除籍への萩原抗議文と批判メールへの党回答文

 

『朝鮮と私、旅のノート』における萩原遼の党改革意見

1998年兵本除名と2005年萩原除籍との同質性の再検証

 

(宮地作成・編集)

 〔目次〕

   1、萩原遼と私(宮地)との出会い

   2、不当除籍にたいする萩原遼抗議文 (全文)

   3、萩原遼除籍批判メールへの党中央回答文 (全文)

   4、『朝鮮と私、旅のノート』における共産党員萩原遼の党改革意見 (抜粋)

   5、ウェブで萩原遼除籍問題に報道批判350件

 

   6、萩原遼HP『金正日 隠された戦争』新刊の概要、寄稿欄−メールへの党中央回答

   7、宮地幸子HP『書(ふみ)を愉しむ』『拉致と核と餓死の国、北朝鮮』で萩原遼の覚悟を読む

   8、柳原滋雄HP『善意の批判者をパージして成り立つ日本共産党』萩原除籍と兵本除名

 

 (関連ファイル)       健一MENUに戻る

  1、北朝鮮拉致事件

    『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と在日朝鮮人、日本共産党

    『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』金正日擁護政策

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』日本共産党の犯罪的対応の前歴

    中野徹三『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    加藤哲郎『中野徹三・藤井一行「拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷へ」』

    藤井一行『北朝鮮型スターリン体制告発サイト』 『日本共産党と北朝鮮問題』 『藤井HP』

    黒坂真  『日本人拉致問題と日本共産党』北朝鮮批判・共産党批判ファイル多数

    電脳補完録『北朝鮮拉致事件関連年表』

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

    大日本史『番外編・朝鮮の巻』

 

    朝日『拉致事件』 『核問題』 読売『北朝鮮』 日経『拉致問題』 毎日『拉致事件を追う』

    Yahoo『核開発』 Google『核開発』 原水禁『北朝鮮の核開発データ集』

    Yahoo『朝鮮総連と拉致事件』 『朝鮮総連と帰国事業』 『朝鮮総連と朝鮮労働党』

    Google『朝鮮総連』 『朝鮮総連と朝銀問題』 『朝鮮総連と日本共産党』

    総連再生フォーラム『朝鮮総連の改革と再生のための提言』

    お笑い日本共産党『青瓦台事件に対する日本共産党の無責任な総括』

    よど号事件 無限回廊  よど号ハイジャック事件  Yahoo  Google検索

 

  2、拉致被害者・北朝鮮帰国者・脱北者救出運動

    『不破哲三が萩原遼を朝鮮総連批判で除籍』

    RENK『救え!北朝鮮の民衆』 RENK『東京』

    HP『朝鮮民主主義研究センター』 『北朝鮮問題リンク集』

    HP『北朝鮮難民救援基金』 『カルメギ−北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会』

    さざ波通信『北朝鮮問題・討論欄』

    加藤哲郎『拉致問題リンク集』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者救済のために

          『拉致(強制的失踪)と北朝鮮問題について』

    金国雄『梁山泊』 『在日朝鮮人帰国事業の考察』1〜32

    金英達『北朝鮮への帰国事業について』

    参考資料『在日朝鮮人の帰還事業』多数

    掲示板『北朝鮮拉致問題』 掲示板『北朝鮮・拉致事件支援者』

    掲示板等リンク集『北朝鮮問題』 山本孝司『ブルーリボン電脳補充録』

 

 1、萩原遼と私(宮地)との出会い

 

 〔小目次〕

   1、萩原遼と私(宮地)との出会い

   2、除籍と除名との違い、除籍を第2除名システムに改悪・活用

   3、1998年兵本達吉除名と2005年萩原遼除籍との同質性の再検証

 

 1、萩原遼と私(宮地)との出会い

 

 2003年12月1日、萩原遼が、個人的な用事で、愛知県に来たとき、一度会った。名古屋駅で待ち合わせしたが、初対面でも、お互いにすぐ打ち解けて、いろいろなテーマを突っ込んで話し合った。というのも、私たち夫婦は、彼の著書の愛読者であり、和田春樹批判論文を含めて、出版されたものをすべて読んでおり、彼も、私たち夫婦のHPを見ていたからである。

 

 それぞれが関心を持つテーマを質問し合い、討論した。共通するテーマは多岐にわたり、時間が経つのにも気付かないほどだった。朝鮮戦争問題、北朝鮮拉致事件、金日成・金正日評価問題、朝鮮総連問題について、彼は専門家である。私の方も、逆説の戦後日本共産党史を、とくに、朝鮮戦争との関係から、五全協共産党が遂行した後方基地武力かく乱戦争行動としての武装闘争事件を多面的に調べ、HPに公表していた。彼が出版した金日成・スターリン・毛沢東の朝鮮侵略戦争と、私がHPに載せた東京メーデー事件・大阪吹田事件・名古屋大須事件に見られる日本共産党の朝鮮戦争参戦行動とは、国際・国内一体の表裏という関係にあった。

 

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

 

 また、共産党問題についても、共通体験があった。萩原遼は、1988年12月3日、赤旗外信部副部長を突如解任され、その理由を問い質した。河邑編集局長は、宮本・不破・志位らの秘密指令に従って、「人事についての理由はいえない」と突っぱねた。彼は、それに憤激し、赤旗記者を辞め、居住支部に転籍した。

 

 私は、1963年以来、共産党の専従だった。そして、共産党名古屋中北地区常任委員・5つのブロック責任者(=現在は5つの地区委員長)をしてきた。そこは、名古屋中部北部の10行政区を範囲とし、愛知県党の半分の党勢力を占め、専従52人を抱える、巨大な共産党地区機関だった。専従活動の中で、1967年愛知県「5月問題」第1次民主化運動と21日間の監禁査問を体験した。さらに、1969年「指導改善」第2次民主化運動とそれを「清算主義」とした宮本顕治による逆転評価、逆転評価人事も味わった。「5月問題」とは、赤旗の極度に一面的な拡大運動と細胞破壊・幹部の健康破壊結果にたいし、地区常任委員・地区委員・細胞長ら数十人が、准中央委員・地区委員長への批判活動を地区党挙げて一カ月間展開したことである。

 

 ところが、県副委員長も兼任する准中央委員側は、以前から「喫茶店グループ」と呼ばれる地区委員長個人の私的分派を創っていた。批判活動が地区内の全細胞規模に広がる中で、批判活動仲間の常任委員一人が、地区委員長分派メンバーによる陰湿な説得工作を受けて、裏切り・密告をした。それによって、正当な批判活動が一転「規律違反の分派活動」と規定され、地区常任委員の私が「首謀者」と断定された。監禁査問とは、私一人だけを21日間も事務所内での監禁状態に置いたままで査問した事件である。准中央委員は、他の常任委員・地区委員たちを3、4日間で釈放した。

 

 共産党中央委員の県委員長を初め、十数人の県常任委員全員は、同じ事務所内における監禁査問を目にしつつも、県副委員長・准中央委員による不法監禁犯罪を批判せず、黙認していた。丁度その時期、1968年「プラハの春」民主化運動と5カ国軍戦車による鎮圧に接し、私の個人的な体験と合わさって、レーニン型前衛党の体質に強烈な疑問を持つようになった。これが、私の日本共産党批判、レーニン批判の原体験になった。その後の詳細な全経過はHPに載せた。

 

    『日本共産党との裁判』第1部〜第8部

 

 萩原遼は、2000年4月10日、『朝鮮と私、旅のノート』(文春文庫、267頁)を出版した。私は、その第5章「私の旅は続く」を読んで驚いた。その理由は2つある。

 第一、とくに、「4、党員に言論の自由を。5、党大会代議員選出に透明性を。6、開かれた党となるために」(P.216〜231)の内容は、私の考えていた党改革の方向と完全に一致していた。しかも、その内容は、私が知っている多くの現役党員の評価とも同一だった。それは、党中央にたいする党員多数の批判意見を彼が代弁して、公表する性格も帯びていた。同時に、それは、元赤旗記者としての自分が直接行動に訴えて、「党員に言論の自由を。開かれた党となるため」を勝ち取る挑戦でもあった。

 

 第二、しかし、この内容を公表すれば、不破・志位・市田らは、必ず萩原遼を調査(=査問)し、報復の除名にするのではないのかという危惧だった。不破哲三らは、党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書と47都道府県や三百数十地区にいる専従4000人がこのレベルの党中央批判を公表すれば、100%専従解任・除名にする。ところが、彼は、当時、除名どころか、除籍にもならなかった。

 

 私のケースで、私は正規の地区党会議、愛知県県党会議において、赤旗の一面的な拡大、それによる細胞破壊・幹部の健康破壊・財政破綻の誤りの責任に関して、県常任委員会批判とともに、党中央も誤りの指導責任を認めるべきと、10回以上発言した。私への専従解任は党中央批判専従にたいする宮本・不破らの報復だった。それは、彼らが常套手段とする批判・異論専従を党内排除する党内犯罪だった。私は党内でその報復措置と1年8カ月間たたかった。彼らは、たかが中間機関の一専従にすぎない宮地健一が提出した「意見書」など25通を一度も調査しないままで、握りつぶした。上田耕一郎は、第14回大会議長として、私の上訴書を無審査・無討論のまま30秒で却下した。

 

 当時、私は10万円弱の「専従給料」で、妻の給与と合わせて、家族4人の生計を立てていた。正規の党内会議における党中央批判にたいする報復という不当な専従解任は、専従給料で生計を立てている以上、憲法上の市民的権利の侵害となる。私は、名古屋地裁にそれを違法行為として民事裁判を提訴した。すると、宮本・不破・上田らは、合法的な憲法・裁判請求権の行使にたいし、「党内問題を党外にもちだした」とでっち上げた。そして、深夜の時間を設定して、査問に出て来いと呼び出した。私が、深夜なので、翌日の昼間に行くと返事すると、その夜中に私の除名を県常任委員会と党中央統制委員会が決定したとして、翌朝午前6時に除名通告を言い渡しに来た。

 

 事実上の公然党員である名古屋大学法学部憲法学長谷川正安教授は、「専従給料は憲法の市民的権利に当らない。この提訴は民事裁判という司法審査に該当しない。よって、直ちに門前払い却下せよ」とする共産党側意見書を提出した。名古屋地裁の民事裁判長は、学者党員長谷川教授の異様なまでの党派的憲法解釈を反憲法理論として全面否定した。そして、40歳・10万円弱の専従給料を憲法上の市民的権利と認定し、具体的な訴訟審理に入った。宮本・不破らと学者党員長谷川憲法学教授の行為は、驚くべき反憲法犯罪だった。共産党や学者党員が、総論では憲法擁護を唱えつつも、各論では秘密裏に反憲法犯罪を平然と行うことを、私は実体験した。

 

    『宮本・不破の反憲法犯罪、裁判請求権行使を理由とする除名』

    学者党員・長谷川正安憲法学教授の犯罪加担、反憲法「意見書」』

 

 萩原遼にたいし、私は「出版とその内容について査問もされなかったんですか」と聞いた。彼は、「何度も査問されたが、その都度、あの内容のどこが規律違反になるんだ」と反論したと答えた。結局、その出版行為による処分をはねかえしたとのことだった。双方の実体験が、赤旗記者・党本部勤務員と中間機関専従・愛知県委員会勤務員という共通土台に基づくので、2人の相互質問や討論に話が尽きなかった。彼は、別れ際に、出版されたばかりの『拉致と核と餓死の国、北朝鮮』(文藝春秋、2003年3月)に、「連帯をこめて」とサインをして、私たち夫婦に贈呈してくれた。

 

    

 

    宮地幸子HP『書(ふみ)を愉しむ』『拉致と核と餓死の国、北朝鮮』で萩原遼の覚悟を読む

 

 このファイルを読む党員のなかには、現役党員萩原遼が、被除名者・反党分子宮地健一に会うことが規律違反の反党行為だと思うDemocratic Centralism忠誠型共産党員がいるかもしれない。しかし、一体それはどんな規律違反になるというのだろうか。私は、1977年40歳で除名された後、百数十人の現役党員と会い、いろいろ話しをしてきた。彼らの誰も、それが反党行為になると考えていなかった。

 

 2、除籍と除名との違い、除籍を第2除名システムに改悪・活用

 

 不破哲三による萩原遼への不当な除籍措置は、除名処分と同質の党内犯罪である。ある党員を除名にするには、規約上、所属支部の審議と承認を必要とする。その上で、上級機関、党中央規律委員会が最終決定をしなければならない。その場合、除名是非をめぐって支部が大紛糾し、支部崩壊に至るケースも今まで多かった。

 

    『不破哲三が萩原遼を朝鮮総連批判で除籍』除籍を騙った事実上の除名処分

 

 ところが、除籍措置は規約上の処分でないので、所属支部の審議は要らない。不破・志位・市田らが、党中央批判・異論党員や専従を党外排除したくなれば、党中央規律委員会に命令する。党中央の下部・任命機関である規律委員会は、支部・中間機関を飛び越えて、全党のどこに所属している党員でも直接に、即座に除籍できる。支部へは、除籍の事後連絡ですむ。不破らにとって、これほど手が掛からない簡便で、実質的な除名システムはない。面倒な手続を必要とし、かつ、強烈な反発を引き起こす除名処分をできるだけ減らし、簡易除名=除籍措置を活用・流行させた功労者は、やはり宮本顕治と不破哲三であろう。

 

 というのも、除籍とは、(1)長期未結集党員で再結集の見込みがなくなった党員や、()行方不明党員の党籍をいつまでも残しておくわけにもいかないので、党員としての籍を除く措置だった。ところが、宮本・不破らは、それにたいし、批判・異論党員の党外排除をするための規約改悪を強行した。

 

 1994年、第20回大会において、宮本・不破らは、「第十二条、党の綱領あるいは規約を否定するにいたって第一条に定める党員の資格を明白に喪失したと党組織が認めた党員、…は除籍することができる。特殊な事情のもとでは、地区以上の指導機関は、党員の除籍を決定することができる」と新たな文言を挿入した。

 

 2000年、第22回大会において、不破・志位・市田らは、規約の全面改訂を行った。「第四条、党の綱領と規約を認める人は党員となることができる」「第十一条、党組織は、第四条に定める党員の資格を明白に失った党員は、…慎重に調査、審査のうえ、除籍することができる。除籍にあたっては、本人と協議する。党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、おこなわなくてもよい。除籍は、一級上の指導機関の承認をうける」と決定した。

 

 本来の除籍運用以外に、()「綱領と規約を否定し、党員の資格を失った」と誰が判断するのか。党中央、または、党機関が勝手に判定した党員を、所属支部の審議にかけなくとも、党中央規律委員会や中間機関が、フリーハンドで党外排除できるという重大な条項を付け加えた。かくして、1994年以降恣意的な除籍決定と通告という第2除名システム=簡易除名が、批判・異論党員を党外排除するための主な手法となった。

 

 3、1998年兵本達吉除名と2005年萩原遼除籍との同質性の再検証

 

 除名処分を適用するケースは、1994年以降、(4)明白な刑法上の犯罪をした党員、および、()公安との接触容疑党員・公安スパイなどに限られるようになった。

 

 1998年8月、不破・志位・市田らは、国会議員秘書兵本達吉を除名した。除名をした真の理由は、彼が、党中央の金正日擁護・朝鮮総連との連帯路線に逆らってまで、北朝鮮拉致事件と拉致被害者救出運動に関わり過ぎたという行為である。その理由ではまずいと、不破らは、別の口実をでっち上げた。それは、真の除名理由を隠蔽した上で、拉致被害者救出をテーマにした外務省役人など数人での政府プロジェクトチーム会議に、拉致事件担当の公安役人が一人いたという事実を口実とした不当な除名だった。

 

 以下は、柳原滋雄HPの引用である。

    柳原滋雄HP『善意の批判者をパージして成り立つ日本共産党』萩原除籍と兵本除名

 

 「共産党の『除名通知書』では、兵本氏が公安警察官に自分の就職斡旋をお願いするために料亭で面接を受けたとして、『日本共産党員として許されない行為』と断定しているが、兵本氏の言い分は、まったく異なる。本人の名誉のためにも、同氏が『文藝春秋』(2002年12月号)に簡潔にまとめた実際の《真相》の部分を引用しよう。

 第一に、私が会ったのは警察官だけではない。その場には内閣官房や外務省の官僚もいた。

 第二に、警察関係の職の斡旋を依頼したかのように、わざと誤解を与える書き方がなされているが、私が紹介された仕事は拉致問題を追及する政府のプロジェクトチームへの参加であって、そこには警察庁ばかりでなく各省から担当者が派遣される予定だった。“問題”にされた警察官も拉致問題の専門家である。

 第三に、私から採用の依頼などしていない。働いてほしいと言ってきたのは政府当局者のほうである。文書からは『プロジェクトチーム』や『外務省』、『内閣官房』といった言葉が意図的に消されている。それはことさらに警察との関係を強調するためだ。共産党の宿敵である警察との不明瞭な関係を印象づければ、私を除名することができる。

 兵本氏は主張は極めて具体的で、一貫している。一方、共産党側の反論は、全く説得力がない。『警察のスパイ』とまるでオウムのように繰り返しているだけである。」

 

 れんだいこHPも、兵本達吉除名の真相について、詳細なデータを載せている。(1)2005年6月、不破哲三は、朝鮮総連批判ビラを配った行為を直接の理由として北朝鮮問題プロフェッショナル萩原遼除籍をした。(2)1998年8月、萩原除籍の7年前、彼は、北朝鮮拉致事件と拉致被害者救出運動を先駆的に取組んでいた、そのテーマのプロフェッショナル兵本達吉を除名した。

 

 これら2つの事実は、それらが同一性質であり、金正日批判・朝鮮総連批判を行い、拉致事件・北朝鮮帰国者問題を追及してきた共産党員を、不当な理由・ウソの排除理由をでっち上げて党外排除する不破・志位・市田らによる党内犯罪行為だったことを、白日の下にさらけ出させた。北朝鮮問題・朝鮮総連問題を真因とした除籍・除名という、7年離れた2事件を統一的にとらえて、再検証する必要が発生したと言える。

 また、宮本・不破・志位らによる、これら規約運用犯罪の実態は、別ファイルで分析した。

 

    れんだいこHP『日共の詭弁考、兵問題』フジテレビ問題と兵本達吉除名の真相

    『なぜ民主集中制の擁護か』除名と除籍の使い分け実態

    『ゆううつなる党派』民主主義的中央集権制の4システム

 

 不破哲三は、1998年から2000年にかけて、日本共産党を新たな国際路線に大転換させた。それは、日本共産党・中国共産党・朝鮮労働党日本支部の朝鮮総連による東アジア版のミニ国際共産主義運動を確立し、強化する路線である。中国共産党と朝鮮総連は、日本共産党との共産主義友党に回復した。党内で、それら共産主義友党関係の維持・強化政策にたいし、それと異なる行動をするような党員は、国会議員秘書であれ、元赤旗外信部副部長であれ、全員を除名・除籍にせよ。北朝鮮拉致事件や北朝鮮問題のプロフェッショナルであろうとも、朝鮮総連批判や金正日批判をするような党員の居場所は、もはや不破路線の日本共産党内に存在しない。

 

 (1)東京都議選直前の萩原除籍のマイナス効果も一因として、15議席から13議席に減ろうとも、(2)インターネットで350件もの萩原除籍問題での批判ファイルが噴出しようとも、(3)有権者がこの不当除籍事件に反発して、共産党からますます離れようとも、大転換をさせた新しい国際方針で、Democratic Centralismの党内規律を一段とレベルアップすることこそ、わが党にとって現在の最重要課題である。

 

 

 2、不当除籍にたいする萩原遼抗議文 (全文)

 

 (宮地・注)、これは、「諸君!」2005年8月号(P.160、161)に載った萩原遼の抗議文(全文)である。それをインターネット掲示板に投稿者が転載した。原良一はそれを再転載した。私(宮地)は、萩原遼に転載の了解を得ようと思っていたが、「諸君!」出版直後なので、遠慮していた。しかし、転載・再転載がインターネットで公表されたので、ここに原良一の再転載文を、再再転載する。

 

 萩原遼氏の「諸君!」誌上での抗議文 投稿者: 良一@守る会会員  投稿日:7月3日(日)12時48分55秒 引用

こちらではあまり紹介していませんが、朝鮮総連結成50周年パーティーでの抗議活動を口実に日本狂惨蕩(似非共産党)を除名された萩原遼氏が、「諸君!」05.8月号で日本共産党への抗議文を寄稿したのでご紹介します。著作権上問題はありますが、敢えて全文紹介とします。今日は首都都議会議員の選挙なので、これから投票に行く方のご参考になれば幸いです。
 萩原遼氏の日本共産党への抗議文(「諸君!」05.8月号、P.160より)

 
不当除籍に抗議、金正日と握手する日本共産党
 ―党の方針から逸脱したのは私ではなく、不破氏の方だ。彼の言動こそ厳重に審査せよ!―

           萩原遼:ジャーナリスト、元「赤旗」平壌特派員

 新聞(6月22日付毎日夕刊)でも報じられたが、6月7日付けで日本共産党規律委員会は私に対し党規約第11条にもとづく除籍を通告してきた。6月17日、党本部で私はこの措置の不当を衝き、物別れに終った。23日付けの赤旗紙上で彼らの言い分を載せている。これに対し私の見解を表明する。

 彼らが除籍の根拠とする党規約11条は「第4条に定める党員の資格を明確に失った党員、あるいは著しく反社会的な行為によって党への信頼を損なった党員」に対して適用されるとある。私は4条に定める党の綱領と規約を認めており、党の前進を願って50年近く活動しており、党組織に所属し、党費も払っている。11条違反には該当しない。11条のいう「著しく反社会的な行為を」犯したというなら、具体的に指摘すべきではないか。

 過去に規律委員会が私に求めてきたことは、元赤旗平壌特派員の肩書きを使うなというものであった。私の経歴は隠しようもないし、また経歴隠しも経歴詐称につながることを説いて彼らの非常識をたしなめた。彼らの要求のもう一つは、党見解と異なる意見を公表するなというものである。北朝鮮問題についてマスコミからコメントを求められる時、一々党本部に伺いを立てる時間的余裕のなさから食い違うこともあることを述べた。党中央と私の間でも意見が違う場合も名指しで批判したことはない。綱領を認め、大局で一致していれば多少の意見の違いに目くじらを立てないことが開かれた党になる上で好ましいと主張した。少数意見を認め党機関紙上で論議することが党にも国民にも利益になると私は主張した。

 党規約第3条の(5)は「意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない」とある。今回の除籍措置は規約の明白な違反である。規約違反のこの措置を断じて認めるわけにはいかない。

 
朝鮮総連は反社会的団体

 東京都都議会議員選挙を前にして唐突に日本共産党が私を除籍したのは、朝鮮総連との関係であろう。

 規律委員会の通知は、5月24日の朝鮮総連結成50周年記念レセプションで私が「党員とは相容れない言動を取っている」という。「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」が5月24日に発表した声明「朝鮮総連は『帰国事業』という巨大な誘拐・拉致に責任を取れ」をレセプション参加者に配ったことが「我が党の立場や活動を攻撃することに他ならない」と言っている。日本共産党はいつから朝鮮総連と一心同体になったのか。朝鮮総連から頼まれて今回の措置を急いだとの見方もある。

 そもそも朝鮮総連とは何か。北朝鮮の金正日政権の出先組織である。彼らは北朝鮮の駐日大使館のごとく振舞っている。その主要メンバーは朝鮮労働党員であり、朝鮮労働党日本支部を構成し、組織の指示どおりに動いている。

 彼らは日本人拉致の現地請負人としてその幇助に加わってきた。それに関わった元メンバーの証言が何冊も公になっている。朝鮮総連は紛れもない拉致の下手人ではないか。朝鮮総連はまた1960年代に帰国運動と称する大規模な「誘拐・拉致」運動の推進者として10万人近い在日朝鮮人とその日本人妻を北の地に送り、日本への一時帰国もほとんど許さず40年あまりも拘禁し、今なお地獄の苦しみを与えている。

 さらに朝鮮総連は、帰国者を人質にして日本に残った在日朝鮮人の家族に億単位の金を恐喝するなど、ゆすり、たかりを常習とする反社会団体である。彼らはまた配下の暴力団と組んで麻薬の持ち込み、密売にも手を染めているとも伝えられる。これらはみな本国の金正日の指示と了解のもとに行われている。朝鮮総連の幹部と握手することは金正日と握手することに他ならない。

 こうした事実を不問に付して、彼らと握手し、結成記念パーティーに駆けつけるとは、日本共産党もまたその同類であることを天下に知らしめることになるのではないか。暴力団の集会に出席した政治家は世論の指弾を受け、確実に失脚する。暴力団の何十倍も悪質な反社会集団の集会にいそいそと馳せ参じることは党を汚す行為ではないか。

 そうでないというなら、日本共産党は私の指摘に反論してみよ。

 
不破氏と現指導部は党の方針を逸脱

 1983年の北朝鮮の国際テロ行為であったラングーン事件以来、日本共産党は北朝鮮指導部を「野蛮な覇権主義」と呼び、朝鮮労働党および朝鮮総連との関係を断絶した。北朝鮮の金正日政権はその後もテロ行為を止めず、1987年には大韓航空機を爆破し115人の人名を奪う殺人行為を行った。爆破犯人の一人金賢姫はこれが金正日の直々の指令によるものと告白した。当時の宮本議長は北朝鮮をきびしく非難した。この時の我が党の態度は原則にかなったものであり、多くの国民から支持を受けた。

 しかるに不破氏はその後この原則的立場を離れて、大韓航空機爆破事件を金日成時代のものと勝手に断定し「そういう種類の動きは、金正日氏の代になってからは、ないですよね」(赤旗2000年8月24日付)といっている。これまでの党の方針からの明白な逸脱ではないか。

 こうした逸脱の上に立って何の説明もなしに2000年に朝鮮総連と和解し、その後は彼らの大会に党幹部を出席させ祝辞を述べさせている。いつ、どの党会議でこんな方針に変わったのか説明されたい。説明もなしに勝手に党の方針に反する言動を取ることは、これこそ規律違反であり、処分の対象となる。規律委員会は私に対する不当な措置を取り消し、不破氏の言動を党規約と決定に照らして厳重に審査すべきである。

 

 

 3、萩原遼除籍批判メールへの党中央回答文 (全文)

 

 (宮地・注)、これは、萩原遼HPの「寄稿欄」に載った、党中央回答文(全文)である。この内容も他掲示板に転載・引用されている。その内容は、基本的に「萩原遼の除籍決定」と同じだが、やや異なる個所もあるので、そのまま転載する。青太字赤太字は、私(宮地)の判断で付けた。

 

    萩原遼HP『金正日 隠された戦争』新刊の概要、寄稿欄−メールへの党中央回答

 

 共産党本部からの回答です 投稿者: 私も一党員  投稿日: 6月30日()10時57分51秒

 下記に掲載した文は、ある友人が「萩原除籍」について共産党本部にメールを出した、その回答メールです。小泉と同じことを言っていますね。行動もよく似ていますが?

 日本共産党が、元赤旗平壌特派員萩原遼氏を除籍したことについて、いくつかご意見が寄せられました。
 萩原氏の除籍は、彼が北朝鮮にかんする問題で党と異なる意見をもっているからというわけではありません。党規約は、異なる意見をもつ党員を排除するようなことをしてはならないときびしく戒めています(第三条)。異なる意見を党内で表明し、議論することは自由です。

 問題は、彼が「元赤旗平壌特派員」を名乗りながら、党外の出版物などで北朝鮮問題にかんしてしばしば党と異なる意見を公表し、ときにはそれと分かる形で党を批判してきたことです。こういうことを放置すると、日本共産党の政策そのものが国民にとってわかりにくくなり、公党として国民への責任が果たせなくなります(第五条)。

 党は何度も萩原氏に注意してきましたが、萩原氏はいっこうに改めず、最近では、「見苦しい醜態」「恥を知れ」とまで党を非難するようになっていました。みずからの党にそういう非難を公然と浴びせるようでは、自分で党員の立場を放棄し、「党員の資格を明確に失った」といわざるをえず、除籍したものです。

 除名とどう違うかという点ですが、除名は、党員が規約とその精神に反し、「党と国民の利益をいちじるしくそこなう」(第四十八条)場合になされる処分であり、そのなかでも「最高の処分」(第五十四条――ちなみに、除名のほか、警告・権利停止・役員罷免という処分があります)です。

 一方、除籍というのは、処分ではありません。前述のように、党員としての自覚をなくし、資格を失った人物を党員としてとどめておくことはできませんから、除籍の措置をとったということです。

 一般マスメディアの報道などを根拠に萩原氏の立場が反朝鮮総連・反金正日体制であるとして、その萩原氏を除籍した日本共産党は、親朝鮮総連・親金正日であり、けしからんとする批判のご意見もありました。

 いま北朝鮮問題での客観的な焦点は、朝鮮総連や北朝鮮の政権への「反」か「親」かにあるのではありません。日本と北朝鮮の政府が公式に取り交わし、国際社会も高く評価した「平壌宣言」(2002年9月)をどのように実現していくかにあります。「宣言」は、「日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立」して、両国の基本的利益を実現するとともに、北東アジア地域の平和と安定に寄与する方向を定めています。

 萩原氏はこの平壌宣言そのものを否定する立場ですが、日本共産党は、この宣言の実現をめざして、日本政府にたいしても、北朝鮮側にたいしても、言うべきことをきちんと主張しています。

*************
 日本共産党中央委員会 国民の声室・質問回答係 info@jcp.or.jp
 日本共産党中央委員会ホームページ  http://www.jcp.or.jp/

 

 

 4、『朝鮮と私、旅のノート』における共産党員萩原遼の党改革意見 (抜粋)

 

 (宮地・注)、この著書の出版問題については、有田芳生も、HPで一言コメントをしている。一般の党本部勤務員・赤旗記者・国会議員秘書や中間機関専従ら4000人だったら、不破・志位・市田らは、査問だけでなく、瞬時に除名処分か、除籍措置にしていた。例えば、1990年、新日本出版社社員有田芳生は『日本共産党への手紙』(教育史料出版会)を松岡英夫との編集で出版した。ところが、新日本出版社社員は全員が日本共産党本部勤務員扱であり、彼は『日本共産党への手紙』出版行為で査問され、除籍になり、解雇された。

 

    有田芳生HP『今夜もほろ酔い』共産党、私の査問体験

             『酔醒漫録』6月30日、萩原遼の除籍問題

 

 当時の彼らは、北朝鮮問題で著名な萩原遼の除名・除籍を強行することによるマイナス影響に怯えたのだろうか。有田芳生が言うように、『朝鮮と私、旅のノート』出版時点ではなく、今頃除籍をするという不破哲三の心情には何があるのか。

 

 出版をした2000年とは、不破哲三が、宮本顕治を引退させた上で、国際路線の大転換をし、中国共産党とだけでなく、朝鮮総連という朝鮮労働党の日本出先機関との共産主義友党関係を秘密裏に回復させた時期だった。その性質は、まさに金正日擁護・朝鮮総連支援路線への転換である。それは同時に、北朝鮮拉致事件における拉致被害者救出政策の放棄と拉致被害者見殺し作戦となった。さらに、それは、93000人の北朝鮮帰国者の救出運動に敵対する国際共産主義運動最優先政党への大転換路線だった。

 

    『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』金正日擁護政策

 

 第五章 私の旅は続く(文庫版書きおろし)(文春文庫、2000年4月)

 

 〔目次〕、1〜11(P.204〜267)の内、4〜6のみ抜粋・引用

   1、三つの十字架を背負った本 (省略)

   2、いわゆる反党分子について (省略)

   3、不愉快な「赤旗」の報道 (省略)

   4、党員に言論の自由を (全文)

   5、党大会代議員選出に透明性を (全文)

   6、開かれた党となるために (全文)

 

 4、党員に言論の自由を (全文、P.216〜)

 

 党にたいして問題があればそれぞれの属する党組織で提起すべきだという意見もあろう。だが支部で問題を提起してもすべて中央に伝わるという保証はない。私の問題は「赤旗」で公開的におこなわれたものである。公開的に取り消されないかぎり、いつまでたっても消えないどころか、ますます拡散するのが、わが組織の特徴であることは、多少党歴のある者なら思いあたるはずだ。上の意向は目くばせひとつで下に伝わるのだ。

 

 中央委員会の訴願委員会に出すべきだという意見もあろう。だが訴願委員会にどれだけの権限が与えられているのか、私はこれ以上いいたくない。本部の人間ならみな知っているはずだ。

 

 問題は、党員が党にかかわる問題を公開的に党中央に提起する慣行も規約上の保障もないことにある。いまやインターネットの時代である。インターネット上で自由に党中央に質問したり、提案したり、それに回答を求めたりができて当然である。いつまでも旧態依然の党組織をつうじて文書で質問すること、訴願委員会に訴えることしか方法がないということでは時代の流れに合わない。

 

 党員個々人が、党内であれ党外であれ党の問題を事実にもとづいて論ずることは禁止されるべきではなく、むしろ必要なことだ。私の問題提起は公になされた名誉毀損を解消することについての提起である。誹誘や中傷ではない。日本共産党をいっそう開かれた、国民の党にするための具体的で積極的な提言である。

 

 現行の党規約第二条(八)の「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」は撤廃すべきだ。この条項によって、党にかかわる問題を世間で論じることすら規約違反、規律違反として処分の対象とされる。党員の創意性、積極性をおさえるマイナスの作用をはたしている。

 

 不破哲三氏が作家の井上ひさし氏との共著で『新日本共産党宣言』を一九九九年三月にブルジョワ・マスコミのひとつ光文社から出した。私は歓迎する。党をめぐってこうした自由な討論や問題提起が党内外のメディアで行われるべきだ。

 

 委員長である不破氏は許されるが平党員には許されないということでは、規約の前にすべての党員は平等であるという党の主張に合致しない。不破氏にも、すべての党員にもひとしく、どのメディアであれ党について活発に意見がのべられる慣行をつくっていくべきだ。

 

 開かれた党となるために党機関紙「赤旗」に討論欄を設けるべきではないか。そこにはどんな意見も発表できるし、中央から都道府県、地区の各機関に回答を求めることができるようにすれば、ずいぶん風通しはよくなる。国民も日本共産党内部にどんな問題があるのかを知る助けになる。

 

 私が「赤旗」在任中は党中央の発行する雑誌が十六あった(いまはかなり減ったが)。そのひとつを討論と意見の雑誌としたらどうかと提案したことがあったが、とうてい受けいれられなかった。

 

 だが二年ないし三年に一度の党大会のさいには『赤旗評論特集版』(九九年に廃刊になった)という週刊誌上で公開討論が行われていた。ここには相当率直な意見が出る。生身の党員の実践に裏づけられた貴重な意見が多い。こうした立派な慣行があるのだから、三年に一回と限定せず、毎月発行の月刊誌でやるならば、党の活性化に役立つだろう。

 

 5、党大会代議員選出に透明性を (全文、P.219〜)

 

 不破氏は井上ひさし氏との先の共著『新日本共産党宣言』のなかでこういっている。

 私たちが、党の組織のあり方をなぜ「民主集中制」と呼ぶかというと、それはまず、党がものごとを決めるときには、民主的に議論をつくすからです。これが「民主」です。またいったん決まったことは、全党がそれを統一した方針としてその実行にあたる。これが「集中」です。私は、この二つの面をきちんと踏まえて活動するということは、近代的な政党なら、あたり前のことだと思っています。(六九ページ)

 

 「民主的に議論をつくす」のであればそれは結構なことだが、現実はそうなっていない。党大会といえば全党の活動方針をきめる最高の決議機関である。二年ないし三年に一回、およそ千人ほどの代議員を集めて開かれる。この代議員の選出過程が十分に民主的とはいえないのである。大会議案を支持する代議員しか事実上党大会には出てこれないしくみになっている。

 

 党大会の代議員は末端組織の党支部をふりだしに、その上の地区党大会、さらにその上の都道府県党大会へと積み上げていって、そこから代議員が選ばれる。

 

 かりに私が党大会議案に全面的に反対し、大会の場で討論したいといって、代議員に立候補を表明したとする。おそらく支部会議の段階ではねられて、その上の地区党会議の代議員にすら出られない。かりに地区党会議の代議員に選出されたとしても、その上の都道府県党大会の代議員に選ばれるのは、まずありえない。まして都道府県党会議の場で、大会議案に全面的に反対の立場で大会で討論したいから私を代議員に選んでくれといえば、選ばれることはほぼ一〇〇パーセントない。こうしたことは党中央や地方機関の幹部たちは誰しもみな知っていることだ。

 

 結局、大会議案支持の代議員ばかりが大会に出てきて討論するのだから結果は反対意見はひとつも出ない。討論者全員が「私は大会議案を全面的に支持する立場で発言します」と前おきして賛成意見をのべる。採決になると満場一致である。真に自由闊達な討論が保障され、党内にそれをゆるす寛容な民主主義的な雰囲気と制度的保障があるならば、満場一致にはたぶんならないだろう。

 

 反対者が一人もいないことを誇示することがそれほど重要なことだろうか。反対者が何人か何十人かいたとしたら、それが党の発展のさまたげになるのであろうか。どんな手を使ってでも一人の反対者も党大会に出席させてはならない、ということを大前提にして大会を準備し運営することは、いまの日本の民主主義の風潮とはかけ離れていると私は思う。もうこんなことはやめるべきだ。

 

 自由に思ったことをいう。それにたいし迫害は加えない。少数意見は尊重され、全党に公開されるべきである。党大会に少数意見者も出席させ発言させるおおらかさと自信がなぜもてないのか。内部の反対意見に極度におびえる小心翼々たる日本共産党の体質は、民主主義で育った戦後世代には合わない。

 

 のびのび討論し、多数できまったことは虚心坦懐に従い、実践し、その結果をつぎの大会で検証する―。こういったことは夢物語でしかないのか。

 

 6、開かれた党となるために (全文、P.222〜)

 

 作家の井上ひさしさんは、先の『新日本共産党宣言』のなかでこういっている。

 これまで代々木の本部のビルの中には一度も入ったことはないし、以前のことですが、党本部の図書館にある資料を見せてもらいたいと頼んで駄目ですといわれ、党側の事情も考えずに、「うん、あそこは、やはり冷たい」と思ったりもしていました。(中略)代々木の党についての印象と、わたしが日常で接している地区党員のみなさんから受ける印象は正反対、まるで違います。地区というか、現場の党員は、少なくとも八割ぐらいは「義人」ぞろいです。地区のために、地区で困っている人たちのために、寸暇を惜しんで一所懸命にはたらいている。それにみなさん、明るくて、ほがらかで、「ああ、素敵な日本人がいる。すばらしい人間がいる」と感心することばかりです。つまり、生活の場ではたらいている党員は、人間にはいちばんむずかしい「隣人を愛する」ということを実行しておいでなんですね。それが県の委員会へ、そして代々木へと身分(?)が上がっていくにつれて、これはあくまでも印象にすぎませんが、「人類は愛しても、隣人を愛することのできない」冷たい人に変身していくように思えるのです。(一七〜一八ページ)

 

 私もまったくこの通りだと思う。職場や地域の支部の党員や地方議員たちは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩のように

  東ニ病気ノコドモアレバ

  行ッテ看病シテヤリ

  西ニツカレタ母アレバ

  行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

 東奔西走しながら、苦しんでいる人たちのために献身的に活動している。

 

 しかし、中央本部や都道府県委員会などの党員たちは人がかわったようにゴチゴチに硬直したわからず屋が多い。私も二十年赤旗編集局にいて、そんなタイプの人間の一人であった。

 

 なぜそうなるのか? 端的にいって秘密主義である。たとえば党本部にはふつうの人は入れない。党本部の図書室の資料をみたくても、一般の人はもちろん、赤旗記者をやめた私などにはみせてもらえない。

 

 だいぶ前、三宅坂の旧社会党本部で、ある集会があり、昼食は党本部の食堂でとれた。河上民雄副委員長やテレビでよくみかけた当時の幹部たちとテーブルをはさんでいっしょに食べた。共産党本部では考えられないことだ。

 

 フランス共産党紙ユマニテの記者が党本部の別棟の一角を支局にしていたが、夕方になると赤旗編集局の外信部の部屋に取材で訪ねてくる。受付まで外信部記者が迎えにいっていっしょに案内してくる。一人では歩かせないのだ。

 

 外国人の客と会うときは単独では会えず、かならず複数で会うことになっていた。スパイ工作されることを警戒して相互に監視しあうのだときかされた。これらは革命的警戒心と称されて、私もまた当然のこととして受けいれていた。

 

 私が日本共産党本部勤務となった一九六九年には、本部勤務員の心得として「革命の司令部を身を挺して防衛せよ」と教育され、よしやるぞ! とふるいたったものだった。

 だが、三十年後のいま、日本共産党は革命ということばもほとんど使わなくなった。「資本主義の枠内での民主的改革」と不破氏はいっている。

 

 たしかに革命とは、議会もなく、国民には民主的自由はなく、独裁者が暴力で国民を押さえつけている無法国家においてこそ必要なものである。二十世紀初頭の帝政ロシアがそのひとつだった。専制政治をくつがえしたロシア共産党は、秘密に徹し、上意下達の軍隊式規律で組織され、党員はそれに無条件に服従し、指導部を死守し、指導部への批判は事実上反党活動とみなされた。党員は命がけで体制側の弾圧の網の目をくぐって人民を組織し、決死の武装蜂起に立ちあがらせた。秘密主義と軍隊的規律、指導部の死守、批判の厳禁は革命党の命である。これなしに戦えるような甘い状況ではなかった。ロシア革命を成功させたロシア共産党の組織のあり方は、その当時の状況にみあったものだった。

 

 このロシア共産党の組織原則が一般化されて、コミンテルン(共産主義インターナショナルの略、国際共産党)に加盟する各国の党はみなそれにならった。一九二二年にコミンテルン日本支部として創立された日本共産党もこの組織原則をそのまま踏襲した。そうしないとコミンテルンに加盟が認められない。加盟を許された各国の党は「民主主義的中央集権制の原則にもとづいて建設されなければならない」とされ、「軍事的規律に近い鉄の規律」をもつこと、「ソビエト共和国を支持すること」などが義務づけられた。

 

 これは『レーニン全集』(大月書店)第三十一巻の「共産主義インターナショナルへの加入条件」(一九九〜二〇五ページ)に書かれている。だが、あれから百年近くたった。世の中は根本的に変わった。社会主義体制は総本山のソ連の人民からも見放された。

 

 いま必要なことは、世界の変化にそって、日本の実情に合わせて日本共産党の組織のあり方を大胆に見直し、転換することである。コミンテルンの残滓を一掃し、日本人民の幸せのためにどういう党に発展させるべきかをすべての党員が考え、意見をのべ、みんなでつくりあげていくことである。

 

 われわれには、ロシア革命当時のような武装蜂起の方針もない。陰謀的に政権奪取を狙っているわけでもない。現憲法を尊重し、議会制民主主義にのっとって選挙をつうじて国の政治を改革していこうとしているのだ。公開された党大会できめた方針にそって動いている。党大会の論議も財政も公開されている。隠さねばならないことはなにもないのだ。

 

 革命の司令部といわれた日本共産党本部も、いまや民主的改革のセンターとして一般の人にも開放したらどうか。革命の司令部である党指導部は上から作られるとされてきたことを全党の党員によって下から作られるよう根本的に転換しなければならない。委員長、副委員長、書記局長の党三役の選出は全党員による公選制とする。幹部に任期制を設ける。十年やってしかるべき結果が出せなければ交替させ、新しい幹部で人心の一新をはかるべきだ。一九五五年から九七年まで四十二年間もトップの座にあった宮本顕治氏のようなことは二度とやらせてはいけない。

 

 一九八〇年代に入って宮本氏の言動の不自然さがしだいに目だつようになった。一九八七年の第十八回党大会のとき、開会宣言にたった彼は胸をはって「ただいまから党大会の閉会を宣言します」といった。「笑いをかみ殺すのに苦労した」と大会に出席したある代議員が私に語った。このとき宮本氏は八十歳近かった。若い頃は的確な指導で定評があったそうだが、そのころになると「議長指示」として下りてくる宮本氏の方針には首をかしげることが多くなった。「困ったもんだ」と「赤旗」の同僚たちも小声でささやきあっていた。革命の指導部は上から組織されるため、下からの声はなんの力にもならない。これもロシア共産党の組織原則の残滓のひとつである。

 

 一九九〇年の第十九回大会では「宮本氏はもう辞めよ」の声が党内外から高まった。作家の井上ひさし氏も『週刊朝日』(一九九〇年七月二十日号)で「宮本さん、いまが潮時です」と題した一文でつぎのように語った。

 宮本さんは、完全に引き際を誤っています。たとえて言えば、バーの客で、ママやバーテンがもう帰りたくてしようがないのに、明け方どころか昼ごろまでカウンターで粘って、「オレは正しい」とか「この店はオレでもってる」とかブツブツ言って、頑張っているようなものです。

 

 宮本武蔵じゃないんだから、そんなに頑張らなくてもいいのに。辞めるのは一日でも早いほうがいい。宮本さんが頑張れば頑張るほど、共産党への風圧が強まる。どうせ、いつかは辞めなければならないのですから、共産党に味方している人たちの要望に応えるつもりで、いますぐ辞めてほしい。辞めたからといって、宮本さんの評価が下がるわけじゃない。むしろいま辞めたら、意外と大らかなんだな、と感動が起こるかもしれないですよ。

 

 この一文のせいか、井上ひさし氏は日本共産党から干されて「赤旗」にもいっさい登場しなくなった。宮本氏の引退後ようやく陽の目をみて、「赤旗」紙上などに登場している。よろこばしいことである。

 

 ついでながら大江健三郎氏も「中野重治にたいする宮本さんの態度に私が不同意であることを党員の方がたに知っていただきたいために『赤旗』には登場しない」と私に語っていたが、最近「赤旗」に息子の光さんのことで登場したのも、よろこばしいことである。

 

 結局宮本氏は八十九歳の一九九七年まで議長としてトップの座にあった。彼は引きぎわを誤った。彼の引退の花道は一九七九年十月の衆院選で四十一人の当選者をだした時である。一九八〇年から引退までの十七年間は無益な長命であった。一般に独裁者には下りる階段がないといわれる。引退を勧告できる幹部を一人ももたなかったことが宮本氏にとっても不幸だった。これも前近代的なロシア共産党の残滓のひとつである。今後は不幸な指導者をつくらないためにも日本共産党の幹部には任期制を設けねばならない。それが人情というものだ。一人の指導者を長期にトップの座に置いておくと、ゴマスリの出世主義者や無気力なイエスマンがはびこる。

 

 余談ながらゴマスリといえば、本部の人間ならだれしも「あいつだ」と思いうかべる人物がいる。私の後輩の赤旗記者だったが、独特のに嗅覚で宮本顕治氏の秘書におさまり、中央委員、幹部会委員、准常任幹部会委員と三段とびでまたたくまに昇進した。九七年の二十一回大会で宮本氏が引退すると彼は平の中央委員に二階級降格させられた。このとき十数人いる最高幹部の常任幹部会の人事で宮本氏の秘書出身者の七人の常幹メンバーがいっきょに解任され、降格させられたり、引退させられた。ささやかではあるがこれも党改革の一歩といえよう。

 

 ソ連の崩壊、社会主義体制の崩壊という未曾有の激変後の今日、日本共産党の改革はわれわれ党員一人一人につきつけられた重い問いかけである。社会主義とはなんだったのか? どこに間違いがあったのか、なぜ是正できなかったのか、これからはどうしたらいいのか、日本をこれからどうするのか、日本共産党はどうあるべきか。全党討議を組織すべきである。大会前の三カ月ぐらいの短期間ではなく、少なくとも数年にわたる全党討議をくりひろげ、文字通り「全党の英知」を汲みつくすべきである。

 

 少数の幹部が考えて作り上げた方針を、それを無条件に支持する党員だけ集めて満場一致で決定し、あとは決定を学習するだけ、という従来型のやり方では新しい状況に対処できない。

 

 開かれた日本共産党へ、日本国民と喜怒哀楽をともにする日本共産党へ、日本人固有の義理と人情をわきまえた日本共産党へ、大胆に踏みだそうではないか。私ももういちど夢をもちたいのだ。

 

 

 5、ウェブにおける萩原遼除籍問題での報道・批判350件

 

 Google検索『萩原遼除籍』 報道・批判350件

         『朝鮮総連50周年』 『萩原遼』

 

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 (関連ファイル)

  1、北朝鮮拉致事件

    『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と在日朝鮮人、日本共産党

    『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』金正日擁護政策

    『「異国の丘」とソ連・日本共産党』日本共産党の犯罪的対応の前歴

    中野徹三『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

    加藤哲郎『中野徹三・藤井一行「拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷へ」』

    藤井一行『北朝鮮型スターリン体制告発サイト』 『日本共産党と北朝鮮問題』 『藤井HP』

    黒坂真  『日本人拉致問題と日本共産党』北朝鮮批判・共産党批判ファイル多数

    電脳補完録『北朝鮮拉致事件関連年表』

    れんだいこ『日朝政治史「拉致事件」考』

    大日本史『番外編・朝鮮の巻』

 

    朝日『拉致事件』 『核問題』 読売『北朝鮮』 日経『拉致問題』 毎日『拉致事件を追う』

    Yahoo『核開発』 Google『核開発』 原水禁『北朝鮮の核開発データ集』

    Yahoo『朝鮮総連と拉致事件』 『朝鮮総連と帰国事業』 『朝鮮総連と朝鮮労働党』

    Google『朝鮮総連』 『朝鮮総連と朝銀問題』 『朝鮮総連と日本共産党』

    総連再生フォーラム『朝鮮総連の改革と再生のための提言』

    お笑い日本共産党『青瓦台事件に対する日本共産党の無責任な総括』

    よど号事件 無限回廊  よど号ハイジャック事件  Yahoo  Google検索

 

  2、拉致被害者・北朝鮮帰国者・脱北者救出運動

    『不破哲三が萩原遼を朝鮮総連批判で除籍』

    RENK『救え!北朝鮮の民衆』 RENK『東京』

    HP『朝鮮民主主義研究センター』 『北朝鮮問題リンク集』

    HP『北朝鮮難民救援基金』 『カルメギ−北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会』

    さざ波通信『北朝鮮問題・討論欄』

    加藤哲郎『拉致問題リンク集』

    中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者救済のために

          『拉致(強制的失踪)と北朝鮮問題について』

    金国雄『梁山泊』 『在日朝鮮人帰国事業の考察』1〜32

    金英達『北朝鮮への帰国事業について』

    参考資料『在日朝鮮人の帰還事業』多数

    掲示板『北朝鮮拉致問題』 掲示板『北朝鮮・拉致事件支援者』

    掲示板等リンク集『北朝鮮問題』 山本孝司『ブルーリボン電脳補充録』