理論的破産はもう蔽いえない

 

―日本共産党のジレンマとその責任―

 

社会主義研究家 中野徹三

 

(注)、これは、「労働運動研究No.374、2000.12」に掲載された中野論文の全文です。このHPに転載することについては、中野氏の了解を頂いてあります。文中の「傍点個所」は、太字にしました。

 

 〔目次〕 1、二つの「革命」と「共産主義社会の実現」の放棄?

       2、なしくずしと状況追随の路線転換

 

 〔関連ファイル〕          健一MENUに戻る

   『社会主義像の転回』憲法制定議会解散論理

   『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

   『「共産主義黒書」を読む』

   『歴史観と歴史理論の再構築をめざして』「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか

   『マルクス、エンゲルスの未来社会論』コミンテルン創立期戦略展望と基礎理論上の諸問題

 

   『古い教条と新しい現実との谷間で』日本共産党の綱領検討

   『現代史への一証言』「流されて蜀の国へ」(終章・私と白鳥事件)を紹介する

   『いわゆる「自由主義史観」が提起するもの』コミンテルン「32年テーゼ」批判を含む

   『遠くから来て、さらに遠くへ』石堂清倫氏の追悼論文

 

   『国際刑事裁判所条約の早期批准を』拉致被害者の救済のために

   『共著「拉致・国家・人権」の自己紹介』藤井一行・萩原遼・他

   中野徹三・藤井一行編著『拉致・国家・人権、北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』

 

二つの「革命」と「共産主義社会の実現」の放棄?

 

 十一月二〇日から、今世紀最後の日本共産党の(第二十二回)党大会が開かれる。ここでの主要な課題は、すでに報じられているように、これまでの党規約のかなり大幅な改定にあるが、その次の党大会では党綱領の改定が本番として登場することを、不破委員長自身が、彼一流のごまかしに満ちたいいかたで、次のように述べている。

 「今度、党の規約についてやったことは、一つの理論的・実践的な“突破”でしたが、綱領についても、正確な路線で、それを読めば国民がだれにもわかってもらえるような形で表現する、そういうものをつくるという“宿題”をわれわれはもっていることを、念頭に置かなければいけないだろうと考えています。()」(傍点引用者)

 党規約改定案についての七中総での不破報告も、今回の改定の趣旨は、「二十一世紀を迎える新しい状況のもとで、日本共産党が日本社会のなかではたすべき役割にふさわしく、党規約を簡潔で分かりやすいものにする、このことを主眼として、規約全体を検討いたしました()」となっている(傍点引用者)。

 

 これらの「説明」をすなおに読む人は、今回の改定は規約・綱領共に内容を「わかりやすする」ためのもので、その根拠となっているはずの理論とか原則には変化はないもの、と考えるのが当然である。

 しかし、そう思って規約改定案に接した人は、これまでの長く厳めしい規約前文が全文削除され、かの「前衛政党」の規定も消え、党員の権利義務や組織原則などにかんする重要条項が大幅に書き直されているのを見て、驚きの念を禁じ得なかったであろう。

 

 これらの「削除」や「改定」、新しい規定の「導入」が、単にこれまでのこの党の主張やイメージを「わかりやすく」したのではまったくなく、それなりにその「現代化」と「革新」を――それを通じて停滞し後退する党勢の拡大を狙ったのであることは、規約改定案についての討論の結語で、討論のなかでは「想像を超える抜本的なものだった」という驚きの声も聞かれたこと、そして「驚いた同志を含めて、この規約改定案がわが党の新しい発展段階を反映されていること、また新しい前進の展望を切り開く力になることを強調していた」と不破氏が述べていることからも、明らかである。

 

 しかし、奇妙かつ奇怪なことは、これらの「削除」や「改定」が加えられる前のこれまでの命題や規定が、そもそも当初から誤っていたのか、それとも諸状況の変化により以前からすでに不適切なものとなっていたのか(この場合もそれを長く改定しなかったことは、少なくとも政党としても重大な政治的誤りである)等について、明確な理論的解明も指導部として不可欠な自己批判もまったくないままで行われる「削除」や「改定」であることだ。ここでは「削除」は、誤っているか、「わかりにくい」かの区別もなされないままに、原文から突如「粛清」される。そしてこれとともに、数十年にわたってこの命題を護持してきた指導部の責任も、抹消される。かくて党員たちは、再び思考停止の状態に置かれる。不破氏らの、かの狡猾な自己保身術であるが、もはや党内には、この知的・道徳的退廃状況を糾弾する声も、すっかり消滅してしまったのであろうか?

 

 不破氏には、規約前文の「全文削除」という措置を、「前文のなかの解説的・方針的・心得的な内容はのぞいて、党の基本にかんする、規約としては欠くわけにはいかない部分を第一章に定式化した。()」と説明する。

 それではその結果、これまでの規約の「方針的な内容」、特に党の性格と目的という根幹的な部分は、新しい規約草案に、どう移行したのか? 読者諸氏には、党の目的にかんする次の新旧の二つの規定を、注意深く比較して頂きたい。

 (現行規約の前文から)

 党の目的は、日本の労働者階級と人民を搾取と抑圧から解放するために、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配とたたかい、人民の民主主義革命を遂行して独立・民主・平和・中立・生活向上の新しい日本をきずき、さらに社会主義革命をへて日本に社会主義社会を建設し、それをつうじて高度の共産主義社会を実現することにある。

 

 (規約改定案の第二条から)

 党は、創立以来の「国民が主人公」の信条に立ち、つねに国民の切実な利益の実現と社会進歩の促進のためにたたかい、日本社会のなかで不屈な先進的な役割を果すことを、自らの責務として自覚している。終局の目標として、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会の実現をめざす。

 

 この視点から二つの規定を比較すれば、まずすぐわかることは、改定案には制定前後以来これまでの綱領論議全体を通じてあれほど強調されてきた「二つの敵」に対する「人民の民主主義革命」とそれに続く「社会主義革命」という二つの革命についての言及が、すっぱりと消されている、という事実である。これは「わかりやすくする」ための省略にすぎないのか、それとも、二段階革命論の放棄、さらには革命そのものの「削除」の予告であろうか?

 

 それだけではない。現規約が、日本共産党の究極目的としている「共産主義社会の実現」も消え、そのかわりに、「真に平等で自由な人間関係から成る共同社会の実現」という文言に置換されている。にもかかわらず党名は依然として共産党である。現在の「共産党」という党名の由来は、この党名を共有した全世界の諸党が共通に依拠したマルクスのかの命題――「共産主義者は、自分の理論を私的所有の廃止という一語に総括することができる」(『共産党宣言』)――にもとづき、私的所有の最後の、もつとも完成された表現としてのブルジョア的所有=資本の廃止ののちに出現するであろう財産共有社会にあったはずである。この改定も「わかりやすさ」のためか。それとも、これまでのマルクス主義的「共産主義社会」論の放棄なのか? 奇妙なことに七中総での不破報告は、この点についてまったく言及していない。といって、目標の社会が、なんらかの意味での社会主義社会である、といっているのでもない。そうなれば、社会主義社会と共産主義社会の間についての新しい理論的解明が不可避となるから、であろう。

 こうして、この党の終極目標は、いっそう漠とした「共同社会」に置き換えられた(といって、これまでの「共産主義社会」が、マルクス以後一世紀をへても、ユートピアを超えた科学的・現実的展望としての性格を依然として獲得してしていないことも、反面の真実であるが)。

 

 以上の検討から洞察できる日本共産党の綱領路線の近未来的展望は、ほぼ次のようになろう――

 この世紀末の時点において日本共産党の現指導部は、これまでの党綱領に表現された「二つの革命路線」と、その先にあるとした将来社会像に対する確信を改めて失いつつあり、それらに距離を置きつつ、体制内の「先進的な」改良主義政党に脱皮しようとしている、しかし、この「転換」は、その明確な清算を行う上での理論的無能力と、またそれがみずからへの責任追及に転化する事態への官僚的・保身的恐れから、これまでとひとしくあくまでもなしくずし的に、であり、古い命題や教条は理論的・思想的に徹底的に批判されて克服されることなく、今回の「削除」や「改定」の例のように、隠蔽され、凍結されて放棄される。また、「民主集中制」のように、定義は欺瞞的に市民社会化されるが、本誌前号で乾一氏が切開されているようなその実態は、可能な限り温存され、維持される。

 ではこの「転換」は、どのように準備されたか。九〇年代の二つの党大会の決議に即して、それを検討しよう。

 

 

なしくずしと状況追随の路線転換

 

 一九九四年に開かれた日本共産党の第二〇回党大会は、ソ連崩壊後最初の党大会であり、また九〇年総選挙での議席三分の一減という結果を受けて、自己脱皮が徹底して模索さるべき大会であった。国内では、冷戦体制の崩壊に対応して「五五年体制」の解体が始まり、前年(九三年)には細川非自民内閣が成立し、一年後には村山自民・社会・さきがけ連合政権が誕生していた。宮本議長は、病気のため大会に出席できず、これまでの路線に最大の責任を負う宮本体制は客観的には大きな危機に直面しており、もし党内に強力な民主的改革派が生き残っていたならば、イタリアの党にははるかに及ばないにせよ、かなりの程度の民主的改革が実現しえたかも知れなかった(その結果、イタリアのように党が解体し、選挙等で一時的な後退が生じたとしても)。だが主体的に思考し、行動する党員は、すでに党から一掃されるか、絶望して党を離れており、当初は恐らく上からの「宮廷革命」を胸に秘めて宮本王朝に抱きかかえられた不破・上田氏らは、せいぜい一部の政策面で綱領路線とは本来矛盾する(したがって全面展開もできない)改良主義的方針を出す程度で全体としては宮本体制にしっかりと組み込まれ、その立て役者としての役割を演じてきた。

 

 だが、宮本グループのなかでひそかに同床異夢の生活を続けてきた不破氏らは宮本氏らの強力な締めつけが緩み始めた九〇年代から、宮本グループが許容する(せざるをえない)範囲内での「改良」の試みを実施することになるが、現綱領や民主集中制に抵触しないためには、やはり手馴れたなしくずし的手法に依存しないわけにはいかない。

 こうして第二〇回大会では、党綱領の「一部改定」が実施されるが、綱領制定時にあれほど問題となり、草案反対派を判別する踏み絵ともなった「半占領」という現状規定(これはもともと一九五四年の「中ソ共同宣言」に登場し、五五年の中国共産党機関紙『人民日報』でも用いられた語で、宮本氏らが草案に援用したものだった)は、次のような詐欺的説明だけで、「よりわかりやすい」規定のためあっけなく放棄されたのである。

 「…理論的な意味では、日本の現在の状態にもあてはまりうる規定です。ただ、今日の対米従属の実態的内容は、サンフランシスコ条約の締結から四〇年あまりたってかなり変化してきており、現状の表現としてよりわかりやすい、うけとりやすい規定にあらためたいというのが、今回の改定の趣旨であります。()

 

 同じ党大会では、綱領で「社会主義国」とよんできたソ連・東欧の諸国について、「社会主義社会には到達しえないまま、その解体を迎えた」と、表現をいいかえたが、それでは社会主義社会はどういう社会を指すのか、またこれまでのソ連・東欧など、綱領改定後は「社会主義をめざす国」とか「社会主義をめざす道にふみだした国々」などという新造語で呼ぶことになった国ぐにの体制はどう規定すべきか、という当然生ずる疑問にはまったく答えることもな.く、さらにまた、そういう国ぐにをこれまで国民の前に社会主義国と呼んできた自分たちの責任を省みる一言も、発せられなかった。そしてこの恐るべき鉄面皮さは、党中央に対する批判は一言も出されうべくもない、かの満場一致の党大会(いっせいの笑い、拍手)のなかでだけ――民主集中制のもとでだけ、適用可能であった。

 この党大会に対する中央委員会報告では、この時期にも「冷戦体制」は継続しているなど奇妙な史観がなお継続しているが、国内政治戦線状況については、「日本共産党を除くすべての党が『自民党政治の継承』という共通の政策的基盤にたっている」として、みずからの孤立状態を、「唯一の革新党」として美化することにひたすら努めている。

 

 その三年後、一九九七年に開かれた第二十一回党大会は、九六年の総選挙での十五議席から二十六議席への「躍進」を背景に、党指導部が浮かれて「とんだ」奇妙な党大会だった。

 永く続き、深刻化する不況と共産党以外の野党の「総与党化」は、既成政党に対する無党派層の不満の増大(「青島・ノック現象」等)と、共産党への一定の得票の集中、を生んだ。そしてこれに驚喜した指導部は、「自共対決」の時代が到来した、と大会決議で述べ、「二一世紀の早い時期に…民主連合政府を実現することをめざして奮闘する。()」と宣言するにいたった。ではどの党派と連合して政府をつくるのか。大会への中央委報告では不破氏は、「日本では…社会民主主義政党が国民のあいだでの定着に失敗した」と述べて自己反省を抜きにした旧態依然たる社会民主主義観を示したのち、「私たちは無党派勢力とわが党との共同が二十一世紀の民主的政権にせまるカギをにぎっていると位置づけています。()」(傍点、引用者)という驚くべきヴィジョンを得々として提示している。日本共産党と「無党派勢力」との共同による「民主連合政権」――だが党派無き勢力との連合政権、とはまさにヴアーチャル政権以外のなにものでもないのではないか?という正常な問いも、この大会では当然ながらまったく聞かれなかった。不破氏は、この報告で、当面の目標として「この衆議院に百をこえる議席、参議院に数十の議席を持ち・・・自民党と正面から対決できる力量をきずきあげること」を挙げたが、この不破式ユートピアは、三年後に再び破れ砕けるのである。注目すべきことは、ここにはもはや「人民の民主主義革命」の一言も登場しない、という事実である(第二〇回大会ではまだ、綱領改定の提案のなかで、民主主義革命の実行が「綱領の中心命題である」といわれていたが)。

 

 しかし、二〇〇〇年の総選挙では、百を越えるどころか、議席は二六から二〇に後退し、得票率も減少した。永久に政権の外にある「唯一の革新党」への勤労人民の眼は甘くなかった。「無党派層」のかなりの部分は、今度は民主党と社会民主党を選んだ。この状況のもとでの引き続く参院選での敗北を恐れた党指導部は、来る第二十二回大会の決議案において「わが国に於ても、二〇世紀の歴史の流れを大局的に見るならば、戦前の天皇主権の政治体制は改められ、国民主権の民主的な政治体制が作られた。()」として、「憲法の進歩的条項はもとより、その全条項をもっとも厳格に守る」ところの「民主的変革」に軸足を移すが、哲学なきその現実追随主義は憲法と矛盾する「自衛隊活用論」の提起に道を開くことともなり、党内外からの批判を招くことになる。またここで戦後すでに「国民主権の民主体制がつくられた」としたことは、本誌前号の柴山論文が指摘するように、現綱領の二段階革命論の誤りを事実上是認したにひとしい。ここでは、前大会での「無党派勢力との共同による民主的政権」の空想的提起はあっさり放棄され、「わが党の綱領では、当面の民主的改革の段階から社会主義の本来の段階まで、単独政権ではなく、いっかんして他政党との連合の力、連合政権によって、社会変革をすすめることを、政治の民主的な発展の原理として位置づけている()」(傍点、引用者)と述べる。だが、当面のパートナーと想定された民主党は、党名と党綱領が今ままでは話し合いにならない、と突き放す。

 

 党指導部(特に不破グループ)にとっては事実上死文化した、しかし選挙戦上の障害となった綱領上の諸命題――二つの革命と共産主義社会の実現――の「削除」の企てが本格化したのは、こうした事情の故であろう。そして宮地健一氏のHPによれば、党本部「社会科学研究所」に勤務して党中央の情報に明るいある人物が、彼の友人に対して、明年七月参議院選挙前に第二十三回臨時大会を開いて綱領の全面改定を行うことになっている、そしてそれをスムースに行うために、第二十二回大会での規約改定に際して、臨時党大会は前大会の代議員によってひらかれるという、前代未聞の改定案(新規約案第一九条)が用意されたのだ、と述べたといわれる。イタリア共産党が、何年にもわたる徹底した党内外の討論を通じて左翼民主党に転換したプロセスと比較して、人はどういう感慨を覚えるだろうか。ところが新規約案第五条の「市民道徳」のために中央委が用意した項目には、次のものがあるという――「真実と正義を愛する心と、いっさいの暴力、うそやごまかしを許さない勇気を持つ。()

 

(注)

() 七中総決定(文献パンフ)、六三ページ。

() 同右、五二ページ。

() 同右、五二〜五三ページ。

() 『前衛』六五一号、一〇三ページ。

() 『前衛』六九三号、二七ページ。

() 同右、九一ページ。

() 七中総決定、四ページ。

() 同右、二〇ページ。

() 同右、五七ページ。

 

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 〔関連ファイル〕

   『社会主義像の転回』憲法制定議会解散論理

   『「二〇世紀社会主義」の総括のために』

   『「共産主義黒書」を読む』

   『歴史観と歴史理論の再構築をめざして』「現実社会主義」の崩壊から何を学ぶか

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