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先哲叢談續編卷之四
信濃 東條耕子藏著
- 林道榮
- 名は應菜、字は■(疑の偏+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)雲、墨癡老人と號す、通稱は道榮、長崎の人なり、
道榮、家世〃長崎の人なり、醫を以て里閭に行はる、道榮に及びて學を好み、洛閔の説を修め、性理に精通す、又臨池の技を好み、篆・隸・行・草、體として善からざるはなし、善書の名、遠邇に喧傳す、當時我土の所謂書家者流、未だ臨■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)の法、運筆の訣を知らず、大■(虍/丘:::大漢和32700)庵光悦・松花堂昭乘の輩の若き、能く趙松雪を■(莫+手:ぼ・も:〈=模〉則る・倣う・写す:大漢和12645)すと雖も、未だ能く國樣を免るゝ能はず、道榮、嘗て文衡山董華亭の眞蹟を得、始めて運筆懸腕の事を知る、又北山・雪山と六書の學を講習す、我土六書の學を知るは、實に此に始まる、高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)・池永道雲・佐玄龍・細井廣澤等、是に由りて興起すと云ふ、
道榮、幼より聰慧なり、十二三歳にして讀書を惟れ務む、一目五行、暗誦して口に上る、嘗て林羅山の人と爲りを慕ひて、自ら蘿山と號す、郷隣の人、皆呼ぶに林蘿山を以てす、
寛文癸卯、郷擧げて清館の大通事と爲す、時に年二十四なり、尤も象胥に精しく、雜記・演史・小説・話本に博覽にして、明清の典詁・官制・俚語に通曉す、我土の人、未だ曾て有らざる所なり、
清人周銘、字は勒山〔浙江の人なり、蓋し落第して家居す、詩詞を善くす〕、嘗て商舶に從ひて崎■(奧/山:::大漢和8542)に來る、寄寓すること二年なり、屡〃道榮と交歡す、稱して海東第一の奇材と爲す、
朱舜水、崎に寓する時、適〃監國永明王に報ずる書、及び定西侯張侯老に答ふる書二通、舊しく病蓐に在り、管を搦る能はず、舟行甚だ迫り、日々報を促す、或人道榮能く小楷を作ると言ふ者あり、乃ち之を延致して、之を代書せしむ、即ち毫を濡して疾く書す、舜水、其筆跡を稱し、氣度冲融、兎起鶻落、筆撮すべからず、小王令の家法の如きを以てす、益〃其國器なるを知る(*と)、其事舜水文集に見ゆ、實に虚稱に非ず、今按ずるに、道榮其索に應じて代書するは、承應壬辰に在り、是歳十三なり、其妙齢夙成、以て其凡ならざるを想知るべし、
道榮、舜水に告げて曰く、此地に居て書を讀む、猶雅樂を重譯に奏し、龍章を裸壤に表するが如し、家貧にして業を作すこと能はず、學資を如何せんと、舜水、之を慰諭して曰く、諺に云く、孳々として力田せば、必ず將に歳に逢はんと、但、讀書せざるを患ひ、讀書の用ふる所なきを患へざるなり、吾子其れ焉を勉めよと、道榮、此一言に感發して、遂に一家を成す、後、毎に子弟を教導するに、此言を以て標準と爲す、
萬治中、鎭臺妻木定兼〔彦右衞門〕、任滿ちて將に東に還らんとす、道榮、之に從ひて江戸に到り、其邸舍に寓す、幾くもなくして名聲大に起る、業を請ふ者衆し、他州の士、業を都下に講ずる者、之と比するなし、遂に爲に忌刻せられ、毀譽相半し、將に竊に之を害せんとする者あるに至る、已むを得ずして辭し去る、
道榮、帰郷の後、聲價益〃高し、大村侯純頼〔大村民部大輔〕特に道榮を禮遇す、侯の封境は崎南に接連して近し、故に之に雄浦の地、數百畝を賜ひて以て養老の資と爲す、後、之を子孫に傳へて變ぜずと云ふ、
高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)、亦崎に在る時、書を以て名顯はる、其業、道榮と相鴈行す、時人稱して二妙と爲す、遠邇其揮毫を請ふ者、靡々として已まず、其一紙を得る者、珍寶も啻ならずとす、
道榮、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)に長ずること九歳なり、常に之を揚譽して及ばずと爲し、稱歎贊襄至らざる所なし、天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)も亦能く之に兄事す、今時の人の、互に猜忌抑屈の志あるが若くならず、相迭に遜讓し、其晩暮に至るまで、終始變ぜずと、百年以前、文藝の士の敦厚の風、以て欽慕すべし、
鎭臺牛込蔭鎭、道榮を招致して、遇待薄からず、一日酒を置く、劉東閣と其坐に倍侍す、偶〃杜詩、東閣官梅の句を分ちて、詩を賦す、即ち聲に應じて云く、
鎭臺明府官梅を賞す、梅蕋枝枝春氣催す、餘香衣袂の着を學ばず、醉恩訪花を訪ねて囘るよりも深し
(*鎭臺明府賞官梅、梅蕋枝枝春氣催、不學餘香衣袂着、醉恩深似訪花囘)
蔭鎭、賞歡して已まず、其詩治下に播聞す、是に由り時人官梅氏と呼ぶ、後遂に氏を官梅と改むと云ふ、
道榮曰く、我が邦人の運筆を以て、晉唐名人の遺蹟を學ぶこと、猶ほ鈍刀の木を雕するがごとく、僅に形似を得るのみ、其眞を去ること遠し、豈に徒に勞するに非ずや、然れども之を知る者尠し、臨書の法、唐山と異同一ならず、其小なる者は姑く之を置く、大なる者五あり、一に曰く■(目偏+勿:::大漢和23192)■(目偏+亡:::大漢和23133)正しからず、二に曰く筆毛軟ならず、三に曰く楮紙強■(石偏+勁の偏:::大漢和24200)、四に曰く案卑うして■(病垂/浚の旁:::大漢和56474)■(病垂/卷:::大漢和22259)す、五に曰く體寛洪ならず(*と)、
雨森芳州(*雨森芳洲)の橘窗茶話に云く、
林道榮、喜んで王世貞の詩學活法を讀み、幼より老に至るまで、一生廢せず、彼は乃ち一時の聞人にして、詩に長ずる者なり、漢魏六朝より唐宋の諸家に至るまで、偏索して熟習せざるはなし、然れども、少らくも間隙あれば、則ち必ず之を手にして釋かず、此則ち深意あり、我土の人に在りては、則ち當に之を學びて以て法と爲すべしと、
蓋し元禄以前、書籍の多く獲べからざる、以て之を知るべし、近時舶來漸々繁夥にして、類書叢記を論ぜず、之を購ふことを得易くして、一書を熟讀せざる者あり、古人云ふ、萬卷を劉覽するは、一卷に精通するに若くはなしと、信に知言なり、芳州の此の言、道榮の爲に發す、其子弟に諭し、此に著眼せしめば、亦信に言を知るものなり、
寶永五年戊子、十二月廿二日沒す、享歳六十九なり、著す所、江戸紀行一卷・小學危言二卷・海外異聞録六卷・東閣吟草一卷・壘癡存稿十二卷あり、又門人雕刻する所の墨本、杏僊帖・四體千文等の數種あり、
- 稻若水
(*稻生若水)
- 名は宣義、字は彰信、若水と號す、通稱は正助、稻生氏、自ら修して稻と爲す、江戸の人なり、加賀侯に仕ふ、
若水の先は、世〃攝津の人なり、波々伯城に據有す、居る所の地に因り、波々伯氏と爲す、高祖越中守重智、曾祖掃部頭重信、皆豐太閤に仕ふ、重信、河内の石川郡上加納・下加納・平石等の諸邑に食邑す、慶長十九年甲寅冬の役に死す、祖五兵衞重治、同列の藩士と、京橋口を防禦し、將に此に鬪死せんとす、和議俄に成り、攻を罷め圍を解き、守衞警を徹す、以て死せざるを得、後西宮に隱る、初め和田氏に娶り三子を生む、其季正治、字は見茂、恒軒と號す、是を若水の父と爲す、
恒軒、蓋し慶長十五年を以て、大坂の外祖母稻生氏の家に生る、其外祖父美濃守宗貞、舊と大坂に仕ふ、卒に嗣子なきを以て、恒軒をして稻生氏を冒さしむ、既に壯にして醫を古林見宜に學び、研精覃志、殆ど寢食を廢す、見宜其篤志を歎じ、喜んで以爲く方技其人を得たりと、悉く秘訣を授く、業成りて江戸に遊ぶ、淀侯尚征〔永井右近大夫〕其名を聞きて之を聘す、遊事すること年あり、後、會〃侯封を丹後宮津に移す、焉に從ふ、世子尚長〔信濃守〕封を襲ぎて、眷顧益〃厚し、延寶三年乙卯の春、老を告ぐ、時に年六十六なり、初侯學舍を城下に建てゝ、明善堂と云ふ、恒軒をして經史を講説し、以て士民を教へしむ、因て堂の側に就き、宅一區を賜ふ、封内の人、從學する者多し、六年戊午、病を謝して大坂に歸養す、八年庚申正月廿六日沒す、歳七十一なり、遺言して終を送るの儀、一に禮制に傚ふ、習俗鄙煩の事、一切用ひず、城南の天龍院に葬る、元禄九年丙子三月十日、若水、洛東の迎稱寺に葬る、
恒軒、河瀬氏に娶り、寛文七年丁未の夏を以て、若水を江戸小河街淀侯の邸舍に生む、幾くもなくして、居を宮津に移す、又浪華に歸る、若水此に成長す、後、業を京に講ず、屡〃加賀・江戸に往來すること數次、世人概ね以て京師の人と爲す者は誤れり、
恒軒、嘗て其君の爲に一書を著し、詳に胎教を論ず、名けて螽斯草と曰ふ、總て七篇、一に胎教と曰ひ、二に保養と曰ひ、三に臨産と曰ひ、四に産後と曰ひ、五に治療と曰ひ、六に祈祷と曰ひ、七に通論と曰ふ、書するに國字を以てすと雖も、持論徴實、以て後人を裨益するに足れり、藤井懶齋序を作る、元禄庚午の歳、始めて上梓す、世之を知る者鮮し、
〔若水の序に云く、先大人書を著はさず、嘗て宮津侯の爲に此を著し、明かに梱内養胎の法戒を言ふ、余之を家に藏し、敢て出して人に示さず、頃ろ伊蒿先生(*藤井懶斎)に侍す、話此書に及ぶ、因て請ひて曰く、此書先人の草具、未だ定らずして忽ち館舍を捐つ、其事淺近人間に留むるに足らず、唯恐らくは亡軼せんを、自ら一本を裝寫し、之を家に傳へんと欲す、敢て先生を煩し、願くは一言を借り、以て重を後に取らんと、先生拒まず、乃ち之が序を作り、且つ門を分ち類を別つて編屬する所あらしめ、余に語つて曰く、此甚だ世に益あり、無かる可からざるの書なり、豈に之を私し、以て獨り家に留むべけんや、何ぞ之を四方に傳へ、螽斯の化を裨せざると、茅齋雅兄(*未詳)も亦余に勸めて之を梓せんことを諭す、嗟夫先大人、兀々として力を此學に致し、聖賢に志あり、行甚だ高くして世の爲に知られず、常に遐方に在りて、師友の資なきを以て恨と爲す、豈に意はんや、沒後知己の者あつて、之を表章し、卒に能く世に見はさんとは、余是に於て深く感ずるあり、余固より無似にして志業を顯揚する能はず、常に懼れて忝づるあり、嗚咽追慕窮止するなし、今此書の論沒せずして既に公侯封君の家を正すを樂む、景命の義、或は少しく採るべきあらん、又私に以て先大人の志を、九原に慰することあるを幸とすと云ふ、男宣義、謹んで書す(*と)、今按ずるに若水此序を作る、時に歳二十四なり、此書、流傳極めて稀なり、故に併せてこれを録す、〕
若水、專ら濂洛關閔の説を修めて、經義を講習し、尤も群書に博覽なり、其文辭簡潔、議論毎に人の意表に出づ、源白石(*新井白石)・室鳩巣、屡〃其人と爲りを稱し、以て我土未だ曾て有らざるの學識と爲す、世、徒に本草に精しきを知つて、未だ嘗て經義文章の一時に翹楚たるを知らず、
若水、天資穎持、旃に加ふるに、博學洽聞を以てし、衆藝に旁通す、常に志操耿介、時流に拔卓せんと欲す、敢て苟容せず、氣節を尚び、榮利を鄙しむ、其人實に多に足る者あり、嘗て一孝女あり、家甚だ貧し、能く其父を保養す、若水、其状を上る、京尹之を聽納して、異行を旌表す、若水、自ら孝女傳一卷を著して之を梓行し、坊間をして之を鬻がしむ、我土近世卓行懿言を傳ふる者、此を以て始めと爲す、實に側陋の潛徳を揄揚し、郷閭の隱行を甄別する者と謂ふべきなり、蓋し其心眷々として、惟人の善を爲すの利を得ざらしむるを恐る、眞に其學ぶ所に背かず、
若水、平生朱子を尊信し、專ら其旨を發揮するを以て主と爲す、而して敢て執守せず、嘗て朱子祠官を丐ふの事を議す、其言に云く、文公、平生異端を闢くを以て、此の若く之れ嚴なり、其時に遇はざるに及び、自ら道觀の提擧を丐ひて其職に充つ、名義既に正しからず、除拜亦當らず、設使(もし)當時特に此官を置き、擧げて其職に充つるも、有志の士、宜しく辭して受けざるべし、其實の存する所は、名の在る所なり、稍〃義理を識る者は、將に辭して受けざらんとす、況んや一世の大儒、名教を維持する者に於てをや、然らば則ち公の祠官に於ける、已むを得ざることあれば、則ち敢て辭せざるも猶ほ可なり、自ら之を丐ふに至りては、則ち不可なり、若水、歳廿三より、始めて志を本草の學に留め、講經の餘暇、歴代名物の書を渉獵し、遂に本草の學を以て世に聞ゆ、■(韋+長:::大漢和56442)弓以降、本草を言ふ者、悉くこれに歸す、是より先き、之に從事する者あり、未だ能く此に精核なる能はず、若水、始めて之を唱へてより其説益〃闢け、近世に明なりと云ふ、
我土、物産學を首唱し、本草を講明する者、今大路道三を以て、之が鼻祖と爲す、宜禁本草二卷あり、其刻慶長己酉に成る、繼いで起る者は、向井靈蘭・岡本一抱・貝原益軒・江邨訥齋にして、靈蘭の庖廚本草十二卷・一抱の和語本草綱目廿卷・益軒の大和本草十二卷・訥齋の和産物類考八卷、各見る所あり、其持論多くは之を書册の上に得、未だ實驗を得ず、故に形状を辨じ、功能を言ふ者、純駁相半す、視聽を明瞭にし、聞見を暢發する所以に非ず、反つて後進の疑惑を益するもの、往々にしてあり、若水の出づるに及んで、舊習を一洗し、耳目を更新す、物産の説、始めて世に明なり、
唐宋以降、本草物産の學を講明するもの、一にして足らず、歴代咸な之を修し、其執筆を命ずる者は、多くは是れ文學の士、文學の士は能く辭を修め、方技に於ては、固より盡く其旨に通ずる能はず、意を方技に專にする者は、固より筆を執ること能はず、故に其選著する所、紙上の空談に過ぎず、彼の土既に此の若し、而るを況んや我土に於てをや、若水、能く其弊を識る、嘗て曰く、新修出て本經廢し、綱目盛にして證類衰ふと、今時此に從事する者、極めて衆し、是等を知らざるべからず、
若水、本草學を京師に唱へてより、踵を繼ぎて起る者は、香月牛山〔名は則眞、字は啓益、筑前の人なり〕・直海衡齋〔名は龍、字は元周、越前の人なり〕・戸田旭山〔名は光、字は千雲、備前の人なり〕・武林間齋〔名は尚白、字は水釣、伊丹の人なり〕・大口灌畦〔名は美明、字は如安、丹波の人なり〕・沼古廉〔名は進、字は文進、和泉の人なり〕・岡白洲〔名は元鳳、字は公翼、浪華の人なり〕・都賀大江〔名は庭鐘、字は公聲、浪華の人なり〕(*都賀庭鐘)・小野蘭山〔名は識博、字は以文、京師の人なり〕等の若き、祖として之を述ぶ、憲にして之を章にす、李時珍・繆希雍の博通多識と雖も、復た謬誤なきことを得ず、我土、近世此學に於ける、遠く彼土に勝る、其著眼する所、皆若水の言ふ所を以て、之が根據と爲す、是に由りて之を觀れば、此學に從事する者は、千歳の下、之を尸祝して可なり、
若水、將に物産を講明せんとするの事は、曾て竹の石に化するを見しより起ると云ふ、其家園に舊竹叢枯根數箇あり、其中石に化する者あり、長さ二寸餘、濶さ之に半し、厚さ亦之に半す、色■(翳の頭/玉:::大漢和21188)の如く、一節の中に居るあり、其質全く石にして、形状竹なり、蓋し理學家、斷然自ら格物致知を以て口實と爲し、一草一木の理を窮むと曰ふと雖も、遂に盡く物類の變化を知ること能はず、則ち何ぞ能毒生剋の妙を知らん、故に意を此に留むと、若水、源白石(*新井白石)に答ふる書に言へることあり、曰く、竹の石に化する、古より之れ有り、間ま稗官小説に見る、蓋し斷根漂流して湍沙巖谿の間に出沒し、其星霜幾年なるを知らず、而して日曝日■(乾の偏+乙繞:::大漢和194)、寒暑の代謝を受け、則ち堅質の■(竹冠/路:::大漢和26562)、自ら變じて石に化する者、時或は之れあり、此亦天地間の得難きの物なり、況んや諸家の園中に獲て我有と爲るに於てをや、諸友以て溝中の斷と爲す、而して僕自ら以て天下の奇と爲す、縦ひ千金と雖も、之を易ることを願はず、と、
若水、木順庵の薦擧を以て、褐を加賀の儒員に解き、三十人の糧を受け、後田禄三百石を受く、當時加賀侯綱紀〔從三位宰相〕、學を好み、逢掖の士を崇重し、躬牧伯の貴を以て、能く經史に通ず、元禄五年六月三日、旨を奉じて中庸を殿中に講ず、尾・紀・水の三公、曁び甲府公より、閣老參政の諸曹に至るまで、悉く皆陪列し、之を聽聞せしむ、朝野文學の盛なること、是に於て想見るべし、順庵、加賀菅侯旨を奉じて中庸を講ずる記一篇あり、詳に錦里集に見ゆ、侯常に若水をして伴讀せしめ、考援を此に資く、故に遇待優渥、啻に公養の仕のみならず、前後の横賜、其數を記すべからず、
侯、若水の學術に感服し、又其情を著述に專にするを嘉す、毎年伏臘、金五十兩を賜ひて、以て購書の資と爲す、故を以て彼此の群書古今を論ぜず、其收藏する所、萬種を以て數ふ、函笥題籤、千字文を以て之が標記と爲す、卷を爲すこと十萬なりと云ふ、余嘗て若水、白石に與ふる書牘中に、華本を集儲すること殆ど六萬卷、我土版なきの書を抄寫すること、一萬卷に近しと曰ふを覩、未だ嘗て其富贍を嘆羨せずんばあらず、嗚呼今を去ること百五十年前、此の如きの君あれば、則ち此の如きの臣あり、遭遇水魚、千歳の一時なり、今や然らず、設ひ有志の士あるも、世之を知る者なし、衣食に奔走し、其抱負する所を以て、志を時に述ぶること能はず、之をして徒に窮巷陋屋の中に死せしむ、世の肉食の人、以て天下に人材なしと爲す、噫、寃なるかな、
正徳辛卯、韓使來聘す、時に若水客館に筆語し、彼の學士・書記等に與へて、物産を質問すること、前後兩次、今其學に從事する者の爲に、冗長に渉ると雖も、其應答を附載すること左の如し、若水稟して云く、海道阻を爲さず、星槎遠く來る、人皆貴國儀物の盛なるを覩るを獲、竊に觀感の至に堪へず、不佞、姓は稻、名は義、字は彰信、若水と號す、少うして志あり、自棄世に用ゐられざるを以て、偶爾として草木昆蟲の學を爲し、經を治むるの餘暇を以て、■(彳+扁:へん・べん:遍く行き渡る・巡る・偏る:大漢和10174)く之を載籍の中に考へ、諸を耳目の親究する所の者に得、乃ち古今傳ふる所、稽核を其間に失し、紕繆無きこと能はざるを知る、是に於て自ら揣らず、群籍を平章するを以て自任と爲す、飛潛動植、皆其用を成して而して遺材なからんと欲す、聊か亦意を寓するのみ、然れども物の記載の外に出づる者、得て考ふべからず、常に以て慊と爲す、幸に諸君の旌■(施の「也」を「巾」に:::大漢和13630)を駐るに遇遭す、此良便を失ひて一たび之が問を爲さゞれば、則ち異日終身の憾、豈に量るべけんや、卒に其醜を愧ぢず、仰いで高聽を煩はす、願くは愚悃を察し、以て教へられなば幸甚なり、一に曰く、此樹我土櫻花と名づく、樹の高さ二三丈、葉は垂糸海棠と一樣なり、惟枝條柔軟ならざるを異なりとなす、三月初めて葉を生じ花を開く、略薔薇・長春の花形に似たり、其色白あり、紅あり、又重瓣・單瓣の異あり、蒂の長さ三四寸、葉間に於て或は三萼より五六萼に至る、叢を爲して生ず、一に海棠の花の如し、而して蔕差々長く單瓣なる者は實を結ぶ、形郁李子に似て小なり、生青、熟紫赤、味甘し、其葉穉き者は淺紫色、大なる者は縹緑色、霜後に至りて、葉丹く愛すべし、花品甚だ多く、數十百品に至る、其最も觀るべき者は都勝あり、粉紅重瓣花頭甚だ豐なり、特に嬌麗を極むるは御愛あり、單瓣粉紅、常花に比するに差々大なり、美人紅といふものあり、重瓣嬌紅、開くこと早し、緋櫻といふものあり、千華初て綻びて深紅なり、開くに及びて色漸く衰ふ、香櫻といふものあり、芬郁特に甚し、又一叢中花を開き、重單相間る者あり、衆花攅まつて毬と爲る者あり、繁密枝に綴りて花を作し、千華郁李花の如き者あり、豐腴艶美、群芳皆下風に在り、■(彳+扁:へん・べん:遍く行き渡る・巡る・偏る:大漢和10174)く古今の載籍を査するに、率ね垂絲海棠を收めて、此花あるを言はず、豈に中原の地、稀に有る所を以て見るに及ばざるか、貴國弊邦と相隣し、地氣當に甚だ遠からざるべし、或は此花あらん、名字亦何を以て之を稱するや(*と)、學士李東郭答て曰く、俺、始めて馬島に到り、貴邦の所謂白櫻桃を見るを得たり、其枝葉の奇、信に書中の■(目偏+示:::大漢和23213)す所の如し、而も第だ恨むらくは、已に花時に後れ、其花色の爛■(火偏+曼:まん:「漫」の譌字:大漢和19371')を見るを得ざるのみ、俺が國櫻桃樹、高さ一二丈に至らず、欝密叢生するに過ぎず、其實紅白の兩種あり、而して花色亦零碎、婆娑として甚だ美好ならず、故に之を種うる者は、只其實を食ふが爲のみ、貴邦の櫻花と、絶て相類せずと、二に曰く、此樹、我邦紅樹と名づく、高二三丈、葉形綿花に似て尖狹なり、五六尖なる者あり、或は十二三尖なる者あり、春葉を生じて紅青黄、花結びて小實、霜に遇ひて葉愛すべし、或は色黄なること鵞黄の如き者あり、或は一枝中に紅黄相間る者あり、慶雲紅と名づく、黄邊銀紅なる者あり、錦邊紅と名づく、此三種は夏に入て葉老いて皆緑に、秋復紅と爲る、又葉紫にして春より秋に至つて、其色移易せざる者あり、紫雲と名づく、品類頗る多し、然れども花葉に至ては、柔莖重々して、一朶の雲の如し、九月鮮紅、之を望むに錦に似たるは則ち一なり、皆秋色の絶妙なるものなり、南北地を擇ばずして生ず、群籍を博究するに、寂として言及する者あらざるは何ぞや、豈に華夏の地に顯はれずして、我域に繁衍するか、知らず貴國に之あるや否や、其名稱奈何と爲すと、東郭(*李東郭)答へて曰く、俺、海傍の諸州を過歴す、此樹を以て問を爲すもの甚だ多し、故に已に之を答ふ、蓋し此樹我國の樹に比するに、葉樣稍〃細くして、初生常に紅色を帶び、夏に至りて青く、秋に抵りて復紅なる者は、畜眼未だ見ざる者なり、乃ち所謂眞の丹楓なるなからんや、我國の所謂楓樹は、枝葉の形、此樹と或は相彷彿たり、而して霜隕つるの後、始めて即ち殷紅なり、俺、嘗て博物志の言ふを聞くに、丹楓自ら別般の種類あり、色常に紅を帶ぶ、而して霜を得て、其色稍〃益〃紫紅云々と、所謂青楓葉赤天雨霜といふ者是なり、此樹安ぞ其れ此にあらざるを知らんや、信なる哉、樹木の同じからざる、亦人面の各〃異なるが如きなりと、問うて曰く、畜眼の義如何(*と)、答へて曰く、畜眼は古今通用の文字、韓詩に云ふ畜眼の見、未だ曾てせずと、〔按ずるに、是を前次の筆語と爲す、其他詩文唱酬極めて多し、皆盡く之を記せず、若水自ら尾に書して云く、正徳改元九月廿八日、朝鮮信使京師に至る、旅館に廿九日宴を賜ふ、十月朔日、余青地俊新と偕に、往て李重叔(*李東郭)・洪命九・嚴子鼎・南仲容に謁す、浚新(*ママ。俊新か。)、文雅唱和頗る多し、余博物の癖あり、乃ち櫻花・紅樹の二品を折て、以て李重叔に問ふ、櫻花と櫻桃と、其種本異にして、紅樹も亦楓の類にあらざるなり、吾國の人、紅樹を以て楓と爲し、櫻花を櫻桃と爲す、其誤ること久し、意ふに、李、吾境に入るや、人此二樹を以て、櫻桃・楓樹と作して問ふ者あり、故に其答ふること此の如し、此日東發の前にして事務益〃繁く、見んことを願うて來る者衆し、再び問ふこと能はずして止む、製述官・三書記、皆容貌秀偉、博覽強記にして、文思涌くが如く、筆を執て即ち成る、此間人の能く彷彿する所にあらざるなり、淹留日少く、草々として辭し去る、從容益を請ふ能はず、是を恨むべしと爲すのみ、正徳辛卯十月九日、白雪山人(*稲生若水の号か。)、結髦居に書す(*と)、〕問うて曰く、此魚我邦鮭と名づく、東北海中に生ず、常に八九月を以て、海津より來る、流に遡つて上る、子を■(酉+咸:::大漢和39926)淡水交會の處に産す、春初復化して魚苗と爲る、仍つて■(酉+咸:::大漢和39926)水中に入る、状略〃香魚に似て極めて大なり、長さ三四尺、鱗細にして斑文あり、皮厚く肉赤し、肉中細刺なく味美なり、腹中の子、大さ豆の如し、紅潔にして珠に似たり、顆々攅簇して、玉蜀黍の形の如く、味亦美なり、蝦夷の國、此魚尤も多く、熏乾して四方に貨す、按ずるに、閔書に云ふ、過臘魚、頭は■(魚偏+即:::大漢和58230)に類し、身は■(魚偏+厥:::大漢和46501)に類し、又■(魚偏+連:::大漢和46415)に類す、肉、微紅にして味美なり、尾端に肉あり、口中に牙ありて鋸の如し、好みて蚶蚌を食ふ、臘に來り春去る、故に過臘と名づくと、説く所の形状を覩るに此に近し、第だ鮭、東北海に之あり、八九月海よりして江に入る、南方閔海の中に在るべからず、鮭、過臘と一物にあらざるに似たり、然れども魚は海中に在つて、遷移常無し、或は猶ほ鴻雁の春去り、秋來る如き者あり、安んぞ知らん、此魚秋風の起るに遇うて、東北より來り、南を圖りて日に暖に就くを、故に我邦に在りては、則ち八九月盛に有り、而して臘月に至るに及んでは、閔海に始めて之あるならん、近江州の琵琶湖に此の魚あり、海に生ずる者に較ぶれば、形小に鱗白し、亦八九月、湖よりして溪澗水流の處に入る、之を江鮭と名づく、我邦村上天皇の時、源順といふ者あり、和名類聚鈔(*倭名類聚抄)二十卷を著す、其中鮭を載せ、崔禹錫の食經を引いて云ふ、鮭其子■(艸冠/毒:::大漢和31330)に似て赤光あり、一名は年魚、春生れて冬死す、故に名づくと、食經、世に傳はらず、其詳なることは得て考ふべからず、知らず、貴國此魚ありや、其名づくる所奈何、辱く之を教へば幸なり(*と)、(*南仲容か。後述の若水注を参照。)答て曰く、此魚は即ち我國の松魚なり、嶺の東南多く之れあり、甚だ貴からざるなり、洪鏡湖が曰く、此魚絶だ我國の鱸魚に似たり、未だ知らず、貴邦にも亦鱸魚あつて、而して此と同じからざるを、若し鱸にあらざれば、則ち僕の知る可き所にあらざるなりと、嚴龍湖曰く、我國の東海にも亦多く此魚あり、其名は松魚なりと、南泛叟曰く、此魚は是れ我國の松魚なり、■(魚偏+連:::大漢和46415)と性同じくして體小に、我國東海の産する所なり、七八月の間、海より隊を作して川溪に游上す、或は身を石に磨し、鱗脱して止まらず、身斃るゝに至る、未だ其性を知らざるなりと、〔按ずるに、是を後次の筆語と爲す、其他の問答も亦多し、若水、尾に書して云く、辛卯の杪冬初四日、朝鮮の使臣、平安の館に還り來る、次日余青池禮幹氏(*青地か。前出「青地俊新(浚新)」との関わり未詳。)と偕に往て製述官・三書記を訪ふ、余鮭魚及び條子乾鮭を將つて、之を李叔重(*重叔か。李東郭に同じ。)・洪命九・嚴子鼎・南仲容に問ふ、其答ふる所、上に見ゆ、按ずるに、東醫寶鑑に云ふ、松魚平、味甘くして毒無く、味極めて珍なり、肉肥え色赤くして、鮮明なること松節の如し、故に名づけて松魚と爲す、東北の海中に生ず、今仲容の答ふる所を以て、之を寶鑑の説に參ふるに、明に是れ鮭と松魚と一物なり、然れども名づけて松魚と爲すは、亦自ら東韓の方言にして、華人の稱する所の者にあらざるなり、八■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)通志・■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)書興化府志・■(三水+章:::大漢和18174)州府志・福州府志・汀州府志・海澄縣志等の諸書、倶に松魚を載す、著す所の形状、此と大に異なる、類を殊にして名同じきのみ、棘鬣魚を以て道美魚と爲し、烟草を南蠻草と爲すの類、皆彼中の方言にして正名にあらず、正徳元年十二月十日、白雪道人(*稲生若水)書す、〕右の件は倶に席上に就き、其の構思する所を以て、相與に筆語す、皆以て其學術の精確を視るに足る、
我土の諸儒、多く未だ地理を講究するを知らず、故に郡國・州縣・城府・山河・都會等の諸志に於ける、見れども贅■(病垂/厖の旁:::大漢和22198)の如し、夫れ地志は、人物・風俗・物産・境域を記載し、尤も聞見を裨益す、而して史學中の一■(人偏+次:::大漢和53105)助なり、若水、室鳩巣と相議し、建議して言ふ、地理の書は聞見を博め、考證を資け、唯各地の風俗と、古今の沿革とを知るのみならずして、亦以て造化の榮枯、物産の異同を知るべしと、加賀侯之を聽し、盡く其書目を録し、遍く清商に求む、是に於て惟府城州縣の誌のみならず、河渠・漕運・水利・山岳・道程・通路の諸志、前後輻輳す、後、享保中、官其事を聞くに及び、又地誌諸書を海外に徴求す、皆若水の建議する所に起ると云ふ、
若水、博物を以て當時に聞ゆ、海内本草を言ふ者、盡く歸嚮す、今案ずるに、本草を以て之を稱揚する者、未だ盡く若水の人と爲りを知ると爲さず、蓋し其の學該博にして旁通し、其の識精覈にして徴實なり、研尋危羅、餘力を遺さず、嘗て庶物類纂一千卷を著す、實に古今未だ曾て有らざる大手筆なり、鳩巣(*室鳩巣)之が爲めに序して曰く、天地の間、物にあらざるは莫し、物を分つて以て名を命じ、名を正しうして以て物を辨ず、然る後、名物の學■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)て興るあり、夫れ以んみれば、學とは天下の物、星辰・暦象・地理・職官・禮樂・典詁・宮室・車服を視、以て鳥獸草木の屬に曁ぶ、孰れか名物の聚る所にあらざらんや、是故に君子の學は、名物より博きはなし、而して名物の多きは、唯本草を然りと爲す、夫れ本草は、草を以て篇に名づく、而して土・木・金・石・羽・毛・鱗・介、皆在り、神農氏より以降、虞夏・商周を歴て、下炎漢・隋唐の後に逮ぶまで、天下の幅員日に廣く、四方の品物日に殷なり、華夷山海の産に充■(牛偏+刃:::大漢和19935)し、職貢圖籍の志に洋溢す、而も一人の力を以て蒐輯して之を討論せんと欲す、亦已に難し、稻君彰信は京師の人なり、博覽強識を以て一世に名あり、嘗て治世の餘暇を以て、輙ち古今名物の書を取つて之を讀み、研究探索せざることなし、博に由つて以て其精を求む、而して其本草に於ける、最も意を致せり、出産の形状は、之を經歴聞見の實に驗み、名稱の種類は、之を錯綜同異の説に證す、是の如くして既に久し、然る後、夫の諸家本草の書は、大に未だ備はらざることありて、其形状を論じ、名稱は定むるも亦多く錯誤あることを免れず、之を要するに據信すべからざるを寤り、遂に百家を考訂し、群言を折衷し、部分類次して、以て一家の言を成さんと欲して、未だ果さゞるなり、名を藩府に策するに至るに及んで、常に博雅を以て、我侯の爲めに優待せらる、乃ち君の休暇を賜うて、禄を以て家居し、給するに紙筆傭書の人を以てし、以て舊學を商量することを得、盡く其平昔蓄著する所の簡册を以て、不朽を後世に謀る、是に由つて君始めて力を編纂に肆にし、日夜孳々として倦まず、凡そ二十稔を歴て、屡〃稿を易ふ、分つて二十三部、計二千百餘種と爲す、皆我土域の産殖する所の者に係る、其中國産にして、此に産せざる者は、當に他日を俟つて之を別録すべしと、是に於て書成る、總て一千卷なり、名づけて庶物類纂と曰ふ、其採■(手偏+庶:せき・しゃく:拾う・拾い取る:大漢和12624)の富と、辨晰の精とは、物類の書ありてより以來、未だ之を聞かざるなり、是歳季夏の月、君、本府に來つて侯を拜す、淹留の間、數〃余と寓舍に相見る、語是編に及び、乃ち其裝を解き、出して之を視す、簡■(衣の間に失:::大漢和34205)浩澣にして、縹■(糸偏+相:::大漢和27636)粲然眞に盛觀なり、他日余に謂つて曰く、顧ふに是編や、子の意に於ける何如、願くは一言を乞ひ、以て之を辨せんと、余謂ふ、昔は孔子、人をして多く鳥獸草木の名を識らしむ、而して商羊・萍實・專車の骨と、肅愼の■(木偏+苦:::大漢和15144、56048)・大野の獸とは、皆聖人を待つて之を識る、是れ天下の物類に精しき者は、聖人に若くはなきなり、孔子沒し、門弟子各々其詩書禮樂の教を傳ふ、而して其名物の學は則ち傳ふることなし、後世に至るに及んで、晉の張華・唐の歐陽詢・宋の鄭樵・元の耶律楚材・明の楊愼が若きは、竝に博物の人と稱す、然れども未だ能く古今の籍を考へ、四方の志を通じ、海内の産を擧げて之を録し、以て天下彼我の闕典を補ひしこと有るを聞かず、豈に其事浩大汎濫にして、實に力を爲し難き者あるか、夫の本草の書の若きは、專ら藥材を審にするを重と爲し、其藥材に預からざる者は、多くは收めず、亦以て醫家の業、方術の用と爲すに過ぎざるのみ、固より以て古今名物の學、華夷産殖の類を論ぜざるなり、今君淵博の識、精核の力を以て、經史を貫串し、古今を馳騁し、直往勇進、古人の難しとする所を以て自ら任ず、卓乎として成就する所あり、殆ど天下の物類を盡して遺漏あることなし、眞に不朽の大業と謂ふべきなり、豈に例に醫家藥材の書を以て之を視るべけんや、後世是編を得て之を存せば、將に其聯乘の書を讀まずして、家に博物の志を著し、懸金の賞を購はずして、呂覽の誤を見んとす、何となれば則ち名物の林は、得失の苑なればなり、之を譬ふるに、九貢の鼎を觀て、海内の怪、目に遁るゝなく、五都の市に遊ばゞ、天下の珍、畢く前に陳なる、彼の四海を周歴し、一生に經營して之を得たる所のものは、我は乃ち坐して之を一覽の後に盡す、後の是編を讀むものも、亦此の如きのみ、傳に云ふ、之を爲す者は勞し、之を觀る者は逸すと、嗚呼後の人、尚ほ以て君の勞を知るあらんか、寶永七年、歳庚寅に次る、七月既望、英賀室直清師禮甫序す(*と)、今按ずるに、此序、鳩巣文集に載する所と、頗る異同あり、是れ本書附する所に依りて、之を改めず、時に鳩巣は金澤に在り、歳五十三、若水は四十四なり、
若水、庶物類纂を編述し、既に成る、又一部を浄書して、將に之を幕府に上らんとし、書を執政土浦侯政直〔從四位下侍從土屋相模守〕に奉じて云く、寡君、宣義が草木昆蟲の學を好むあるを知り、乃ち臣に命じて此書を撰次せしむ、編一千卷を成す、名づけて庶物類纂と曰ふ、皆徴を華人の紀載中に作す者に係る、而して我域の産する所の者は、凡そ二千有餘種あり、自ら謂ふ、一生の精力此に盡くと、以て群類を平章し、百家の衆説を網羅し、斷ずるに耳目の親熟するを以てして、然る後に此書を作るなり、其名往牒に見えて、我土に未だ之れあらざる者と、夫の嘉禾・艷草・奇禽・怪獸・玉石・珍寶の東方獨有する所にして、未だ考ふべからざる者に至つては、則ち別に一書を撰著せんと欲す、而も其業洪繁にして、亦旦夕の能く成す所にあらず、且つ近年多病なれば、心あつて期すべからず、恐くは成ること能はざらんを、伏して惟れば、閣下賢明の質を以て、大政を宰輔し、學問の博、文章の偉は、一時に冠冕たり、謀謨の徽猷、揆圖の嘉績は四方に光華す、宣義、辱くも下風に通ずるを得、誠に傾倒の念に切なり、是を以て願くは、推轂の先容を得て、以て一部を幕府に進獻せんと欲す、向には京師の處士柳川順剛、及び弊藩の文學室直清等、宣義の爲に此書に敍し、詳かに述作の起る所を述ぶ、乃ち寫して以て呈す、願くは電矚を賜へば、以て其梗■(既/木:::大漢和15363、58223)を見るに足らん、伏して冀くは垂顧せよ、不乙、(*と)
正徳二年四月、若水、其君加賀侯の許可を以て、庶物類纂を幕府に上る、命じて銀錠百枚を賞賜す、又他の著述を進呈せしむ、是に由り詩經小識・炮炙全書・食物傳信本草等、皆悉く之を上る、毎次賞を賜ふこと差あり、
若水、少壯より痰飮を病む、不惑を踰えて甚だ食飮を謹む、衞生惟れ勤め、鉛槧自ら娯しみ、著述に從事す、其起草する所極めて多し、而して自ら其壽の長からざるを識り、收藏する所の書、凡そ十二萬卷、起草する所の稿本三十六種、遺言して悉く之を金澤の侯府に收め、永く後人の觀に供せんと欲す、故に平生の鈔寫する所、今に至るまで現存し、一篇を散佚せず、
若水、嘗て其壯年校刻する所の本草綱目、多く誤謬を致すを以て、之を改刻せんと欲して果さず、亦藩府に建議し、將に萬暦版の二十一史を翻刻せんとし、國讀を全部に施す、宋史に至り、未だ完備に至らずして、世を謝す、識者之を惜む、
若水、正徳五年乙未七月五日、舊しく瘧疾を患ふるを以て、平安北小路の家に沒す、歳六十一なり、洛東の迎稱寺に葬る、門人松岡恕安〔名は玄達、字は成章、京師の人なり〕・津島如蘭〔名は久成、字は桂庵、越中の人なり〕等、悉く其遺囑に從ひ、相議して敢て碑碣を爲さず、墓表に若水稻彰信之墓の七字を題するのみ、著す所、詩經小識五卷・左傳名物考十卷・本草圖翼二卷・本草別集二卷・庶物類纂一千卷・目録三十卷・我土物産目録三卷・採藥獨斷二卷・皇和物産品目四卷・炮炙全書三卷・孝女傳一卷・結髦居常話十二卷・別集六卷・文集十二卷・本草綱目指南四卷・食物傳信纂補十二卷、〔以上二種、門人内山覺順の編次なり、〕又校刻する所、李時珍の本草綱目・李九我の四書文林貫首・朱■(木偏+肅:::大漢和15555)の救荒本草等、皆世に行はる、〔按ずるに、若水の述著三十六種、此に擧ぐる所十六種、其種の二十種、皆未定草稿に屬す、故に其目を知る能はず、〕
- 阿部將翁
- 名は輝任、字は丹山、將翁軒と號す、通稱は友之進、陸奧の人なり、幕府に給仕す、
將翁、蓋し慶安三年庚寅を以て、奧州の盛岡に生れ、寛文中、始て江戸に到る、又京及び大坂に至る、漫遊數年にして郷に還る、延寶中、嘗て貨物を漕運する船に乘じ、再び大坂に到らんと欲す、南部八戸洋、颶風大に作り、海中に漂流すること、殆ど七閲月、艱苦萬状、殫言すべからず、■(手偏+它:::大漢和11960)裂け■(木偏+危:::大漢和14759)碎け、薪水皆盡く、自ら必死を分とす、向ふ所を知るなし、飄搖出歿、遂に阿馬(まか)港に著す、其地廣東に近し、即ち海外諸州商舶の輻輳する所なり、土人之を憐み、廣東に傳送し、竟に兩淅の間に至る、後、之を互市の商舶に托して、長崎に護送し、還ることを得たり、
將翁、杭州に在り、始めて醫術を學び、心を本草に專にす、歸郷の後、益〃之を講習し、物品を辨別す、凡そ藥餌に係る者は、精覈研究、意を盡さゞることなし、設し未だ之を詳にせざる者あれば、則ち崎■(奧/山:::大漢和8542)に到りて、諸を清客・蘭人の有識者に質し、其旨を得ざれば、則ち措かず、故に其講習する所、皆之を實驗に得たり、
享保中、江戸に往來し、專ら物産の種藝を試む、會〃幕府博く海内俊傑の士を徴する一技能者あれば、各〃其選に充つ、將翁本草學を以て召さる、乃ち上言す、物類を甄別し、産殖を採擇するの學は、亦經濟の一端にして、廢棄すべからざる者なりと、官其の議を納れ、之をして按驗せしむ、是に於て、命を奉じ、藥を安房・上總・伊豆・相模・駿河・遠江・三河・大和・河内・二丹・三越・信濃・上野・甲斐・飛騨・奧羽の諸州、曁び松前・蝦夷等の諸島に採り、深山幽谷、人跡の未だ通ぜざる所に、博く探り、弘く索めて、餘力を遺さず、其往いて訪ふ所、必ず獲るあり、數年の間、其齎し得る所、草木八百五十八種、金石五十二品あり、吾邦古今未だ嘗て聞見せざる者なり、而して苟も世用に益なき者は、珍希の物と雖も、敢て意を措かず、自ら謂ふ、李蘋湖(*李時珍)の綱目(*本草綱目)、徒に宏覽博聞に誇り、李正宇の原始、空しく附會の陳言を論ず、其大なる者は、既に此の若し、小なる者言を待たず、而るを況んや、未だ目其物を覩ず、脚未だ其地を踏まずして、詳に效剱を辨じ、悉く形状を言ふ者に於てをや、余表章する所の種類は、未だ一千に至らざるも、皆之を實地に獲る者なり、■(瓊の旁:::大漢和71416)かに西土諸家の閑文字に異なれりと、
我輿地東海の遠壤に在りと雖も、環海を溝と爲し、島嶼を城となし、天險の堅、地理の要、庶富豐饒、實に全地球中、萬國の企て及ばざる所なり、且つ二百年降、文運の盛なる、漢・唐・宋・明も豈に肩を比するに足らんや、然りと雖も、書籍曁び藥種は、之を海外に求めざるを得ざりき、旃に加ふるに、生齒月に蕃く、民用日に密に、■(鹿三つ:そ:離れる・粗い・大きい:大漢和47714)糲を飯し、氈毳を被る、皆耐ふべき者に似たり、惟藥餌なきに於ては、病痾を療するに至りて、殊に不便と爲す、故に將翁意を此に鋭にして、物産を捜索す、之を海外に求むるを待たずして、粗〃足れるは此より始まる、其功實に偉なり、
將翁、嘗て蝦夷に入ること三次、龍涎を海足に獲、附子を山頂に得、此二物は民用に切にして、醫家の闕ぐべからざる所なり、是より先き、皆之を海外に待つ、將翁之を捜してより、官命じて之を吹上田安の園圃に種ゑ、培養蕃生し、後功驗を試む、咸く明徴ありて、舶來の物に讓らず、之をして益〃其事を監せしむ、數年にして果して能く暢茂す、遂に之を奧羽の海濱に植う、今に至りて諸州に繁衍し、永く世用と爲る、
甲斐の金峯山中、土人傳へ云ふ、水精(*水晶)を産すと、故に俗呼んで水精山と曰ふ、而も是より先き、一人も其眞僞を知る者なし、官、將翁をして之を按視せしむ、將翁、山中に至り、山氣を望觀し、土性を熟察するに、斷じて水精あることなし、若し有らば是れ必ず石英ならんのみと、乃ち數人をして巖崖の諸處を鑿掘せしむ、果して石英を獲たり、或は白き者、或は紫なる者、或は紫白相間る者、頗る多し、此よりして後、信濃・上野・飛騨等の山中、石英を取ることを知れるは、將翁より始まる、於戲(ああ)覆載の中、何物か有らざらん、人其知るべからざるを患ふるのみ、嘗て謂ふ、美玉明珠、孔翠犀象、豈に之を曩世に生じて、獨り今世に無からんや、天地の道、生々して息まず、惟求むると求めざるとに在るのみ、
將翁、顔貌奇偉、人一見して其凡に非ざるを知る、昂然として常に自ら經濟有用の學を以て、己が任と爲す、當時有名の士、青木昆陽・田中丘隅等、本草の疑義を質問す、
將翁、巧思多智、我土未だ嘗て有らざるの事を創造す、甘庶(*甘蔗)を種ゑて砂糖を作り、■(艸冠/丸:::大漢和30663)蘭を以て弓弦と爲し、朱地佐を採て蝋■(虫偏+蜀:::大漢和33703)に代へ、天蠶絲を製して釣緡と爲すの類、今に至るまで永世の資と爲し、均しく是れ後人遵守製造の端を爲す、關の東西、異同沿革を其間に有すと雖も、製造の法は、廢棄するを得ず、眞に絶世の才、獨剏の識あるに非ざれば、何ぞ能く此に及ばんや、
相模大山神祠、舊と大山祇尊の靈を祭る、呼んで大山と曰ふ、而して未だ其の原始する所を詳にせず、中世以降、僧侶據住し、不動明王の祠を建つ、所謂奧不動堂・前不動堂是れなり、遠邇不逞の徒、必ず盛夏を以て山に登り、此祠に賽祭す、毎年六月廿七日より、七月十七日に至る、其他此に詣づるを許さず、香花の盛なる、關東に冠たり、一大刹あり、八大院と曰ふ、眞言教を崇奉し、支院十有八・巫■(血+巫:::大漢和に無し)(*「网/巫」〈76047〉か。)百五十戸・道士十五戸、居を山麓に占め、本院に隸屬し、盡く祈祷齋供の事を掌る、山門・谿廊・鐘樓・殿廡、金碧輝煌、富貴繁榮、勝げて言ふべからず、享保中、住持僧良海といふ者、將翁と善し、翁嘗て暑を此に避く、逗留數日、談、開山何れの年に在るかに及ぶ、良海曰く、傳へて言ふ、文武天皇慶雲二年、奈良東大寺の別當、僧正良辨といふ者、其相模國大住郡由井里に生れ、桑梓の地に當るを以て、靈場の域を相擇んで、山を此に開き、伽藍を草創す、今の奧不動堂是なりと、然りと雖も、歳月悠遠、文獻の徴するなく、以て信を世に取るに足らず、特に山の絶頂に、大山祇尊の社あり、龕中に徑六七寸許の頑石を安置す、稱して神代の物と爲す、未だ其の眞假を知らず(*と)、翁之を觀んことを請ふ、良海、翁をして龕を啓きて之を縦鑒せしむ、翁曰く、是れ石に似て石に非ず、玉に似て玉に非ず、堅質■(黒+參:::大漢和48189)色、所謂鮓答といふ物なり、海外の人言ふ、此の物能く雨を致す、故に以て旱に備ふべしと、良海の曰く、今茲■(日偏+漢の旁:::大漢和14138)旱業に已に此の如し、盍ぞ之を試みざると、翁、齋戒すること三日、山中に瀑泉あり、土人呼んで二重の瀧と曰ふ、翁、鮓答を網結して、之を二重瀧の深潭中に縋下す、俄頃の間、山嶽震動し、天黒く雲作り、雨降ること三日、溝■(三水+會:::大漢和18405)皆盈つ、關東の諸州沛澤尤も洽く、農民鼓舞抃喜す、其事一時に傳播し、都令大岡忠相、其状を具上す、特に褒詞あり、官大に翁の博物を感じ、銀錠若干を賞賜す、是より後、別に小祠を營み、鮓答を封■(厂/昔:::大漢和2961)し、石尊大權現と曰ふ、大山を改めて雨降山と曰ふ、〔按ずるに、鮓答の名、始めて元人楊■(玉偏+禹:::大漢和21095)の山居新話・陶九成の輟耕録に見ゆ、而後文字一ならず、明の沈周の座客新聞に、赭丹に作り、田藝衡の留青日札に、鮓單に作り、清の七十一西域聞見録に、箚答に作る、譯語定字なきのみ、竝に言ふ、牛馬の腹中に生ず、癖石能く膈噎翻胃を治し、亦念呪祈祷すれば、風雨を致すべしと、我土の人呼んで苛伊瑳拉拔沙剌と曰ふ者、蓋し帝亞國の所謂百鐸羅■(弊の「廾」を「弓」に:::大漢和に無し)族亞爾の轉聲にして、皆此と同じく之を獸腹の中に獲る者なり、物類の理、往々誣ゆべからざる者あり、牛黄・狗寶・羊卵等の物、皆腹中の産する所、效驗極めて多し、楊愼外庵の外集・方以智の物理小識・來集之の■(人偏+尚:しょう・とう:忽ち止む・自失:大漢和774)湖樵書・□□□(*三字欠)の八荒譯史・方觀承の松漢草等の諸書、皆之に論及す、近時我土の先輩、劉桂山(*多紀元簡)の醫■(月+卷の頭/貝:::大漢和36878)・大槻盤水(*大槻磐水)の蘭■(田+宛:::大漢和21894)摘芳の二書、詳に之を言ふ、就て見るべし、〕
享保丁未の四月、新に俸二百苞を賜ふ、蓋し本草學に功あるを以てなり、又宅地三百區を本所相生街第二坊に賜ふ、之に久しうして、官、藥圃を城東三十間溝に闢き、諸の藥材を種藝し、將翁をして其事を監せしむ、翁沒するの後、門人田村元雄をして之に代らしむ、明和中、圃を小石川に移す、今の所謂御藥園是なり、〔享保十八年癸丑刻する所の江戸畫圖に、御藥畑なる者を載す、日本橋の南、通街第四坊に在り、今の中橋窪溜の地、是なり、所謂人參圃なる者、蓋し其最初朝鮮人參の種を此に植ゑたるを以てなり、未だ知らず、三十間溝といふものを、今木挽街と銀座との間に在り、素より中橋の窪溜に非ず、姑く墓誌言ふ所に從ひ焉を記す、〕
將翁、上書して人參を種植し、以て民用に備ふるを言ふ、蓋し我土未だ嘗て之を培養するを知らず、遠く諸を海外に求む、其價最も高くして、民庶容易に之を服用するを得ず、惟良藥たるを知るのみ、是より先き、野語あり曰く、人■(艸冠/浸:::大漢和59898)湯を飮めば、獨り咽吭を縊ると、官命じて其種及び苗を朝鮮に取り、翁をして之を藥圃に植ゑしむ、翁心を盡し、思を致し、之が培養を成す、而して花實を著け、遂に能く繁生して、悉く世用を作す、後、諸州に分移して、亦海内に遍し、坊間に所謂御種人參といふ者是なり、啻に今に至り闔國其惠を受け、藥餌に服するのみならず、此を以て海外に互市す、海外の人、之を稱して洋參と曰ひ、永く我土の利益と爲る、
享保壬子の歳、關西の諸州饑荒す、將翁避穀の方を作り、自ら之を試用し、粒食せざるもの七日にして、動止平生に異ならず、遂に之を官に言ふ、官、縣令諸司等に命じて之を施行す、衆庶是に頼て餒を免るゝ者數萬人、其方に云く、黄耆・赤石・脂龍骨〔各三箋〕・防風・烏頭〔各一箋炮〕、石臼の内に於て擣くこと千許り、蜜と煉り、丸めて彈子の如くし、十粒以て一日の糧に充つと云ふ、〔按ずるに、將翁避穀の方三あり、其施用する所の者、蓋し救荒本草に本づく、向きに曾孫享父、救歉擧要二卷を著して刊行す、余之が序を爲り、詳に之に言及す、〕
將翁、數〃深山幽谷に入り、藥材を採■(手偏+頡:けつ・けち:採る・採取する・挟む:大漢和12900)す、必ず數日の糧を以て從ふ、霜宿風止、寒暑を厭はず、積年の捜獲する所、極めて多し、都令大岡忠相、之を朝に薦むるに及びて、始めて旨を奉じ、其の乞ふ所に任せ、其費用を優し、其資を給賜す、是に於て東探西索、其欲する所を盡す、遂に採藥使記・採藥筆記の著あり、青木昆陽、採藥筆記の序を作りて云く、夫れ人の得失や、之を其守る所に徴す、用舍や、之を其操る所に驗す、余の人を論ずる、常に持して以て法と爲す、而して少しも違はず、嘗て聞く、都下神田に阿部將翁軒先生といふ者ありと、家世々奧の南部の人なり、蚤に醫に隱れ、少壯にして遊を好み、天下に遍し、耳順の後、鞍を此に卸し、口を方技に餬す、多く鳥獸草木の名を識る、其人敦篤質實にして、絶えて浮華の氣なし、志を民彜有用の學に留めて、農桑・樹藝・物産・培殖の説を講習す、都尹大岡君、屡〃其人と爲りを稱し、以て河村瑞賢の亞流と爲す、瑞賢は漕運の功を以て、名を明時に策して、先づ拔擢を蒙り、先生は博物の聲を以て跡を今世に顯し、既に徴用を受く、余君の紹介を以て、初て先生に謁し、深く其操を守るの堅確なるに服す、先生知命の後、關西に漫遊し、熊本に寓すること三年、熊本侯、將に月俸廿人糧を賜ひて、以て門客と爲さんとす、薩摩侯、近く壤を接するを以て、時々先生を延いて、本草學を質問す、又將に卅人糧を賜ひて、以て賓師と爲さんとす、優待甚だ渥し、熊本侯之を聞き、卅人糧を加へ、留めて以て醫員と爲さんと欲す、薩摩侯、亦之を聞きて招致し、五百石の采地を以て、其藩制の中士と爲す、兩侯相互に競うて已まず、先生兩ら皆之を辭して、去つて長崎に之く、窮迫殊に甚し、敢て守操を易へず、學辱を度外に置き、專ら名物を講習するを以て、己が任と爲す、後、復た東の方此に到る、而して世に希ひ、容れられんことを取るの意なし、頃ろ其著す所の採藥筆記十卷を出して示さる、謂つて曰く、物産の學は本邦猶ほ未だ闡けず、之に從事する者は、徒に紙上の空論を信じて、頼て依據と爲し、之を實際目撃の上に求むることを知らず、故に余は細大ともに驗を此に取り、眞僞は徴を彼に試み、而して其確信著明なる者を得て、品類を研覈せんと欲す、毫も一言を修飾して、其辨説を爲す者にあらず、本邦物産の一事に於ては、未だ曾て後學に裨益なくんばあらざるなりと、其言深切諄々として已まず、余受けて之を讀む、未だ物産の説を學ばずと雖も、抑も亦奉じて之を崇ばずんばあるべからず、然らば則ち啻に遐陬遠鄙の人、斯學に於て、因つて其嚮ふ所を知るのみにあらず、以て我土産殖の多きこと、海外の諸國に讓らざるを知るに足れり、余其見る所を抒べてこれに敍す、享保二十年乙卯春二月、後學青木敦書す(*と)、
將翁、藥を諸州に採り、人跡未だ通ぜざる所、險として屆らざるはなし、數年の久しき、茲に未だ脚を失はず、嘗て飛騨の横漆山中に到る、途旅亭を出で、小しく亭側に憩ふ、一板橋あり、谿に臨み地を去ること數丈、橋柱腐摧し、弟子二人、曁び僕一人殞墜す、土人之を救ひて、之を攀縁することを得、其齎粉せざる者、谿底盡く泥沙なればなり、翁屡〃語つて云く、始めて山に躓かずして垤に躓くを知る、處世の憂、毎に輕忽する所に生ずと、
將翁、物産の學を此に唱へてより、田村藍水〔名は登、字は元雄、陸奧南部の人なり〕・後藤桐庵〔名は光生、字は梨春、江戸の人なり〕・平賀鳩溪〔名は國倫、字は士彜、讚岐の人なり、後に見ゆ〕・太田大洲〔名は澄元、字は子通、上總の人なり〕・内田南山〔名は士顯、字は長卿、丹波の人なり〕・宇槐園〔名は晉、字は明卿、江戸の人なり〕等の若き、皆世に名あり、之を繼述する者、今に至るまで絶えず、
將翁、文學の富贍は、若水(*稲生若水)に及ばずと雖も、其我土の品物を平章するに於ては、盡く之を實驗に得、心を悉し精を極め、復た遺■(糸偏+褞の旁:うん・おん:くず麻・古いきぬ綿:大漢和27757)なし、諸を載籍に訪捜し、良毒を區別して後、其是非を辨じ、其眞僞を決する者に比すれば、同日にして言ふべからず、然れども其人、成書の世に刊行するなく、讀書種子、其物産に功あるを知らざる者多し、洵に以て惜むべし、
獵者熊膽を取り、赫日に之を乾かす、昔より此の如し、巧欺の人は、一膽を獲る毎に、盛るに猪鹿の膽胞を以てし、雜うるに他物を以てす、一膽にして五膽の利を得、其形状香臭、以て眞を亂るに足れり、將翁、嘗て謂ふ、熊膽は宜しく諸を懷中に置いて、氣を以て之を温むべく、久しうして之を視て柔軟なる者は眞なり、堅實なる者は僞なりと、此言、宋の王得臣が塵史に載する所、麝臍を試むるの説と吻合す、平賀鳩溪曰く、阿部翁の此學に於ける、世醫の僞謬を訂正し、藥鋪の贋誣を明晰にすること、實に翁より始まる、故に之に從事する者、其遺説を奉ぜざるを得ずと、
將翁、寶暦三年癸酉正月廿六日、神田三河街の宅に沒す、享歳一百四なり、實に上壽と謂ふべし、著す所、本草綱目類考百廿卷・本草徴義十五卷・採藥筆記十卷・採藥使記・將翁軒隨筆・同續筆各二卷・眞僞諸藥考廿卷・三百種考・藥性要覽・藥性表擇記各三卷・人參耕作記・七十二候辨・人參辨正・大雅之論・硫黄盃考・柳岡雜記・精神考各一卷、其餘雜著・叢録・未定稿本數十卷あり、其孫□(*一字欠)任の時に至り、往々散逸し、其の在る所を知らず、世に其遺稿を知りて、重價之を購ふ者あり、近時余が見る所數種あり、此學に志ある者は、宜しく眼を着けて、之を捜索すべし、
將翁、郷に妻子あり、漂泊の後、羇旅多年、妻妾を置かず、晩暮妾を畜ふ、是任を生む、是任、□(*一字欠)任を生む、是任早く歿す、是任幼にして孤、長じて醫を以て業と爲し、喜任、字は享文を生む、櫟齋と號す、善く家學を繼ぐ、亦余に從つて學ぶ、
先哲叢談續編卷之四終