拉致(強制的失踪)と北朝鮮問題について

 

―野村光司氏に質問する―

 

社会主義研究家 中野徹三

 

 ()、これは、『労働運動研究復刊第7号』(2004年4月)に掲載された中野徹三論文です。このHPに全文を転載することについては、中野氏の了解を頂いてあります。

 

 〔目次〕

   はじめに

   日本が被害者を「抑留」した?

   もし5人が北に戻ったら? それを阻止した要因をどう評価するか

   「朝鮮人拉致」問題と北朝鮮国民の人権状態をどう考えるか?

 

 (関連ファイル)           健一MENUに戻る

   『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と北朝鮮系在日朝鮮人、日本共産党

   『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』

   中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者の救済のために

          『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

   藤井一行『国際刑事裁判所関係サイト』

   『HP掲載の中野徹三論文』9篇リンク

 

 はじめに

 

 野村光司氏は、本誌上で人権、とりわけ「政府権力と人権の関係」(復刊第5号P.2)についてしばしば論陣をはられている方である。小泉内閣のもとで改憲問題が政治の日程にのぼってきた現在、この問題はまさに喫緊のテーマであり、氏のますますのご活躍を期待したいところである。しかし、北朝鮮の国家機関による日本市民の拉致問題について氏が本誌の(復刊)5,6号に書かれた二つの論文を読むにおよんで、私はいささかならず驚き、また憤慨もした。また氏とよく似た論調は、北朝鮮問題に触れた他の方の論文にもよく見られることにも、あらためて気づかされた。

 

 そして私もこの問題について、これまで本誌上で2回に渡って書かせていただいている(3,4号)。

 労研誌上で全く異質の見解がただ併存しているだけでは、私たちが考える研究誌とはいえないし、ここではひらかれた自由で公正な論争をつうじての、真理への共同の接近が必要だと私は考える。またこの問題は、実は今後の憲法問題を含む日本の民主主義の進路のありかたとかかわる問題性を秘めている、とも思われる。以下の小論は、そのための率直な私見の披瀝であり、野村氏のお答えをうかがえれば幸いである。

 

 

 日本が被害者を「抑留」した?

 

 野村氏は、第5号に書かれた「日朝緊張下の人権確保」のなかで、一昨年10月15日に帰国した拉致被害者5人を北へ戻さず、永住帰国とし、5人が北に残してきた家族についてはその早期帰国を責任を持って北と交渉し、解決するとした政府の決定について、政府が「本人の意思にかかわらず出国を差止める」ことは、人間の行動の自由を束縛する、人権の重大な侵害である、と述べる(P.2)。この「出国差し止め」という表現は.第6号では、さらに次のようにエスカレートする。「日本が帰国被害者を『抑留』し北の家族を『日本に連行』する政策に固執する限り、拉致問題は袋小路に入るばかり」であり、その解決のためには「当初の両政府間の約束に戻り、5人とその家族とで相談させ、それぞれの自由意志で住所を選ばせねばならない」(P.36)。

 

 これはまるで北の拉致加害者が、日本は約束を破って被害者を「抑留」「逆拉致」した、約束どうりいったん北へ戻せ、家族がどうするかは彼らの自由意志だ、と言う口振りと同じである。野村氏はこの言葉を、この雑誌の上でなく、5人の被害者や彼らの家族の皆さんの前でも、語ることができるのだろうか?

 5人を「約束通り」北に戻せば万事よかったのだ、という主張は、吉田康彦氏はじめなん人かがかねてから述べている。

 

 では、氏の主張どおりに5人を家族の猛反対をも押し切って、10日程の日本滞在で北に戻したとすれば、どうなっただろうか?

 家族と話し合って日本に揃って永住帰国という結果になる、という保証はどこにあるというのか。皆北朝鮮で生まれ、北の名前を持ち、北の教育だけを受け、両親が(曽我さんの2人の娘の場合は母が)日本人だということも知らなかった7人の子どもたちが、あの北の国のなかで、北の政権が望むことと別なことを、どうして言えるのか。終始監督している保衛部員が伝える「将軍様の意志」に、どうして異を唱えられりょうか。北が当初から5人の一時帰国にも不同意で、日本の家族が北に会いに来るのにとどめようとしていたことは、帰国の半月前に平壌で日本政府の調査団と会った5人が、一様に日本の家族との早期面会の強い希望はあるものの、北で育った子供に配慮して、総じて早期帰国にも慎重だった(政府調査結果)、というところにも示されている(曽我さんは帰国希望を表明したらしい)。そしてこの時死亡したと伝えられた横田めぐみさんの娘キム・へギョンさんが調査団に「おじいさん、おばあさんに会いたい」と話し、娘の衝撃的な「死」の知らせと孫のこの言葉に横田滋さんが訪朝の希望を漏らしたこと、しかし家族会は、救う会のメンバーとともに議論の末、一致して生存者の早急な帰国を政府に要求することになったこと、これらの胸痛ませる経過は、8人の被害者の不自然な「死」の報道による衝撃や怒りと重なって、大多数の日本国民の記憶のなかに、今も鮮明に残っているはずである。

 

 家族会がここで訪朝による面会を拒否したのは、これによって被害者の北での「滞在」(これは拉致の継続である)が固定化されるおそれがある、と考えたためであり、政府は家族のこの当然の要求に従っただけである。野村氏は、愛する肉親から24年も非道に引き離された家族会の皆さんの北へのこの不信とこの要求を、不当だと考えられるのか?

 

 ちょうどこの頃(10月4日)、1963年に日本海で出漁中に北の工作船に「救助」され、今北で平壌市職業総同盟の副委員長をしているといわれる寺越武志さんが39年ぶりに一時帰国した。彼は1963年に行方不明になったのち、24年後の1987年に突然北から、朝鮮で暮らしている旨の便りがあり、この年に両親が、以後は母がしばしば訪朝して本人に会っている。彼が同じ船に乗っていた叔父の寺越昭二さん、外雄さんといっしょに北の工作船に拉致され、昭二さんはその際抵抗したため射殺されたことは、元工作員である安明進氏の証言からほぼ確実であり、昭二さんの3人の息子は昨年11月27日、実行犯と見られるオグホを石川県警に告発した。

 

 拉致時に横田めぐみさんと同じ13才だった寺越武志さんは、その戦慄する体験を生涯胸に秘めたまま北に39年暮らし続けた(もう一人の外雄さんは不明)。状況は違うが、日本に永住帰国させず、日本の家族を訪朝させる、というこの「寺越方式」を、彼らは拉致自白後の今回も目論んだのである。家族の怒りと要求とはよろめく政府の腰を押して、帰国の実現を導いた。だが日朝交渉において、これが一時帰国であり、滞在期間は10日程とするというなんらかの「約束」を日本の誰かが相手と結んだことは、前後の経過からほぼ確かである(昨年暮れに北の鄭日朝交渉担当大使、宋外務省副局長−「ミスターX」?−と北京で会った拉致議連の平沢氏は、誰が約束したか、田中審議官かと何度も迫ったが、相手は何もいわず,また「嘘つきの外務省」のなかで田中氏だけは罵らなかった、という一−−『文芸春秋2004年3月号P.142』。

 

 日本政府はここでは、5人が帰国とその期日等について完全に自由な権利を有すること、その権利のうちには家族帰国のための北との自由往来の権利が当然含まれること、を北の当局に確認させるべきであったし、金正日が謝罪した首脳会談時にはそれは十分可能だったはずである。寺越さんの例からも、「一時帰国」や滞在期間などを、被害者や日本の家族のまさに自由意志が表明される前に、官僚が勝手に口にすべきでは断じてなかったのだ。野村氏も、おそらくこの点は原理的にも賛成のはずである。

 

 それ故に被害者の5人は、出発の少し前に突然一時帰国を言い渡されたようで、地村さん夫妻は帰国後の10月23日、つまり当初の北への「帰国」予定日(10月25日)の2日前の記者会見でも、自分たちが一時帰国するということは思ってもいなかったこと、共和国の方が説得されたので同意したが、子供は生まれて今まで社会主義の教育を受けてきて、両親が日本人であることも、どうしてこの国に来たかも知らない、それが解るとどんな衝撃を与えるか判断できなかったので、まず二人が帰って両親たちと相談してみようということで、子供たちには10日間ぐらい旅行に行ってきます、と言って一時帰国したこと、共和国にもし帰ったら、子供たちにどう説明するかを今一生懸命考え、また家族と相談している、と語っている(10月24日朝日新聞)。

 

 したがって、もし家族の皆さんが強力に説得しなかったら、そしてその力で政府が最終的に―本人たちの責任にせず、当然ながら国の責任において―5人を北に帰さず、北に残っている5人の家族の帰国を北に要求していく、という方針を決めなかったら、5人は北に「戻り」、その結果再び以前の拉致状態の生活に戻ることになったことは、間違いない。子供たちと離れての5人の生活は、考えられない。拉致された人びとにとって、共にいる配偶者、子供との生活の価値は、その体験を持たない人びとよりも、はるかに切実である(それだけに、今の5人の方の心中は、察するにあまりある)。そして子供たちと曽我さんの夫は、北のあの無法の独裁政権の支配下にいる。子供たちが、戻った親たちに、親子ともここにいて、時々日本に行ったり、おじいさんたちをここに迎えたりしたい、と言うと予想する方が、まったくもって「自然」ではないか。子どもたちがこういう時、北の「公民」である5人が、北の世界の中でどう説得できようか。

 

 野村氏は、それでも5人とその家族が自由意志で住所を定めたのだから、それでよいではないか、というかもしれない。だがあの北に生まれ、北の世界しか知らない若者が、親の国であれ「外国」に住むかどうかについて私たちがイメージする意味での「自由意志」で判断出来ると考えることが、途方もない間違いである、と私は思う。少なくとも数年、親とともに日本で生活すること(未成年の場合はもっと適当なだけ長く)が、この問題での自由意志での判断能力を語りうる第一の前提であることを、氏は認められないのであろうか?

 

 人権とは、本来それが正当に行使されうるための条件の確保の権利を、含むはずのものである。

 そして子供たちのこの権利行使の前提確保の第一は、5人と家族の「自由意志」に委ねることではなく、両国政府が北に残された家族全員を、責任を持って日本に送り出すこと、にある。北朝鮮国家が、ここでだけ子供の「自由意志」をうんぬんしているのは、彼らが子供の意志を支配し続けようとする意図の現れと見るのが妥当であろう。必要なものは、子供に不安を与えない両親との自由な文通や面会の確保、一刻も早い帰国のための準備(日本政府による日本での生活の保障を含む)の促進、等である。

 

 私と藤井一行氏が最近書いた『拉致・国家・人権』(大村書店)の第一部拉致と人権の歴史の第2章では、チリとアルゼンチンの軍事政権のもとで多発した成人男女の拉致にともない、多くの子供がそれにともなって拉致されたり、拉致された母から生まれて行方不明になった(その多くは他人の里子にされた)例を、国連人権委員会の強制失綜作業部会の年次報告書から引いてやや詳しく紹介したが、愛する子や孫の行方を求めて軍事政権と必死に戦った母や祖母たちの力が、この政権を退陣させる大きな要因となった。そしてこれを受けて成立した1992年の国連総会決議「強制失踪からのすべての個人の保護に関する宣言」は、はじめて拉致を「人道に対する罪」と規定するとともに、特に子どもの保護につき次のように記している(本宣言は拉致問題の憲法ともいうべき文書であり、アナン事務総長は、各国語でのその普及を国連総会での事務総長報告でくり返しよびかけている。本書の参考資料に、その全文を訳載した)。「第20条1.各国家は、強制失綜に処せられた両親の子どもならびに彼らの母が強制失綜中の期間に生まれた子どもの拉致を予防し、阻止すべきであり、さらにこれらの子どもたちを捜索し身元を確認すること、ならびにこれらの子どもたちを彼らの本来の家族のもとに返すことに、努力を傾けなければならない。

 

 2.前項で述べた子どもたちの最善の利益を保護する必要を考慮し、養子縁組の制度を認めている国家においては、このような子どもたちの養子縁組を再審査する機会、特殊な場合には強制失踪に起源する養子縁組の取り消しの機会が与えられるべきである。」

 状況は同じではないが、国連決議は、当然とはいえ本来の親子の絆の重みを、ここまで強調しているのである。

 

 そしてこの事件で同時に私たちが感得すべきことは、24年にわたって行方不明の肉親を空しく探し求め、無法国家に対するこの無能国家(蓮池透氏)の冷たい対応に苦しんできた家族の皆さんの怒りの重さであり、また彼らがいま遂に帰ってきた子どもや兄弟姉妹を、その元凶の国に絶対帰すまいと思う気持ちへの無条件の人間的共感であり、そしてこの共感こそが、このような凶悪な人権侵害と戦う人間の心の第一の前提だ、という直感的判断である、と私は思う。こうした感性を失った人に、もはや21世紀の人権や、それを基軸とする次代の社会主義などを語る資格はない。

 

 

 もし5人が北に「戻った」ら? それを阻止した要因をどう評価するか

 

 この5人の親たちには、5人の子供たちを犯罪国家に(本人の意志がどうであれ)帰さないと主張する、本源的な権利があったのだ。そしてこれは、現代の人権の要求にも、現実の問題解決の条件にも、外務省の小役人の猿知恵よりはるかに適合していた。

 では親たちのこの要求は、5人と彼らの人生にとっても本当に正しかったか?

 

 もう一度、もし5人が日本と北の外務省の高官の「約束」にしたがって北に「戻った」としたら、どういうことが起こったか、考えてみよう。いきなり襲われて袋に入れられ、北に連行されて以来、それまでの自分の世界の総てを奪われ、自分の生を自分で決定するという自由つまり人間としての人格そのものを4分の1世紀の長きに渡って完全に抑圧され、一方的な北の価値観を注入され続けてきた犠牲者の皆さんにとって、いかに感動的であれ、10日程度の祖国での滞在で、残された家族の日本帰国を北で説得できるとは到底考えられないことは、先に述べた通りである。彼らが「金日成バッジ」を外したのは、帰国後二カ月たった12月19日の揃っての記者会見の時だった。

 

 5人がいったん北へ「戻った」ならば、家族の「意志」のほかに、もともと「一時帰国」である、日本政府が反共和国態度を取ったなど適当な「理由」を作り上げて、北の権力者が被害者の帰国や家族の訪問をも思いのままに支配する「自由」を持つ。そして彼らがそれを恥知らずに行使するだろうことは、ほとんど疑う余地もない。蓮池薫さんは、この日の記者会見で「向こうに帰ったら、二度と来られるかという不安も感じました」と語っている。

 

 野村氏はどういう気持ちで、被害者のこういう発言を読まれたのだろうか? そんな心配は無用だ、と言う根拠をお持ちなのか。それとも5人とその家族の皆さんが、北での「話し合い」で、結局は全員人権のあの暗黒の共和国に永住する結果となろうとも、それはそれでよい、と言われるのだろうか。

 

 5人と彼らの家族が再度事実上北に拘束されるという状態に―日本の家族との面会や一時帰国が恩恵的に与えられたとしても―おちいったとすれば、これは単なる日本政府の重大な外交上の失敗にとどまるものではない。これは、拉致、国際法では強制失綜という「人道に対する罪」に属する重大な国際犯罪の、犯罪者すら認めたその犠牲者を、ひとたびは加害者の手から取り戻しながら、ふたたびその手に戻したということ、犠牲者を再度の事実上の強制失踪状態に、被害者の政府が置いた、ということを意味する。これは、日本政府が犯罪者への事実上のほう助、共犯の役割を果たすことと等しい。なによりも犠牲者たちは、一瞬の喜びの後に、以後生涯に渡るかもしれない奴隷化状態を強いられるのだ。それが起こらないと、誰が保証できるのか。さらに銘記すべきことは、こういう状況を許すことは、私たち日本人のうちのこうした人道に対する犯罪を犯罪として追及する意識を麻痺させ堕落させることによって、現代が私たちに課している人権意識レベルの向上を、甚だしく阻害するものとなる事実である。

 

 まさにこの点からみても、家族会と救う会、友人の皆さんの努力は、5人だけでなく、日本人の良識を救った、といえる。そして10日程の短期間に5人が日本にとどまって家族を待つ、と決断できたのは、第一にすぐれた家族の強い愛情と説得、それを支えた長い「生き地獄」(蓮池さんの父秀量さん)の苦闘があった。さらに第二に、5人を迎えた国民の、かつてなく大きなよろこびと怒りを交えた歓迎の輪があった。地村保志さんは帰国2日めに、「―ホテルの中でも、東京都内のバスの中でも、ほんとうにみんな、自分の子ども、兄弟が帰ってくるような心境で接して頂きました。そういう過程で、僕達の問題がお父さんと私たちの問題でなくて本当に日本国民、政府が、みんなが日本の子どもの問題だと、一生懸命してくれたと理解しました。」と述べている(10月18日朝日新聞)。犠牲者の帰国前後の国民の内的体験について私は先の本のなかで次のように書いたが、これがけっして誇張でないことを、歴史は確認してくれるだろうし、また確認させねばならない。

 

 「(この事件は)事件の衝撃とともにこの人間の痛切なドラマに触れた圧倒的な数の国民のうちに,人間の生存と自由の持つ至上の価値とそれを守るたたかいについての言葉を超えた広い共感の層をつくり出した―これは、日本の人権感覚の歴史にとっての、比類の少ない事件だった。」(『拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』大村書店、P.118)

 

 なお野村氏はこのことにつき、『―被害者家族の悲しみと怒りを日本全国民が共有したのは当然のことである』と述べた後、「しかしわれわれの怒りと悲しみに民族的な差別感はないだろうか」と述べ、さらに「日本人が朝鮮人を何万と拉致したことは誰も否定せず(会場笑い)であるが、『朝鮮人ごとき』が『優越日本人を拉致した』と一層の怒りを強めてはいないだろうか。」と記している。(第5号P.10)

 

 戦中までの「朝鮮人拉致」については別に述べるとして、被害者家族の悲しみと怒りに対する日本全国民の共感のうちに、自明の事実のように朝鮮人に対する「民族的差別感」が存在し、それが怒りを強めている、という氏の判断には、どんな根拠があるのか。

 普通の日本国民は、この非道な犯罪とその犯人に怒っているのであり、これに強い怒りを覚えない人間は、こうした犯罪とたたかうことも出来ない。人びとの間の人権の自覚はこの怒りから出発するのであり、私たちは共にここから歩んで、21世紀の人権とそれを保証する体制へと進まねばならないのではないのか? それに対して、根拠もないのに私たちのこの怒りには民族的差別感がある、反省しよう、等と呼びかけ、正当な怒りに水をかけるよびかけは、国民の正当な反発と怒りを買い、この機を逆用しようとしている反動的党派を助ける以外の何物にもならないであろう。一般に日本の左翼は、人権感覚のこうした混乱の故に、拉致の問題に全くなにも出来なかったし、今もますますもって無力かつ無策である。これは、これまでの左翼の人権思想のある構造的問題性を物語っている、と私は思う。

 

 以上述べたことは、5人の日本永住をめぐる日本政府の対応の正しさをもちろん意味しない。平壌首脳会談自体が、この点で重大な失敗を冒した。小泉首相等が5人生存、8人死亡を伝えられ、金正日が拉致を認め謝罪した時、彼らは断固として少なくとも5人とその家族との面会、生きている全被害者と家族の即時帰国の具体的約束、死亡を伝えられた犠牲者はじめ拉致の疑いあるすべての人びとの日本が参加しての調査の約束等を、自分たちの帰国を延期しても、実施し、取り決めるべきだったのだ。この時は、北の独裁政権がそれなりに動揺していた好機であった。ところが日本側は、「宣言」の調印に頭がいっぱいで、事前に拉致問題でのやり取りのシナリオすら、用意もしていないという杜撰さであった。これも田中均氏の秘密交渉にすべてを委ねていた無能と無責任の、結果である。この時には、実に「生存者」の家族が日本人かどうかすらも確認もせず、帰ってきたのである。子どもの使い以下、というべきだろう。

 

 北の政権は今、5人の「一時帰国」をめぐる「約束違反」を盾に、また5人の北に残された家族への思いと日本国民の家族帰国への高い関心を逆用し、この問題処理を出来るだけ[高値売り]することによって、拉致問題全体の解決にすり替えようとしている。そして日本政府は、5人の家族の帰国をもって正常化交渉を開始する方針という。それ故に家族の帰国は、ジェンキンスさんの問題をべつとすると、見通しはおおむねついた、といえよう。しかし、北が死亡と伝えた8人の犠牲者はじめ、拉致された可能性の高い多数の犠牲者の消息の解明、そして犯罪の責任者と実行者の追及と処罰の道が開けない限り、この問題の解決にはならない。この問題にどう対応すべきであり、その際ICC(国際刑事裁判所)はどんな役割を果たし得るか、日本はなぜ「世界人権宣言」採択50周年の1998年に採択され(日本も賛成)、一昨年7月発効したICC設立ローマ条約を未だに批准していないのか、については、私たちの前掲書を、ぜひご参照頂きたい。

 

 「朝鮮人拉致」問題と北朝鮮国民の人権状態をどう考えるか?

 

 野村氏は、5号で「五木の子守唄」は秀吉が朝鮮半島から拉致してきた人たちの歌であろうといい、そこから日本人こそ「拉致の大先輩」であると述べた作曲家の団伊玖磨氏の言葉を引いたが、6号ではこの点についてさらに次のように述べられる。「それ以前にも倭寇が盛んに朝鮮その他のアジア民族を拉致し使役し売買した歴史もある。20世紀に入り全朝鮮人民を居抜きで植民地の民としたのも一種の拉致であり、先の大戦で朝鮮人民男女を大量に或いは徴用労働者として或いは従軍慰安婦としてその意に反して連行しその心身を酷使した事実も厳然として存在する。徴用は法もあり日本人もこれに耐えたが、その法は朝鮮人民に参政権を否定しその同意なく勝手に制定されたもので、これまた日本政府による一種の拉致であった。」(P.34)

 

 倭寇が暴力による人の強制的な連行と奴隷化を行ったこと、そしてそれが高麗王朝の崩壊の一因となったこと等は、よく知られている(ただすべてが日本人によるものではなく、また朝鮮半島にだけ向けられたものでもない。16世紀の後期倭寇の侵寇はおもに中国沿岸、南洋方面に向けられ、その首魁が中国人の王直,徐海であったことに示されるように、主力は中国人だった。)。だがこうした時代の出来事を、現代の犯罪と並べてその責任を現代の人間に問うことは出来ない。それは誰もこんにち、古代や中世のヴァイキングの襲撃やモンゴルの侵入の責任を、現代のノルウェー人やデンマーク人、モンゴル人に負わせるようとしないことと、同じである。人権に関する責任度は、人権の歴史的発展度に比例して高まる。そしてこの点ではやはり、『ゴータ綱領批判』の次のマルクスの言葉が、一定の留保付きで巨視的には適合する。「権利は、社会の経済的構成およびそれによって規定される文化の発展よりも高度であることは、けっしてできない。」

 

 古代から近世にかけての朝鮮半島と日本との関係は、もちろん倭寇や文禄・慶長の役のような日本人による侵略の歴史もあったが、全体としては平和な修好と豊かな文化的・種族的交流が主流だった、といってよい。このことは、政治的に着色されてはいても、『日本書紀』や『続日本紀』にもよく現れている。現天皇が2001年の天皇誕生日の「お言葉」の中で、『続日本紀』に桓武天皇の生母が百済の武寧王の後孫であることが記されている、と述べたことは、その政治的意味の評価は別として、日本の皇室に朝鮮民族の血が交えられている可能性を積極的に認めた事件として、韓国ではおおきく取り上げられた。今必要なことは、日朝両民族の長い交流史の、真に全面的にして豊かな総体を、双方の現在と未来の世代の精神的遺産とすること、であろう。

 

 もちろんその中では、日韓併合前後からの近代史の負の部分と、その反省が正しくかつ深く記録されねばならないが、それは双方の歴史家が協力して、世界を納得させうるほど公平なものでなければならない。韓国併合が帝国主義的植民地化であることは明らかであり、朝鮮民族を苦難と屈辱のうちに置いた事実は確かであるが、当時の文明諸国による世界史的潮流としての植民地主義を、ある民族ないし種族の「一種の拉致」と評するのも、歴史の不当な一面化であり、拉致という犯罪の特質のあいまい化である。植民地化がある民族ないし種族の拉致ならば、独立以前のすべての植民地・従属国の民衆は、どこに連行され、所在不明になったのであろうか。

 

 しかし、拉致と同一ではないが、強制連行という点で拉致と性格を一部共有する戦争期の行政措置として徴用があることは、野村氏が書かれている通りである。なおこれも私たちの本で触れたことであるが、私の大学は1994−1996年、北海道庁の委託を受けて本道での「朝鮮人強制連行」の全国初の本格的調査を実施した。その内容の概略は、本誌の359号で紹介したが、その一部をあげると、政府による朝鮮人の日本移住計画は、1938年の「国家総動員法」ではじまり、それ以前は自由移住であってむしろ政府は移住を抑制していたこと、以後日本に「送出」された朝鮮人労働者の総数は39−45年間でおよそ67万人であるが、その送出形態はまず集団募集、次に官斡旋、最後に44年9月から適用された「国民徴用令」による徴用、の3形態があったこと、そしてこの徴用は、日本人と朝鮮人とを問わず、職場を逃げ出すと「国民総動員法」違反として処罰される強制的なものであり、本格的に「強制連行」の性格を帯びたのは、この徴用であるが、徴用されて日本に連行された朝鮮人は44−45年合わせて約26万人であること、しかし徴用以前の自由意志による集団募集、官斡旋にも実質的に強制的な連行に近い場合が多く含まれていたこと、等である。

 

 だが徴用を含めて期間は2年とされ、以後の帰鮮は自由であること、決戦下の増産体制維持のため、「内鮮一体」を演出する必要があったこと等、私たちが拉致と定義する事態とは、当然ながら異なっている。一般に戦時下の徴用は、徴兵とおなじく国家目的のための国家の強制力にもとづく動員であり、どの国にも見られるこの事態を、誰も拉致とは言わない。とはいえ差別や蔑視がいたるところにあり、さらに支配民族から加えられる強制的措置が、怒りを持って記憶されるのは必然である。一昨年12月6日、戦時下に連行され道内で死亡した朝鮮人労働者の遺骨と101人の名簿が本願寺札幌別院にあったことが明らかになり、昨年の12月6日、この問題のフォーラムが韓国の遺族を招いておこなわれ、私も参加した。101名の国籍は、韓国59名、北朝鮮11名、不明31名、という。こういう問題の調査と解決こそ、従軍慰安婦問題とともに、政府がきちんとやってこなければならないことだった。

 

 ところで金正日政権は、日本統治下の戦時状態について、どのように主張しているのだろうか? 国連人権委員会の強制的失踪作業部会が昨年3月日本政府の調査申し入れ(北が死亡と伝えた8人の拉致被害者についての)にもとづいて北に発した照会に対する昨年7月の回答書のなかで、北の政権は次のように記している。「日本は840万人以上の朝鮮人を日本帝国主義軍隊のための徴兵及び『慰安婦』という形で強制的に徴用、拉致し、侵略戦争のための道具として使った。この人道に対する犯罪は、日本が犯した過去の犯罪の一部に過ぎない。かかる強制的に徴兵され、誘拐された多くの人びとは、残忍にも殺された。そして、それ以外の数百万人の朝鮮人の安否と所在はいまだに判明していない。」

 

 この途方もない数字の根拠は、もちろん記されていない。この主張通りなら、優に1,000万人ほどの朝鮮人が殺されるか、行方不明になったことになる。1939年の朝鮮の総人口は23,800,647人(総督府調査)だから、その約半数が拉致され、殺されるか消された、というのだ。北の支配者たちは、自分達の国家犯罪を隠すために、過去の自民族の苦難を、途方もなく歪めて悪用しているのである。

 

 最後に、私が野村氏の文章を読んで不思議に思われる点は、これは私たちの本で詳しく検討されている和田春樹氏や前田朗氏もそうであるが、日本政府が帰国犠牲者を「抑留」していると批判されるほど人権を大切にされる氏が、その加害者国家が犠牲者に与えた犯罪への怒りを「拉致ヒステリー」と呼び(6号P.35)、また「命令で動いた実行者個人の罪も、国家自身の罪も追求する暇はない」(P.36)と述べてすべてを免罪しようとしていることであり、さらにこの政権が自国の人民に加え続けている恐るべき人権侵害については、ほとんどなにも非難せず、私たちが問うべき問題だとも考えておられないように見える、というところにある。

 

 普遍的人権の確保と前進に現代の改革の基軸を見る人ならば、いますさまじい質量で伝えられる北朝鮮の人権の惨状を対岸視することは、到底出来ないはずである。政治警察と強制収容所、公開処刑、51の「成分」による国民の差別と、徹底した住民監視システムによる恐怖の支配、情報と思想の極度の国家統制、先軍政治の名の極度の軍国主義体制、そのもとでの富の配分の不公平とこれまでの経済管理の解体にもとづく大量飢餓の常態化、他方での国民に秘匿された金正日と側近グループの豪奢な生活と退廃、核とミサイルなどを用いての脅迫外交、どの一つをとっても、北朝鮮の人民と人類に対する国家犯罪ならざるものはない。そして私たちの本の共著者である藤井一行氏が執筆した第2部は、平壌に留学したロシアの朝鮮史研究者ラニコーフの最新の著作はじめ多数の脱北者の記録をも駆使し、この体制がいかに血みどろの粛清過程を経て成立したか,の解明から出発して、この奇怪な「民族スターリン主義」体制(ラニコーフ)の総体と今後の展望に正面から迫っており、ぜひ読者諸氏のご一読をおすすめしたい。そしてそこからも明かになるとおり、この体制の支配者がもとめるものはただひとつ、彼らのこの支配体制の、すなわち人民の人権の徹底した抑圧状態の、永続の「保証」である。本年元旦の北の3紙共同社説は、思想教育の重点として、「すべての党員と人民、青年を透徹した領袖決死守護精神を身に付けて革命の首脳部と最後まで生死運命を共にする先軍革命同志に準備させる」ところにおいているが、ここに示されるように、体制を守るとは、金正日を守ることとひとしい。同時にここには、この抑圧体制に迫る崩壊への恐怖の予感が、端的に表現されているといえよう。

 

 私は韓国の拉致被害者家族会の世界へのアピールを紹介した本誌4号の一文のなかで、「金正日の体制は、日本と韓国の市民にとって、そしてまた専制に苦しむ北朝鮮の民衆にとっての、共同の敵である」と書いた。この体制こそ、東アジアの平和と人権にとっての最大の危険であり、その人権抑圧を3国とその周辺諸国の国および市民が連帯して追及し、抑え、さらに北の市民が真実を知り、自らの人権と生命を守る活動を支援することが、私たち21世紀市民の当面するもっとも緊急な国際的課題のひとつではないだろうか。なぜならそれが遅れれば遅れるほど、日本の拉致被害者―100名を超すとも予想される―だけでなく、北の市民の生命と権利への危険がさらに深刻となるから、である。

 

 ごく最近(1月31日)、とりわけ重大な疑惑が報じられたが、日本ではなぜかまだほとんど伝えられず、問題にされていない。

 BBCはこの日の「悪へのアクセス」と題する番組で、元北朝鮮のペキン大使館付武官でいまソウルに亡命しているKwon Hyok(仮名)という人物を登場させ、彼はそこで自分はペキン駐在の6年前(1993年)には北朝鮮北東部にある政治犯収容所Camp22の保衛部長だったこと、囚人のほとんどは何の罪もなく、単に金親子に反対する言動を行っただけであること、しかしその近親者をも含んでおり、“それは北朝鮮に不忠誠だと分類された人間たちの種子を抜き去るためである”、と述べた。中世以来の連座制である。

 

 しかし、さらに重大なことは、彼自身が目撃した事実として、ここには特別に設置されたガス室があり、政治囚に化学兵器の実験が行われていた、と証言したことである。“私は、ある家族が窒息性のガスでテストされ、死亡するのを見ました。両親と息子と娘でした。両親は嘔吐し、死にましたが、最後の瞬間まで口から口への呼吸で子どもたちを救おうとしていました。”

 

 子どもたちが死んだ時、あなたはどう感じましたか、という質問に、彼はこう答えたが、このショッキングな答えは、彼の証言の真実らしさを裏付けている、と思われる。“私はすこしも可哀想だと思いませんでしたが、それは彼らが皆私たちの国の敵で、私たちの国の問題はすべて彼らの所為だと教えられていたからです。それで私は彼らは死ぬのがふさわしい、と感じていました。”

 

 またBBCのレポーターのオレンカ・フランキールは、ソウルで会った著名な人権活動家Kim Sanghungが、このCampから脱走してきた政治囚がここから持ち出してきたという秘密文書を示した。Top Secretの付いたこの文書には、犠牲者の名が挙げられ、“上記の者は、化学兵器用の液体ガスによる人体実験のため、Camp22から移送される”と記されている、という。この放送はそれに加えて、生物兵器の実験も政治犯収容所で行われたという脱走者の証言を伝えた。“ある将校が私に、50人の健康な女囚を選び出せと命じました。看守の一人が私に籠いっぱいのキャベツのおひたしを渡し、それを自分は食べずに50人に与えよ、といいました。キャベツを食べた全員がすぐ激しく血を吐き、苦痛に泣き叫びました。それは地獄でした。20分以内に、全員が死にました。”

 

 これが事実なら、まさにアウシュヴィッツ並みの地獄であり、この国の支配者は、文字通りの「人類の敵」として、国際法廷で裁かれねばならない。再びこれも疑惑に過ぎない、と言ってすませることが許されるだろうか?―「拉致疑惑」も、すべて現実だったのだ。またここからも、「人道に対する罪」の責任者と実行者を裁く権限を持ち、すでにヨーロッパ諸国のほとんどすべてを含む90か国が批准して発効している国際刑事裁判所規程の批准を、アメリカに遠慮して未だに引き延ばしている日本政府の態度こそが、厳しく批判されねばならないし、とりわけこのような重大な疑惑の解明の要求は、日本の市民運動として大きく発展させねばならないと考えるが、野村氏はいかがお考えであろうか? そして私たちの『労働運動研究』誌のサブタイトル一人権、共生、福祉、環境のために―の第一も、人権なのである。

 

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 (HP掲載の中野徹三論文リンク)

   『社会主義像の転回』憲法制定議会解散論理

   『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

   『「共産主義黒書」を読む』

   『歴史観と歴史理論の再構築をめざして』「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか

   『マルクス、エンゲルスの未来社会論』コミンテルン創立期戦略展望と基礎理論上の諸問題

 

   『理論的破産はもう蔽いえない』日本共産党のジレンマと責任

   『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」(終章・私と白鳥事件)を紹介する

   『いわゆる「自由主義史観」が提起するもの』コミンテルン「32年テーゼ」批判を含む

   『遠くから来て、さらに遠くへ』石堂清倫氏の追悼論文

 

 (関連ファイル)

   『北朝鮮拉致(殺害)事件の位置づけ』朝鮮労働党と北朝鮮系在日朝鮮人、日本共産党

   『北朝鮮拉致事件と共産党の意図的な無為無策路線』

   中野徹三『国際刑事裁判所設立条約の早期批准を』拉致被害者の救済のために

          『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

   藤井一行『国際刑事裁判所関係サイト』