| 西欧のアジア侵略 |
| 16世紀初頭から宗教改革に押されていたカトリック教会は海外での信者獲得を画策、ポルトガル、スペインの航海に |
| 宣教師を同乗させ、原住民への布教を行った。マゼランが1521年にフィリピン諸島に到着した。 |
| ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を確立したイギリス、フランス、オランダも海外進出を始めた。 |
| これら後発国は、ポルトガルやスペインが急速に没落していった経験から、慎重かつ巧妙な植民地経営を行った。 |
| 教皇子午線
- Wiki /
トルデシリャス条約
- Wiki /
大航海時代
- Wiki / |
| オランダ海上帝国
- Wiki /
フランス植民地帝国
- Wiki /
イギリス帝国
- Wiki / |
| コロンブス 侵略者
- Google 検索 /
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| インド、東南アジアのイスラム化 |
| 中国にイスラームが伝わったのは7世紀の中頃、
唐の高宗の時代。ムハンマドが開教してから、約40年後であった。 |
| イスラームのインドへの波及は8世紀に始まる、本格化するのは11世紀から、13世紀には最初のイスラム王朝(奴隷 |
| 王朝)が建てられた。中世インドを支配したイスラム王朝は、まとめてデリー=スルタン朝 ( 1206 〜 1526 ) と呼ばれる。 |
| イスラムはヒンドゥー教と抗争、共存しながら拡大を続け、16世紀のムガル帝国がほぼインド全土を征服した。 |
| 東南アジアへはムスリム商人たちが香辛料の買い付けのために往来し、諸島部から拡がった。15世紀には |
| 国際貿易国家であるマラッカ王国がイスラム化され、イスラム教圏は東南アジア大陸部へと拡大されていった。 |
| イスラームのインド侵入/インドのイスラーム教
/
インドの歴史 (北インドのイスラーム化と南インド)- Wiki |
| アラビア半島から中国へ至る海のシルクロードの寄港地、中継点として東南アジアは栄えていた。 |
| イスラム神秘思想、スーフィーはインドのイスラム化において大きな役割を果たした。 |
| 東南アジアの チャンパ王国
や マジャパヒト王国 などのイスラム化においても同様であった。 |
| |
| 中東、中央アジア、東ヨーロッパでは、啓典の民以外は改宗を迫られたが、
インドでは、多神教のヒンドゥー教と |
| 共存することで拡大が可能になった。 多神教のヒンドゥー教にとっては、仏陀であり、アッラーであっても神の一つ |
| として
受け入れることはできた。また、スーフィーの苦行による神人合一の思想や、行者の苦行は理解可能であった。 |
| そしてイスラームにはカースト制がなかった。ムガール帝国の多くの藩王国でヒンドゥー教の王国があった。 |
| 早くからイスラームと干戈を交えてきたインド北部では、16 世紀初め、パンジャーブ地方を拠点として、 |
| イスラームの影響を受けて、唯一神、偶像崇拝の否定、カーストの否認などを説いた シーク教が開教した。 |
| シク教
世界史用語解説 / |
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| 東南アジアのイスラム王国 |
| マラッカ王国(1400–1511。マレー半島南岸)は、15世紀にマラッカ王がイスラムに改宗。 |
| 東南アジアのイスラム化の拠点となった。1511年ポルトガルが征服。 |
| スールー王国(1405–1915、スールー海周辺)。1898年にスールー王国は米領フィリピンに併合された。 |
| アチェ王国(1496–1903、スマトラ島)。オランダが征服。 |
| マタラム王国(1587–1755、ジャワ島)。オランダ東インド会社が介入したジャワ継承戦争でオランダの保護領となった。 |
| パタニ王国(1516–1902、マレー半島中部、現在のタイ王国深南部三県)。パタニ諸邦は中央政府の直接統治下に編入された。 |
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| 東南アジアへのイスラムの伝播経路 13世紀から16世紀 |
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| A Concise History of Southeast Asia, Chapter 1
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| Spread of Islam in Indonesia
- Wiki /
Islam in Indonesia
- Wiki /
|
| 図録▽東南アジア諸国の民族構成
/ |
| 大航海時代に先駆けたイスラム系民族の海の覇権
日本船主協会:海運資料室:海運雑学ゼミナール274 / |
| 海のシルクロード
- Google 検索 / |
| 大航海時代のはるか以前からアラブ人、ペルシア人、インド人等の商人が中国と交易していた。 |
| 海の玄関であった広州には彼らの居留地があった。世界帝国である唐には商人以外にも諸外国の外交使節 |
| 留学生、留学僧が滞在していた。唐の都、長安には仏教、道教、景教、祅教などの寺院が建ち並んでいた。 |
| 東南アジアはこの航路の中継点として、また香辛料の買い付け先として繁栄した。 |
| ※ 景教 ( ネストリウス派キリスト教 )、祅教 ( ゾロアスター教 )。 |
| 431年のエフェソス公会議
で異端とされた
ネストリウス派
は、7世紀ごろ、中央アジアから中国へと伝わった。 |
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シルクロード |
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Wikimedia Commons
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| この交易は唐末に一時中断したが、宋代に復活、元代も続いた。元は漢族よりもイスラム教徒を重用した。 |
| 明は倭冦対策もあって海禁政策をとった、15世紀(1405-1433)、永楽帝の命を受け、7度の大航海の指揮をとった
|
| 鄭和はイスラム教徒であった。 |
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| ( 1 ) 島嶼部東南アジア |
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| インドネシア の イスラム |
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| インドネシアは、
約1万3466の島々により構成されている。人口は世界第4位、2億3000万人を超える。 |
| その大多数がイスラム教徒で、世界最大のイスラム人口を持つ国である。 |
| バリ島はバリ・ヒンドゥー、ティモール 島はカトリック、ニューギニア島はキリスト教が多数派。 |
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| Wikimedia Commons. |
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| 世界最大級のモスク " イスティクラル " |
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| Istiqlal Mosque, Jakarta
( Wiki)イスティクラル・モスク、世界最大のモスクで、1984年 竣工。12万人 収容。
|
| 世界最大のモスク
- Google 検索 / -6.169817,106.830869 View Larger Map |
| スマトラ島北端のアチェ州は、インドネシアの中でも唯一、イスラム法(シャリア)が施行されている。 |
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| インドネシアの時差 |
| |
| 西部時間 |
UTC+7 |
JST-2 |
夏時間なし |
ジャカルタ、ポンティアナック |
| 中部時間 |
UTC+8 |
JST-1 |
夏時間なし |
マカッサル、バリ島 |
| 東部時間 |
UTC+9 |
JST+0 |
夏時間なし |
ジャヤプラ |
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| インドネシアの一般情報 |
| インドネシアのイスラム教のファッションや服装
| エスノグラフジャーナル / |
| イスラーム各国の食品輸入規制と東南アジア諸国のハラール認証システム
/
イスラム金融のグローバル化
|
| インドネシアと韓国 自ら独立を勝ち取った国家と、外国に解放してもらった国家では「品格の差」が滲み出る
/ |
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| インドネシア イスラムの二大潮流 |
| インドネシアは世俗国家である。インドネシアのイスラムには大きな二つの潮流がある。 |
| インドネシアジャカルタの風俗・社会現象ルポ-インドネシアジャカルタジェイピープル
/
イスラムの二潮流
/ |
| ムハマディヤ
- Google 検索 /
ナフダトゥル・ウラマ - Google 検索 / 民主国家インドネシアのムスリムたち
/
|
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| インドネシアの祝祭日 |
| インドネシアの祝祭日は、西暦新年、独立記念日、クリスマスの三つ以外は毎年日にちが変動する。 |
| 2014年からメーデーが祭日に追加された。この他に、政令指定休日もある。 |
| 断食月をBulan Puasa(ブラン・プアサ)という。十月は、Sawal(サワル)、十月一日がLebaran(レバラン)。 |
| 断食明けのお祭りだが、これに合わせて1週間ほどの休暇にして
日本の正月のような状態になる。 |
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| 1月1日 |
元日 |
Tahun Baru Masehi |
西暦正月 |
| |
中国正月 |
Tahun Baru Imlek(イムレック) |
春節 |
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ヒンドゥー正月 |
Hari Raya Nyepi(ニュピ) |
サカ暦新年 |
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聖金曜日 |
Wafat Isa Al-Masih |
復活祭前の金曜日 |
| |
キリスト昇天祭 |
Kenaikan Isa Al-Masih |
Ascension Day |
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ウエサク祭 |
Hari Raya Waisak |
仏教行事 |
| 5月1日 |
レイバーデー |
Memperingati Hari Buruh International |
メーデー |
| 8月17日 |
独立記念日 |
Hari Proklamasi Kemerdekaan R.I. |
インドネシア独立記念日
|
| 12月25日 |
クリスマス |
Hari Natal |
Christmas |
| |
犠牲祭 |
Idul Adha(イドゥル・アドハ) |
イスラム節日 |
| |
イスラム正月 |
Tahun Baru Hijriyah |
イスラム節日 |
| |
預言者生誕祭 |
Maulid Nabi Muhammad SAW |
イスラム節日 |
| |
預言者昇天祭 |
Isra Mi`raj Nabi Muhammad SAW |
イスラム節日 |
| |
断食明け |
Idul Fitri(イドゥル・フィトリ) |
イスラム節日 |
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| イスティクラル・モスクは、国立モスクであるけれど、インドネシアの政教は分離されており、各宗教に |
| 配慮した祝日になっている。インドネシアの赤十字は、赤新月ではなく赤十字を標章に使用している。 |
| |
| |
| 現在のインドネシアとなる地域のマレー系の人々が、紀元前1世紀頃からインド商人の影響を受けヒンドゥー教文化を |
| 取り入れ、5世紀頃からヒンドゥー王国を建国していった。これらの王国はインドと中国の中継貿易拠点として栄え、 |
| 大国が興亡した。12世紀以降ムスリム商人のもたらしたイスラム教が広まり、イスラム化が進んだ。 |
| 16世紀にインドネシアのマジャパヒト王国(ヒンドゥー国家)は、マタラム王国(イスラム国家)に取って代わられ、 |
| インドネシアのほぼ全域がイスラム教となった。しかしそのイスラムは土着の信仰やヒンドゥー教などと混淆した
|
| ものであった。 / マジャパヒト王国
- Wiki /
マタラム王国
|
| 1602年、オランダは「オランダ東インド会社」を設立。徐々に植民地化を進めていった。 |
| 現在のインドネシアの領域をオランダがほぼ完全に領有したのは20世紀初頭であった。19世紀初頭、フランス革命の後、 |
| オランダ本国はフランスに併合され、オランダの海外領土はイギリスの統治をうけることになった。 |
| 1814年、オランダとイギリスのロンドン条約で、オランダがスマトラ島を、
イギリスがマレー半島を領有することを |
| 相互承認した。オランダは、1820年代から1830年代に「強制栽培制度」を導入、莫大な利益をあげた。 |
| 1885年には石油の採掘にも成功した。1942年2月に日本軍が侵攻。東インド全域は日本の軍政下に置かれ、 |
| 「オランダによる350年の東インド支配」が終了した。1945年8月15日に日本が連合国に降伏、8月17日にはスカルノと |
| ハッタがインドネシアの独立を宣言した。オランダは東インドを再び植民地化しようとしたが、4年間の独立戦争を戦い |
| 独立を達成した。 /
File:Nederlandsindie.PNG
- Wikimedia Commons (オランダ領東インド 地図) |
| インドネシアの独立
- Google 検索 / インドネシア
- ジェトロ / |
| 蘭印作戦
- Wiki /
ソロモン諸島の戦い
- Wiki /
インドネシア独立戦争
- Wiki / オランダ領東インド
- Wiki / |
| マレー連合州
世界史用語解説 /
強制栽培制度
世界史用語解説 / 英蘭協約
- Wiki / |
| オランダ領東インド石油開発会社
- Google 検索 / オランダ領東インド
世界史用語解説
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| インドネシアの民族分布 |
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| Wikimedia Commons |
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| インドネシアの民族分布
- Google 検索 /
図録▽東南アジア諸国の民族構成
/ アフマディア
- Google 検索 / |
| 多種の宗教が混在する国!インドネシアの宗教事情
| Compathy Magazine / |
| インドネシア、テロ抑制にイスラム団体貢献
- SankeiBiz / インドネシアを悩ますある「宗教対立」
:Foresight / |
| インドネシア:宗教的少数派を狙った暴力 急増
| Human Rights Watch / |
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| マレーシア UTC+8 |
| マレーシアのイスラム |
| マレーシアのイスラム
/
"18億人のイスラム商圏"に通じるハブ、マレーシアに橋頭堡を築けるか
: 日経BizGate |
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| マスジッド・ネガラ
- Wiki /
見学自由!クアラルンプールの優美な国立モスク
/ Religion in Malaysia
/ |
| 東南アジアのムスリム人口 マレーシアのイスラム
Malaysia Life / Islam in Malaysia
- Wiki / |
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| マスジッド・ネガラ View Larger Map
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| マレーシアの標準時、UTC+8 JST-1 (日本時間の1時間前) 夏時間なし |
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| マレーシアは、連邦立憲君主制国家で、イギリス連邦加盟国。
13世紀 アラブ商人やインド商人によってイスラム教が伝来、 |
| 仏教 ヒンドゥー教に取って代わった。1400年、イスラム教を国教とするマラッカ王国成立。イスラム教が根付いた。 |
| 1402年 - 1511年マラッカ王国
- Google 検索 /
マラッカの歴史年表
/
マラッカ王国
世界史用語解説 /
|
| マラッカは、
インド、中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点となった。 |
| 16世紀にポルトガル艦隊の来寇によってマラッカ陥落。ポルトガルの植民地となる。 |
| 1641年 オランダがポルトガルを駆逐。オランダの植民地となる。 |
| 1824年 英蘭協定によりマラッカ海峡の東側(現 マレーシア)が英国領、西側(現 インドネシア)がオランダ領となる。 |
| 1896年 マレー連合州 結成、マレー半島全域が英国植民地となる。 |
| イギリスは、鉱山へ中国人、ゴム農園にインド人を大量入植させ、マレー人との三者の人種分断統治を行った。 |
| マレーシアの独立
- Google 検索 / マレーシアの歴史
- Wiki / |
| 1957年8月31日、マラヤ連邦
はイギリス連邦の一員として独立を達成 |
| 1963年、マラヤ連邦はシンガポール、サラワク、英領北ボルネオ(サバ)と連邦を結成、マレーシアが成立した。 |
| 中国系住民とマレー系住民との衝突から、1965年8月9日マレーシア連邦からシンガポールが分離独立した。 |
| イギリス領マラヤ
- Wiki /
British Malaya
- Wiki /
Straits Settlements
- Wiki /
海峡植民地
- Wiki / |
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| マレーシアの言語集団分布 |
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| Wikimedia Commons |
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| Malaysia ( Language )
- Wiki /
マレーシアの民族分布
- Google 検索 / |
| 多民族国家マレーシアの政治と「宗教対立」
| ヒューライツ大阪 / マレーシアでの信教の自由
| Lausanne Movement |
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| ブルネイ、マレーシア ( サバ州 )、スールー海 |
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| Fudaraku Voice ( 2016/5/31 ) |
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| セレベス、スールー海域における海上安全保障の現状とCWSの役割
| 海洋情報 FROM THE OCEANS / |
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| スールー・セレベス海域一帯 The Tri-Border Area: TBA |
| ソマリア沖に次いで海賊が出没する海域 |
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| public domain, (from CIA World Factbook) |
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| Sulu Sulawesi
- Google 検索 / |
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| ブルネイ UTC+8 |
| ブルネイのモスク |
| スルターン・オマール・アリ・サイフディーン・モスク - Wiki / ブルネイのイスラム教
- Wiki / |
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| スルターン・オマール・アリ・サイフディーン・モスク View Larger Map
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| 海外安全ホームページ : ( ブルネイ )
テロ・誘拐情勢
/
危険・スポット・広域情報
/ |
| ブルネイ・ダルサラーム国は、1984年、イギリスより独立した。イギリス連邦加盟国でイスラム教国。 |
| ブルネイの歴史
- Wiki / |
| ボルネオ島(カリマンタン島)の北部に位置。現在はマレーシアに囲まれた都市国家である。
|
| 面積は日本の三重県とほぼ同じ大きさで、人口は39.9万人(2012年)。日本とブルネイは、良好な関係にある。 |
| ブルネイは17世紀にはボルネオ島の北東部沿岸部全体を支配し中継貿易で栄えていた。 |
| スペインがマニラに植民都市を建設したのは1571年。フィリピン海域の拠点を次々に奪われ、 |
| ブルネイは貿易から閉め出されていった。スペインは、メキシコ・フィリピン・中国を結ぶ貿易航路の確保が目的で |
| 資源のないブルネイには関心がなかった。1640年にスペインから独立したポルトガルもセレベス島(スラウェシ島) |
| 南西部のマカッサルを占拠。南部を回る貿易路を確保し、ブルネイには興味がなかった。 |
| 1888年、ブルネイはイギリスの保護領となった。1929年、ブルネイにおいて、石油が発見された。 |
| 太平洋戦争時、ブルネイは日本の統治下におかれ社会インフラが整備された。 |
| 1961年、マレーシアの独立に向け、マレーシア初代首相ラーマンは、シンガポール、ブルネイ、サバ、サラワク |
| からなる、連邦国家マレーシア構想を発表した。 しかしブルネイはマレーシアへの不参加を決定した。 |
| 1984年、ブルネイは、イギリスから完全に独立した。 |
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| フィリピン UTC+8 |
| フィリピン ミンダナオ島 バシランのモスク |
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| © Fudaraku Voice | | Source : Wikimedia Commons |
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| バシラン州は、
フィリピン南部ミンダナオ島の西に位置するサンボアンガ半島沖のバシラン島が領域の州。
|
| 州都は旧称バシラン(現在はイサベラ)。 |
| イスラム教徒ミンダナオ自治地域(Autonomous Region in Muslim Mindanao, ARMM)の1州。 |
| フィリピンのイスラム教
- Wiki /
イスラム教徒ミンダナオ自治地域
- Wiki |
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Category:日本・東南アジア関係
- Wiki /
Category:日本占領下の東南アジア
- Wiki /
ミンダナオ島の戦い
- Google 検索 |
| フィリピンの戦い (1941-1942年)
- Wiki /
フィリピンの戦い (1944-1945年)
- Wiki / |
| ミンドロ島の戦い
- Wiki /
レイテ島の戦い
- Wiki /
ルソン島の戦い
- Wiki /
スールー諸島の戦い
- Wiki |
| アメリカ極東陸軍
- Wiki /
ユサッフェ・ゲリラ
- Google 検索 / |
| フクバラハップ
- Wiki /
フク団
- Google 検索 / |
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| 14世紀後半にイスラム教が伝来。明などとの交易で栄えたが、統一国家は形成されていなかった。 |
| 16世紀半ばからスペインによる植民地化が始まり約6年でフィリピン諸島の大部分が征服された。 |
| これにより北部、中部はカトリック圏となった。18世紀になってからスペインは南部への侵略を開始したが、 |
| 西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、イスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。 |
| 1898年の米西戦争
でフィリピンは、アメリカの植民地となった。フィリピンは、これに抵抗して民族独立戦争を戦った。 |
| 米比戦争
(1899年-1913年)の時期、南部のモロ(イスラム教徒)地区での戦争はモロの反乱と呼んでいる。 |
| 制圧後、アメリカ植民地政府の司政下、ミンダナオ島にルソン島やビサヤ諸島のキリスト教徒が入植し、ムスリムは |
| 少数派となっていった。 二次大戦の日本占領下でフィリピンは独立を達成した。 |
| 1945年の日本敗戦に伴い、米植民地に戻ったが、1946年のマニラ条約で、フィリピン第三共和国が成立した。 |
| アジア・アフリカ諸国の独立年表
- Wiki / フィリピンの独立
- Google 検索 / |
| 1970年代からはフィリピンからの分離独立を求めるモロ民族解放戦線(MNLF)とフィリピン軍との武力衝突が続いた。
|
| 1986年のエドゥサ革命でマルコス政権が倒れた後、フィリピン政府はMNLFとの和平協議を進め、 |
| 1989年にミンダナオにムスリム自治区を設けるための「自治基本法」が成立。ミンダナオ島西部・南部一帯の13州9市で、 |
| 「イスラム教徒ミンダナオ自治地域」(ARMM)への加入の賛否を問う住民投票が行われた。その結果を受け |
| ラナオ・デル・スル州、マギンダナオ州、スールー州、タウィタウィ州の4州で1990年11月にARMMは発足した。 |
| |
| イスラム教徒ミンダナオ自治地域 |
 |
| Wikimedia Commons. |
| クリーム色がモロ人の歴史的支配地。赤茶色が現在の分布地。 |
|
| クラーク空軍基地跡とスービック海軍基地跡 /
アメリカのフィリピン統治
/ |
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| 民族分布 | | 1521年以前の王国 |
| Wikimedia Commons |
|
| Philippines ( Ethnic groups )
- Wiki /
Philippines
- Wiki / スールー王国
- Wiki / Sultanate of Sulu
- Wiki / |
| スールー王国軍
- Google 検索 / Royal Sulu Sultanate Army
- Google 検索 / |
| 2013 Lahad Datu standoff
- Wiki / Philippines_map.jpg
/ ancient kingdoms in the philippines
- Google 検索 / |
| Prehistory of the Philippines
- Wikipedia /
History of the Philippines (900–1521)
- Wikipedia / |
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| ミンダナオ島マラウイ市では2017年5月23日からマウテグループという I S (イスラム国)を支持するグループが |
| マラウイ市の大半を占拠。治安部隊との間で戦闘が続いている。 /
マラウィ
- Google マップ /
|
| ミンダナオ島マラウイ市
- Bing /
特別リポート:アジアに迫るISの魔手、比ミンダナオ島の衝撃
| ロイター / |
| |
| ミンダナオ島マラウイ市 Marawi crisis |
| |
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| wikimedia maps Marawi crisis
- Wiki-en / |
| ミンダナオ島では空軍まで動員しての戦闘は続いている。2017/7/11 |
| 2017年10月17日、フィリピンで大統領がマラウイ市を解放したと宣言した。 |
| 2018年7月 ミンダナオ島の自治地域とその周辺地域でイスラム教徒の自治を認めた「バンサモロ基本法」成立 |
| 「バンサモロ基本法」に基づき、
自治地域への加入の是非を問う住民投票が行われた。 |
| 住民投票が実施されたのはミンダナオ島西部にあるムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)
バシラン州などと |
| その周辺のコタバロ市、北ラナオ州、コタバト州、スルタン・クダラット州などで有権者は約284万人。 |
| 選挙結果を受け、2019年2月22日バンサモロ暫定自治政府が発足した。 |
| バンサモロ自治地域
- Wiki / バンサモロ暫定自治政府の発足について(外務大臣談話)
| 外務省 / |
| (ODA)フィリピン「バンサモロ地域社会経済インフラ緊急整備計画」
| 外務省 / |
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| ( 2 ) 大陸部東南アジア |
| |
| |
| 島嶼部東南アジアは海路からイスラム商人の影響を受けイスラム化がすすんだ。 |
| 16世紀半ばからスペインによる侵略を受けたフィリピン諸島の北、中部はカトリック圏となった。 |
| |
| 大陸部東南アジアでは大乗仏教圏であるベトナムを除いて、12世紀以降スリランカからビルマ経由の南伝仏教が |
| インドシナ半島に広がった。 メコン流域4ヶ国では4月の中旬に旧正月を祝う。これはベンガル暦と同じで |
| インド占星術の影響であり、仏教伝来以前にベンガルからビルマ経由で流入したものである。 |
| メコンの旧正月とインドのホーリー祭
/ |
| 島嶼部東南アジアは世界最大のイスラム人口を抱えるインドネシアを始めとして
イスラム文化圏と言えるが、 |
| 大陸部東南アジアはマレー半島南部を除いて仏教文化圏である。ただし、それは上座部仏教である。 |
| 中国、朝鮮は仏教というより儒教文化圏であり、ベトナムは日本と並ぶ大乗仏教圏である。 |
| 儒教はアブラハムの宗教と同様二元論の宗教である。 / アブラハムの宗教の暦
|
| 日本では儒教は宗教としてではなく、道徳、修養、学問として受容された。 |
| |
| |
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| ミャンマー UTC+6:30 |
| ミャンマー ( ビルマ ) のイスラム |
| ミャンマーのイスラム
- Google 検索 / ロヒンギャ
/ アラカン州
- Google 検索 /
ラカイン州
- Google 検索 /
|
| 難民問題で知られるロヒンギャの居住地域は、ミャンマー西部にあるラカイン州(旧アラカン州)。 |
| ミャンマー西部に位置し、北西部はバングラデシュと接する。西部はベンガル湾に面しており、アラカン山脈で |
| ミャンマー本土と分けられている。第二次世界大戦ではアラカン山脈でも多くの日本兵が亡くなった。 |
| インパール作戦
- Google 検索 |
|
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| ラカイン州 | | 民族分布 1972 |
| Wikimedia Commons |
|
| ミャンマー ( ビルマ ) の民族分布
- Google 検索 /
List of ethnic groups in Myanmar
- Wiki / |
| ミャンマー ( ビルマ ) 政府は彼らを自国民ではなく、不法入国のベンガル人であるとしている。 |
| 彼らの自称する「ロヒンギャ」が記録上登場するのは1950年代以降である。 |
| 海外安全ホームページ : ( ミャンマー )
テロ・誘拐情勢
/
危険・スポット・広域情報
/ |
| 国籍法に象徴されるビルマ(ミャンマー)の排他的ナショナリズム
| Asia Peacebuilding Initiatives / |
| マンダレー地方域メイッティーラ
- Wiki / 2012 Rakhine State riots
/
2013 Myanmar anti-Muslim riots
- Wiki |
| イギリスの分割統治
- Google 検索 / イギリスによるアジアの分割統治
- Google 検索 / |
| 英緬戦争(イギリス ビルマ戦争) 英緬戦争
- Google 検索 /
英緬戦争
- Wiki / |
| Rohingya Genocide– Links to Corporatism, Geopolitics & Wahhabism
-activistpost / ロヒンギャー問題の真実 |
| アラカン州はベンガル湾に面し、タンカーの接岸できる水深の深い港湾を持ち、
沖には海底ガス油田がある。 |
| 中国からのパイプラインを引けば、マラッカ海峡を通らず中東、アフリカからも石油を中国へ送ることができる。 |
| インドの目の前に原潜基地を作ることもできる。 |
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| HKTDC Research
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| The Painful Exodus of the Rohingyas
- Cartooning for Peace / caricature rohingyas
-Google 画像検索 / |
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| File:Map of Rohingya people in Rakhine State.png
- Wikimedia Commons |
| アラカン州におけるロヒンギャ の人口分布 |
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| ビルマの仏教 |
| ビルマには12世紀、スリランカから上座部仏教が伝来した。
そしてインドシナ半島における上座部仏教の基礎を築いた。 |
| スリランカは東南アジアではなく、南アジアに分類されるが、南伝仏教の直接的なルーツである。 |
| 紀元前3世紀頃、アショーカ王の王子がスリランカに仏教を伝えたとされる。紀元前1世紀頃、大乗仏教の受容について |
| 対立抗争が起きるようになり、12世紀後半、スリランカ王の裁定により、南伝仏教に統一された。 |
| スリランカ仏教
- Google 検索 / スリランカ- 世界でほぼ唯一の仏教と他宗教との対立地域
/ |
| ビルマに隣接するベンガルはインド仏教最期の地で、インド後期密教が行われていたが、
ムガール帝国の成立で |
| イスラム化が進みほぼ壊滅した。それでもイギリス統治の時代にもベンガル仏教徒が存在していた。 |
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| ビルマ:ムスリムの総人口に対する人口比3.8% |
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| タイ UTC+7
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| タイのイスラム |
| タイのイスラム
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タイのイスラム教
- Wiki / 総人口の4%がイスラム教徒。深南部三県のマレー系住民。
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| 深南部 (タイ)
- Wiki /
パタニ王国
- Wiki / Pattani Kingdom
- Wiki / |
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.jpg) |
| タイ 深南部三県 |
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タイの民族分布 1974. |
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マレー ムスリム地方
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| Wikimedia Commons |
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| Ethnic groups in Thailand
- Wiki / タイの民族分布
- Google 検索 / タイ 深南部三県
-Google 検索 |
| 海外安全ホームページ : ( タイ )
テロ・誘拐情勢
/
危険・スポット・広域情報
/ |
| タイ
- ジェトロ / タイ深南部紛争の概要と背景
| Asia Peacebuilding Initiatives / |
| Southern Thailand
- Wiki /
Patani United Liberation Organisation
- Wiki /
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| マスジド・クルーセ ( Krue Se Mosque ) |
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| From Wikimedia Commons |
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| タイ・南部のパッターニー県・パッターニーにあるモスク。16世紀末に建立。 / マスジド・クルーセ
- Wiki |
| Krue Se Mosque Incident On 28 April 2004Krue Se Mosque
- Wiki / 2004年4月28日の マスジド・クルーセ事件
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| Thailand Islamic Insurgency-globalsecurity /
South Thailand insurgency- Wiki / |
| Timeline of events related to the South Thailand insurgency - Wiki / |
| 後期 倭冦 最大勢力の頭目であった中国 (明) 人 林 道乾 は、パタニ王国の高官となり、イスラム教に改宗、 |
| 1580年マスジド・クルーセを建設させた。パタニ王国は17世紀に黄金期を迎えた。アユタヤ王朝とは反目、 |
| 紛争が続き、
アユタヤ王朝に支配される状態となった。しかし、アユタヤ王朝がビルマに滅ぼされると、 |
| パタニ王国は自立したが、
バンコクにチャクリー王朝が成立し、18世紀末、ラーマ1世がパタニを再び征服した。 |
| 1902年に、ラーマ5世のチャクリー改革の一環としてパタニ諸邦は、タイ中央政府の直接統治下に編入された。 |
| 1909年にイギリスとタイとの交渉によって旧パタニ王国が南北に分断される形で国境線がひかれた。 |
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| タイの仏教 |
| タイでは14世紀、国王が出家、仏教を国の基に置いた。ここからタイの仏教化が始まり、王朝が代わっても続いた。 |
| タイの仏教はビルマ経由の上座部仏教である。カンボジア、ラオスはシャムの支配地域であった。 |
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| タイ:ムスリムの総人口に対する人口比5.8% |
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| ベトナムの仏教 |
| ベトナム北部へは中国経由で大乗仏教が伝来した。唐代以降、中国仏教は、禅宗が主流となり浄土教と混淆。
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| ベトナムもその影響を受けた。
ベトナム中部チャンパ王国は、ヒンドゥー教が主流であった。南部は、クメール人の |
| 支配する地域であった。ベトナムの北部、中部、南部は抗争を繰り返し、文化の交流と民族の混血が進んでいった。 |
| 19世紀に南北統一。清の影響下で、仏教、儒教、道教などの中国文化が流入した。
新興宗教も盛んである。 |
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| ベトナム:ムスリムの総人口に対する人口比0.2% |
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| カンボジア UTC+7 |
| カンボジアのイスラム
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| カンボジアのイスラム
- Google 検索 /
カンボジアのイスラム教
- Wiki /
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| 地域別国際テロ情勢 東南・東アジア・オセアニア | 国際テロリズム要覧(Web版)
| 公安調査庁 / |
| カンボジアのムスリムは人口の 1 . 6% ベトナム中南部にあったチャンパ王国の末裔 |
| ポルポト時代には壊滅的打撃を受けたが現在は憲法で信教の自由が認められている。 |
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| カンボジアの仏教 |
| 9世紀クメール王朝時代はヒンドゥー教が国家宗教であった。12世紀末ごろから上座部仏教とヒンドゥー教が |
| 混淆したカンボジア仏教が生まれた。人口の9割以上が仏教徒である。
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| 17世紀から19世紀は、シャムやベトナムの侵略がつづいた。1867年、シャムがカンボジアに対するフランスの |
| 保護権を承認。1887年、カンボジアがフランス領インドシナに編入された。 |
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| カンボジア:ムスリムの総人口に対する人口比1.6% |
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| ラオスの仏教 |
| 紀元前、重慶、長沙などに都市国家を建国していたラーオ族はインドシナ半島へ南下。14世紀に初のラオス統一王朝 |
| ラーンサーン王国 を建国した。ラーオ族は大乗仏教を信仰していたが、スリランカ経由の上座部仏教が信仰される |
| ようになった。この地には10世紀〜12世紀頃、クメール族の手によって建てられたヒンドゥー教寺院があったが、 |
| 上座部仏教寺院として利用された。ラオス仏教もカンボジア仏教同様、上座部仏教とヒンドゥー教が混淆したものである。 |
| 1779年、シャムの侵攻を受けシャムの属領となった。1893年、ラオスをめぐり仏泰戦争が起き、 |
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1905年、フランスはラオスを保護国化、フランス領インドシナが完成した。 |
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| ラオス:ムスリムの総人口に対する人口比0.1% |
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| インドシナ半島とマレー半島 |
| 仏印 ( 仏領インドシナ ) |
| コーチシナ戦争(1858年-1862年)で、フランスは阮朝ベトナムの複数の行政区を武力併合して仏領コーチシナを |
| 形成した。北ベトナムと中国南部の国境地帯は清帝国と対立する軍閥・黒旗軍が支配していた。 |
| 1884年-1885年清仏戦争
- Wiki /
1885年6月9日に締結された講和条約 ( 天津条約 ) で、フランスが北ベトナムを獲得。 |
| 1887年にカンボジアと南北ベトナムを合わせて仏領インドシナが成立した。後に仏泰戦争でラオスなどを取り込んでいった。 |
| 英印 ( イギリス領インド ) |
| 1858年 - 1947年
イギリス領インド帝国
- Wiki / |
| 支配領域はインド、パキスタン、ミャンマー、ネパール、スリランカも含んだ。 |
| 世界の一体化
- Wiki /
アジアの植民地分割
- Google 検索 /
東南アジアの植民地化
- wiki / |
| 仏印 フランス領インドシナ
- Wiki / 1896年「シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言」
パークナム事件
- Wiki |
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| 仏印 ( フランス領インドシナ ) と タイ |
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| 左図Siamは、ラタナコーシン王国 (チャクリー王朝) 現タイ王朝の初期の版図。 /
Rattanakosin Kingdom
- Wiki |
| 中図は1885年から1909年の英仏によるインドシナ半島の蚕食 |
| 右図は 1900年から1946年のフランス領インドシナ。 |
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| このようにマレー半島南部から島嶼部東南アジアはイスラム圏内だが、インドシナ半島は、ベンガル地方と接する |
| ミャンマー ( ビルマ ) の西部地区を除いて仏教圏である。但し、大乗仏教圏であるベトナム以外は上座部仏教圏と |
| なっている。上座部仏教は以前は小乗と呼んだが蔑称であるとして近年は上座部仏教と呼んでいる。 |
| なお上座部仏教は古代から連綿と現在のような形態が続いてきたのではなく、チャクリー王朝(ラタナコーシン王朝) |
| 4代目ラーマ4世(在位:1851年- 1868年)の仏教改革によって現在の形になった。ラーマ4世は西欧へ門戸開放を行う一方 |
| 国内宗教の立て直しを行うことで、英仏の蚕食を受けながらもシャム族本体の土地は守ることができた。 |
| また、1854年、ラーマ4世は清への朝貢を止め、冊封体制から脱した。 / ラーマ4世
- Wiki |
| ラーマ4世 崩御の1868年(慶応3年)は、 日本では、 王政復古、そして戊辰戦争勃発の年であった。 |
| 次のラーマ5世(在位:1868年- 1910年)もラーマ4世の事業を引き継ぎチャクリー改革と呼ばれる多くの近代化改革を |
| 行った。 / ラーマ5世
- Wiki
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| イギリス東インド会社
- Wiki /
オランダ東インド会社
- Wiki / |
| 1824年英蘭協約
- Wiki /
1909年の英泰条約 Anglo-Siamese Treaty of 1909- Wiki / |
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| アジア諸国の独立年表 |
| 1946年7月 - フィリピンがアメリカから独立。 |
| 1947年 - インドとパキスタンがイギリスから独立。 |
| 1948年 - スリランカがイギリスのインドからの撤退に伴い独立。 |
| 1948年 - ビルマ連邦がイギリスから独立。 |
| 1948年8月 - 韓国がアメリカより独立。 |
| 1948年9月 - 北朝鮮がソ連より独立。 |
| 1949年 - インドネシアが独立戦争の結果、オランダから独立。 |
| 1949年 - 国共内戦に勝利し中華人民共和国設立。 |
| 1953年10月 - ラオスがフランスから独立。 |
| 1953年11月 - カンボジアがフランスから独立 |
| 1954年 - フランスが第一次インドシナ戦争に敗退、ベトナムから撤退。 |
| 1957年 - マラヤ連邦(後のマレーシア)がイギリスから独立。 |
| 1965年、マレーシア連邦からシンガポールが独立。 |
| 1971年、バングラデシュがパキスタンから独立。 |
| 1984年、ブルネイがイギリスから独立。 |
| 1998年、東チモールがインドネシアから独立。 |
| アジア・アフリカ諸国の独立年表-wikipedia |
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| Pew Research Center の統計は在留するイスラム圏国家の外交官とその家族や出稼ぎ労働者、留学生まで |
| 含んでいると思われ、やや多めに感ずるが人口比の数値は非常に興味深い。 |
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| アジア各国と主要国のムスリムの人口 |
| 2010年のムスリム人口推計と人口比の推計 |
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| 国名 | ムスリム人口 推計 | 人口比 推計 |
| Australia | 399,000 | 1.9% |
| Bhutan | 7,000 | 1.0% |
| Burma (Myanmar) | 1,900,000 | 3.8% |
| Cambodia | 240,000 | 1.6% |
| China | 23,308,000 | 1.8% |
| France | 4,704,000 | 7.5% |
| Germany | 4,119,000 | 5.0% |
| Hong Kong | 91,000 | 1.3% |
| India | 177,286,000 | 14.6% |
| Indonesia | 204,847,000 | 88.1% |
| Japan | 185,000 | 0.1% |
| Laos | 1,000 | < 0.1% |
| Malaysia | 17,139,000 | 61.4% |
| North Korea | 3,000 | < 0.1% |
| South Korea | 75,000 | 0.2% |
| Pakistan | 178,097,000 | 96.4% |
| Philippines | 4,737,000 | 5.1% |
| Singapore | 721,000 | 14.9% |
| Sri Lanka | 1,725,000 | 8.5% |
| Taiwan | 23,000 | 0.1% |
| Thailand | 3,952,000 | 5.8% |
| United Kingdom | 2,869,000 | 4.6% |
| United States | 2,595,000 | 0.8% |
| Vietnam | 160,000 | 0.2% |
| Table: Muslim Population by Country
| Pew Research Center |
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| ムスリムの人口
- Google 検索 /
ムスリム(世界のムスリム)
- Wiki / muslim population
- Google 検索 /
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| Islam by country
- Wiki / |
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| 東南アジアの地図を見るとニューギニア島の東半分がない |
| ニューギニア島 |
| ニューギニア島の東半分はオセアニアに分類されている。1975年9月、パプアニューギニア独立国として独立した。 |
| 西半分は、1961年にオランダが西パプア共和国として独立を認めたため、1962年からインドネシアが侵攻。 |
| 国連による暫定統治を経て、1963年にインドネシアへ併合された。民族はパプア人。宗教はキリスト教が多数派。 |
| ( 2005年6月15日、パプアニューギニアからの分離独立闘争を経て、ブーゲンビル島に自治政府が設立された。) |
| スハルト政権の時代には、パプア地方(旧イリアンジャヤ州)は東ティモール、アチェとともに「軍事作戦地域 |
| (DOM)」に指定され、武装組織との戦闘が続いた。東ティモールは2002年に住民投票結果を受けて独立、 |
| アチェ特別州は2004年12月のスマトラ島沖地震・津波を機に特別自治州となった。このため、パプア地方は現在も |
| 武装独立運動が継続されている唯一の地域である。 |
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| 2016/5/20 Fudaraku Voice |
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| ニューギニア島
- Wiki /
パプアニューギニア
/ ブーゲンビル島
- Wiki / 東ティモール
- Wiki / |
| 地域別戦没者遺骨収容概見図|厚生労働省 / イスラムの雑学、基礎知識
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| 追補 2019年4月21日、スリランカでイスラム過激派による、連続爆弾テロが発生した。 |
| スリランカ |
| スリランカは南アジアに分類されるが、
紀元前3世紀の仏教伝来以来、仏教を国教とし、東南アジアの上座部仏教の |
| ルーツとなった。東南アジアとは深い関係があるため追加した。 |
| スリランカでは仏教徒のシンハラ人とヒンドゥー教徒のタミル人との民族対立による内戦が続き、
2009年に26年に |
| わたる内戦が政府軍勝利で終結している。この内戦は民族対立であり、宗教対立ではなかった。 |
| スリランカの仏教徒は人口の 70%。ヒンドゥー教徒 12.6%、キリスト教は16世紀に伝来、人口の 7.4% そのうちの |
| 82%がカトリック。スリランカのイスラム教徒は、2010年のPewの統計では人口比が 8.5%。 |
| wikipedia英語版
では1981年 7.56%、2012年 9.66%となっており増加が続いていることがわかる。 |
| スリランカのムスリム共同体はスリランカ系ムーア人、インド系、マレー系の3つに大別される。 |
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| The Red Mosque as seen from 2nd Cross Street Colombo Sri Lanka Wikimedia Commons
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| Jami Ul-Alfar Mosque
- Wiki / ジャミ・ウル・アルファーモスクは1908年に着工、1909年に完成。 |
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| 8世紀にアラブ系商人がセイロン島にイスラムを伝えた。 |
| 15世紀までに、アラブ系商人がセイロン島に定住した。( スリランカ系ムーア人 ) |
| 16世紀、1505年にポルトガル人が植民地化(ポルトガル領セイロン、1505-1658)。 |
| 17世紀、オランダが植民地化(オランダ領セイロン、1658-1796)。 |
| 18世紀、イギリス東インド会社が植民地化(イギリス領セイロン、1796-1948)。 |
| 18世紀から19世紀にかけて、オランダやイギリスによってジャワ系、マレー系ムスリムが移住させられてきた。
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| 19世紀から20世紀にかけてはイギリスによってインドからプランテーション労働者としてムスリムが送り込まれた。 |
| そして、現住スリランカ人との分断支配が行われた。 |
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| 1948年、イギリス連邦内の自治領として独立。 |
| 1956年、総選挙でスリランカ自由党が勝利、シンハラ語公用語法制定。タミル人を公務員から排除。 |
| 1972年、仏教を準国教にする新憲法を発布。共和制に移行、国名をスリランカ共和国に改称。 |
| タミル人の反政府組織が成立、分離独立運動を開始した。 |
| 1978年、議院内閣制から大統領制に移行し、スリランカ民主社会主義共和国に改称。 |
| 1983年、シンハラ人とタミル人との民族対立による暴動が発生。2009年まで26年にわたる内戦となり |
| 6万から10万人が死亡した。この間、2004年のスマトラ島沖地震の津波では3万5000人が死亡した。 |
| 2009年5月、政府軍がタミル・イーラム解放の虎(LTTE) の完全制圧と内戦終結を宣言した。 |
| 2018年3月6日 スリランカで反イスラム暴動、全土に非常事態宣言発令 |
| 「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」との内戦の際、同国は非常事態が敷かれたが、それ以来7年ぶり。 |
| Category:仏教ナショナリズム- Wiki / スリランカ「民族紛争」から「宗教対立」の時代へ
| クーリエ・ジャポン / |
| ボドゥ・バラ・セーナ
- Wiki / イスラームと政治
- ジェトロ・アジア経済研究所 / |
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| 1981年と2001年の国勢調査に基づくイスラム教の分布 |
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| Islam in Sri Lanka
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| Fudaraku Voice |
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