日本共産党の戦後秘史(2)
北朝鮮「拉致事件」と日本共産党
北朝鮮「帰国事業」と日本共産党
兵本達吉
(注)、これは、兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社、2005年9月)の内、2つのテーマを転載したものである。一つは、第2、3、11章から、北朝鮮拉致事件に触れた箇所の全文抜粋である。もう一つは、第21章・北朝鮮「帰国事業」(P.325〜341)の全文である。全体は30章・467頁からなり、第1章「獄中十八年」から、第30章「崖っぷちに立つ日本共産党」までの戦後日本共産党通史になっている。彼は、1998年、北朝鮮拉致事件問題で除名になるまで、共産党国会議員秘書をしていた。それだけに、党本部内における情報も随所に散見される。このHPに転載することについては、兵本氏の了解をいただいてある。
なお、別ファイル『日本共産党の戦後秘史(1)』で、日本共産党の武装闘争=「武装蜂起の時代」12、13章の全文を転載した。このファイルを読まれる方が、本書全体を購読されれば幸いである。
〔目次〕
第2章、 「転向」の問題より――北朝鮮拉致事件の箇所 (全文抜粋)
第3章、 徳田球一・宮本顕治確執の原点より――北朝鮮拉致事件の箇所 (全文抜粋)
第11章、武装蜂起の時代(六)より――北朝鮮拉致事件の箇所 (全文抜粋)
第21章、北朝鮮「帰国事業」と日本共産党 (全文)
『日本共産党の戦後秘史(1)』「武装蜂起の時代(七)(八)」第12、13章の全文
〔関連ファイル〕 健一MENUに戻る
『北朝鮮拉致事件と拉致被害者・北朝鮮帰国者・脱北者救出運動』全ファイル・メニュー
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と在日朝鮮人、日本共産党
『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』金正日擁護政策
『不破哲三が萩原遼を朝鮮総連批判で除籍』萩原除籍と兵本除名との共通性
『除籍への萩原抗議文と批判メールへの党回答文』萩原除籍と兵本除名との共通性
柳原滋雄HP『善意の批判者をパージして成り立つ日本共産党』萩原除籍と兵本除名
れんだいこ『日共の詭弁、フジテレビドラマと兵本除名問題』兵本除名の真因
金国雄『在日朝鮮人帰国事業の考察』1〜32
参考資料『在日朝鮮人の帰還事業』資料多数
google検索『兵本達吉と共産党』
宮地コメント−朝鮮労働党と日本共産党との関係
〔小目次〕
3、不破哲三の国際路線転換と兵本除名・萩原除籍との直接的関連
4、拉致事件に関する日本共産党の妨害・不作為=北朝鮮支援データ
5、犯罪的不作為=北朝鮮支援をおこなう宮本・不破の思想的根源
朝鮮労働党と日本共産党とは、レーニン型前衛党という点において、21世紀現在でもまったく同質である。そして、世界のコミンテルン型共産主義運動、および、スターリンのコミンフォルム型運動において、歴史的に同根である。この同質・同根という2党の共通性を認識しておかないと、北朝鮮拉致事件・帰国事業とそれらへの日本共産党の対応の不可思議さ、欺瞞的政策の謎を解くことができない。
1989年東欧革命・1991年ソ連崩壊によって、社会主義10カ国のレーニン型前衛党もいっせいに解体した。それとともに、ヨーロッパの資本主義諸国共産党は、ポルトガル共産党を除いて全滅してしまった。しかし、ポルトガル共産党は、1970年代初めに、ヨーロッパで一番早く、「レーニンの基本原則であるプロレタリア独裁理論と実態は誤り」として公然と放棄宣言をしている。
資本主義諸国では、日本共産党だけが、(1)プロレタリア独裁理論、(2)民主主義的中央集権制(Democratic Centralism)、(3)前衛党概念、(4)マルクス・レーニン主義理論・思想、(5)共産党名というレーニン型前衛党の5大原則を、隠蔽・訳語変更などの欺瞞的スタイルで堅持している。そのスタイルとは、(1)(3)(4)について、ヨーロッパ共産党のように、公然とした放棄宣言を一度もしていないことによるからである。よって、21世紀において、これら5原則すべてを堅持しているのは、残存する一党独裁国の4党と資本主義国の日本共産党という5党だけになった。
なお、日本共産党が、(3)前衛党思想・概念を堅持しているのか、それとも、放棄したのかというテーマに関して、誤解・錯覚を解いておく必要がある。というのも、マスコミ報道によって、「日本共産党が前衛党概念を放棄した」と誤解している人が多いからである。真相は以下である。共産党は、2000年第22回大会において、42年ぶりに規約全面改定をした。以前から、「規約前文」中に綱領内容と重複する文面が入っていた。重複文の中に「前衛党」という日本語があった。改定にあたって、重複文を削除するとともに、その中にあった「前衛党」用語も事務的に削除した。不破哲三は、前文削除理由の報告において、「前衛党思想・概念」を高く評価した。当然、放棄宣言などしなかった。マスコミがそれを錯覚して、「共産党が前衛党概念を放棄した」と誤った報道をしたことが、誤解の原因である。ただし、共産党が、それ以後、「前衛党」という日本語を隠蔽し、使わないようにしているのは事実である。この詳細な分析は別ファイルで行った。
『規約全面改定における放棄と堅持』 『「削除・隠蔽」による「堅持」作戦』
2、日本共産党の社会主義規定・朝鮮労働党との関係の変遷
1970・80年代、ソ連・東欧社会主義国の政治的腐敗、自由・人権抑圧、経済的停滞などの実態が浮き彫りになった。その否定的側面が、地下出版(サムイズダート)や亡命者情報によって、大陸地続きのヨーロッパへと大量に流れ込んだ。それは、イタリア共産党・フランス共産党・スペイン共産党・イギリス共産党を中心とするユーロコミュニズムを産み出した。運動の方向は、公認ロシア革命史、および、レーニン型前衛党の基本原則の根本的再検証に向かった。その結末が、1990年代、東欧・ソ連・資本主義国を含むヨーロッパ全域におけるレーニン型前衛党の全滅である。
『コミンテルン型共産主義運動の現状』ヨーロッパでの終焉とアジアでの生き残り
日本においても、宮本顕治・不破哲三らは、その事態にあわて、困って、社会主義国規定をいじり出した。(1)社会主義国は生成期の段階にある→(2)社会主義への道に踏み出した国と、社会主義を目指す国に分別する→(3)東欧の事態は、革命などではなく、資本主義への反革命・逆行である→(4)ソ連の崩壊をもろ手を挙げて歓迎する→(5)ソ連はそもそも社会主義国家ではなかったと、社会主義国規定をころころと転換してきた。さらに、不破哲三は、北朝鮮拉致事件での追及・質問を受けて、(6)現在、中国・ベトナム・キューバは社会主義への道に踏み出した国である。しかし、北朝鮮はそれに該当しないと、北朝鮮外しの苦し紛れ報告をした。
しかし、日本共産党と朝鮮労働党との関係史は複雑である。1)、共産主義友党関係→2)、金日成誕生祝強要・朝鮮労働党分派結成疑惑(=1972年新日和見主義事件)→3)、大韓航空機爆破事件での批判・決裂→4)、中国共産党との共産主義友党関係回復後に、朝鮮総連を党大会に来賓招待→5)、朝鮮労働党日本支部に当たる朝鮮総連・「学習組」との友好関係をさまざまな形で復活・強化、という経過をたどっている。それら両党関係の歴史は別ファイルで分析した。
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と在日朝鮮人、日本共産党
3、不破哲三の国際路線大転換と兵本除名・萩原除籍との直接的関連
不破・志位・市田らは、1997年第21回大会で、前年1996年に脳梗塞で倒れた宮本顕治に引退を強要した。その勢いをかって、第21回大会と2000年第22回大会において、「宮本秘書団私的分派」メンバーのほぼ全員10数人を常任幹部会員・幹部会員から解任・格下げによる排斥をした。日本共産党史上、これほど見事に、党内外に悟られないで成功した、代々木本部内における2大会連続の「宮廷革命」はないであろう。それら経過の詳細は、別ファイルにある。
『不破哲三の宮本顕治批判』〔秘密報告〕日本共産党の逆旋回と4連続粛清事件
『不破哲三の第2回・宮本顕治批判』〔秘密報告〕宮本秘書団を中核とする私的分派
不破哲三は、この「宮廷革命」によって、宮本顕治を上回る代々木党本部内の絶対権力を手に入れた。党内路線において、(1)2000年第22回大会の規約全面改定、(2)2004年綱領全面改定を、それぞれ42年、43年ぶりに行った。それだけでなく、(3)国際路線の大転換を強行した。
1950年代・60年代前半までの華やかなりし国際共産主義運動は、見る影もなく消滅していた。日本共産党は、ソ連共産党・中国共産党・朝鮮労働党とは完全に決裂・対立していた。唯一の共産主義友党国家だったルーマニアは、チャウシェスク夫妻銃殺で崩壊した。資本主義国唯一のDemocratic Centralism堅持・ポルトガル共産党とは、ソ連評価などで意見が対立していた。国際的に見れば、日本共産党の共産主義友党は一つもなく、完全に孤立状態に落ち込んだ。不破哲三の野望は、宮本引退強要・宮本私的分派全面解体の成功と平行して、党内路線の全面改定をし、その一方で国際共産主義運動路線の大転換に向かった。
それが、1998年、中国共産党との共産主義友党関係の回復である。さらに、2000年、朝鮮総連を党大会に来賓招待し、その後も、朝鮮労働党日本支部である朝鮮総連との共産主義友党関係の維持・強化を図っている。
彼が目指す新路線は、まず日本共産党・中国共産党・朝鮮労働党(=朝鮮総連)という3党による「東アジア版ミニ国際共産主義運動システムの再構築」と言えよう。その最中で発生したのが、(1)1998年国会議員秘書兵本達吉の査問・除名事件であり、(2)2005年元赤旗平壌特派員・赤旗外信部副部長萩原遼の解任と査問・除籍事件である。
本書にあるように、(1)兵本査問・除名の真因は、彼が、北朝鮮支援を狙う党本部の妨害・抑止にもかかわらず、北朝鮮拉致事件に介入しすぎたことである。(2)萩原解任・査問・除籍の真因は、彼が、北朝鮮批判・北朝鮮帰国者救出運動を行い、朝鮮総連の犯罪加担責任を追及した行為である。
『不破哲三が萩原遼を朝鮮総連批判で除籍』萩原除籍と兵本除名との共通性
『除籍への萩原抗議文と批判メールへの党回答文』萩原除籍と兵本除名との共通性
柳原滋雄HP『善意の批判者をパージして成り立つ日本共産党』萩原除籍と兵本除名
れんだいこ『日共の詭弁、フジテレビドラマと兵本除名問題』兵本除名の真因
日本共産党内における北朝鮮拉致事件・北朝鮮批判・北朝鮮帰国者救出運動のプロフェッショナルである2人の除名・除籍事件の性格は何か。それは、2人が、朝鮮労働党・朝鮮総連との共産主義友党関係を復活・強化しようとする大転換路線にたいする「目障りな邪魔者」になったからである。それは、不破哲三が、レーニン型前衛党の鉄則に従って、「邪魔者は殺せ」という党外排除をしたことの完全証明である。
4、拉致事件に関する日本共産党の妨害・不作為=北朝鮮支援データ
不破・志位・市田らが、北朝鮮拉致事件の解明、拉致被害者救出にいかに消極的で、むしろ、解決を妨害してきたのかという事実については別ファイルでも検証した。現在の日本の政党において、日本国民が切実に求める拉致被害者救出要求にたいし、これほど妨害し、抑圧し、不作為=何もしないという政党犯罪をしているのは、日本共産党だけであろう。そのデータを確認する。
〔資料〕 日本共産党が「やったこと」「やろうとしないこと」
北朝鮮拉致事件 |
やったこと |
やろうとしないこと |
1、日朝両党共産主義友党期 1945〜1970.3.31よど号事件 |
(この期間、拉致作戦は開始されていない) |
|
2、日朝両党関係決裂期 1970.3.31〜1996 1977・78「拉致作戦」開始〜 |
1988.1、宮本顕治が、大韓航空機爆破事件は、北朝鮮が起したと指摘 1987・88、橋本敦参議院議員の国会議員秘書兵本達吉が、党と橋本議員の了解の下に、拉致被害者調査、家族会結成に動く 1988.3、橋本議員が、兵本調査データに基づいて、まとまった拉致問題の国会質問を初めてした |
橋本議員の国会質問以外、何一つ具体的行動を起していない |
3、事実上の共産主義友党回復期 1996〜2002.9.17 |
1998.7.21、不破哲三は、中国共産党と共産主義友党関係を回復した 1999.1、12、不破哲三衆議院議員が、2回、国会で、無条件で日朝国交正常化をせよとの質問をした 2000.11.20、日本共産党は、党大会に朝鮮総連来賓招待・参加をさせたことにより、朝鮮労働党と事実上の共産主義友党関係を回復した 警察庁を呼んで、「拉致の証拠を見せよ」と要求した 2002.9.12、志位委員長は「拉致は疑惑の段階」と発言した |
不破国会質問は、橋本議員の拉致問題追及質問と決定的に異なっている。拉致問題棚上げ要求であり、その追及をしていない 警察庁を呼んだ以外、何一つ具体的行動を起していない |
4、金正日の拉致13人承認後 2002.9.17〜現在 |
橋本・不破2人の国会質問行動と内容の大宣伝キャンペーンを展開した。「しんぶん赤旗」「共産党HP」「全戸配布ビラ」数千万枚、「宣伝カー」千数百台以上で、共産党こそが拉致問題解明に取り組んできた政党と主張している |
「2人が国会質問をした」との大宣伝キャンペーン以外、何一つ具体的行動を起していない 1)、日本共産党の「朝鮮労働党の拉致犯罪批判の大論文」公表 ―していない 2)、朝鮮総連経由での朝鮮労働党への具体的要求つきつけと「公開質問状」発表 ―していない 3)、朝鮮総連の拉致事件への関与疑惑の独自調査団結成と調査開始 ―していない 4)、よど号グループの即時日本強制送還要求を、朝鮮総連=朝鮮労働党に突き付ける ―していない 5)、拉致被害者家族への面接調査と、家族会が行なっている署名運動への全面協力 ―していない 6)、帰国者5人の生活保障要求の政府への具体的提案 ―していない 7)、拉致議連 ―最初から参加していない |
いったい、なぜ、不破・志位・市田らは、このように拉致被害者救出運動・北朝鮮帰国者救出運動を妨害・抑圧し、不作為犯行をやるのだろうか。それどころか、さらに、それらの運動に積極的に取り組む党員を除名・除籍にするのだろうか。それらの性質は、まさに政党犯罪と言えるよう。
このような犯罪的不作為を行う思想的根源はどこにあるのか。
解答の一つは、コミンテルン・コミンフォルム型共産主義運動の行動原理の残滓に潜むと想定することである。
(1)、世界の前衛党に共通する規約「党員は、全党の利益を個人の利益の上におき、だれでも党の上に個人をおいてはならない」。日本共産党規約も戦前から同じで、2000年第22回大会前まで、78年間一貫して、党の利益と党員個人の利益を対比させてきた。不破哲三は、第22回大会規約全面改定において、この文言を削除した。しかし、それは、日本共産党得意の「隠蔽=堅持スタイル」にほかならない。
(2)、暗黙の国際的規律「各国前衛党は、国際共産主義運動の利益や共産主義友党関係の利益を上におき、どの党もそれら国際共産主義的利益の上に自国民の利益をおいてはならない」。
こんな国際的規律はありえない、暗黙にも存在しなかった、と断定する共産党員や左翼も多いと思われる。
その存在を証明する証拠は多数ある。ここでは、3つの証拠のみを挙げる。
〔証拠1〕、ソ連共産党と東欧各国前衛党との関係の実態
ソ連衛星国の東欧各国と前衛党は、ソ連共産党からこの国際的規律厳守を強要されてきた。スターリン時代だけでない。ブレジネフ・ドクトリン「制限主権論」もそれである。東欧各国の前衛党は、実態としての国際共産党本部=ソ連・ソ連共産党の利益を上におく命令にたいして、自国民の利益を上におき、または、擁護するような主張をすることが一度もできなかった。それを主張すれば、ユーゴ・チトーのように破門された。東欧革命・ソ連崩壊後、この国際的規律の実態が存在したことは、完全に証明された。
〔証拠2〕、ソ連共産党によるシベリア抑留60万人・死亡6万人と日本共産党との関係の実態
これは、スターリンによる日本国民60万人大量拉致犯罪である。しかも、6万人死亡実態は、零下40・50度のシベリアにおける「未必の故意による極寒(マローズ)殺人犯罪」だった。それにたいし、当時の徳田・野坂・宮本ら指導部は、ソ連共産党・スターリンを批判するどころか、「スターリン賛美・ソ同盟擁護」の言動を繰り返した。彼らは、スターリンの拉致犯罪にたいし、60万自国民の利益を主張・擁護しようともしなかった。それは、ソ連共産党に隷従し、ソ連共産党の利益を日本国民の利益の上においた日本共産党の反国民的な犯罪的対応だった。その詳細は別ファイルに書いた。
『「異国の丘」とソ連・日本共産党』ソ連共産党の犯罪と日本共産党の反国民的な対応
〔証拠3〕、ソ中両党による「朝鮮戦争参戦」命令と日本共産党の「後方基地武力かく乱戦争」
兵本達吉は、この実態を「武装蜂起の時代」と名付けて、全8章にわたり解明した。日本共産党は、それこそ、ソ中朝3党と社会主義3カ国が起した朝鮮侵略戦争勝利の利益を上におき、日本国民の利益を無視した。日本共産党の武装闘争実態は、朝鮮侵略戦争との関係、および、ソ中両党による「参戦」命令との関係で位置づけないと、その国際的本質を見失う。それとともに、宮本顕治は、「参戦」した党員兵士の利益を見捨てるウソをついた。これは、彼による党史偽造歪曲犯罪となった。
『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党
『嘘つき顕治の真っ青な真実』宮本顕治が五全協共産党で中央レベルの活動をした証拠
現在の共産党は武装闘争に関係・責任もないと真っ赤な嘘
『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』武装闘争実践データ追加
私(宮地)は、1977年・40歳で除名になるまでの15年間、名古屋市・愛知県で民青・共産党の専従をしてきた。中間機関専従とはいえ、これらの共産党犯罪に共同責任を負っている。ただ、正規の会議における党中央批判発言への報復としての警告処分・専従不当解任にたいする党内での1年8カ月間のたたかい、「日本共産党との民事裁判」2年間で、いやおうなく気づかされた次のことがある。
『日本共産党との裁判・第1〜8部』党内闘争と裁判経緯
ポルトガル共産党は、ヨーロッパで一番早く、「レーニンのプロレタリア独裁理論と実態は誤り」と、レーニン型前衛党基本原則の一つの放棄宣言をした。よって、21世紀で残存している「レーニン型前衛党の5原則堅持政党」は、一党独裁国前衛党4党と非政権の日本共産党という5党だけである。世界で残存する5つのレーニン型前衛党は、通常の国民感覚とはまるで異質で、理解不能な国際共産主義的価値基準で、国際的路線・政策選択をする政治的・軍事規律組織だということである。
このように考えなければ、不破哲三が、国際路線を大転換させ、朝鮮労働党の前衛党犯罪にたいし、なぜこれほどまでに、その被害者救出運動を妨害・抑圧し、朝鮮労働党=朝鮮総連を批判する党員を除名・除籍し、不作為の政党犯罪行為をするのか、を理解することができないのではなかろうか?
第2章、「転向」の問題より――北朝鮮拉致事件の箇所 (全文抜粋、P.25〜31)
北朝鮮の拉致事件解明を妨害
さて、歴史の記述としては時系列的に順序が逆になってしまうのだが、北朝鮮による日本人の拉致問題について触れておく。
この拉致問題に関わった経過については、既に『正論』(一九九九年一月号)に詳しく書いているので、興味があれば参照していただきたい。
北朝鮮に拉致されていた五人が帰国したが、国民はどうしてこの人たちが二十四年もの長きにわたって放置されてきたのかを問題にしている。
政府と政治の責任である。しかし、目に余るのは旧社会党、日本共産党などの革新政党である。社民党にいたっては党本部のホームページに、拉致された人たちが帰ってきた後も、「拉致というのは、日朝国交回復を妨害する人たちがつくりだした謀略である」という記事を掲載したままになっており、国民から非難され、はじめて掲載を取り止めるというお粗末さである。
しかし、拉致問題追及の最大の妨害勢力は、何といっても日本共産党にとどめをさすだろう。日本共産党でこの拉致問題を担当してきたのは、私だが、拉致問題が世間から殆ど問題にもされていなかった頃は別として、次第に問題となってきてからは、終始一貫、執拗に筆者の拉致問題に対する追及を妨害するようになった。
はじめは、大したことはなく、調査に行くのに出張許可が必要なのだが、いつまでも決裁しないで放置しておく程度だった。嫌がらせである。次は、外国の大使館へは、一人で行くなという指示である。大使館へ一人で行くなといわれたら、二人で行けばよいと思う人がいるだろうが、共産党員というものは、上級の顔色を窺いなが行動するので、同行してくれる人があるわけがなく、この指示は事実上行くなということになる。
一九九七(平成九)年四月二十三日、北朝鮮の万景峯(マンギョンボン)号という船が、金正日の国家主席就任(当時そう考えられていた)を祝うカンパを集めるため神戸新港にやって来ることになった。在日朝鮮人の良心的な人たちの間から、期せずして「この拉致問題を早急に解決する必要がある。そうでないと我々在日の立場などあったものではない」という声が上がった。万景峯号には、北朝鮮の労働党統一戦線部副部長、京寿一(カンジュイリー)か、李成哲(リセンチェル)が乗っているので、これと直接交渉して欲しいということになった。この話を外務省の加藤良三(当時、アジア局長、現在駐米大使)に連絡したところ、その話に外務省も乗せて欲しい、拉致問題の解決のためには何でもやってみる必要がある、ということであった。
こういう話を私の一存で認めるわけにはいかないので、党の国会対策部に相談すると、駄目だという。こちらから外務省に持ち込んだ話を断るわけにもいかない。それに拉致された人たちの家族の惨状は見るに忍びないものがあった。私がどうしても神戸まで行くと頑張ると、党は外務省の職員を案内することだけは認めると言い出した。私は神戸で在日のリーダーに外務省の職員を引き合わせた後、帰京するつもりだったが、私たちと万景峯号の間を仲介してくれるはずの人物が、「これは、金正日の決裁事項だ、自分ごときが出る幕ではない」と言っておびえ出したので、翌二十三日、万景峯号まで、直接出掛けた。この時の細かいやりとりは省略する。
後日の「査問」では、与えられた権限の範囲を超えたものとしてねちねちと叱責された。
その次は、「報告」である。次から次へと同じことを報告させる。国際部、書記局、国対、朝鮮問題に明るい人……。あげくのはてには文書にして報告しろと言う。たらい回しにして、うんざりさせる。
最後は「プロジェクトチーム」の立ち上げに関して生じたトラブルである。一九九七(平成九)年、横田めぐみさんの拉致が明るみに出るや世論は沸騰、国会では衆参両院で「拉致議員連盟」が結成され、たちまち百数十名のメンバーを数えるにいたった。
しかし、拉致、拉致と騒ぎ立てるわりには、資料と情報に乏しく、国会では私が殆ど唯一の情報源であった。この頃から、議連や政府筋に、拉致問題の調査を目的としたプロジェクトチームを立ち上げるという話が出た。この話も自民党内から、あまり拉致問題で大騒ぎをすると、日朝国交回復交渉の妨げになるという声が出て、線香花火に終わるのだが、確かにそのような話はあり、私が間もなく退職するという話をすると、「プロジェクトチーム」に入る気はないかと誘われた。その頃既に私が党から追放されるという噂が立っていて、同僚に規律違反の事実を調べさせているという。驚いて、党の最高幹部である常任幹部会員(党では常幹という)に調べてもらったところ、「あはは、君はもうあかん」という電話が掛かってきて、もう一度驚いた。私は退職後、もう退職しました、拉致問題はやめましたとも言えないだろうと考えていたので、私の立場で、その仕事に就けるのか、つまり離党することが条件かを確認する必要がある、と思った。
日本共産党は「兵本氏は、五月に東京・赤坂の料理屋で警察庁の警備公安警察官(こんな警察官というものはない)と会食し、国会議員秘書を退職したあとの『就職』を斡旋してもらうための『面接』を受け、自分の『採用』を事実上依頼する態度を取りました」と繰り返し「赤旗」で宣伝し、私の「名誉」を傷つけ、自分たちの党の態度を正当化した。私は五日間、約二十時間にわたって吐き気を催す「査問」とやらを受けたけれども、絶えず追及されたのは「拉致」との関連であった。しかし、党の発表には、拉致のらの字もない。しかも、私の方からさも就職を頼みにいったように、あべこべに描き出している。
私に対する「査問」の全二十時間はテープレコーダーに記録され、保存され、統制委員会の広瀬という人物が管理している。このテープを裁判所に提出を命じてもらうつもりである。これを聞いてもらえば、日本共産党の「査問」なるものの実態が、白日の下に明らかになるだろう。
では、日本共産党はどうしてそこまで拉致事件の解明を恐れるのだろうか。わが国では北朝鮮が社会主義国だと思われている。それがこのような醜悪な犯罪を犯したことが分かると、社会主義の信用(もうそんなものはとっくの昔になくなっているが)が低下する。有事立法の関連もある。有事立法というのは、事が起こった時に、洪手傍観するのか、それとも何かやるのかという問題である。北朝鮮が物騒でおっかない国であれば、当然最小限の備えは必要であろう。拉致などということが判明すれば、有事立法を推進している人たちに有利な世論をつくりだすことになろう。だから、これは暴くなというわけだ。また、日本共産党は朝鮮労働党との関係修復をはかっており、その伏線として二〇〇〇(平成十二)年十一月の党大会には、在日朝鮮人からさえも見放されつつある朝鮮総連を来賓として招待した。一方では拉致された日本人を見殺しにしつつ、朝鮮総連の顔色を窺うとは、何という「売国奴」であろう。
日本共産党は、一貫して拉致問題の究明を妨げてきた。拉致に関する大きな動きが出ても「赤旗」は黙殺を続けた。それはそうだろう。彼らのなかでは拉致など存在しないのだから。
拉致問題真相究明の最大の妨害者は、日本共産党前委員長の不破哲三である。
二〇〇〇(平成十二)年国会で行われた党首討論を、私はたまたま見ていて愕然とした。森総理とのやりとりのなかで、不破は拉致の問題を取り上げ、「拉致などというのは単なる疑惑ではないか」「疑惑は疑惑としての水準で交渉しなければならない」と訳の分からない議論を展開しはじめた。要するに拉致というのは何の根拠もない推理に過ぎない。そんな証明もされていない問題を日朝交渉に持ち出すと交渉が行き詰まるのは、目に見えている、と言うわけだ。森総理がさすがにむっとして、「交渉をやめろというのか」と反撃すると、不破はぺたんと座り込んでしまった。
これにも懲りないで、二〇〇一(平成十三)年の「赤旗」新年特別号で、再びこの問題を、緒方国際部長との対談という形式で取り上げている。
不破「いわゆる拉致問題の『宣伝』だけを聞いていると、一〇〇%証明ずみの明白な事実があるのに、相手側はそれを認めようとはしない、日本政府も弱腰で主張しきれていない、そこが問題だ、と言った議論になりやすいのですが実態はそうじやないのですね」
緒方「そうなんです。全体として疑惑の段階で『七件十名』のうち物証のあるものは一つもない」
不破「国会の議論としては初めての提起でしたから、翌日(マスコミの人が)訪ねてきて『私はあれで目からウロコが落ちました。拉致は証明済の事実だと思い込んでいました。そうではなかったのしすね。心強く思いました』と言いました」
このように自画自賛している。二十年以上、家族や支援者が死に物狂いになって突き止めた事実を、もう一度迷宮入りさせ、闇のなかに葬り去ろうという意図がありありと浮き彫りにされている。拉致された人たちの家族、いや日本国民は、そこまでして北朝鮮の犯行にふたをしようとする、この不破の態度を忘れも、許しもしないだろう。
宮本顕治の生涯には、「災い転じて福となす」場面が次々と現れてきて、実際、驚かされる。しかし、「最後に笑う者が、一番大きく笑う」という諺もある。宮本顕治が、最後に大きく笑ったかどうか、読者諸氏は、その顛末を知ることになるだろう。
第3章、徳田球一・宮本顕治確執の原点より――北朝鮮拉致事件の箇所 (全文抜粋、P.36〜38)
拉致事件問題についての日本共産党の反論に反論する
北朝鮮による日本人拉致事件の真相究明に奔走していた私に対し、日本共産党がいかに系統的に執拗に妨害を加えてきたか、『正論』や『文芸春秋』においてその悪辣な企てを暴露したところ、共産党機関紙「赤旗」は、二〇〇二(平成十四)年十一月十七日号において、一面に、『文芸春秋』編集長に対する抗議文という大きな記事を載せ、四面と五面には、私が秘書をしていた元参議院議員橋本敦の名においてまさに大々的な反論を発表した。
いまや拉致事件は全国民の関心事であり、憤激の的である。
この拉致事件について、日本共産党が不破委員長(当時)を先頭にその真相解明の妨害をしていたとあっては、政党として国民の前に立場もくそもあったものではない。
そこで驚きかつあわて、反論にやっきとなっているのであろう。
しかし、事実は頑固である。反論すればするほど恥の上塗りとなる。
明治維新以来、日本人が外国の国家機関によって、日本の領土から誘拐されるという事件は一件もなかった。しかも拉致事件は金正日政治軍事大学という特殊工作員の学校で特別の訓練を受け鍛えられた専門家の犯行であった。
私はこの事件についてよく講演に呼ばれるが、こう語ることにしている。「天文学で、ブラックホールと呼ばれるものがある。ブラックホールは音も光も電波でさえ吸い込んでしまうので、天文台で天体望遠鏡で撮影することもできない。しかし、世界中の天文学者が、幾多の天体観測を行い、観測事実を積み上げ、推理に推理を重ね、直接の観測はできないが、その確度は九五%以上だという。拉致事件も波打ち際に足跡を見つけたわけでもない。指紋が残っていたわけでもない。私がこの調査を始めた昭和六十三年には、『日本海アベック蒸発事件』と呼ばれていた。何故『蒸発』したのか、人間が『蒸発』するということが本当にあるのか? 『拉致』だとしたら、誰が何のために『拉致』するのか、『北朝鮮』が拉致したとすれば、何のためか、間接的な証拠でもあるのか、私はこの問題に強い関心を持つジャーナリストと連絡を取りながら、推理に推理を重ねて北朝鮮の犯行であることに絶対の確信を持つにいたった」と。
日本共産党は、一九八八(昭和六十三)年の参議院予算委員会での橋本敦の質問で、この問題を取り上げ、当時の国家公安委員長の梶山静六が「この拉致事件については、北朝鮮の犯行である疑いは十分濃厚でございます」と答弁したことをもって、「わが党がこの問題に先鞭をつけた」などと言っている。しかし、これは拉致事件の経過を知らないからこそ言えることで、この橋本質問については産経新聞以外どのマスコミも報道しなかったし、この梶山答弁を受けて、警察庁も外務省も拉致された人たちの奪還に向けて積極的に動こうとはしなかった。
梶山答弁は、拉致事件解明のせいぜい出発点であって、決してゴールではなかった。
私事にわたって恐縮だが、これは大阪の朝日放送・石高健次や産経新聞・阿部雅美らと私が手に手をとって協力し合いながら、十年以上にわたって解明に努めたものであって、この間、日本共産党がこの事件のために何かをしたという話は寡聞にして聞いたことがない。
もう一つ重大なことを書いておこう。拉致は、厳しい訓練を受けた通常四人の特殊工作員が北朝鮮からやってきて直接実行する。しかし、拉致現場、つまり日本国内の周辺には必ず支援する者がいる。工作員は上陸地点(接岸ポイント)の選定と拉致の対象の選定を行う。そして上陸した工作員をかくまうアジトの提供、犯行現場までの実行部隊の移送、拉致したあと、出迎えのボートがくるまでの隠れ家の提供などいろんなサポートは日本国内にいる者が行う。
拉致事件は二十四〜五年前の事件であるが、犯人が国外にいるので、公訴時効はいまだ完成していない。幇助犯としていくらでも逮捕し、尋問、訴追できるのである。
二〇〇二(平成十四)年十一月十八日の新聞各紙を読むと、警察庁は十件十八人のほかに、さらに七十〜八十人の被拉致者がいる可能性があると見ているという。ことは重大である。警察庁、海上保安庁、公安調査庁は一丸となって、今こそ全力をあげて真相の解明に努め、一網打尽にこれら凶悪犯人どもを検挙してもらいたい。刑務所というのは、彼らのためにこそあるのだ。
第11章、武装蜂起の時代(六)より――北朝鮮拉致事件の箇所 (全文抜粋、P.163〜167)
拉致ドラマをめぐる日本共産党への反論
フジテレビ系で「完全再現! 北朝鮮拉致…‥二十五年目の真実 消えた真実の謎!」という番組が放映された。これは北朝鮮による拉致事件を早くから追及してきた新聞記者、国会議員秘書、テレビディレクターの三人を主人公にしたノンフィクションドラマで、国会議員秘書というのは筆者のことである。
午後十一時に番組が終了したとたん、筆者の自宅の電話が鳴りっぱなしとなり、それは翌日まで続いた。みんな「君がそこまでやっていたとは知らなかった」「感動した」と言ってくれた。
勿論、電話をくれる人は一部の友人、知人に過ぎないから、他の多くの視聴者が「感動」してくれたかどうかは分からない。なかには馬鹿ばかしいと思った人もおられるかもしれない。
しかし、これまで、これほど多くの人に「感動した」と言われたことがない。それで、実を言うと筆者も「感動した」。
しかし、これとは別の意味で敏感に反応した者がいる。
日本共産党である。放映から二日後、「赤旗」で早速噛みついてきて、「視聴者を欺く『ノンフィクションドラマ』の虚構」という仰々しいタイトルの約二千字の記事を掲載したのである。
記事を要約すると、次の三点になる。
(一) 日本共産党で拉致事件に取り組んできたのは、兵本一人のように描かれているが、ウソである。政府に拉致を認めさせた「橋本質問」は橋本敦元参議院議員自身が質問に取り上げようと提起して、橋本元議員の指示のもとに兵本は、調査をしたにすぎない。
(二) 兵本が日本共産党から除名されたのは、「拉致問題」が理由のように描かれているが、全く事実に反する。議員秘書を退職した後の「就職」斡旋を党に隠れてこつそりと公安警察に依頼していたことがばれて除名されたのである。
(三) 兵本が家族の会を結成した時期と除名された時期が食い違っている。時間と空間を飛び越えた虚構である。
「ヒットラーは『ウソも百ぺんつくと真実となる』と言った」という言い回しで相手を攻撃するのが日本共産党の常套手段であるが、最近は日本共産党自身がこのヒットラーの遺訓に従って平然としてウソをつくようになった。筆者には、「赤旗」記者の友人が何人かいるが、その一人は自社のことを「ウソハタ」と言うのが常であった。そろそろ社名を変えてはどうだろう。
この記事については、ここで簡潔に反論しておく。
(一)、拉致問題について、橋本元議員が問題を提起して私に調査を依頼したというのは、全く事実に反する。橋本元議員が「赤旗」号外でそう書いていることは承知している。記事は「この橋本論文に兵本氏は今日にいたるまで反論できていません」としているが、反論しないのは、橋本元議員が、そういう論文を党から書かされていることが分かっているからである。
日本共産党という組織は、除名された人物と最も親しかった人物に批判、中傷、誹謗を書かせるのである。もし書かなければ、同罪とされるのである。昔、文学者の中野重治が除名された時、彼が青年時代から最も仲良しであった蔵原惟人に批判文を書かせた。近くは、副委員長の袴田里見が除名された時にも、最も親しい友人に批判文を発表させた。驚いた袴田が、その友人に電話をすると、友人はオレにも生活があるからと言って電話口で泣いた。
日本共産党は何十年という年月をかけて築きあげた人間関係をズタズタに引き裂くのである。
日本共産党内で、「北朝鮮による拉致事件」を手掛けたのは、正真正銘筆者一人であった。「この番組の制作にあたって、国会で政府を追及した当事者である橋本氏に対する取材は一度もありませんでした」と「赤旗」は書いている。
二〇〇二(平成十四)年九月十七日、小泉総理が北朝鮮を訪問して以来、私の埼玉の狭いマンションに数十社、百人以上のマスコミ関係者が取材に押し掛けてきた。私が、「橋本さんに取材してくれ」と言ったところ、関西のテレビ記者が、「勿論取材にいったけれども、橋本さんは拉致された被害者の名前さえ知らなかった」と答えた。
それはそうだろう。あのテレビ番組のビデオがあれば、もう一度見て欲しい。筆者がつくった質問の要項がはっきり映っている。橋本元議員は、「橋本質問」の前日、その質問の筋書きと集めてきた資料に二〜三時間目を通しただけなのである。
(二)、「赤旗」は、私が日本共産党から除名されたことと「拉致問題」は何の関係もない、と書いている。では、私は何のために除名されたのか。
二十五年間、日本共産党の法務委員会の仕事を担当させられて、法務省、検察庁、警察庁、最高裁判所などといわば「ケンカ」することを仕事としてきた人間の退職後の「就職」を、警察庁が斡旋するなどということが本当にあり得るか。日本共産党は、そんなことがあり得ないことは百も承知で、「兵本は『就職』の見返りに『警察のスパイ』になることを約束した」というシナリオを考え出した。全く荒唐無稽な言いがかりに過ぎない。警察庁は、現職の公設国会議員秘書に「スパイ」になるよう勧誘し、その代償として「就職」を斡旋するというようなことはしていない。
党は、筆者が退職すれば「拉致事件」から離れると思っていたのに、退職後も、何やら「プロジェクトチーム」に入って、引き続き「拉致」に関わると分かって驚いたわけである。何とか、「拉致」から引き離そうとしたけれども、なかなかウンとは言わないので、業を煮やして除名に踏み切ったのである。
しかし、「兵本は『拉致、拉致』と言うので除名した」とも言えないので、退職後の「就職」の斡旋をこともあろうに公安警察に依頼したので除名したという説明にした。普通の党員ならのけぞってびっくりするだろう。
(三)、家族会結成時期と私の除名時期とが食い違っているのは事実で、これはドラマの構成上分かりやすくするため、そうなったにすぎない。しかし、ドラマを見た人は分かると思うが、家族会を結成したから除名になったなどとはどこにも出ていない。
(四)、記事はさらに、二〇〇〇(平成十二)年十月の衆議院での党首討論に触れている。この件については既に書いているので、詳しくは述べない。不破は拉致された五人が帰ってくるとあわてふためき、あの質問は、拉致というのは重要な問題であるから足場を固めて掛かれ、という趣旨の質問であったと弁解した。北朝鮮に対してガンガンとやらなくてはならない時に、自国の総理に、日本が言っていることは、何の根拠もないではないかと国会で追及することは足場を固めるどころか、日本の主張の足場を掘り崩すことである。
ところで、今回の「赤旗」記事によると、「不破哲三委員長のこの質問が昨年の日朝首脳会談に結びついたのです」とあり、思わず絶句させられた。記事を書いた記者、そして編集者には、物事の因果関係というものが全く理解できないのであろうか。
(五)、最近、日本共産党は「拉致事件」を国会で真っ先に取り上げたのは我が党であるとさかんに宣伝している。私が「査問」を受けている時に、査問委員長の小林栄三は、「拉致、拉致」と言うなとわめきたてた。「拉致」という言葉さえ嫌った党が、先駆的に取り組んでいたと言うのだから言葉もない。拉致事件について、日本共産党が反論を重ねれば重ねるほど深く自らの墓穴を掘ってゆくように思われる。
大須事件
本論に戻ろう。前項に続いて武装闘争の実態である。一九五二(昭和二十七)年七月七日夜の「大須事件」を、事件に最も詳しい名古屋の宮地健一の研究資料と警察側の資料「回想…戦後主要左翼事件」を元に再構成してみる。(以下省略)
第21章、北朝鮮「帰国事業」と日本共産党 (全文、P.325〜341)
〔小目次〕
4、帰国後の生活
今項では、党内部の話ではないが、日本共産党史の一部として記憶されるべき、在日朝鮮人たちの一九六〇年代の帰国事業をとりあげたい。在日朝鮮人たちの民族移動とも言うべき日本から北朝鮮への熱狂的な帰国運動のことである。
一九五九(昭和三十四)年十二月十四日、みぞれ降りしきる新潟港の中央埠頭は、九千の人なみで埋めつくされていた。「マンセイ(万歳)」「さよなら」の歓声とどよめきのなか、在日朝鮮人九百七十五名を乗せたソ連の軍艦を改造した貨客船クリリオン号とトボリスク号が岸壁を離れて行く。「帰国船」第一船の歴史的な出航である(張明秀著『謀略・北朝鮮「帰国事業」の深層』)。
在日朝鮮人たちの帰国事業は、一通の手紙から始まったとされている。一九五八(昭和三十三)年八月十一日、神奈川県川崎市、日本鋼管の社屋に隣接した中留耕地に住む朝鮮人たちの集落で、祖国朝鮮に「帰国」して、祖国の社会主義建設に参加したいという熱烈な希望を表明した手紙が読み上げられて決議され、金日成首相に送られた。その手紙(決議文)には次のようにしたためられていた。
「(一) 我々は日本政府の迫害と蔑視、虐待のなかで困難な生活を続けるより、直ちに祖国に帰り祖国の建設に参加することによって、祖国の平和的統一、独立を獲得する活動に参加するであろう。
(二) 日本政府は我々のこの正当な要求を直ちに受け入れ、帰国に対する万端の措置を講じてくれるよう要求する」
川崎市の集会の翌日、八月十二日には朝鮮総連中央は「八・一五解放十三周年記念中央大会」を開催して金日成首相宛の「在日同胞のこのような切実な念願(帰国)に対し格別な配慮を賜る事を仰望」する決議を採択した。
これに対して金日成首相は、その「切実な念願」に応え、同年九月八日、平壌で開かれた共和国創建十周年記念慶祝大会での演説で「共和国政府は、在日同胞が祖国に帰り、新しい生活が営めるよう全ての条件を整備するでありましょう。われわれはこれを民族的な義務と考えています」と述べた。
しかし、これらは基本的に金日成によって仕組まれたヤラセの演出(マヌーバー)であった(金昌烈著『朝鮮総連の大罪』)。
帰国事業を最初に発案したのはほかならぬ金日成であった。北朝鮮では朝鮮戦争で多くの青壮年が戦死し労働力人口が激減した。また、工場などの施設や建物も米軍の爆撃によってことごとく壊滅した。この状態から国家を再建するために、てっとり早い労働力の補充として金日成は在日朝鮮人を日本から「調達」することにしたのである。
この計画を実行するに当たって、北朝鮮政府は在日朝鮮人たちが自発的に祖国に帰ることを希望する形を取らせることにしたのであった。
その方針を受けて朝鮮総連は、東京荒川支部に対して「日本では貧しさや差別で生活が苦しいから、本国に帰りたいので受け入れて欲しい」という手紙を書けと指示した。しかし、荒川支部は「それほど生活は苦しくない」と断ったので、川崎市中留分会にお鉢が回ってきたのであった。
八・一五解放十三周年記念中央大会で、総連議長・韓徳銖が強調したのは、「我が国の北半分に樹立された人民民主主義制度の優越性」であった。「一九六一年度には電力、石炭、セメント、化学肥料、漁獲高など重要産業の人口一人当たりの生産量で発展した日本を凌駕することになり、穀物生産では人口一人当たり二石、服地は二十メートル以上、住宅は四百四十平方メートル、先進的工業・農業国として発展する」
この時の韓徳銖の演説内容、とくに一九六一年度に到達するとされる経済発展の未来予想は、その後帰国運動のあらゆる場面で喧伝されることになる。その内容は次第にエスカレートし、当時はまだ日本よりも高い経済水準にあったイギリス、フランスをも凌駕するとされるようになる(ちなみに、二〇〇二年現在、GDP比較において、北朝鮮は日本の百分の一以下である)。韓徳銖は、一九五八(昭和三十三)年十月の拡大中央委員会で「立派な祖国を持っている在日朝鮮人たちが差別と屈辱を受けながら、これ以上日本で悲惨な生活をする必要はどこにもない」とする見解を打ち出すとともに、帰国実現に向けて全国的な運動が組織され、署名運動、要請運動などのキャンペーンが繰り広げられ、熱狂的なマスヒステリーの状態が作り出されていった。
一方、日本政府はと言うと、これも実を言うと積極的であった。一九五七(昭和三十二)年三月の衆議院予算委員会で当時の岸信介首相が、社会党議員の在日朝鮮人の帰国問題についての質問に対して、「私としては帰りたいという人は帰した方が良いと思っているので、その支障をなしているような事情を十分検討して、そういう方向に進みたいと思う」と答えている。
また、一九五八(昭和三十三)年十一月には、自民党、社会党、日本共産党などの超党派による「帰国協力会」が結成されているが、その協力要請に対して次のように答えている。「平穏に戦前から日本に定住する朝鮮人は、帰国希望地が南朝鮮か北朝鮮かを問わず日韓会談とは無関係に国際法上、人道上の立場から解決したい」
他方、韓国政府はこの北朝鮮への「帰国運動」を知ると、「日本が韓国人を共産主義の奴隷に追いこもうとしている」として、自国民保護の立場から激しく反対した。韓国では、超党派による北送反対国民大運動が展開され、全国委員会が組織され、一九五九(昭和三十四)年二月から三月にかけての僅か二十日間に、七三五万人の人たちがデモや集会に参加した。
日本政府としては、当時日韓条約の締結が課題となっていたので、政府がこの「帰国問題」に直接関与するのは得策ではないと見て、間に国際赤十字や日本赤十字を立てて、「帰国問題」に当たらせた。
日本政府が在日朝鮮人の帰国問題に積極的であった理由は、二つある。一つは経済的な問題である。在日朝鮮人たちは貧しく、六〇万人のうち十分の一にあたる六万人が生活保護を受けていた。当時まだ、経済的に豊かではなかった日本としては、これが負担になっていたのである。
もう一つの理由としては、治安上の問題がある。本書執筆のための取材で知って驚いたのだが、戦前、終戦直後の日本共産党構成員の約三分の一弱は、在日朝鮮人であった。コミンテルンの一国一党主義の原則からして、また、日本の政党のうち日本共産党だけが、朝鮮半島の植民地化に反対したという理由で、在日朝鮮人の社会主義者、民族主義者はみな日本共産党に入党した。
先の一連の「武装蜂起の時代」の項で詳しく触れたように、この時代の武装闘争は、「朝鮮戦争」の北朝鮮側に対する後方支援であった。したがって在日朝鮮人の党員は政治的に目的意識が明確であり、彼らにとっては、「他人ごと」ではなかった。「祖国防衛隊」に組織された朝鮮人たちは最も戦闘的で積極的な活動を展開したのは当然であった。一方、日本の治安当局から見れば、彼らは我が国の秩序を乱す危険分子である。
帰国を強く希望した在日朝鮮人の多くが、こうした危険分子であったから、彼らの帰国はいわば一石二鳥であった。「やっかい払い」もいいとこだったわけである。
このようにして、在日朝鮮人の帰国運動は次第に盛り上がっていったが、これを煽ったのがマスコミである(『週刊新潮』一九九七年十一月二十日号)。
日本の新聞は、北朝鮮を「地上の楽園」「驀(ばく)進する千里の馬」と称え、在日朝鮮人の帰国事業を強力に“後押し”した。その報道たるや金日成賛美一色で、「躍進する希望の国」として喧伝されたのである。
一九五九(昭和三十四)年十二月の第一次帰国船に先立って、主要各社はこぞって大物記者を香港−北京経由で北朝鮮に派遣し、探訪記を掲載した。入江徳郎(朝日)、秋元秀雄(読売)、坂本郁夫(産経)、清水一郎(毎日)、村岡博人(共同)といった顔ぶれを見るだけでも各社の力の入れようが分かる。
しかも、その記事たるや、北朝鮮、金日成の提灯持ちばかりであった。《「驀進する馬」北朝鮮、よくはたらく人々/飛行場変じてアパート》という大見出しの付いた一九五九(昭和三十四)年十二月二十五日付朝日新聞の入江徳郎特派員の記事を引用してみよう。
(戦争中、五十三万発、人口一人当たり一発以上の爆弾を受けた首都平壌はすっかり新しく再建され、五階建て、六階建て、長さ百メートルは楽にこすような素晴らしく大きい労働者用のアパートが林立している)(日本に追いつく五ケ年計画を千里の馬に乗せて北朝鮮中がわき目もふらず働いている。こんなに働いてみんな不満はないのかという質問に対して「冗談ではない、働けば働くほど生活が目に見えてよくなってくる。ボロボロの家から近代的なアパートに移れた。家賃はタダみたいに安い。米もタダみたいだ。目に見えて生活がよくなって行くので、うれしくてみな働きたくなる」)(千里の馬のけん引車は、もちろん金日成首相。三日前、帰還者百五十人と向かい合った金首相はちっとも飾り気がなく、親切な……町会長が隣近所の人々と笑いながら世間話をしているようだった)
各紙とも、
《十五万人の歓迎/不安もきえた日本人妻》(読売)
《怠け学生なし/授業料はみな国家で》(朝日)
《割り当てで無料保養/社会主義的温泉》(朝日)
《年々伸びる収穫/動乱の焼け跡から出発》(毎日)
《北朝鮮帰還/希望者ふえる一方》(朝日)
といったふうに、手放しの礼賛記事満載といった有り様であった。
この「帰国事業」の首謀者、いや陰謀を練った張本人が金日成であったこと、そして朝鮮総連がその手先として最も積極的に行動したことは疑問の余地はない。しかし、日本の側にあって、この「帰国事業」の片棒を担ぎ、在日朝鮮人を「地上の楽園」ならぬ地獄のどん底にたたき込んだ責任者は、日本共産党である。
「帰国事業」が計画されるや、超党派による「帰国協力会」が組織された。これには、社会党員は勿論、保守系や無党派の善意の人たちが参加していた。しかし、日朝友好協会や帰国協力会の要所には共産党員が配置され、最も積極的に動いていた。「帰国事業」には、多くのジャーナリストや文化人が宣伝に関わったが、一番有名な人物は、日朝友好協会常任理事だった寺尾五郎である。彼は日本共産党の宮本顕治の秘書をしていたことがあると言われるが、朝鮮問題に早くから取り組んでいた。彼は一九五九(昭和三十四)年四月、新日本出版社という共産党系の出版社から『三八度線の北』という北朝鮮探訪記を発表した。
この本について、『韓国のイメージ』(鄭大均著)は次のように解説している。「寺尾五郎の言説は、多くの日本人にはプロパガンダの受け売りを感じさせるものであったが、同書は当時の朝鮮物のなかでは群をぬくベストセラーであり、それは『帰還』か『在日』かで逡巡していた在日朝鮮人に北朝鮮行きを促す説得力をもっていた」
在日朝鮮人の全てが総連や北朝鮮の宣伝を鵜呑みにしていたわけではない。常識で考えて、朝鮮戦争で廃墟と化した北朝鮮がそんなに早く復興して、「地上の楽園」になるとは思えなかった。それどころか、かすかに洩れ伝わってくる情報では、貧困と政治弾圧の横行する「地上の地獄」だという説もあった。
しかし、寺尾は当時北朝鮮で進められていた「千里馬運動」(社会主義増産運動)について、「北」は第一次五カ年計画終了の一九六一年には一人当たり生産額で日本を追い抜くから、「日本が東洋一を誇っておられるのもあと一、二年だ」とか、「ソ連はアメリカを追い越し、中国は英国を追い越し、朝鮮はその北半分だけで日本を追い越すとしたら、世界はどうかわるであろうか」と書き立てた。
そして朝鮮語ができないという寺尾が、平壌の街頭でインタビューを試み、「とにかく、自分でも信じられない。日増しに自分の生活がグングンよくなるのだ。予想もしなかった生活になってゆく。うれしくて面白くて張り切り続けだ」という答を引き出している。しかも、寺尾は、「人は(こうした無作為な街頭インタビューでは)決して公式的な対外宣伝文句なんてはかないものだ」とご丁寧にも付け加えている。
ことあるごとに自分たちを蔑視、差別してきた日本人がここまで褒めるのであるから、本物であろうと在日朝鮮人たちが信じたとしても不思議ではない。この本は北朝鮮に期待を寄せる人を酔わせてベストセラーとなった。
寺尾五郎には後日談がある。一九六〇(昭和三十五)年八月に北朝鮮を再訪した際、清津行きの特急列車のなかで、日本から帰国していた青年たちから取り囲まれ、「この北朝鮮が地上の楽園だと? お前はこの国の現実を知っていたはずだ。一かけらの良心があれば、あんなウソ八百は書けないはずだ」「寺尾! お前の本を真にうけたからこそ、帰国船に乗ったのだ。無茶苦茶になった俺たちの人生をどうしてくれるんだ」と詰め寄られた。
寺尾は、この時のエピソードを紹介した文章で、「北朝鮮にも、不良はいるみたいだ」と書いて、もう一度有名になつた。
さらに、そればかりか、日本共産党は、党員の映画関係者を総動員して『チョンリマ』という北朝鮮の社会主義建設を称揚する宣伝映画をつくった。筆者も学生時代に勧められるままに何度も見たけれども、ありとあらゆる困難と障害をものともせず、着々と社会主義の建設にいそしむ北朝鮮の人たちの「英雄的な」姿を活写したもので、宣伝映画とは言え、迫力に満ちた社会主義リアリズムの傑作のように思われ、朝鮮は日本よりはるかに遅れた国だという「偏見」を吹き飛ばすような作品であった。これは、教職員組合などの手で、全国で上映され、大きな反響を呼んだ。
この作品がインチキ極まる共産主義の宣伝映画であったと知るのは、それから何十年もたってからのことである。
映画と言えば、吉永小百合が主演した『キューポラのある街』も心に残る作品である。共産党員作家の早船ちよの原作を映画化したもので、生活苦と民族差別にあえぐ朝鮮人の一家が、社会主義と祖国北朝鮮に希望を抱いて帰国してゆくというすがすがしい、心温まる秀作であり、各方面から映画賞を受賞した。
このように、朝鮮総連と日本共産党、そして左翼ジャーナリズムがつくり出した社会的雰囲気につられて九万三千人の在日朝鮮人(日本人妻千五百人をふくむ)が続々と北朝鮮を目指して帰っていった。
帰国船はいよいよ新潟港の岸壁を離れた。希望に胸をふくらませ、満腔の思いで日本をあとにした朝鮮人を乗せて船は「北」を目指して動きだしたのである。
ところが、この帰国船。外見こそ立派であったが、内部は全くの老朽船で、船内は腐ったペンキのような悪臭に満ちていた。船室やトイレも汚れ放題、また、冷蔵庫もなく、食堂には食べ物の腐敗臭が漂っていた。そして見たこともないような野暮ったいスカートをはいた女性接待員、とても「地上の楽園」からきた人とは思えなかった。
船内で出された食事も白米のご飯は赤みがかかって、すえたような異臭がした。肉はというと噛み切れないほど硬かった。塩や醤油だけの味付けで、調味料や香辛料は殆ど使われていなかった。日本の食事になれ親しんだ在日朝鮮人には、とても箸が出せるものではなかった。
早くも「とんでもない間違いを犯したのではないか」という不安が船内を支配した。
やがて帰国者の受け入れ港、清津港に到着した。清津は大都会だという触れ込みであったが、実際は閑散とした活気のない街であった。
清津港の岸壁に立ち並んだ出迎えの人たちの群れを目撃したとたん、不安は現実のものとなった。歓迎の人たちの服装ときたら、くず綿や木材などからつくった見すぼらしい“スフ”と呼ぶ繊維の服でどの顔にも生気はなく、やせていて一目で栄養不足と分かった。一見して貧困にあえぐ生活ぶりが窺われた。
出迎えた側の反応はどうであったか。北朝鮮で「帰国者」の受け入れ業務を担当したあと、一九六三年に韓国に亡命した呉基完が、元朝鮮総連幹部で帰国事業にも携わっていた張明秀に語った話がある。
「あの日はとても風が強く、みぞれが降っていました。それでも全員が興奮していました。一般の人民たちは、その前に私たちが宣伝したために、なにかみすぼらしい人たち、骨と皮ばかりの人たちが哀れな姿で帰ってくるのではないか、そんな人たちは感激の涙をながすのではないかと考えていたようです。さて、船が港に近くなるにつれて、乗客が甲板の上に全部上がってきて、手を振る。その人たちの表情が、こちらの人たちの目に見えそうになるまで近づいたとたん、私の後ろにいた群衆がワーツと殺到したんですよ、船に向かってね。ところが、船にいる人たちがはっきりと見えるようになったとたん、急に押す勢いがなくなった。船に乗っている人たちは、私たちが想像していたようなみすぼらしい人たちではなくて、本当に想像もつかない人たち、天から舞い降りてきたような人たちでした。服装なんか想像もつかないほど立派でした。私たちは本当にびっくりしてしまいました。だから、押す勢いもなくなったのです」
船内には不安と動揺が広がった。そして下船を拒む人も現れたが、現地の役人が引きずり下ろした(帰国前後の生々しい様子は、金昌烈著『朝鮮総連の大罪』に詳しい)。
帰国前には、当然「職業選択の自由」は保証され、希望する職業に就けるという約束であったが、帰国したとたんその約束は反古にされ、本人の希望とは関係なく、一方的に居住地と職業を指定された。たくさんの財産を持ちかえった者や、科学、技術の専門知識を持つ者を除いて、多くの人々は炭鉱や集団農場やただの荒れ地に送られた。
4、帰国後の生活
脱北者の支援活動をしている金昌烈の証言によれば、帰国者の生活は過酷なものであった。「北朝鮮の街はどこもわびしいたたずまいで、道路は舗装されていないデコボコ道であり、家は土壁がむき出しの見る影もないボロ屋であった。辛うじて雨露がしのげる程度の掘っ建て小屋に住まわされた人もいた。椅子やテーブル、タンスなどの家財道具は殆どなく、かまどと少しの食器があれば、いいほうであった。電灯はなく、あったとしても、暗い裸電球だった。食料は配給制で一日七百グラムほどの穀物が支給された。しかし、一日でも欠勤や遅刻、早退をすれば、その分の配給は削られた。野菜、卵、魚や肉、果物などの副食はよほどのことがない限り手に入らなかった」
実際の北朝鮮での生活は、帰国者が帰国前に想像していた「地上の楽園」とは程遠いものであった。
「地上の楽園」はともかくとして、彼らの日本での生活と比較しても格段の違いがあって、それが帰国者の不満となってしばしば爆発した。これが北朝鮮の人たちに不信感と警戒感を呼び起こした。金日成は、帰国同胞(キボ)に思想改造を命じ、思想改造にも適応できない人を政治犯管理所(強制収容所)へ送り込んだ。政治犯を収容する強制収容所と言うと、何か特別の重罪を犯した人物だと思いがちだけれども、例えば日本から帰国したごく普通の工場労働者が、北朝鮮の工場ではすぐ機械が故障するので、「日本の工場では、こんなに機械は故障しないよ」と言っただけで、資本主義を美化し、社会主義の祖国を侮辱した国事犯とされてしまうのである。
朝鮮語で「マグジャビ」という言葉がある。いや、あるそうだ。これは、「片っ端から捕らえる」という意味で、現在日本で大騒ぎとなっている「北朝鮮による日本人拉致事件」も、日本人が「マグジャビ」の対象となつた事件であると、張明秀は語っている。「マグジャビ」、つまり、北朝鮮で、日本からの帰国者が、「人狩り」に襲われた。
ある時、「スパイ事件」が頻発した。「帰国同胞のなかに、南の特務(スパイ)が含まれている」「日本で特務の訓練を受けた国際スパイが、帰国同胞を装っている」などと言って毎日のようにスパイが逮捕されていった。
また、北朝鮮には、「出身成分」という国民の分類基準がある。「出身成分」とは、その人の階級的出自(出身)のことで、生まれたときから七歳までの家庭環境によって、その人の思想、性格、資質、能力の全てを推し量る。しかも、その家系を三代にわたって調査するという徹底的なものである。
成分はまず、「核心階級」「動揺階級」「敵対階級」という三つの階級に大別され、その階級は、さらに細かく五十一の階層に分類される。「核心階級」は、独裁政権が依拠するところの支持基盤であり、「敵対階級」は、旧搾取階級、旧支配階級の残党という意味である。したがって、この階級は、革命的再教育若しくは絶滅の対象である。
そして、「日本からの帰国者」は、この敵対階級のなかでも下から二、三番目に位置づけられる。いわば、社会主義的カースト制度(本来このようなものがあるはずもないが)の最下層なのである。
日本からの帰国者、帰国同胞 (キボ)が最初からこのように位置づけられていたわけではない。しかし、日本からの帰国者には、戦後民主主義の影響を強く受け、批判精神が旺盛で、権利意識の明確な共産主義者や社会主義者が多く含まれていた。彼らは、北朝鮮の遅れた制度や文物に対して容赦なく批判を加えた。このことが金日成や労働党幹部の逆鱗に触れたのである。
在日朝鮮人と一緒に北朝鮮に渡った日本人妻には、「三年以内の日本への里帰り」が保証されていたが、これも勿論実現しなかった。ある日、金日成を見つけた彼女たちが、わっと金日成を取り囲み、口々に帰国を訴えた。この程度のことは日本では当たり前のことだが、北朝鮮では限界をこえた「不敬行為」とみなされて、顰蹙をかうことになった。張明秀の著作には、金日成の肩をなれなれしく叩いたがために逮捕され、結局は銃殺された金文輔という人物のことが紹介されている。
帰国者の多くは、強制収容所に送られ、そこで虐待を受けて絶命した。
平壌から東北へ百キロほど離れた「ヨドック郡政治犯収容所」、通称十五号管理所という強制収容所には、約五万人の政治犯が暮らしていたが、そのうちの約五千人が日本からの帰国者と言われていた。北朝鮮には十二の強制収容所があり、計二〇万人が収容されていると言うから九万三千人の帰国者のうち約二万人が強制収容所に送られたと推定される。
この収容所から脱出に成功した姜哲煥は次のように証言している。「祖国建設の意気に燃えて帰国したにもかかわらず、自分がなぜ収容所に入れられたのか分からない人が殆どであった。他の収容者から『半チョッパリ(日本人の蔑称)』と蔑まれ、厳しい労働と動物以下の扱いに、早死にする人が多かった。
収容所は、いずれは外に出られる人々がいる革命化区域と終身刑に相当する人々がいる完全統制区域に分かれていた。
食事は成人で一日あたり、五百五十グラムのトウモロコシを一カ月分まとめて支給された。副食は、ドングリで作った味噌をスプーン一杯分。それに塩が週に一回だけついた。
常に腹を空かせていたので、支給されたトウモロコシは半月で食べてしまうこともあり、そうなると、カエルの卵、ヘビ、鼠など手当たり次第に何でも食べた。
逃亡を図って捕まったり、保衛部員を殴るなど反抗したりした者は、月に一、二度行われる公開処刑で銃殺された」
近年我が国では、北朝鮮のおどろおどろしい内情を暴露する内幕物(インサイドストーリー)が次々と公刊されているが、そのなかにはしばしば強制収容所で呻吟し、なぶり殺し同然の目にあって殺されてゆく帰国者の姿が描かれている。
「地上の楽園」とは、実際には「この世の地獄」であり、「奈落の底」であった。しかし、帰国者にも、不安と予感のようなものはあった。彼らは、一家全員で帰国することは避け、家族の一部を日本に残した。そして先行隊の安否を見届けた上で、後行隊が出発することにした。到着したら手紙を出し、末尾に○印があれば、「すぐ来い」、×印なら「来るな」、「この国はすごい。万歳、万歳、万歳」や「雨が長く降っている」と書いてあったら「来るな」、「晴れたり、曇ったり」は「判断は任せる」など、符丁を決めて帰国していった。勿論、北朝鮮から送られてくる殆どの手紙には、「来るな」というメッセージが込められていたのは言うまでもない。
このようにして、「帰国事業」は急速にスローダウンしていった。年表を掲げておこう。
北朝鮮への帰国者数(日本人妻含む)
年 |
帰還者 |
累計 |
1959 |
2,942 |
2,942 |
60 |
49,036 |
51,978 |
61 |
22,801 |
74,779 |
62 |
3,497 |
78,276 |
63 |
2,567 |
80,843 |
64 |
1,822 |
82,665 |
65 |
2,255 |
84,920 |
66 |
1,860 |
86,780 |
67 |
1,831 |
88,611 |
68 |
0 |
88,611 |
86 |
0 |
93,340 |
「帰国事業」が始まった頃、北朝鮮は、日本から帰国してくる朝鮮人はみな失業者であり、貧乏人だと考えていた。ところが実際に帰ってきた人たちを見て仰天した。身なり一つをとっても、北朝鮮の人たちより、はるかに上であった。帰国事業が始まってみると、予想に反して「金のなる木」であることに気づいた。
そこで、北朝鮮は帰国者やその家族の献金によって、帰国後の処遇に優劣をつけるようになった。政府に多額の献金をした人には、ベンツが出迎えにきた。そして、一旦帰国すると、その人たちは、日本にいる朝鮮人から金を巻き上げるための「人質」となった。北朝鮮に寄付をしなければ、帰国した家族が、強制収容所に送られると露骨に脅迫され、膏血を搾り取るように金品を巻き上げた。日朝間の帰国協定では、帰国者一人が持ち帰ることのできる通貨は、四万五千円相当の英ポンドに制限されていた。そこで資産家や実業家は、現金、不動産などを総連に預けて帰国した。総連はこの資産を換金して本国政府に送金した。体よく巻き上げたわけである。
在日朝鮮人を「地上の楽園」ならぬ、地獄のどん底にたたき込んだ「帰国事業」の最大の責任者であり、それを仕掛けたのは金日成と朝鮮労働党、そしてその下僕として働いた朝鮮総連である。しかし、その脇にあって、共犯者として積極的にはたらいたのは、日本共産党であり、その責めは免れない。日本共産党が最初から「地獄のどん底」を「地上の楽園」と偽って、在日朝鮮人たちを「北」へ送ったと言うと少し言い過ぎかもしれないが、そこには社会主義者独特の「社会主義幻想」が作用していたことは間違いない。
そもそも政治責任は結果責任である。「そんなつもりではなかった」では済まない。さらに日本共産党は、北朝鮮が「地上の楽園」ではなく、「地獄のどん底」であることが明らかになった後でも、「帰国事業」を煽り続け、際限なく犠牲者を増やしていった。そして、宮本顕治と日本共産党は一九六〇(昭和三十五)年以後、四回も訪朝しながら、帰国者、とりわけ、日本人妻の生活状況を視察して、待遇の改善を北朝鮮政府に対して陳情してやるといったことを一切していない。追い出しておきながら、「アフターケア」がまるでないのである。
自分がやったことに対して、尻拭いをしない無責任体質がここでも、遺憾なく露呈していると言わざるを得ない。
昭和13(1938)年、奈良市生まれ。京都大学在学中、日本共産党入党。53年、中央委員会勤務員となり、党国会議員秘書に。ロッキード事件やリクルート事件、北朝鮮による日本人拉致事件の真相解明に努めたが、平成10(1998)年、党を除名された。最近はマルクス主義やソ連崩壊の研究に打ち込んでいる。
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〔関連ファイル〕
『北朝鮮拉致事件と拉致被害者・北朝鮮帰国者・脱北者救出運動』全ファイル・メニュー
『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と在日朝鮮人、日本共産党
『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』金正日擁護政策
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れんだいこ『日共の詭弁、フジテレビドラマと兵本除名問題』兵本除名の真因
金国雄『在日朝鮮人帰国事業の考察』1〜32
参考資料『在日朝鮮人の帰還事業』資料多数
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