朝鮮戦争に参戦した統一回復日本共産党()

 

「戦後史上最大のウソ作戦」敗北処理のソ中両党隷従者宮本顕治

 

(宮地作成−全体は4部作、目次1〜14)

 〔第4部・目次12〜14〕

   12、日本共産党のソ中両党隷従・制限主権服従者に宮本顕治を起用

       1、謎とき六全協人事−崩壊した日本共産党のトップ人材払底

       2、確定・判明している事実経過−10項目

       3、六全協人事謎ときの消去法的推理

          スターリンによる東欧前衛党への人事命令・粛清手口からの類推

       4、スースロフ・毛沢東の人事評価1−徳田球一

       5、スースロフ・毛沢東の人事評価2−野坂参三

       6、スースロフ・毛沢東の人事評価3−伊藤律

       7、スースロフ・毛沢東の人事評価4−志田重男

       8、スースロフ・毛沢東の人事評価5−宮本顕治

       9、スースロフ・毛沢東の人事評価6−袴田里見

      10、スースロフ・毛沢東の人事評価7−他の幹部

      11、スースロフ・毛沢東の人事評価8−日本に配備するソ中両党隷従者の任命結論

      12、なぜソ中両党は六全協人事の選考を厳密に行ったか−その目的

   13、ソ中両党隷従者宮本のソ中両党命令履行状況 (表9、10)

       1、武装闘争の全面総括・データ公表の禁止命令履行と「極左冒険主義の誤り」

       2、武装闘争指導部との手打ち、ほぼ全員引継ぎ・一部排除命令の履行

       3、参戦兵士のうち、批判・不満党員の切り捨て・見殺し命令の履行

   14、宮本顕治が偽造歪曲した武装闘争責任論のウソ詭弁

       〔ウソ詭弁1〕、朝鮮内戦という歪曲規定と一部手直し

       〔ウソ詭弁2〕、朝鮮侵略戦争参戦問題を50年分裂問題にすりかえ、矮小化

       〔ウソ詭弁3〕、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服を隠蔽

       〔ウソ詭弁4〕、武装闘争責任を分裂した一方の徳田分派→徳田・野坂分派に転嫁

 

 〔第1部・目次1〜4〕 スターリン・毛沢東指令隷従の軍事方針・武装闘争時期、主体と性格

 〔第2部・目次5〜7〕 軍事組織実態、戦費の自力調達、ソ中両党による戦争資金援助

 〔第3部・目次8〜11〕後方基地武力かく乱戦争行動の実践データ、効果と結果

 

 〔関連ファイル〕               一MENUに戻る

    『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央活動をした証拠

    『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏

 

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    Wikipedia『朝鮮戦争』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」

 

 12、日本共産党のソ中両党隷従・制限主権服従者に宮本顕治を起用

 

 〔小目次〕

   1、謎とき六全協人事−崩壊した日本共産党のトップ人材払底

   2、確定・判明している事実経過

   3、六全協人事謎ときの消去法的推理

   4、スースロフ・毛沢東の人事評価1−徳田球一

   5、スースロフ・毛沢東の人事評価2−野坂参三

   6、スースロフ・毛沢東の人事評価3−伊藤律

   7、スースロフ・毛沢東の人事評価4−志田重男

   8、スースロフ・毛沢東の人事評価5−宮本顕治

   9、スースロフ・毛沢東の人事評価6−袴田里見

  10、スースロフ・毛沢東の人事評価7−他の幹部

  11、スースロフ・毛沢東の人事評価8−日本に配備するソ中両党隷従者の任命結論

 

 1、謎とき六全協人事−崩壊した日本共産党のトップ人材払底

 

 侵略戦争参戦4党のなかでも、非政権・日本共産党の戦争行動結果は、朝鮮労働党と並んで、悲惨だった。20万人・85%の党員兵士が戦列を離脱し、衆院議席は0議席に転落した。一方、戦後処理期に入った米ソ冷戦において、日本政治体制の役割と重要性は、米ソ中3国にとって、いよいよ高まった。

 

 中国革命成功と朝鮮戦争後、日本共産党にたいする国際的総監督=人事命令権限保有前衛党は、ソ連共産党と中国共産党という2党になった。(1)ソ連共産党側の命令権者・監督は、フルシチョフ→スースロフとポノマリョフで、(2)中国共産党側は、毛沢東→劉少奇だった(『干渉と内通』360〜364)

 

 彼らは、日本共産党「軍」の戦後処理、再建プログラムにおいて、ある困難にぶちあたり、悩んだ。それは、()日本戦後処理の制限主権に服従し、()かつソ中両党命令への絶対隷従資質を保有し、()しかも組織統制力=党内粛清力も所有する者に起用できる人材が払底し、いないということである。

 

 六全協は、ソ中両党が、モスクワ事前準備し、完全隷従下日本共産党開催命令をしたソ中両党製会議だった。その性質は、後方基地武力かく乱戦争行動敗戦処理の総括・人事会議である。六全協の総括内容、人事とも、謎だらけである。そこで、とりあえず六全協人事の謎ときをする。

 

 謎ときというのも、スターリンから「宮本らは分派」と裁定され、五全協にスターリンに屈服し、志田重男に自己批判書を出し、統一回復共産党に復帰していたばかりの宮本顕治が、なぜ、いきなり六全協において、最高権力者である常任幹部会責任者になれたのか。誰が、どこで決定したのか、などの経緯がきわめて不透明だからである。

 

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説

 

 ただし、は、六全協以前の五全協武装闘争共産党において、すでに、()党中央指導部員になり、()五全協共産党から総選挙東京第一区選挙区から立候補していた。これも、誰が、どこで決定したのか。考えられるのは、朝鮮侵略戦争参戦命令隷従によってほぼ壊滅させてしまった日本共産党の再建総監督=ソ中両党の秘密人事命令しかありえない。

 

 以下、スースロフ・毛沢東の人事評価1〜8は、なぜ宮本顕治を任命したのかという謎に関する私の推理である。日本共産党中、もっとも熱烈なスターリン信奉者=党内権力独占体質者がソ中両党によって任命されたことは、その後の日本共産党の生き様・運命を決定づけたからである。彼は、その党内犯罪的性向によって、結果として党内外・日本国民深刻な損害をもたらした。その任命の謎を、長くなるが詳しく推理しておく必要があると考える。

 

 ちなみに、被任命後における宮本顕治の党内外犯罪を確認する。党内犯罪は、HPで検証したように無数にある。ソ中両党隷従を原因とする反国民的犯罪も多数あるが、2つだけ挙げる。

 

 )ソ中両党の核実験にたいし、「いかなる国の核実験に反対」を全面否定した。ソ連・中国の核実験防衛的、死の灰を出さないきれいな核実験とごりおしをした。その結果として、唯一の被爆国日本の原水爆禁止運動分裂させたことである。その統一機運1984年盛り上がった時期も統一を阻害・破壊した。ただ、そこには、共同正犯者が2人いる。その分裂工作者は宮本指令による金子満広で、きれいな核実験とウソ詭弁の大宣伝を担ったのは、上田耕一郎だった。

 

 )、宮本顕治は、1964年4・17スト中国からの秘密指令で破壊した張本人だった。は、中国にいて何も知らなかったと強弁し、党中央労対部ら3人トカゲのしっぽ切りをした。3人には、そんなスト中止指令をする権限などない。

 

 2、確定・判明している事実経過−10項目

 

 (1)、野坂参三は、1945年以来、ソ連赤軍情報部スパイだった。(2)袴田里見も、ソ連内通者になっていた(『干渉と内通』、P.364)(3)、スターリンは、1951年4月、宮本らは分派と裁定した。()、宮本顕治は、1951年10月初旬、スターリンに屈服した。宮本分派=全国統一会議を解散し、志田宛自己批判書を提出し、武装闘争実質的開始の五全協前に武装闘争主流派に復帰した。

 

 ()1951年10月16日、宮本顕治ら反徳田5分派すべてが、51年綱領・武装闘争路線を認め、主流派に復帰したことにより、日本共産党は五全協で統一回復をした。()北京機関は、正規の日本共産党中央委員会となった。

 

 ()、徳田・野坂・志田は、自己批判書提出・復帰した宮本を当初武装闘争共産党の宣伝部に配置した。()1953年10月、徳田球一は、北京で死去した。()1954年春スースロフと中国共産党は、北京機関代表をソ中両党に呼び、ソ連主導で「六全協決議案」を作った(『党史』、P.144)(『干渉と内通』、P.361)。

 

 (10)1955年1月、志田の連絡で、宮本が志田・西沢と会った。志田は、「極左冒険主義もやめる」「徳田への個人家父長制もやめる」「従来の党の弊風は全部改める」の3条件の協議をもちかけ、ソ中両党命令の六全協計画を伝えた(『党史』、P.145)(『干渉と内通』、P.361)

 

 これらの基礎資料詳細は、別ファイルに載せた。

 

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央活動をした証拠

 

 3、六全協人事謎ときの消去法的推理

   スターリンによる東欧前衛党への人事命令・粛清手口からの類推

 

 上記(1)から(10)の〔事実〕は、日本共産党側の視点から見た人事の書き方である。それにたいし、以下の消去法は、ソ中両党の命令権者・日本共産党幹部の任命者らが、敗戦処理の日本配備者を選任する立場に立った視点から見た、上記事実に基づく、私の推理である。

 

 それは、1954年春ソ中両党の六全協準備・秘密会談におけるソ中両党の日本共産党幹部秘密勤務評定とトップ採否決定内容である。85%党員が離党した。朝鮮戦争参戦火炎ビン武装闘争事実上崩壊した日本共産党幹部に誰を任命するか。この人事評価ソ中両党隷従・制限主権服従者任命決定権限の中心人物を、当時の状況から判断し、スースロフと毛沢東・ソ中両党会議の王稼祥にした。以下の判定すべてがソ中両党で決定された。

 

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説

 

 このファイルでは書かないが、ソ連→東欧間では、ソ連共産党による隷従下東欧前衛党人事への謀略的な人事操作・介入は、日常的だった。その詳細データは、ソ連崩壊後、歴史の事実として、証明されている。それは、チェコのスランスキー裁判を初めとする、ほとんどの東欧前衛党のトップ人事にたいし、スターリンが遂行した粛清・抜擢人事の事実で明白である。

 

 スターリンは、ユーゴのチトーの反逆問題に直面した。チトー孤立化・排除路線と同時に、東欧前衛党すべてにたいし、完全隷従化を一段と強化させる大粛清裁判を連続強行した。各国前衛党にたいし、その主要幹部の人事評価を綿密に行い、隷従・忠誠度を基準とし排除・粛清裁判・抜擢をした。スターリン・ソ連共産党は、東欧前衛党において、とくにポーランド・ハンガリー・チェコの前衛党幹部にたいし、排除・粛清裁判・抜擢を遂行したデータが無数に発見されている。以下の推理は、その実態も参考にし、日本共産党にも当てはめた

 

 以下8つの人事評価の根拠は、各幹部の実際の言動に基づく。かつ、ソ中両党が、自党内と隷従下東欧前衛党に使った手口にも基づいている。ソ中両党が宮本顕治を任命するまでの経緯を消去法で検討する。

 

 4、スースロフ・毛沢東の人事評価1−徳田球一

 

 1953年10月14日、休戦協定成立の3カ月後、徳田球一は北京で死去した。彼個人には家父長的個人指導の誤りというレッテルを貼り付けよ。それにより彼の生前権威完全抹殺せよ。これは、朝鮮戦争惨敗原因の責任転嫁政策の一つである。死者に口なし政策は、ベリヤ銃殺・スターリン批判報告と同様、残存する党幹部体制救済・維持の鉄則である。

 

 朝鮮労働党の金日成は、他幹部にたいし朝鮮戦争惨敗責任を転嫁する大粛清をした。日本共産党にもソ中朝3党式鉄則を守らせる。

 

 5、スースロフ・毛沢東の人事評価2−野坂参三

 

 彼は、NKVDスパイ=その下部組織としての赤軍情報部エージェントだった。スパイとしての忠誠度は高い1945年以降ソ連秘密エージェントとしての報告もソ連大使館に定期的に送ってくる。しかし、コミンフォルム批判というスターリンの秘密暗号・朝鮮戦争参戦指令第1号の実行・非合法化をめぐって、日本共産党を分裂させた。ソ連エージェントとしての組織任務を果たしていない。彼の党組織統制力は低い。スターリンは、東欧各国政府と前衛党のトップ人事をすべて決定してきた。世界における隷従下前衛党トップの任命は、ソ連共産党の専権事項である。

 

 ソ連共産党は、それらの党に必ず複数のNKVD工作員を配備してきた。今回は、ソ中両党が協議の上で、ソ連工作員として配備してある野坂参三をトップの第1書記に任命した。フルシチョフ第1書記は、東欧各国前衛党トップにも第1書記を名乗るよう命令した。ソ連共産党支配下日本共産党トップも、同じ第1書記名称にするのは当然である。それにしても、もう一人、ソ中両党隷従継続のための党内粛清能力を持つ、有能な者を付ける必要がある。

 

 彼には、中国・延安からの日本帰国途中の1945年に、ソ連に立ち寄った事実秘匿せよと命令してある。ソ連命令に背いたNKVDスパイの運命がどうなるかは通告した。ハンガリーのナジは、モスクワ亡命中、NKVDスパイになり、誓約書も出した。しかし、スターリン批判後の1956年ハンガリー事件に直面し、首相として蜂起したハンガリー国民の側に寝返ったフルシチョフは、ナジを秘密裏にソ連に連行し、裏切スパイとして銃殺した。裏切スパイには、今でも墓などない

 

 6、スースロフ・毛沢東の人事評価3−伊藤律

 

 彼は、北京機関でも、徳田側近として、野坂と対立していた。よって、スパイ野坂擁護・温存の観点から、伊藤の方を排除すべきである。金日成には、朴憲永アメリカのスパイとねつ造、処刑せよと命令した。朝鮮戦争惨敗の責任転嫁をさせ、金日成を救ってやった。それと同じく、野坂・志田に命令して、伊藤律ゾルゲを売ったスパイとでっち上げ除名させよ。徳田球一レッテルと合わせ、2人に日本共産党「軍」惨敗の責任転嫁をさせる。

 

 伊藤律を、北京機関において、スパイ野坂、ソ連内通者袴田、西沢に査問させている。しかし、彼自身スパイの自供をしていない。しかし、伊藤律除名発表は、彼がスパイを自白したとしておく。そうしておけば、少なくとも、惨敗の武装闘争指導部責任追及の矢を、スパイ野坂から逸らすことができる。ソ連スパイを温存することこそ、日本共産党支配を継続する政策の基本である。

 

 7、スースロフ・毛沢東の人事評価4−志田重男

 

 彼は、党中央地下軍事委員長だった。彼の後方基地武力かく乱戦争作戦指導は稚拙だった。Z活動(武器使用)指導でも、いろんな武器の中で、使用できたのは火炎ビン数百本程度だった。また、警官を2人殺害したにすぎない。後方基地治安かく乱効果も挙げえず、それどころか日本人民から浮き上がった。彼の戦争作戦指導能力は低い

 

 しかも、戦後処理日本のソ中両党隷従者として、引き続き使うには、汚れた手を隠せない。ソ中両党が準備・決定した六全協内容・人事にたいする党内で勃発している不満・批判押さえ役として、一時期だけは全国行脚に使えるとしても、日本人民に向けた顔として使うには、武装闘争で手が汚れすぎている

 

 ただ、全国行脚には、志田・宮本を正面に立てて使い、スパイ野坂責任追求の矢面に立たせないというスパイ温存作戦を採る。志田には、軍事委員長時代の料亭お竹さん問題など、その遊興費・料亭建増しに軍事資金数千万円使い込み疑惑がある、とのスパイ報告が来ている。全国行脚任務を果たさせた、その事実を計画的にリーク・暴露し、二重に汚れた手を切り捨てよ

 

 党中央軍事委員長の不祥事摘発は、ソ中両党が命令した後方基地武力かく乱戦争行動の惨敗結果の責任転嫁作戦として、()徳田球一の個人家父長指導レッテル、()伊藤律スパイレッテル・除名に次ぐ、()もっとも効果的な第3弾となるであろう。これらの戦後処理作戦は、ソ中両党が指令した統一回復日本共産党にたいする朝鮮戦争参戦命令事実を隠蔽する上でも、有効となる。

 

 それらによって、()残存する15%日本共産党員兵士()ソ中両党を信仰する左翼勢力、()マスコミ・ジャーナリストを見事に騙すことができよう。なぜなら、彼ら日本人たちは、南朝鮮軍事政権が先に38度線を突破し、侵略戦争をしかけたという、われらコミンテルン型前衛党3党・社会主義国家による史上最大のウソ戦争の真相を、今もなお疑っていないからである。

 

 8、スースロフ・毛沢東の人事評価5−宮本顕治

 

 彼は、日本共産党内において、もっとも熱烈なスターリン崇拝者だった。それは、彼が共産党機関紙誌に、多くのスターリン讃美・コミンフォルム絶賛論文を書いていることからも証明できる。彼は、コミンフォルム批判における武装闘争に転換せよとの秘密指令即時受諾・実行のもっとも熱烈な主張者だった。

 

 志田は、四全協で軍事方針を決定したとき、亀山幸三にたいし、「これで、宮本から、武装闘争をやろうとしない右翼日和見主義といわれなくてもすむ」と、主流派内で語ったほどである。宮本が、くりかえし強烈な武装闘争即時実行を主張していたことについては、野坂からも報告が来ている。

 

 しかし、分裂時において、反徳田5分派の中心人物となり、ソ中両党による統一・団結指令に従わなかった。11951年4月スターリン自らが宮本らは分派と裁定した。(2)1951年8月10日、コミンフォルム機関紙「恒久と平和」において、再度、その主張を掲載した。()1951年10月初旬、彼は、それらのソ中両党命令屈服した。宮本分派=全国統一会議を解散し、志田宛自己批判書を提出した。

 

 ()ソ中両党命令即刻服従しなかったことは、国際共産主義運動における命令不服従犯罪、朝鮮戦争中におけるソ中両党の軍事命令にたいする反軍の反逆罪に該当した。()彼が、スターリン直筆の51年綱領と武装闘争路線を認めたので、除名処分にはさせなかった。統一回復日本共産党に復帰させた上で、党中央武装闘争宣伝部担当→点在党員組織隔離の報復措置にするよう徳田・野坂・志田に命令した。

 

 宮本を、神山とともに除名せよとの意見は主流派党内で強かった。徳田・伊藤・スパイ野坂・ソ連内通者袴田らは、北京機関の代表見解をまとめ、スターリン・毛沢東に、宮本を除名したいと具申してきた。その申請を、ソ中両党は却下した。これらの情報は、亀山幸三の証言である。

 

 なぜなら、宮本のスターリン絶賛度や盲従経歴から見て、および、90%党員の主流派から忌み嫌われるほどの突出した朝鮮戦争参戦指令武装闘争即時実行の強硬な主張を見ても、今後における彼の再利用・使用価値が高まる時期が来る可能性があったからである。

 

 しかも、分裂時期に、武装闘争の即時実践をしない主流派・志田重男らにたいし、右翼日和見主義とのレッテルを貼り宮本分派系細胞をけしかけ、攻撃・批判をしてもいた行為は、高く評価できる。よって、彼を除名しないで、統一回復共産党において孤立させておくことを命令した。そして、彼は、そのスターリン指令措置おとなしく隷従していた。

 

 彼が、スターリン命令に背いて、宮本分派活動を再開するなら、そのとき除名しても遅くはない。党内隔離システムは、スターリンが、銃殺・強制収容所送りの4000万人粛清手法以外で、ソ連・東欧全域で愛用してきた、もっとも簡便な批判・不満幹部幽閉措置である。日本共産党指導部も、この隔離報復措置の活用にもっと習熟する必要がある。

 

 彼にたいする組織隔離報復措置期間は、党中央武装闘争宣伝部の短期間を除いて、3年3カ月間である。それは、1951年10月16日五全協から、1955年1月ソ中両党が総括内容・人事決定ずみのソ中両党製・六全協計画を、志田経由で、宮本に伝達させた時までである。彼は、39カ月間宮本百合子全集の解説を執筆するだけで、スターリン指令・措置忠実に隷従した。新たな分派活動もせず、特高の格子ある牢獄12年間に続いて、ソ中両党指令による格子なき牢獄生活を過ごした。

 

 そのため、彼は、後方基地武力かく乱戦争行動1952年から53年指導部としての汚れた手をしていない。この事実は、敗戦処理日本共産党におけるソ中両党隷従・制限主権服従命令を担わせる人物として、十分、利用・使用価値がある。彼の理論・政治能力、かつ、党内統制力=不満・批判者粛清能力は高い

 

 9、スースロフ・毛沢東の人事評価6−袴田里見

 

 彼は、1951年5月スターリン命令で、彼をソ連共産党に3年間足止めさせた時点に、すでにソ連内通者に採りこんである。しかし、袴田の理論的能力は低い。ただ、日本共産党の六全協トップペアに、野坂と袴田という2人のソ連工作員を据えることは下策である。もちろん、2人に、お互いがソ連スパイであることを、気付かせてはならない。グループも作らせない。

 

 ソ連共産党による日本共産党の長期支配を維持するには、2人のスパイを単独・単線ルートで埋伏させる党内スパイ大作戦こそ上策である。ただ、彼の党内恫喝力=不満・批判者粛清能力は、宮本と同様高いので、その面は利用できる。

 

 袴田からは、野坂参三やハンガリーのイムレ・ナジと同じソ連工作員誓約書をとってある。彼が、ソ連共産党のスパイ任務遂行命令に背いたときは、彼の政治生命だけでなく、肉体的生命も終わりであることは、1951年からの足止め3年間に、よく言い含めてある。

 

 (宮地・注)、シベリア抑留問題のロシア人研究者A・V・アルハンゲリスキーが『プリンス近衛殺人事件』(新潮社、2000年、P.140)において、次の資料をソ連機密文書から発掘して、載せた。それは、1956年のハンガリー動乱で民衆蜂起側につき、ソ連に反逆したスパイとして処刑されたハンガリー首相イムレ・ナジが、ソ連在住の1930年NKVD工作員となったときの「誓約書」である。

 

 「誓約書 文末に署名したわたくしОГПУ(オーゲーペーウー)КГВカーゲーベーの前身)部員イムレ・ナジは、在職中あるいは退職後も、ОГПУ諸機関の活動に関する一切の知見と資料を厳重に秘匿し、いかなる形においても発表せず、近親者・親友にも漏らさないことをここに誓約する。これを実行しない場合、わたくしは刑法第一二三条該当の責任を問われる。一九二三年四月三日付ОГПУ指令第一三三号及び一九二七年八月十九日付ソビエト革命軍事委員会令第三七二号示達。一九三〇年九月四日 イムレ・ナジ

 

 ハンガリー首相ナジは、ソ連軍・戦車の突入で、数千人殺害され鎮圧された後、ユーゴ大使館に亡命していた。フルシチョフは、1956年ハンガリー事件でソ連に逆らったОГПУ(オーゲーペーウー)工作員として、ソ連軍によるだまし討ちで、ソ連に連行し、1958年6月裏切り工作員として処刑した。

 

    宮地幸子涙の重み 映画「君の涙ドナウに流れ」を観て ハンガリー事件

 

 不破哲三は、1993年発行の『干渉と内通』(P.364)で、「野坂にくわえて、ソ中両党が確保したあらたな内通者は、袴田だった。袴田は、ソ連共産党の圧力のもと、五一年五月のソ中両党での会議で徳田派に降伏してから、三年間、ソ連にとどまっていた」と書いて、袴田と野坂2人をソ連工作員断定した。そして「ソ連共産党の秘密資料あきらかになった」と明言した。

 

 不破記述内容は、日本共産党が、KGB「野坂ファイル」の調査でソ連崩壊後に行って、1945年野坂「工作員誓約書」発見したとき、同時に、KGB「袴田ファイル」他を調査して、1951年袴田「工作員誓約書」発見したことの証言になっている。不破哲三は、そこまで明らかにしたのなら、ついでに、イムレ・ナジ「工作員誓約書」と同一書式だったのかも公表したらどうなのか。

 

 10、スースロフ・毛沢東の人事評価7−他の幹部

 

 武装闘争指導部では、他に紺野与次郎、西沢隆二、春日正一がいる。四全協で排除され、武装闘争で汚れた手をしていない中央委員では、志賀義雄、春日庄次郎、蔵原惟人、神山茂夫らがいる。しかし、彼らのいずれも、崩壊した敗戦処理日本共産党ソ中両党隷従者トップに起用・任命するには、一長一短がある。

 

    『日本共産党との裁判第4部』点在党員組織隔離報復措置の性質

 

 11、スースロフ・毛沢東の人事評価8−日本に配備するソ中両党隷従者の起用結論

 

 ソ中両党で、日本共産党全幹部を検討した。さらに、ソ連NKVDの「宮本ファイル」データ中国共産党公安部・中連部の「宮本ファイル」データも慎重に審査した結果、宮本顕治を敗戦処理の日本に配備するソ中両党隷従・制限主権服従者として任命することを決定する。六全協後の第1書記候補者・スパイ野坂→志田経由で、ソ中両党の正式決定六全協前宮本に伝達せよ。ただし、宮本が、()ソ中両党に隷従を誓い、()その六全協付帯の秘密命令内容に無条件に同意し、かつ、()それを誠実に履行する決意を確かめよ。()それらに背いた場合は、ユーゴ・チトーのように、国際共産主義運動から永久追放・抹殺するとも伝えよ

 

 

    

徳田球一     伊藤律    志田重男    志賀義雄   神山茂夫

1953年死去   53年除名   57年失踪  64年除名   64年除名

 

日本共産党第8回大会以後の最高幹部3人

野坂参三、1945年以来のNKVD工作員、第1書記→議長→スパイ100歳に除名

袴田里見、1951年来のソ連内通者、北京機関代表→常任幹部会員→副委員長→除名

宮本顕治、スースロフ・毛沢東が任命した敗戦処理のソ中両党隷従者を拝命・就任

2人のソ連工作員と協力して、他幹部除名・党建設→1997年不破クーデターで引退

 

 12、なぜソ中両党は六全協人事の選考を厳密に行ったか−その目的

 

 〔目的1〕、朝鮮戦争敗戦日本本土の政治的位置づけは、開戦前と比べ、ソ中両党にとってその緊迫度が増した。日本は、地政的に見て、ソ中両党の鼻づらに突き付けられたアメリカ帝国主義の不沈空母となり、最重要脅威に浮上していた。不沈空母内において、どの政治勢力が、ソ中両党にとって利用・使用価値があるのか。それを発見し、強化しなければならない。本来は、日本共産党だが、ソ中両党命令隷従し、朝鮮戦争に参戦し、ほぼ壊滅してしまっている。どうするか。

 

 〔目的2〕、そこで、15%党員に激減したとはいえ、日本共産党をその不沈空母脅威にたいし、反帝反独占勢力として急速に復活させ、育成する必要度が急増してきた。すでに、85%・20万兵士が戦線離脱してしまっていた。激減日本共産党がそれこそ消滅してしまったら、ソ中両党にとって深刻なマイナスになる。今後発生する日本共産党綱領決定問題においても、日本共産党がどの路線になるかが重要である。それには、六全協の3年後・1968年第7回大会において、反独占社会主義革命綱領を唱える勢力を阻止し、排除しなければならない。フルシチョフ・スースロフ・毛沢東にとって、日本共産党新綱領は不沈空母・アメリカ帝国主義を主敵とし、日本本土においてソ中両党を全面支援する反帝反独占綱領でなければならない。反帝を掲げないで、反独占社会主義革命綱領を唱えるような第7回大会代議員40%たちを全員一人残らず、排除し、除名=「浄化」しつくせ。

 

 ()ソ中両党隷従者宮本顕治と、()ソ連NKVDスパイで第1書記野坂参三・()ソ連内通者で副委員長袴田里見ら3人は、反帝削除した綱領に固執する「社会主義革新運動」派代議員と、イタリア共産党路線にかぶれた構造改革派代議員第7回大会40%・280人一人残らず「浄化」せよ

 

 「浄化」とは、レーニンが、1917年10月単独武装蜂起・単独権力奪取クーデター後、繰り返し使った粛清用語である。彼は、1918年5月誤った食糧独裁令発令にたいし反乱・蜂起したロシア革命・ソヴィエト勢力の労働者・農民・兵士ら数十万人を、秘密政治警察チェーカーの赤色テロルで排除・大量殺人・国外追放をした。その完全粛清の根底思想として「社会主義ソ連の浄化」を命令した。

 

 

 13、ソ中両党隷従者宮本のソ中両党命令履行状況 (表9、10)

 

 宮本顕治は、フルシチョフ・スースロフという日本共産党への命令者、毛沢東・劉少奇らという日本共産党への命令者から与えられたソ中両党隷従・制限主権服従者としての国際的任務を懸命に果した。スターリン指令による、3年3カ月間の実質的な組織隔離措置から釈放された。それだけでなく、フルシチョフ第1書記命名の第1書記・スパイ野坂と並んで、いきなり常任幹部会責任者というトップペアに、フルシチョフ・毛沢東から任命されたわけだから、その国際的命令を忠実に完全履行したのは、当然だった。

 

 もちろん、当時の国際共産主義運動において、ソ中両党からの自主独立路線という選択肢は彼にも、日本共産党にもありえなかった。世界中の共産党員・左翼が、マルクス・レーニン主義理論・体制に基づく正義と対等平等というウソ詭弁の美名に騙されていた。国際共産主義運動が1989年〜91年で完全崩壊した今、その本質と実態とは、何だったかを考える。それは、レーニンが国際共産党=コミンテルンを創設した当初から、各国支部()ソ連共産党への隷従関係→()ソ中両党への隷従関係呪縛された状態においた運動だった。隷従範囲は、路線・政策・人事・党財政のすべてを包括していた。

 

 レーニンは、世界革命を目指す世界単一政党と各国支部との関係を上意下達・鉄の規律というDemocratic Centralismで拘束した。社会主義世界革命が理想で、実現可能と錯覚されたしかし、国際共産主義運動崩壊してしまった21世紀、レーニンの構想は、空想的で、反民主主義・反民族的な前衛党犯罪理論だったことが判明している。

 

 〔小目次〕

   1、武装闘争の全面総括・データ公表の禁止命令履行と「極左冒険主義の誤り」の欺瞞性

   2、武装闘争指導部との手打ち、ほぼ全員引継ぎ・一部排除命令の履行

   3、参戦兵士のうち、批判・不満党員の切り捨て・見殺し命令の履行

 

 1、武装闘争の全面総括・データ公表の禁止命令履行と「極左冒険主義の誤り」の欺瞞性

 

 不破哲三は、『干渉と内通』において次のように書いた。「ソ連共産党指導部は、統一を回復した日本共産党が、五〇年問題の全面的な総括をおこなうことに、つよく反対した。この問題では、フルシチョフや劉少奇が直接のりだしソ連と中国の党の意向を日本共産党の代表団に伝えた。これも、五〇年問題の総括が、スターリンやソ連共産党の干渉にたいする批判をふくむものとなること、また彼らが支持した徳田派の誤りがうきぼりにされ、今後の対日本共産党工作の障害になることなどを、恐れてのことだったにちがいない(P.363)

 

 「六全協では、四全協いらいの極左冒険主義の方針と実態、それについての五一年文書の関係がいっさい討議されなかった」(『七十年』244)

 

 ただし、不破哲三や『七十年』が言う50年問題とは、()50年分裂期間のことでなく、()統一回復五全協武装闘争共産党時期1952年から53年のソ中両党の朝鮮侵略戦争参戦命令に基づく武装闘争方針・実践を意味している。というのも、50年分裂問題だけは、ソ中両党許可の下に『日本共産党50年問題資料文献集4冊』で、六全協2年後の1957年に総括されているからである。

 

 宮本顕治=日本配備のソ中両党隷従者は、この命令完全に履行した。

 

 (1)、武装闘争データを全面的に隠蔽・秘匿した。そして、ソ中両党招集のモスクワ会議決定は、抽象的な極左冒険主義というイデオロギー規定総括のみにした。それだけで党内意見・不満終結させよとの命令屈した極左冒険主義の誤りという日本語は、日本共産党製でない。あくまで、モスクワ会議製の日本語である。

 

 宮本顕治は、モスクワ製日本語を押し付け、六全協とその後の全国行脚を強行突破した。全面的総括・武装闘争データ公表を強硬に要求する日本共産党員兵士たちにたいし、宮本顕治は、「後ろ向きの態度」「清算主義」の逆批判を浴びせた。そして、それらの要求・批判押しつぶす先頭に立った。彼のこの反動的で抑圧的な対応については、あらゆる証言が一致している。

 

 (2)後方基地武力かく乱戦争参戦行動という武装闘争の本質を、朝鮮戦争全体から切り離し日本国内だけの火炎ビン武装闘争にすり替えた極左冒険主義の誤りというソ中両党会議規定は、日本共産党軍に参戦命令を出したソ中両党と北京機関幹部が、どうしたら、自分たちに侵略戦争参戦責任追及の矛先が来ないかを必死で考え抜いた、巧妙なペテン用語だった。

 

 ただ、この用語は、火炎ビン武装闘争を誤りと公式に認めただけに、日本共産党員兵士だけでなく、日本の左翼・マスコミ欺く欺瞞的なペテン効果を挙げた。そのモスクワ製日本語のペテン効果は劇的だった。4点を確認する。

 

 〔ペテン効果1〕武装闘争の誤りを、極左冒険主義の誤りという日本語にせよ、公式に認めたことは、画期的だった。それだけで国民・有権者を納得させた。なんらかの誤りと認知しなければ日本共産党を再建することはできない情勢だった。極左冒険主義の誤りというソ中両党によるモスクワ会議規定は、たしかに、()朝鮮侵略戦争参戦行動という戦争犯罪の一側面を示していた。かつ、()コミンテルン型前衛党最高権力者3人による「戦後史上最大のウソ作戦」がばれていなかった時期だけに、国民・マスコミからはそれ以上の犯罪追及はなされなかった

 

 〔ペテン効果2〕、しかも、朝鮮侵略戦争参戦行動という本質的で犯罪的な誤りという規定から目を逸らし、隠蔽する上で、絶大な効果をもたらした。もっとも、その時点では、韓国国民・アメリカ軍以外の隣国日本において、南側からの侵略戦争という社会主義3国家・前衛党最高権力者3人の史上最大のウソが、ばれないどころか、信じられていた疑いを持っても、証拠がなかった。

 

 その共産党式の壮大なウソが、具体的証拠文書によって、初めて暴露・証明されたのは、1993年萩原遼『朝鮮戦争−金日成とマッカーサーの陰謀』における北朝鮮秘密資料とアメリカ軍資料に基づく著書だった。

 

 〔ペテン効果3〕、そのソ中両党会議規定は、ソ中朝3党による侵略戦争への4番目のコミンテルン型前衛党参戦における後方兵站補給基地武力撹乱の戦争犯罪という本質を覆い隠し、かつ、ソ中朝3党の社会主義犯罪も免罪にした。

 

 〔ペテン効果4〕国際的な戦争犯罪3政党を切り離し、日本における軍事委員会の指令・指導責任を、抽象的なイデオロギー規定だけで隠蔽した。その責任転嫁先のいけにえとして、()徳田球一の家父長的個人中心指導の誤り、()伊藤律を、ゾルゲを密告したスパイとするでっち上げを大々的に宣伝した。その責任転嫁手口によって、2人以外武装闘争犯罪指導部メンバー全員を救済した。その責任転嫁政策によって、宮本顕治は、志田重男を含め、彼らほぼ全員を六全協中央委員・第7回大会中央委員に選出できた。

 

 (3)スターリン・毛沢東は、北京機関→国内の党中央軍事委員会にたいする指令・秘密暗号電報の存在完全抹殺し、証拠隠滅をやりとげた。スターリンが出した毛沢東・金日成への暗号電報多数から見れば、北京機関にたいするスターリンの指令・秘密暗号電報の存在もありうる。ただし、その証拠は発見されていない。

 

 2、武装闘争指導部との手打ち、ほぼ全員引継ぎ・一部排除命令の履行

 

 『日本共産党の七十年』は次のように書いている。「ソ連共産党の意向で、野坂が第一書記となった。党の指導中枢をあらためて第一書記とよんだのも、まだソ連の影響を脱していないことの名残であった。(中略)。六全協は、あたらしい中央委員会を選出し、八月二日常任幹部会の責任者に宮本顕治が選ばれ、八月十七日の第二回中央委員会総会で野坂参三を第一書記に選んだ」(P.244)

 

 宮本顕治は、ソ中両党の人事命令完全に履行した。

 (1)人事命令無条件で隷従した。彼は、ソ連スパイ野坂を、ソ連式名称の第一書記に据え、自らを常任幹部会責任者に任命するというソ中両党の辞令拝命した。

 (2)ソ中両党秘密命令どおりに、後方基地武力かく乱戦争行動指導部との手打ちを水面下で行ない、彼らのほぼ全員を引継ぎ、六全協中央委員に収容した。

 (3)、もっとも、手打ち命令は、武装闘争指導部と反徳田5分派幹部の双方から、指名幹部を排除せよとの内容も含んでいた。

 

 この手打ち内容と経過疑惑については、石堂清倫が『わが異端の昭和史・下』(平凡社、2001年、P.88)証言している。

 「六全協、つまり第六回全国協議会で共産党の主流派と国際派各グループとの手打ちがあった。手打ちといっては気の毒だが、招集したのは志田重男と宮本顕治というのが変である。旧主流中の最有力者伊藤律は、スパイと断定されて伊藤グループは脱落、国際派のうち志賀義雄、神山茂夫、春日庄次郎その他のグループも主催者から除かれている。どうも適法な招集でなく、志田・宮本のお手盛でないかという声があった。

 

 しばらくあとに知ったことだが、集った代議員(どこで選出したのか?)百一名のほとんどが旧主流派で、中央委員十五名中、国際派五名という。宮本(彼だけではないが)が志田に自己批判書を提出したとの噂だから、本当は志田主導というところであろう。この席上で集った全員が五一年綱領をそろって承認しているが、あの極左冒険主義の原典である綱領承認が国際派復帰の条件だったにちがいない。志田がそれだけの力をもっていたのは、ソ連共産党と中国共産党が旧徳田派を正統と認めていたからと想像される。伊藤律スパイ説は、まったくの言いがかりで、こじつけに近いそうである」。

 

(表9) 六全協で、宮本顕治は武装闘争責任者を100%継承

党役職

武装闘争指導部責任・個人責任

指導部責任なし・復帰党員責任

比率

中央委員

野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日()、岡田、松本(一三)、竹中、河田

宮本、志賀、春日()、袴田、蔵原

105

中央委員候補

米原、水野、伊井、鈴木、吉田

50

常任幹部会

野坂、志田、紺野、西沢、袴田

宮本「常任幹部会責任者」、志賀

52

書記局

野坂「第1書記」、志田、紺野。竹中追加

宮本。春日()追加

42

統制委員会

春日()「統制委員会議長」、松本()

蔵原、岩本

22

排除中央役員

伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎

神山、中西、亀山、西川

(84)

総体

伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承

4人を排除した上での、旧反徳田5派との“手打ち”

 

 この(8)は、小山弘健『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966年、絶版)の第4章1、六全協の成果と限界(183)の記述を、私が(表)として作成したものである。その一部を引用する。

 

 「発表された中央の機構は、政治局と書記長制が廃止されて、かわりに中央委員会常任常部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した一方式を、そのまま「右へならえ」式に、日本の指導体制に採用したものだった。(()人事記述個所を中略)。右のような中央人事は、全体としてみると、旧徳田主流派が若干の優位をたもちつつ、旧統一会議系国際派とのバランスをはかって組み立てられていた。それは、六全協までのはなしあいの主体が、伊藤派をのぞいた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らをのぞいた旧反対派との二つであったことを、あきらかにしていた。この事実は、下部における大衆的討議一切抜きにしたこととあいまって、六全協の限界と弱点を、はっきりばくろしていた」。

 

 宮本顕治は、文化部関係人事で、宮本百合子らの宮本顕治崇拝者を抜擢し、一方で、強い宮本批判を持っていた原泉築地の文化人、中野重治支持者らを排除した。

 

 3、参戦兵士のうち、批判・不満党員の切り捨て・見殺し命令の履行

 

 フルシチョフ・スースロフ・毛沢東が、宮本顕治を、惨敗戦後処理日本のソ中両党隷従者トップに起用した理由の一つは、彼が、野坂参三や他幹部にないような、党内統制力=批判・不満分子にたいする強烈で、かつ冷酷な抑圧・粛清執行能力を専有していると判断したからである。宮本顕治は、ソ中両党が六全協を通じて指令した隷従下日本共産党再建プログラムの遂行にあたり、彼らの期待に応えた。

 

 宮本顕治は、六全協総括内容・人事にたいする批判・不満分子徹底した抑圧と粛清を執行した。

 以下は、『戦後日本共産党史』第4章2、責任追求と責任回避(186〜193)からの一部抜粋である。

 

 (1)野坂参三は、9月21日「アカハタ」で、誤りを認めた。しかし、彼は「誤りをおかした人にたいしてただちに不信を抱いてはならない」「たんに身をひくことが責任をとる正しい方法ではない」として、責任をとろうとしなかった

 

 ()宮本、春日()らも、自分らのおかしたあやまちについて、なに一つ自己批判を表明しなかった。彼らは、責任の所在をあいまいにし、ごまかしてしまうという第二の重大なあやまちをおかした。

 

 ()、上層幹部たちの右のような責任回避のありかたにもかかわらず、前記のように全党をつうじて、分裂以後の党と党員のありかたにたいするきびしい自己批判とはげしい責任追及のあらしが、まきおこってきた。党はこの九月から一〇月にかけて、中国・北陸・東海・関西・九州・関東・四国・北海道などの各地方活動家会議をひらき、新中央から志田・宮本・紺野・蔵原などが出席した。つづいて一二月にかけて、各地方党会議をひらいて地方指導部をえらんだが、これらのどの会議でも、主流派と地下指導部にたいする非難のこえがわきかえり、収拾つかないありさまだった。

 

 ()、党の最高指導者たちが、みずから「指導的地位を去ることが責任をとるただしいやりかたではない」などといって全党の責任問題を混乱させているとき、一学生新聞の無名の一記者は、死者のためにつぎのようにうたっていた。

 

  日本共産党よ /死者の数を調査せよ /そして共同墓地に手あつく葬れ /

  政治のことは、しばらくオアズケでもよい /死者の数を調査せよ /共同墓地に手あつく葬れ

 

  中央委員よ /地区常任よ /自らクワをもって土を起せ /穴を掘れ /墓標を立てよ

 

  もしそれができないならば /非共産党よ /私たちよ /死者のために /

  私たちのために /沈黙していていいのであろうか /彼らがオロカであることを /

  私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか

 

  (「風声波声」、『東大学生新聞』一九五六年一〇月八日・第二七四号)

 

 だが党には、ひとりの中央委員もクワをとって土をおこそうとはせず、ひとりの地区委員も穴をほって墓標をたてようとはしなかった全党あげての論争と追及党外からのいくたの批判と要求―これらすべては、しだいに、みのりのないのれん談義におわっていった。

 

 党外や下部からの責任追及が、上部機関の責任のとりかたに集中化されるのと比例して、奇妙にも「アカハタ」紙上の自由な発言おさえられ制限されていきだした。国外権威からの原案指示上層幹部だけのはなしあいで運営された六全協は、必然に新中央による責任問題のホオかむりとタナあげという事態にうけつがれ、さらに党内民主主義の回復途上における中絶という奇怪な事態へと発展したのである。

 

   

 

 増山太助も、「見捨てられた独遊隊」として、次の証言をしている。五五年の六全協後、激動期の闘争をすべて極左冒険主義という言葉でくくり、当時の主流派の指導を一切清算する動きが露骨に表面化した。私はこの傾向に反対し、とくに、事実に基づく血のメーデーの解明を求めた。しかし、志田をはじめ軍事の関係者アリバイを主張して口をとざし命を賭けた独立遊撃隊の人たちは党から見捨てられて惨憺たる状態におかれた。

 

 宇佐美五二年に逮捕され、裁判にかけられたが、完全黙秘を貫いた。しかし、六三年にかつての仲間に裏切られ反党行為という理由で除名された。彼は私宛の手紙のなかで、僕は逃れようにも逃れようもなく極左冒険主義者の標的にさらされるという逆の現象をもって斬り捨てられたと述べ、宮本顕治に屈服して救済された元の極左冒険主義者を悲痛な思いで糾弾していた(『左翼群像』226)

 

 野坂・宮本体制は、一度も、死者の数を調査せよ!との要求に応えていないので、私が(表6)データを集計する。白鳥・メーデー・吹田・大須の4事件で、判明分だけである。不明分は空白にした。数字の出典は、各事件の被告・弁護団団側資料と『回想』である。

 

(表10) 野坂・宮本「六全協」が調査を拒絶した死者の数

白鳥事件

メーデー事件

吹田事件

大須事件

判明分計

1逮捕

55

1211

250

890

2406

2起訴

3

253

111

150

517

3有罪

3

6

15

116

140

4下獄

1

0

5

6

5死亡+自殺

03

20

21

44

6、重軽傷

0

1500

11〜多数

35〜多数

1546

7除名

1

1

8見殺し・切り捨て→離党

36

36

9逃亡・中国共産党庇護

10

0

0

0

10

 

 これらは、4件/265件の判明分である。265件全体の(1)から(8)の「死者の数」総計はどれだけになるか。一方、武装闘争発令の中央委員たちは、誰一人として、武装闘争事件による逮捕・起訴もされていない。もちろん、調査・発表の禁止命令を出したのは、フルシチョフ、毛沢東・劉少奇だった。そして、スパイ野坂と組織隔離から釈放されたばかりの宮本らは、ソ中両党が任命した隷従下日本共産党トップペアとして、その指令に無条件服従せざるをえなかった。

 

 その総括・データ公表禁止命令を履行するために、宮本顕治は、死者の数を調査せよ!と要求する批判党員兵士たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか、「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った(『戦後党史』194)

 

 指導部復帰者・宮本顕治を先頭として中央委員たちが、下部の武装闘争参戦兵士の批判・要求にたいし、抑圧・排除行動に出た根底には何があるのか。その深層心理内容は、お前たちは、自分がいかに犠牲をこうむろうとも、絶対的真理を体現している党中央を守り抜くことこそ、全世界のコミンテルン型前衛党員の共通の義務であり、党中央批判をする権利などない、という論理である。党員兵士一人一人には、交代・新規投入要員がいくらでもいるが、党中央幹部は余人をもっては替えがたい同志たちである、とする党中央委員たちの暗黙合意がある。

 

 この論理や合意の存在について、私が認識したのは、1969年愛知県指導改善問題時期である。私が、愛知県党の誤りの根源に関し、党中央批判を、正規の地区常任委員会・県委員会総会で10回以上発言したとき、派遣されていた砂間幹部会員などの党中央役員たちは、党中央批判異様なまでの感情的拒絶反応を見せた。また、宮本委員長によるその中間機関民主化運動への敵意と弾圧・粛清自ら直接体験したときである。それまでの私は、熱烈なレーニン信奉者・専従だった。

 

 14、宮本顕治が偽造歪曲した武装闘争責任論のウソ詭弁

 

 〔小目次〕

   〔ウソ詭弁1〕、朝鮮内戦という歪曲規定と一部手直し

   〔ウソ詭弁2〕、朝鮮侵略戦争参戦問題を50年分裂問題にすりかえ、矮小化

   〔ウソ詭弁3〕、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服を隠蔽

   〔ウソ詭弁4〕、武装闘争責任を分裂した一方の徳田分派→野坂除名後は徳田・野坂分派にすりかえ

 

 このファイル冒頭でも分析したが、丸山眞男が、1956年、『戦争責任論の盲点』を書いた真意は、2つあった。(1)、天皇の戦争責任問題をもっと明確に追及すべきという主張である。()、その一方、戦前、天皇制の対極にあり、もっとも活動的な前衛党が、戦争突入を許した責任問題、および、戦後の武装闘争の責任問題に共通する、日本共産党の結果責任たなあげ体質にたいする批判である。

 

 そして、()日本共産党は、戦前・戦後の結果責任問題について、理論的総括をして、その具体的データを含めて、きちんと公表すべきではないのかというおだやかな提案だった。ただし、彼は、この論文において、武装闘争責任問題について直接には明記していない。しかし、そこに、戦後の武装闘争=メーデー事件責任問題=政党としての結果責任総括義務にたいする丸山眞男の批判が内蔵されていたことを、石田雄教授が公表した。

 

    丸山眞男『戦争責任論の盲点』

    石田雄『「戦争責任論の盲点」の一背景』丸山眞男のメーデー事件批判

 

 六全協人事体制の本質は、スースロフ・毛沢東命令による一部中央役員排除の手打ち式だった。ただ、志田重男除名後は、3人が党内実権を握った。3年9カ月間の実質的な組織隔離から釈放された指導部復帰者=ソ中両党任命のソ中両党隷従者宮本顕治と、1945年以来ソ連長期温存スパイ野坂参三1951年からのソ連新埋伏内通者袴田里見らである。宮本顕治ソ中両党の命令隷従し、ソ連スパイ・内通者と協力して行なった六全協総括内容は、ウソ詭弁を多用したものだった。

 

    『共産党の丸山批判・経過資料』

    『志位報告と丸山批判ウソ詭弁術』1930年代のコミンテルンと日本支部

 

 宮本顕治が、1994年第20回大会前後になって、六全協の1年後発表という38年も前の丸山論文にたいし、逆上したような、異様なまでの丸山批判キャンペーンを、全党規模で13回も展開したのは、なぜか。それは、宮本顕治が、38年前丸山論文よみがえり、再注目によって、彼のウソ詭弁があばかれるという恐怖におののいたからである。

 

 宮本顕治のウソ詭弁内容を、4点で検証する。

 

 〔宮本式ウソ詭弁1〕、「朝鮮内戦」という歪曲規定と一部手直し

 

 六全協以降、すべての『党史』記述は、一貫して、朝鮮戦争を「朝鮮内戦」と規定している。ただ、先制攻撃側については、1994年の『七十年』(P.231)になって、「この内戦は、実際には、スターリンの承認のもとに北朝鮮の計画的な軍事行動によってはじめられたものであった」と手直しした。しかし、手直しに至った経緯については、なんの説明もしていない。

 

 もっとも、最初の手直しは、1988年9月8日「朝鮮問題についての日本共産党中央委員会常任幹部会の見解」発表だった。そこでは、北朝鮮が「南部全面解放による朝鮮統一の立場から軍事行動をおしすすめた」ことを指摘した。そして、1989年3月11日付「赤旗」は、この見解が「北の計画的な軍事行動によってはじめられたものであることを明らかにし」「アメリカの朝鮮への侵略だとする従来の主張を改めた」ものであることを公表した。

 

 このファイル全体で分析したように、ソ連崩壊後に発掘された、膨大な機密暗号電報、アルヒーフ(公文書)、中国共産党側文書、アメリカ側文書によって、1991年以後の「朝鮮戦争」規定は、根本的にひっくりかえった。この戦争は、(1)コミンテルン型前衛党3党が所有する党独裁・党治国家軍が仕掛けた侵略戦争だった。(2)32カ月間/37カ月間という92%期間は、実質的な米中戦争だった。かつ、(3)21カ月間/37カ月間という57%期間は、非政権の日本共産党「軍」を含めた、4つのコミンテルン型前衛党「軍」と、米韓・国連軍との間で行なわれた国際戦争だった。その実態は、「朝鮮内戦」どころではない。

 

 これにたいして「朝鮮内戦」などという歪曲規定を現在もしているのは、世界のあらゆる国家、政党のなかで、日本共産党だけである。この「内戦」規定をしている意図は、()ソ中両党という社会主義国家が侵略戦争を指導し、開戦前から参戦した事実隠蔽することだけではない。()それは、日本共産党の軍事方針・武装闘争とは、後方基地武力かく乱戦争行動という、4つのコミンテルン型前衛党ぐるみの侵略戦争への参戦であった事実を、歪曲・隠蔽する史上最大のウソ作戦の一環だった。「内戦」と規定し続ければ、同時期に遂行された日本国内における日本共産党武装闘争は、朝鮮戦争とまったく別個の行動というウソ詭弁が成り立つ。

 

 宮本顕治が、六全協からの指導部復帰をソ中両党から許されたとき、その復帰で突きつけられた条件は、()スターリン執筆の51年綱領は正しかったと、規定せよ()武装闘争の総括・公表を禁止する。()スパイ野坂を第1書記と決定してある、などだった。頭のいい宮本顕治のことであるから、総括・公表禁止という条件が何を意味するのかを悟ったはずである。

 

 一体、フルシチョフ・スースロフ、毛沢東は、なぜ、わざわざ総括・公表の禁止命令を出したのかを推測すれば、答えは一つしかない。もし、六全協が武装闘争実践を総括し、参戦データを全面公表すれば、どうなるか。その内容次第で、朝鮮戦争とは、李承晩軍事独裁政権側から仕掛けたという戦後史上最大のウソ作戦のぼろが、崩壊レベルの日本共産党六全協発覚することを、彼らは怖れたからである。

 

 宮本顕治は、1955年六全協で、朝鮮戦争の真相をある程度悟っていた。それにもかかわらず、1988年「朝鮮問題についての日本共産党中央委員会常任幹部会の見解」まで33年間も、公認『党史』上では、1994年の『七十年』まで、39年間も、党員と日本国民欺き続けた

 

 〔宮本式ウソ詭弁2〕、朝鮮戦争参戦問題を50年分裂問題にすりかえ、矮小化

 

 日本共産党は、政党として丸ごと、正規に、ソ中両党命令に基づく軍事方針・武装闘争指令を出し、日本本土において侵略戦争に参戦し、後方基地武力かく乱戦争行動をした。それは、日本に政党が結成されて以来、統一回復日本共産党の一党だけである。

 

 宮本顕治は、ソ中両党の命令を受け、1950年1月6日コミンフォルム批判以降、党分裂の一部期間を含めて、1953年7月27日休戦協定成立日までの、朝鮮戦争参戦期間活動を、どう規定したか。彼は、その期間を、四全協から、1951年10月初旬宮本分派解散・志田宛自己批判書提出までの50年分裂問題だけにすりかえ、矮小化した。

 

 このウソ詭弁テクニックは、手が込んでいるので、もう少し時期確認をする。

 

 (1)参戦期間を武装闘争路線・軍事方針決定からその実践期間とすれば、それは、1951年2月23日四全協からの2年5カ月間=29カ月間である。

 

 (2)党組織分裂期間を厳密にみれば、1950年8月末における宮本分派=全国統一委員会結成・徳田分派=北京機関結成という分裂組織の相互確立時点から、1951年10月初旬宮本分派解散・志田宛自己批判書提出による統一回復までの1年1カ月間=13カ月間である。

 

 (3)、朝鮮戦争参戦29カ月間問題を、その期間に含まれる組織分裂13カ月間問題だけに、すりかえた。これほどすばらしい党史記述矮小化の偽造歪曲犯罪と参戦事実隠蔽は、各国共産党史記述面でも、称賛されるべきウソ詭弁テクニックといえる。

 

 宮本顕治・スパイ野坂参三らは、1957年、『日本共産党五〇年問題資料文献集全4巻』(新日本出版社)を出版した。彼らは、そこに50年分裂経過を載せただけで、軍事方針・武装闘争実践データを完全捨象した。そして、意図的に、党分裂テーマのみに話題・関心をすりかえ、侵略戦争参戦テーマから目を逸らすキャンペーンを大展開した。ソ中両党命令によるものとはいえ、彼らのウソ詭弁作戦は、今日に至るまで、公表党員40.6万人だけでなく、日本国民約1億2千万人にたいしても、見事なほどの成功を収めている。

 

 「ソ連崩壊にもろ手を挙げて歓迎する」と宣言したからには、ソ連崩壊後に発掘されたデータに基づいて、今後は、50年分裂問題という歪曲・期間限定規定ではなく、期間の幅を正確に広げ、「50年分裂期間を含む朝鮮侵略戦争参戦問題資料文献集」を出版したらどうか。もっとも、志位・市田・不破らはそんなことをする筈もないが。

 

 〔宮本式ウソ詭弁3〕、宮本顕治の五全協前、スターリンへの屈服を隠蔽

 

 宮本顕治が、1951年10月初旬に、スターリンによる「宮本らは分派」裁定と、コミンフォルム機関紙裁定屈服したことは、事実である。それは、宮本分派を含む党員10%反徳田5分派すべてが屈服したことだった。それにより、分裂していた一方の党員90%の徳田主流派が、スターリン・毛沢東の干渉・認知によるものとはいえ、正規の統一回復日本共産党中央委員会になった。

 

 宮本顕治は、分派組織=統一会議・宮本系スターリン指令で解散し、宮本自己批判書を志田宛に提出した。志田は、彼を一旦、党中央の武装闘争宣伝部に配属した。しかし、武装闘争宣伝の仕事ができない、「使い物にならない」として、すぐ解任した。その直後からの組織隔離措置期間は、3年5カ月間だった。それは、1951年10月初旬宮本のスターリンへの屈服から、1955年3月15日スースロフ指令による野坂・志田との妥協で、六全協宮本が党中央指導部員に復活するまでである。または、7月27日六全協で、正式に常任幹部会責任者になるまでの3年9カ月間である。

 

 『七十年』『党史年表』や『干渉と内通』は、袴田里見スターリンへの屈服規定とモスクワでの自己批判書提出を、繰り返し記述している。しかし、宮本顕治については「屈服」という規定を書かず、志田宛の自己批判書提出事実を完全に隠蔽している。この記述スタイルは、日本共産党史とは、宮本史観党史であると言われることを証明している。

 

    『宮本顕治の五全協前、スターリンへの“屈服”』7資料と解説、宮本自己批判書提出

 

 この隠蔽記述によって、後方基地武力かく乱戦争行動を具体的に遂行した五全協武装闘争共産党が、統一回復日本共産党であったことも、見事に歪曲・隠蔽した。これも多数の証言で論証した。

 

 それだけでなく、宮本顕治は、歴史の事実を歪曲・隠蔽しようとする策謀を継続した。『七十年』(P.269)に、わざわざ次の文を挿入した。「(第7回)大会の政治報告は、五全協を「ともかくも一本化された党の会議であった」とした。しかし、五全協は徳田派による党規約に反したものであり、この評価は正しくなかった。この点について第十八回党大会四中総(八九年二月)は、この部分を「正式に、削除されるべきものだった」ことを明確にした」。

 

 1989年2月とは、宮本顕治が、彼を批判する幹部をすべて除名・除籍し、宮本秘書団の多くを常任幹部会員に抜擢し、宮本私的分派・側近グループを、ほぼ完成させていたときである。彼は「満月の歌」のような個人独裁権力を手中にして、過去の1951年汚点=スターリンへの屈服と「ともかくも一本化された」統一回復日本共産党への復帰という37年前の歴史的事実を、ほほむりさろうとした。それは、彼にとり、37年経っても、なお隠したい恐怖の真実だった。彼の自己讃美と自己汚点隠蔽操作の執念には、感心させられる。

 

    『不破哲三の宮本顕治批判』(秘密報告)「宮本秘書団私的分派・側近グループ」リスト

 

 〔宮本式ウソ詭弁4〕、武装闘争責任を「分裂した一方」の徳田分派→野坂除名後は徳田・野坂分派に転嫁

 

 宮本顕治には、武装闘争宣伝部→スターリン・毛沢東命令による組織隔離措置によって、その期間中、たしかに武装闘争指導部責任は大きくない。しかし、スターリン直筆の51年綱領と武装闘争路線を認めたことにより、除名処分にはされず、一党員として五全協共産党への復帰を許された。ただし、宮本顕治自身が六全協時点文書で明記・証言しているように、1951年11月自己批判復帰の直後、志田重男によって武装闘争共産党の宣伝部に任命された。もっとも、亀山幸三証言のように、非合法の武装闘争宣伝活動分野では「使い物にならない」とされ、短期間で志田重男に解任された。したがって、武装闘争責任は、徳田分派→野坂除名後は徳田・野坂分派ではなく、宮本顕治の武装闘争宣伝部任務を含むともかくも一本化された統一回復五全協共産党が負うものである。

 

 しかも、上記(表8)のように、フルシチョフ・スースロフ・毛沢東・劉少奇という日本共産党への命令者たち起用・任命したソ中両党隷従者宮本顕治は、武装闘争責任指導部幹部を、排除した伊藤律系8人以外のすべてを引き継いだ。それにより、武装闘争責任と個人責任幹部を100%継承した。この六全協手打ち人事構成と、宮本・スパイ野坂のトップペア体制成立を知らない人には、彼のウソがまだ通用するかもしれない。

 

 それだけでなく、上記増山太助2派1グループ実態と性格に関する証言内容は、スターリンによる宮本らは分派裁定に屈服するまでの宮本顕治こそ()スターリン盲従で武装闘争即時実行・決起を強烈に主張し、()主流派を即時武装闘争しない右翼日和見主義攻撃し続け()日本共産党全体を武装闘争に追い込んだ張本人だったことを証明した。五全協後の武装闘争指導部の直接責任はなくとも、コミンフォルム批判から五全協までの1年9カ月間宮本らの党員10%少数分派活動の期間において、彼は、武装闘争決起主張の強硬派として、最大の武装闘争指導部責任を負う極左冒険主義者だった。これが、日本共産党史の真実である。

 

 その事実を、今なお、「武装闘争は、分裂した一方の徳田・野坂分派のしたことであり、(現在の)党は、それになんの責任もない」としている。このウソ詭弁は、国際的な戦後史上最大のウソ作戦のスケールと比べれば、日本範囲の小さな、みみっちいウソといえる。

 

 ただ、現在、党独裁・党治国家10カ国がいっせい崩壊し、資本主義ヨーロッパでは、ポルトガル共産党以外の前衛党がすべて転換・崩壊してしまっている。フランス共産党の内実は、コミンテルン型前衛党でなくなった。よって、ヨーロッパ全域で、国家の死滅→共産主義とは逆に、共産主義の妖怪そのものが死滅してしまった。その21世紀において、アジアで残存する資本主義国のコミンテルン型前衛党が、3つの反民主主義・一党独裁国前衛党とならんで、生き残るのには、この程度のウソ詭弁を堅持し抜く必要があるのだろう。

 

 これら全期間を通して考えると、宮本顕治という人間の評価はどうなるのか。日本共産党史上、宮本顕治ほどの悪質で自己保身性が強烈な反国民的隷従犯罪者はいないであろう。日本の政治家全体に広げても、同じ評価になるであろう。

 

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 〔関連ファイル〕

    『宮本顕治の異様なスターリン崇拝』高杉一郎抑留記『極光のかげに』批判の態度

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの屈服』7資料と解説

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』屈服後、五全協武装闘争共産党で中央活動をした証拠

    『宮本顕治がしたことの表裏・12のテーマ』戦後の最高権力者期間39年間の表裏

 

    THE KOREAN WAR『朝鮮戦争における占領経緯地図』

    Wikipedia『朝鮮戦争』

    石堂清倫『コミンフォルム批判・再考』スターリン、中国との関係

    れんだいこ『日本共産党戦後党史の研究』 『51年当時』 『52年当時』 『55年当時』

    吉田四郎『50年分裂から六全協まで』主流派幹部インタビュー

    藤井冠次『北京機関と自由日本放送』人民艦隊の記述も

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    由井誓  『「五一年綱領」と極左冒険主義のひとこま』山村工作隊活動他

    脇田憲一『私の山村工作隊体験』中央軍事委員会直属「独立遊撃隊関西第一支隊」

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

    中野徹三『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」を紹介する

          (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」