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細井廣澤、名は知愼、字は公謹、廣澤と號す、思貽齋、蕉林菴、玉川、奇勝堂皆別號なり、通稱は次郎太夫、遠江の人、河越侯に仕へ、後幕府に給仕す
廣澤の系は源右府頼朝の庶弟八田四郎知家より出づ、知家小田知常に養はれて其氏を冒す、小田は所謂關東の藤氏八家の一にして、鎭守府將軍秀郷の後なり、知家武功を以て建久年間の武者所〔武人を支配する頭役〕たり、故に廣澤が用ふる所の圖章〔印章〕に、建久朝の武者所裔印といへるあり、數世の祖細井左衞門尉と稱する者あり、室町將軍に給仕して、嵯峨廣澤の邑を領せり、今洛外〔京都の郊外〕に細井小路と稱するものあり、蓋し其の先世の居る所なり、其子小左衞門織田右府に仕へ、明智光秀が麾下〔旗本〕の將たり、後之に黨し、遂に其徒と與に山崎に戰死す、豐太閤兵馬の權〔軍事の權〕を執るに及び、光秀の餘黨を捜索(*原文ルビ「さうさ」は一字脱。)する〔尋ねサガス〕こと尤も嚴なり、小左衞門の二子長僅に三歳、其臣某に依りて加茂に隱る、次は二歳母氏に頼(よ)り、竟に辻氏と改む、廣澤が父玄佐に至るまで、四世辻氏を稱す、玄佐懸川侯に仕へ、某氏を娶りて二子を生む、長は知順字は公從、芝山と號す、通稱は甚藏、始めて細井氏に復す、季は廣澤、萬治戊戌の歳を以て、懸川城舍に生る、後年侯封を播磨に移し、又下野の古河に遷る〔轉〕、玄佐之に從ふ、寛文八年戊申廣澤年十一にして、父に從ひ江戸に來り、阪井漸軒に從ひて書を學ぶ
廣澤年十五より二十まで、土州の人都筑道乙と與に漸軒翁に學ぶ、漸軒歿する後、北島雪山江戸に遊び、道乙と善し、甞て廣澤が書する所の歸去來辭〔陶淵明の作〕の行書を觀て、其筆才あるを知り、明の兪氏立徳より授かる所の撥■(足偏+登:とう:よろめく・踏む・登る:大漢和37854)(はつたう)法を廣澤に授く、立徳字は君成、南湖と號す、抗州の人なり、思宗の崇禎〔明の年號〕癸未、始めて長崎に遊ぶ、是より以降屡往來し、前後雪山が旅舍に客たる凡そ三次、其文衡山より四傳する所の筆法(ひつはふ)を以て、之を雪山に授くと云ふ、雪山始め書を西湖の戴曼公に學び、立徳が法を得て盡く舊習〔從來學ぶ所〕を棄つ、衡山の子嗣、字は休承、文水と號す、父の書法を以て之を其子嘉、字は啓美、號茂園に傳へ、嘉之を其門人北燕の余梁、字は棟材、號松舍に傳へ、梁之を立徳に傳へたるなり、故に廣澤の書法は原(も)と傳來(*原文「傅來」は誤植。)あること既に久し
廣澤甞て房州に遊び、諸名勝を觀る、或■(糸偏+兼:けん:かとり絹〈書画用の素絹〉・ふたこ絹・生絹:大漢和27750)素(けんそ)〔書畫用の白絹〕一百幅を持し、來りて字を書せんことを請ふ、蓋し其人貪欲にして長者を敬することを知らず、若し請に應ぜば、之を鬻賣(いくばい−ママ)〔賣却〕して其利を得るに在り、廣澤先づ之が意を試むれども、之を拒むの色なく、五十幅を書盡して之に與ふ
寶永中妙法院親王東江戸に行き、廣澤が書を愛す、廣澤甞て教に〔王命〕應じて「焚香聽雨」の四字を書す、王以て扁額となし、後之を仙洞(せんどう−ママ)御所〔上皇の宮居〕に奉ず、叡感の餘、又内旨あり、「惟南献壽」の四字を書せしが、大に旨に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)(かな)〔適〕ふ、院參桑原宰相執達(しつたつ)〔取扱ひ下さる〕の勘文(かんもん)〔公文〕を賜ふ、其牘(どく−ママ)中、「字樣奇勝叡感不斜(なゝめならず−ママ)」の語あり、是より後奇勝を以て其堂に名く
元禄中河越侯吉保儒術を崇尚し〔タツトブ〕、文學の徒を愛し、諸名士を招延す、時に侯閣老たり、權貴戚を傾け、勢ひ朝野に振ふ、是より先き廣澤新井白石、服霞洲と倶に、屡甲府〔六代家宣將軍の潜邸〕の徴(めし)に應じ、其邸に曳裾(えいきよ)す、侯廣澤が人となり、啻に經義に通ずるのみならず、又書法に精しきを聞き、其師阪井伯元をして之を招がしむ、廣澤辭するに、既に甲府の徴に應ずるを以てす、侯謂く甲府は宗室〔徳川家の親屬〕の貴を以て班(はん)〔位格〕親藩群諸侯の上に在りと雖も、固より海内の政柄を料理する所なし、吾不肖なりと雖も、大任を荷ひ、王事に勤勞し、躬閣老に在りて朝政を謀謨(ばうぼ)す、一士を得て得失を議するも、孤忠を盡さんが爲めなり、敢て吾が私用となさずと、遂に人をして固く廣澤を甲府に請ひ、以て儒官となし、禄二百石を與ふ、時に年三十六
廣澤河越に仕ふること二年、進んで鐵砲隊長〔物頭にて足輕組長〕となる、歩卒二十人、之を領下に屬す、兼ね(*1字衍。)て海内の神社佛閣の條制を勘合する事を掌らしむ、廣澤其舊貫班格〔格式〕、該管隷屬等の故を知り、甞て歎ずらく、保元以降六百年、累帝の諸陵屡兵燹(へいせん)〔戰爭の火災〕を經て、其所在を失ひ、既に那處(なしよ)なるかを知らざるもの二十五ありと、之を侯に告げ、建議して古史紀傳の録する所に據り、其知るべからざるものを捜索し、其皆所在を得たり、而して後其屋宇を修葺(しうしよ−ママ)〔修繕〕し、或は石垣を築(きつ−ママ)く、三年にして諸陵全く成れり、實に繼廢〔スタレたるを繼ぐ〕興絶〔亡びたるを起す〕と謂ふべし、當時諸臣に命じて歴代諸陵修垣(しゆえん−ママ)實記五十卷を修撰せしむ、其事皆廣澤の建議する所に本(もとつ−ママ)くと云ふ
廣澤始め菊叢と號し、通稱は辻辨菴、馬喰街に僑居し、講説して業となす、歳三十の後細井氏に改む、寶永丙戌の春、新井白石五十の賀あり、廣澤壽詩を贈る、白石其作に和し、「呉門姓ヲ變ズ身何ノ隱ゾ、燕布酣歌調自ラ同シ(*呉門變姓身何隱、燕布酣歌調自同)」の句あり、蓋し其氏を改むるの事實を記するなり
周興嗣が千字文に「律召陽ヲ調シ、閏餘歳ヲ成ス(*律召調陽、閏餘成歳)」とあるは對偶を以て言ふ、然るに知永誤りて律呂調陽と書してより、唐宋の諸家皆沿襲(えんそう−ママ)し〔繼續之に從ふ〕、原(も)と對偶なるを知らず、廣澤十九にして律呂閏餘の對せざるを疑ひ、之を雪山に問ふ、謂く呂當に召に作るべしと、雪山以て知言となす、後戯鴻堂法帖を閲するに、其中呂を召に作れるものあり、雪山益其暗合〔彼此相知らず偶然符合す〕を奇とす
正保年間平安の書賈始めて墨帖(ぼくてう−ママ)を刻す、然も所謂左版なるものにして、未だ正面版なるものあるを知らず、臨摸(*原文「摸」の異体字を使う。)雙鉤(りんぼさうかう−ママ)〔原書を寫取す〕より鏤刊打摺(ろうかんだしう)〔彫刻版を摺ること〕に至るまで、其法を得ざれば製造甚だ■(鹿三つ:そ:離れる・粗い・大きい:大漢和47714)(そ)〔粗〕なり、貞享中廣澤、榊原篁洲、今井順齋と相謀り、始めて其法を製して之を世人に教ゆ、蓋し皆海外墨池家〔書家〕が書論の説に從ふなり、而して後蝉(ぜん−ママ)翼烏金等の製盡く出づ、今世に至り、其製に精しき韓大年、源文龍の輩專ら能く之を爲す、其實皆廣澤より始まる
廣澤甞て觀蓮精舍(しやうしや−ママ)(三縁山中に在り)に於て、一僧の爲めに藥師堂の三大字を書す、後其僧工をして之を扁額に刻鏤し、諸を其寺門に掲ぐ、廣澤往いて之を觀るに、已に書すと雖も、甚だ意に滿たず、而して釘既に畢り〔既に額を打附けたること〕、之を如何ともする能はず、是より以降其前を過ぐる毎に、必ず目を閉ぢて見ず
廣澤平生蕎麥(きやうばく)麪(*原文「麥+面」に作る。)を嗜(たし−ママ)〔好〕む、一月三十日の中、二十日は必ず河漏(かろう)を喫す、書を需むる者之を知り、必ず蕎麥粉を以て、之が贈(ぞう)をなす
廣澤河越侯の邸中に在るの時、神田三河街失火す、侯の邸神田橋門内に在り、相去ること至つて近し、東風飄■(風+昜:よう:揚げる・揚がる:大漢和43909)(べうやう−ママ)し〔強く吹く〕、侯の邸將に炎焔(えんえん)延及せんとす、廣澤公署〔役所〕に在りて、其舍に還るに遑あらず、屬士四五人其家具を運出して、火を免れんと欲す、疾く至つて其書齋に入り、一の擔厨(たんちう)〔箪笥〕を荷ふ、廣濶三四尺ばかり、其重きこと數十百斤、皆謂く是れ金錢及び■(金偏+果:か:小粒・丁銀:大漢和40514)(くわ)子〔小粒の貨幣〕ならん、若かず他の器財を措きて、特に此物を以て免れんにはと、遂に負荷して去る、誤りて厨角を毀てば、抽斗(ちうと)〔引出〕の中皆大小鉛子(えんし)及び鐵落のみ
河越侯の異種同母の弟故あり薙髪して清巖法師と曰ふ、其人頗る明敏にして台宗の學に精し、侯加封萬石に至るに及び、其同胞たるの故を以て、清巖を濱街の別墅〔下屋敷〕に居らしめ、資養甚だ厚く、富諸公子〔侯の實子〕と■(人偏+牟:ぼう:等しい:大漢和597)(ひと)し、既に釋に歸すと雖も、又韜略に精く、演武の士を招延し、其藝を温習す、且つ廣澤が男知業(通稱源五右衞門)及び大内新助を愛す、新助は周防の人右京太夫義弘の裔、射術〔弓術〕を以て時に名あり、都下の士從ひて其技を學ぶ者衆し、群諸侯の邸に出入し、高貴に附和し、薦引〔推擧〕をなすと稱し、朝士を■(言偏+匡:きょう・ごう:偽言・欺く:大漢和35473)賺(きやうけん)〔欺騙〕して賄賂を収め、家千金を致し、其驕奢を極む、羶行〔汚行〕貪欲至らざる所なし、而も河越侯親昵〔熟懇〕の臣なるを以て、人之に依頼し、其便計の爲めに誘はるゝを知らず、且つ其性格高くて桀黠(けつかつ−ママ)〔ワルカシコキ〕の人に似ず、之に加ふるに著姓〔顯達の家柄〕名家の冑(ちう)なるを以てす、其崇尚せらるゝこと亦他に異なり、廣澤獨り能く其姦を知るも、殊に其君の寵遇厚きを以て、一言も發し難く、躊躇すること數年、或時窃に之を告ぐ、侯大に驚き、有司をして其罪を覆檢せ〔更に取調ぶ〕しめ、而後之を河越に護送し、囹圄に幽せんとす、廣澤侯の命を受けて其事を董督し、歩卒數十人と之を護して河越に來る、祇役〔公務公用〕既に畢り、將に江戸に歸らんとす、前日新助監卒が守備に倦怠せるを窺ひ、清室の木格を破毀して出づ、監卒將に之を拘収せんとす、其■(足偏+喬:きょう:足を高く上げる:大漢和37887)(*原文「矯」とあるのを頭注により改める。)■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)(きやうしやう)〔スバヤキこと〕■(手偏+爭:そう・しょう:取りひしぐ:大漢和12265)扎(さうさつ)〔抗爭〕、邀截(えうせつ)〔遮止〕すべからず、新助竟に監卒が佩ぶる所の刀を奪ひ、死力を盡して數人と鬪ふ、疵傷を被る者多し、廣澤喫飯半にして清室の騒擾を聞き、直に側に在る算盤を持し、遽に其所に入る、新助白刄(はくじゆん−ママ)を振ひて之を逆(むか)ふ、廣澤算盤を以て新助が眉梢〔眉端〕を撃つ、血流れて眼澁る、監卒左右より其手足を牽き、遂に之を繋縛するを得たり、是時廣澤微〔無〕りせば殆ど之を得べからず
廣澤故ありて禄を辭す、河越侯謂つて曰く、子が我を知りてより殆ど十年、我の子を遇する薄しとせず、而して不幸此の如きに至る、國に典刑〔法度〕あり、以て公儀を破るべからず、然りと雖も、我豈に子を捨てんやと、毎歳金五十兩を贈りて其費に給す、佐倉侯正通(稻葉丹後守)又廣澤と善し、毎歳竊に米二十苞、醤油十樽、金四十兩を贈る、其厚遇せらるゝこと此の如し
廣澤河越に仕ふる時、權家(けんか)の臣たるを以て、諸侯及び在朝の士人、玉帛皮幣〔贈物〕、家に絶えず、而して其禄を辭するに及び、家財を以て族人に付與し、僅に恩賜の紗綾(しやりやう)二卷、■(糸偏+芻:しゅう・しゅ・すう・そう:縮み・縮んだ綾:大漢和27747)緬(ちりめん)二卷を綵帛舗(さいはくほ)〔呉服屋〕に賣り、金八両を得て深川八幡の鳥居前に僑居す
廣澤藩を去るの時に當り、兄知順既に歿し、其嫂(さう)廣澤が家に寄寓す、甞て仕を諸侯の夫人〔奥方、所謂奥勤〕に求む、將に仙臺の宮中に官せんとす、其調度〔衣服其他の支度〕資給する所、四十金にあらざれば、其費を辨ずる能はず、廣澤曰く、窮乏の中、四十金は殆ど辨ずべからざるに似たり、而も仙臺は當今の大藩なり、再び官せんとするも、其機會〔好き折〕を得るにあらざれば、復た得べからずと、遂に書を善き所の友人數家に移(しつ−ママ)して、金若干(じやくかん−ママ)を借り、又書數百卷を典却し〔質に入る〕、遂に四十金を得て嫂の宿志〔年來の希望〕を成す
廣澤致仕してより後、官途に意なく、諸侯之を聘すれども辭して應ぜず、教授の暇墨池〔揮毫〕を以て樂(たのしみ)となす、世人是より目するに書家を以てす、故に其經義詞藻、皆書名に掩はる〔隱れる、蔭になる〕、而して廣澤之を較(*原文ルビ「たくら」は誤植。)べず〔頓着せざること〕、當時有名の士平林静齋、關鳳岡、三井龍湖、飯田百川、葛烏石の輩、皆廣澤に從ひて書を學ぶ、能書〔書に巧なること〕の聲、特に今に至るまで海内に喧傳すと云ふ
享保中廣澤の聲價一時に高し、姦商の輩其印を贋造し、其名を僞書し、之を市中に鬻ぎて暴(にわか−ママ)〔急〕に富を致すに至る、廣澤の筆蹟既に當時に在りても、僞物極めて多し、其貴重せらるゝの盛なる、實に我邦に未だ曾て有らざる所なり
雪山甞て浮屠某の需に應じて、阿彌陀經を書す、半にして事故あり、俄に西に歸る、某其餘を以て之を補書せ〔書足す〕んことを請ふ、廣澤諾して之を續書す、其聯繼する所〔ツギ目〕、人之を辨識する能はず、後雪山復た江戸に來る、廣澤之を示す、雪山之を觀て歎じて曰く、吾趙魏公たる能はずして、子は已に仲穆たりと
葛烏石書を廣澤に學び、青藍〔師に勝る〕の名あり、甞て文衡山が七絶詩數首を模書し〔眞似る〕、僞りて衡山が眞蹟と稱し、其裝■(三水+黄:こう・おう:紙を染める:大漢和18251)(さうくわう)〔表裝〕を古色にし、之を一諸侯に賣る、侯鑒定を廣澤に求む、廣澤之を閲するに、墨彩勁搖、裝表絹紙(けんし)の古雅なる、衡山に髣髴(はうほつ−ママ)たる〔似通へる〕を以て、認めて眞となす、侯甚だ之を珍重す、其後數十日、烏石故を告ぐ、廣澤僞巧を以て人を欺くを戒めず、又鑒識〔眞僞を見分ける〕の至らざるを恥ぢず、自若として曰く、蕭誠己が書を以て古帖となし、李北海を欺く、北海其眞贋を識別する能はず、今猶古の如くなるかと、笑つて止まず
享保中參政〔若年寄〕烏山侯常春(大久保佐渡守)廣澤に謂つて曰く、青山百人隊騎士〔與力〕に闕班(けつは−ママ)〔缺員〕あり、吾爾を以て之に補せんとす、爾之を欲するや否やと、廣澤曰く、敢て請はざるのみ、若し命あらば卒伍と雖も、辭すべからず、臣より之を請ふは二千石と雖も、臣が志にあらずと、常春其言に感じ、之を幕府に奏し、擢んでゝ百人隊の騎士となし、特に命じて城門の宿直を免じ、日に參政府署に詣(いた)り、慶長以來條制〔法規〕の事を編修せしむ、又旨を奉じて奇文不載酒四十三卷を著述して之を上る、旨あり之を紅葉山の秘府〔書物倉〕に藏むと云ふ
享保乙亥の冬特命朝鮮國の返翰を書し、御印を篆刻〔彫刻〕せしめらる、賞して白銀二十枚を賜ふ、時に河原半右衞門といふ者あり、金裝の短刀一把を持し來りて曰く、此刀は某侯の藏する所、其臣某之を拜賜〔拜戴〕す、今貧窮に因りて之を賣らんと欲す、先生之を買はんかと、廣澤之を觀るに、其龜文漫理〔燒刄のミダレ〕、眞に名刀なり、遂に賜(*原文ルビ「また」は誤植。)ふ所の銀を出して之を購得〔買収〕す、後半右衞門廣澤が不在を窺ひ、來りて室〔妻〕某氏に謂つて曰く、請ふ一日之を借らんと、持去りて數日返さず、某氏自ら名器を人に假して再び返らざるを悔ゐ、半右衞門を面折し〔直接面會して詰責す〕て之を責めんと請ふ、廣澤曰く、名器は再び得べし、交誼は再び得べからずと、竟に之を吝む色なし
廣澤資性篤實温厚にして嶄絶(ざんぜつ)〔高く抽出でたる貌〕峭特(せうとく)〔ケワ(*ママ)シクスルドキ〕の行をなさず、而して其強識敏疾は平生に似ず、衆技を博綜す、書畫は其尤も好む所にして、既に世の知る所なり、和歌は清水谷實業(さねなり)卿に學び、兵學は越後派杢源右衞門、撃剱は堀内源太左衞門、拳法(けんはふ)〔柔術〕は澁川伴五郎、槍術は南部寶藏院、射藝は石堂竹林齋、騎法は大坪道雲、天官測量は金子立雲、皆數家に従ひて其奥秘を極む、就中射藝測量、尤も自ら以て得意となす
諸州の府尹〔代官〕が地境を按部〔巡廻■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)察〕し、山河を巡計するの法は廣澤が創剏(さう\/)する〔始める〕所なりと云ふ、寛永中幕府勘官に命じて、上總下總を按部し、其収税の額を審覈(しんかく)〔取調〕せしむ、三年にして卒(おは)らず、遂に之を罷む、享保新政の時、再び命あり、上總下總安房三州の府尹小宮山昌世、上野下野常陸三州の府尹石川政倫をして佐倉小金二曠野を檢視し、兼ねて六州の廣狭及び土地の肥■(石偏+角:かく:硬い石・痩せ地:大漢和24232)(ひかく)〔地味の好不好〕を計らしむ、二人皆廣澤の執友(*父の友、親友)たり、廣澤に請ひ、倶に其州に至り、地境を按部し、山河を巡計し、幅員を周廻し、二十七日にして監檢全く畢る、乃ち圖を作り二人に依りて之を官に上る、白銀二十枚を賞賜して之を勞せらる〔勞を慰めらる〕、檢地の法今に至るまで各州の府尹之を便とし、皆相襲用すと云ふ
廣澤撃剱を堀源太左衞門に學ぶを以て、赤穗の士堀部武庸(たけつね)と同門たり、情交尤も密なり、武庸は復讐を雜司谷に扶助するの故を以て、其名世に高し〔所謂高田馬場の助太刀〕、其吉良氏の邸を襲ふの先夜に當り、赤穗の遺臣大石良雄等四十六人、皆源太左衞門の家に會す、廣澤武庸の爲めに其奴僕(*原文ルビ「どばく」は誤植。)を避け、獨り離筵〔離別の宴〕に赴き、鷄卵數十箇を齎す、良雄は樓上に在り、武庸及び其他の士五人廣澤と盃を傾けて酣暢(かんちやう)す〔愉快を極む〕、武庸廣澤が贈る所の鷄卵を取りて、之を破碎して曰く、明夜敵讐(てきしう)を破碎すること、亦此の如くならん(*と)、廣澤其言を壯なりとす、武庸往事を追思〔懷起〕し、慷慨激昂し、傍に人なきが如し、廣澤一絶を口吟して曰く
結髪奇士爲リ(*原文「奇爲リ士」)、千金那ゾ言フニ足ラン、離別情盡ル無シ、膽心一劍存ス(*結髪爲奇士、千金那足言、離別情無盡、膽心一劍存)武庸涙(なんだ)下る數行(すかう−ママ)〔幾條なり〕、交誼の厚きを謝す、廣澤も亦涙を揮〔拂〕ひ、互に慇懃を致して別る
南南山、名は景衡、字は思聰、南山と號し、又環翠園と號す、南部氏自ら修めて南となす、通稱は昌輔、長崎の人、富山侯に仕ふ
南山の先は豐後大友氏の庶族なり、世々州の小野城を守る、因りて地を以て氏となす、天正中兵庫助宗豐といふ者あり、毛利氏の爲めに殺され、其采地〔領地〕を失ふ、子孫下りて庶人となり、後長崎に移る、父は昌碩と曰ひ、醫術を以て聞ゆ、昌碩早く死し、其妻も亦改■(酉+焦:しょう:杯を受け、酒を飲み干して返さない・嫁ぐ:大漢和40031)(かいしやう)し〔再び他家へ嫁す〕、南山幼にして怙恃(こし−ママ)〔頼り〕を失ふ、父の執友〔父の友〕小林謙貞之を憐み、其家に養ひて、授くるに四書五經の句讀(くどう−ママ)を以てす、又邑醫(いうい)角長有に從ひて、軒岐の書を學ばしむ、南山此に從事するを屑しとせず、好んで經史を讀み、■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)人黄公溥(*こうふ)、杭人■(木偏+射:しゃ・じゃ:屋根のある台・うてな・内室のない殿舎・道場:大漢和15272)叔且に從ひ、詩文を學ぶ、二子は皆明季の亂を避くる者なり、大に南山の聰(*原文「聽」とする。)慧(さうけい)を奇とすと云ふ
寛文十二年壬子京師の南部艸壽、鎭臺牛込蔭鎭(かげしげ)(時に長崎奉行たり)の徴に應じ、長崎に遊ぶ、此時に當り邑中〔村にあらず長崎市内〕大に學に嚮ふ、始めて先聖の祠(し)〔孔子の廟〕を邑の立山に建て、郷學を設け塾師を立つ、艸壽學政を料理し、其事を董督す〔監理す〕、嘗て南山を見て深く之を器(き)とす、因りて鎭臺に請ひ、之をして弟子員たらしむ、時に南山小野昌八郎と稱す、名始めて邑中に顯はる、是れ延寶丁巳の春にして年二十なり
艸壽字は子壽、陸沈軒と號す、山城の人、其先は越後長尾氏の族なり、平安に講説し、學博く行修まり、醇儒(じゆんじ−ママ)を以て後進〔先輩より云ふ語にて後生に同じ〕に山斗たり、長崎に遊ぶに及び、此に教授すること殆ど八年、某氏を娶りて、新八郎を生む、早く歿す、是に於て南山を養ひて嗣たらしめんとし、之に遇ふこと甚だ渥し、南山其鞠養〔養育〕の厚きに感じ、遂に其姓を冐す
延寶の末艸(*原文「廾」の一の両肩を上げた形の字を用いる。)壽富山侯の聘に應じ、越中に之き、田禄百五十石を受けて儒員となる、猶南山をして長崎に留まらしめ、筑後の安東省菴に從學せしむ、後江戸に來り、木下順菴に師事す〔先生(*「失生」は誤植。)として教を仰ぐ〕、蓋し順菴は省菴と同じく松永昌三に學ぶが故なり、遂に其門に於て十才子の稱あり、南山を以て之が巨擘〔魁〕となす、艸壽歿して南山其禄を襲ひ、富山藩に仕ふ
南紀の祇南海諸友の詩を纂め、題して鍾秀集と曰ふ、卷首に南山を載せて曰く、予諸友に於て最も景慕する所、南々山思聰に若くはなし、卷首に之を冠する〔一番先に置く〕所以なりと、以て南海の宏識絶才にして其景慕の深きを見るべし
南山は博覽洽聞にして最も史學に長ず、世徒に其詞藻に富むを知りて〔詩文の字句華麗なるを知れどの意にて下の學術に對す〕、其學術を知らず、甞て環翠園史論三十卷を著し、諸家の史を評論す、其書未だ全く編を成さずと雖も、蒐羅〔採集にて多くアツメルこと〕詳博、考證精核〔事實の詮索が確實なること〕、亦我邦人が言及ぶべき所にあらず、近世太田錦城加賀に在る時、甞て之を一見すと云ふ
南山年五十一、自ら多病にして生の長(*原文ルビ「な」は一字脱。)からざるを知り、自ら其詩文を刪定し、詩六百九十四首、文四十四篇を選し、題して喚起漫草と曰ひ、世に刊行す、幾くならずして鏤版災に罹り些(しこし−ママ)も留めず
南山正徳二年壬辰(*原文「午辰」は誤植。)三月を以て、富山に之かんとし、途にして驛舍〔旅舍〕に歿す、享年五十五、祇南海が南山を哭する詩に曰く
山川秀ヲ鍾メ崎陽ニ出ツ(*ママ)、天壽僅ニ多シ五十強、人物王ニ非ズバ即チ是レ謝、詩篇宋ヲ超ヘテ獨リ之レ唐、家ニ遺草ヲ藏シテ封禅ヲ愧ツ(*ママ)、名先賢ニ附ク老醉郷、但タ(*ママ)慰ム鳳雛羽翼ヲ成スヲ、英風千載流芳ヲ■(手偏+邑:ゆう:拱く・敬礼する:大漢和12105)ム(*山川鍾秀出崎陽、天壽僅多五十強、人物非王即是謝、詩篇超宋獨之唐、家藏遺草愧封禅、名附先賢老醉郷、但慰鳳雛成羽翼、英風千載■流芳)南山の男景春、字は國華、幼にして頴悟〔サトクカシコイ〕、詩及び書畫を善くす、年十三父に從ひて江戸に來り、甞て東天臺に登る五言古風二百句を賦す、其詩世に傳播し〔弘まる〕、人口に膾炙す、年十八にして父を喪ひ、其禄を襲ふ、寵遇優渥にして秩〔秩禄と熟し知行俸給〕を加へ、二百石に至る、後數年母を喪ひ、幾もなく次弟も亦歿す、憂艱〔悲哀〕に堪へず、享保二年丁酉四月を以て歿す、年僅に二十三、人皆焉を惜む
中野■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙、名は繼善、字は完翁、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙と號す、通稱は善助、長崎の人、關宿侯に仕ふ
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙の母は大原氏、林道榮の妻と兄弟たり、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙幼にして父を喪ひ、母と同じく道榮が家に寓す、道榮の之を視る從子〔養子〕の如し、自ら之に句讀を授け、又之に書法を教ゆ、必ず躬ら之に先(さきだ)つ、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙も亦善く之に師事す、七八歳にして誦讀既に遍く〔行渡るの意〕、時々道榮に代りて四書小學等を講ず、其談論殆ど老成の人の如し、聞く者之を奇とす
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙十二三歳にして尤も書を善くす、而して草隸〔草書と隷書〕(*原文頭注「隸」の「木」を「匕」に作る。)に巧なり、人其書を求むる者頗る多く、林氏の神童と呼んで敢て名いはず
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙十九にして始めて江戸に遊び、廣く諸名士に交はる、經術を好み、程朱の學を修む、時に篠山侯典信(松平駿河守)引見して其才を奇とし、之に月俸を給して衣食に供(きう−ママ)し、益其業を修めしむ、是に於て神田雉子街に僑居〔寄寓〕し、教授して業となす、後關宿侯成貞(牧野備後守)執政〔閣老〕たり、辟(め)して書記を掌(つかさど)らしむ、時に天和四年丁卯三月なり
元禄中常憲大君屡關宿侯の邸に臨み、■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙を召見し、命じて經を進講せしめらる、人皆之を榮とす、是より諸侯及び貴人の子弟從學する者益衆し、是時下野の安藤東壁、信濃の太宰徳夫皆其門に遊び誨督〔訓導教授〕を受く
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙が太宰春臺を遇すること甚だ渥し、嘗て言ふ吾敢て人を識るの明ありと謂はず、但太宰生を知るは則ち人に讓らずと、春臺亦曰く、若し完翁をして國家を得せしめ〔國政を執らしむの意〕ば、必ず我に六尺の孤〔國を有する者死に臨み其嗣たる幼兒〕を托し、百里の命〔遠方に使節たること〕を寄せんとす、骨肉と雖も、以て之に尚(く−ママ)ふるなしと、終身其人となりに敬服すと云ふ
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙程朱を墨守し、其説を確信し、山鹿素行が宋儒を辨駁(へんはく−ママ)するを指して、以て異端〔孔孟の教に反するもの(、)外道〕の巨魁〔カシラ〕となし、一たび其門に入る者は來りて教を請ふと雖も、峻拒して相容れず、復た貴紳と庶人とを避けず
元禄乙亥關宿侯致仕し、既に老いて大夢と號す、世子封を襲ふ、寛文乙酉封を三河の吉田に移す〔國替〕、時に■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙病と稱して禄を辭し、妻子を携へて平安に移り、生徒に教授す、居る僅に一歳、吉田侯舘舍を捐て〔身分ある人の死をいふ指斥を避くるなり〕世子立つ、尚幼なり、老君大夢菟裘(ときう)〔隱居の故事〕に在りて尚藩政を聽く、再び■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙を聘して優遇し、禄百五十石を與へて火器隊長となし、歩卒三十人を掌らしめ、責むるに職事(しよくじ−ママ)を以てせず、故に又江戸に來りて濱街の邸中に居る
■(手偏+爲:き・い:へりくだる:大漢和12716)謙四世の君に歴仕す〔代々相續き仕ふること〕、凡そ二十有餘年、享保五年庚子七月二十二日を以て歿す、享年五十四、其遺言を以て深川六軒堀要津寺域内の先君大夢の塋側〔墳墓の傍〕に葬る
板復軒、名は九、字は惇叔、復軒と號す、通稱は九右衞門、江戸の人、幕府に仕ふ
復軒の高祖は板倉甲斐守と曰ひ、鎌倉の上杉憲政に仕へて、總州帆邱城主となり、佐渡守清治を生む、是時に當り鎌倉瓦解し〔倒れて離散す〕、憲政越後に奔り、長尾景虎に寄寓す、清治北條氏康に屬し、屡武功あり、豐太閤小田原城を攻むるに及び、其慘毒を恐れ、城を捨てゝ出亡〔遁走〕し、州の大網(*原文「大綱」)の里に隱れ、治眞を生み、治眞三子を生む、時に海内始めて干戈を歛(おさ)め〔平和となること〕、神祖北條氏の諸臣の諸州に流落する〔流浪(、)サマヨフ〕者を招ぐ、三子出で、宗室親藩に仕ふ、其季子正信は則ち復軒の父なり、復軒は正信の第四子なり
復軒年三十にして文昭大君〔六代將軍〕潜邸〔未だ統を繼がず藩邸に在ること〕の時に奉仕す、當時之を甲府殿と稱し、其邸を櫻田御殿と曰ふ、復軒幼より學を好み、業を木下順菴に受け、始めて其薦(すゝめ)を以て侍史〔祐筆〕(*原文頭注「侍毛」は誤植。)となる、後公が宗藩より西城に入るに及び、擢んでられて納府司計〔御勘定方〕となり、幾くもなくして司計曹長〔其組頭〕となり、正徳中三城の宿直長〔御留守番〕となる
復軒嘗て論語を經筵に講じ、季文子三思して而後行ふの章に至り、極めて集註引く所程子圏外〔集註の欄外〕の説を辯ず、一寵臣あり、朱説を回護〔辯護〕(*原文頭注「囘護」とする。)し大に難詰し、意氣を加へて之を屈せんと欲す、復軒色を正しくして(*正して、か。)之に辯對す、其言辭絮々として〔懇切丁寧〕寵臣再び言を發する能はず
復軒業を木門に受くと雖も、室鳩巣、雨芳洲等が程朱に於て、毫も疑(うたがひ)を容れざるが如きにあらず、物徂徠と交はる、一貴紳あり、尤も徂徠を忌諱(きき)す〔イミキラフ〕、時々復軒を諷し〔間接に忠告す〕、之と交はることなからしむ、對へて曰く、人心は面の如し〔同じからざるをいふ〕、己が欲せざるを以て、人をして亦欲せざらしめんと欲するかと、益々之と交はり、其子をして業を門下に受けしむ、徂徠も亦之を禮貌する〔尊敬して待遇す〕こと他に逾ゆ、貴紳是より復軒と善からず、復軒が官途之が爲に進むに至らずと云ふ
復軒日に官署に在り、其曹長〔局の長官即ち頭役〕甚だ復軒が謇諤〔剛正にして直言すること〕廉直を疾(にく)み、幹事〔取扱〕する所の紛冗なる〔複雜にして處分し難き意〕もの、推して才器ありとし、之を委屬(ゐぞく)す、實は過失あらば間隙〔スキヒマ〕(*原文頭注「スキリマ」とする。あるいは「スキマ」か。)を伺ひて之に中て〔過失を擧げて罪に當つる〕んと欲す、然も隙(げき)の乘ずべきなし、復軒亦能く其意を知り、愈益獨任して之を終始す、前後八九年にして一の過失なし
復軒司計曹長たる後數日にして、府署故なく三千金を亡(うしな)〔失〕ふ、同僚の士倉皇措を失ひ、爲す所を知らず、相倶に謀議し、將に債を出して之を秘せん〔掩ひて漏さぬ〕とす、復軒然りとなさず、獨り抗言し〔反對を述ぶ〕て曰く、此れ盜あるなり、諸公其缺を掩うて之を償(つくな−ママ)ふも盜後顯露せば、自ら之を晦(くら)〔蔽〕まさんとするも、及ぶなけん、宜く之を政府に啓し〔申立つる〕て其事を明白にし、府署故なく亡ふ所以を吐露し、而後其罪を按驗(*原文ルビ「あんけい」は誤植。)〔取調〕し、法に坐して以て我職を免ずべし、公等欲せずんば我獨り之を告げんと、衆恚(いか)り〔立腹〕て曰く、新曹長は衆に違ひ、事を破らんと欲すと、群議決せず、然りと雖も、竟に復軒の言に從ふ、後數十日にして果して盜を小吏の中に獲たり、是に由りて衆皆其先識の明なるに歎服(*原文ルビ「なんふく」は誤植。)〔感服〕す
享保の初め新に命じて改制と稱し、先朝〔先代〕の舊典〔從來の法規〕を變革(*原文ルビ「へんか」は一字脱。)す、司計罪に坐する者多し、是より先き既に他の職に遷る〔轉任〕者も、其状を追責し、爲めに罪を獲たる者數十人、復軒獨り汚濁〔ゲガレにて財を私す〕なきを以て全きを得たり、蓋し司計の職たる、財賄の聚まる所、人動もすれば汚れ易し、縦ひ能く自ら潔清を守り、貪欲なからしむるも、或は相連坐し〔同僚の卷添に遇ふ〕、或は相牽引し、其堅確特立して衆の爲に推戴せらるゝに非ざれば、前後間幹(かん)〔取扱〕する所過なき能はず、而して復軒謇直を以て、特に清白の聲を得たりと云ふ
復軒人の奇書〔珍籍〕を藏するを聞けば、百方之を求めて、必ず自ら寫す、得る所凡そ二百餘種、五百八十卷、曰く此れ獨り我が好む所なるのみならず、顧ふに家貧にして子孫書に乏し、縦ひ贏金(えいきん)〔餘剩の財貨〕に當らざるも、寧ろ田宅を業として後に遺すの計に比すべからざらんやと
復軒享保十二年(*二年か。)の夏を以て胸痛を患(うれ)ふ、而して猶病を扶けて朝に出づ〔出勤〕、其明年に至り益劇し、家人謂ふ、君の微官〔低き官即ち小役人〕にして、何ぞ自ら苦むことをせん、宜く家居して以て痾〔宿病〕を養ふべし、復軒曰く苟も公の禄を食む者は亦其任を盡すべきのみ、然らずして其多寡を算し、己が職とする所に報ずるは、殆ど市井〔町の中〕商賈の私に近しと、可かず、遂に歿するに及ぶまで病を家に養(*原文ルビ「やすな」は誤植。)はず、苦を忍んで公に奉ず、甞て三城直署〔當直室〕に在り、病劇し、輿して〔駕籠に載せて〕家に歸り、未だ席を安んずるに及ばずして卒す、實に享保十年戊申四月二十三日なり、時に年六十四、雜司谷法明寺に葬る、著す所復軒雜記及び文集等あり
復軒齋藤氏を娶り、三男二女を生む、伯は惇行、字は敬徳、蘭溪と號す、通稱は助三郎職を襲ふ、仲は安世字は美仲、帆邱と稱す、通稱は安右衞門、叔(しく−ママ)は經世、字は美叔、龍川と號す、通稱は徳之丞、皆物徂徠に從ひて學び、文章を善くす、就中(なかにつき)美仲特(こと)に藝苑〔文藝界〕に著稱せらると云ふ
廬草拙(*原文「慮草拙」は誤字。)、名は草拙、字は元敏、清素と號す、後草拙を以て號となす、通稱は元右衞門、長崎の人
草拙の先は廬氏にして姜齋とす、其後裔(末孫)采地を廬に食む、因りて氏とす、世々范陽に居る、唐宋の間范陽の廬氏は皆其族なり、曾祖君玉に至り、萬暦中海に航して長崎に來り、流寓多年、崇禎四年明に還りて歿す、君玉崎に在る時、妾某氏男を生み、二孫と名く、時に元和八年なり、二孫十歳にして君玉郷に歸り、病んで再び至らず、遂に歿するに至る、幼にして母に鞠育せらる、長じて庄左衞門と稱す、其華音を善くするを以て、擢んでられて譯士となる、貞享三年に歿す、庄左衞門玄琢を生む、醫術を以て聞ゆ、元禄元年を以て歿す、草拙は乃ち其男なり
草拙早く父母を喪ひ、唯祖母に是れ依る、資性柔弱(じうじやく)にして恒に病多く、生冷〔ナマ物と冷えたるもの〕腥羶〔ナマグサにて魚類肉類〕を食(くら)はず、好んで書を讀むと雖も、學を勉むる能はず、自ら退落を甘んず、十七八歳に至るに及んで、沈痾〔多年の宿病〕漸く愈(い)ゆ、將に文學を以て世に振はんと欲す、始めて皐比(かうひ)〔虎皮〕に坐して經義を講説し、邑中に教授すと云ふ
正徳中鎭臺石河政卿擧げて掌書監〔書記頭〕となし、兼ねて清館の譯士〔唐人屋敷通司〕を領〔擔任〕せしむ、其華音に精しきを以てなり、享保年中江戸に召され、屡關東に來り、世々長崎來舶書籍の事を掌る
草拙文學を以て家を起すと雖も、其家二世譯士たり、故に當時の儒流皆之を視ること甚だ卑(ひく)し〔輕んず〕、特(こと)に岡島冠山と友とし善し、冠山草拙を以て譯士中の第一となす、蓋し俗語に精しきを以ての故なり
草拙平生素樸〔質素儉約〕に甘んじ、清淨を尚ぶ、晩年道教〔老莊の教義〕を好み、三教の要を辨じ、論説數萬言を著し、題して天地一指編と云ふ、又■(口偏+合+廾:がん・ごん:鼾:大漢和3889)囈録を著し、當時學者の偏見〔カタヨリたる意見〕多く理に悖〔戻〕るを指斥す
草拙甞て謂ふ、長崎は小邑と雖も、元龜より以降百五十年、忠臣孝子文學技能の士多からずとせず、想ふに其姓名字號、及び功績事業、今にして記載せずんば、恐くは泯滅(みんめつ)に歸せん、吾掌書記を辱くす、蒐輯し〔アツメル〕て以て諸を世に傳へんと欲す、未だ果さずと、輙ち男驥字は千里に命じ、將に其書を輯録せ〔アツメテ記録す〕んとす、享保十四年己酉五月病んで歿す、享年五十九、後三年にして其書始て成る、長崎先民傳と曰ふ、蓋し草拙の遺意〔遺言〕に從ふなり、近世南總の原公道■(手偏+交:こう・きょう:〈=校〉:大漢和12050)刊し〔校正して刊布す〕(*原文頭注「校刊」とする。)て世に行ふ、寥々たる短簡なりと雖も、亦以て長崎一邑の人物の盛なるを知るに足れり
荒川天散、名は秀、字は敬元、蘭臺と號す、後天散生と號す、通稱は善吾、山城の人、紀侯に仕ふ
天散幼にして伊藤仁齋に學び、古義塾中千里の駒〔駿足にて逸材〕の稱あり、其人となり明敏〔眼サトク手ハシコイこと〕豁達〔胸ヒロク小事に拘はらぬ〕にして經史に精通す、十四歳の時より仁齋が事故あるに當りては、之に代りて經義を講説し、諸生を訓督す、先輩老生ありと雖も、之と抗する〔對立して爭ふこと〕能はず、塾中推して都講〔塾長〕となす、塾に往來する者敬服せざるはなし、十六歳の時紀藩の上卿三浦某見て其才を奇とし、之を藩に薦む、徴されて記室となる、時に寛文九年己酉の冬十月なり
天散八歳より業を仁齋の門に受け、紀藩の聘に應ずるまで、堀河塾に寓する此に八年なり、其師弟の間に於ける信愛尤も厚し、仁齋其門に入ること群弟子〔多数の門生〕に先つを以て、之を遇すること他に異なり、然りと雖も天散は終身專ら師説を主とせず、以爲く吾が洙泗の道は大に唐宋の間に備はり、程朱二公之を集成す、其大意は往聖〔古代の聖人〕に繼ぎて來學を啓き〔開導〕、老佛の空妙(くめう−ママ)を排し、管商〔管仲商鞅〕の功利を擯〔排斥〕するに在り、若し世儒(*原文ルビ「せつじ」は誤植。)道義を以て己が任となし、能く此意を續(つ)く(*ママ)者あらば、是れ眞の儒者(じしや−ママ)なり、何ぞ必ずしも字々句々其師説を守りて、而後能く其學を奉ずるものとなさんや、蓋し師説を墨守し〔固執して他を顧みず〕、其遺教を崇奉し、事々其意の若くならしめんと欲する者は、朋黨〔同臭味の組合〕の漸(*原文ルビ「せい」は誤植。)〔傾向下地〕なり、夫れ黨を結び徒を構へ、偏に一家を護するは、皆小人の私心なり、恐くは近時の中江藤樹、山崎闇齋の輩子弟を驅馳して、之を其■(艸冠+綿:::大漢和に無し)■(艸冠+最:さい・せつ:小さい・集まる:大漢和31977)(めんさい)に入れ、流派〔學統の黨派〕を區別し、之をして己に歸せしむ、其末學〔末世の學〕の弊必ず朋黨の病を免れざらんとすと
仁齋一家の言を成して、海内を風靡す、其語孟古義を著すや、卷首毎に最上至極宇宙第一の八字を置き、以て崇重の意を致す、當時弟子及び朋友に異議〔不同意の説〕あるなし、天散謂く語孟を推尊して特に崇重の意を致すは、恐くは六經を睥睨〔蔑視〕して、之を孔孟の外に置くに似たり、甚だ聴聞を駭かすと、則ち削去せんと請ふ、仁齋之に從ふ
天散資性豪邁にして苟容(こうよう)〔好い加減に他の説に合はす〕をなさず、素より談論に健〔達者〕なり、嘗て江戸に在る時、大高芝山と一士人の家に邂逅し〔偶然會す〕、當世の人物を指評す、晝より夜に至り、尚未だ其坐を去らず、士人固より好學の士にあらず、其談論■(女偏+尾:び・み:くどくどしい:大漢和6297)々(びゞ)〔喋々と同じく言多き貌〕盡きざるに苦み、又默して其傍に在るに堪へず、間(まゝ)睡眠を催(もや−ママ)うす、芝山之を見て辭して歸らんと請ふ、天散未だ嘗て去るを欲せず、將に三更〔夜半〕に至らんとし、四隣寂然として〔サビシキ〕人聲を聞かず、他事益漫して相省みず、笑謔〔ワラヒ滑稽(、)オドケをいふ〕怒罵、音挺鐘の如く、竟に鷄鳴に至り、其士人に謝して歸る
天散講業の暇、吾邦の地誌を研究し、城堡(じやうはう)砦塞(さい\/)〔トリデ要塞〕の所在を諳記す、謂く士若し此に精しからずんば、以て戰陣の用、攻守の法をなすに足らす(*ママ)と
天散の詩は多く世に傳はらず、近時紀藩の伊藤海■(山偏+喬:きょう・ぎょう:鋭く高い山・山道・嶺:大漢和8488)南紀風雅集を編し、其詩數首を載す、余除夜〔大晦日の夜〕の七絶一首を愛す、曰く
遠ク書劍ヲ將テ風塵ニ走ル、更ニ看ル年光ノ追電頻ナルヲ、今夜曉鐘聲動クノ後、也(また)三歳異郷人ト爲ル(*遠將書劍走風塵、更看年光追電頻、今夜曉鐘聲動後、也三歳爲異郷人)天散享保二十年乙卯を以て卒す、享年八十二、弟善助が子某を養ひて禄を襲はしむ、其人行(おこなひ)なく〔無頼〕籍を除かる〔藩士の身分を取上げらる〕と云ふ、著述の書數種あり、未だ其目を詳にせず、余が見る所弊箒集二卷あるのみ
鷹見爽鳩、名は正長、字は子方、爽鳩子と號す、通稱は三郎兵衞、三河の人、田原侯に仕ふ
爽鳩本姓は石川氏、永禄中平太夫と稱する者、始めて田原侯の曩祖〔先祖〕に仕ふ、其子正時半兵衞と稱し、侯の家に勤勞〔盡力したること〕あるを以て、擢でられて太夫〔家老〕となる、其子正信三左衞門と稱し、其子正親亦半兵衞と稱し、禄三百石、世々其職を襲ふ、是時に至り、侯命じて兒島氏を賜ひ、之を寵遇す、蓋し兒島は三宅と族同じければなり、爽鳩は正親が第二子、幼にして才三郎と名く、同藩の太夫鷹見定重女あつて男なし、正親と數世(すせい−ママ)の通家(つうか)〔親戚〕なるを以て、爽鳩を請ひて嗣子となす、故に出でゝ鷹見氏を冒すと云ふ
鷹見氏本姓は金澤と云ふ、其先世は遠州の人、金澤某も亦始めて田原侯の曩祖に仕ふ、兜■(矛+攵+金:ぼう:甲〈かぶと〉:大漢和40640)(たうぼう)〔カブトにて戰亂の意〕の世、屡勳功あり、嘗て白鷹(しろたか)の鹿角(ろくかく)を啣(ふく)んで〔クワヘル〕諸を楓樹上(せう−ママ)に架し、以て巣を結ぶを見る、以て瑞〔吉兆〕となし、之を捕得して、神祖に奉ず、因りて姓を賜ひ、鷹見氏と曰ふ、當時の人皆焉〔之〕を榮とす
我邦中世以降の諸家、車服旗幟に各標記〔紋章〕あり、圖を以て文に代ふ、日月星辰より以て動植諸物に至るまで、其好む所に從ふ、各家の子孫奉じて相沿ふ〔襲踏〕、應仁以後車服の制屡改まり、標記の用率ね衣服に在り、貴賤通用し、帛褐(はくかつ)〔絹服も賤しき綿布もの意〕並施(へいし)す、通稱して紋と曰ふ、鷹見氏は楓葉鹿角一雙を併繪(へいくわい)して以て紋となす、其の之を得たるを表するなり、子孫相沿ひ、爽鳩の時に至るまで改めずと云ふ
爽鳩幼より學に志し、十四五歳にして既に定見〔一定の見識〕ありて、嘗て士大夫(*原文「士太夫」)の僧巫(そうふ)の言を喜び、淫祀〔不正のミダラナ神社〕を過信し、僻執〔固陋にして正經ならざること〕習をなすを歎じ、秉燭或問珍六卷を著し、痛く其非を斥す、殊に醒目〔警省するに足るもの〕となす、時に年十七、後江戸に至り、上梓を勸むる者あり之に從ふ、中年に至るに及び、其辯論の盡きざるを悔ゐ、之を廢棄して以て齒牙に掛くるに足らず〔取るに足らずの意〕となす
爽鳩詩才逸宕(いつたう)〔磊落〕にして人に超絶す、甞て侯の駕に赤羽根の濱(三州)に陪從し、一大龜を網し得るに會ふ、侯諸臣に命じて詩を賦せしむ、爽鳩七言古詩一篇を賦す、其詩に云く
周室ノ列侯漢ノ功臣、于旄新ニ淹ス赤羽ノ濱、赤羽濱海三千里、光輝忽チ添ヒテ五馬新ナリ、漁人喜ビ迎ヒテ大龜ヲ献ズ、云フ是レ聖世鳳鱗(*麟か)ニ伴フト、朝ニ崑崙ヲ出テ夕ニ碣石、飛梁ヲ負抵シテ朝汐ヲ度ル、蛟■(三水+勞:ろう:大波・長雨・洗う:大漢和18318)ヲ壓倒シテ鯢鯨ヲ掣ス、濤ニ乘リ■(虫偏+山+隹+冏:けい・え・い:海亀・土斑猫・星の名:大漢和33887)(*ヲ)吹キ蓬瀛ニ到ル、蓬瀛十二黄金臺、多少ノ鱗甲相坐シテ迎フ、三足之鼈六眸ノ龜、一時水物皆驚クニ堪タリ、況ンヤ亦藏ス六千年ノ壽、再ヒ(*ママ)至仁ノ餘生ヲ保ツニ逢ハン(*周室列侯漢功臣、于旄新淹赤羽濱、赤羽濱海三千里、光輝忽添五馬新、漁人喜迎献大龜、云是聖世伴鳳鱗、朝出崑崙夕碣石、負抵飛梁度朝汐、壓倒蛟■掣鯢鯨、乘濤吹■至蓬瀛、蓬瀛十二黄金臺、多少鱗甲相坐迎、三足之鼈六眸ノ龜、一時水物皆堪驚、況亦藏六千年壽、再逢至仁保餘生)侯欣然として〔喜色あるなり〕嘉尚〔ヨミス〕に堪へず、大に海畔(かいはん)に宴し、其詩を龜背に朱書して放去らしむ
田鶴樓、名は助、字は伯隣、鶴樓と號す、通稱は助右衞門、江戸の人
鶴樓の高祖益田友嘉は相摸の人、天文中小田原の北條氏威を關東に振ひしより、友嘉之に服從し、財貨の交易估價〔價格〕の低昂、奸非を督察〔監督觀察〕し、賦役〔人夫の公役〕を催驅する事を掌る、永禄丙寅の春明舶あり、飄風に遭ひ、來りて相の三浦に泊す、蓋し呉賈ならん、北條氏有司に命じ、艱難を慰撫し、之をして友嘉が家に舘客たらしむ、留宿すること數十日、其船具を修造し、其行裝を修繕し、事訖〔終〕りて將に辭して歸らんとす、其賈の甲者謝して曰く、賤商〔自ら謙遜せる語〕數人萬里の外に生理〔營業〕し、以て主人に報(*原文ルビ「にう」は誤植。)ずるなし、鄙家傳ふる所、一金箆(きんひ)術〔製藥術〕あり、以て奉授せんと、友嘉其方〔處方調劑〕を受け、之を試むるに果して驗あり、蓋し五靈膏の方なり、後民間に施して病者を療し、遂に巨萬の財を致す、寛永の初相州の豪民を江戸に移す、友嘉時に年九十餘、其族を率ゐて來り、城東に居る、之を小田原街と呼ぶ、其藥を賣りて業となす、友嘉三男一女あり、第三子を助傳と云ふ、助傳助慶を生み、助慶玄春を生む、乃ち鶴樓の父なり
鶴樓始め確樓と號す、蓋し確乎(かくこ)として〔シツカリして動かぬこと〕拔くべからざるの語に取る、新井白石屡其家に過ぎ〔訪〕、壁上に鶴を畫くを見て、鶴樓と題せしむ、遂に亦以て自ら號す
鶴樓世々他の業をなさず、家に積聚(せきしゆ−ママ)〔資産の蓄積〕なきも、贄〔資〕は日に給を取り、産(*原文ルビ「きん」は誤植。)に奇窘〔甚しき窮苦〕なし、當時益田氏が製せる五靈膏と云へば、婦人小兒と雖も、良藥なるを知らざるなし
鶴樓少くして學を好み、白石に師事す、遂に詩歌を以て藝苑に著稱せらる、白石固より經世〔國を治むること〕に志し、詞藻を以て世に名あるを恥づ、且つ自ら視ること甚だ高く、人の弟子を以て稱するを欲せず、故に門人と稱する者至つて寡し、又妄に〔漫にてムヤミに〕人と交はらず、而して鶴樓獨り愛遇を得たり、其人となり想見すべし
鶴樓甚だ客を喜び、酒肉席に絶ゆるなし、來訪ふ者晝夜相繼ぎ、間斷あるなし、先に至る者或は偶之を過ぐれば、他期〔他に約束〕あるも即ち去るを得ず、後なる者既に又雜然たり、鶴樓其杯盤狼藉〔取り散したるさま〕の中に坐起し、常に深夜を極め、霑醉(てんすゐ)以て娯(たのしみ)となす
鶴樓常に假寐(かみ−ママ)を好み、酒席に在りても、醉へば則ち顛睡(てんすゐ)す〔倒れて眠る〕、少(しばら)くありて寤むれば酣暢〔愉快〕故の如し、必ずしも賓主の容(かたち)をなさず、坐するに迎へず、起つに送らず、意蓋し相忘るゝを以て適〔勝手〕となす、客も亦其眞率を喜び、至れば則ち己が家に在るが如く、袒■(衣偏+易:せき・しゃく:肩脱ぐ・肌脱ぐ:大漢和34379)(たんせき)〔肩ヌギ〕裸■(衣偏+呈:てい・ちょう:裸:大漢和34291)(らてい)〔ハダカ〕、箕股(きこ)〔足を投出す〕、蹲踞〔アグラ〕、忌憚(きだん−ママ)する所なく、習うて以て常となす
鶴樓客を喜ぶを以て、其家人能く來者の多少を熟察し、飮量を計知す、昏夜〔夜分〕と雖も、厨饌(ちうせん)〔肴料理〕速に辨ずること、恰も賣酒舗の如し
鶴樓詩を以て世に稱せらると雖も、葆光脱落し、屑々として〔拘泥の貌〕文藝の徒を以て自ら居るを欲せず、則ち曰く一賣藥翁、豈に沾々(てん\/)〔ウレシガル貌〕自ら喜び、人の聚慕を欲せんや、且つ韓伯林が名を好むの甚しきに傚ひ、刻苦(こくく)して名を逃るゝを之れなさんや、之をなすは醜なり、唯與に飮むべきのみと、朝なく暮なく、時として醉はざるなし
鶴臺三絃〔三味線〕の技(き−ママ)を善くし、世の所謂長唄なるものを好む、客を會する毎に、必ず其曲を奏す、或は一日客至らざれば、僮僕鶴樓が樂まざるを憂ひ、竊に相善き者に詣りて之を招ぐ、得ざれば則ち又他に適〔行〕き、略相識者を尋ね遍くす、而して尚得ざれば、則ち雜賓(ざつぴん)〔俗客下等なもの〕狎客(かうかく)〔幇間者流〕と雖も、必ず邀〔迎〕ふる所を致して止む、或は僮僕他家に赴く時に當り、途に其識る所の人に遇へば、苦(ねんごろ)に之を要して伴ひ歸る、鶴樓之を喜ぶ
白石享保十年五月十九日を以て卒す、鶴樓飮酒を以て適となすと雖も、其平生の恩遇を追感哀慕し〔カナシミシタフ〕、忌日に至る毎に、悴然として〔憂色あること〕素食し〔魚肉を避けて精進す〕、必ず禮服を著して來客を謝し、人に接せず、隣家の笑語を聞くも堪へざるが如く、戸を閉ぢ齋居して〔物イミすること〕以て夕を終ると云ふ
鶴樓遺編三卷は友人高惟馨輯め、山保定大基房校し、書肆嵩山房梓す、其刻(*原文ルビ「こと」は誤植。)は寶暦十二年の春に成り、服南郭が撰せる鶴樓傳を附載す、其傳に曰く、今年六月鶴樓少しく病む、數日ならずして歿すと、按ずるに今年とは何の謂なるを知らず、之を要するに南郭が輩徒に情を詞藻に留(と−ママ)めて、事實を考究する〔カンガヘ調べること〕を知らず、百歳の後、之を讀む者をして其故を得ざらしむ、則ち其傳ありと雖も、世に裨〔補〕なし、竟に其歿年月享歳の事實を知る能はず、眞に惜むべし
或は曰く、鶴樓寶暦元年辛未六月三日を以て歿す、享年を詳にせず、淺草田畝慶印寺域内に、鶴樓の墓ありと、余往いて之を捜れども得ず、之を寺僧に問へば則ち曰く、益田氏なるもの數世の墳墓皆此に在り、而して香火主なきこと〔參拜者なきこと〕既に久し、其族を詳にせずと、余寺僧に請ひ、院中藏する所の靈鬼册子〔過去帳〕を閲する〔見て檢する〕に、益田氏の姓名歴々として〔ハツキリ〕存す、其中に法閣院玄順日達、安永四年乙未十二月三日、俗名益田助右衞門といふ者あり、蓋し是ならんか、然りと雖も、南郭小傳を撰び、蘭亭遺詩を輯む、其歿年決して明和以後に在らず、蘭亭寶暦七年を以て歿し、南郭は同じく九年を以て歿す、二子の死皆寶暦中に在れば、其辛未六月三日と言ふもの信ずべきに似たり、然も未だ孰(いづれ)が是なるを知らず、姑く〔假りに〕之を書して後考(こうかう)〔今後の考究〕を竢つ
田蘭陵、名は良暢、字は子舒、蘭陵と號す、田中氏自ら修めて田となす、通稱は武助、江戸の人
蘭陵早く孤〔幼にして父母なき〕なり、叔父(しゆくふ)富春叟(名は省吾、字は宗魯、雪華通人と號す、甲斐侯に仕へ、致仕の後姓名を變じて富春山人と號す)に養はれ、其家に寄居す、歳十二三にして常に側に侍し、叔父が業とする所、默して記する所あり、未だ嘗て講習に就かず、則ち自ら章句〔讀方〕を受けず、然も四書五經は既に能く讀誦し、十六七にして大義を識了す、叔父時々討論〔倶に議論を上下す〕を好み、其の記する所を視るに、應對流るゝが如し、叔父之を喜び、其善き所の物徂徠に就き、業を門下に受けしむ、而して蘭陵は板帆丘(*板倉帆邱)、菅麟嶼、岡■(山偏+兼:けん・かん:山が高く険しいさま:大漢和8365)洲と倶に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の妙年四傑〔四人の傑出せる人物〕と稱せらる、而して蘭陵其魁なりと云ふ
蘭陵■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社に寓すること六年、日夜奮勵して經義を研究す、其論著する所、必ず機軸〔新規の結構方案〕を出し、敢て先修〔先覺者〕の成説に依らず、人皆之を難(かたし)とす
徂徠諸侯の聘に應じ、其邸第(ていだい)に到り、經史を講説す、毎月六回、或は七八回、其到る能はざる時に當り、蘭陵をして之に代らしむ、徂徠嘗て人に謂つて曰く、吾死後我業を羽翼する〔輔成すること〕者は太宰生、服部生か、生前吾が胸腹を知る者は、三浦生、田中生に若くはなしと
蘭陵二十三歳にして■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社を辭し、駒籠白山に僑居し、講説して業となす、然りと雖も、甚だ師説を專主せ〔限局して主持する〕ず、平生著す所、文章結撰〔作方〕、將に大に人の耳目を驚かさんとす、務めて先修と異をなす、是より先き十年安藤東野、又帷を此に下す、東野は温厚の長者〔老成にして有徳の人〕を以て稱せらる、惜いかな短命にして死す、蘭陵は慷慨激烈にして國士の風あるを以て稱せらる、自ら■(人偏+周:てき・ちゃく:拘束されない:大漢和778)儻(てきたう)〔不覊磊落にして拘束されざる性格〕豪邁を以て居る、常に好んで酒を飮み、鯨吸斗を盡す、二子皆夭折〔若死〕す、郷隣の人之を惜み、語りて曰く、文史東野を勞し、豪飮蘭陵を病ましむと
蘭陵氣古く行高く、磨■(龍+石:ろう・る:磨く・研ぐ:大漢和24586)(まろう)鐫切、期するに海内の名を以てす、然も勇壯特奇にして一世を傲弄し〔高ぶりてモテアソブ〕、殆ど養生の術を缺き、遂に此を以て病を得、享保十九年甲寅二月二十五日に至つて起たず、歳三十六、娶らずして子なし、門人相議して山谷瑞泉寺に葬る、又其墓碣(ぼかつ−ママ)の文を服南郭に請ふ、南郭其終りに垂とする〔近くこと〕(*原文頭注「埀」字を使う。)時、作る所の詩を碑陰に書し、謂(おもひら−ママ)く庶(ちか)くは以て之を概(*原文は異体字を使う。)する〔大抵略知するの謂〕に足らんと、其詩に曰く
華陽洞裏幾時遊ブ、聞道ク神仙玉樓ヲ修ムト、此ヲ去リテ珠■(艸冠+澁:::大漢和に無し)(*蕋か。)樹ヲ攀ント欲ス、雲間ノ白鶴已ニ來ルヤ不ヤ(*華陽洞裏幾時遊、聞道神仙修玉樓、此去欲攀珠■樹、雲間白鶴已來不)著す所楳野集刪考、修辭考、蘭陵遺稿等あり
岡島冠山、名は璞、字は玉成、冠山と號す、通稱は援之、後彌太夫と改む、長崎の人
冠山始め譯士〔通辭〕を以て萩侯に仕へ、其月俸を受く、自ら賤役(せんえき)〔イヤシキ職〕たるを慙ぢ、辭して家居し、專ら性理の學を修め、獨り之を以て西海に鳴る、甞て足利侯忠囿を(*誤植)(戸田大隅守)の聘に應じて江戸に來る、幾もなくして致仕し、浪華に至り、講説業となす、又江戸に來り、平安に赴く、前後其華音に精きを以て、從遊〔門弟〕頗る多し、首として稗官〔小説〕の學を世に唱ふ、是より先き之に從事する者ありと雖も、未だ甚だ精しからず、冠山起るに及び、始めて能く其説を詳明すと云ふ
冠山始めて羅貫中が水滸傳を■(手偏+交:こう・きょう:〈=校〉:大漢和12050)定し、國譯を施して〔翻譯して假名を附す〕世に刊布(かんふ)せんとす、未だ其刻の成るを見るに至らずして歿す、享保十三年其初版成る、第一囘より第十囘に至る、是れ我邦に稗史〔小説〕を刻する始となす、是より以降陸續〔引續き〕開雕(かいちよ−ママ)〔彫刻出版〕(*原文頭注「開彫」とする。)して百囘に至らんとす、後其鏤版火に罹り、全尾に及ばずして罷む、惜いかな
近世稗官の學を以て世に鳴る〔名の聞ゆる〕者、晁世美(字は徳濟、長門人)(、)陶冕(南濤と號す(、)土佐の人)(、)岡白駒(播磨の人)(、)秦熈載(山城の人)等となす、而して冠山之が先鞭〔先駈〕たり、物徂徠亦冠山と友とし善し、象胥(しようしよ)〔通譯の義(、)此處は支那音〕を冠山に受く、稗史を讀んで覺了せざるものある毎に、必ず之を冠山に問ふ
冠山經史を講説し、生徒を誨督する、其爲す所大に世儒に異(*原文ルビ「こか」は誤植。)なり、世の儒者は必ず仁義道徳治亂興廢(*原文ルビ「きはい」は誤植。)を以て辯論鄭重〔丁寧〕、間煩冗〔クドクドしき〕に渉り、欠伸(かんしん−ママ)〔アクビとノビ〕を生ぜざるもの少し、冠山は專ら時世目撃〔眼前に見る〕の事實を言ふ、唐山に於ては、則ち明末清初、我邦に於ては則ち慶元以降なり、自ら謂(おも)ふ(、)此の如くならざれば、甚だ人情に近からずと
富春叟某侯に仕へ、直諌して聽かれず、私に其藩を去りて奥州に奔(わし)らんとす、冠山藤東野、太宰純と相倶に謀りて曰く、侯必ず兵を遣りて之を追はん、恐くは免るゝを得ざらん、盍ぞ相與に死力を出して之を拒まざるや、危きを見て命を致すは此に在りと、乃ち各戎器〔兵器〕を擁〔抱〕して之を護送すること數十里、追兵遂に來らず、乃ち別を告げて還る
正徳元年韓使來聘す、冠山年三十七なり、是時江戸に在り、林整宇先生の門に學ぶ、弟子員たるを以て、韓使と會し、客館(かくくわん)に筆語す、其書記洪嚴冠山が口を極めて富嶽の奇觀を激賞する〔切にホメル〕を聞き、以て然らずとなし(、)曰く、其奇秀〔珍しくウツクシキ〕清淑〔キヨラカ〕なる、我邦の金剛山に及ばざること遠し、夫れ金剛山は白頭山の初落なり、一萬二千峯あり、皆白玉を以て削成す、東渤海に臨み、北は長白に接し、根盤〔山麓の周廻〕數千仭にして畔岸(はんがん)を見ず、山中には多く人跡の到らざる處あり、亦神異多し、故に中國の人願くは東國に生れて一たび金剛を見んとの語あり、宇宙の名山恐くは之と奇絶を爭ふ者なからんのみと、其言甚だ誇驕なり〔ホコリ自慢すること〕、冠山曰く、金剛若し果して此の如くならば、信(しん)に名山と謂ふべし、吾國尚若干(じやくかん)の名山あり、皆秀麗にして崢■(山偏+榮:こう・おう:険しい・さがしい:大漢和8548)(さうくわう)〔聳えてケワ(*ママ)シキ〕、良(や)や尋常の比すべき所にあらず、然も富嶽に若かず、富嶽は半空に聳えて八州に跨り、金光を放ち玉華を散ず、頂上に池あり、清水鏡の如し、腰間樹なくして白雲帶に似たり、寔に是れ金砌(せつ)玉築〔黄金と寶玉とにて築き成す〕なるもの、而して其状凡に非ず、山中唯山神の祠(し)あり、土地出沒して妖精〔化物〕怪物飛禽走獸の猶到らざる處あり、而るを況んや人に於てをや、古より唐山の人我を稱して蓬莱〔典故ある仙島〕となすもの、富嶽あるを以てなり、其の名山の奇特にして天下無雙(ぶさう−ママ)なる所以のもの、其れ分明(ぶんみやう)なるかな、今足下が言ふ所、富嶽の金剛に及ばざるの説、未だ全く信ずべからざるに似たり、且つ金剛は何書に載するか、既に是れ貴邦の名山にして、天下第一の奇觀ならば、則ち必ず圖畫(づぐわ)のあるあらん、願くは一たび借覽せん、又唐山の人未だ此に言及ばず、恐くは足下の言遼東の豕〔尋常の物を我のみ珍奇と考へること〕ならんか、二書記言なくして罷む
冠山曰く、洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)の諸儒(しよじ−ママ)天を知りて人を知らず、頗る老莊に類す、近時洛■(門構+虫:びん:種族の名:大漢和41315)を攻撃するの諸儒は人を知りて天を知らず、差(や)や〔稍や〕申韓に近しと、此に由りて之を觀れば、宋學を以て主となすと雖も、之を墨守する者には非ず
冠山享保十三年戊申正月二日を以て歿す、享年五十五、慧日山に葬る、著す所唐話纂要、唐譯便覽、雅俗類語、唐語使用、字海便覽、華音唐詩選、尺牘便覽、通俗水滸傳、通俗元明軍記、通俗明清軍談、小説讀法等あり
越雲夢(*原文「趙雲夢」は誤植。)、名は正珪、字は君瑞、雲夢と號す、又門叟と號す、曲直瀬氏、養安院と稱す、江戸の人、幕府に仕ふ
雲夢の先は伊藤越智の裔にして、一柳氏の族なり、故に自ら修めて越となす、曾祖正琳京師に生れ、始めて醫を業とし、曲直瀬氏と稱す、豐太閤に仕へて法印〔官職〕に叙す、後神祖に奉仕す、慶長中其職を男正圓字は三益に讓り、別に菟裘〔隱居所〕を營み、閑居して病を養ふ、又外孫沼津玄理を養ひ、同じく此に居らしめ、之に老後の栖託(せいた−ママ)〔老後の静養所〕を與へんとす、正圓早く卒するが故に、玄理を以て嗣となす、又其職を襲ひ、法印に叙せらる、玄理正球を生む、平菴と號す、乃ち雲夢の父(、)柘植氏を娶りて雲夢(*原文「雪夢」は誤植。)を生むと云ふ
文禄中朝鮮の役、浮田秀家將に發せんとし、豐太閤に謁する〔伺候すること〕時、正琳側に侍す、秀家曰く、吾命を海外に奉じ、諸軍事を監督す、其凱〔凱歌、勝ちて歸る時春(*ママ。奏か。)なり〕を奏し■(手偏+ト+ヨ+足の脚:しょう:「捷」の俗字:大漢和12445)(かち)を献ずるの時に當り、何を以て投與せん(*と)、正圓唯々し未だ答へず、太閤曰く、正琳方技〔醫術〕を以て仕ふ、宜く書籍を獲て以て之に贈るべしと、後果して秀家彼の都城に於て収獲する所の書數十笥(し)〔箱〕を以て、悉く之を正琳に與ふ、雲夢に至るまで其書具存す〔缺けずして存在す〕、加ふるに雲夢博く古を好むを以て、異編奇册一世に輻湊す〔アツマル〕、當時の人之を神門文庫と稱す、蓋し其邸の城東神田橋外に在るを以てなり
雲夢醫術を以て、家世々官に食むと雖も、平生甚だ方技の説を好まず、一たび■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園の門に入りてより、頗る能く所謂古文辭なるものを修め、自ら詞藻を以て專務となす
雲夢平生服子遷、平子和と交驩し、鉛槧〔文筆〕に從事す、儒流文人を以て、謁〔面會〕を門に請へば、則ち貴賤を問はず、倒屐(たうげき)して〔逆に屐を穿つにて急になり〕迎ふ、疾病憂苦を以て、治(ぢ)を家に請へ〔治を請ふは治療を乞ふ〕ば、則ち状實を問うて然後其人を見る
雲夢質實謹厚にして、家人に對するも、未だ曾て聲色を■(勵の偏:れい・らい:厳か・厳めしい・厳しい・励ます:大漢和3041)(はげ)〔嚴〕しくせず、其從僕、奴婢(どひ)常に謂ふ、吾主公に於て見ざるもの三あり、慍顔(をんがん)〔立腹の顔〕を見ず、詰語を見ず、鄙吝(ひりん)〔シミタレ〕を見ずと
醫官の邸を都下に賜ふ者、郭の内外を論ぜず、雲夢の如く朝に近き者なし、蓋し旨あり、其常參に便(べん)するを以てなり、人皆之を榮とす
雲夢事故ありと雖も、未だ嘗て東首して〔東向即ち頭を東に置く〕寢に就かず、蓋し趾(し)〔足〕を城の方(かた)に向くるを欲せざるなり、其家適ま修造の事あり、正室便房(べんばう)〔居室〕の板障(はんしやう)■(衣偏+表:ひょう:領巾・袖口・表具・装こう:大漢和34353)隔(へうかく)(*「隔」は木偏か。)等(ら)全く具備せざるを以て、東首せざるを得ず、家婢床を東首に置いて曰く、今夜修造に因り、常寢便ならず、僅に一宵のみ、爲すこと此の如しと、雲夢曰く三十年東首して就寢する〔臥す〕を欲せざるは、君恩の大なるを忘れざるが爲めなりと、遂に聽かず
雲夢は祖の玄理より術の精を以て、朝〔幕府〕に優遇せられ、父正球に及び、累〔連〕りに増禄し、以て采地の入千九百石に至る、元禄中常憲大君〔五代將軍〕孜々として〔精勵の姿〕治を圖り、制を改め政を新にし、尤も嚴威明斷と稱す、在朝の士苟も謹まずして赫怒に觸るゝあれば、朝に豐華〔富貴〕を極むるも、暮に奇窘に陥る者あり、正球其時に在りて官署に出入すること三十年、過失あるなし、雲夢も亦家聲を墜さず、蔭補(いんほ)を以て、法印に叙せらると云ふ
雲夢延享三年丙寅三月二十五日を以て卒す、年六十一、麻布の天眞寺に葬る、著す所懷仙樓文集、神門餘事等あり
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( ) 原文の読み | 〔 〕 原文の注釈 | |
(* ) 私の補注 | ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字 | |
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