日本共産党の戦後秘史()

 

「革命家」たちの累々たる屍、武装蜂起の時代()

六全協・馴れ合いと野合の「総括」、武装蜂起の時代()

 

兵本達吉

 

 ()、これは、兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社、2005年9月)の内、武装闘争時代全8章における第12、13章のみの全文(P.179〜209)を転載したものである。全体は30章・467頁からなり、第1章「獄中十八年」から、第30章「崖っぷちに立つ日本共産党」までの戦後日本共産党通史になっている。彼は、1998年、北朝鮮拉致事件問題で除名になるまで、共産党国会議員秘書をしていた。それだけに、党本部内における情報も随所に散見される。このHPに転載することについては、兵本氏の了解をいただいてある。私(宮地)の判断で、第12章にある学生の詩だけを、赤太字にした。

 

 なお、別ファイル『日本共産党の戦後秘史()で、彼の北朝鮮拉致事件への関与と共産党による査問・除名経緯、および、第21章「北朝鮮帰国事業と日本共産党」を転載した。このファイルを読まれる方が、本書全体を購読されれば幸いである。

 

 〔目次〕

   宮地コメント――1950年〜1955年の共産党を規定する日本語

   第6章、 戦後党史の最大の闇「五〇年問題」――武装蜂起の時代() (省略)

   第7章、 「軍事闘争」の開始――武装蜂起の時代() (省略)

   第8章、 「軍事闘争」と警察・検察資料――武装蜂起の時代() (省略)

   第9章、 「軍事闘争」の内容――武装蜂起の時代() (省略)

   第10章、戦闘の数々――武装蜂起の時代() (省略)

   第11章、現代の水滸伝・山村工作隊の実態――武装蜂起の時代() (省略)

   第12章、「革命家」たちの累々たる屍――武装蜂起の時代() (全文)

   第13章、六全協・馴れ合いと野合の「総括」――武装蜂起の時代() (全文)

   兵本達吉略歴

 

   『日本共産党の戦後秘史(2)北朝鮮拉致事件と査問・除名、北朝鮮帰国事業と日本共産党

 

 〔関連ファイル〕       健一MENUに戻る

   『逆説の戦後日本共産党史』武装闘争関係の全ファイルメニュー

   『嘘つき顕治の真っ青な真実』宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠

       現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘

   『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

   『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加

   伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

   大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

   google検索『兵本達吉と共産党』

 

説明: hyomoto3

 

 宮地コメント――1950年〜1955年の共産党を規定する日本語

 

 1950年1月8日コミンフォルム批判から、1955年7月27日六全協までの5年半における日本共産党をどういう日本語で表したらいいのか。

 

 ()、共産党は、「50年問題」という日本語を使っている。そして、「極左冒険主義」というイデオロギー規定のみで、武装闘争の実態をほぼ完全に隠蔽してきた。さらに、その時期全体を「党分裂」期間とした。むしろ、党分裂問題をメインと位置づけて、武装闘争を隠蔽するように、党史の偽造歪曲をしてきた。その証拠は、『日本共産党の七十年』『八十年』の記述内容である。それだけでなく、『日本共産党五〇年問題資料文献集・全4巻』(新日本出版社、1957年)と宮本顕治『五〇年問題の問題点から』(新日本出版社、1988年)がある。それらの内容を見れば、共産党が言う「50年問題」とは、武装闘争を捨象・隠蔽した「党分裂問題」のみになっている。それら5冊は、武装闘争関係の資料・数字データを恣意的に一つも載せていない。宮本・不破の第1のウソ=偽造歪曲党史によれば、六全協まで、5年以上も党分裂が続いていたことになる。

 

 そこから、宮本顕治の有名な第2のウソが出る仕組みになっている。彼は「六全協まで党は分裂していた。よって武装闘争は、分裂した一部がやったことで、現在の共産党(宮本)は、それになんの関係も責任もない」と繰り返し主張した。これら二重のウソ・党史偽造歪曲に、共産党員と左翼は、1955年六全協後の50年間、一貫して騙されてきた。

 

 ()、私(宮地)が別ファイルで分析したように、その時期に関する公認党史内容は、宮本顕治・不破哲三らの真っ赤なウソである。1951年10月16日、五全協前に、国際派全員がスターリン裁定=モスクワ放送に屈服し、主流派に自己批判書を提出し、分裂がなくなった。宮本顕治も、党中央軍事委員長・志田重男宛に自己批判書を提出し、武装闘争共産党に復帰した。分裂期間は、1年4カ月間だった。統一回復の五全協共産党が、具体的な武装闘争実行を日本全土で開始したというのが歴史的真実だった。

 

 よって、この期間の正確な党史記述は次になる。「1年4カ月間の分裂期間と、3年9カ月間の統一回復・武装闘争共産党の時代」である。しかも、その後に発掘された宮本顕治自身の秘密資料によって、彼の武装闘争指導部責任が判明した。その詳細は、別ファイルで分析した。

 

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加

 

 ()、兵本達吉は、共産党の武装闘争隠しの公認党史日本語にたいし、「武装蜂起の時代」と意図的に強調した日本語にした。それは、武装闘争を隠蔽する公認党史の「50年問題」という欺瞞的な日本語への対抗規定である。そして、本書で、全8章・128頁にわたって、武装闘争共産党の実態を解明した。武装闘争の歴史と実態をここまで緻密に分析し、「武装蜂起の時代」と規定した出版物が出たのは、戦後日本共産党に関する研究史において、初めての出来事であろう。

 

 従来、「武装蜂起」という日本語は、1917年、レーニン・ボリシェヴィキの「十月革命」にたいして使われてきた。日本共産党の武装闘争実行期間は、正確に見れば、どれだけの期間になるのか。具体的には、宮本顕治も自己批判書提出・復帰した1951年10月16日五全協から、1953年3月5日スターリン死去4カ月後の1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定日までの1年9カ月間だった。

 

 その武装闘争の性格は、スターリン・毛沢東の朝鮮戦争「参戦」指令に隷従した日本共産党が行った「朝鮮侵略戦争の後方基地武力撹乱戦争」だった。宮本顕治も自己批判・復帰した統一回復共産党は、「日本における朝鮮戦争」を全土で実行した。したがって、それを日本共産党による「スターリン・毛沢東指令に隷従した武装蜂起、および、後方兵站補給基地日本における武力撹乱戦争のための武装蜂起」という日本語を使うことは、そんなに無理なことではない。

 

 宮本顕治の真っ赤なウソと朝鮮侵略戦争「参戦」の実態については、私(宮地)も別ファイルで詳細に分析した。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

 

 いずれにしても、()1950年から1955年7月27日六全協まで「党分裂が5年以上も続いていた」というウソを基本内容とし、()「武装闘争は分裂した一部がやったことで、現在の共産党(宮本)はそれになんの関係も責任もない」と二重のウソをつき、()武装闘争実態を隠蔽しようとする「50年問題」という公認規定が、宮本顕治式党史偽造歪曲用語であることは間違いない。それは、私(宮地)が作成した上の3ファイルや他ファイルから転載した下記の5資料を見れば分かる。

 

 〔小目次〕

   〔資料1〕、後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表

   〔資料2〕、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表

   〔資料3〕、4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

   〔資料4〕、野坂・宮本「六全協」が調査を拒絶した死者の数

   〔資料5〕、六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承

 

 〔資料1〕、後方基地武力かく乱・戦争行動の項目別・時期別表

 

 全国的な後方基地武力かく乱戦争行動データを載せているのは、現時点で、警察庁警備局『回想・戦後主要左翼事件』(警察庁警備局、1967年、絶版)だけである。よって、以下の諸(表)は、それを、私(宮地)の独自判断で、分類・抽出した。

 

事件項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)

2、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)

3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)

4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃

5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む)

6、暴行、傷害

7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)

8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争

9、山村・農村事件

10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの)

 

 

 

 

 

 

 

2

1

1

95

2

48

11

20

8

15

19

9

23

1

 

 

 

 

5

 

2

 

3

96

2

48

11

29

13

11

23

10

27

総件数

4

250

11

265

 

 〔資料2〕、武器使用指令(Z活動)による朝鮮戦争行動の項目別・時期別表

 

武器使用項目 ()

四全協〜

五全協前

五全協〜

休戦協定日

休戦協定

53年末

総件数

1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952.1.21)

2、警官拳銃強奪

3、火炎ビン投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む)

4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビン投てき

5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む)

6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む)

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

 

 

 

 

 

1

6

35

6

16

7

総件数

0

71

0

71

 

 〔資料1、2〕の説明をする。本来は、統一回復五全協が行った武力かく乱戦争実態を、六全協共産党が、これらのデータを公表すべきだった。しかし、NKVDスパイ野坂参三と指導部復帰者宮本顕治ら2人は、ソ連共産党フルシチョフ、スースロフと中国共産党毛沢東、劉少奇らが出した「武装闘争の具体的総括・公表を禁止する」との指令に屈服して、()“上っ面”の極左冒険主義というイデオロギー総括だけにとどめ、()武装闘争の具体的内容・指令系統・実践データを、隠蔽した。そして、今日に至るまで、完全な沈黙・隠蔽を続けている。

 

 このデータは、『戦後主要左翼事件・回想』(警察庁警備局発行、1968年)に載っている数字である。そこには、昭和27年、28年の左翼関係事件府県別一覧、その1〜4が265件ある。総件数を、〔資料1〕の10項目、〔資料2〕の6項目に、私(宮地)の判断で分類した。〔資料2〕件数は、すべて〔資料1〕に含まれており、そこから武器使用指令(Z活動)だけをピックアップした内容である。この『回想』は、283ページあり、これだけの件数を載せた文献は他に出版されていない。もちろん、警察庁警備局側データである以上、警察側の主観・意図を持った内容であり、そのまま客観的資料と受け取ることはできない。しかし、五全協日本共産党による武装闘争指令とその実行内容を反映していることも否定できない。

 

 〔資料1〕 後方基地武力かく乱戦争行動の攻撃対象には、特徴がある。米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輌襲撃件数は、11件/265件で、4%だけだった。それにたいして、警察署等襲撃(火炎ビン、暴行、脅迫、拳銃強奪)、警察官殺害(印藤巡査1951.12.26、白鳥警部1952.1.21)、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎ビン、暴行)件数は、145件/265件あり、55%を占める。このデータ件数比率からは、次の判断が成り立つ。朝鮮侵略戦争最中のソ中両党が日本共産党「軍」にたいして出した後方基地武力かく乱攻撃命令対象が、米軍基地・軍需輸送の直接破壊ではなく、後方基地日本全体の治安武力かく乱にあったのではないかということである。

 

 〔資料2〕 使用武器の大部分は、火炎ビンだった。ただ、使用総本数について、『回想』も明記していない。『戦後事件史』(警察文化協会、1982年)という、1232ページの警察発行の大著がある。そこでは、1952年6月25日、吹田事件翌日の新宿駅事件について、次の記述をしている。「朝鮮動乱二周年目の二十五日、夕方から新宿の東京スケートリンクで行われた国際平和記念大会に集った約二千五百名が、散会後の九時四十分ごろ新宿駅付近にくり出し、警戒中の約千名の警官と衝突、例によって硫酸ビン、火炎ビンを投げつけて大乱闘となり、検挙者三十名、警官隊の負傷者二十名、新聞記者、カメラマンの負傷者三名を出した。投げられた火炎ビンはこれまでの事件では一番多く総数五十本以上で、投げ方も非常に正確であった」(P.378)。この本数を見ると、使用火炎ビン総数は、火炎ビン投てき件数35件で、数百本と推計される。

 

 〔資料3〕、4事件の概況、裁判・判決内容、軍事方針有無

 

項目

白鳥事件

メーデー事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

1952121

札幌市白鳥警部射殺

殺人予告ビラ→実行→実行宣言ビラ

逮捕55人=党員19、逮捕後離党36人。実行犯含む10人中国逃亡

白鳥警部即死

195251

講和条約発効後の初メーデー

皇居前広場での集会許可の裁判中

明治神宮外苑15万人→デモ→皇居前

皇居前広場突入40008000人、逮捕1211

死亡2、重軽傷1500人以上、警官重軽傷832

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

 

殺人罪・殺人幇助罪で起訴

被告追平ら一部は検察側証人に

8年間

村上懲役20年、再審・特別抗告棄却。高安・村手殺人幇助罪懲役3年・執行猶予。中国逃亡者時効なし

刑法106条騒擾罪で起訴253

分離公判→統一公判

207カ月間、公判1816

騒擾罪不成立、「その集団に暴行・脅迫の共同意志はなかった」。最高裁上告阻止、無罪確定、公務執行妨害有罪6

軍事方針有無

 

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

 

札幌市軍事委員長村上と軍事委員7人による「白鳥射殺共同謀議」存在

ブローニング拳銃1丁

軍事方針存在の全面否認

村上以外、「共同謀議」等自供

逃亡実行犯3人中、中国で1人死亡

日本共産党中央軍事委員長志田が指令した

「皇居前広場へ突入せよ」との前夜・口頭秘密指令

(プラカード角材)、朝鮮人の竹槍、六角棒

軍事方針存在の全面否認

志田指令を自供した軍事委員なし

増山太助が著書(2000)で指令を証言

警察側謀略有無

拳銃・自転車の物的証拠がなく、幌見峠の弾丸の物的証拠をねつ造

二重橋広場の一番奥まで、行進を阻止せず、引き入れておいてから襲撃するという謀略。判決は、「警察襲撃は違法行為」と認定

 

項目

吹田事件

大須事件

発生年月日

概況

 

参加者

 

死傷者

195262425

朝鮮動乱発生2周年記念前夜祭と吹田駅へ2コースの武装デモ→梅田駅

集会23000人、デモ1500人=朝鮮人500、民青団100、学生350、婦人50人、逮捕250人、他

デモ隊重軽傷11、警官重軽傷41

195277

帆足・安腰帰国歓迎報告大会、大須球場

 

集会1万人、無届デモ3000

逮捕890人、警官事前動員配置2717

死亡2人、自殺1人、重軽傷35〜多数

裁判被告

 

裁判期間

判決内容

 

刑法106条「騒擾罪」で起訴111

日本人61人・朝鮮人50人、統一公判

20年間

騒擾罪不成立

1審有罪15人、無罪87

刑法106条「騒擾罪」で起訴150

分離公判→統一公判

261カ月間、第1審公判772

口頭弁論なしの上告棄却で騒擾罪成立

有罪116人=実刑5人、懲役最高3

執行猶予つき罰金2千円38

軍事方針有無

武器使用

共産党側の認否

関係者の自供

 

多数の火炎ビン携帯指令の存在

火炎ビンと竹槍(数は不明)

軍事方針存在の全面否認

公判冒頭で、指揮者の軍事委員長が、軍事方針の存在を陳述。裁判官は、起訴後であると、証拠不採用

「無届デモとアメリカ村攻撃」指令メモの存在

火炎ビン20発以上(総数は不明)

軍事方針存在の全面否認

共産党名古屋市委員長・愛知ビューローキャップ永田は公判で軍事方針の存在承認→共産党は永田除名

警察側謀略有無

デモ隊1500人にたいして、

警官事前動員配置3070

デモ5分後の警察放送車の発火疑惑、その火炎ビンを21年間提出せず。警察スパイ鵜飼昭光の存在。警察側のデモ隊へのいっせい先制攻撃のタイミングよさ

 

 〔資料4〕、野坂・宮本「六全協」が調査を拒絶した死者の数

 

 野坂・宮本体制は、一度も、死者の数を調査せよ!との要求に応えていないので、私(宮地)が〔資料3〕データを集計した。白鳥・メーデー・吹田・大須の4事件で、判明分だけである。不明分は空白にした。数字の出典は、被告団側資料と『回想』である。

 

白鳥事件

メーデー事件

吹田事件

大須事件

判明分計

1逮捕

55

1211

250

890

2406

2起訴

3

253

111

150

517

3有罪

3

6

15

116

140

4下獄

1

0

5

6

5死亡+自殺

03

20

21

44

6、重軽傷

0

1500

11〜多数

35〜多数

1546

7除名

2

2

8見殺し・切り捨てによる離党

36

36

9逃亡・中国共産党庇護

10

0

0

0

10

 

 これらは、4件/265件の判明分である。265件全体の(1)から(8)の「死者の数」総計はどれだけになるのか。一方、武装闘争発令の中央委員たちは、誰一人として、武装闘争事件による逮捕・起訴もされていない。もちろん、総括・発表の禁止命令を出したのは、フルシチョフ・スースロフ、毛沢東・劉少奇だった。そして、NKVDスパイ野坂・中央役員に復帰できたばかりの宮本らは、ソ中両党が任命した従属下日本共産党トップペアとして、その指令に無条件服従せざるをえなかった。

 

 その総括禁止命令を履行するために、宮本顕治は、死者の数を調査せよ!と要求・批判する党員兵士たちにたいして、「うしろ向きの態度」とか「自由主義的いきすぎだ」とか「打撃主義的あやまり」「清算主義の傾向」とかの官僚主義的常套語で、水をかけ、武装闘争総括をおしつぶす先頭に立った(小山弘健『戦後日本共産党史』芳賀書店、1966年、絶版P.194)

 

 〔資料5〕、六全協で、宮本顕治は武装闘争責任を100%継承

 

党役職

武装闘争指導部責任・個人責任

直接責任なし・復帰党員責任

比率

中央委員

野坂、志田、紺野、西沢、椎野、春日()、岡田、松本(一三)、竹中、河田

宮本、志賀、春日()、袴田、蔵原

105

中央委員候補

米原、水野、伊井、鈴木、吉田

50

常任幹部会

野坂、志田、紺野、西沢、袴田

宮本「常任幹部会責任者」、志賀

52

書記局

野坂「第1書記」、志田、紺野。竹中追加

宮本。春日()追加

42

統制委員会

春日()「統制委員会議長」、松本()

蔵原、岩本

22

排除中央役員

伊藤律除名。(伊藤系)長谷川、松本三益、伊藤憲一、保坂宏明、岩田、小林、木村三郎

神山、中西、亀山、西川

(84)

総体

伊藤律系を排除した上での、武装闘争指導部責任・個人責任者の全員を継承

4人を排除した上での、旧反徳田5派との「手打ち」

 

 この〔資料5〕は、小山弘健『戦後日本共産党史』の第4章1、六全協の成果と限界(P.183)の記述を、私(宮地)が(表)として作成したものである。その一部を引用する。

 「発表された中央の機構は、政治局と書記長制が廃止されて、かわりに中央委員会常任幹部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した一方式を、そのまま『右へならえ』式に、日本の指導体制に採用したものだった。(()人事記述個所を中略)。みぎのような中央人事は、全体としてみると、旧徳田主流派が若干の優位をたもちつつ、旧統一会議系国際派とのバランスをはかってくみたてられていた。それは、六全協までのはなしあいの主体が、伊藤派をのぞいた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らをのぞいた旧反対派との二つであったことを、あきらかにしていた。この事実は、下部における大衆的討議を一さいぬきにしたこととあいまって、六全協の限界と弱点を、はっきりばくろしていた」。

 

 ただ、〔資料5〕の分類では、宮本顕治を「直接責任なし、五全協前復帰党員責任」とした。しかし、その後に発掘された宮本顕治自身の秘密資料によって、彼の武装闘争指導部責任が判明した。その詳細は、別ファイルで分析した。

 

    『嘘つき顕治の真っ青な真実』宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠

 

 

 第12章、「革命家」たちの累々たる屍―武装蜂起の時代() (全文)

 

 〔小目次〕

   1、会議と演芸と革命運動

   2、中国革命とは似て非なるもの

   3、中国では軍事訓練も

   4、武装闘争の終焉

   5、成功するはずもなかった「武装蜂起」

   6、無責任な指導者たち

 

 1、会議と演芸と革命運動

 

 山村工作隊は全国に展開していた。「独立遊撃隊関西第一支隊」という関西の一例を紹介してみよう。

 この工作隊については、脇田憲一の自伝的回想録『朝鮮戦争と吹田・枚方事件−戦後史の空白を埋める』に詳しく紹介されているが、脇田が以前に書いた「私の山村工作隊体験」をもとに、概略を示してみたい。「独立遊撃隊関西第一支隊」は正式名称で、脇田は「奥吉野山村工作隊」と命名している。

 

 結成は一九五三(昭和二十八)年八月末である。日本共産党中央軍事委員会に直結する西日本ビュウローの責任者が和歌山市内にアジトを構え、地域の山村工作隊結成を指導していた。

 

 この山村工作隊の出現には伏線があった。その年の七月、南近畿一帯を襲ったいわゆる紀州大水害があり、和歌山県全域と奈良県の山間部で大被害が発生した。とくに山間部一帯の山津波による人的被害が大きく、両県合わせて五千人以上の死者、行方不明者が出た。紀州災害では、官民あげての大規模な救援活動が展開されたが、大阪における革新政党(社・共)、労組、大衆団体、学生が民主団体水害救援対策委員会(民水対)を結成して、水害救援隊を現地に派遣した。難路の山道を辿って救援物資を届け、延べにして数千人の救援隊員が参加した。

 

 救援隊は水害被災民に心から感謝され、その献身的な奉仕活動は、水害被災者は勿論、村民の圧倒的な感謝と支持を得た。救援活動の中心を担ったのは、日本共産党の細胞(現在の支部)であり、当時レッドパージや軍事闘争で疲弊していた党勢を感じさせない活発なものであった。住民の力強い支持を得て、共産主義はいわば活性化したのである。山村工作隊の結成は、党がこれらの水害救援隊の成果に着目し、これを「五一年綱領」と軍事方針に結び付け、一連の軍事闘争の失敗を挽回しようとしたふしがある、と脇田は書いている。

 

 水害救援の活動は、ここでは省略するが、かくかくたる成果をあげ、大いに「人民」の支持を得た。この成果を基礎にして、山間部の被災地で最も被害の大きかった和歌山県伊都郡花園村や、奥吉野の山深い山村で最も救援活動の遅れていた奈良県吉野郡野迫川村などを拠点にして、山村工作隊が結成された。工作隊は村のはずれに山小屋を建て、そこに住みついた。工作隊活動は、大阪の党組織から完全に補給を受け自活することは考えていなかった。

 

 隊員構成は、隊長と政治委員(コミッサール)をリーダーとし、補給係(食料運搬と炊事)、機関紙宣伝係(隊機関紙発行)、文化工作係(演芸担当)、武器係(実際は保健体育)など各隊員がそれぞれ任務を分担した。活動は、週一回花園村の隊本部で開かれる全体会議を軸に展開された。つまり、各地域の活動を全体会議に集約して討議し、隊本部及び上級機関の指示を受ける、という繰り返しであった。

 

 脇田は、「週一回の全体会議それ自体がいわば主要な隊活動であった」という。「野迫川村から隊本部のあった花園村までの道程はすべて山道であり、その距離は五十キロ余りあった。朝早く出発して花園村に到着するのは、夕暮れであった。隊会議は、夜を徹して行われ、寝る間もなく翌朝出発してその日の夜中に帰ってくるという二日がかりの行動であった」

 驚いたことに、会議そのものが、隊活動の主要な内容であった、というわけである。

 

 少し脱線すると、日本共産党というのは、会議の好きな政党であり、活動をそっちのけにして朝から晩まで会議をしている。筆者が国会に勤務していた頃も、午前中に会議、午後も会議で、帰りの電車のなかで今日は何をしたか考えると、会議だけという日がよくあった。共産党の元祖、ロシア共産党(ボルシェヴィキ)も革命の後、会議ばかりやっていたようである。ロシアの有名な革命詩人マヤコフスキーの作品に、「会議をやめるための会議を開こう」という古い党員なら誰でも知っている詩がある。

 

 さて、一週間のうち二日間を会議に費やし、二日間は隊の機関紙作りで、残りの三日間が工作活動であった。奈良隊の戦略目標は、野迫川村の立里鉱山、大塔村の猿谷ダム、十津川の風屋ダム建設の労働者と奥吉野一帯の山林労働者を組織することによって、貧農と農村プロレタリアートに依拠した労農同盟を確立することであった。

 

 具体的には、あらゆる手段をつくして労働者のなかに入ることであり、例えば立里鉱山では、宿舎の舎監にわたりをつけ、食堂で演芸会を開催した。隊のなかに浪曲と講談の達者な隊員がいて、これが大受けに受けた。勿論演芸の合間に隊長と政治委員が演説をはさむのであるが、こっちの方は受けなくても演芸の方は何度もお呼びがかかった。

 

 筆者も、この地方の山村工作隊に参加していた古参党員の爺さんを知っているが、この爺さんは、ドジョウすくいとひょっとこ踊りがうまく、酔うと踊りだした。山村工作隊で大いにやったというので、「革命をしていたのだか、踊っていたのだか」とからかったものだ。この時代の軍事闘争(「五〇年問題」)が失敗に終わり、厳しい総括が始まると、この爺さん(すでに故人であるが、本名を書くのはしのびない)も党から厳しい批判を受けた。「お前は、理論がない」とやられたのだという。

 

 爺さんは、筆者に「自分の一生であれほど驚いたことはない」と言った。「どうしてだ」と聞くと、爺さんは貧農の家に生まれ、昔から和歌山で小作争議の活動をしては、警察に捕まっていた。爺さんの革命的活動の内容というのは、深夜に地主の屋敷に忍び込んで、庭に肥たんご(桶)にいれた人糞をまき散らすことであった。「あんなことをするのに、理論がいるとは」と深いため息をついていた。

 

 山村工作の活動内容に話を戻すと、工作隊員たちは、猿谷ダムの工事現場に労働者として入り込み、政治宣伝を行った。また、小さな貧しい家を訪ね、機関紙の購読を求めたが、予想以上の強い抵抗にあって、新聞代を払うから帰ってくれ、と拒絶された。結局、本部からの食料補給が続かなくなって活動は急に破綻することになった。

 

 昨日までスコップを持って勤労奉仕をしていた救援隊が、今度は政治ビラをもって戸別訪問にやってくるという急変ぶりに、村民が警戒心を抱いたのも当然だろう。村のボスたちも、「とうとうアカの正体を現した」と攻撃していた。

 

 このように見てくると、奥吉野山村工作隊の遊撃隊隊員も、輝かしい戦果を上げて凱旋したわけでは決してなく、何ら見るべき成果もなく、兵站(へいたん)つきて引き揚げてきたことが分かる。由井誓の小河内山村工作隊にしても、奥吉野山村工作隊にしても、山村にちっぽけな拠点を築いたというだけであって、そこから都市に向かって一大攻勢をかけたといったようなものではない。活動の内容も合法的な政治工作であって、だからこそ、彼らは自分の体験記を残すことができたのである。

 

 2、中国革命とは似て非なるもの

 

 ただ、山村工作隊の活動は決してこのような牧歌的な活動だけではなかった。凶暴凶悪な山村工作隊についても記しておこう。山梨県の「曙事件」については、既に前項()で書いているが、そこでは軍事資金の調達という観点から触れているにすぎない。

 

 山梨県南巨摩郡曙村(現在は市町村合併で身延町中富となっている)はその昔、平家の落ち武者が流れついて村落をつくつたと言われる山間僻地の寒村である。村人は出稼ぎ、土工、炭焼き、山林人夫などをし、山菜を採って飢えをしのぐという貧しい村であった。

 

 この村の窮状に目を付けた日本共産党は、山村工作隊を送り込み、「固い封建制を一挙に打破すると共に、一握りの権力者に振られている村政を村民のものにしなければならない」とぶち上げた。「日本共産党曙細胞の当面の要求」という綱領を発表し、民族民主解放統一戦線を結成するため、当面の闘争方針として「山林地主からの山林の解放」を打ち出し、具体的な「標的」を、同村の元消防団長で、村の農業委員会委員長や区長を務め、屈指の資産家である山林地主の佐野喜盛に定めた。

 

 一九五三(昭和二十七)年七月三十日夜、十人の山村工作隊隊員が、竹槍、こん棒で武装して押し入り、佐野本人のほか、妻や家人を竹槍で突き、こん棒でめった打ちにし、乱暴狼籍、暴虐の限りをつくした。襲撃に加わった全員が逮捕され、十二年後の一九六四(昭和三十九)年、最高裁において、懲役二年から八年の有罪判決を受けた。これなどは、典型的な山村工作隊事件であろう。

 

 先にこの事件に触れ、「中国革命では、推定で数十万の地主が、家族ぐるみ殺された」と書いた。最近台湾系の在日中国人の集まりに参加する機会があった。台湾には、かつて中国革命で大陸本土から台湾に逃れた国民党系の中国人がたくさんいた。現在はその三世、すなわち孫の時代になっているが、多くは元地主階級の人たちである。彼らの話によると、「中国革命で殺された人は、殆どが地主階級で、その数は、約二〇〇〇万である」という。数もさることながら、殺し方が酷い。殺す前には必ず目を潰したと言う。極楽へ行く道が分からないとか、今度生まれてくるときには盲人になって生まれてくるからだと言う。そのほか、耳や鼻をそぎおとす、穴を掘って首まで埋めて首を鋸でひく、真冬に木に縛りつけ、水をかけて凍死させるなど、酸鼻を極めるものであったそうだ。

 

 筆者は彼らから中国革命について何も知らないではないかとなじられた。山村工作隊というのは、中国革命で毛沢東や革命家たちが革命根拠地として井崗山に立て籠った歴史的な故事をモデルとしたものであるが、いずれにしても、中国革命から見れば、「児戯に類するもの」であったというほかはない。もちろん、「児戯」であったことは、むしろ喜ばなければならない。

 

 3、中国では軍事訓練も

 

 中国の北京に日本共産党の「国外指導部」である「徳田機関」(孫機関とも言う)が設立されて日本共産党の事実上の指導部となり、ここから日本の「臨中」へ指令が伝えられることになる。

 北京には、このほか、「北京機関」とか「軍事学院」と呼ばれる秘密の組織もあった。

 

 中国へ渡るためには、徒歩で行くわけにはいかない。当然船であろう。この船のことを「人民艦隊」と言う。日本共産党が好むオーバーな表現であって、「艦隊」と言っても、戦艦や巡洋艦、駆逐艦を備え、アメリカ海軍や海上自衛隊とわたりあったというようなものでは勿論なく、漁港で入手した古い漁船や港に打ち捨てられている漁船を修理した、航行にようやく耐える程度の船の寄せ集めであったと言う。時には、漁船を盗むこともあったようだ。「人民艦隊」は、要するに中国や朝鮮半島への密航システムのことである。増山太助によれば、この「人民艦隊」の指揮官は、永山正昭という人物である。小樽で生まれ、水産講習所を出た無線技師で、海員労働組合の優れた指導者で、いわば海のプロも関わっていた。

 

 そのほか、朝鮮人の政治組織が使っていた朝鮮半島、釜山や済州島への密航ルートや、中国人や台湾系華僑の密航ルートも使われたという。日本の革命家たちは、この「人民艦隊」なるぼろ船の漁船に乗って、船酔いで吐きながら、革命の聖地中国へと渡っていった。

 

 北京の「徳田機関」は、天安門を東西に走る長安街の西、西単(シータン)の北側にあった。「徳田機関」は徳田球一、野坂参三、西沢隆二らが中心になって動かしており、一九五一(昭和二十六)年の秋、伊藤律が加わると、非公然組織の地下放送「自由日本放送」を通じて、日本国内に対する政治的煽動が始まった。レッドパージでNHKを追放された藤井完次が、伊藤の指導の下に放送業務に当たった。「自由日本放送」が日本向けに最初に電波を流したのは、一九五二(昭和二十七)年の「血のメーデー事件」の夜で、日本共産党のメーデースローガンや世界労連のメッセージなどを放送した。一九五三(昭和二十八)年五月二日の「朝日新聞」には、「五月一日夜から、『自由日本放送』という共産系の日本語放送が開始された。放送局の所在は不明」という記事が出ている。

 

 「北京機関」の構成員は、千五百人から二千人と言われるが、その多くは当時まだ中国の東北地区(満州)に残留していた旧日本軍の兵士のなかから選抜された。彼らは、中国共産党の幹部から、「日本革命と中国革命は一体のものである」と説得された。日本から「人民艦隊」で中国への密出国組は六十五人だといわれている。

 

 「北京機関」は、北京の西南郊外、有名な慮溝橋を渡って数キロ行った長辛店の近くにあった。これは学校であって、校長は高倉輝であり、「マルクス・レーニン学院」とか「人民大学」とか呼ぶ人もいた。この学校には、後に参議院議員になった立木洋とか、講師に招かれた榊利夫とか工藤晃がいた。筆者は、日本共産党の国会議員秘書時代、工藤が、「立木より、オレの方がよっぽど中国語が上手い」と自慢しているのを聞いたことがあるから、中国にいたことは本当だろう。私たちの世代には、立木や榊、工藤といった人たちがどういう働きをして党の幹部となったのか理解できなかったけれども、多分この時代に大いに「活躍」していたのであろう。

 

 中国側の特別講師には、郭沫若、摩承志、陸定一といった大物が揃っていた。

 ソ連、中国、そして日本の「共産党史」の講義や「マルクス主義経済学」「毛沢東思想研究」「日本革命の現状」といった授業があり、ロシア語、中国語の授業もあった。

 

 副校長を務めた河田賢治は筆者が京都で過ごした学生時代の日本共産党京都府委員長であった。労働者階級の出身であるが、獄中十六年、その間独学で、英語、独語、露語をマスターしたというので、この三カ国語に悪戦苦闘していた筆者は、すっかり尊敬してしまった。

 ところが参議院議員となつた河田に、後に筆者はお目にかかることになるが、実際には、日本語、つまり漢字さえろくすっぽ読めない人であった。日本共産党の「革命伝説」というのは、殆どがこの手の類であった。

 

 この頃、毛沢東の指示により、劉少奇が日本の武装闘争を援助するため、秘密裏に軍事学院を創立した。指導者に朱徳が任命されていたという証言もある。

 

 最初は、中国に残留していた若い日本兵から選抜されたが、後には、日本からそれに適した若者が招かれて軍事教練を受けた。筆者が中国製「人民軍」に参加した人物に直接聞いた話では、軍事教練の内容はピストルやライフル銃が中心であり、せいぜいは軽機関銃までで、重火器の操作については習わなかったという。

 

 増山によると、日本共産党東京都委員会の財政部にいた小松豊吉は、「軍事闘争」の責任を問われ、中国へ人質として送られていたが、「日本から中国へ密航してきた青年たちを『日本人民軍』に編成して海岸で上陸作戦の訓練をしていた」その現場を目撃したと語ったという。増山は、「このことは、内地での『独立遊撃隊から人民軍への発展』を目指した『軍事方針』とは別に、中国の地で何者かが『日本人民軍』をつくろうとしていたことを実証するものであり、重大な証言といわなければならない」と書いている。

 

 日本共産党は、当時北京に日本革命の戦闘司令部を設置し、青年たちに革命教育と軍事教練を施し、北京から革命放送を行って、日本の労働者に革命を宣伝、煽動し、あわよくば日本への上陸も考えていたのである。

 

 4、武装闘争の終焉

 

 しかし、日本における「武装闘争」は、国民の厳しい非難を巻き起こしただけで、何ら見るべき成果はなかった。一九五三(昭和二十八)年七月、朝鮮休戦協定が板門店で調印され、戦火は止んだ。

 そして、同年十月病を患っていた徳田球一が、亡くなった(五十九歳)。

 

 このようにして、日本共産党の「武装蜂起」は、日本国民の支持を得られなかったどころか猛反発をくらい、一九五二(昭和二十七)年の第二十五回総選挙での共産党の当選者は、前回の三十五人からゼロへと転落した。後に宮本顕治が、「反共風土」と呼んで嘆いた日本の政治的土壌は、ほかでもない、自らの革命的、いや犯罪的愚行がもたらしたものであった。

 

 これらの人たちが日本へ帰国するのは、中国からの最後の引揚船白山丸が、一九五八(昭和三十三)年四月から七月にかけて天津−舞鶴の問を往復したときである。その引揚者数二千百五十三人、その七割が「学校」関係者であったという(袴田、河田、高倉らは別ルート)。「共産主義に対する警察史観」に基づいて「武装蜂起」を検討してみる。「血のメーデー事件」、「大須事件」、「吹田・枚方事件」のいわゆる「三大騒乱事件」は既に述べたように、党の「軍事方針」に基づいたれっきとした「軍事闘争」であった。

 

 これは、騒擾罪に問われて当然の事件であったが、騒擾罪に問われたのは、名古屋の「大須事件」のみであった。日本共産党は、党員弁護士を総動員して、「軍事方針」の隠蔽に成功した。そして、その罪は全て下部の党員に押しつけた。

 

 「五一年綱領」で暴力革命の軍事方針を定め、米日「反動政府」の転覆をはかったことは、「内乱罪」に問われて然るべき事態であったが、司法当局はそのような問題意識さえ示さなかった。一九四六(昭和二十一)年一月、内務省、取りわけ特高警察の役人たちの公職追放が行われた。一九五〇(昭和二十五)年十月になって追放解除があったが、警察は意気阻喪していた。警察官は慣れない「民主警察」にとまどい、日本共産党を「弾圧」するどころではなかったのである。

 

 5、成功するはずもなかった「武装蜂起」

 

 野坂参三が戦後唱えた「愛される共産党」、いわゆる平和革命論は、コミンフォルムの批判とこれに飛びついた志賀義雄、宮本顕治らの指導部揺さぶりによって、あっけなく撤回され、日本共産党は「武装蜂起の時代」へと突き進んだ。

 

 マルクス・レーニン主義という理論は、もともと暴力革命と暴力的独裁の学説であり、それに沿って全世界で数々の革命を成功させ、世界を震撼させたのである。

 宮本は「コミンフォルム『論評』の積極的意義」(一九五〇年五月『前衛』)のなかで、レーニンが革命の平和的発展について、「歴史上極めて稀な、極めて価値ある可能性、例外的に稀な可能性」に触れたことに言及しながら、しかし、「ロシア革命を歴史的に類推して、日本革命の『平和的発展』を類推することは、根本的な誤りとなる」と野坂理論、つまり平和革命論を一刀両断に切って捨てている。

 

 資本主義社会を、平和的かつ民主的に「根底から転覆させる」ことなどできるわけがない。だから、宮本の主張は、彼の好きな言葉で言うと、「原則的に正しい」。

 

 レーニンは革命戦術については、極めて慎重な人物であり、この問題に思考を集中させた。彼は「革命的情勢に関する学説」を注意深く練り上げた。レーニンは、「人民革命は、ある政党が勝手に行える事業ではない。人民大衆は、彼らの生活の客観的条件によって生まれる根深い原因に影響されて、闘争に立ち上がるものであり、資本主義の歩みそのものが人民を革命に向かって駆りたてる」と説いた。

 

 革命を「つくり出す」ことはできない。革命は、客観的に成熟した、革命的情勢と呼ばれる危機から成長してくるものである。革命的情勢なしには革命は不可能であり、どんな革命的情勢でも革命をもたらすとは限らない。では「一般的に言って、革命的情勢とはどんなものであろうか」と問い、次の三つの指標をあげている。

 

 (一)、支配階級にとっては、今まで通りの形で、その支配を維持することが不可能なこと。「上層」のあれこれの危機、支配階級の政策の危機が割れ目をつくりだし、そこから、被抑圧階級の不満と憤激がほとばしりでること。革命が到来するためには、普通「下層」がこれまで通りに生活することを「のぞまない」だけではなく、さらに「上層」がこれまで通り生活してゆくことが「できない」ことが必要である。

 

 (二)、被抑圧階級の欠乏と困窮が普通以上に激化すること。

 

 (三)、これらの原因によって、大衆の活動性が著しく高まること。大衆は、嵐の時代には、危機の情勢によっても、また「上層」のそのものによっても自主的な歴史的行動に引き入れられる。

 

 個々のグループや党の意思ばかりでなく、個々の階級の意思から独立した、これらの客観的な変化がなければ、革命は……原則として……不可能である。

 

 このようなレーニンの指標に照らせば、日本共産党の「武装蜂起」は、最初から失敗が運命づけられていたと言わなければならない。戦争に敗れて国は疲弊し、国民生活は困窮、混乱の極にあったし、東西冷戦は、朝鮮半島で発火しつつあった。しかし、国民は戦争に倦み疲れ、国中に厭戦気分が充満していた。戦争は勿論、ましてや革命的国内戦を受け入れる余地は、全くなかった。外国の共産党指導者(スターリンや毛沢東)にそそのかされたからといって、日本「人民」が、革命に立ち上がる情勢ではなかった。

 

 かくして「武装蜂起」は、失敗に終わった。全国いたるところに、労働者、青年学生の累々たる屍が横たわり、敗北した「革命家」たちが次々と刑務所へ送られていった。

 

 増山によれば、この「革命家」たちの刑期を累計すると、千年とも、一万年とも言われる。

 一九五六(昭和三十一)年十月八日号の「東大学生新聞」は、匿名の一学生が書いた次のような詩を掲載している。

 

    日本共産党よ

    死者の数を調査せよ

    そして共同墓地に手あつく葬れ

    政治のことはしばらくオアズケでもよい

    死者の数を調査せよ

    共同墓地に手あつく葬れ

 

       中央委員よ

       地区常任よ

       自らクワをもって土を起こせ

       穴を掘れ

       墓標をたてよ

 

    ……もし、それができないならば、

    日本共産党よ

    私達よ

    死者のために

    私達のために

    沈黙していていいのであろうか

    彼らがオロカであることを

    私たちのオロカさのしるしとしていいのであろうか。

 

 6、無責任な指導者たち

 

 宮本顕治一派の「五〇年問題」、徳田・野坂主流派の言う「軍事闘争」、この分裂した二つのネーミングをまとめて、私は「武装蜂起の時代」と特徴づけているのだが、この時代を通覧して一番驚くことは、日本共産党という政党の指導者の無責任さである。スターリンの指揮棒に踊らされて、日本国民は言うに及ばず、下部の党員を奈落の底に突き落としながら、誰一人として責任を取った者がいない。日本共産党こそ、丸山真男言うところの「無責任の体系」そのものであった。

 

 責任を取らなかったばかりではない。日本共産党自身が、党史に「党史上最大の誤りであり、悲劇であった」と書かねばならなかったような事態について、党規約前文に謳った「党は、その実践を『総括』して、党の政策と方針を検証し、発展させる」という態度で本格的な「総括」をしたことが一度もない。

 

 筆者は、武装蜂起に最も責任を負うべき人間の一人は、宮本だと考えている。

 コミンフォルムの日本共産党批判に飛びつき、徳田指導部を揺さぶり、党を分裂させた上、暴力革命路線に水門を開き日本共産党を「武装蜂起の道」に引きずり込んだ張本人は、志賀と並んで宮本である。下部の党員が火炎びんを投げ、蚊に喰われながら山に籠り、むなしい悪戦苦闘していたその時、本来なら銃を持って先頭に走らなければならない宮本は、妻百合子の生前から同棲していた百合子の秘書の大森寿恵子と新婚生活を楽しんでいたのである。

 

 

 第13章、六全協・馴れ合いと野合の「総括」―武装蜂起の時代() (全文)

 

 〔小目次〕

   1、スターリンの死と朝鮮戦争の終結

   2、総点検運動

   3、検証−内ゲバ

   4、莫大な戦費

   5、六全協

   6、「武装蜂起の時代」の責任問題

 

 1、スターリンの死と朝鮮戦争の終結

 

 一九五一(昭和二十六)年六月、朝鮮戟争は三十八度線近くで膠着状態に陥った。『スターリン秘録』(斎藤勉著)によれば、アメリカの外交官ジョージ・ケナンと国連ソ連代表ヤコフ・マリクとの間で非公式接触があって、にわかに和平機運が広がりはじめ、七月には休戦交渉が始まった。

 

 アメリカとの第三次世界大戦が不可避だと考えていたスターリンにとっては、時間稼ぎのために膠着状態が長引いた方が好都合であった。そもそも、アメリカをこの戦争で消耗させる目的もあった。米、中を戦わせることで中国をソ連に深く依存させるため、朝鮮と中国が休戦を懇請したにもかかわらず、容易に休戦協定に応じようとはしなかった。

 

 しかし、一九五三年三月にスターリンが死去すると、急速に戦争は終結に向かった。この年の七月二十七日、板門店で休戦協定が調印された。それにタイミングを合わすかのように、日本共産党書記長の徳田球一が約二カ月半後の十月十四日、北京で客死した。

 

 近年になって、不破哲三は、『日本共産党に対する干渉と内通の記録』(一九九三年九月)という著作において、終戦直後から、この朝鮮戦争の時期にいたるまでの期間に、宮本顕治を除く日本共産党の殆どの大幹部、野坂参三、志賀義雄、袴田里見らがソ連共産党の手先(スパイ)となり、活動資金を支給され、ソ連共産党の指示に従って活動していた経緯を詳しく暴露している。

 筆者は寡聞にして、これほど破廉恥な政治的文書を知らない。党派を問わずである。

 

 日本共産党は、戦前から「ソ連の手先」「売国奴」「民族の裏切り者」として、政府のみならず国民からも厳しく糾弾されてきた。不破のこの著作は、戦前だけでなく、戦後も最近にいたるまで、日本共産党の指導部がソ連に買収され、その手先として活動してきた事実を自ら実証する極めて重大な証言と言わなくてはならない。

 

 野坂、志賀、袴田らが、ソ連共産党から得た巨額の資金を個人的に着服し、私腹を肥やしていたという事実はないはずである。それらの資金は日本共産党の財政に繰り込まれ、党の活動資金として使われていたことは明白で、そうだとすれば、これは、日本共産党が党として受け取ったと考えるべき性質のものであろう。

 

 不破の著作が、野坂らが後に除名されているから現在の党とは関わりがないという趣旨だとしても、党として恥ずべき歴史であることは変わりなく、嬉々として暴露する不破の政治的感覚もまた異常というべきであろう。

 これが事実だとすれば、日本共産党は、このような人物を長年にわたって党の幹部に戴いて指導を受けてきたことの不明を国民の前に深く謝罪すべきであろう。

 

 本題に戻るが、不破は、この著作のなかで、「五〇年問題」、私の言う「武装蜂起の時代」について、スターリンや毛沢東らによる大国主義的な「干渉」だと描いている。

 しかし、これは違う。

 

 スターリンが、武装蜂起の指令である「五一年綱領」を日本共産党に与え、決起を促したことは、「干渉」などという言葉で表現される事態ではない。

 ある家庭の夫婦喧嘩や子供の教育問題など内部の問題に隣の親父が首を突っ込んできた、というようなときに「干渉」と言うのはよろしい。しかし、自国の政府を武力で転覆せよという指示に従い、外国(中国)に基地を設け、放送局までつくって宣伝・煽動放送を行い、青年たちに軍事教練を施し、山岳地帯に軍事拠点(実際には、大したことはしていなかったが)をつくらせ、警察や税務署を襲撃し、皇居前の広場を血で染め、交通機関を襲撃し、列車の運行を妨害したのである。外国からの指令、指示に盲従、屈従して、ここまで破壊活動をしておいて、「干渉」を受けたでは済まされない。

 

 わが国の長い歴史のなかで、外国の指導者(スターリン)の指揮棒に振り回され、彼らの政策遂行の道具として、自国政府の転覆をはかった政党は日本共産党以外にはない。

 朝鮮戦争は終結し、戦火が止んだ。

 

 もはや、後方撹乱の必要もなくなった。このようにして、「武装蜂起」も終結に向かうのである。一九五四(昭和二十九)年夏、北京機関の代表、野坂参三、紺野与次郎、河田賢治、宮本太郎、西沢隆二らが、モスクワに呼びつけられ、袴田も参加して、六全協の決議原文の作成に取り掛かった。勿論、これも、ソ連共産党の指導の下、とくに、ソ連共産党の理論家、スースロフやポノマリョフが関与して作成されたものである。この決議案にスースロフは「五一年綱領は基本的に正しかった」という文言を織り込むよう頑強に主張したと言われる。

 

 この「原文」は、もはや入手しようもないけれども、「『第六回全国協議会決定』……党活動の総括と当面の任務…」の冒頭には、「新しい綱領(五一年の軍事綱領)が採用されてからのちに起こったいろいろのできごとと、党の経験は、『綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している』」と述べている。

 

 すなわち、「わが国はあいかわらず米軍の占領下にあり、わが国の反動政府は、これまで通り、アメリカ占領軍の精神的・政治的支柱の役割を演じっづけている」というのである。しかし、色々と問題があったことも同時に指摘されており、(一)党の団結の問題(これについては、後で述べる)(二)党は戦術上でいくつかの誤りを犯した。誤りのうち最も大きなものは「極左冒険主義」であると指摘している。

 

 この「極左冒険主義」という言葉が、後に「極左冒険主義の時代」という言葉を生むのである。

 決議文は、最後に、「以上のべたような情勢のもとで、わが党の基本方針は依然として新しい綱領(五一年・軍事綱領)にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである」と結んでいる。

 

 2、総点検運動

 

 六全協の問題に入る前に、六全協で言われている「団結の問題」に触れておこう。これは、日本共産党が徳田主流派と志賀・宮本国際派に分裂し、兄弟牆(かき)にせめぎあいで、お互いに繰り返した査問、リンチのことである。

 

 日本共産党の歴史を紐解くと、いつの時代も査問やリンチの傷跡が見え隠れする。そして、このことが、それでなくとも暗い共産党の歴史を、さらに暗く、陰惨な色に染めている。

 

 戦前の査問、リンチ事件としては、宮本・袴田の「スパイ査問事件」(一九三三年)が有名であるが、これは、当時頻発したリンチ事件のたった一つの例に過ぎない。「尹基協射殺事件」(一九三二年)、「平安名常孝殺害未遂事件」(一九三二年)、「大串雅美リンチ事件」(一九三三年)、「波多然事件」(一九三四年)、「大沢武男事件」(一九三四年)など、数え上げればきりがない。

 

 戦後、一時的な休止状態を経て、査問、リンチ事件という「革命的伝統」が復活したのが、この時代である。

 

 徳田・野坂主流派と志賀・宮本国際派とに分裂後、東京周辺では、党員一人ひとりに生活や活動の報告や自己批判を強要し、批判的な意見を持つ者には「スパイ」「トロツキスト」だとレッテルを張り、「査問」と称する暴力、リンチを加えた。全国的に見れば、徳田・野坂の主流派の国際派に対する査問、除名が圧倒的に多かったが、国際派が優勢なところでは、逆に主流派を査問し、やっつけた。そして、他方に対する除名合戦、相手を非難する文書合戦が全党的に繰り広げられた。

 

 3、検証−内ゲバ

 

 来栖宗孝の論文、「日本共産党の五十年問題と党内抗争」によると、総点検運動は大きく二次に分かれて行われ、第一次は、一九五三(昭和二十八)年一月〜六月の間、スパイ、規律違反、金銭不正の摘発の名目で、「反対者」を追及し、党員二百六十九人を処分した。さらに、一九五三(昭和二十八)年十二月〜一九五四(昭和二十九)年五月の間には、第二次総点検運動が過酷非情に強行され、千二百人の党員が処分された。

 

 この総点検運動において、「スパイ査問」の名を借りたリンチやテロが阿責なく行われ、軍事闘争への参加を命じられた党員の悲惨な境遇、除名、脱党はまだしも、堕落生活への沈淪(ちんりん)、自殺者、発狂者が多数出て、癒すことのできないような深いトラウマ(精神的外傷)を党員と党組織に遺した。

 

 来栖は、その具体的な事例として、一九五一(昭和二十六)年二月、東大細胞のキャップ(長)である戸塚秀夫、都学連委員長の高沢寅男、不破哲三らに対して、武井照夫、力石定一、安東仁兵衛らが主役となって行われた「査問」について書いている。「査問は、まず、何人かの細胞員学生が殴りつけ両手を縛り、ついには焼け火箸を持ち出してくるという凄惨な状況が展開された。この査問は、証拠を挙げて追及するという事実に基づくものではなく、暴力を加えて『スパイ』であることを自供させようとするもので、戦前特高がやったのと同じやり方で自分たちがやったのである」

 

 この「査問」は、後で不破ら三人のアリバイが立証されて放免されているが、一九五二(昭和二十七)年六月に京都で開かれた全学連第五回大会では、国際派学生が、京都府委員会の指導する「軍団組織」から「査問」を受け、立命館大学の地下室に一括して監禁される事件があった。「それは、『査問』などというものではなく、殴る蹴るのリンチによる、『自己批判』と『帝国主義のスパイ』であるとの自白の強要であった。多数の者が、交代で革バンドで殴る、焼きゴテを胸に押しつける、それでも駄目なら鉄棒で殴る、特に女子学生に対してはスカートをめくって陰毛を焼くなどという文字通り破廉恥残虐なリンチを加えた」(「日本共産党の五十年問題と党内抗争」)

 

 筆者が学生だった頃、京都大学の大学院は、「五〇年問題」で満身創痍となり、這々の体で逃げ帰ってきた学生でいっぱいだった。「京都大学新聞」には表面も裏面も共産党の悪口を書いた記事が満載されていた。ある先輩からは、すんでのことで、京都・四条河原町の橋の欄干からムシロに簀()巻きにされたまま川に放り込まれるところだったという話を聞かされ、恐ろしくて震え上がった記憶がある。

 

 「五〇年問題」のあと、党から除名され、離党した党員が集まり、全国の同志を糾合し、共産主義労働党が結成された。これがまた、離合集散して分解していって各派の「過激派」グループが結成された。

 

 後に「新左翼」と言われた「過激派」が繰り返した陰惨な「内ゲバ」も、大きな目で見れば、日本共産党の戦前、戦後のリンチとテロの歴史的系譜につながるものであり、党内テロリズムの延長線上にある。日本共産党の外で行われたという点から見れば、「場外乱闘」のようなものであろう。

 

 日本共産党の歴史を研究する時、諸文献において、「査問」とか、それに伴うリンチとテロが、共産主義運動における一種の逸脱行為、脱線として措かれているのをよく見かける。

 しかし、査問やリンチは、実は共産主義とは双子の兄弟、もっと言えば生まれながらに二人の体が合体しているシャム双生児のように、分かちがたい関係にある。世界の共産主義運動を研究すれば、査問やリンチの歴史のない共産党というものはどこにもない。

 

 共産主義運動の創始者であるレーニンは、一九二〇年に定めた「コミンテルン加入の第十条」の十四項で、「全ての国の共産党は、不可避的に党に入り込んでくる小ブルジョワ分子を党から系統的に清掃するため、党組織の人的構成の定期的粛清をおこなわなければならない」と定めた。

 これである。

 

 つまり、いやしくも共産党を名乗る政党は、不断に入ってくる階級的異分子を党から排除するために、絶えず党を粛清することによって党を清めなくてはならないのである。

 これが、共産党において査問が常態化する理由である。

 現代の刑事訴訟法には、「事実の認定は証拠による」とあるが、共産党の「査問」においては、中世の糾問手続きと同様に「自白は、証拠の王」である。「査問」では、最初から結論が決まっているのであるから、自白しなければ拷問して自白を引き出すよりほかはない。

 

 スターリンは一九三〇年代、大粛清を行い、推定一〇〇〇万〜二〇〇〇万人の労働者や農民を強制収容所に送り込み、そこで殺した。毛沢東も、「文化大革命」を発動して、約一〇〇〇万人の中国人を殺害した。

 これは、スケールの大きな全国規模での「査問」とリンチだったのである。この点を理解しなければ、これらの大悲劇を理解できないのであるが、詳しくは別の機会に述べた

 

 4、莫大な戦費

 

 小学校で運動会をやるにも、それなりの費用が掛かる。ましてや、軍事組織まで編成して「武装蜂起」を実行に移したのであるから、相当の費用が掛かったはずである。これは、当然のことであろう。

 

 元々金銭感覚の鈍い私は、この点を全く失念していたが、畏友・宮地健一は鋭く指摘していた。

 宮地は、「武装蜂起の時代」に日本共産党が必要とした経費を、「朝鮮『侵略戦争』参戦戦費」としてとらえ、概算している。

 結論から言えば、一三三七億円である。

 

 ただ、この数字には、いくつかの点でさらに厳密な検討が必要である。実際の金の出所が不明なケースが多い上、当時と現在の貨幣価値を換算する比率、ソ連共産党や中国共産党から貰った政治資金の額とその為替レートによって、金額に大きな変動が生じるからである。

 

 ()、武器の調達と保管のための費用

 火炎びんは、数百本使用されており、実際に製造された火炎びんは、千本に達すると思われる。爆破事件も、未遂を含めると十六件あり、使用・保有ダイナマイトは、数十本と推定され、入手方法は不明ながら数千万円掛かったと思われる。

 

 ()、中核自衛隊員・独立遊撃隊員・祖国防衛隊員約一万人の生活費

 これらの隊員の多くはレッドパージで失職した党員からなっており、その生活費は当然党から支給されたと考えるべきで、宮地HPによれば、(イ)一万人×六十カ月×十万円=六〇〇億円、(ロ)非合法軍事委員会の非戦闘要員が二千人いたと仮定して、二千人×六十カ月×十万円=二一〇億円。(イ)と(ロ)を合わせて、七二〇億円と計算している。

 これは、あくまでも現金に換算した数字であって、実際には、党支持者(シンパ)に寄生したり、妻を働かせたり、あるいは、窃盗をはたらくなどの様々な方法で調達されたと思われる。

 

 ()、地下非合法アジト・合法事務所設置費

 これは、全国に三百数十カ所あり、合法、非合法の裏表二重の事務所があったので、七百カ所×十万円×六十カ月=数十億円。

 

 ()、人民艦隊船舶調達費・密航の運行費

 「人民艦隊」の艦船は、宮地HPによれば、「人民艦隊十五隻」とあるので、船舶購入、船員確保と人件費、往復密航費など合わせると膨大で、少なくとも数十億円。

 

 ()、北京機関の維持・運営費

 「北京機関は、北京西郊にあり、周囲は鉄条網をはった高い塀で、中国公安部隊が守備していた。新築された専用の大邸宅は、幹部用の二階ビルだった」(伊藤律著『回想録』)。北京機関の存続期間は、六年と十一カ月だった。専任のスタッフが数十人いたというから、その人件費と邸宅の建築費、合わせて十億円(ただ、中国の場合は、現金による支出ではなく、現物出資であったと考えるべき)。

 

 ()、北京党学校の維持・運営・学生の生活費

 この学校は、三年二カ月存続し、生徒数は、千数百人から約二千人いたとされ、その居住、衣服、食費などはことごとく、ソ連共産党、中国共産党が負担した(『日本共産党の七十年』)。宮地HPによれば、その額は一〇〇億円を超えると試算されているが、その多くの部分は、現物給付であったと考えられる。

 

 ()、自由日本放送局開設の費用・運営費

 日本向け短波放送の運営期間は、三年八力月で、作業班三十人、電信班二十人。これらの職員の生活費もソ連と中国が負担した(『日本共産党の七十年』)。放送設備費に約二・二億円、人件、生活費として約二・八億円、合わせて概算五億円。

 

 宮地健一は、以上の数字を概算して(あくまでも概算ではあるが)千数百億円と試算している。

 

 では、これらの「戦費」がどこから調達されたかを、見てみよう。

 ()、先ず党員やシンパからの献金(カンパ)であろう。これが、数十億円。

 ()、「トラック部隊」による中小企業の乗っ取り、計画倒産による企業財産の略奪。

 ()、さらに、「トラック部隊」の取り調べを通じて、元駐日ソ連大使館二等書記官ラストボロフから大村英之助を通じて共産党に四五万ドルが手渡された事が確認されており、当時の為替レート三百六十円に物価指数二百倍として、三二四億円となる。

 ()、そのほか、先に述べたように、ソ連の崩壊に伴い秘密公文書が公開され、戦後、野坂や袴田を通じて、巨額の政治資金が日本共産党に流れ込んでいることが判明している。

 

 いずれにせよ、日本共産党が、「武装蜂起」を財政的に支えるために、「トラック部隊」による中小企業の収奪、略奪のほかに、ソ連・中国共産党による巨額の財政支援を受けていたことは明らかである。

 

 田中角栄元総理が、首相在任中ロッキード社から五億円の賄賂を収受し、有罪となった。これは、本人も認めているように「万死に値する」罪である。

 

 しかし、日本共産党は、外国の党や政府から、巨額の政治資金を受領し、自国の政府転覆(実際には、縷々(るる)述べたように、朝鮮戦争の後方撹乱であったが)をはかったにもかかわらず、何ら罪に問われることがなかった。

 

 5、六全協

 

 一九五四年夏、モスクワで六全協原文が作成された。

 それは直ちに北京に持ち帰られ、北京機関の野坂らを経て、日本の軍事委員長志田に伝えられた。私はこの「密書」を持ち帰った男を知っている。筆者が、その時の事情を聞きに訪れると、ただ震えるだけで、静かに死なせて欲しいと懇願するのみであった。

 

 『日本共産党の七十年』の年表によると、一九五五(昭和三十)年一月、岩本厳を介して志田が宮本に会見を求めて、六全協開催の計画を伝え協力を求めた、とある。

 

 しかし、これは事実だとは思えない。実際には、それ以前から志田と宮本の水面下での交渉は続けられており、その内容は、志田の部下であった吉田四郎の証言によれば、「五一年綱領」の承認と引き換えに、宮本を党指導部に復帰させること、さらに復帰後のポストをどうするかという「人事案件」を巡る駆け引きであった。

 

 その時の交渉内容は、「五一年綱領」の承認と引き換えに、「スターリン人事」、つまり、野坂を第一書記に、そして「軍事闘争」で比較的無傷であった宮本を常任幹部会の責任者にするという人事案件であった。宮本は喜んで同意した。

 

 我が国の最も“偉大”なマルクス主義知識人である石堂清倫(きよとも)は、この時代の証言として、「六全協で、共産党の主流派と国際派との手打ちがあった。手打ちといっては気の毒だが、宮本が志田に自己批判書を提出したとの噂であったから、本当は志田主導というところだろう。この席上で、全員が五一年綱領をそろって承認しているが、あの極左冒険主義の原典である綱領の承認が国際派の党への復帰の条件であったのは、まちがいない。志田がそれだけの力を持っていたのは、うしろにソ連共産党と中国共産党がいたからである」と書いている。

 

 宮本は、この時提出した「自己批判書」を自分が党の支配権を握るや、すぐさま廃棄してしまった。しかし、石堂のこの証言は、信じて良いと思う。

 

 当時、党の最高人事を自ら決定していたのは、自力で革命に勝利した中国共産党のみで、西側で最強のイタリア共産党やフランス共産党でさえ、人事についてはソ連共産党政治局の承認を得ていた。

 

 監獄から出獄して雌伏十年。宮本は時節到来を予感したのであろうか。「宮本がだんだん自信をもってくるのがよく分かった。駅のプラットホームで、大きく股を開き、口笛を吹きながら片足をトントンとゆすっていた」と当時の秘書の別所が書き記している。

 

 6、「武装蜂起の時代」の責任問題

 

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」。これは、兵家のならいである。人間の歴史は、この繰り返しである。共産主義の革命家と言えども、革命に成功すれば、レーニンやスターリン、毛沢東のように、「神」となつて、「廟」に祭られる。

 

 スターリンのように、一旦「廟」に祭られたが、後に撤去されるということもある。しかし、とにかく戦いに負ければ、獄中に朽ち果てなければならない。

 

 獄中に朽ち果ててこそ、人々は紅涙を流して墓参りしようというものだが、日本共産党の指導者は逃げまわるだけで、誰一人として責任を取ろうとしなかった。

 

 伊藤律 徳田の右腕であった伊藤は一九五一(昭和二十六)年秋に北京へ渡り、「自由日本放送」の仕事に携わる。伊藤が中国へ渡ると「北京機関」指導部内の力関係がガラッと逆転していた。徳田は痛を患い、既に力を失いつつあった。野坂は、延安時代の中国共産党のかつての部下たちが駆け参じてくれたおかげで、たちまち力をつける。袴田も、戦前のモスクワ留学に加えて、一九五一(昭和二十六)年と一九五四(昭和二十九)年のモスクワ詣ででソ連共産党との間に特別の人脈をつくり出したのであろうか、たちまち横柄な態度を示しはじめ、伊藤に対しては、「伊藤君」などと「小僧っ子」呼ばわりをしたという。

 

 伊藤は一九五二(昭和二十七)年十月、突然「北京機関」で逮捕され、ゾルゲ事件や戦前戦後のスパイ容疑で、野坂参三や西沢隆二らによる「査問」を受けた。

 

 そして、アメリカから帰国したアメリカ共産党員北林トモについての彼の自供がゾルゲ事件発覚の一つの糸口になつたとして、北京郊外の監獄に実に二十七年間にわたって「幽閉」されることになった。「伊藤律問題」については、渡部富哉の研究によって、伊藤の冤罪はほぼ完全に解明されている。

 

 徳田が北京に客死したあと、徳田の右腕であった伊藤に「武装蜂起」の全責任を、日本共産党の指導部全員でおっかぶせた。これが真相であろう。

 

 志田重男 宮本との間で、「六全協」と「党の団結回復」を話し合ったあと、志田は忽然と行方不明となってしまった。党内には、「武装蜂起」の責任を追及する声がごうごうと渦巻いていたから、責任回避のためどこかへ「逐電」したのであろうと噂されていた。ところがどっこい、志田は、東京・駒込神明町の待合「お竹」に連日連夜通いつめ、遊蕩三昧の生活を送っていたというのである。それがばれたのである。当時話題の雑誌『真相』(一〇二号)は、「共産党はどこへ行く」という特集号で事実を暴露している。

 

 『真相』によると、志田の遊興は「数百万円、少なく見積もっても千五百万円」という。「お竹」の女将の話では、裏庭にはPさん(志田のこと)のお蔭で離れ座敷が一軒建ったと言う。

 下部の党員が、命がけで火炎びんを投げている時に、日本共産党の軍事委員長は芸者を上げて、遊び惚けていたと言うのである。

 

 

 兵本達吉(ひょうもと・たつきち)略歴

 

 昭和13(1938)年、奈良市生まれ。京都大学在学中、日本共産党入党。53年、中央委員会勤務員となり、党国会議員秘書に。ロッキード事件やリクルート事件、北朝鮮による日本人拉致事件の真相解明に努めたが、平成10(1998)年、党を除名された。最近はマルクス主義やソ連崩壊の研究に打ち込んでいる。

 

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 〔関連ファイル〕

   『日本共産党の戦後秘史(2)北朝鮮拉致事件と査問・除名、北朝鮮帰国事業と日本共産党

   『逆説の戦後日本共産党史』武装闘争関係の全ファイルメニュー

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