「回天」基地大津島を訪ねて

後藤 玲子


 山口県徳山市は2ヵ月前に近隣町市と合併した。地方財政行き詰まりの打開策であろうか。新しい市名は周南市。58年前「回天」塔乗訓練に集まって来た千数百の若者が聞いたら何と言うだろう。生命を賭けた「礎」の上に成り立った、これも「平和」だよ、と微笑んでくれるだろうか。

 鄙びた感じの徳山港から大津島行きの高速船に乗った。その名も「回天」というこの高速船は一日に8往復ぐらいはしている所要時間20分の生活用船である。出航直後、蹴立てる波はどす黒い茶色に汚濁していた。見やると、東方湾岸には「出光興産」の工場煙突からモクモクと煙が吐き出されていた。やがて波は白波になってきた。梅雨の真中の霧雨で遠望は遮られている。私の想念がしっとりと静まってきた。これから訪ねようとしている大津島は昭和1911月から208月まで、勝算の見えない戦争末期、“天を回らし、戦況を逆転させる”願いを込めて誕生した特攻兵器人間魚雷「回天」の基地である。平均年齢211歳という若さで人生を断ち切らされた青年たち。その地を訪うには、現世ののほほんとした空気を払い落として行くのが相応しい、そういう天の計らいのような霧であった。

 馬島港に着くと「ようこそ回天の島へ」と大書された、5〜6メートルもあるような高い標柱が目に飛び込んできた。島全体の人々の心根を感じた。

 桟橋から公園に向かって歩き、左折する。右側にはふれあいセンターという野外活動用のコテージが並んでいる。その向こうは小学校。この辺りには基地の本部や兵舎が建っていたという。歩く道はトンネルに入って行く。

 20メートル程のこのトンネルには当時、レールが敷かれてあり、調整された魚雷「回天」を運搬したという。出口に続く岸壁には発射台が残されている。魚雷「回天」はここでクレーンによって海面に降ろされ、塔乗員の激しい訓練が行われたその発射台である。「回天」特別攻撃隊の戦果は搭乗員のみならず、整備員にも潜水艦乗組員にもかかってくる。訓練はただ搭乗員だけの真剣さではなかったが、十死零生の搭乗員の真剣さは苛烈を極めたと聞く。一日の訓練が終わればその夜は研究会。徹底した質疑応答の場で練り上げられていった搭乗員。その訓練のさ中に「回天」発案者の一人、黒木大尉は殉職したのだった。魚雷「回天」の壁にまで書き残した事故報告は“昭和19年の佐久間艇長”と称えられた。そしてその後も塔乗員は訓練に訓練を重ねた。50ノットの高速で海中を突っ走り、16トンの火薬を頭部につけた「回天」が潜航、浮上、停止、前進、加速も自由自在の技量を体得して仁科中尉の菊水隊に続けとばかりに出撃して行った。金剛隊千早隊神武隊多々良隊天武隊振武隊轟隊多聞隊、そして日本沿岸に配備された基地回天隊である。

 トンネルの中ほどに来たら空気がヒンヤリしていた。フーッと58年前に通じている感覚を覚えた。その時私の肌の毛穴が総立つのを感じた。発射台から下をのぞくとかなり下に海面があった。「回天」は海面で活動するわけではない。更に下へ下へと海中深く潜って本領を遂げるのである。しかもたった一人で。志願者の中から選考に際しての人選事項は〔身体健康で意志強固な者〕・〔攻撃精神旺盛で責任感の強い者〕・〔家庭的に後顧の憂いの少ない者〕だったとの記述が思い出された。

 台座には見学者の安全のために金網が張り巡らされていた。突堤では数人の釣り人が休日をエンジョイしていた。発射台を見下ろす岸壁の岩肌には白い小花があちこちに咲いていた。宿根草らしいこの白花なれば当時も咲き、そして今日まで咲き継いでいる。私にはそれが「回天」の特攻花に思えた。

 緑陰の遊歩道は数分で丘の麓にさしかかった。桜の並木が続く坂道を蛇行しながら登った。昭和20年4月22日出撃の天武隊(イ47潜)の写真には横田二飛曹の手にも、古川上曹、柿崎中尉、前田中尉、山口一曹、新海二飛曹の手にも桜の小枝が持たれている。柿崎実隊長は、「こういう人こそ、日本海軍のために、死なせたくない」と隊員から言われるほど慕われていたが、率先、身を肉塊(ししむら)の弾丸と為したのだった。イ36潜の八木中尉、松田二飛曹、海老原二飛曹、久家少尉、野村二飛曹、阿部二飛曹の直立不動の特攻服姿の右手にも満開の桜の小枝が握られている。久家稔少尉は艇故障のため、三度目の出撃となった時に一冊の大学ノートを潜水艦に残して往った。そこには「艇の故障で帰還する隊員を冷たい目で見ないで下さい。最後にはちゃんとした魚雷に乗ってぶつかるために、涙をのんで帰るのですから。どうか温かく迎えて下さい。お願いします。先に行く私にはこのことだけがただ一つの心配ごとなのです」。「回天」特別攻撃隊を学ぶということは、このような裏面の心理状況をも識らなければ不十分だと強く思った。

 回天記念館へのアプローチは真中に石畳。その傍には黒い小石が敷き詰められていた。両側には黒曜石に一名づつ刻まれた“烈士石碑”が並んでいる。右手には鐘楼があり、更に続いて4メートルほどの高さの「回天碑」が建てられている。もともと「回天碑」は終戦の年11月に建立された。しかし翌年2月にはばらばらにされて埋められた。やっと世の中が慰霊の気運になってきた33年晩秋に発掘されたといういきさつを読んだ。そこには一人の男の深い鎮魂の想いがあったという。毛利勝郎である。呉海軍工廠の水雷部員だった毛利勝郎は昭和12年、大津島が酸素魚雷の実験基地になると同時に着任した。そして特攻兵器「回天」の出撃全てを見送った。戦後基地の隊員、整備員はそれぞれ静かに復員した。毛利勝朗は部隊本部の金庫を開けると「〇六金物兵器」と称された「回天」の設計図をはじめ出撃隊員の写真があった。隊員が遺して往った軍帽、短剣、絶筆などの遺品ともども持ち出し、油紙に包み、滋賀県の友人を頼って密かに山中に埋め隠し、米軍の追及を逃れたという。戦後毛利勝朗は家業を妻に任せて、隊員の遺品を遺族に届ける努力を重ね続けた。それが念願の回天烈士顕彰の記念館完成となったのである。

 平屋建ての記念館前には黒塗りの回天模型が展示してある。昭和38年、東映が製作した映画「人間魚雷・ああ回天特別攻撃隊」のロケで使った物だそうだ。(現在遺されているただ一基の「回天」は靖国神社の「遊就館」に展示されている。)

 展示コーナーを右周りに丹念に見ていく。展示品のディスプレイは戦後世代に理解し易いように工夫が凝らされている。“戦争への道”、“回天誕生”、“さらば祖国”、“平和への道”と分類されている。一番強く心に迫ってきたのはやはり遺された自筆の手紙であった。達筆、威儀を正した候文、、、平成の世の若者とは体内を巡っていた血の質が違うとしか言いようがない。遺影を見る。年齢は17歳から28歳。夫が河合不死男の名前を指差した。不死男と命名した親の心情が痛いほど分かるという。河合不死男中尉は基地回天隊・白龍隊隊長として3月13日、光基地より第18号輸送艦にて出撃。3月18日沖縄西方海面において、米潜水艦によって撃沈された。叔父、陸軍大佐河合慎助に宛てた遺書には、

 「、、、帝国ヲ護ルモノ、最後ノ兵器ハ此レ以外二絶対二無キモノト確信致シ候。、、、、、、幼ニシテ軍人ヲ志シ、今ココニ帝国海軍軍人トシテ其のノ任務ノタメニ、偉大ナル建設ヘノ礎石トシテ、武人ノ死場所ヲ得候事、、、、、」と認められている。偉大なる建設への礎石として、、、、嗚呼!

 辞世の句   散る花の 二度とは咲かじ若桜 散りて愛ずらん 九重の庭

 白龍隊員の二飛曹赤近忠三は書いている。「父母に先立つは長男として申し訳なけれども、大君のためなれば何の父母であり、兄弟なるか。胸中に神州の曙を描き、勇んで敵戦艦と大和魂との衝突を試みん。実に爽快なり」。胸中に神州の曙を描き、、、。望みを託して往った若者の心をずっしりと受け止めた。

 遺影の列の最後尾は「橋口寛大尉・殉死」。橋口大尉は分隊長として搭乗員の技量向上訓練に一命を賭していた。訓練には人一倍、容赦ない厳しさで臨むが、訓練を離れると深いいたわりと愛情を隊員に感じ取られる人柄で搭乗員一人一人を育て上げた。終戦の翌日、自分の愛基の前でピストル自決を遂げた。

 「視聴覚室」でビデオのボタンを押すと、全国回天会会長小灘氏が物静かな語り口調で、想いを淡々と述べておられる。その眼差しは遠くの時空に注がれているように感じられた。

 記念館館長は来館者に想いのたけをぶっつけて説明しておられる。どちらも出撃隊員のありのままを語り継がん!とされる誠が伝わってきた。ビデオの中で戦友の一人は語っている「釣りに行っては手を海の水に入れるんですよ。死んでいった戦友の魂が寄って来るようでね。伝わって来るんです、彼らが。」

 慰霊祭のシーンで、小柄な老婦人が黒紋付羽織を着て献花されている姿が映った。仁科関夫中尉のお母さんである。「関夫がこんなものを考え出さなければ、若い人たちがこんなにもおおぜい死なずに済んだのに。すまんことです」と詫びられたという。強烈な衝撃で胸をえぐられた私だった。母親として、死んだ我が子への思いを押し殺して、そういう心情を抱かされた戦後の風潮に腹の底から憤りを感じる。

 「回天」基地はその後、光基地、平生(ひらお)基地が開かれた。訓練を受けた塔乗員は1375名。兵学校・機関学校、予備学生、予科練出身の若者たちだった。光基地、平生基地は荒れ野になっているとか。全てをまとめて完備しているこの「回天記念館」で偲んでもらいたい、知ってもらいたいと周南市教育委員会の委嘱を受けた館員が話していた。その館員に、横田寛著『ああ回天特攻隊』光人社

NF文庫は取り寄せ可能だと告げて別れた。鐘楼で全ての心をこめて、ひそやかに一突きしたら澄んだ音が徳山湾に吸い込まれていくようだった。

 帰路の山陽自動車道は小雨に濡れていた。見たもの、聞いたもの、感じたものを体の中に沁み込ませるに相応しい。烈士の若者たちの生命、彼らの魂と引き換えに与えられたこの平和を本当に大切だと思う。しかし、世間の平和運動の先頭に立って動く強さはない。行動の強さはないが人生に挫けてはならない、この人たちに申し訳ないという強い思いをもらった。今後、生き方に行き詰まった時には必ず今日のことを思い起こして自分を叱咤しよう。生きる目標を取り戻していこうと思いつつ家路を辿った。

2003年6月30日 記