いわゆる「自由主義史観」が提起するもの

 

−その内容と問題点をめぐって−

 

札幌学院大学 中野徹三

 

 ()、これは、『労働運動研究No.344』(19986月号)に載った中野氏の論文です。ここでは、明治維新の理解をめぐって、「自由主義史観」批判とともに、コミンテルンの「32年テーゼ」批判が述べられています。「司馬史観」と合わせて、太平洋戦争までをどう捉えるのか、という総体的把握の観点が貫かれています。このHPに全文を転載することについては、中野氏の了解をいただいてあります。

 

 〔目次〕

   1、明治維新の理解をめぐつて

   2、日清・日露戦争と明治期の歴史像について

   3、太平洋戦争と司馬史観・自由主義史観

 

 (関連ファイル) 中野徹三論文の掲載ファイル  健一MENUに戻る

 

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 以下に紹介するのは、戦前帝国陸軍の現役将校の養成機関だった仙台陸軍幼年学校出身者の会報「山紫に水清き」四七号の「自由主義史観研究会に対する意見」特集号に掲載された中野徹三氏の論文である。中野氏は一年生で敗戦を迎えた同校最後の四九期生だが、同会報編集者氏と中野氏の了解をえてその全文と付表を掲載する。

 なお中野氏は、この論文の本誌への転載に際し、紙面の制約と、もともとの会報読者諸氏の問題意識への配慮の必要から、本来展開さるべき論点を絞っていること、付表は会報編集者氏が作成されたものであること、の二点をコメントされている。   (編集部)

 

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 二年ほど前から、これまでの日本の近現代史の教育と研究について、東大教授の藤岡信勝氏を中心とするグループが、烈しい批判を展開している。

 

 氏によれば、中学校社会科の歴史教科書の近現代史の部分は、日本の近現代史を国民が支配層に搾取され、弾圧された歴史としてひたすら暗黒に描き、また明治の初めから近隣諸国を侵略し、国民を戦争で悲惨な目にあわせたとして日本国家をもっぱら悪逆非道に描き出す「暗黒=自虐史観」が基調になっている(藤岡『汚辱の近現代史』徳間書店、七十頁)。

 

 氏はこうした「自虐史観」が、戦前の日本共産党がその一支部だった共産主義世界党(コミンテルン)の日本革命論と、その支配的影響下に生れた『日本資本主義発達史講座』の日本近代史認識が、戦後の日本近現代史研究・教育の主流となり、これと極東軍事裁判での日本国家断罪の視点が合体して生れたもの、と論断して、これを「コミンテルン史観」または「東京裁判史観」と呼ぶ。

 

 他方氏は、明治維新から敗戦までの日本の国家行動をすべて是認し、太平洋戦争をも欧米の支配と圧迫から日本とアジアの諸民族を解放する正義の戦争であったとする史観を「大東亜戦争肯定史観」と名づける。そして藤岡氏は、以上二つの史観はともに一面的であるとして、自分の史観を第三の「自由主義史観」と称するのであるが、あわせて氏はこの史観が、司馬遼太郎氏の歴史小説(とりわけ『坂の上の雲』)と史論から学んだものであることを自認し、したがって、「司馬史観」がその基本となっていると述べてもいる(のちに見るように、両者の間には、かなり大きい距離があるが)。以下、この史観を、氏のいう他の二つの史観と対比しながら、検討してみよう。

 

 これは、五二年前まで徹底した皇国史観で育成された私たち自身の、現在の日本近現代史観を、自覚的に再吟味する好機会でもある(「自由主義史観」の内容と主な論点については、会誌に別に付表が添えられるというので、それをご参照頂きたい)。

 

 1、明治維新の理解をめぐつて

 

 「自由主義史観」によれば、明治維新は、西欧列強による植民地化の危険を回避し、自前の国民国家をつくり上げた偉大なナショナリズム革命であり、また「武士が武士階級(=封建制)を否定し」て個人の自由な活動を引き出した市民革命であった。これに対し、藤岡氏が批判を集中するところの、維新後の日本国家を封建社会の最後の政治形態としての「絶対主義国家」の一種=「天皇制絶対主義」としてとらえる見方は、藤岡氏がいうようにコミンテルンの「三二テーゼ」と、それに依拠した日本共産党および講座派のマルクス主義史学の立場から発しており、それはやがて日本戦後の近現代史学のもっとも有力な潮流となって、歴史教育にも根強い影響を及ぼしたことは、確かである。また客観的に見て、この立場が神がかり的な皇国史観とそれにもとづく維新以後の支配勢力による政策展開のすべてに対する官僚的、御用史学的美化に対決し、当時の歴史教科書――藤岡氏はなぜ、戦前、戦中の歴史教科書の批判をしないのか?――の背後にあった民衆生活の生々しい事実と、その基底にある社会の経済的構造とその運動に解明の光をあて、遂には太平洋戦争の破滅へと突き進んだ日本近代史を貫く論理を、それなりに明らかにしようとしたこと、それによって、日本史学をはじめて科学の水準にまで引き上げたことは、公正な論者たるもの誰も否定できないであろう。

 

 私見では、このことを承認することと、明治維新や明治以後の日本国家についてのコミンテルン=講座派的見解に全面的賛成することとは、けっして同じではない。むしろ、講座派理論――そしてそれを生み出したコミンテルンのスターリン主義的「マルクス主義」は、維新後の日本を把握するうえでも、多くの一面化と誤りを生んだ。

 

 コミンテルンの革命理論は(特に一九二八年の第六回大会以後)、資本主義の「発展段階」に即してさまざまな国の来るべき革命の性質を類型化するものだったが、維新以後の日本国家については、天皇大権をうたう明治憲法体制と、そのもとでの官僚制国家権力の「相対的に大きい独自の役割」に注目して、これを「絶対主義」と規定し、この天皇制絶対主義国家が現在、一方では半封建的な寄生地主制、他方では独占ブルジョアジーに依拠し、三者で密接な同盟を結んで人民を奴隷化し、新しい帝国主義戦争を企てている、ととらえる(三二年テーゼ)。

 

 

 まず注意すべき点は、ここではヨーロッパ中世から近代への移行期に封建諸侯の割拠を打破して中央集権的国家を創出した絶対王政の歴史的経験が、単純に一九世紀後半以降の極東の一国家に「適用」せられた、という点である。この歴史認識の原点には、封建領主・ブルジョアジー両階級の勢力均衡の上に立つ強力な王権、とするマルクス主義的絶対主義論があるが、その理論と調和させるために、地租改正(一八七一年)と翌年の土地永代売買解禁以後に発展した地主制下の地主階級をも、一九三〇年代のそれを含めて、「三二年テーゼ」は、「寄生的封建階級」と呼んでいる。

 

 さらに注意すべき点として「三二年テーゼ」は、「天皇制絶対主義」は地主的土地所有とともに労働者と農民による「ブルジョア民主主義革命」によってのみ打倒される、と主張するが故に、この「一八六九年以後に成立した絶対君主制」は、半封建的地主制とともに、一九三二年を超えて未来の人民革命の日まで永続することになる。だが敗戦は、人民革命なしに従前の天皇制を質的に変革し、地主制を一掃した。にもかかわらずこの「三二年テーゼ」的歴史観は戦後も永く日本共産党幹部と、その周辺の歴史家たちの頭脳を支配し続け、占領下の「五二年綱領」では、天皇制と寄生地主制を打倒し、占領制度を撤廃する「民族解放民主革命」が、第一段の革命として想定されていたし、六一年に採択された現綱領でも、「三二年テーゼ」の戦略規定は「基本的にただしかった」と総括されているのである。

 

 ここに私たちが見るものは、先験的に権威づけられたある「普遍的教条」と、いくつかの「経験的諸事実」との機械的結合から生れたひとつの歴史像の固定化=実体化であるが、これはしばしば左にも右にも共通する傾向である、といえよう。

 

 「明治維新=絶対主義確立」史観は、明治維新(自由民権期と明治国家体制成立期を含む)が、欧米列強の外圧を契機として、若い下級武士層を主体とする勢力が、古い幕藩体制と身分制度を打破し、その結果解放された人民のエネルギーが、当然ながらその力量の限界のなかで社会の近代化を急速に推し進め、ひとつの国民と国民国家を創生したアジアの「近代化革命」の一つだったことを、正当に評価できなかった。それは、絶対主義→市民革命という西欧型近代化の道を絶対化して日本に適用し、しかももっぱら一九三〇年代の帝国主義日本の原点としての維新像に固執したため、維新が帯びた独自の近代性を見落したのであった

 

 (こうした傾向は、マルクスの理論そのものにも内在している)。だがそもそも「三二年テーゼ」以前の時期には講座派史学においても、維新を「革命」と評価する立場が、むしろ主流だった。

 

 「二七年テーゼ」も「一八六八年の革命」と呼んでいたし、野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』もそうだった。野呂の本と同年(二八年)に出た服部之総の『明治維新史』は、明治四年以後の過程を「上下からのブルジョア革命」として把握していたが、これは廃藩置県を「第二の革命」と見る司馬史観(『明治という国家』上、NHKブックス)と、基本的に一致する。また戦後、明治期の民衆思想を研究したマルクス主義史家色川大吉が、「この時期(維新から自由民権期にいたる四半世紀)は、近代日本の黎明期であり、日本人民が、在来の封建制下の孤立分散的な社会の意識から、国民的な規模での視界へ開眼し、さらに啓蒙思想の助けもかりて世界的な自己意識へと飛躍した“感激”の時期にあたっている」(『明治精神史』、講談社学術文庫(上)、七頁)、と語っているのは、いくぶんかの過大評価を含むとはいえ、民衆の主体からとらえた維新期の革命的性格を、よくとらえている、といってよい。そしてこの限り、「自由主義史観」は、政治的教条から自由なマルクス主義者を含む、健全な史的良識と一致するのであり、特に独創的なものではないが、これまでの明治期の歴史教育批判として、肯綮に値する種々の指摘を行っていることは、それ自体として正当に評価されるべきである。

 

 だが、次のことを見落してはならない。藤岡氏らも、維新を日本型の市民革命として評価する時、ある普遍的な(国家や民族を超えた)価値が前提されている(「自由主義史観」という自称にも注目)。従って、この史観自体も、この普遍的理念のもとで評価されねばならないのである。

 

 

 2、日清・日露戦争と明治期の歴史像について

 

 藤岡氏によれば、帝政ロシアが朝鮮を支配下に置こうとしたために「日本は朝鮮半島に手を突っ込まざるを得なかった」のであり、「こういう経過から見ると、日露戦争は日本にとって祖国防衛のための国民戦争であった」(藤岡前掲書一五四頁)。だが、日露戦争の十年前におこった日清戦争は、すでに朝鮮支配をめぐっての朝鮮の宗主国清帝国との争いであり、日露戦争もまた、朝鮮支配をめぐる帝政ロシアとの戦争であった。この二つの戦争が、日本のみが一方的に推進した侵略戦争でないことは、のちの昭和期の大日本帝国の戦争との主な相違点の一つであるが、その目的が武力によって他国(主に朝鮮、清国)から領土や種々の利権を獲得しようとするものだったことは、それぞれの講和条約の内容と、その後の事態で十分に明らかである。これを侵略と呼ばずして、欧米のアジア侵略などを非難することは、到底できない。

 

 たしかに、当時の国際関係のもとでは、三国干渉後のロシア軍の南満州居すわりや旅順・大連租借等は、朝鮮半島のロシア化を通じて将来の日本の安定を脅かす要素であり、その限りこの脅威の除去が、日本にとって一種の「自衛」の性格を帯びていたことは、否定できない。しかし、そのはるか前から、日本の朝鮮進出は、一八八二年の壬午軍乱から日清戦争期の甲午農民戦争のうちにはっきり現われるように、朝鮮人民の生活を圧迫し、また彼らの民族感情を著しく傷つけていた。日本にとっての「自衛」の遂行は、朝鮮の人民にとっては、まさに「汚辱」の限りない進行にほかならなかったのだ。

 

 ただ、にもかかわらず私たちが留意せねばならないことがある。

 それは、自国によって植民地化される他民族の民族的アイデンティティの危機をあづかり知らなかった当時の日本国民の「国民意識」のありかた、それと当時の日本国家との関係の問題である。司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で描こうとしたのはまさにこの問題であり、そして「自由主義史観」はここから出立しているのであって、すべてを結局は階級関係と階級闘争に帰着させようとするマルクス主義の「階級還元主義」的思考が、遂にとらえそこねた問題だった。そしてここにも、明治維新の末裔たる明治の時代のきわだった特質が投影されているのである。

 

 この時代の初頭には、「一身独立して一国独立す」という福沢のかの先駆的命題が生れ、個人の精神的自立と国家の政治的自立、民権と国権は不可分に結びついて観念されていたが、この意識はその後国権の排外主義的叫喚がますます高まってゆくうちにあっても完全には消滅することなく、それなりの形で、明治をリードする政治家や知識人のなかに生き続けていた。このことについて丸山眞男氏は、「……その後の時代に比べると、やはり明治全体としてそこに何か根本的な健康性を宿していた。」と述べたことがあった(『戦中と戦後の間』、みすず書房、二四八頁)。

 

 ヨーロッパの超大国ロシアとの戦争という非常事態は、国民意識のなかの国民と国家との「一体性」を極限的に高めたが、指導層においても「のちの時代に比べると自己の権力に対する神秘的な幻想や自己欺瞞からはるかに解放されており、歴史的発展の動向に対してリアルな感覚を持っていた。」(丸山眞男「明治時代の思想」、上掲書五七一頁)。また、軍人精神の面についても、この二つの戦争で生れた多くの軍神聖将逸話が物語るように、将と兵、敵と味方の間にも太平洋戦争期とは違うある合理的でヒューマンななにものかが生きていたことも、間違いなかった。そしてそれも維新期をとおしてなお生き続けた江戸時代の武士道だったと、司馬氏は内村や新渡戸らを引きながら、こう語っている。

 

 「すくなくとも日露戦争の終了までの日本は、内外ともに、武士道で説明できるのではないか、あるいは、武士道で自分自身を説明されるべく日本人や日本国はふるまったのではないか、と思います。」(『明治という国家』下、NHKブックス、一一七頁)。

 

 だが、この点を一面では肯定しながら、私は司馬氏にこう問いたい。たしかにこの武士道は、日露戦争では旅順開城など日本が当時師として仰いだ欧米の軍民には示されたけれども、アジアの民族に対してはどうだったか、日清戦争中の旅順虐殺事件、下関講和会議での李鴻章狙撃事件、そして講和条約後の三浦公使らによる朝鮮国王妃閔妃惨殺事件等々は、どう説明できるのか? 中国人に対して「チャンコロ」と呼ぶ、アジア諸民族への侮辱感情は、日清戦争後急速に拡がった。また日本支配層は、国内の貧しい労働者と農民の大衆に対して、どれほどの「武士道」を示したのか? 司馬氏はこうしたテーマについては語らず、藤岡氏も、彼のいう「自虐史観」が取り上げるこのような主題については沈黙するか、あるいは弁護するにとどまる。明治期は、「コミンテルン史観」と「自由主義史観」のいずれによっても、けっして十全に解明されはしないのである。

 

 

 3、太平洋戦争と司馬史観・自由主義史観

 

 日露戦争以後の時期の日本の指導層と軍部に対する司馬氏の批判はかなり厳しく、司馬史観から学んだという藤岡氏らのグループが、とかくこの期の日本の戦争を弁護する傾向が強いのと(「従軍慰安婦」問題や南京虐殺事件等々)かなり位相を異にするが、その背景にあるものは恐らく、司馬氏の戦車兵――あのみじめな日本の戦車!――としての軍隊体験であろう。司馬氏は、「この戦争(日露戦争)を境にして、日本人は十九世紀後半に自家製で身につけたリアリズムを失ってしまったのではないか」と述べている(『この国のかたち』四、文春文庫、二一七頁)が、氏は荻原延寿氏との対談で、第一次大戦中に日本が中国に提起し、以後の反日運動の起点となった二十一カ条の要求が、日中関係の転回点となったことを強調する。「日本を今日たらしめたのは、二十一カ条ですね。あれが一番大きかった。」(『歴史を考える』文春文庫、六六頁)。

 

 また司馬氏は、最晩年(一九九四年)に書いた『この国のかたち』のなかで、太平洋戦争をはっきりと侵略戦争と呼び、さらにあれがアジアの植民地解放の戦争だった、という弁護論を批判して、次のように述べてもいる。

 

 「あの戦争は、多くの他民族に禍害を与えました。領地をとるつもりはなかったとはいえ、以上に述べた理由で、侵略戦争でした。……あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にあり、その獲得を防衛するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです。ともかくも、開戦のとき、後世、日本の子孫が人類に対して十字架を背負うことになる深刻な配慮などはありませんでした。昭和初年以来の非現実は、ここに極まったのです。」(『この国のかたち』四、二四〇〜二四一頁、傍線引用者)

 

 司馬氏はまた、この「非現実」を導いた重要な要因として、その名目のもとに軍部が満州事変、日中事変、ノモンハン事変などをひきおこした「統帥権の独立」を、指摘している(同上書九二〜一四五頁)。

 

 明治にはまだあった「健全なリアリズム」と国際感覚、武士道精神は、昭和期の軍部の精神からは、あらかた消えていた。張作霖の爆殺から柳条湖事件にいたる河本大作、板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍参謀の謀略については読売新聞が最近入手、公開した河本大作の供述書がよい資料を提供している(『This is 読売』誌九七年一一月号)。

 

 しかも、板垣、石原ら関東軍参謀は、満州全土占領の口実のために柳条湖の満鉄線を爆破した(謀略に用いた中国人三名は直後に殺害)のみならず、関東軍支援のためのクーデターを東京で起こすべく東京の参謀本部の建川美次、橋本欣五郎、長勇らと打合せ、陸軍省、参謀本部、警視庁の爆破プランをも立てていたのだった(河本供述書、同上五八頁)。

 

 なお劉傑氏(早大専任講師)は、一九二七年六月六日付で関東軍参謀斉藤恒が陸軍次官畑英太郎にあてた「当軍司令官ノ対満蒙政策ニ関スル意見」のなかには、次の文章があるという。

 「一、支那人ハ支那人トシテ見ルベシ 「某曰ク、支那人ハ類人猿ナリト。批評酷ナリト雖モ、正ニ適中スルモノトイフベシ」(同上誌、四五頁)。

 

 こういう指導層を頂く日本軍隊が、激戦後南京を占領したのちにおこった事態については、ナチ党員でありながら中国人避難民を日本兵の殺害や暴行から身をもってかばったジョン・ラーベの日記が雄弁に証言している。藤岡氏のグループの一人である東中野修道氏は、「虐殺を証明する公式資料は一つもない」といって、南京虐殺を虚報として否定するが(『教科書が教えない歴史』A、産経新聞社七〇〜七二頁)、虐殺の規模が中国側で主張するように三〇万人でなく、ラーベがヒトラーへの上申書で推測する「およそ五万から六万人」だったとしても(ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社、三一七頁)、それで虐殺の事実が消えるというのだろうか。この東中野氏の見解も「自由主義史観」なら、上の如き「健全なリアリズム」を持つ司馬史観とは、大いに異なっている。かりに中国軍が大軍をもって東京を占領し、数万の市民を殺害したとすれば、以後日本人はこの事件を何と呼ぶだろうか? ここにあるのは、当時の日本軍部に劣らぬところの、肌寒いほどの想像力の欠除、である。そしてその果てにおこった太平洋戦争が、日本軍の戦略と戦争技術、組織の非合理性をどれほど証明したかについては、共同研究『失敗の本質』(中公文庫)や千早正隆『日本海軍の驕り症候群』(中公文庫)などが、それなりによく物語っている。

 

 だが私は、何よりもあの「皇軍不敗」「必勝の信念」によるすさまじい人命無視の戦争遂行を、ひとつの集団犯罪とみなしたく思う。司馬氏がいうように、この戦争で十字架を負った私たちと私たちの子孫が、新しい世紀に真に創造的で建設的な人類の一員として迎えられる道を開くこと、ここにこそ、普遍的な理念に基づく真に自由な史観が果たすべき目標があると私は信ずる。そのためには、互いに古いドグマをカッコに入れた心ひろい討論が、必要と思う。

 

 (「コミンテルン史観」のもとになるマルクスの理論については、ソ連邦の崩壊の根源をマルクスにまで遡って検討した私の著書『社会主義像の転回』三一書房、『生活過程論の射程』窓社、のご参照をぜひお願いしたい)。

 

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 (中野徹三論文の掲載ファイル)

 

   『マルクス、エンゲルスの未来社会論』基礎理論上の諸問題

   『社会主義像の転回』 憲法制定議会解散論理

   『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

   『「共産主義黒書」を読む』

   『理論的破産はもう蔽いえない』日本共産党のジレンマとその責任

   『遠くから来て、さらに遠くへ』石堂清倫氏の九七歳の歩みを考える

   『現代史への一証言「流されて蜀の国へ」を紹介する』

     (添付)川口孝夫著書「流されて蜀の国へ」・終章「私と白鳥事件」