出版局などによる事前検閲・書き直し・出版許可を受ける。不破哲三は、一人だけフリーパスで100%を出版できる。彼と他役員との比較を見れば、彼の出版特権は歴然となる。

 

 不破社研分派には、出版・宣伝に関係するスタッフが次の3人もいる。彼ら3人は、不破著書45冊表示宮本著書3冊以外抹殺・絶版の作業に関わったと思われる。Amazonで「宮本顕治」を検索しても、3冊以外は、すべて古本屋出品の中古品である。Amazonにたいしても絶版措置にするという徹底した抹殺ぶりである。

 

(表6) 不破社研分派中、出版・宣伝関係3人リスト

名前

年齢

中央役員

党中央部署

備考

足立正恒

71

中央委員

学術文化委員会・宗教委員会責任者

田村一志

47

中央委員

宣伝局次長

辻慎一

45

准中央委員

書記局員、学術文化委員会事務局次長

中央役員と党中央部署は、共産党HPに記載したデータ

 

 今や、上田建二郎による宮本顕治の業績を意図的に、かつ、裏側で抹殺する手口の影響で、党費納入25万党員の誰も宮本顕治を賛美したり、崇拝する者はいない死者に鞭打つとはこのような仕打ちも指すのか。

 

 もっとも、スターリンの1953年死去から3年後フルシチョフ「世界を震撼させた」激烈なスターリン批判をした。それと比べれば、まだ隠微な宮本顕治批判=著書抹殺と言えるのか。しかも、スターリン批判の8カ月後1956年10月ハンガリー事件が勃発した。

 

    小島亮『日本共産党とハンガリー事件、第4章全文』「反革命」→1982年「反革命」論撤回

    小山弘健『スターリン批判・ハンガリー事件と日本共産党』

    宮地幸子『涙の重み−映画「君の涙ドナウに流れ」を観て』ハンガリー事件

 

 上田建二郎は、スターリン批判→ハンガリー事件の教訓から学んだ。表立った宮本顕治批判彼の誤り・党内犯罪事例を全面的に暴露すれば、何が起きるのか。宮本顕治の誤り・党内犯罪事例は、下記リンクにある。

 

    『宮本顕治批判』『不破哲三の宮本顕治批判』を初め、ファイル多数

 

 日本共産党は、資本主義世界において最後に唯一生き永らえている。しかし、不破規約・綱領路線の誤り10年間で、党勢力5分野すべてにおいて衰弱死過程に突入している。上田建二郎は、スターリン批判レベルの宮本党内犯罪公表が、日本共産党そのものを崩壊させる最終爆弾になると恐れ戦いているのか。そもそも、日本共産党とは、レーニン創作のDemocratic Centralism+分派禁止規定という根本的に誤った反民主主義的組織原則堅持し、党運営をしている党内犯罪システム政党である。

 

 公然とした宮本顕治批判公表引き金として、もし、日本共産党という反民主主義政党崩壊しようものなら、上田建二郎名義の津久井土地989.72坪権利剥奪され、毎年6000万円党資金横領特権消滅する。自分の地位・名誉・特権を死ぬまで、かつ、死後評価享受し続けるには、宮本業績の陰湿な抹殺手法こそが上策である。

 

 宮本顕治『百合子への十二年』『宮本顕治公判記録』とは、戦前の記録である。上田建二郎は、それ以外の全著書を絶版にした。指導者の著書を、公然とした批判公表なしで、これほどまで完璧に絶版=業績抹殺する行為性質とは何か。それは一種の党本部内秘密犯罪と規定できるのではないか。彼は、なぜそのような極端なレベルの行動に出たのかを推し量る。

 

 党本部内犯罪という規定に納得する人なら、その犯行動機の有無が気になるはずである。凶悪な犯罪には、強烈なモチベーションが潜在する。それは何か。上田建二郎の心底には、指導者にたいするどす黒い憤怒がある。その沈潜し、我慢し抜いてきた怒りと憎悪マグマのように、80歳になってから爆発的噴火したのが、完璧絶版という業績抹殺殺人行動ではないか。

 

 その業績抹殺殺人行動を採らせるような事件は、はたして存在したか。指導者が、上田建二郎に試した3回の踏み絵とそのトラウマがある。なかでも、とりわけ。3回目の不破哲三にたいする()監禁()査問()宮本顕治bPが実質的な査問委員長()宮本秘書団私的分派常幹というbQより目下の査問委員たち()自己批判書の何回もの書き直し命令()分派主義思想を持つ危険分子との自己承認強要()『前衛』に自虐的な自己批判書公表()全党に分派思想を秘めたbQと警告など、共産党員として最悪の屈辱的体験は、強烈なトラウマとして沈潜し続けてきた。

 

    『「戦後革命論争史」に関する不破哲三「自己批判書」』分派主義思想の自己批判5カ所

    『「戦後革命論争史」に関する上田耕一郎「自己批判書」』分派主義思想の自己批判7カ所

 

以上  健一MENUに戻る

 〔関連ファイル〕

    Wikipedia『不破哲三こと上田建二郎』経歴

    『不破哲三の「宮廷革命」第21、22回大会−1997年、2000年』

    『不破哲三と中国共産党との関係経緯』時系列ファイル多数

    『42年ぶりの規約全面改定問題』ファイル多数

    『43年ぶりの綱領全面改定問題』ファイル多数

    『党資金横領常幹政党=毎年6000万円横領の特権常幹上田建二郎』

    『不破哲三批判』ファイル多数