人生の音色

写真と文字の加工写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

〔3DCG宮地徹〕

 

手すり、手すり、手すりだらけの家 と庭

要支援? 4回も転んだ 杖つきじいさん

 

4メートルを超す長さの木の棒と金具が宅配便で届いて驚いた。

暫くして、京都の長男から連絡あり、「手すりの材料だから、暫く保留してくれ」と。

 

その前に、父親がお風呂で2回も転んだと聞いて、早速ネット通販で上等の手すりを買った。風呂のタイルの壁にふたつ、苦労して取着けてくれた。

それに風呂桶につける手すりと椅子も…。

 

進学が京都だったので離れて住むことになってしまったけれど、忙しい現役世代が早朝から2時間以上車で駆けつけてくれた。仕事はまるで違う文系、3CD関係なのに…。

愉しい。工作しているみたい。といいながら。

 

台所に通じる居間に、3メートル近い手すりがついた。フラフラ歩きの連れ合いは大喜び。

手すりがついた翌朝、老夫婦は「昨日はいい日だったね」と言い合った。

温かい木の手すりは手で掴むとホッとする。歩くと足が不安定の連れ合いは、「良かった、良かった」とにこにこ顔である。

手すりから愛がしたたり落ちていた。

 

更に、庭のスロープが道路からゆるい坂になっていて、結構長い。ここにも手すりを。

取り組みは介護支援の工事からに申し込む。9割近く戻るそうだ。

ならついでだから庭にも手すりをつけよう。と、スロープから玄関先までの手すりを注文した。

 

甘えているのではない。生きるために手すりにつかまって歩くのだ。

歩いて、歩いて生きるのだ。

 

介護認定は『要支援1』の通知と『介護保険負担割合証が届いた。『要支援1』の項目は多数ある。まず、月ごと、タクシー2回無料の支援を頼んだ。

2022・2・21

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さっさと歩けない。辛かろうなぁ

要介護要支援の違いも考えず今日まで来た…

 

連れ合いが、3年前に脳梗塞でいろいろ検査を受けた。

特にひどくはなかったが、最近歩く機能がもたつき、散歩中に二度転んだ。

そして、ときどきことばが巧くしゃべれない。読書やパソコンは平気でこなす84歳

 

ことの始まりは、久しぶりに京都にいる長男夫婦が来てくれた。そのとき、長男の連れ合が「あの歩き方では危ない」と以前ケアマネージャーとして働いた感で発言してくれた。

それ以後スーパーと自宅の風呂場で転んだ。

 

最近ことばのもたつき。それに歩くテンポののろさが目立つ。

そう言えば一緒に歩いたとき狭い歩道が歩けない。斜めに傾いているから。

広い車道のふちを歩いた。悔しかろうなぁ。

 

見かねた息子が杖を買ってくれた。

二本足だとふらつくが、杖ついて3本足になり楽だと言う。

 

今日は市役所からと、主任介護支援専門員という二人の女性が来て、介護保険申請のための調査をされた。

 

調査中、「道路と風呂場で合計四回転んだ」と言った。それ以来新聞広告にもよく出ている「尿もれパンツ」が必要となった。3人の女性の前で堂々とその洗濯したパンツを見せて説明する。

笑いながら、受け答えする介護支援員だった。

 

以前、お世話になった中学時代の先生(94)が沢山のトイレットペーパーを買って、「尿漏れ用よ」と言われた事がよみがえる。

80代の知人に会った「ちり紙いっぱい買った。みんな尿漏れは経験しているわ。大変よ。」

 

とうとうここまできたなぁ。わが夫婦、二人とも80代なかばの高齢者。元気で自分の力で歩ける、生きていると思い込んで介護支援なんて考えてもいなかった。

しかし、やれ転んだとか、手すりがないと歩けないとか、心臓検査でとんでもない悪い数値が出たり…。そうなのだ。旅の終わりはそこまできていたのだ。

 

いま、夫婦は「要介護5レベルによる」か「要支援2レベルによる」か、打ち合わせ会議の結果報告を待っている。

 

介護支援は、要支援1」の結果になった。市役所から「介護保険被保険者証」と「介護保険割合証」が届けられた。「支援項目」が多数あた。

                         2022・2・2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〔目次2〕236は後

手すり、手すり、手すりだらけの家 と庭  要支援? 4回も転んだ 杖つきじいさん

  素敵な笑顔

  「アメイジング・グレイス」が流れる中 出棺したい 友人に頼んだ人がいる

  ピアノの音色  ピアノがうるさいよ

  奏でる音には命がある。いい人生を送られたなぁ

  「千の風になって いろいろな所へ心届かせてね」

  いい音楽が聴きたいよ

  音楽の力で こころ楽しませマリンバコンサ−ト

  左手だけで 音を奏でる

  ワァイ、ピアノが弾けた 乳がん全摘手術から2週間が過ぎ…

  音楽のちから

  100回でも150回でも…

  「もっと練習して来い」

       20年、発表会80回、言うのは簡単だけれど…

  「アメージング・グレイス」をうたう      幸子のホームページに戻る

  ドンチャン騒ぎの音楽

  妖精たちよ、幸せであれ

  「私の手はきれいじゃない」 フジコ・ヘミングのコンサートに想う 950年と50回で終わる年

  ばぁばピアノ まごピアノ

  ショパン「花束の中に隠された大砲」 崔善愛〔チェ・ソンエ〕著

  ピアノの入院

  見上げてごらん 夜の星を・・・ アフガニスタンの土になって

  弾けなかった「フィンランディア」

  右手が動かない

  ピアノは歌ったか

  人間 ロストロポーヴィチ

  左手だけの演奏会

  人生の音色

  天空を仰いで ピアノはうたうイナバウアー

  ピアニスト 遠藤郁子にみる人間性

  音楽むだばなし

  「幻想曲風ソナタ 月光」に想う

  「おおいなる無駄」のよろこび

  音に色をつける「苦難を乗り越えるのが人生」フジ子・へミング「人生は崖登り」養老孟司

  ブルッフとあぐりさん

  白いゆびさき

  クラッシュ(こわれる)     次のエッセイ仲間たちへ行く

  ピアノは歌う

 

 

 

 

 

素敵な笑顔

 

コロナ感染が爆発的に増え、異見がある中、無観客のオリンピック パラリンピックが終わった。とくにパラリンピックは世界の障害者が、苦しみながら奮闘した。

同じ人として共感した人も多かったのではないか。

コロナで人間世界が、災害のようなひどい試練と闘っている。今後どのように闘っていくのだろうか。

 

こんな社会で、ある笑顔にとても励まされた。それは新聞に3年半連載された文章の作者で『舌はないけれど』を書いた荒井里奈さん。長女と同じ1974年生まれ。

2015年に腺様のう胞がんで舌を切除された。いまでは外出は車椅子、薬で痛みを抑え、ベッドで過ごす時間が大半になったようだ。

 

掲載最後の記事『できなくなることばかりに目を向けず、最後まで自分らしく生きていければと思っています』(中日新聞2021・9・7)

写真の笑顔が素晴らしかった。こんな苦しい状態なのに。

 

笑顔といえば毎朝仏壇にお花を供え、手を合わせている亡き義父の笑顔が、まさに口角上げて、目尻を下げておられる。

戦後の貧しいドサクサの世の中で、四苦八苦の学校の校長さん、いろいろ大変だったようであるが、この笑顔に和まされる。

 

自分は半世紀も前、世の中を良くしたい理想で政治活動に全力を注いだ。同じ理想で大卒後就職した職場を辞め、政治活動の専従活動家になった連れ合いが、異見を持ちくびになった。長年働き続けた自分は、理想が崩れ生活も苦しく、暗い顔の日々だった。

このときである。「あんな暗い顔した女は嫌いだ」男社会で働く技術家にけなされた。

 

連れ合いは二年間裁判で闘ったが生活費なく、借金も断られ仕方なく裁判闘争も辞めて学習塾を開いた。42歳から63歳まで続けた。

あれから40年あまり過ぎ、いろいろ乗り越えてきた。

 

いま毎日、目尻を下げて口角上がるときがある。

朝、CDをセットするとき。気に入った音楽に耳傾けての1時間の新聞タイム。

苦労かけた子ども二人も、世の中で活躍中。自分たちは仕事も終え、幸せやっているなぁ。

 

夜、入浴タイム。極楽、極楽。感謝、感謝。こんなとき思わず声になる。

ときは秋 『実るほど こうべを垂れる稲穂かな』              2021・9・12

 

 

 

   「アメイジング・グレイス」が流れる中 出棺したい

       友人に頼んだ人がいる

 

田園都市のこの辺りは、散歩すると30pくらいに育った柔らかな稲穂のみどりが

道の両側にびっしりで、心安らぐ。

 

ふと、以前読んだ『永六輔の伝言』矢崎泰久編集の文章を思い出した。

 

三木鶏郎は日本で初めてディズニー映画と取り組んだ。その人が糖尿病で苦しみ、この病気は先がないから死んだらソプラノの『アメイジング・グレイス』で出棺したいと頼まれた」

80歳までは元気でしたが、いざ葬儀となり約束を果たさねばならない。

 

遺族からは「うちは仏教だから」と反対されたが、ソプラノ歌手の中島けいこさんに頼んた。

青山斎場に10人くらいのお坊さんが並ぶ。それでも故人との約束を果たしたかった。

 

読経が響く中、やおら歌手の中島さんが『アメイジング・グレイス』を歌いながら堂々と祭壇に向かった。読経とソプラノの声が張り合い、物凄い迫力、

「素晴らしいお葬式だった」と多くの人が喜んでくれた。

 

『アメイジング・グレイス』と言う曲を知ったのは、「50歳からのピアノ教室」だった。

生徒には子ども時代からピアノを弾いて、難曲を平気で弾く人もいれば、自分のように長年働いて、63歳からこの教室へ通い始めた者もいた。

 

何より元音大教授が、素人にもいろいろな曲が弾けるように精力的に編曲されたので、何十人もいる生徒たちは、教室に通い続けた。

2018年の演奏会で、『アメイジング・グレイス』を弾いた。難しい曲ではないが、何かこころに響く曲だったから。

 

解説には「何という甘い響き 私のような浅ましい者まで 神は救いくださる。

黒人霊歌独特の暗く、しかも心にしみ入る素敵な旋律です」とあった。

 

いつもは厳しく「もっと練習してこい」と言われたこともある教授の評価は

「表現の仕方がいい。顔の表情がいい。服装もピッタリだ」に驚いた。

 

考えられないことばだった。キリスト教徒でもない自分なのに? そのとき、初めて教授に褒められた。

 

残念ながら、教授は間もなく逝ってしまわれた。戴いたいい思い出である。

                                                 2021・7・28

 

 

 

ピアノの音色  ピアノがうるさいよ

 

わが家にひな人形はない。男の子 女の子と二人育てたが。 

女の子誕生で お祝は何がいい?

義母の問いに、やっぱりおひなさまかしら 

おひなさま? そんなの無意味 そのほかに何か?

 

何かって… ピアノがあったらいいなとは思うけれど、とてもムリムリ…。

義母は貧乏な息子のために、黙って積み立ててきた生命保険が満期になったと。

わが家が貧乏なのは、連れ合いが政党の常任活動家になったから…

給料は遅配、欠配続きだった。

 

当時自由で平等な世の中を目指そう。それが若者の理想だった。

われも働きながら活動家として頑張っていたつもり。連れ合いは専従活動家になった事で勘当された。

苦労して大学まで卒業させたのにと。

 

ピアノは50万円、こどもができてから勘当はうやむやになり、頭金を払って貰う。

遂にピアノ購入。30万円を20年間ローンで払った。

 

クラシック音楽が大好きなわが夫婦、娘が4歳になったら近くの個人ピアノ教室へ。

河合楽器系で、何年間か演奏会にも参加した。

 

あるとき近所の噂ばなしで ピアノの音がうるさい の声を聞く。

そうか、そうだったのか…

道路挟んで向いの家人。音楽好きでなければうるさくて当たり前。

かくして、音なしのごとき消音ピアノとなりにけり

 

暫くして地域の土地区画整理で住居移転が決まる。

転居したら、近くの音楽教師宅から素敵なピアノの音色が毎日聞こえた。

 

全然苦にならなかったが、あるとき急に音が消えた。

あなたの家まで聞こえるの? それを気にして巧いピアノ音は、消音室に消えた。

 

音楽が好きでも、女も働く人生ならピアノとのご縁なく過ぎた。

63歳で『50歳からのピアノ』教室へ。良き教授や先生たちに恵まれ、長年続けた。

難曲でも素人が弾けるように、数多く編曲された元音大教授

 

今朝の新聞広告『ピアノお売りください』とあった。わが家のピアノなら1万円だな。

 

生きるとは、苦しみ寂しさあり、コロナ禍でもみんな逃げずに立ち向かう日々なり。

人には楽しみ、心喜ぶこともあり、それらに支えられて生きて行く。

 

ピアノ弾くが楽しみな人あり。うるさく思う人もあり。

それが人間社会と分かり合いたい。  2021・4・23

 

 

  奏でる音には命がある。いい人生を送られたなぁ

 

友人の親族に90代で「ピアノが弾きたい」という人がおられるそうだ。歳なので楽譜はもう読めない。が、頭に入った音を鍵盤に奏でる。次々と懐かしい曲が弾ける。

老人施設に行ってピアノを弾いたら、入所者からもっと弾いて欲しいと要望が出され時々出かけて弾いているとか。施設の人も自分も楽しまれている庶民のピアノである。

 

いい人生だなぁ、そう想うもう一人の人。

それは50歳以上の高齢者に的をしぼって、自身の作曲や編曲など精力的にこなされていた。多面的な活動された音大の元教授である。

カルチャーセンターでの「50歳からのピアノ教室」。ピアノを奏でる喜びを求めて生徒は40人50人と増え続けた。…年二回の演奏会もあった。

 

自分は長年働き続けたので、退職後63歳から参加した。会員の人たちは退職者あり、家庭の主婦ありだった。プロ並みに弾ける人もいた。

練習もせず参加して間違えると「もっと練習してこい」と、厳しかったが思いがけず認知症で亡くなられた。いまとなってはその叱られたことばも懐かしい。

 

音を奏でる喜びなんて、「コロナ禍で人間界が四苦八苦しているときに何を呑気に」などと叱られそう。でも、そんなときだからこそ、自分は落ち込まずにどう生きたらいいのかを考える必要もある。好きな音楽は脳やこころの癒しになる。

 

音楽家の武満徹は、中学生のとき勤労動員として基地で働かされ戦時中軍歌ばかり聞いていた。学徒の見習士官が手回しの蓄音機をかけてシャンソンを聞かせてくれた。

ジョセフィン・ベーカーの歌う有名なシャンソン『聞かせてよ 愛のことばを』だったと後で分かった。音楽に目覚め音楽の道を進んだ。

その優れた音楽家も1995年65歳で逝ってしまった。

今年はべートーヴェン生誕250年の年

何の技もない自分なのに、若い頃レコードコンサートの仲間に作曲家で誰が好き?と聞かれ「ベートーヴェン」と答えてしまった。偉そうに。

 

しかし、本当に好きな作曲家だった。ピアノソナタ『月光』、交響曲『運命』、何より合唱つきの『交響曲九番』。耳が聞こえなくなり苦労の連続で、音楽を分かり易くと、新しさに挑戦する偉大な音楽家ベートーヴェンに魅かれたのかも…→。     2021・1・23

 

 

       「千の風になって いろいろな所へ心届かせてね」

 

「整理したはずの切手がいっぱい出てきました。

よく手紙を書かれるあなた、私の切手でいろいろな所へ心が届く千の風にしてください」

こう記された手紙が出てきた。

 

現職時代親しくしたその友は静岡県の出身、公務員として採用されてから試験をうけて訓練施設で勉強するシステムがあった。そこで名古屋出身の彼と知り合い結婚した。

訓練終了後、配属された管理部門は男性ばかりの職場だった。

 

課に1人か2人の女性社員だったから、昼は二人でよく外食してしゃべり合った仲である。

体力があり、好奇心旺盛で映画も好き、読書もいろいろ関心ありで外国への旅もよく出かけた行動派。

 

二人とも仕事と子育て、結婚生活を何とかこなしていた。朝8時前、近鉄電車、名鉄電車で駆けつけ、名古屋駅前の自転車店に預けた自転車で官庁街まで20分ほど走る。

雨の日も雪の降る日も必死で…。二人ともそれなりの思想で充実感をもっていた。

 

それがぶち壊される事件が起きた。

一つは彼女の3人の子たちが順調に社会人として歩き出したのに、やさしく真面目な下の息子が来る日も来る日も残業続きで、とうとう精神的に参ってしまった。自宅で自死した衝撃に夫婦で泣き合った。

 

もう一つ、父親である彼がアルコール中毒に。順調に出世コースを行き局長までなったのに、酒に強い力で、いろいろな場をまとめていたのに…。

 親しい友のその苦境を日々耳にし、こころで涙しながら、何もして上げられない。

 

誰ともにこやかに付き合い仏教にも精通していた彼女は「人生は苦なり」と言っていた。

ブッダのそのことばを受け止めるように…。二人でよく話し合い支えあった。

 

この友は74歳ですい臓がんになり、あの世へ旅立ってしまった。もうすぐ3年になる。

83歳まで生き永らえたわれは、人生の下山道を、感謝して歩かねば…。

 

よく歌われた秋川雅史『千の風』が切なく聞こえてきた。

  私のお墓の前で泣かないで

    そこに私はいません

    眠ってなんかいません

 

  千の風になって あの大きな空を

      吹き渡っています          2020・4・26

 

 

       いい音楽が聴きたいよ

 

ある音楽家が中学二年生のときに、戦争に協力する学徒として働かされた。

そこへ学徒動員で徴用されてきた大学生が見習い士官となる目的で配属された。

戦争も終わりに近い1945年だった。

 

疲れ果てた中学生とは音楽家武満徹で、その大学生が「いい音楽聞かせてあげよう」と手持ちの蓄音機で聴かせてくれた。

それがフランスのシャンソン『聞かせてよ 愛の言葉を』だった。

 

びっくりする中学生、いつも軍歌しか歌わせて貰えなかったから。その音楽の素晴らしさに圧倒された。戦争中は欧米のほとんどの音楽は、敵性音楽としてほぼ禁止されていた。

この記事を岩波書店発行の雑誌『図書』2019年8月号で読み、早速家にあるCDで『聞かせてよ 愛の言葉を』を、淡谷のり子の声でしみじみ聴いた。

 

そう言えば鶴見俊輔監修の『人生のエッセイ 私たちの耳は聞こえているか 武満 徹』を20年近く前に読んだことを思い出し、本棚を探し折ったページを読み直した。

ジョセフィン・ベーカーという歌手が歌っていた。『パルレ・モア・ダアムール』『聞かせてよ 愛の言葉を』だった。

 

武満徹は「こんな素晴らしい音楽がこの世にあったのかと思った」と。ここから終戦になって音楽に関心が集中していったと言う。

 

武満徹は「音楽というものは人間の孤独な感情、悲しみや怒り、苦しみなど人それぞれの感情と結びついて生まれてくるものです」

「自分はひとりだが、しかし多くの他人(ひと)に支えられて生きている」

これは、82歳の高齢者となった吾も思う。最近人生を振り返りつついつも想う事、それは「ご縁があった多くの人たちに、支えられて生きて来た」である。

 

音楽家として活躍した武満徹は、1995年に65歳であの世に旅立っている。

 

何より『図書』で見つめ直した中心は、中学生で戦争のために勤労し続け、ある時音楽の素晴らしさを聞かせてくれた人がいた事。音楽家吉田秀和が、戦時期に押入れの中で布団をかぶってベートーヴェンやシューマンを蓄音機で聴いた事実、そんな戦争一直線の時代がこの国の現実だった事に胸打たれる。

 

テレビなく、レコードない戦後の貧しさの中で育てられたわが姉妹は、毎日夕方から庭で3人大声張り上げて、童謡を歌い続けご近所でも評判だったそうだ。

 

クラシックだろうとシャンソンだろうと、自由に好きな音楽を楽しめる世の中。

お金さえ出せば好きな物が食べられる社会、自由に旅する事も出来る事、それが庶民の待ち望んでいる社会だと思う。

 

最近の簡単に人を刺し、騙すことが多発している。それは何故なのか?

 みんなで考え合いたいと思う。   (2019・8・30)

 

    注『聞かせてよ愛の言葉を』を初めてレコードに拭き込みしたのは、『図書』によるとリュシェンタ・ボワイエであると見習士官のことばがある。

 

 

       音楽の力で こころ楽しませ−マリンバコンサ−ト

 

朝の新聞タイムは二紙で1時間、贅沢ね。勿論、現役時代はそんな余裕なく、見出しだけ斜め読みした。朝刊、夕刊を夕食後にまとめ読みだったことを思い出す。

青春時代肋膜炎になり、ベッドで寝ながら聴いたショパンの「幻想即興曲」に胸打たれた。以来クラシックに親しんだ。

 

夫婦が長年好んだクラシックのCDを愉しんで聴きながら新聞を読む。最近、トランペットの詩人と言われる「ニニ・ロッソの世界」が手に入り耳傾ける。

 

そんな中で「クラシカル・ムード」や「世界の抒情」の曲中、日本の曲とばかり思いこんでよく歌っていた庭の千草埴生の宿が、アイルランド民謡やイングランド民謡だったことを知った。その程度の音楽ファン、クラシックファンである。

 

さて、退職後63歳から始めたピアノレッスン、その先生の関係で久しぶりにコンサートに招かれた。マリンバコンサートである。

楽器はマリンバ、そんな楽器さえあまり知らなかった。巨大な木琴と言えばいいのかな。コンサート会場は地方の総合文化センターだったが子どもも含め、満員の盛況だった。

 

スタートで驚いたのは、いきなりピアノ伴奏で「愛の挨拶 Eエルガー」「チャルダッシュ Vモンティ」とテンポいい曲が奏でられた。

「チゴイネルワイゼン Pサラサーテ」で一部が終わるまでに連続7曲、親しみ易い曲に、こころはずむ演奏、マリンバと言う楽器が奏でるメロディに引き込まれた。

 

舞台でひとり、マリンバ演奏者はすべて楽譜なしの暗譜演奏だったのには驚いた。

暗譜と言えば、何年か前のピアノ発表会でシベリウスの「フィンランディア」だったかフォーレの「シチリアーナ」だったか、暗譜で弾いた。いつもの調子で弾けるはずなのに、間違えて弾き直した。が、どうしたことか又間違えた。舞台の上から「もう一回だけ弾かせてください」と図々しくお願いして、なんとか弾けた経験がある。

 

プロとは言え、マリンバの先生の素晴らしい暗記力に感心した。

いつも指導受けているピアノの先生も、美しい舞台衣装で伴奏された。7曲を休みなく音色心地良く弾かれた。精神的にも肉体的にもしんどかっただろうと思う。

 

第二部はマリンバ3台の共演だった。舞台に大きな楽器マリンバが3台、演奏者は両手に細い棒を持って音を奏でる。マリンバ同士が活かし合いながら見事な演奏で『Aビバルディの「四季」より「夏」』など5曲が終わった。

 

自分にとって音楽とは何だろう。文学、哲学とは違う脳への柔らかい刺激に心洗われる。

 

人間はいろいろな楽器で音を奏で、自然や人への愛を想っている。

今回のコンサートでも、その事が少し分かった気がした。

                 2019・6・30

 

 

       左手だけで 音を奏でる

 

音楽は脳を和らげる。声を出して歌を歌うのはいい。専門家たちの調べでは、脳の血流が良くなる。器楽を演奏するともっといい。血流が良く画面がはっきり赤くなった。

そのテレビを見て、音楽を聴くだけでなく奏でる楽しさ、心地良さが蘇った。

 

仕事を辞めて63歳から習い始めたピアノも、そろそろ終わりかなと迷っていた。

『50歳からのピアノ』教室の発表会は40人以上が演奏し盛況だった。高齢者なのに恵まれ過ぎかもしれない。

 

教授が病気で辞められた。女の先生たちが個々に教室を開いて、継続する人たちも多かった。みんな10年15年と愉しんできた人たちだった。ピアノは娘のために買ったものである。

 

81歳になって思いもよらない乳がんになり、全摘手術で数か月休んだ。好きな音楽を聴くのもいい。が、奏でると脳が安らぐ。やはりピアノを弾こうと久しぶりに女の先生の教室へ出た。

 

以前演奏会で弾いたシベリウスの『フィンランディァ』を弾いた。

この曲は縦に長くロシアと国境を接している国フィンランドが、何度も大国ロシアに攻められ抵抗し続けた。その曲は美しいメロディの流れと共に、抵抗する切なさが溢れている。

 

以前、ピアニスト館野泉の『フィンランディア』の演奏を聴き圧倒された。歳は1936年生まれで自分と同じ81歳。

 

しかし、氏は2002年脳溢血で倒れた。そして2003年左手だけのピアノ演奏で復活した。フィンランド在住ながら、日本でも「左手だけの音楽会」も催す活動的なピアニストである。

 

少し前、フィンランドから合唱団が来日し、この『フィンランディァ』をテレビで聴けた。荘厳ささえ感じた抵抗の歌詞の素晴らしさだった。

そう言えば今日12月8日は、77年前日本が真珠湾を攻撃し、悲劇の太平洋戦争に突入した日だった。

 

音楽というのは、このように脳を刺激し、穏やかに、安らかにしてくれるのか。左手だけでも弾こうとするピアニストと共に、この曲を味わった。

81歳の乳がん手術者もその意気込みを見習おう。

              2018・12・8

 

 

        ワァイ、ピアノが弾けた

       乳がん全摘手術から2週間が過ぎ…

 

「アメイジング・グレイス」独特の暗く、しかも心にしみいる素敵な旋律を奏でたかった。

 

テノール歌手 新垣勉は、沖縄基地に駐留していた米国人と現地の日本人女性との間に生まれたが、助産師が誤って家畜の点眼薬を新垣の目にさし、そのことで光を失った。

その後両親は離婚し祖母に育てられた。孤独なドン底生活で新垣は両親と助産師と戦争を恨んだ。

 

幼い頃から近所の人たちの間で評判だった新垣の歌、新垣を引き取った牧師は彼を大学神学部に入れた。聖歌隊の勉強の中で指導者から「その声を使わないのはもったいない」と言われ、大学卒業近くに「あなたの明るい声は神様とお父さまからのプレゼント」と励まされテノール歌手への第一歩を踏み出した。

 

虐げられた日々の苦しみを忘れ、神に祈りを捧げる喜びを歌う黒人霊歌。

 

新垣は「人の役に立っていると分かると 明るくなれる。私は戦争がなければ生まれてこなかっただからこそ、主義主張をこえた平和への思いを歌い続けたい」と言う。

盲目のテノール歌手 新垣勉が讃美歌の名曲であるこの曲を沖縄県那覇市民会館で歌った。

 

右胸に15センチの傷あとのある身、とても指にピアノを押す力は入らないだろうと思ったのに、ピアノが弾けた。「アメイジング・グレイス」こころが求めるメロディが。

 

様々な検査を2ヵ月近く重ね、とうとう老体にメスを入れた。手術から2週間が過ぎた頃

「ほぼふつうの生活が出来ています」

「戴いた『リハビリのプリント』はやっていますが、ピアノ弾いていいですか?」

 

「エッ 81歳でピアノ? いい、いい。素敵なリハビリよ」

「で、どんな曲弾くの……。こんな力いっぱいの姿勢はだめだけれど…」

 

誰でも、ふつうに食べてふつうに歩けて当たり前。そう思って暮らしている。

それが突然「食べられない」「歩けない」となると…つい3週間前81歳の老体に「胸のしこりは18ミリの悪質がん」という検査の結果が突き付けられた。

 

弱虫は、「この歳までメスなんか入れた事がない」それで「手術なんてしない」と言い張った。それを何人かの手術体験のある友たちが「当然手術よ」と、滅多に話さない若かった50代60代の体験を率直に話してくれた。いっぱい戴いた励まし。

 

手術は終わった。放射線治療、抗がん剤治療はしない。…が、再発を防ぐ『ホルモン療法』(5年間)を始めるかどうか、決断を迫られている。

娘は3年前に乳がん手術を受けた。母娘とも乳がんになったことは、乳がんの遺伝子が潜んでいるのか?

 

「一日一生」というが、今日一日命があった。このことに感謝。

 

                  2018・8・4

 

 

       音楽のちから

 

久しぶりにピアノ発表会に参加した。参加者およそ10人、かつて上級、中級、初級に別れて、50人近いメンバーが時間をずらして何人もの先生に学んだ教室。

 

音大名誉教授を中心にした「50歳からのピアノ教室」では、名誉教授が精力的に作曲、編曲される曲が豊富だった。真剣な指導に世界の音楽を連弾もしながら愉しんだ。

それが10年も15年も続ける人が多かった理由かも知れない。

 

講座は教授の病気で閉鎖したが、それぞれ音大出の女先生が個々に教室を継続している。

 

発表会のプログラムは、アダモ作曲『サン・トワ・マミー』から始まり、名誉教授作曲『この幼い命に幸せを!』と続く。しっとりした曲情が、命の新鮮な輝きと未来の幸せへの願いを感じさせる。

チャイコフスキーの『花のワルツ』を弾く人があり、次が自分の出番で、マリオ作曲『遥かなるサンタ・ルチア』を弾いた。

 

ナポリの人々は『サンタ・ルチア』と言えばこの『遥かなるサンタ・ルチア』を指すといい、広く愛唱されていると解説にあった。舟人が美しいナポリ港を離れて船出するときの、切々とした気持ちが歌えたか…。

 

最後は飛び入り男性が『ハナミズキ』を暗譜で力強く弾いた。

 

連弾のプログラムになった。編曲された『めだかの学校』を聴きながら、曲が創り出す光景が頭に浮かび若いころの気分で心穏やかになる。

連弾の良さは相手を互いに意識しながら、曲を表現するところかなと思う。

 

メンバーは若くない。その中で80歳前後の人が数人いて、自分もいつの間にか歳だけ長老になっていた。かつては80代の実力派先輩が何人もいたのに…。

編曲も出来る先輩はあの世へ旅立ってしまった。

 

「指が音符を追ってメロディを奏でる。音は消えてしまうのに…。その膨大な時間を考えると気が遠くなりそう…」これは最近読んだ本『密蜂と遠雷』にあった。

 

「若い人への指導と違って年配の私たちへの指導は張り合いがないでしょ」と女の先生に言うと「いえいえ、弾き方から人生が感じられる」と持ち上げたり、励ましたりされて曲を奏でる喜びを味わっている。

 

確かに様々なメロディに魅かれて、心安らぐ或いは気持ちを揺さぶられる。疲れた脳にいい刺激があり、喜びを感じる。それが音楽のちからなのだろう。

 

地球温暖化で、各地に異常気象が続き災害多発で大騒動のいま、集まって音楽を愉しんでいていいの? 政治の世界は戦争したい人物が、どんどん勝手に進めている。そんな気持ちもある。

 

しかし、高齢化社会になり年寄も若い人に迷惑にならず元気で人生の最終章を生きねばならない。そう考えれば、いっとき脳を愉しく刺激しながら過ごせた演奏会は良かったと言えるのかも知れない。

                2017・7・17

 

 

       100回でも150回でも…

 

23年間続いたピアノ教室が、この発表会でとうとうおしまいだ。

名古屋ヤマハホールの客席はほぼ満席で、いつもの発表会とは何か違う雰囲気だった。

 

演奏者は50人近いときもあったが、今回は34人。プログラムには名前と演奏曲目が、独奏、連弾別に並び、さらに講師5人の名前と連弾名が載っていた。

カルチャーセンター責任者から「教授の病で講座閉鎖」の挨拶があり、演奏は初級の新入生からスタートした。

 

数人暗譜で弾く人があり、でも途中でストップしてしまうこともあった。

プログラム中ごろの人は、次第にベテランの落ち着きで弾けていた。

 

次の出番の人が立ち上がった。けれど舞台の裏手に廻ることができない。女先生が客席から直接舞台へ登る階段を歩けるように、手で支えた。普通に歩けない様を明日のわが身とも思う。

しかし、ピアノに向かうと別人のようになり、「ブラームスのワルツ」を弾かれた。

 

次の人もクラスが別で知らない人だったが、杖が側に置いてあった。やはり女の先生に客席から舞台へ引き上げて貰われた。

老いても音楽が好きで、ピアノを弾き続けられたのだろう。そう思うと清々しささえ感じた。

 

後半から最後の演奏までは、流石10年20年と継続した努力を実らせた演奏が多かった。わが「フィンランデァ」もまあ好評でヤレヤレ。

生徒の連弾もさることながら、5人の女の先生が次々席を変わり合って弾く「五手連弾」の力強さは見事に発表会を締めくくった。

 

演奏会の途中で、教授ご夫婦が出席されみんな拍手で迎えた。

おしまいの舞台で花束を贈られた教授は「これからもどんどん新しい曲を作るから。83回演奏会?いやいや100回でも150回でも…」の挨拶にみんなドキッとした。

 

そして、5人の女先生が一人一人挨拶された。

と、さらに、女先生が発言した。「教授が心配されています。来週のレッスンの予定ですが…火曜日10時からです」その挨拶が胸を締め付けた。

 

教授の「認知症」が切なく、突然のレッスン停止がやるせなく涙が滲む。

ホールは明るくなった。客席にいた以前のメンバー女先生たちも、涙を拭いていた。

 

最後の発表会と、幸せな15年間のピアノレッスンはこのように終了した。

 

20年以上も高齢者に音楽を奏でる喜びを与え続けられた人生は素晴らしい。考え方を変えれば、気も安らぐ。

 

23年間生徒だった83歳の先輩のことばが身に沁みる。「終わりのないものは何もない」

 

                  2015・10・8

 

 

 

 「もっと練習して来い」

        20年、発表会80回、言うのは簡単だけれど…

 

ピアノ発表会はふつう年1回である。が、年4回も発表会をするピアノ教室がある。あったと過去形になってしまったが。

「50歳からのピアノ教室」という。音楽が好きでも、仕事や家庭の事情でピアノを奏でる余裕がなかった人が対象の教室だった。

 

クラシックを基本に、シャンソンやタンゴなども幅広く編曲作曲を続けた教授は、スタートした20年前は現役の音大教授だった。教えてくれたのは、スタートから20年間休まず会員の、年齢80過ぎの元教員だった。

 

クラス毎の連弾指導と個別指導の他に、3か月に1回教授レッスンというおまけがあった。みんなの前でのピアノ演奏会は3か月に1回で、年末はヤマハホールという大舞台での演奏だった。緊張はするが、練習の成果を聴いて貰う場があったのは充実感にもつながった。

 

60歳まで働いて、63歳からピアノに向き合った私でも、いつの間にか15年続いた。

「ゆとりの中から文化は生まれる」と言うが、70歳、80歳過ぎても、みんななぜ続けるのだろう。

 

「ボケ防止」、「ピアノが弾ける喜び」「友たちと話したりお茶飲んだり出来るよろこび」…やはり音楽が好きなのだ。

以前、教授レッスンのときに「もっと、しっかり練習して来い」と叱られたことがある。

 

個別指導のために、音大出の女の先生が5人いる。その中の一人に「肥え過ぎ、もっと体重減らせ」と教授に言われていたと、生徒仲間から聞いた。

或いは正確なピアノ指導のあと、「頭を使って弾かなきゃ…そこまでいい頭だとは思ってないけど…」などなど、率直な言いたい放題は有名で、みな一度や二度は経験している。

 

厳しい指導の教授レッスンだったが、最近「レッスンをスッポカされる」と、時々耳にするようになった。

昨年末は「第80回演奏会」だった。お祝の花束を教授に贈ろう。と、積極的に発案した人のことばに驚いた。

 

「少し前に83歳で逝ったベテランの名前を、○○は?と聞かれるの」「○○さんはもういませんよ」と言っても、次の練習の日にまた「○○は?」それが続いて、「やはり、変よ。お祝いするなら今回しかない」とその先輩に事情を聴き、みんなショックを受けた。

 

私は今年4月の教授レッスンで、3曲ほど指導を受けた。指導は的確でそのうちの一曲「アメージング・グレース」を弾くと「この曲はどういう曲か分かるか?」と考えさせ、調べさせる指導に満足した。

 

発表会当日、私の「アメージング・グレース」について教授の評価に驚いた。

「(1)この曲らしく弾けている。(2)顔の表情がいい。(3)服装もぴったりだ」

 

いつもは「だが、しかし」が当たり前だった。病と微妙な関係ありなのだろうか?

年とっても、ほめられるのはうれしい。やっとたどり着いた「ラストホメ」かも…。

 

他の人全員の評価をメモしたが、「しかし、こういう点が」と、全員にきちんと評価と欠点が言われていた。

 

それから暫くして、カルチャーセンターの担当者から「講座閉鎖」の挨拶があった。

「20年もやってきて、急に閉鎖と言われても…と、ほぼ全員の署名付き意見書で提出されました。受講生の熱意を受け入れ、教授レッスンなしで、1年間だけ継続します」

 

印刷された文章には「ご本人、ご家族の方とも話し合いました。15年も20年も続けて来られたのは、並々ならぬ教授の力量と努力だったと考えます」とあった。

 

しかし、その後の話し合いで、一年間継続は取消され、来月(2015年)9月閉鎖となった。

 

「いつもここにいた、あの教授が認知症?」…切なさが胸に迫る。

私の心の中で繰り返す。「人は老いる。永遠のいのちはない。何と切ない…」を。

 

ホールでのラスト発表会は、あの曲を弾こう。シベリウス作曲「フィンランディア」を。

 

脳出血で倒れて右半身不随になった「左手のピアニスト」館野泉氏、そして他国に侵略され続けて苦しんだフィンランドの人達の苦労を想う。

それは認知症と診断されてしまった教授を思う切なさにつながる。

 

                      2015・8・8

 

 

 

       「アメージング・グレイス」をうたう

 

 仕事を卒業して63歳から始めたピアノがまだ続いている。この「50歳からのピアノ教室」は、3か月に1回担当の先生以外に音大名誉教授の教授レッスンがあり、発表会も3か月に1回ある。

 

 先日、教授レッスンで「アメイジング・グレイス」「バッハのメヌエット」など弾いた。

 「アメイジング・グレイス」を、もう一度と弾かされた。

 

 弾き方にくびを傾げた教授に、「この曲はどういう曲か?」と聞かれ「黒人霊歌で悲しい曲」と答えた。が、教授は答えに満足しなかった。

 教科書には簡単な解説が載っており、「この曲はいい曲なのに、みんながあまり弾かない」と付記されていた。

 

 インターネットで調べたら、「アメイジング・グレイス」とあった曲名の横に「すばらしき恩寵」とあり、日本語と英語が交互に歌詞が全部載っていた。有名な讃美歌と出た。

 私は知らなかった。作曲者は不明ながら、作詞はジョン・ニュートンとあった。

 

 ジョン・ニュートンは1725年イギリス生まれで、「奴隷貿易」で巨万の富を得る。当時奴隷として拉致された黒人の扱いは家畜以下。そのため輸送船内での劣悪な衛生状態で、輸送先に着く前に感染症や脱水症状、栄養失調などで多くが死亡した。

 

 1748年22歳のとき、船長として任された船が嵐に遭い、海に呑まれそうな船内で必死に神に祈った。船は奇跡的に嵐を脱し難を逃れた。

 

  …アメイジング・グレイス 何と美しい響きであろうか

  私のような者までも救ってくださる

  道を踏み外しさまよっていた私を

  神は救い上げてくださり、今まで見えなかった神の恵みを

  今は見出すことができる…

 

     …これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが

     私を導きたもうたのは

     他でもない神の恵みであった…

 

  …そうだ この心と体が朽ち果て

  その限りある命が止むとき

  私はベールに包まれ

  喜びと安らぎの時を手に入れるのだ…

 

    アメージング グレース/歌/英語、日本語字幕 - YouTube

 

 クリスチャンではない私でも、この曲で知った黒人霊歌に歌われる黒人奴隷の苦悩が理解できる。ジョン・ニユートンは勉学と多額の寄付を重ねて牧師になった。

 黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、赦しを与えた神の愛への感謝がこめられているといわれている。

 

 最近、全くの偶然ながら、『盲目のテノール歌手新垣勉さん「アメイジング・グレイス」を歌った。それは不屈の詩(うた)「憎しみを感謝に変えて」という中日新聞の記事(2015・5・8)に掲載されていた。

 

 新垣勉さんは歌手生活35年、生まれは沖縄県、米軍基地に駐留していた米国人と、現地の日本人女性との間に生まれた。1歳で両親が離婚し父は帰国し、母は再婚したので祖母に育てられた。

 最大の不幸と思えたのは、生後間もなく助産婦の誤りで家畜の点眼薬をさされて失明したこと。

 

 14歳で祖母が死に、それから2年経ったとき発作的に死にたくなり、井戸に飛び込もうとした。が、通り掛った友人に助けられた。

 ラジオで祖母が好きだった讃美歌を耳にし、那覇市内の教会に行った。出迎えた牧師に「大人になったらアメリカへ行って父を殺してやる」と言い放った。牧師は何も言わず、ただ、ただ涙を流した。

 

 その後、牧師は新垣を引き取り、東京の神学校へ入学させた。

 神学の勉強の中で聖歌隊の授業があり、指導者から「その声を使わないのはもったいない」といわれ、27歳で歌手の道を歩き始め、教会関係者らの支援などで34歳で音楽大学に進学できた。

 

 2015年4月19日、沖縄の那覇市民会館で1000人を超える満員の観衆を前に歌った。太平洋戦争末期の沖縄戦の悲劇を歌った「さとうきび畑」「緑蔭(こかげ)が披露され、観客が涙をぬぐった。

 15曲を歌ったあと、割れんばかりの拍手、指笛が鳴りやまない中で再び舞台に戻り歌ったのは「アメイジング・グレイス」だった。

 

 新垣勉のことば

 人の役に立っていると分かると明るくなれる自分に与えられたいいものを発見して生かし合う。それがハーモニーとなり平和に続く」

 自分はいくさの傷跡、戦争がなければ生まれてこなかっただからこそ二度と傷跡を世界に残さないよう、人種や宗教、主義主張を超えた平和への思いを歌い続けたい」

 

 これを読んで、先日コラムで知ったあるフルート奏者の、音楽についてのことばを思い出した。

 「『うまく生きる』ことには役立ちません(たぶん)。けれども『よく生きる』ためには欠かせないものです(ぜったい)

 

 発表会の曲は決まりだ。自分なりに「アメイジング・グレイス」のこころをうたおう。

 

                          2015・5・22

 

 

 

       ドンチャン騒ぎの音楽

 

 うたう喜び 聴く楽しみ

 

 朝の新聞タイムは、いつも目で字を追いながらBGMに耳傾ける。

 今朝もショパンの曲を聴いていると、いきなり聞き慣れた日本の歌のメロディが流れてきた。「雪の降る町を…」この歌の出始めのメロディを3〜4回繰り返しているように聞こえた。夫はこのことに以前から気がついていたと言う。

 

 曲は「幻想曲ヘ短調作品49」で、11分30秒ほどの長さである。

 ショパンが日本のこの曲を真似るはずはない。「雪の降る町」の作曲者が、記憶の深い所にあったショパンのメロディが歌の旋律になってしまった。のではないかと思った。

 

 子どもの頃ラジオはあったが、テレビはなかった。姉妹3人が毎晩大声で歌をうたった。

 戦後の貧しい時代、さつまいもだけの夕ご飯が済むと、いつも大声で歌った。疎開先の暗い庭だった。

 

 現在は全くの悪声であるが、日頃歌ってばかりいたせいか、学芸会で姉妹3人ともが学年で選ばれて独唱した事もあった。

 「おさるのかごや」「みかんの花咲く丘」など川田正子、孝子姉妹が歌っていた歌である。

 

 社会人になってから、風邪をこじらせて肋膜炎で入院した経験がある。当時入院した公務員関係の病院で、患者の中の音楽好きの人たちが、定期的にレコードコンサートでクラシック音楽を楽しませてくれた。

 病の心配の中で聴いた「ショパンの幻想即興曲」は、青春時代の大好きな思い出の曲になった。

 あの頃「労音」と言う音楽の定例演奏会があり、安い会費で月1回くらい音楽を楽しめた。

 

 『笑えるクラシック』〜不真面目な名曲案内〜の著者は樋口裕一氏で、次のような文章がある。

 「ベートーヴェンの『第九』は、日本人にとっての忘年会のドンチャン騒ぎ」びっくりするようなことを堂々と書いたのは、「一般的に、クラシック音楽は堅苦しく敷居が高い。そう思っている人も多い。コンサート会場でも、じっと神妙に真面目に音楽に耳を傾ける人たちであふれている。

 

なぜ、年の瀬になると日本人は『第九』を聞きたくなるのか」と、ベートーヴェンの「交響曲第九番」について書いている。

 「日本人にとってのドンチャン騒ぎと重なる。バリトンの『おお友よこんな音楽ではない、もっと楽しい音楽を奏でようではないか』という歌声が、課長の『これまでの仕事の苦労を忘れて、今日はドンチャン騒ぎをしましょう』に重なるからだ。」

 

 著者は「勿論、この曲は人類の至宝ともいうべき音楽だ。『運命』以上に、一分の隙もなく構成され聴く者の心を揺さぶる。第一楽章から第三楽章までは特にそうである。

 ベートーヴェンは、第四楽章はシラーの詩『歓喜によせて』を人間の声で歌わせると決めていた。…そうすると前の三つの楽章との統一がとれなくなる。

 

 だからチェロとコントラバスでメロディが奏でられる。後でバリトンによって歌われるメロディと同じメロディである。『おお友よ、こんな音楽ではない、もっと楽しい音楽を奏でようではないか』」

そして、あの合唱になる。

 

 「ブラームスの四つの厳粛な歌』では『人はみな死ぬ。死ねば灰と化す』と無常観を歌うものだ。…ところがこれは童謡『こがね虫の』の出だしとよくと似ている。…こがね虫は金持ちだ。金蔵建てた蔵建てた…と歌いたくなってくる」とあった。

 

 さらにもう一つ「ドヴォルザ―クの『聖書の歌』は宗教的で生真面目な曲だ。その歌曲集最後の第10曲に入ると突然『雪やこんこ、あられやこんこ…』のメロディが聞こえてくる」

 「こがね虫」の作曲者は中山晋平で、「雪やこんこ」は不明であるが、「雪」の方も中山晋平ではないかと著者は書いている。こんな文章を面白く読んだ。

 

 自由に考え、楽しもう

 

 音楽は、何百年も昔の音楽なのに楽しんで、あるいは人生の哀しみが心に沁み込む何かを感じる。それはクラシックだけではない。

 

自分も、いかに読んで頂ける文が書けるか、文才なきなりに分かり易い文になるか、などと考えて文章を書く。すると次々文章が浮かんで眠りが浅くなる。そんなとき、ピアノを弾くと、脳の全く違う分野が働くのだろう。頭がすっきりする。音楽の不思議な力である。国語、社会の時間から、音楽の時間に切り替えだ。

 

 笑えるクラシックの著者が書くように、どんな分野にも、全く異なる見解というものはある。異見があって、異なる見方があるという事の意味をあらためて考える。

それらと話し合い、お互いを尊重しながら一致するものを創り出す。これが自由でありながら民主的態度というものではないだろうか。

 

どこかの首相のように「この道しかない」と強引にひとりよがりの政治をすすめ、お友だちで周りを固める。こわい国になりつつある。

 

 「50歳からのピアノ」という教室がある。会員40人以上で3か月に1回発表会があり、ソロと連弾の演奏をしなければならない。昨年末、ヤマハホールで80回目の発表会が済んだ。

 仕事を卒業して63歳から参加しているが、10年続ければ70過ぎる。なかには80歳過ぎの人も何人かいる。暗譜で弾く人も。自分も間違えるときもよくあるが、挑戦者のひとりである。

 認知症予防のトレーニングと心得ている。

 

 終わってから同じクラスのメンバーと食事する。「楽しいからこの場のために来るみたい」とか、「ぼけ防止だ」とか、「夫が逝ってひとり暮らしになった。この家からピアノが聞こえる。若い人が住んでいる?…がいい」などなど、みんな60代70代後半でも若々しい。「健康だからこそ、ここまで出てこられる、愉しめるいまに感謝」と言い合いながら。

 

 音楽も国語、社会の時間も楽しみ、いいときを創ろう。残り時間が少ないんだもの。

 

           笑えるクラシック』著者樋口裕一(幻冬舎新書)  2015・1・29

 

 

 

       妖精たちよ、幸せであれ

 

 子どもピアノ発表会に行った。一部中学生や学齢期前の子たちもいたが、大部分は小学生それも低学年と見た。出場者およそ70人その数の多さに驚く。

 女の子は全員しゃれたドレス、貸衣裳にしてもフランス人形のいでたち、このゆとりと豊かさはどうだ。

 

 何より感心したのはほぼ全員暗譜で弾いた。子どもたちは音楽を体で覚えてしまうのだろう。

 

 中学生で難曲ショパンのノクターン「遺作」を弾く子もいた。若い親たちが必死でカメラを構えたり、演奏が終わると、舞台の下から必ず友達か親が花束を差出して労っていた。

 

 孫は4年生男子、「戦場のメリークリスマス」を自分で選んで弾いた。中学1年の女の孫はベートーヴェンの「悲愴」第3楽章を、やはり暗譜で弾いた。

 ふたりとも落ちついて曲の心が歌えていた。

 

 一方、「50歳からのピアノ」教室では、間もなく年4回もある発表会が迫っている。年末はヤマハホールで弾くのだ。

 この教室に参加したのは仕事を終えた63歳だった。あれから14年が過ぎた。生徒も過半数が70代になった。

 

 60代ならまだ覚えも速く指も動く。それが70代後半ともなると暗譜も大変、とみんなが言う。でも、幼い妖精たちに学んでやはり暗譜で弾こう。間違えてもいい。

 ここまで世界の音楽を奏でる喜びを持ち続けられたのは、やはり作曲編曲で、何とか年寄りたちにも弾かせ続けさせようという音大名誉教授や、音楽大出の若き指導者たちの熱意だろう。

 

 夕焼けの穏やかな初冬の空、ゆったり遊んでいるようだなぁと、犬と散歩しながら田舎道を愉しんでいた。が、北西の空に突然牙をむいたような険しい黒雲があった。

 天気予報通りの寒気がやってくるのだろう。

 

 黒雲の出現は、まるであの日のようだ。12月6日、心を沈ませる出来事が起きた。

 強行に次ぐ強行採決、多数の横暴で国会は「特定秘密保護法」を参議院で通過させた。

 

 ノーベル賞受賞をふくむ学者、研究者たちの反対、日本弁護士会、日本新聞協会や日本ペンクラブ、或いは映画人や芸術関係者などなど、この「特定秘密保護法」の危険性を理由に反対の声を挙げた。

 

 勿論多数のふつうの庶民たち、沢山の日本人が反対したのに。

 

 あいまいで隠し、何でも秘密にでき、先の大戦で鍵とした「治安維持法」と同じ危険な法律、「ナチスドイツのやり方を学んだ」政治屋たちが、この日本の道を大きく旋回させた。

 どんな事にも異なる意見はあるだろう。唯一、絶対はあり得ない。この法律は反対の声にまるで耳を傾けない。

 

 どこまで秘密なのかあいまいのまま、自由な発言を罰し、勝手に戦争させられてはたまらない。

 

 72年前のある日突然、戦争だ!と言われた12月8日、5歳だった。何百万人もの命が奪われた。

 

      われら庶民は自由がいい。民主主義がいい。

        妖精たちが健やかに生きられる世がいい。

 

 理不尽な強行採決で決められた秘密保護法、12月6日を忘れない。

 60年安保のとき、強行採決したのは当時の岸首相、安倍首相の祖父である。そのことで反対運動が全国的に高まった。

 

 原発反対で国会近くに、818日もテントを張って抵抗している人たちがいる。

 見直し、廃止まで、若い人たちと共に、老人も出来る事をやろう。

 

2013・12・11

 

 

 

       「私の手はきれいじゃない」 フジコ・ヘミングのコンサートに想う

 

 コンサートホールでの生演奏は久しぶりだった。

 演奏者の人気を反映して、高い会費なのに1階は超満員、2階もほぼ満席で、3階席だけはゆとりがあった。演奏者の顔が見えない、後ろ姿だけだったのが残念だったが。

 

 ピアノソロはすべて楽譜なしの暗譜、1時間40分ほど引き続ける熱演だった。

 

 バッハから始まって、リストの「カンパネラ」まで5曲、とくにムソルグスキーの「展覧会の絵」は、ソロ演奏として初めて聴いた。

 様々に移ろう人生のときを連想させた。力強く、優雅に。終章に近付くにつれ、次第におおらかに、穏やかになっていった。この曲およそ40分間を弾き切ったフジコ、ヘミングの表現力に感動した。

 若くはないのに、その体力には脱帽である。

 

 次は、ヴァイオリンとの共演、

 ヴァイオリンは、ヴァスコ・ヴァッシレフというブルガリア生まれの43歳、1987年パリのロン=ティボーコンクールで優勝し、世界で大活躍しているとか。知らなかった。

 とくに祖国ブルガリアで指揮者としても活躍しており、「コンサートには3万人もの人が押しかけるスター」と新聞紹介にあった。

 

 春らしくベートーヴェンのソナタ5番「スプリングソナタ」が始まり、いきなり聴衆をくぎづけにした。明るいヴァイオリンの春らしい音色、しかも共演のピアノがフジコ・ヘミングという贅沢さだ。

 

 2曲目が大好きなマスネー「タイスの瞑想曲」、酔った。これ以上の贅沢はないと思った。

 親しみのある曲ばかりの選定は、恐らくフジコ・ヘミングの考え方だろう。

 

 昨年末に出版された著書で読んだ。

 「クラシックの世界では、なぜ誰も知らないような曲を選ぶの? 親しみがあって観客が喜ぶような曲で演奏会をしなくちゃ・・・」

 

 「ピアニストはきれいな手をしている。手を大事にしているから。私の手はゴツゴツとして綺麗じゃない。生きるために労働した手だから。いままで言わなかったけど、お金がなくて病院の掃除婦をしたこともあった」と言う。

 

 今夜の曲目にあるリストの「ハンガリー狂詩曲」と、ブラームスの「ハンガリー舞曲」について、「家のないような貧しい人たちの音楽を書いた曲、教授にリストなんか弾くなといわれたが、リストは貧しい人たちに心があったから、そこに耳傾けて作ったのよ」

 

 以前読んだ著書にもあったことを思い出した。

 大指揮者バーンスタインに手紙を出し「私のピアノを聴いて欲しい」と訴えた。

 

 1970年35歳になり、ウィーンでリサイタルが開けることになった。遂に夢が実現するはずだった。凍るような冷たい風が吹く日、ヒーターにくべる石炭を買うお金がなくて、高熱を出し風邪を引いてしまった。咳き込みながら耳が聞こえなくなったことを知った。

 

 演奏会は取り止め、ピアニスト フジコ・ヘミングに絶望の日々が続いた。

 食べる物がなくて、毎日馬鈴薯だけの日々もあった。

 

 それが、1999年、NHKのドキュメンタリー番組「フジコ あるピアニストの軌跡」が大反響を呼び、一躍有名になった。聖書の「遅くなっても待っておれ」が現実になったと言う。

 

 会場では、1曲終わると若いヴァスコ・ヴァッシレフが、フジコ・ヘミングの手を取って立ち上がり、聴衆に頭を下げる。そして次の曲を弾く体制に行く。

 音楽を奏で、人への愛を弾く場だった。

 

 私も忘れない。家なき人が日本にも沢山いる。昔から貧しい人たちと豊かな生活の人があった。

 3・11大震災でおよそ2万人が命を奪われた。仮設住宅から出られず、生活のめどが立たない人たちが15万人。原発事故の放射能が心配で、家族ばらばらになっている人たちが30万人もいることを。

 

 フジコ・ヘミングは、「誤解され妬まれたりもした。完璧な人間なんていない。自然体がいい」という。

 

 凡人のわれならなおのこと、人に迷惑かけたり誤解されたり。人は一人では生きられない。不完全な人間同士、みんな人とのいい信頼関係をと願って生きている。

 感謝を忘れてはならないと思う。

 

 フジコ・ヘミングの音楽は苦労人生だったから、心に沁みる。

 

 事情で参加できなくなったチケットがと、友が誘ってくれたコンサートだった。

 夜9時過ぎ、2回目のラッシュアワーで混雑する地下鉄のホームで

 

「すてきな音楽に浸れたゆとりと幸せに、感謝しなくちゃネ」と言いながら友と別れた。

 

2013・3・9

 

 

 

       50年と50回で終わる年

 

 何かと気忙しい年の瀬に、恒例の「オイオイ」ピアノ演奏会があった。

 3ヶ月に1回あるそれは、1年で4回になる。しかも年末はヤマハホールという大舞台での演奏である。50代の美人たちもいるから「オイオイ〔老い老い〕」と言うと叱られるかもしれないな。

 それでも、参加者の半数以上は70代以上と見られるから間違いとも言えない。

 

 舞台の両脇に豪華な花々が飾られ、晴れやかな舞台である。待っている1000万円以上のグランドピアノを下から眺める。

 高校までバツチリピアノを習ったという女性は、見せ場とばかり力強いタッチと速いテンポで弾く。その後が仕事を卒業して、63歳から始めた私の出番だ。

 

 曲はトレルリの「嘆きのセレナーデ」、前回フォーレの「シチリアーナ」の暗譜を少し間違えたので、比較的簡単な曲にした。なんとか暗譜で曲の雰囲気が出せたか?

 

 80過ぎて、真っ白になった頭の人が堂々とランゲの「花の歌」を弾かれる。

 長年社会で働いてそれなりの地位だったろうと思われる男性が、講座の教授作曲「スぺインの幻想」を暗譜で聴かせる。発表会のためにみんな練習を積んできた。

 チヤイコフスキーの「舟歌」や、タンホイザーの「大行進曲」、或いは「黒人霊歌」、年なのにみなさん若々しいのは、指で脳を刺激するから?

 

 まだまだ働いている70代もいるいまの時代に、或いは被災地で先の見えない不安で悩む年寄りも増えたというのに、自分も含めてメンバーは恵まれている人たちだ。

 でも、老齢社会で若い人たちに迷惑をかけてはいけないから、頑張れ老人たち!

 

 今回出演者は35人、ソロ演奏が終わると次は連弾、2人組でテンポを合わせるのが難しい。それでも無事終了した。やれやれ。

 と、突然壇上に呼ばれて驚いた。表彰されたのだ。

 

 賞状には「本講座は演奏会50回出演が目標で、それを達成されました」とあり、この人生卒業生は、継続する能力だけはあるのだろうなと、過ぎた13年のときを思った。

 何より、教授や講師たちの音楽への情熱を感じた。

 

 こうして音楽会は終わったが、あわただしい年末総選挙も終わった。

 結果は、「国防軍」だの「憲法変える」だの右傾化の怖い流れを感じる。それはいつか来た道、戦争は殺し合い、それだけは絶対ダメ!

 

 そして、安易に原発再稼動という神経の政治屋を見張らねばと、原爆、戦争体験者の老人は痛感する。

 今朝も経済産業省前で472日もテントを張って反原発を主張している人からメールが届いた。「安部内閣成立でテントをめぐる権力との関係は変わるだろう」と。

 

 命こそ第一、放射能から守らねばならない。子どもたちの未来を。そして経済が大切、そうあるべきだ。4割の得票で7割の議席になった自民党、みんなで見張り続けたい。

 

 今年は金婚の集いも子どもたちが開いてくれた。

 偶然ながら、50年と50回 お目出度いことだ。おおいに喜ぼう。

 

 感謝忘れちゃ罰あたりだ。

 「お前出来すぎだぞ。いい気になるなよ」と、耳元で声がした。

2012・12・30

 

 

 

       ばぁばピアノ まごピアノ

 

 「ばあちゃんは、ピアノはずーっとつづけてください」。離れて住む京都の孫から手紙が届いた。

 この夏は酷い暑さが続き、連れ合いが熱中症→脳炎→髄膜炎を患い、思いがけなく病院や救急車にお世話になった夏だった。一時は意識不明で危なかったが、医師たちの献身的な検査と処置、対応が速かったことで「運が良かったですね」という医師のことば通り、1ヶ月余りの入院で何とか普通生活を取り戻した夏である。

 

 加齢で弱虫の介護人も、暑さと疲労でダウン寸前になり「そろそろピアノも終わりにしようかな」と迷い続けた。3ヶ月間、ピアノも文章も縁がなくなった。

 「白魚のような手でスラスラ弾く音大の卒業生に、ごつごつで血管の浮き出たこんな手など本当は出したくない」「若いときから音楽好き、特にクラシックはよく聴いた。でも歳を考えるともうそろそろ引退すべき?」「このピアノは亡き義母がかけ続けた年金が入ったけど、ひな人形?ピアノならいいけど・・・と言って頭金を出してくれた。だから貧しい家計から月賦で払い続けて手に入れたピアノなのだ」辞めたら弾かないだろう。

 

 あれこれ考え続けた暑い、苦しい夏だった。

 そんなとき、京都から届いた孫の手紙である。その手紙には花や野菜を育てるのが好きなじいじにと、ニンジンとごぼうの種が入っていた。手紙には「ばぁちゃんに云われたように、1日1回はピアノに触っています。ばぁちゃんとこでみんなでひく会やりましょう」とあった。小学4年生のその孫は、発表会ではエステン作曲「お人形の夢とめざめ」を弾いたという。

 

 そういえば、名古屋の孫も小学5年でモーツァルトの「ピアノソナタ12番」を弾いた。その弟も姉ちゃんにつられて1年生から一緒に弾いている。わが家で弾いた曲はエルメンライヒ作曲の「つむぎうた」だった。

 子どもは覚えるのが速く、すぐ暗譜してしまう。ばぁちゃんは、3ヶ月に1回の発表会に恵まれ、単純に考えても年4回、10年で40回も人前で演奏した計算になる。発表会は1回も休んでいない。継続すること、それだけしか能がない。

 

 発表会といえば3年前のほろ苦い体験を思い出す。広い会場での発表会で、どうせ弾くならと難曲のリスト作曲「ハンガリアン狂詩曲2番」に挑戦した。何十回と弾き暗譜までできた。

 いざ本番で左と右が巧く合わない。やり直す。また同じでダメ。それでも舞台の上から「もう1度だけやらせてください」と頭を下げた。やっと弾けた「ハンガリアン狂詩曲」だった。「年取ると図々しくなる」見本のようなものである。

 

 ときにはばぁちゃんとこで、もみじのような手で暗譜が当たり前に弾く孫たち、その母親も、ばぁばもみんなで弾けば、やっぱり楽しい。ばあちゃんの誕生日にくれた手紙、そこには「ピアノをつづけるばぁちゃんがいいです。みんなでピアノ会したいです。ばぁちゃんがピアノをつづけることにしたときいて、いいけつろんだと思います」と、ほとんどひらがなの手紙に、思わずにっこり、口角が上がった。

 

 仮りに、いろいろ困難なことが起きて、世の中の事や自分がやりたいことをやらにゃ生きている甲斐もなくなっていく。これからの高齢社会で、高齢になってもピアノ教室のように70、80でも、元気に音楽を楽しむ先輩たち、それは貴重なことなのかも知れない。

 

 更に、ささやかでも庶民の目線で文を書き続ける。そのことが、ネットのHPの充実に繋がる。いつかも中国から「あなたの文章すき、中国語に翻訳していいか」というメールが届いたことで、インターネットやHPの力が分かり励まされた事を思い出した。

 アクセスの多い連れ合いのHPと共に、私のHPも「お勧めサイト」と言って下さる教授にも、大いに力を戴いた。

 

 宇宙物理学者のS氏が、今朝の新聞に書いていた。

 「素人の音楽愛好者にとって、人前で楽しく演奏できたとしたら、演奏の出来、不出来とは関係なく、これほど贅沢な経験はありません」と。「音楽の不思議、こころの不思議」と題する公演で、その機会が与えられたという。

 

 そのぜいたくを、およそ10年味わわせて貰った。仕事を卒業し63歳から始めたピアノ教室は、世界の名曲や、音大名誉教授の作曲編曲の曲を、音大を出た若い先生たちが、クラス毎にあるいは個別に指導してくれる。そして3カ月に1回発表会がある。だから、若い頃から弾いた巧い弾き手も、60過ぎて初めてピアノを弾く人も、真剣に練習できる。

 

 宇宙物理学者S氏は「すべて肉体感覚が基礎になっていて、それらが脳の中の腺状態と呼ばれる部分に蓄積され、無意識の記憶をつくり人間らしい活動に結びつくのだそうです」とも書いていた。つまりみんなが言っているボケ防止という事か。

 

 3月の東日本大震災以来、苦闘続きの被災者も多い。でも、出来ることで励ましあい、助け合いながら、まだまだやることは山ほどある。

 教室で先生に、孫の手紙のことをチラッと話したら「感激した」と言ってくれた。

 

 続けることしか能のない者は考えた。「継続する力は能力だ」と言うダライラマさんに励まされ、ピアノは続けてみよう。

 音楽の不思議、心の不思議があるから。

 

2011年10月19日

 

 

 

       ショパン「花束の中に隠された大砲」 崔善愛〔チェ・ソンエ〕著

          ショパン生誕200年に新たな発見

 

 力づよい ショパン演奏

 

 若い頃「労音」と言う、働く人が気軽にコンサートでクラシック音楽に親しむチャンスがあった。お陰で毎月のように生演奏が聴けた。

この夏、久しぶりのコンサートで出会ったピアニスト及川浩治の演奏は、こんな情熱的で力強いショパンがあったのかと、驚きと感動で聴いた。

 

及川浩治は数々の賞を受賞しており、日本を代表するピアニストの一人であるが、1990年に、第12回ショパンコンクールで最優秀演奏賞を受賞している。

 

97年から、「レクチャーコンサート」で、ヴァイオリニスト五嶋みどりと、全国各地の小学校、養護学校などで演奏している。

今回は「ショパンの旅2010」として、北海道から九州まで、全国を廻るコンサートだった。

 

ショパンは、繊細な感覚と優雅な叙情で「ピアノの詩人」「ロマン派のピアニスト」と言われるのがふつうである。それだけではないことを、この本の著者 崔 善愛は、自身ピアニストとして具体的な数々の事実で教えてくれた。

 

その一つは、ショパンの祖国が小国ポーランドだったことによる悲劇である。

 ポーランドは北にロシア、西にプロイセン〔ドイツ〕南にオーストリアという大国に囲まれて、1772年に第一次分割以来、93年、95年と第三次分割で、ポーランドという国は、勝手に滅亡させられたという歴史がある。

 

 抵抗運動で臨時政府を作っても、大量殺人で国家滅亡という悲劇が繰り返され、その中でショパンの音楽が生まれた。

筆者は、在日のピアニストとして苦痛を体験しているから、目の付け所が違っていた。

 

 著者の父親は、分断される前の北朝鮮に生まれた。ひとりで38度線を越え、自分で学資を稼いで韓国の大学を出たころ、朝鮮戦争になったので、武器を持って闘うのがいやで、南の島の山奥に潜んだ。

 

どうしても勉強がしたくて日本に来たが、父がふたたび生まれ故郷に帰ることはなく、祖父の死に目にも会えなかったという。

 著者はアメリカに行き、帰国できないかも知れないという状況になったとき、父の苦しみが理解でき、ショパンの人生が、自分が日本で生きて行くことと重なったという。

 

 祖国を想うショパン

 

 ポーランドの人々は、祖国に侵略した国への抵抗心を、いつも胸の中に燃やしていた。

幼い頃から才能を発揮したショパンは、15歳のときロシア皇帝の御前演奏に招かれたが、友人たちからは出演を断るように言われ、父は勧めたので出演する。

 

こんな中で複雑な思いを抱くようになったショパンだった。

1830年7月にフランス革命勃発で、ポーランドでもロシアに対する抵抗運動も活発になり、20歳のショパンは、計画通りこのまま音楽のために、オーストリァへ出国していいのか迷い続けた。

 

そのとき、友人が励ましてくれた。「武器を持って闘うことだけが国に尽くすことではない。音楽家にとっての武器は音楽だ」と。

「音楽をもって、ポーランドの悲劇を世界中に響かせるのだ」。そう決心したものの、ウィーンに行くショパンは迷い続けた。

二度と祖国に帰れないのではと迷いながら国を離れた。

 

ポーランドの人々は日常的によく歌い、よく踊るそうであるが、ポロネーズは男性的、マズルカは声楽的で、ショパンは60曲あまりもマズルカを作曲しているという。

 

練習曲「革命」、ポロネーズ「英雄」、「軍隊」、とりわけ力強いタッチで弾かれる練習曲「革命」を聴きながら、国が滅亡する悔しさを思った。抵抗運動で自由な祖国を願う人々の心情が感じられ、力強さに圧倒された。

 

ショパンは、同じ歳のシューマンや、1歳下のハンガリー出身のリストに励まされた。シユーマンは隠された抵抗精神を見抜いて「花束の中に隠された大砲」と言い、その才能についても「天才だ。諸君脱帽したまえ」と世の中に宣伝していたと言う。

 

 ハンガリー生まれのリストは、「ショパンのポロネーズを聴くと、運命が持ちうるあらゆる不正なものに、勇敢、大胆に立ち向かう人間の、確固として重々しい、というような形容では表しえぬほどの、足音を聞く思いがする」と記している。

 

『ポロネーズ』Op.53、英雄(1936年、自筆譜)。出版は遅く1843年

リストは、この曲をポーランドの偉大さの表現としている

 

 ショパンの音楽は、ドイツやパリの人々には洗練された美しさ、詩的叙情性、それに華麗さばかりに心うばわれていたようであるが、何人かの音楽家たちは、彼の思想とポーランドの土と涙が、ショパンの音楽を形作っていると感じとっていた。そのように著者は記している。

 

 ショパンの評伝でリストは書いている。

「ショパンが何度も繰り返したという『ザル』〔ポーランド語はZALジャルと表記する〕という語には、祝福され、あるいは毒された果実とも言うべき、悔恨から憎しみにいたるまでの、強烈な感情を含むのである」と。

 

 パリで活躍しても、祖国に帰れず誰も祖国を助けてくれない落胆、諦め、喪失感に悩み、音楽のなかにだけ生を感じていた。著者はそう記している。在日という自身の存在でこそ敏感に理解できることだと思う。

 

 演奏活動をしなければ食べていかれない多くの音楽家、ショパンも繁栄をきわめていたイギリスに出かける。しかし晩年、病で170センチの身長に、体重40キログムにやせたショパンは、毎回演奏が終わると気絶しそうになって、ベツトに横たわっていたという。


 面白かったのは、6歳年上のジョルジュ・サンドと9年間生活を共にし、女流作家に経済的にも助けられたショパンが、初めて会ったとき「あれでも女性ですか?」と言ったエピソードである。

 

 革命後も女性は参政権もなく女は家庭を守れという風潮の中で、男名のジョルジュ・サンドを名乗り、ときにはスカートでなくパンタロン姿だったという女流の流行作家だった。

 

 音楽の不思議な力

 

 人は様々な暮らしのなかで、限りある命を想い、音楽に癒され不思議な安らぎを覚える。

100年経っても、200年過ぎても、音楽は生きている。

 

青春時代から、ショパンの「幻想即興曲」は、一番身に沁みて聴き続けた曲である。

嬰ハ短調のこの曲は、始めは速いテンポで惹きつけ、青春の大いなる夢のようなものを抱かせた。中間部はのびやかに、うたうようにカンタービレで、漠然とした恋心のようなものを感じさせた。

 

素人ながら、短調の哀しいリズムで、激しさと安らぎに似たものを感じて繰り返し聴いた青春だった。

さらに、「夜想曲20番嬰ハ短調 遺作」である。映画「戦場のピアニスト」を観て余計好きになった曲だ。

 

 「ショパン生誕200年」は間もなく終わる。

この本は、音楽の新鮮で、強烈な何かを発見をしたような気分にしてくれた。

 

 

 

       ピアノの入院

 

 〔一〕、飢える

 

 「大変だ。浜松の大病院へ入院だって」。「えっ? 彼が?」「救急車で運ばれたの? 病名は何?」 仲良しの友人を驚かせたまま、「ムニャムニャ」と、電話を切ってしまった。

 

 病気で入院したのはピアノだ。2年に1回している調律で、ピアノに蟲が沸いていることが分かった。それは大変なことだそうだ。キーの根元を覆っているフェルトが喰われていた。

 

 調律の人は蟲の現物も見せてくれたが、よく目を凝らさないと見えないほど小さい蟲で、確かにフェルトが削られていた。ピアノは娘が4歳のとき買ったから、もう30年経つ。

 早く処置しないと、キーだけてなくハンマーの方も食われて、変な音しか出なくなる。一刻も早いほうがいい。と脅されたような感じだった。

 

 「ピアノを買い替えられますか?」「もう命の終わりも近いのに、新しいピアノなんて・・・ それに、孫たちもそれぞれピアノがあるしね」

 「ところで、今回の入院費はいくらですか?」

 「正確には未だわかりませんが、およそ15万円ほどだと思います」

 調律2万円と15万円、庶民、とりわけ退職者にとっては大金だ。でも、このまま放置するわけにはいかないし・・・。こうなるのは、120台に1台の割合とか。

 

 今回の入院騒ぎは、人生終章の象徴みたいに思えた。いつまでも若くはないよ。生き物の体だから、あちこち傷みだしているでしょ? 歯はボロボロ、目は、楽譜とパソコン連続して見るとボヤボヤでしょ?

 

 そろそろピアノ辞めたら? ご近所も静かになって喜ばれるかもよ。

 そんな声も聞こえてくるような気がした。ピアノが弾けなくて、ただ一ついいことは、読む、書くという時間がピアノの分少し増えたこと。でも、あの日から何か変なのだ。

 

 いままで新聞読んだら、或いは食事が済んで僅かの時間ピアノに触る。人間の脳は、音が奏でる旋律に確かに反応する。悲しいとか、うきうきするとか不思議な力がある。

 全然違う気分になって、次の仕事なり読書なりに切り替えていた。

 

 この2週間、そんな脳の転換が出来ず、メロディに飢えた脳で散歩にしても読書にしても、何かうわの空というか、かつて食に飢えたように、何かに飢えた感じだった。

 

 〔二〕、全曲暗譜で弾き通す。新鮮 力強いショパン

 

 食事が終わる。何となくピアノのふたを開けてしまった。あるのは木の板から、かっちりとした金属の細い棒が並ぶ道具箱。数えるとびっしり整列した52本が、足元をフェルト状の物に覆われて並ぶ。キーの数だ。

 

 もう1列は、同じ金属棒が2本と3本、交互に間隔をとりながら7組並ぶ。端っこにもう1本だけ埋まって合計すれば36本だ。 これが黒鍵なんだな。

 

 中身なしの、単なる空っぽの入れ物、黒塗りの大きな箱に過ぎないが、音楽というものを創りだす基本だ。

世界の人々の心を何百年もの間魅了し続ける音楽とは、なんと不思議なものだ。

 

 黒い箱の蓋を閉じた。すると、静かにメロディが流れ始めた。

 

 シヨパンの「雨だれ」、恋人ジョルジュ・サンドとマジョルカ島へ転地療養に行ったときの作品だ。思わず耳傾ける。そして青春時代に夢中で聴いた「幻想即興曲」だ。

 

 先日、行ったショパンの夕べ、男性若手ピアニストはたった一人舞台の中央へ颯爽と歩いていく。そして、いきなり「英雄ポロネーズ」を弾いた。

 その力強さに圧倒された。その曲が終わったら、舞台の片隅に戻りマイクで語り始めた。

 

 「シヨパンは17歳で夜想曲19番を作曲しました・・・」。

 一人で解説し、一人でピアノに向かう。祖国ポーランドがロシアに占領されパリへ、二度と祖国の土は踏まなかった。

 

 ピアノの詩人といわれるシヨパン。そのショパンが祖国を思う曲は、演奏が次第に力強くなっていく。

 あんな力強いシヨパンは初めて聴いた。全て、楽譜なしの暗譜だった。

 

 余程ショパンに傾倒したのだろうと思った。経歴欄に「及川浩治、4歳からピアノを始め、1990年にショパン国際ピアノ・コンクールで最優秀演奏賞受賞」とあった。やっぱりな。

 

 〔三〕、働くという事

 

 蟲たちのささやきが聞こえ出した。

 「おれたち、見つけられてしまったけど、いままでのようにピアノ弾くんだろうか?」

 「10年はよく弾いた方だけど、ふた開けないなら、おれたちの遊び場どんどん増やそう」

 

 先日、昼近くに工事現場の傍を通ったら、蒸し蒸し陽気なのに、陽が強くて参った。そしたら炎天下、トラックの下にもぐりこんで寝ている人がいた。昼の休憩場所もない職場。

 

 現役のころ、朝7時過ぎに家を出る。私鉄に20分乗って名古屋駅に着く。駅近くの自転車預かりに置いた自転車でおよそ20分走ると官庁街に着く。

 

 忙しい時間に無理して化粧しても、職場に着くころは汗でしっかり流れ、すっぴんを曝け出してデスクに向かう。その部署では15年間働いたが、殆どが男性の出世コース組、女性は僅かで、独身で定年まで働くキャリアウーマンたちだった。

 

 1児の母として働き続け、2番目の子のとき2度流産体験をした。この部署に変わって間もなく切迫流産になった。

 医師の診断書を出して転勤早々休んでしまい、出産まで漕ぎ着けた。

 「いま産まなければ、年齢的にもう産めない」覚悟を決めた出産だった。

 

 当然ながら出産後は、43日目の産後休暇明けから復職した。育児休職制度はあったが、その間無給だから、取れなかった。

 

 やっと通常のペースで働き始めた時期だった。

 何かの折に当時同じ課だった係長が、大声で言った。

 「あんた! 休んで子ども産んで!」、唖然とした。

 

 暗に「この職場は、出世コースに乗った者だけが在職を許されるのだぞ」と言っていた。

 

 30年以上の月日が過ぎ、当時のメンバーはみな退職しているが、時々思うことがある。

 その人がお元気だったら訊きたい。「現在の少子時代をどうお考えですか?」と。

 

 働くとは、生きるとはそういうことなのだ。いまの現役世代の娘や息子たちも、厳しい状況で頑張っているだろうな。

 

 庶民が長年働いて、やっと作り出したゆとりタイム、芸術タイム。

 年配者にクラシック音楽の喜びをと、作曲、編曲し続ける音大名誉教授 と何人もの音大卒の女性たち。

 

 その人たちがあり、みんな弾き続けた。ソロ演奏と連弾、3カ月に1回の演奏会、生徒の資格は50歳以上で。

 教える方も教えられる方も努力の積み重ねである。

 

 そして文章表現、若い人たち独特のセンスや馬力はなくても、長年生き続けた者にしか書けない何かがあるはず。

 何をどう表現するか、自由に創り出せる恵まれた状態が、残り時間が少なくなっただけに、貴重に思える。

 

 インターネットにホームページを開いてはや10年、この速さを感じる歳になった。

 

 電話のベルが鳴った。掛けっぱなしだった友人だろう。きっと。

 

 ふと、われに帰れば、そこには空っぽの黒い箱の傍で、老婦人が一人ぼんやりしていた。

 どうするの? ピアノやめるの? 続けるの?

 

 3週間の入院治療を終えて、遠くの病院からピアノが退院して来た。

 調律の人は、道具の入ったカバンをいくつも広げて、キーを立てたり並べたり、音を出したりキーの整列に歪みがないかと、根気よく作業した。

 

 2時間過ぎた。耳と目をキーにくっつけて「よし! 完了! この瞬間が一番の喜びです」と、笑顔で言った。

 笑顔を見て心が決まった。

 

 午後2時間は、パソコンばっちりで書く、読む。

 夕食後は、ピアノ弾きで安らかな脳に、安らかな眠りに。

 

 よし! それで行こう。

 

 

 

       見上げてごらん 夜の星を・・・

          アフガニスタンの土になって

 

 名古屋の繁華街 栄、夕闇のなかで約500のキャンドルが輝いた。

 楽器二胡の演奏者が「見上げてごらん 夜の星を・・」を奏でた。

 ひっきりなしに車の光が走る。

 

 栄の交差点東北にある広場には、100人以上の人たちが集まった。アフガニスタンで殺された伊藤和也さんが好きだったというこの歌を心に刻み、31歳の若い死を悼んだ。

 

 参加者が献花した白い菊の花、静かに流れる旋律が私の胸に沁み込む。いい生き方だったなあ。

 食べ物がない、貧しいアフガニスタン、ならその地で食べ物を作ろうと、5年間がんばった伊藤さん、いや、枯れ果てた大地に水をと、 必死に用水路を作ったペシャワール会の人たち、私にはとてもできない。

 

 中心になった医師中村哲氏は、現地で、次のように弔辞を読んだ。

 

「伊藤くんを殺したのはアフガン人ではありません。人間ではありません。今やアフガニスタンを蝕む暴力であります。いったい、イスラム教徒であることが罪悪でしょうか。私はキリスト教徒です。

 

 いま、アフガニスタンでは500万人以上の人々が飢餓に直面し、戦争で罪のない人たちが命を落としています。60年前,日本も戦争で国土が廃墟になり、200万の兵士と100万の市民が死に、アジアの近隣諸国にそれ以上の惨禍をもたらしました。

 

 この地から逃げられないアフガニスタンの人たちと共に、事業を継続することが、伊藤くんへの追悼であり、過去の戦争で死んだ人々への鎮魂です」。

 

 今年、名古屋高裁で画期的判決が出された。「自衛隊のイラク派遣は違憲」と断じた。

 

 「首都バクダットは平成19年に入ってからも、アメリカ軍がシーア派、スンニ派の両武装勢力を標的に多数回の掃討作戦を展開し、国際的な武力紛争の一環として人を殺傷し、物を破壊する行為が行われ、一般市民に多数の犠牲者を続出させている地域であり、戦闘地域に該当する」との認識を示した。

 

 この判決を、もっと全国に広げたいと、「自衛隊イラク派兵差し止め訴訟の会」として、バスで国会へ行こうと提案された。

 私たち夫婦は、判決まで原告としてこの裁判を見守り、市民運動として必死で取り組まれた人たちの努力に頭を下げた。

 

 1960年の安保反対の年、この名古屋栄交差点でカンパ活動した。

 三池炭鉱の合理化でくびになった人たちへ支援だった。当時のお金で1万円を超える善意に、若かった私たちは感激した。

 

 夜行列車で何時間もかけて上京し、国会請願をした。道路いっぱいに広がって、手をつないで歩いたフランスデモを思い出し、胸が熱くなった。

 ただ、年齢と共に落ちた体力のこともあり、他に用件もありで参加を止めた。

 

 そして、今夜、伊藤さんを送る会に参加したのである。

 イラク派兵とアフガニスタン、これは、決して別のことではない。

 

 それどころか、イラクで戦闘行為に協力し続け、やっと撤退の時期がきた自衛隊を、政府は「新テロ特措法」を延長して、インド洋での給油に協力しようとしており、1年延長が決まりそうな状況だ。

 アメリカの言う通りになって、次はアフガニスタンへとなりかねない。

 

 ジャーナリスト西谷文和氏が、命がけで現地へ行って作った映画「放射能を浴びる子どもたち」と「イラク戦場からの告発」という映画で、イラクの子どもたちが多数、クラスター爆弾の破片で、がんになって苦しんでいた。

 

 さらに、米軍は国際法で禁じられている、神経麻痺のガス騨を使ったのではないかと思われるような症状で、動けなくなっている子達を写した。映像の迫力は、切々と観た者に訴えてくる。

 

 フセインを攻撃した際、官庁街に壊滅的な攻撃を仕掛けたにもかかわらず、1ヵ所のビルだけは残した。映像では、破壊し尽くされた地域に、ポツンと石油関連のビルだけが建ち残った不自然な状況が写り、アメリカの目的が素人にもよく分かる映像だった。

 

 イラクに大量破壊兵器があると、アメリカが攻め込んでから5年、理不尽な戦争で、被害は普通の庶民に降りかかる。戦争とは殺し合いである。

 

 次はアフガニスタンとならないために、一人では何もできなくても、一市民として、現状を知り、関心をもつ。スタートはそこから。

生きるということは、そういうことではないかと思った。

 

 夜も7時半を過ぎ、久しぶりに夫と明るく華やいだ広小路通りを歩いた。軽く夕食をと、大衆的な魚食堂へ入って、ビールで乾杯した。

 「おつかれさま! 常任のときは、安い食事だけでビールで乾杯なんてなかったなぁ」

 「遅配続きの給料、それでも何とも思わなかった。若かったし、胸には希望があったし・・・」。

 

 ただ、ひたすら献身した政治活動に、異なる意見をもって政党の専従をくびになり、味わった精神的地獄、経済的どん底。

 あの苦痛をまだ若いうちに体験できてよかった。本当のことが解って、よかった。

 

 「見上げてごらん、夜の星を・・・」

 耳傾けたメロディ、頬を撫でる秋風

 しみじみ歴史を感じた宵だった。

 

 

 

       弾けなかった「フィンランディア」

 

 ピアニスト館野泉が脳梗塞で倒れ、2年半の必死のリハビリで、左手だけの演奏家として甦った。「病に倒れてから、はじめて、左手だけでこの曲が弾けたとき、号泣しました」と、この人は淡々と話した。

 

 この世界的ピアニストの「左手だけの演奏会」で、「フィンランディァ賛歌」を聴いて、続けているピアノ教室の、3カ月に1度の演奏会は、絶対にこのシベリウスの曲にしようと決めていた。

 

 それから3カ月 暗譜もした。前半はやや弱く、後半はフォルテで力強く。そんな指導で、繰り返し鍵盤に向かった。

 左手だけでしかビアノが弾けなくなった苦悩、そのことと、偶然、歳が同じであると知ってから、余計このピアニストのこころを歌おうと誓った。

 

 フィンランドがロシアに支配された当時、この曲が演奏される度に暴動が起き、演奏が禁止されることもあったという曲、その美しく哀しさもある旋律に、抵抗した歴史を思いながら練習を続けた。

 

 楽々弾けた。と書きたい。しかし、現実は甘くなかった。すぐ前で、同じ曲を弾く人がもう1人いることを知った。

 当日、数時間前、プログラムを見てからだった。

 

 そんなことは、間違える理由になるはずはないのに、初めて胸がドキドキした。もっと前に知りたかった。などと、精神的にだらしないこと、この上なしである。

 

 前半はなんとかなった。が、フォルテになって力強くいくべき所から、間違えた。こんなことでと、以前も出だしを何回もやり直し、やっと弾けた。あのときのことが頭に浮かんだ。だめだ。止めよう。

 

 立ち上がって、宣言した。「棄権します」。

 やり直しが、初めてならね。たかが趣味のピアノである。

 

 何より、いまの厳しい世の中で、ピアノが弾けるだけで贅沢この上ない。

 文化とは、ゆとりの中でしか生まれない。やっとそのゆとりの生活ができるようになった、ほんの暫くのときなのに。

 

 50歳からのピアノといっても、始めたのは60歳で仕事を止めて3年後だ。

 基礎がないと駄目かなぁ。

 

 発表会終了後、お茶を飲み、ケーキを食べながら〔これも恵まれた贅沢だ〕、教授や受け持ちの先生たちの批評を聞く会で、 間違えた人が他にも何人かあり、「帰りたい」という声を聞いて、暗く、絶望に似た気持ちが、ほんの少しだけ、救われた。

 

 なんとも不甲斐ない「フィンランディア」で、館野泉さん共々、苦しく、悔しい思い出の曲になったのである。 

 

2008年10月

 

 

 

       右手が動かない

 

 もうだめだ。ピアノが弾けない。右半身不随のオレ、もう若くもない。

 絶望の中で、数年先まで決まっていた演奏会を、次々キャンセルした。

 医師の診断は、脳梗塞だった。

 

 身体は動かないが、次第に頭ははっきりして来て、学校を卒業した年から八年後に、フィンランド国立音楽院で教授 という順調すぎた道を振り返る。

 フィンランド政府の終身芸術家給与を受けての演奏活動は、世界中で3000回以上になる。

 

 子ども時代は戦争だったことを考えたら、夢のような幸運だった。フィンランド通信は、「再起不能」と日本に伝えた。

 

 オレは死ななかった。

 無我夢中で二年半、必死にリハビリの日々を送った。それを知った作曲家の友人たちが、左手のための曲を探し、次々作ってくれた。

 

 間宮芳生、林光、吉松隆、末吉保雄、谷川賢作、ノルドグレン、クヤラなどなど・・・。まさに「左手のピアノ曲の豊作」期になった。有難かった。


 でも、折角作ってくれた曲も長い間、弾く気にはなれなかった。

 

 例えば、シューベルトの「アヴェ・マリア」、数限りなく弾いたシューベルトの中で、この曲の優しさを左手だけで弾いたら、泣けそうで。そう思うと弾けなかった。

 

 フィンランドに憧れ、国立音楽院の教授を続けたオレがこんな体になって・・・。

 シベリウスの「フィンランディア賛歌」を弾いたら、片方だけの手しか動かない身が切な過ぎて、やっぱり弾けない。

 

 助かったのが果たしてよかったのかどうか、日々、悩み迷いながらのリハビリだった。

 

 三年前、名古屋しらかわホールが「生命の音楽会」を計画してくれた。年に一回の計画で、三年目の今回で終わる。

 

 オレは、不自由な右足をややひきずりながら、ピアノへ向かう自分を想像した。こんな姿をさらけ出したくない。半分以上そんな気持だった。

 

 東京のサントリーホールでの演奏を前に、バッハの「シャコンヌ」を弾いた。それは病から復帰したとき、初めて弾いた曲だった。

泣けた。

 

 そして、シベリウスの「フィンランディア賛歌」を弾き終わって、号泣した。

 

 でも、練習では泣いたが、サントリーホールでは泣かなかった。

 

 オレは名古屋で、間宮氏の「風のしるし−オッフェルトリウム」を弾きたい。

 アメリカ先住民族の神話は、すべての生命誕生のとき、命を与えてくれるのは風の神という。

 

 自然の神秘に溢れたその曲と、復帰するとき初めて弾いたバッハの「シャコンヌ」、

 それとシベリウスの「フィンランディア賛歌」を弾こう。

 

 オレは、命が終わるそのときまで、弾き続けるだろう。左手だけで。

 

――涙がこぼれそうだった館野泉左手だけの「フィンランディア賛歌」を聴いて―

2008年7月

 

 

 

       ピアノは歌ったか

 

 年末のピアノ演奏会は、例年どおりヤマハホールだった。

 「50歳からのピアノ」の発表会は3ヵ月に1回あるので、1年はあっという間に過ぎる。


 弾いた曲は、パッフェルベルの「カノン」、通奏低音の曲で暗譜に手こずった。

 それでも何とか暗譜し、いざ本番、数千万円もすると言われるグランドピアノの前に座った。席に着いても、みんなが言い合うように、ぶるぶる震えるということもなく、比較的冷静だった。

 

 123と心で数え、鍵盤に手をのせる。すると、右手のメロディはいいが、左手だけ変な音を弾いている。

 やり直す。また同じ。さらにもう一度、でも全然だめだ。

 舞台から客席に向かって、思わず言った。「もう一度だけやらせてください」と。

 

 やっと、いつもの旋律が流れた。そのまま、曲の中に入ることが出来た。

 家へ帰って、貰った録音テープを聴くと、出だしのミスは3回でなく、4回だった。

 

 よくも厚かましく弾き直したものだと、我ながら70歳の図々しさに驚いた。

 そのテープを何回も聴き「それでも辞めないの?」「それでも弾くの?」と自問した。

 自虐のように繰り返したが、辞めるという結論は出なかった。

 

 間違えるといえば、指揮者岩城宏之の経験を中日新聞の記事で読んだ。

 「かつてオーストラリアでストラビンスキーの『春の祭典』を指揮したとき、慣れた暗譜なのに振り間違え、『私のミス』と聴衆に謝り、演奏再開後に再び間違えた。暗譜用の楽譜が傷んでいて、頭の中から二章節分が消えたとか。それでもミスを認めたことで敬意と好感を抱かれた」。

 

 それを読んで、まるでレベルは違うが、人間としてホッとした。

 

 指揮者岩城宏之は20066月に亡くなった。敗戦後の焼け跡で「文化の兵隊さんになろう」と誓った岩城少年、

 文章が絶妙で、好んでよく読んでいたので寂しくなった。

 

 さらに、ポーランドの優秀なビアニスト、クリスチャン・ツィメルマンのリサイタルのこと。

 

 群を抜くこのピアニストは、演奏会に日本語でメッセージを読んだ。

 「日本で30年間演奏を行い愛と友情に感謝します」と前置きし、おもむろに語り始めた。

 

 「3年前、日本が戦争に参与したことは残念、勇気をもって反対を唱えている人たちに、これからの演奏を捧げます」。

 それから弾いたショパンのソナタ第二番「葬送」は壮絶だったという。

 

 「いつものツィメルマンからは想像しがたい壮絶な演奏だった。とくに第二主題は悲痛な叫びか慟哭というべきものだった。

 怒り、戦争、死、混沌と化した四つの楽章に、客席は息を呑み、そして爆発的な拍手で応えた。この日、アンコールの加わる余地はもうなかった」。

 

 そう伝えたのは、東京音大教授の岡田敦子氏である。

 

 「貧しかったポーランドには、ピアノの部品もなく、自分で手作りして調達した彼にとって、世界と切り離された音楽などはあり得ないのではないか」。

 

 この優れたピアニストの、貴重なメッセージは本当にうれしかった。

 自衛隊がイラクに派遣されたことに衝撃を受けてこのメッセージになったと思う。

 

 米国は一方的に攻め入ったイラク、「大量破壊兵器はなかった」ことで泥沼化しているイラク情勢、それに追従している日本、憲法違反の自衛隊派遣ではないか。市民運動家たちが裁判で争っている。全国で6000人を超える原告たちの裁判である。

 

 しかし、状況は厳しく却下が続いている。原告の一人として、「そこのけそこのけイージス艦が通る」や、小牧の名古屋空港に「空中空輸機」配備などと

 えっ?  いつの間に戦争になったの?  そんな時代にしてはならないと思う。

 

 素晴らしい音楽芸術家たちの、胸打つ行動や文章、音楽の不思議な力をあらためて考えた

 

〔2008・3〕

 

 

        人間 ロストロポーヴィチ

 

 「音楽とは神が与えてくれた偉大な奇跡である」と言った、世界的チェロ奏者の、巨匠ムスチスラフ・レオポルドヴィチ・ロストロポーヴィチが2007427日に他界した

 それを悼んで出版されたこの本を、教え子のチェロ奏者イヴァシキンが編集した。〔『ロストロポーヴィチ』春秋社、20079月〕

 

 「日本に行って、日本の皆に会いたい!」と、200611月、重病を押して日本に来たロストロポーヴィチ。

 1989年、崩壊したベルリンの壁の前でチェロを奏でたロストロポーヴィッチ。

 

 そして、ソ連邦崩壊の1991年、モスクワのバリケートに飛んで行くことを、自分の使命と感じた人間であり、祖国と世界中の恵まれない人々のために、努力を惜しまない、人間ロストロポーヴィチだった。

 

 彼がどう考え、いかに生きたかを、豊富な資料で一冊にまとめた、編者イヴァシキンは、「ロストロポーヴィチが、多大な時間を費やして、直接人生を語ってくれ、多くを知ることができたのは、筆者にとって大きな特権だった」と書いている。

 

 中でも、およそ50頁にわたる3章 交響詩《ロストロポーヴィチかく語りき》で、理不尽に迫害され、芸術家としてソ連国家と必死に闘うやりとりは、切々と胸に迫ってくる。

 

 編集は、全体をコンサート形式に仕立てて、ユニークに愉しませてくれる。

例えば、1章をロストロポーヴィチに捧げるプレリユードとして、編者〔イヴァシキン作曲〕とし、2章ユーモレスクを〔ロストロポーヴィチ作曲、イヴァシキン編曲〕と記し、面白く工夫している。

 

 圧巻の「ロストロポーヴィチかく語りき」を、3章交響詩 〔ロストロポーヴィチ作曲〕として、なるほどと思わせる。

 

 休憩「ロストロポーヴィチ」には「秘蔵の、特別写真展をお楽しみください」とあった。

 その写真がすごいのだ。

 世界の超有名な音楽家が、惜しげもなく掲載されている。

 

 ショスタコーヴィチがいる。プロコフィエフがいる。オイストラフが、ケンプがいる。リヒテル、スターン、カラヤン、小沢征爾・・・その他、その他・・・

 この写真展だけでも、ロストロポーヴィチの音楽的活動の多彩さ、偉大さが分かり、この本を見つけた甲斐があったと思う。

 

      

1989年ベルリンの壁の前で演奏        ケンプ、メニューインと

(写真の転載は、春秋社の了解すみ)

 しかし、この本の価値はそれだけではない。

 国のあり方が、音楽という芸術の分野だけでもどんなに大切かを教えてくれる。世界をまたにかけた音楽活動が、歪んだ国家体制のために、人間的苦悩との闘いともなった。

 

 意図的に歪められた国家の情報で、国民は真実を知ることが出来ない。その悲劇を、一人の超人的音楽家の不屈の精神で闘った。

世界的チェリスト、音楽家のロストロポーヴィチが、妻ヴィシネフスカヤと共に、ソ連国籍を剥奪されたのは、1978819日である。

 

 同年316日のイズヴェスチャ紙は「ソ連邦最高会議幹部会は、『ソヴィェト社会主義共和国連邦国籍に関する』ソ連邦法第七項に基づき、ソ連国籍を剥奪することを決定した」と報じた。

 似たような体験で苦しんだことがあるが、権力をもった国家が相手となると、想像を絶する苦悩だったろう。

 

 翌日、ソ連邦最高幹部会議長あてに、ロストロポーヴィッチ夫妻が出したパリからの書簡は、次のように記している。

 

 「私共は音楽家です。今回の宣告された罪は、でっち上げです。作家ソルジェニーツィンを自分の家に匿ったことで罪にされたことは、貴殿が一番よくご存知のはずです。コンサートの中止、海外公演の禁止、ラジオ、テレビ、新聞雑誌側からのボイコットなど、音楽活動を麻痺させようとする数々の試みが行われました。・・・」

 

 夫婦揃って、妻はレーニン勲章、夫はスターリン賞やレーニン賞という、ソ連国家最高の名誉を受け、モスクワ音楽院教授の位にあった。

 政治的には無関心で、ショスタコーヴィチやオイストラフとは異なり、決してソ連共産党に入ろうとはしなかった。が、どんな小さな町でも情熱をこめて演奏し、祖国の文化のためにあらゆる努力をした。

 

 あるとき、ショスタコーヴィチが新しい協奏曲を作曲した。チェロ奏者のロストロポーヴィチは、すっかり魅了されて人生で初めて2日間は9時間、あと2日間は、7時間練習した。こうして作曲者のために、暗譜で弾いた。

 ショスタコーヴィチは、自分の耳が信じられなかったという。

 

 人生の転換点になったのは、ソルジェニーツィンとの出会いである。

 1960年代、ソルジェニーツィンは、強制収容所での生活を描いた小説『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、作家として有名になった。

 ロストロポーヴィチはそれを啓示のように読んだ。新作だった『癌病棟』『煉獄にて』の原稿も借りて読んだ。

 

 リサイタルをした町に、偶然、ソルジェニーツィンが住んでいて知り合った。このことに歴史的運命を感じるのは自分だけだろうか。

 

 ソルジェニーツィンは、1970年ノーベル文学賞を授与された。が、本国ではソ連作家同盟から追放され、すべての主要紙に作品を掲載することが禁じられた。ロストロポーヴィチは黙っていられず、公開書簡を主要紙に送って抗議した。

 

 この手紙は公表されなかった。その直後から、ロストロポーヴィチは、ロシアの田舎町でしか、演奏や指揮が許されなくなった。

ソ連邦が崩壊し、70歳になっても、75歳でも元気に活躍した彼も、80歳の誕生日を祝って1ヵ月後に、あの世へ旅立った。


 この本には、音楽界での、かなり詳しいロストロポーヴィチの生涯が綴られていて、音楽に関心のある人には興味深い文章であるが、それはプロだからこその筆と思う。

 

 その中の音楽技術についてだけ特記したい。

 ロストロポーヴィチの公開レッスン

 1、教え子たちが彼の真似しないように、自分はチェロを弾かないでピアノ伴奏で指導し、個性を育てた。モスクワの文化活動において、常に一大イヴェントで、これほどの才能が集まるチェロの授業はほかになかった。

 

 2、音楽全体を頭に入れれば、その曲を忘れるはずがないと、スコアを完璧に熟知することを要求した。初めのレッスンから暗譜していなければならない。舞台こそが、最良の師であるとよく言っていた。

 

 3、極端に遅いテンポでシューベルトの『アルペジオーネ・ソナタ』をプリテンと演奏した。限界までゆっくりとしたテンポが、ロストロポーヴッチには可能だった。「ひまわり」と呼ばれていたロストロポーヴィチの演奏にはオーラがあった。


wikipedia 『ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ』

 

 この3点が、まるでレベルが違うとはいえ、下手な、素人のピアノ好きが、3ヵ月に1度の発表会をしている実体験として、共感できる貴重なアドバイスだった。

 

 最後に、晩年のロストロポーヴィチのエピソードが面白い。

 早朝、親しいヴァイオリン奏者の妻が彼の部屋を訪れると、彼がホテルの部屋の浴槽を掃除している。「まもなくメイドがすっかりきれいにしてくれますから」という私に「メイドたちがやって来て、ロストロポーヴィチはロシアの豚だと言われたら、いやだろ?」と、私の主張を断固として退けた。

 人にやさしく、己に厳しく生きた人間だった。

 

 

 

       左手だけの演奏会

 

 ピアニスト館野泉が脳溢血で倒れたのは2002年、演奏生活4O周年記念のリサイタルを全国で行なった翌年である。もう5年が過ぎた。

 ピアノ弾きで、右手が不自由になってしまったときのシヨックは想像を絶するものだったろう。

 2年半の苦闘の日々、衝撃から不屈に立ち直り、左手だけの演奏曲を弾くようになった。

 

 そのピアニスト『館野泉・生命の音楽会』へ行った。

 穏やかな笑顔で舞台のピアノまで歩く。ほんの少しだけ、右足を引きづる感じで椅子に座ると、身にまとった服のポケットから、眼鏡を取り出してかける。そして弾き始めた。

 

 始めの数曲は北欧の光景を思わせた。

 それから、左手だけの館野のために新しく作られた何曲かを弾く。片手だけで高音、低音と忙しく鍵盤の上を走らせる。暫く聴いてから目を閉じた。まるで両手を使ったように音が迸る。

 プロだから当然と言えるが、中高年対象のピアノ教室で、必死に弾いている私の両手より、余程豊かな音量だ。

 

 館野泉とは、偶然にも同年齢だった。

 個性派で、優れた才能の持ち主は北欧に憧れ、64年からヘルシンキに住む。その10年ほど前からフィンランド国立音楽院の教授などつとめるが、日本と北欧5カ国と世界で3000回以上のコンサートを行い、CDは100枚にのぼる。熱い支持を集めたのは、人情味溢れる演奏の賜物と言われている。

 

 主催した音楽ホールの見解では「バッハやベートーヴェンだけが音楽ではない」「はるか昔、ギリシャでは宇宙の謎を解明する鍵が音楽だと考えられていたというし、インドでは古くから世界は音でできているという思想も伝えられている」とか。

 

 味な計らいで、このピアニストの「スペシャルトーク」も聴いたが、人々の心をとらえたのは何なのか。

 NHKのハイビジョン特集「左手のピアニスト館野泉 ふたたびつかんだ音楽」は衛星放送局長賞を受賞し、TBS制作「奇跡のピアニスト」は06年の年間テレビベスト作品に選ばれている。

 

 どんな人でも、長い人生で挫折し、おち込むことは少なくない。

 しかし、そのままではいない。

 演奏活動再開の意欲と行動で、「生きる」ことを励まされたからこそ、多くの人々の共感が得られたのだろう。勿論、私もそのひとりである。

 

 最近の新聞で、愛知県の吹奏楽コンクールで優勝させた経験もある中学教師が、左半身不随になりながら、右手だけで指揮に復帰したニュースを読んだ。

「つえを突く姿は見せたくないが」と言いながら「音楽が好きだし、生徒たちと接するのが大好きだ」と。

 

さらに、兵庫県では、先天的に手や腕の一部が欠損している子どもが、義手を使ってヴァイオリンを演奏する取り組みがされているという記事があった。

 9歳と7歳の女の子は「きれいな音が出るのが好き。大きくなったらヴァイオリンの先生になりたい」と言い、バッハの「メヌエット」など5曲を披露したと報じていた。

 

 二人とも演奏する右手が義手で、その大きな写真に衝撃を受けた。

 

 夕方の散歩で、薄い青色の空に、白く光る貝殻を並べたような雲を見つけたとき、自然の美しさに心が浮き立つ。そして、楽しい音楽が聴こえてくる。

 思いがけず親しい人の死に会い、辛く、悲しいときでも涙はいつも出ない。

 そんなとき、心に沁みる音楽を聴くと涙がこぼれる。

 

 音楽とは、音楽の力とは、不思議なものだとあらためて想った。

 

 

 

       人生の音色

 

 「のだめカンタービレ」というマンガが書店に平積になり、テレビでの放映が好評だった。本とは違うテレビ放映の魅力は、ドラマの面白さと共に、クラシックの名曲が、何曲も聴けることかも知れない。

 

 娘も孫も、夫も夢中で観ていた。6歳の孫は、ピアノを習い始めて数カ月、初めての発表会で「きらきら星」と「きよしこの夜」を間違えずに弾けたと喜んだ。ところが、テレビの「のだめカンタービレ」では、のだめ〔野田恵〕が、コンクールの演奏の途中で、ストラヴィンスキーの「ペトルーシカ」から、急にテレビの料理番組のテーマ音楽を弾いてしまい、コンクールの挑戦は大失敗となり、落ち込み悲しんでいた。

 

 それを観た孫が大泣きしたという。一緒に観ていた3歳の子は不思議そうに、ねえちゃんどうしたの?と言ったそうだ。子どもの、人としての感性はどうつくられていくのか、興味深かった。

 

 昨年はモーツァルト生誕250年で、クラシック音楽がにわかに元気づいた。200年も250年も人々が求めて聴く音楽、人のこころのひだに沁み込み、大きな喜びを、あるいは深い哀しみのこころを揺り動かす。音楽の不思議な力である。

 

 〔1〕、読みやすい吉田秀和の音楽評論

 

 世界を股にかけて活躍した高名な音楽家リヒテルについて、「素顔のリヒテル」と題して書かれた吉田秀和の文が面白い。

 

 「リヒテルはピアノが怖いと悲鳴をあげるときがあった。たった1人でピアノに向かい、暗譜で弾いているとき、何かの拍子にど忘れして失敗するかもわからない。その恐怖が彼らピアニストの背中に張り付いているのを私たちは忘れがちだ。いや多くの人はそんなことは夢にも思わず、ただ大家の至芸を楽しんでいる」。

 

 大ピアニストが「ピアノが怖い・・・と悲鳴をあげる」というあたりが、とてもよく理解できる。それには理由がある。

 音楽好きの中高年が大勢、音大出の若い先生や、作曲家が指導する教室に通っており、私もそのひとりだから。

 

 過半数が10年選手、5年以上通う人が多い。巧いベテランも下手なピアノ弾きもいるが、60代70代の人が、日頃の成果を音で表現しようと、真剣にピアノに向かい、3ヵ月に1度の割合で演奏会をしている。年配者が暗譜で弾く光景は、感動的でさえある。

 

 プログラムにそって順番がくるまでの緊張は、人によっては心臓が飛び出しそうである。老いの身にかなりしんどい、という人も多い。

 普段、家事のひと区切りで「さあ、これからピアノの時間だ」というときは、長年働いて、やっと得たゆとりに心が安らぐ。自分には無理かなと思うような曲が、繰り返しの練習で弾けるようになり、暗譜で弾けるとなると喜びは倍増する。老眼鏡をかける手間も不要、すべてを忘れて奏でる音のなかに入って行くことが出来る。演奏会の緊張もボケ防止になると思えば、心も落ち着く。

 

 「ベートーヴェンが『第九』を完成させる少し前、4年間ものすごい集中力で完成させた『荘厳ミサ曲』は超大作である。

 『第九』は人類の理想の輝かしい表明だが、『荘厳ミサ曲』は厳しい現実を率直に受け入れた上での祈りの音楽で、ベートーヴェンは理想と現実の両方から目を離さなかった。大事なのはこの事だと思う。

 

 理想の追求、その謳歌はいいけれど、それ1点張りで理想しか目に入らず、遮2無2突っ走ることは独りよがりの倣岸、他人への無理強いになりやすい。理想と信念の正しさだけでの行動がどんな恐ろしい結果を生むかは、冷戦時代に私たちが散々経験した」。吉田秀和の音楽評はおくが深い。

 

 50年間書き続けた氏も、年齢90歳で休筆宣言をした。妻を亡くし、体の半分なくなったような気分、という切ない記事を読んだ。

 彼女が亡くなって、どうしようもない大きな空白が心にできた。2人でいたときが1番幸せだったのに、悪くなるばかりだという絶望感。黄泉の国に行って妻を連れ戻したいという。

 

 長年意気投合して助け合った連れ合いと、氏のようになったら、やはり絶望感だろう。わかる、わかる。

 そのとき、「われら未来を語るもの、世界をひとつに結ぶもの」若い頃、よく歌った旋律がフッと甦った。

 

 理想郷を夢見て、その実現のために、働きながら青春の情熱を注いだ日々。

 1960年は日本が安保反対で燃えた。安保反対国民会議が全国で統一行動を繰り返し、読書会や安保研究会が盛んで、職場で時間休をとり地域にも署名活動に入った。

 

 「あんたら閑だなぁ」というような、零細企業の小父さんもいたが、関心があり、理解して署名してくれる人も多かった。その議案が国会で強行採決され、全国からの、抗議の統一行動が広がり、国会周辺は人で埋まった。

 

 各地の商店も閉店ストで参加し、6月15日の全国統一行動には、全国111単産、580万人と、空前規模の抗議運動が展開された。

 それは、政治的立場を超えて、戦争はイヤという思い、体験を踏まえた行動だった。

 

 代表の1人として参加したが、あの数10万人のデモの熱気が、いまの人たちに想像出来るだろうか。若い人には、おそらく「関が原の戦い」くらいの歴史かも知れない。日本はまだ貧しかった。しかし、人としてのこころはあった。

 国会請願で署名簿を渡したあとは、道路いっぱいに広がって手をつなぐフランスデモだった。

 

 政治の季節に、請われて、共産党の専従活動家になった夫は、折角いい大学まで出たのにと、実家の父母に大反対され、勘当された身だった。

 給料は4分の1の7千円に、それも遅配続きで友には、お人よしなオボッチャン的発想と言われた。

 専従活動10年、35歳で10万円、15年過ぎても遅配続きの10万円余は、同世代の友人の年収40万円の4分の1だった。

 

 私の、ボーナス付きの、安定した公務員給料なしには生活はできなかった。ボーナスが出るとすぐ近くの郵便局へ預ける。暫くすると、月末、給料はまだ入らない。直ちに貯金通帳で少しずつ現金を引き出す。そんなことの繰り返しだった。夏も、年末も。

 

 でも、貧乏は何ともなかった。2人には理想があり、心に燃える炎があった。

 その連れ合いとの死別なら、吉田秀和の絶望感がわかる。

 

 〔2〕、歌う中原中也

 

 中原中也は、チャイコフスキーのピアノ曲「4季」の中の「舟歌」にあわせて、百人一首のうたをよく歌ったという。

 

    ひさかたのひかりのどけきはるのひに

    しづこころなくはなのちるらん

 

 「光のどけき春の日に・・・」から歌にするのだが、あのト短調の旋律に、ぴったり合ったという。

 

 もうひとつ、マスネー作曲の「エレジー」が好きだったのは有名な話だったようで、彼がこの失われた青春を悼む歌をうたうと、きちっとリズムにのった歌声に、原曲がもっているオペラ的な甘ったるい身振りのかわりに感情の真実がのりうつって出てきて、きくものの心を打ったようだ。

 

 最近、演奏会で弾く曲として選んだのが、この「舟歌」と「エレジー」だった。全くの偶然である。

 なぜかうれしくなって、中原中也に興味が沸いた。

 

 この詩人は、1934年に生まれた子を2年後に亡くし、精神不安定になった。学業での落第、失恋、肉親の死と、哀しい運命を生きたが、30歳で結核性脳腫瘍で急死した。

 吉田秀和は若いころ、よく行動を共にしたようで、この詩人が書く詩は、自分で自分を悼んでいる挽歌としか思えないという。

 

    ホラホラ、これが僕の骨だ、〔中略〕

    生きていた時に

       これが食堂の雑踏の中に、

       坐っていたこともある、

    みつばのおしたしを食ったこともある、

       と思えばなんとも可笑しい。

 

 好きで演奏した曲と、才能のある詩人の好きな歌とが、たまたま同じだったというに過ぎない。でも、その偶然を喜ぶ。もしかして、あの天才的詩人と共通する何かがあるのかも知れないなどと、勝手に想像するが、人生の悲しみの感じ方だけが似ているのかも知れない。

 

 詩人中原中也は、人生の苦痛に狂ったようになりながら、その激情と苦悩を創作面で生かし、作品や自己を大切にした。自棄はポーズにすぎない。

 自棄はポーズに過ぎないという見方は、新鮮で面白かった。

 

 〔3〕、圧倒された 生演奏の迫力

 

 生演奏でサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いた。

 演奏者の千住真理子は、クライマックスには膝を折るような低い姿勢で、微妙な音を創りだし、満員の聴衆を圧倒した。

 

 若い頃、テレビもなかった時代に、人々は「労音」「音楽友の会」とか「労演」などで、毎月のように生演奏を聴き、演劇で文化的欲求を満たした。

 

 一世を風靡したヴァイオリニスト辻久子や巌本真理、諏訪根自子なども、こんなに低い姿勢はなかったように思うが、どうだろうか。

 千住真理子は、ツィゴイネルワイゼンを弾く前に、作曲者の兄、千住明の作品「キリエ」などを演奏した。指揮者の質問に、すべてをなくした無我の境地で弾いたと答えていたが、われわれ素人には、笑顔での応対が感じよく美しくて、人気の高さがわかった。

 千住明も舞台に出て挨拶をしたが、たまたま、誕生日がわたしと同じ10月21日と知り、親しみを感じた。

 

 続いて演奏されたのは、ショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」。初演が旧ソ連時代、スターリンの弾圧が最も厳しかった、大テロル時期1937年である。

 

 1932年に「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を、荒唐無稽、血の薄い芸術家などと、徹底的に批判された。天才といわれた作曲家の、作曲家生命と家族生活まで危機に直面したといわれている。

 

 「革命」は、スターリン側からの批判に応えて書いた、ひとりのソビエト芸術家の回答として書き上げられ、熱狂的な聴衆の支持を得た。

 生演奏で聴くと、第2楽章でのおどけたようなリズムと、第3楽章の葬送風な深い内奥など、道化も孤独も、「革命」の万感が、ひたひたと胸に迫った。

 

 最後の高らかな太鼓の音、大太鼓の8連打は、棺桶に打ち込まれた釘の数、誰かに対する刑罰のように響き、表と裏、二面性のある印象的な終章だった。

 

 初演当時、満員総立ちの聴衆は、圧政下で約4千万人もの友人や親族を、投獄され殺されているから、この曲の裏側の真意がわかっていたともいわれている。

 

 1989年に東欧諸国の社会主義が崩壊し、91年にソ連邦が崩壊した。ショスタコーヴィチが死んで16年が過ぎていた。

 

 隣の席の夫は、第4楽章の響きわたる太鼓の音を、革命へのほう起と、東欧革命へのうねりと二重に、重ね合わせて聴いたと言った。自宅への張り込み、尾行を実際にされた経験者が言うと、切実感がある。

 

 15年間の共産党専従家生活だったが、30歳のとき指導方針に異見をもった。

 

 上級の指導は職場の様々な要求を取り上げて闘うより、その政党の機関紙を増やすことばかりが重点になっている。だから、機関紙を何部増やしたということばかりに点検が偏っている指導は間違っている。というものだった。気の合う専従仲間と酒席で話し合った。それは分派だ、規律違反だと、21日間監禁され、査問を受けた。

 

 その妻は全く知らず、いつものように泊り込みの会議が続いていると思い込んでいた。週1、2回洗たく物を事務所に取りに行き、洗った衣類を届ける。夫婦といえども、秘密は守らなければならなかった。自身も職場支部責任者、指導部として、連日深夜まで活動に追われていた。

 

 個々の党員は、誠実な人間が多かった。しかし、組織の一員として宗教のように、これが全てだと盲目的に指導に従う人たちだった。また、従わざるを得なかった。

 「すべてを疑え」ということばがあるのに、疑ってみて考えることは大事なのに、それがなかった。何より自分自身がそうであった。

 

 現実の職場、地域との矛盾に悩み、自律神経失調症が多発した。夫は自己批判して専従活動に復帰したが、専従をくびになったのは、それから10年後の40歳のときだった。

 

 今度は正式な会議で、恐れ多くも、中央指導部の批判をした。即刻くびになった。

 退職金は勿論なし、風呂敷包み1つで追い出された夫は、「党員の一分」で、2年間自宅で法律を独学した。

 

「中央指導部の、批判を理由にした解任は不当」と名古屋地方裁判所へ提訴した。

 お金なし、弁護士なしの、孤独な裁判闘争だった。誰かと連絡を取っているのではないかと、自宅に組織の張り込みが続き、散歩に出ても尾行された。

 

 当時、小学4年生の長男が学校から帰る。「変な車が止まっているよ」と言う。夫は履物を持って来させ、裏口から飛び出して車まで走り、「誰の命令で見張っているのだ!」と怒鳴った。車は急発進で走り去った。

 

 翌日、陸運局で車のナンバーを調べたら、持ち主はトヨタ自動車職場支部の党員だった。

 本人に会いに行き、組織の指令とはいえ、不当な行為に厳重抗議した。

 

 そんな日々、帰宅する私にも、毎晩のように共産党地区委員長から「なぜ裁判をやめさせない!」の怒声、「訴願委員会に5回も6回も提訴しているのになぜ返事が貰えないのですか!」の繰り返し、ときには子どもたちの前で、涙の抗議電話だった。

 

 朝、名古屋の官庁街へ出勤のため、自転車を走らせる。途中の幼稚園の敷地に沿って、白と赤の山茶花が咲き競っていた。その目に沁みる新鮮な美しさにざわつく心が慰められた。自由な日本でよかった。

 

 私が一家を支えなくちゃ。5万円ずつあの友、この友に借りてやりくりした借金が2年間で、80万円にもなっていた。

 夫は親しい友人3人に借金を申し込み、1人は気持ちよく貸してくれたが、2人は、お金の貸し借りは友情をこわすからと断られた。そのとき、提訴を取りやめる決心をした。夫の人柄の誠実さを疑ったことはなかった。

 

 どんな人でも、人が人らしく生き、幸せになるべきだ。そういう社会は不可能なのだろうか。

 

 42歳、生きるために働く道は学習塾しかなかった。

 

「さあ、新しいスタートです。学習塾へ来て勉強しよう!」 学校の校門前で夫婦のビラ配り、テキストは大手学習塾に飛び込み、使用許可を申し入れた。偶然、義父の校長時代に教頭だった人がいて、お世話になったお礼と言って、テキスト使用を許可してくれ「教室は2部屋つくりなさいよ」とアドバイスもしてくれた。

 

 この幸運で、スタートから50人の子どもが来てくれた。

 初めの頃は、休憩にお茶と菓子を出した。が、生徒は定着しなかった。そのうち必死さが通じたのか、実力派が遠くからも入塾し、力をつけ始めた。

 

 翌年60人、翌々年70人と生徒は増え続けた。それは団塊ジュニァと言われる子どもたちが溢れる時期という幸運とも重なり、友たちと、純粋に学ぶ喜び、覚える楽しさをみんなで共有した。

 

 実績が評判になり、最高120人が真剣に勉強し、ハイレベルの高校進学を果たした。

 バイト先生も増え、私も退職して合流した。「学力づくり人づくり」という本を出し、塾ニュースは100号まで発行した。それは、家の人の意見や社会問題など載せて好評だった。

 

 「今日はニュースの日?」「ワーイ」と子どもたちは喜ぶ。1人1人音読した。国語と社会の勉強だ。

 「ニュースの日大好き!だって、その時間勉強しなくていいもん」。

 

 いつの間にか20年の月日が流れた。育てることは楽しかった。子ども好きにはピッタリだった。

 

 明け方になると、夫のうめき声で目覚めた日々も終わった。東欧の民主革命とソ連の崩壊で長年曇りがちだった心の曇天が、からりと晴れた。夫婦ともあんなに爽やかに、心躍る体験は久しぶりだった。

 

 苦労かけたわが子たちも自立心旺盛に育った。若いうちの苦労は買ってでもせよというが、恥も無駄も体験した人生でよかった。夫婦とも、みるべきものはみた。やるべきことはやった。

 

 今度はインターネツトで思いのたけを綴るときだ。

 有名な研究者が、共産党の活動家で辞めた人は全国に百万人いると言ったが、ネツトに開いたホームページはもう10年経った。アクセスは、夫婦でおよそ40万だもの、関心ある人は多いのだろう。

 人生、終章の鐘が鳴る。

 

 圧倒的な迫力の生演奏を聴いて、吉田秀和氏のことばが何度も甦った。

 「音楽をきいていると、ヴァイオリンの音にせよ、歌声にせよ、あるいはフリュートからトランペット、チェロにいたるまで、きれいな音であればあるほど、それが何か悲しくひびくのはどうしたわけだろう」。

 

 「註」 2006年、吉田秀和氏は文化勲章を受章した。

 

 

 

       天空を仰いで ピアノはうたう

 

 トリノ五輪で、世界が注目した女子フィギュアスケート、金メダルに輝いた日本の荒川選手、凛とした美しさが印象的だった。

 

 一方、実力派の選手のジャンプでの転倒が相次ぎ、人間の緊張は、完璧に練習を重ねても、ある条件でもろくも崩れることが分かり、ピアノ演奏とも通じるものがあって興味深かった。

 

 有名なピアニストのリヒテルが「ピアノが怖い」と悲鳴を上げる時があった。そう書いているのは音楽評論家の吉田秀和氏である。「何かの拍子に暗譜をど忘れして、失敗するかもわからない。その恐怖が彼らピアニストの背中に張り付いているのをわたしたちは忘れがちだ」。

 

 私たちのピアノ演奏会は、ほとんどが60歳代の女性で、弾く人は約40人。

 フィギュアスケートは4分、演奏会のピアノ曲も、せいぜいそれくらい弾くだけなのに、出演者は「心臓が飛び出しそう」とか、「手が鍵盤の上でぶるぶる震える」という。およそ半数は修行10年のベテランである。

 

 その日、マスネー作曲『エレジー』を弾いた。『おお、過ぎ去った春よ!すばらしい恋はいずこに・・・・』と歌う、劇中音楽として作られたこの曲のメロディが際立って美しく、魅せられた。

 

 繰り返し練習し、暗譜までしたが、いざ本番になって緊張したのかテンポがやや速くなっている。素早く指を動かすところでもつれかけたが、最後の見事な旋律に助けられた。

 

 金メダリストは、開会式にバヴァロッティが歌った、イタリア歌劇『トゥーランドット』を聴いてこの曲に変えた。滑りながら不思議な運命のようなものを感じたと言っていた。

 

 三秒を数えるのに、「ワン、ツー、スリーだけでは短いので」それに、「アイスクリーム」をつけた話には脱帽した。独特の優雅な舞い『イナバウアー』を創り出し、得点にならないのに舞った。あれが世界中の人々を釘づけにした。

 

 説明: 説明: 説明: 写真

 

 工夫し、努力を重ね、スケートを愉しむ。

 これこそ、金メダルの源だと思った。

 

 私たち姉妹は、幼い頃戦争で、夜ごと空襲だった。

 名古屋から母の実家へ疎開した。テレビもない時代、真っ暗な夜空に向かって、歌ばかり歌っていた。

 

 お隣のばあちゃんが、「うたうまいねー」と褒めてくれた。だから、毎晩天空を仰いで歌った。『おさるのかごや』や『みかんの花咲く丘』。音楽は寂しさを、こころを癒してくれた。あれが「ピアノを弾きたい」の原点かも知れない。

 

 ピアノに励む仲間たちは、親の介護をしながら、或いは、長年の職業生活を卒業してから、ピアノに挑戦している。ピアノは愉しむためにある。この点だけは、金メダリストと完全一致するのである。

 

 

 

       ピアニスト 遠藤郁子にみる人間性

 

 10年前、和装のピアニスト遠藤郁子のリサイタルでこの本を買った。

いま読み直して、血が通った中味を、当時それほどに感じなかったのは、自分の未熟さ故、この本には人の心に迫る、いくつかの実話が載っている。

 

 「1」

 そのひとつが「右腕の傷ついたもの同士の競演」である。

 日本のショパン弾きを自他共に認める著者は、乳がんの手術後、液かリンパ腺をとった後遺症と抗がん剤の副作用によるめまいで演奏を断念していた。

 

 一方、アメリカを代表するピアニストの一人レオン・フライシャー氏は、37歳のとき、原因不明の病気で右手の自由を奪われていた。

 絶望と闘いながら不屈の精神で左手のために書かれた作品をマスターし、左手のソリストとしてカムバックした。

 

 筆者は、乳がん手術後、夏が過ぎ秋風が吹くようになって体力が少し持ち直した頃、フライシャー氏との競演が持ち上がった。

 ラフマニノフの「ピアノコンチェルト2番」。右腕が速く動かず、悔し涙で苦しい必死の練習を重ねた。そして、右腕の傷ついた者同士の競演が成功した。

 

 2300席の大ホールは百余りの補助席まで満員だったと記す。あの晩からほんとうの再起ができたと、喜びを語るピアニストにわたしも心からの拍手をした。

 

 「2」

 「ヨーロッパの真似ごとはいやだ」と長かったヨーロッパ留学で身につけたショパン演奏の正統的スタイルに疑問を持ち、日本人にしかできないピアノ演奏の美について考え始めた。

 そして、幼い頃育った北海道とポーランドの歴史について目を向けた。このあたりに、ショパン弾きといわれるピアニストの優れた品性を感じた。

 

 北海道の歴史は流血の歴史だったと著者は書く。

 先住民族アイヌはカムイ〔神〕と共に平和な生活を営んでいたが、和人たちが入ってきてからこの地は血ぬられていった。私たちは日頃、簡単に、日本人は単一民族といっているが、沖縄〔琉球〕や北海道〔アイヌ〕の歴史を遡れば、単純に言い切れないことが解る。

 ショパンが生まれたポーランドも、18世紀初頭にプロセイン、オーストリア、ロシアの3国によって分割されてから悲劇の歴史がはじまる。

 

 武力で支配しようとする者と、支配者に立ち向かう者、国の違いを超えて心の中で重なる。筆者は18歳からポーランドで暮らしたので、当然だろう。

 ショパンの時代、人権を踏みにじられて来た人々の絶叫と言ってもいい『革命』や『木枯し』のエチュード、切々たる思いをこめた『英雄ポロネーズ』それらを弾いた。

 

 19世紀の生きた悲劇の歴史を迸る情熱で弾いたピアニストの深い連帯を感じ、ピアノの詩人といわれるシヨパンの別の人間性に触れた想いだ。

 

 〔3〕

 死と隣り合わせの子たちが歌う『マイ・ウェイ』

 北海道八雲の小さな町に病弱養護学校があり、道内の重度筋ジストロフィーの子どもたちが学習している。

 その町でささやかな楽器店を開いている人が、エレキ・ギターやドラムをその施設に寄附した。以下は彼の話。

 

 筋ジストロフィーは、体中の筋肉が衰えていって、呼吸困難となり、大人になる前に死んでしまう子もいる。

 そこで21歳で死んだ青年が学校の体育館でのコンサートに、夫婦を招待してくれたという。そこで自作自演の曲を聞かせてくれた。

 

 そのコンサートの最後に、子どもたち全員でわたしたち夫婦のために『マイ・ウェイ』を歌ってくれた。全校で百人くらいの子どもが。

 毎年、何人かずつ子どもが死んでいく。その子どもたちが不自由な、まわらない口で。音符も合っていないし、言葉もよくわからないのだけれど・・・。

 

 その楽器店主は筆者遠藤郁子に語り続けた。

 「どんなにうまい歌手が歌っても、あの『マイ・ウェイ』にはかなわない。あんなに泣かされたマイ・ウェイは・・・」

 

 リサイタルで訪れてその話を聞いた筆者は、半年後、迷いながら再び八雲の土を踏んだ。そして、ショパンを弾いた最後に『マイ・ウェイ』を弾いた。

 あの日から10年近く経つが、ゆくたびに必ず最後に『マイ・ウェイ』を弾く。

 

 私もふくめ、五体が満足な者は、それが当たり前で、感謝の気持ちを忘れ勝ちである。北国の小さな町から聞こえてきそうな『マイ・ウェイ』。

その歌声に心を傾けた筆者は、10年過ぎたいまお元気で活躍されているだろうか?

 松本サリン事件の被害者宅をピアノで見舞われたニュースは聞いたが・・・。

 

 私も、心をこめて弾く。『マイ・ウェイ』を。

 

  『いのちの声「失うことはいかされること」』 遠藤郁子著(海竜社、1994年5月)

 

 

 

       音楽むだばなし

 

 NHKスペシャル「アシュケナージ・自由へのコンサート」は、不祥事続きのNHKで、久しぶりにいい番組だった。

 スターリンの恐怖政治時代、ショスタコーヴィッチは交響曲「バービィ・ヤール」を作曲した。(13番変ロ短調作品113)

 5つの楽章からなるこの曲は、第4楽章「恐怖」で明らかなスターリン体制への批判を堂々と歌った。「夜中にこつこつとドアをノックする音。それは逮捕、監獄…」そう歌う。

 

 だが、演奏出来たのは1962年12月初演のみで、スターリン死後のソ連当局に演奏を禁止された。当局による歌詞改ざん命令など、命をかけたやりとりがあった。

 番組には、1991年ソ連崩壊後、その曲「バービィ・ヤール」を初演時に戻した歌詞でヨーロッパ演奏をした、ピアニストであり指揮者でもあるアシュケナージが出演していた。このような、骨のある音楽家とは思ってもいなかった。

 

 スターリン体制下では、芸術活動を継続していくことは死の覚悟が要った。

 1930年、詩人のウラジミール・マヤコフスキーがピストル自殺をし、以後、心ある芸術家は沈黙させられた。

 マクシム・ゴーリキーは、『母』で国民的作家となった。しかし、晩年スターリン体制を告発しようと、ロマン・ローランやアンドレ・ジイドと交流し、秘密警察に動向を掴まれ、死の3年前頃から厳しい監視下におかれた。

 

 1936年に謎の死を遂げているが、ソ連崩壊後に発掘された資料で、スターリンが彼を殺したことが明らかになっている。

 このような時代にショスタコーヴィッチが生き残れたのは、奇跡とも言える。

 

 アシュケナージは1937年生まれ、1960年にロンドンに亡命して、本格的に指揮活動を始めている。

 1955年のショパンコンクールでは練習曲6番を弾いた。それは後の語り草になるほどの名演奏だったが、コンクールは2位だった。審査員のミケランジェリは、優勝を推していたが、審査に納得できず、審査員を辞退したという。

 

 私は音楽の専門知識などないが、若い頃1年近く肋膜炎で療養したとき、クラシック音楽を夢中で聴いた。

 60歳過ぎて始めたピアノは、娘が弾いたピアノの、「冬眠」お目覚めコンサートからで、もう5年になる。

 ときに、ピアノが弾けて何になる?とも思う。無駄と言えば、随分むだなときを費やした。

 

 でも、考えてみれば人生には無駄も要る。無駄なことが実は、なかなか捨て難い味で活きる。こころの奥深く、哀しさや、しみじみとした喜びが音によって沁みわたる。

 ホームページに「おおいなる無駄の喜び」という文章を載せ、音楽ひとすじの教授を怒らせたりもした。暗譜で弾けるようになるまでの時間を、もしも読書にあてたら、そう思わないでもない。

 

 新しい曲に挑戦する当初はうんざりし、どうにか曲らしくなり、暗譜で弾けるようになるとやっと喜びになる。

 世界の名曲に挑戦し、味わう喜びを辞めないのは、やはり音楽が好きだからだろう。努力して弾けるようになるのを愉しみ、現役時代には考えられないゆとりに気付くのもピアノのお陰である。

 

 レッスン終了後、同じクラスの人たちとの軽食を取りながらの雑談は、人それぞれに人生を歩いている味が出る。

 先日も、2人の新人が加わったが、1人は独身のまま定年まで働いて、退職してからマンションとピアノを購入して弾き始めた。

 もう1人は夫に死なれ、子どもはいるが、70歳でひとり老人用マンションに入り、待望のピアノを習い始めた。これらの決断力に脱帽した。

 このむだばなしのような交流も楽しみのひとつである。

 

 全クラスでおよそ50人。演奏発表会は3ヵ月に1回であるが、かなりの弾き手も、そこまで距離がある人も緊張のときであり、その新鮮な表情からほとばしる何かがあり、ある意味では壮観でさえある。

 いろいろな事情や自身の限界を自覚して辞める人もいるが、いつか来る、そのときまでやってみようと思う。

 

 発表会が近くなったある日、CDでショパンの練習曲第3番『別れの曲』を聴いた。演奏は偶然、アシュケナージだった。

 アシュケナージが奏でる音色は、もう1枚のCDで聴いたピアニストの演奏と何かが違っている。素人なりにそれがわかった。

 表現が自然で、しみじみとした感慨を表しながら、フォルテへ導く力強さ、そして静かな結び、聴きながら切ない旋律が素直にこころに沁みてくるのがわかった。

 

 

 この曲は、ショパン20歳の作品で「私はこれほど美しい曲を書いたことがない」と弟子に語ったとか。ロシアに占拠された祖国ポーランドに寄せる想いが、憂いに満ちた旋律からひしひし感じられる。別れとは、人とのそれだけを考えていた私は、認識を改めた。

 

 1810年生まれのショパンは、20歳のときロシアに対するワルシャワほう起軍に参加しようとした。その関係でウィーンに居辛くなり、パリに亡命した。ショパンの父はポーランド革命軍を経て、貴族の家庭教師を生業にしていたということもわかった。

 ピアノの詩人といわれるショパンの詩的で繊細な作品がある一方、有名なポロネーズの『革命』や『軍隊』などの曲を作ったことに得心がいった。

 

 ドイツに侵略された1940年代のワルシャワほう起は知っていても、その110年も昔に、侵略者ロシアに対してワルシャワほう起があったことを知り、小国の悲劇と人間の愚かさを想った。

 ロシアのポーランドへの侵攻、独裁体制下での芸術家への圧力。それらは優れた才能の発揮を邪魔し続けた。しかし、その苦い人生の無駄が、深い味わいと共感を人々に与えるのではないか

 

 うんざりするほどの酷暑が、これでもかこれでもかと続いた今年、夏の終わりに、ショパンとショスタコーヴィッチ、それにアシュケナージ、3人が抱く祖国と自由への熱い想いに触れた。それはソッと肌を撫でる秋風のように、さわやかに、心地よく私を包んだ。

 

 そうだ、発表会はショパンだ、アシュケナージだ。

 私なりの何かを表現したいと、こころを躍らせたのである。

 

    註   アシュケナージは2004年からN響常任指揮者に決まった。

    Google検索『ショパン年表』  『ショパンの生い立ち』

 

 

 

       「幻想曲風ソナタ 月光」に想う

 

 久しぶりのリサイタルで、ベートーヴェンの「月光」を聴いた。ロシアの若手ピアニスト アレクサンダー・ギンディンの演奏する「幻想曲風ソナタ」の第1楽章アダージョ ソステヌートは、独特の感性だった。

 

 10年ほど前、映画「月光の夏」で、特攻隊員がこの曲を弾いた感動的場面を思い出した。夫婦で鹿児島の開聞岳に登ったのは、死に行く隊員たちが、薩摩富士といわれるこの山を目印にして沖縄へ飛んだことを知ったからだった。

 知覧の特攻平和会館で、戦争のために肉弾となって散った若い命、1026柱を知り、たくさんの遺書を読んだ。あれからもう4年が過ぎた。

 「あんまり緑が美しい これから死に行く事すら忘れてしまいそうだ」「必ず、立派に体当たり致します」。それらの遺書は胸をしめつける。

 

 リサイタルで一緒だった友が、映画と同じ題名の小説を読んだというので、早速貸りた。

 そのドキュメンタリー小説、「月光の夏」には、映画にはない衝撃的な事実が記されていた。それは、特攻出撃して途中で米軍の攻撃をうけて不時着したり、エンジン不調で引き返してきた隊員たちが叱責され、軟禁状態におかれたという事実である。「おまえは、いのちが惜しくなったのではないか」「エンジン不調に見せかけて、生き残ろうと計った」それらの叱責に「お願いです。もう一度出撃させてください」隊員たちは身の潔白を主張して、再度の決死行を主張したという。福岡県鳥栖の寄宿舎「振武寮」には、40人ほどが収容されていたという。

 

 私は、生き残り、苦脳しながら人生を送った隊員たちの秘話を読んで、いつの世も、ときの権力者は、このように権威を振りかざし、自らの身は汚さず、庶民の善意を踏みにじるのかと思った。

 

 近頃イラクで人質になって開放された3人と、その家族への「自己責任」大合唱も似たようなもので、異なる意見への意図的バッシングで、そのレベルが恥ずかしい。そして怖いことだと思えてきた。

 

 「幻想曲風ソナタ」月光の曲は、わたしのこころに沁み込む。

 

 

 

       「おおいなる無駄」のよろこび

 

 仕事を辞めた60歳から3年後、ピアノ教室に通い始めた。今日は3カ月に1回の演奏会の日、この教室の教授が作曲した「スペインの幻想」を弾いた。

 オリジナル性と美しい旋律が魅力の曲だった。

 教授は現役時代に引き続いて、定年後もこの音楽研究所で作曲、編曲、ピアノ演奏の指導を続ける傍ら、若い指導者を育成している。

 

 先生たちの丁寧な指導に答えるべく暗譜できるまで練習した。暗譜で弾けるようになると、日頃「ピアノレッスンは大いなる無駄」と言いつつ、練習が一段と楽しくなる。

 ベートーヴェンの「月光の曲」が弾ける人も、始めたばかりで、比較的簡単な曲を間違える人も、みな緊張して、世界の名曲を弾ける喜びを味わった。驚くのは、そのほとんどが6、70歳代で、活発な指さばきができ、表情がいいことである。

 

 この日、Oさんはウェルナーの「のばら」を弾いた。

 Oさん夫婦は山歩きを楽しむおしどり夫婦だった。南アルプスを登山中に突然、雷に襲われた。丁度1年前の事件で、テレビのニュースを大変だなと、人ごとのように観ていた。

 

 眼下に広がる雲海、その雲を突き破り、雷は地を這って下から駆け上がり、アッと言う間もなく、ご夫君の命を奪った。

 Oさんも意識を失ったが一命は取り留めた。1日だけ入院した病院で、失神から甦ったOさんは、夫の死を知らされた。

 事故のショックで教室を休んだが、涙は止まらず、眠れない夜が続いた。

 

 このまま夫の後を追いたいという想いを断ってくれたのは、これから生き続けなければならない子どもだったとOさんは言った。そして、一人息子に先立たれた90歳すぎの義母と二人の生活が始まった。義母は編物が得意だが、足が弱り、車椅子が必要になっていた。

 

 Oさんは「歩こうという気をもたなきゃ」と励まし、歩く訓練を必死で続けた。

 とうとう歩けた。いまでは、毎日近くの息子の墓まで歩いてお参りに出かけるという。

 

 3カ月休んだだけで、Oさんは教室に姿を見せた。

 ときには涙ぐんで、健気に現実に立ち向かおうとするOさんは、「ピアノをやっててよかった。練習するときは無心になれるから……」と言う。同じクラスの私たちが逆に励まされた。

 

 Oさんが奏でる「野ばら」は、山の清々しい空気に、高山植物が咲き競っている風景を想わせる素晴らしい演奏だった。

 ピアノ演奏はこころの表現である。

 

 人生の音色が、秋風とともにこころに沁みる。いましばらく、おおいなる無駄を楽しもうと思う。

 

 

 

       音に色をつける

        「苦難を乗り越えるのが人生」フジ子・へミング、「人生は崖登り」養老孟司

 

 ピアニスト フジ子・へミングの、『ラ・カンパネラ』を聴いてファンになった人は多い。私もその一人である。

 彼女は幼い頃から天才といわれ続けた。それにもかかわらず1969年デビューが決まった直前に風邪で両耳の聴力を失いどん底生活をしてきた。

 演奏会が盛況でCDが売れるようになったのは、つい最近、母の死で帰国した1999年、NHKで放送されてからである。

 

 表題のことばは、最近出た著書 『フジ子・へミング運命の力』にあった。

 どん底生活だったが、じゃがいもさえ食べていれば病気知らずだったと言う。

 その本には、世界的な音楽家カラヤンや、バーンスタイン、クレイダーマンとの触れ合いが、写真入りで興味深く書かれている。

 

 中でも、「リストやブラームスの『ハンガリー狂詩曲』は、家のないような貧しい人たちの音楽を書いた曲で、ドイツにいるときからよく弾いた。そしたら、ある教授がそんな曲を弾くな!と怒った。じゃ、なんでそんな変な曲を、リストは作曲したのかと怒ってやった」。

 

 『音楽は批評家のためにあるのではない』と題したこの章では、もうひとつのエピソードを紹介している。

 「ドイツで私の弾くピアノを聴きながら仕事をしていた大工さんが、玄関に出たとき、ミュージック、ミュージックと言ってにこにこして喜んでいてうれしかった。たぶん何の曲を弾いていたのかさえもわからないのに、私のピアノを楽しんで聴いてくれた。音楽はみんなのためにあるのよ」。

 ここにフジ子・ヘミングの真骨頂があると、おおいに共感した。

 

 「ピアノは音のひとつひとつに色をつけるように弾く。機械のように器用に正確に弾く完全なのは嫌い」とはっきり記す。「小さなミスを問題にするより、どういう音で私らしく弾くか」が大事なことというあたり、レベルはまるで違うが、歳をとってからピアノを楽しむ私には励みのことばである。

 

 もうひとつの表題『人生は崖のぼり』は、最近評判の 養老孟司著『バカの壁』の最後の章にあった。

 「人生は、家康がいう重荷を負うて遠き道を行くどころか、人生は崖登りだ」

 社会的地位も経済的安定もある大学の教授にして? と驚いた。

 

 「崖登りは苦しいけれど、一歩上がれば視界がそれだけ開ける。しかし、一歩上がるのは大変です。手を離したら千仞の谷底にまっ逆さまです。人生はそういうものだと思う。だから、誰だって楽をしたい。知的労働は重荷を負うこと」

 

 私は数年前、登山した三重県の大杉谷を思った。

 濃く、限りなく澄んだ藍色の水の美しさは日本一、しかし、重い大きなザックを背に、岩に打ち付けられた太い鎖を、両手で必死に掴みながら「ここ転落事故現場」の看板を見る。深山幽谷の世界はカメラを向ける余裕もなく、瞬時の油断で底深い谷に吸い込まれそうだった。

 

 ここに、『バカの壁』と『フジ子・へミング運命の力』の共通点をみた。

 

 『バカの壁』の養老孟司は「話せばわかる、あるいは絶対の真実」はうそという。一元主義でなく二元主義を主張している。この点は、キリストこそ絶対の神と信ずる一神教のフジ子・へミングと違う点である。

 ひとつの神のみを信ずる、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教信者が、世界人口の3分の2という。日本は自然宗教の世界、八百万(やおよろず)の神の世界だから、絶対的真実は存在していないと。

 

 私は長年、社会主義は人類の理想と、誤った「絶対的真実」的な発想をしてきた。それが、数々の殺人をふくむ非人間的な誤りを繰り返し、秘密にし続けた権力で、70年余りで崩壊してしまった。だから、絶対的な真実など信じない。

 それなりの苦労も体験して、物事は一部、疑って考える部分をもつべきだと思うようになった。

 

 だから、養老氏の「最後は、人間であればこうだろう、そういう道しか残っていないのでは?」に共感するのである。

 養老氏は、冒頭でNHKを批判してお前は神様かとまで言っている。

 「公平、客観、中立の報道がモットー」なんてあり得ないと。

 イラク戦争当時の報道だけでなく、全戸から受信料を取って、贅沢な多くの番組編成をしているNHKに日頃から疑問と、ある怖さを感じているのは、私だけではないことがわかって痛快である。

 

 2冊とも、さっと読めて、味があります。

 『フジ子・ヘミング運命の力』(TBSブリタニカ、2001年)。『バカの壁』(新潮社、2003年)

 

 

 

       ブルッフとあぐりさん

 

 音大の名誉教授が開く「50歳からのピアノ教室」であぐりさんと知り合った。彼女は、教室の帰りに軽い昼食を共にした頃、長らく入院中のお姉さんを必ず見舞われた。

 そのために、教室のある栄から地下鉄で名古屋駅に出てから、また私鉄に乗り変えて行かれた。同じ私鉄を利用する私は、途中まで一緒に行動した。

 それはうんざりするような暑い夏でも必ずとられたコースで、ピアノ教室だけで疲れた私は、いつも感心していた。夫に先立たれてから、学卒近い2人の子どもを育て上げられたと聞く。頑張りやさんである。

 

 彼女はことば表現が豊かで、明るかった。何かの折りにブルッフの「ヴァイオリンの音色」という文を同窓会誌に載せたと伺い、ぜひ読ませてと頼んだ。そして私のHPに載せさせて貰うことにした。

 私もCDで聴き直し、ああこの曲と、あらためて曲の素晴らしさに胸うたれた。

 先日、京都で学生生活を送り、クラシックを聴きまくった長男が「ぼくもその曲好きな1曲だよ」と電話で言っていた。

 ピアニストのフジ子・へミングが著書に書いているように、「音楽はわたしたちみんなのためにあるのだ」。

 

   ヴァイオリンの音色   天沼あぐり

 

 その日、私は何ヵ月か前に骨折した足を庇いながら、廊下の雑巾がけをしていた。その時、いつもかけっぱなしのラジオから流れてきたヴァイオリンの音色・・・・。

 その音色のあまりの美しさに、雑巾がけの手を止めて、終いまで聞き入ってしまった。

曲が終わった後、放送された作曲者名と曲名を大急ぎでメモをした。

 

 ブルッフ作曲  ヴァイオリン協奏曲  1番  ト短調

 以来この曲は、私の心の拠り所のようになった。

 1日を終えてほっとするひととき、この曲を聴く。何度聴いても、最初の感動が蘇り、幸せな思いにつつまれる。このCDには同じブルッフのスコットランド幻想曲が入っている。

 

 陰鬱な出だしの曲は、自分が深い霧の中をさまよっているような錯覚すらおこさせる。

 この曲については、以前N響のコンサートマスターをしていらした徳永二男さんが、若いときに、初めてこの曲を聴いた折、その旋律のあまりの美しさに胸を打たれたと、ラジオの対談で話をしていらしたが、ブルッフの音楽には、人の心を魅了する要素が多分にあるのだろうか。

 

 この1枚のCDは、本当によく聴いた。私の持っているCDは、サルバト−レアッカルド演奏、ライプツィヒゲバンドハウス管弦楽団、指揮は、クルトマズアだが、諏訪内晶子さんもこの2曲を入れたCDを、何年か前に出された。それを購入する楽しみも出て来た

 

 以前からヴァイオリンの音色は好きだったが、ブルッフのこの2曲は、ヴァイオリンの持つもっとも美しい音色の部分を、存分に聴かせてくれる。私1人の時間の、ささやかな楽しみである。

 

 これから年齢を重ねると共に、生活の範囲は、おのずから家庭内に限られてくるだろう。その時、独りの時間をどう過ごすか、さしあたっての私の課題である。

 

 

 

       白いゆびさき

 

 香は、年に1度、姉妹2人とその連れ合いで1泊の旅をしていた。

 2年前、箱根の宿で姉みちよの左手ひとさし指が、指先だけ白いもので包まれているのを見た。

 「その指、どうかしたの?」

 「これね、強皮症だって」

 「なに? きょうひしょうって」

 「最初に爪の形が歪んだの。それが、冬になって冷えると白くなり、しびれて痛いのよ」

 

 昨年、信州のひなびた温泉で久しぶりに再会し、楽しく話題がはずんだ。みちよの指の白いものが、左右のひとさし指の先に巻かれていた。

 昨年の寒さは厳しかった。その寒さで症状が進み、通っている病院の医師から「骨が腐り始めている。関節に向けてどんどん進行する」と説明された。

 「このまま進めば第二関節まで切らないといけなくなる」と宣告され、指先から7ミリ切ったという。

 

 手術の日、麻酔が切れ始めたころから、みちよは尋常でない痛みにのたうち廻った。神経は指先に集中しており、そこから体中を過激にかき混ぜ、激痛を巻き起こし続ける。次の日も、その次の日もおよそ1週間、みちよは眠りをむしりとられた。睡眠薬で辛うじて浅い眠りにつけたと香に話した。

 旅から帰り、インターネットで調べた病気の正体に、香はあ然とした。「強皮症は、膠原病のひとつで指から手全体が硬くなり、腕や首まで広がる不治の難病」。

 

 香姉妹は骨太に育ち健康だったが、あるとき、香が体調を崩しみちよに何気なく話すと、「胃が痛いってどういうこと? まるでわからないわ」と言った。それほど健康で病気知らずだった。

 

 幼いころ、近所に二期会所属の歌手として活躍しながら、何人かの子どもたちにピアノを教えている先生がいた。親はみちよに5歳からピアノを習わせた。ベテランらしく、こどもの気持ちを巧く音楽に導いてくれた。みちよは小さな手で、1オクターブを広げて弾くために、いつも、親指とひとさし指の間を広げる体操をしていたのを思い出す。その家へは香も一緒について通った。

 

 モーツァルトの「トルコ行進曲」や、「メヌエット」、ベートーベンの「エリーゼのために」など、有名な曲は、苦もなく弾けるようになっていった。みちよは音大へ進み、ピアノ教師として働いた。

 

 今年5月、先祖供養の法要をしたとき、みちよはそっと古くなったピアノのふたを開けた。ひとさし指の先に白い包帯をした左右の手で、鍵盤から少し離れた位置を、細かに指を動かしていた。

 

 あれは、きっとショパンの遺作になった「夜想曲20番、嬰ハ短調」に違いない。

 半年前、倒れて1カ月で逝き急いだみちよの夫が好きだった。哀しい詩のような短調の旋律。

 隣の部屋から、そっとその光景を眺めた香の目が涙でぼやけた。

 

 

 

       クラッシュ(こわれる)

 

 映画『サウンド・オブ・ミュージック』の中の音楽『エーデルワイス』は、大人のメロディーといわれる。昨年9月、利尻登山をした翌日に礼文島を歩いて探したら、時期が少し遅くしおれかかっていた。しかし、海辺の街並以外は人影がほんの数人、ほとんど無人島のような島は、お花畑いっぱいで明るく輝いていた。

 スイスの国花でもある白い可憐なエーデルワイス(別名ウスユキ草)を贈るのは、愛の告白を意味するとか、次のピアノ演奏会はこの曲と決めていた。

 

 3月の演奏会当日、プログラム10番目にピアノの前に坐った。この曲は微妙に左手が変わり暗譜しにくかった。しかし、1カ月も前から、折りにふれ弾いた曲、自信をもってピアノに向かった。

 序奏はまずまずだった。

 曲がf(フォルテ)に移るところで、音がずれた。何てことだ。

 厚かましく「すみません、やり直します」と言って、いつも通りできると思ったが、まるでだめ、曲の演奏がクラッシュしてしまった。

 すぐ側に先輩や講師たちが並ぶ。普通は、心臓が高ぶると指が硬くなる。脳と指先の微妙な関係は、緊張した場面で際立つが、今日はそれとは少し違う。クラッシュなのだ。

 

 演奏会直前にパンとコーヒーで軽くひといき入れたとき、「発表会前の緊張ってイヤね」という友人二人に、「そうね、でも私ずっと働いてきたでしょ。朝電車の中で、みんなスーツ姿で仕事に出かけるのに、私は少しだけオシャレしてピアノ演奏に出かけるなんて、こんな幸せを思うとありがたくって」「失敗したらそれは実力、大したことない」。大きなこと言ったのは誰なのだ。

 

 ソロ演奏に続いて連弾で『黒猫のタンゴ』を弾いた。相手とリズムが合わなくて、「ドロ縄」式に、朝10時半から2人で必死に弾き合い、連弾は何とかサマになったかも知れない。そこで、脳の中はタンゴでいっぱいだったことに気付いた。

 自信満々で優雅に恋心を弾く予定だったが、エーデルワイスはしおれるどころか、かくも無残に散り果てた。人生はいつ、何が起きるかわからない。

 

 もちろん演奏会では、若い講師が弾くベートーヴェンの『月光』の迫力、生徒演奏で賞賛された『平均律ピアノ曲集』、『庭の千草』、『なつかしき愛の歌』、あるいはいつもトリで活躍する人の『愛の歌』など、5年も7年も続けた上級クラスの人の演奏は、とても50代60代の指さばきとは思えない見事なものだった。

 ただひたすら、演奏会終了を待つのみのあわれな自分がそこにいたのである。

 

 毎日同じ曲を繰り返し聴かされ続けた夫も、先日6年間使ったパソコンが突然クラッシュして大騒動した。「演奏どうだった?」「完全にクラッシュした」「え?」

 退職後は、歴史政治問題研究のホームページが生き甲斐の夫は「本読み出したらどんな音楽もBGMだ」と、理解十分なダンナ様であるが、クラッシュが信じられない様子だった。

 

 その夜は疲れ果て、毎日愉しんだピアノレッスンの気力なく、テレビの映画『男はつらいよ 寅さん子守り唄』で、30年近くも前の若々しい寅さんと美しい妹さくらに再会し、やっと平常心が戻ったような気がした。

 

 

 

       ピアノは歌う

 

 広い場内は緊張感が張りつめている。ややこわばった指が、ピアノの鍵盤をたたく。「50歳からのピアノ」演奏会での、わが63歳の遅きデビューは、小曲『モスクの夕暮れ』だった。

 プログラムを見て驚いた。出演者は約50人、こんなにも音楽が好きで、聴くだけでなく自分も弾いてみたい中高年が多いことに。

 

 最高齢は82歳の男性で、モ−ツァルトの『トルコ・マ−チ』を弾き、とりは70歳代の女性で『ロシアより愛をこめて』を見事に演奏した。充分練習したはずなのに、ポロリとミスをする人も多く、それがとても愉しかったと、「聴衆」が言っていた。

 

 いま日本には687万世帯にピアノがあり、そのうち450万台が眠っていると経企庁の調べにある。

 わが家のピアノも冬眠10年、娘が4歳の貧乏時代に義母が頭金を出してくれ、ローンで買ったものだ。まさに「冬眠ピアノ、お目覚めコンサート」である。

 

 初級のメンバ−は全員なりたての50代で、「それはファの音と注意されるとパニックになる」とか「頭でわかっても、指が黒鍵にいかない」「弾くだけ進歩するのが楽しい」などと、生々しく交流する。「家の犬は、毎日『名曲』を聴いてうっとりしている」と言えば、「うちなんかピアノが始まると、首をぐるっと廻して『ウウォー』とか声出して喜んでいる」と言葉が跳ね返る。「仕事だけの人生を、違った眼で見直したかった」という現役男性もいる。

 

 どんな偉い人でも基礎は『ちょうちょ』から弾かされる。みんなプライドなど吹っ飛ばして、必死の挑戦になる。「こんなせっかちな『ちょうちょ』初めて聴いた」。初日、教授に見てもらったときの酷評である。他の先生にも何曲か同じ事を言われた。

 

 長年の共働きで、いつもアレをやったら次はコレと、せっかちに事に当たってきた。それが体に染みついてしまったのだろう。そして、いままで我流で弾いて、いい気分になっていたつけだと観念した。曲のコメントに「歌いましょう」とあったのを、「この教材は声楽と兼用かな」と愚かな勘違いもした。

 

 人生の晩秋に、やっと与えられたゆとりのひととき、教授が口癖のようにいう「音楽を楽しまなくっちゃ」。ゆったり構えなおして、「せっかち」ピアノの克服に立ち向かおう。

 

 「ピアノは歌う」のだ。曲のこころが弾けるよう精進しよう。

 

 脳に直結した指を使うためか、近頃、少しはボケ進行が止まった気配もある。

 

 ご近所から、音楽教師の『熱情』が聞こえてくる。近辺騒音防止のため、サッシはきちんと閉めて、さあ、レッスン開始だ。

 

 

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