356年ころ 新羅の建国朝鮮半島の南東部にあった辰韓の一小国であった斯盧(しろ・サロ)国が、名を代えて発展していき新羅(しらぎ・シルラ)となった。 もとの斯盧国は6つの部落国家の集合体であった。現在の慶尚北道慶州市とこれをとりまく月城郡が、その範囲であった。 新羅の国名がはじめて中国の歴史書に現れるのは377年で、新羅は高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢している。このときの王は、新羅国王楼寒(ろかん)と名乗った奈勿麻立干(なこつ(なむる)まりかん)で、356年はこの王の即位の年である。(注:ただし、奈勿麻立干は、第17代の王とされている。また、「麻立干」は王を意味する称号。) 新羅の建国伝説 閼川(あつせん)の丘の上に、6つの部落を率いる長たちが集まった。6つの部落は揚山部(ようざんぶ)・高墟部(こうきょぶ)・大樹部(たいじゅぶ)・珍支部(ちんしぶ)・加利部(かりぶ)・高耶部(こうやぶ)で、その長たちは後の世に李(り)・鄭(てい)・孫(そん)・崔(さい)・裴(はい)・薛(せつ)と名乗る人たちの祖先であった。6人の部落の長は、ときおりこうして集まって大切な打合せをしていた。 相談も済んで皆が立ち上がろうとしたとき、丘のはるか向こうの方に、一筋の光がたなびいている。行って見ると、蘿井(らせい)という井戸のそばで、白い馬が1頭、大きな卵をしきりに伏し拝んでいる。6人が近づくと、馬は天に向かってひと声高くいなないた。すると卵が割れて、なかから一人の男の子があらわれた。泉の水で産湯をつかわせると、赤子の体から神々しい光が輝いて目もまばゆいばかりである。王と仰ぐべきお方を、天が賜ったに違いない。徳のある君主を得たいというのが、6人の長たちのかねての願いであった。 長たちの手でだいじに育てられ、13歳を迎えたときに王位に立った。氏(うじ)を「朴(ぼく)」、名を「赫居世(ホコセ)」といって、即位の日から国号を「徐羅伐(ソラボル)」ととなえた。漢の宣帝五鳳元年四月である(注:西暦 BC57年 にあたるが、発展して新羅となるのは約400年後となる。)。 赫居世王は、61年の間、善政を行なった。 赫居世のあとを子の南解が継ぎ、そのあとを南解の子の儒理が継いだ。この3人は朴姓である。儒理王のときに6部の村長にそれぞれ姓を授けたという。 儒理王の遺言で、第4代の王は大輔(宰相)であった脱解(注)へ譲られた。昔姓である。 |
(注:この脱解は、「倭国の東北一千里」にあった国から海を渡ってやってきたらしい。このページ下部の【室谷克実氏の著作から】の項を参照のこと。) |
第13代の味鄒王から、金姓となった。金氏の祖は金閼智で、脱解王のとき始林(鶏林ともいう)の林のなかで木の枝にかかった黄金の櫃からみつかったという。その木の下で白い鶏が鳴いていたという。聡明で才智に富んでいたため脱解王は太子としたが、脱解王の死後に王位は脱解王の実子である婆娑に譲られた。味鄒王は金閼智の7世の孫で、味鄒王から金氏が王位につくようになった。 国号の「徐羅伐」は、後に「鶏林」になおされ、三度目に「新羅」に改められた。 |
(注:「徐羅伐」の第1代王は「朴」姓で、第4代王は「昔」姓である。「鶏林」は「金」姓と関係が深いようだ。 また、新羅人の王族・貴族が中国風の姓を持ったのは6世紀以降とするのが定説で、「朴」「昔」「金」の王姓が現れるのも後世のこととするのが定説だという。(出典:室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p94-95 ) ) |
中国が五胡十六国の時代 356年、奈勿麻立干(なこつ(なむる)まりかん)の即位。「麻立干」は王を意味する称号。 367年、百済と新羅がともに初めて日本に朝貢した。(「日本書紀」の神功皇后47年の条)(注:もっと後代とする説もある。) 377年、新羅は高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢した。 399年、新羅王から高句麗の広開土王へ使者を派遣し、「倭軍(注)が国土を占領して新羅王を家臣としてしまった。新羅王は、倭の家臣となるくらいなら高句麗に仕えたいので、ぜひ救援を送ってほしい。」と伝えたが、このとき、高句麗の広開土王は百済が倭と結んで反旗をひるがえしたので、平壌城まで出陣していた。 |
(注:「倭」については、時代によって指すものが変化している。内蒙古地方の倭、中国南方の倭、南朝鮮の倭など。ここでは、南朝鮮の倭で加羅諸国を指すとする説と、日本の大和朝廷を指すとする説がある。) |
400年、高句麗の広開土王は5万人の大軍を新羅に送り、新羅の王城を占領していた倭軍を追い払い、任那加羅(現在の慶尚南道金海邑)まで進撃したが、安羅(現在の慶尚南道安邑)軍が再び新羅の王城を占拠したので、高句麗軍は新羅まで撤退して王城を取り戻した。これにより、新羅王は高句麗の家臣として朝貢した。 402年、奈勿王が死去すると、高句麗で人質となっていた実聖が王位についた。即位すると早々に奈勿王の子の未斯欣(みしきん)を人質として倭国へ送っている。412年には、奈勿王の子のト好(ぼくこう)を高句麗へ人質として送った。さらに、実聖王は新羅に駐留していた高句麗兵に依頼して奈勿王の長子の訥祗(とき)を殺害しようとしたが、高句麗兵は訥祗の秀でた様子をみて逆に実聖王を殺して訥祗を王位につけた。 493年、倭族にそなえて、臨海・長嶺の二鎮(城)をおいた。 502年、第22代の智證王は、農業を勧めさせ、牛を用いた農耕を初めて行なった。 503年、智證王のとき、国名を「斯羅」「斯盧」「新羅」などいろいろに呼ぶのを正式に「新羅」とし、王号を「麻立干」から「王」に正式に定めた。 505年、異斯夫(いしふ)を悉直(現在の江原道三陟郡三陟邑)の軍主(地方の最高軍政官)にした、彼は512年に于山国(うざんこく・現在の鬱陵島)を降伏させた。 514年、小京を阿尸(あし)村におき、6部(建国神話の6つの村落)と南方の住民を移住させて小京を充実させた。 517年、法興王のとき、兵部を創設した。 520年、律令を発布。(注:従来の慣習を条文化したにすぎないとする説がある。) 528年、仏教の公認。(注:私的に伝来はしていた。) 532年、金官国(現在の慶尚南道金海郡)を降した。 536年、初めて独自の年号「建元」を用いた。 545年、広く文士を集めて国史を編纂させた。 551年、百済の聖王が新羅・加羅諸国と連合して高句麗と戦い、百済の旧王都である漢城地方を取り戻した。 552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を奪った。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。 554年、百済の王子の余昌(よしょう・のちの威徳王)は、函山城(かんざんじょう・現在の忠清北道沃川郡沃川邑)の戦いで新羅軍を破り、勢いに乗じて新羅国内へ進撃したが、逆に新羅軍に函山城を奪われて退路を断たれて孤立した。これを救うため父の百済王である聖王が函山城を攻めたが、かえって聖王は殺されてしまった。 562年、新羅が加羅諸国の反乱を抑え、完全に占領した。 中国が隋の時代 581年に隋が成立すると、高句麗と百済はすぐに朝貢したが、新羅が朝貢したのは594年であった。 百済は高句麗を討つようしきりに隋へ要請していたが、新羅も漢江下流域をめぐって高句麗と戦っていたため、608年に出兵の要請を隋に行っている。 中国が唐の時代 618年、唐が成立する。 624年、百済、高句麗、新羅があいついで唐に朝貢した。 636年、独山城(どくさんじょう・現在の忠清北道槐山郡)を百済に襲われ、あやうく漢江流域が孤立するところであった。 641年、七重城(しちじゅうじょう・現在の京畿道坡州郡)などを高句麗に攻められた。 642年、国西四十余城(秋風嶺以東、洛東江中流以西の地域か)を百済に奪われ、さらに唐への要衝路である党項城(とうこうじょう・現在の京畿道華城郡)を高句麗と百済が襲い、南部の中心地である大耶城(だいやじょう・現在の慶尚南道陜川郡)を百済に奪われて大耶州の都督(長官)品釈(ひんしゃく)夫妻が殺された。 品釈夫人は金春秋(のちの太宗武烈王)の娘であった。金春秋はみずから高句麗を訪ねて救援を求めたが、高句麗は百済とともに新羅の領土を侵略しようとしており、彼を捕らえてしまうが同情する高句麗の家臣に助けられて脱出する。 643年、新羅の使節が唐へ朝貢し、高句麗と百済が新羅を攻めて数十城をとろうとしているので、救援軍を出してほしいと要請した。 645年、唐が高句麗に出兵すると、新羅も呼応して出兵したが、失敗に終わり、その間に新羅の西部と加羅地方を百済に侵略された。 647年、新羅に内乱が起きる。当時は女王が立っていたが、643年に唐へ救援軍を要請した際に、唐から男王を迎えるなら守備の軍隊を派遣しようといわれていた。会議では女王の退位問題が決まらないまま新しい上大等(官職)が着任し、この上大等の調整によって大等会議は女王の退位を決定したが、これに反対する勢力が女王をかついで内乱となった。この勢力は、大等会議への出席ができない地方豪族や没落貴族などで、百済や高句麗との戦いに活躍していた金庾信(きんゆしん・532年に新羅に統合された金官加羅王国の後裔)らが含まれていた。金庾信らの勢力は、はじめは大等の勢力に押されて極めて不利で、女王が陣中で死亡するほどであったが、すぐに新しい女王を立てて戦い大等の勢力を破ることができた。勝利を納めた新しい勢力は、行政組織の改革を進め律令体制を整備していった。 647年、金春秋は日本の大和朝廷へ使節として来朝し、国交を円滑化し新羅の孤立打開を図った。 648年、金春秋は子の文王とともに唐に朝貢し、百済への出兵を要請した。唐の太宗は、出兵を了承したが、時期は未定であった。新羅は諸制度の改革を推進し、対唐外交の必要から、唐の礼服の制度・正月の賀正の礼・行政官制などを取り入れ、650年には自国の年号をやめて唐の年号を採用した。 654年に、金春秋は王に即位し、金庾信を上大等(官職)に任用した。 655年、北部の33城を高句麗と百済の連合軍に奪われ、唐に救援軍を要請した。唐は遼東郡に出兵したが、大きな効果はなかった。 658〜659年の唐による第3回の高句麗への出兵が行なわれるが、これが失敗に終わると、唐は百済を攻撃することにした。 660年、唐は水陸13万人の大軍を動員して山東半島から出発し、新羅軍も5万人の兵で出陣した。新羅軍は黄山之原(現在の忠清南道論山郡)で勝利し、唐軍は白江(現在の錦江の中流扶余邑付近の別称)の伎伐浦(ぎばつぽ)で百済軍を破り、王都の泗沘城(しひじょう)を攻めた。百済王はいったん旧都の熊津城にのがれたが、皇太子らとともに降伏し、百済は滅亡した。 百済の滅亡後、664年まで、王族の福信・僧道琛(どうちん)・日本へおくられていた王子豊などが、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けて執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。 661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗武烈王(金春秋)が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。 大宗武烈王が死去すると、甥の文武王が即位し、引き続き金庾信を上大等(官職)に任用した。 (注:「白村江の戦い」は、663年です。 ![]() 666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、高句麗も善戦したが、翌667年に降伏し高句麗は滅びた。 唐と新羅の戦い 660年に唐と新羅の連合軍が結成されたとき、平壌以南を新羅が、以北を唐が領有する約束であったが、唐は朝鮮半島全土を直轄領にしようと考えていた。そのため、唐は、百済・高句麗との戦いのときから新羅軍の消耗を図っていた。戦後も百済の旧地に唐の都督府を置き、漢城州での反乱を扇動している。 新羅はなんとか旧百済の地を確保しようとしていた。 670年、高句麗の復興軍が唐と戦うと、新羅は元高句麗大臣淵浄土(えんじょうど)の子の安勝を高句麗王として迎え、唐と対立する。旧百済領から百済と唐の勢力を追放する戦いのなかで、新羅の第一級貴族たちが戦列を離れたり反乱を起こしたりした。彼らは、文化の進んだ唐と対立するよりも、唐と提携しようと考えたのかもしれない。唐との戦いに死力を尽くしたのは県令城主といった地方豪族および下級貴族であった。この戦いは、676年まで続く。 672年、新羅軍だけでは唐軍に勝てないことが明らかになると、高句麗人・百済人・靺鞨人の部隊も編成され九誓幢(きゅうせいどう)と呼ばれる9つの部隊がつくられていった。9つの部隊の内訳は、高句麗人が3部隊、百済人が2部隊、靺鞨人が1部隊、新羅人が3部隊であった。 676年、唐は朝鮮半島から撤退し、新羅は大同江以南の朝鮮半島を統一した。地方豪族・下級貴族らの力によって勝利した新羅は、中央貴族だけによる政治から地方豪族たちも同様の権限を持ちうる律令体制へと、政治体制を大きく変えていった。 【室谷克実氏の著作から】 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)の42〜43ページによると、次のとおり。 中国の「三国志」の「魏志」「東夷伝」の「倭人伝」(いわゆる魏志倭人伝)の直前に「韓伝」がある。 この「韓伝」によると、 ・朝鮮半島の南半分に「馬韓」「弁韓」「辰韓」の古代三韓があった。 ・馬韓は、黄海にに面した西央部から西南部にあり、50数か国あった。このうちの1つ伯済(ペクチェ)が後の百済である。 ・辰韓は、日本海に面した東部。 ・弁韓は、玄界灘に面した南部。 ・辰韓と弁韓を合わせて「弁辰」とも呼び、合わせて24か国あった。このうちの1つであった斯盧(サロ)が後の新羅である。 (参考に: ![]() 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p12-14 に、次の記述がある。なお、引用文中の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略)(注:この部分では、古代において先進文化が朝鮮半島から日本へ伝わったとする説に、異議を唱えている。) 例えば、半島に伝わる最古の正史(官撰の歴史書)である『三国史記(サムグクサギ)』には、列島から流れてきた脱解(タレ)という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が四代目の王位に即(つ)くと、倭人を大輔(テーポ)(総理大臣に該当)に任命したとある。その後、脱解の子孫からは七人が新羅の王位に即き、一方で倭国(ウェグク)と戦いながらも新羅の基礎をつくっていったことが記されているのだ。 (中略) あるいは、七世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』には、こんな一節がある。 新羅、百済皆以俀為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来 <新羅も百済も俀国を大国と見ている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も俀国を敬仰し、常に使節が往来している> (『隋書』は列島そのものを扱った部分では「俀」国という表記を用いている。帝紀などでは「倭」国となっている) この部分は「俀(倭)人がそう述べている」と言うのではない。地の文章だ。『隋書』は殆んど同時代書であり、これを編纂した唐の最高級の知識人たちは、俀(倭)国−新羅、俀(倭)国−百済の関係を、こう見ていたのだ。 第三国同士の関係を語った部分とはいえ、中華思想の権化のような知識人が、そこに「敬仰」という表現を用いたことだけでも、すごいことではないか。 |
室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p23-25 に、次の記述がある。 なお、引用文中の「筆者註」は、著者の室谷克実氏による註で、標題以外の太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
日本海側の地から来た賢者 『三国史記』の第一巻(新羅本紀)に、列島から流れてきた賢者が、二代王の長女を娶(めと)り、義理の兄弟に当たる三代目の王の死後、四代目の王に即く話が載っている。その賢者の姓は「昔(ソク)」、名は「脱解」だ。 「新羅本紀」は脱解王初年(五七年)の条で述べている。 脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里 <脱解はそもそも多婆那(タパナ)国の生まれだ。その国は倭国の東北一千里にある> その生誕説話も載せている。そこには、新羅の初代王である朴赫居世(パクヒョッコセ)の生誕説話の倍以上の文字数が費やされている。木版の時代、一つの事柄の記述に充てられる文字数は、その事柄に対する編者、著者の重要性認識度に直結していると思う。 「新羅本紀」を要約すると、こういうことだ。 女(ヨ)国(『三国遺事』では積女(チョンニョ)国)から嫁いできた多婆那国の王妃は、妊娠して七年目に、大きな卵を産んだ。王は「人が卵を産むとは不祥である」として、捨てるよう命じた。そのため、王妃は卵を宝物とともに櫃(ひつ)に入れて海に流した。 櫃は最初、金官(キムグワン)国(金海(キメ)市)に漂着したが、誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓(チナン)(慶尚道(キョンサンド))の海岸に流れ着いた。 老婆が櫃を開けてみると少年がいた。その時、櫃に従うように鵲(かささぎ)が飛んでいた(筆者註=鵲は、朝鮮半島では古来、吉鳥とされる)。そこで、「鵲」の字の一部を採って、「昔」を姓とした。櫃を開けて取り出したので名を「脱解」とした。 この説話により、脱解とは卵生と称されていて、その生国である多婆那国とは倭国から東北一千里の海岸に面した地にあったことが解る。 『三国史記』で用いられている「里」は、随里(一里=約四百五十b)か、朝鮮里(一里=約四百b)か、あるいは両者を混同して使っているとも考えられる。概ね、一里=四百b強と見てよい。 (後略) |
室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」の28〜30ページで、新羅の初代王である朴 赫居世の生誕説話について、「三国史記」と「三国遺事」を比較している。 ○「三国史記・新羅本紀」 ・秦や漢の圧政から逃れてきた人びと(原文は「朝鮮遺民」)が、慶州の山間部で6つの村(「辰韓の六部」)に分かれて暮らしていた。ある日、一人の村長が林の中で馬(注:「白馬」ではなく「馬」)が跪(ひざまず)いて嘶(いなな)くのを見た。そこへ行ってみると“瓢(ひさご)のような形”の大きな卵があった。卵を割ると男児が出て来た。 ○「三国遺事」 ・辰韓の六部の村長は、いずれも(地元の山峰に)天から降りてきた。 ・「六部の人々が子弟を連れて集まり、『君主を立て、都を定めよう』と話し合っていたところ、山の麓に不思議な気配がした。雷のような光が地面に差したかと思うと、そこに一頭の白馬が跪いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこに行ってみると紫色の卵があり、白馬は長く嘶いてから天に駆け上がっていった」 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」の30〜34ページでは、上に続いて新羅の第4代王である昔 脱解の説話について、「三国史記」と「三国遺事」を比較している。 ○「三国史記・新羅本紀」 ・脱解の生国は、多婆那国。 ・脱解の母は、女(ヨ)国の出身。 ○「三国遺事」 ・漂着した場所は同じ、慶尚道の海岸(阿珍浦(アジンポ))。 ・櫃(ひつ)は、「船に載せられていた櫃」。 ・見つけたのは、ただの老女ではなく、新羅王のために魚介類を獲る役にあった海女。 (室谷克実氏は、この海女も倭種だったに違いないとみている。「三国史記」では漁業の話が出てくるのは極めて少ないという。) ・櫃の中にいた子供は、「私は龍城(ヨンソン)国の者だ。」「……父王の含達婆(ハムダルパ)が積女(チョンニョ)国の王女を妃に迎え……」「赤い龍が現れて船を護衛し、ここへやってきた。」などと述べた。 ・「三国遺事」の著者である一然は、龍城国について、「正明(チョンミョン)国または琓夏(ワナ)国ともいう。琓夏は花厦(ファハ)国とも書く。龍城は倭の東北一千里のところにある」と分註を付けている。 室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p40-41 に、次の記述がある。なお、引用文中の標題以外の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 |
新羅最初の外交団の首席代表は倭人だった 三代目の王には息子が二人いた。しかし、脱解を四代王に即けるよう遺言して没する(五七年)(注:第三代王の57年であろうか?)。脱解は王位に即くと、翌年には瓠公(ホゴン)を大輔(これは総理大臣に相当する。「新羅本紀」からは、軍事は脱解が掌握していたと読み取れる)に任命する。 この瓠公は倭人だ。「新羅本紀」の朴赫居世三十八年(前二〇年)の条に、こうある。 瓠公者未詳其族姓、本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公 <瓠公とは、その族姓は詳(つまび)らかではないが、そもそも倭人だ。瓠(ひょうたん)を腰に提げて、海を渡ってきた。それで瓠公と称された> 勘が鋭い読者は、既に気付いているかもしれない。瓠公は大輔になった時、何歳だったのか。古代に、そんな高齢者がいたのか ― と。その問題については第三章で詳述する。ここは、問題を棚上げしたまま読み進めていただきたい。 「瓠を腰に提げて、海を」 ― 私は浦島太郎の姿を思い浮かべてしまうのだが、脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に《倭・倭体制》が出来上がったのだ。 瓠公が海を渡ってきたのは、新羅の初代王である朴赫居世の治世のことで、彼は新羅王室で重用されていた。 (後略) |
室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)p79-81 から引用します。朝鮮半島の南部の状況についての記述です。 なお、引用文中の標題以外の太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 |
半島西南端の前方後円墳は何を語るか 新羅より南の地域は「倭」であり、その本拠は海を越えた九州にある ― この古代地勢図を認めないと、倭国勢力による新羅攻撃が、いかにも不可解なことになる。 即ち、列島にだけあった倭国は、半島南部には手を付けないまま、東側に迂回した所に存在する新羅だけを執拗に攻めていたことになってしまう。 あるいは、「半島では狗邪屋韓国だけが倭国の一国」と認めたとしても、狗邪韓国と新羅の間には倭に従わない韓族の国家がいくつもあるのに、倭兵はそうした国家をすり抜けて、山をいくつも越えた向こうにある新羅だけを攻撃していたことになる。 しかも、その新羅とは、沃地でもなければ、貴重な鉱産物が出る国でもない。 新羅は国域を北、南、西の三方に拡大した。が、倭国は、新羅以上の猛スピードで半島南部に勢力を築いていった。おそらく半島南西部から南東部に進む流れだったのだろう。 半島の西南端に当たる栄山江(ヨンサンガン)(注:朝鮮半島の南西部を流れる河川。)地域に、十数基の前方後円墳があることに着目すべきだ。これらが前方後円墳と確認された瞬間、韓国のマスコミは「日本独特の墓制とされてきた前方後円墳も、韓国が起源だったことが明らかになった」と報じた。 幼い頃から「日本の文化文明は、すべて韓民族が倭奴に教えてやったものだ」と刷り込まれてきた韓国人記者には、そうとしか考えられなかったのだろう。 しかし、その後の調査で、栄山江地域の前方後円墳は五〜六世紀の築造と明らかになった。日本の前方後円墳は三世紀には出現している。 つまり、五〜六世紀の半島最西南部には、端から端まで百b近い墓を造る倭人・倭種の強力な勢力があった。『後漢書・韓伝』は、馬韓の領域について「其北与楽浪、南与倭接」<その北は楽浪郡と、南は倭と接する>と書いている。半島最西南部は、後漢の時代には既に倭人・倭種が支配する領域だったと言っているのだ。 そうだろう。金海市周辺よりも、ここに大勢力があってこそ、楽浪郡と通交しやすい。 一方、半島東部の釜山市で海に注ぐ洛東江(ナクトンガン)(注:朝鮮半島の南東部を流れる河川。)は、河口から七十`上流でも河床海抜がほぼ〇bだ(広島大学国際協力研究科『韓国洛東江の水質汚染とその回復―調査報告』)。 そんな緩やかな川だから、古代はちょっとした降雨でも平野部は水浸しになり、塩害も酷かったろう。新羅も同様だったと思われる。 従って、農耕の適地は山間の盆地であり、盆地ごとに「辰韓の六部」のような小国家があったのだろう。『三国志・韓伝』が「弁辰と辰韓は雑居す」としているのは、三世紀中葉の半島南部では、韓族主体の盆地国家群(辰韓)と、倭人・倭種が指導権を握る盆地国家群(弁韓)とが ― おそらく、洛東江上流地域を中心に ― 入り乱れた状態にあったことを示していると理解していいだろう。 そうした盆地国家の伝統的な王家を、倭人・倭種が倒して、新たな指導者になったこともあろう。あるいは、伝統的な王家に、倭将の娘が嫁いだこともあろう。 『宋書』にある倭王・武が四七八年、宋の順帝に宛てた上表文で述べている「自昔祖禰(注:引用元では「禰」は示へん。)、躬擐甲冑、跋涉山川……渡平海北九十五国」<わが祖先は甲冑を身にまとい、山川を駆け巡り……海を渡っては海北の地を平らげること九十五カ国>とは、そうした状況の回顧だ。 倭国も新羅も、三世紀後半までには盆地国家を次々と勢力圏に収め、遂には両者の勢力圏が接した。そうでなければ、倭国勢力と新羅の本格的対峙は起こりようもない。 |
(参考資料)![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
また、室谷克実著「日韓がタブーにする半島の歴史」(新潮新書、2010年)の巻末にある「終章 皇国史観排除で歪められたもの」および「あとがき」では、戦後日本の学会で朝鮮史研究が歪められた状況について語られており、非常に興味深いです。ここには引用しませんが、関心のある方には一読をお勧めします。 【LINK】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参考ページ】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「古代朝鮮 NHKブックス172」井上秀雄著、日本放送協会、1972年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「三韓昔がたり」金素雲著、小堀桂一郎校訂・解説、講談社学術文庫、1985年 「日本書紀(上)全現代語訳」宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「世界文化史年表」芸心社、1974年 「日韓がタブーにする半島の歴史」室谷克実著、新潮新書、2010年 ![]() ![]() 更新 2016/7/19 |