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「満州事変」に関する資料集(3)



 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』(原書房、1967年) p509-533 から引用。編者の角田順氏による解説である。なお、引用文中に挿入した(注)は、当サイト管理人によるものです。
       解題 石原の軍事的構想とその運命   角 田  順

 昭和の陸軍の歩みを考察するに当たつては、よかれあしかれ石原莞爾の存在を度外視する訳には行かぬであろう。この小文は遺稿の中から選んだ諸文書を解説しながら併せて石原の軍事的構想とその運命との瞥見をも試みようとするものであり、元よりその活動乃至生涯及び人と為りに及ぶものではない。遺稿が満洲事変から始まるので小文も之に倣う。

    一 関東軍参謀時代
 石原が略々三ヶ年に亘る陸大兵学教官の任務から関東軍参謀に転出したのは、張作霖爆殺事件の硝煙も去りやらぬ昭和三年十月のことであつた。河本大作・高級参謀を始めとしてこの事件の直接間接の関与者がなおすべて在職中の当時の関東軍の雰囲気を石原がどう感得したかは知る由もないが、既に陸大教官在職中の前年の晦日にその「欧洲古戦史」〔本選集戦史編所収〕の結論として「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」を起草済であり、之を筐底に秘めて着任した石原にとつては、その関東軍作戦主任参謀としての爾後の活動を導くべき星晨(注:ママ。晨星?晨星=明け方の空に残る星。)は、河本的コースとは全く別個な、戦史研究と宗教的信念との二本脚に立つこの独特な主張以外にはありえなかつたのであろう。これまでのドイツ留学以来の静かな生活と突如始まるべき「国家強引」的な活動との境目に立つて、恰も前者を後者に媒介するかのようなこの長論は、とりわけ看過し難い意義を持つかのようである。
 張作霖の爆殺がどのような効果を狙つて決行されたにせよ、作霖の後を継いだその子・学良が父の爆殺について心中深く日本に対して含むに至つたのは何ら怪しむに足らぬところであり、彼は日本側の難色を一切無視しながら十二月には国民党に入党して国民政府から東北辺防軍総司令の辞令を受け、年末には易幟改旗をも断行の上、四年一月には日本側と接触の多かつた実力者たる楊宇霆、常陰槐の暗殺をも敢行したのであった。南京政府の不平等条約打破の方向に同調するに至つた学良が懸案の鉄道問題其他の対日交渉にも専ら引伸し政策に出たのも亦当然であり、これに並行して激しい排日運動はまづ学生層から再燃し始めたのであつた。
 満洲政情のかような急転を前にして石原は四年三月に「北満現地戦術」(二九頁)を研究すべき参謀旅行を計画し、附載の沢田・ハルビン特務機関長との問答も語るように張政権との有時の際における対ソ作戦計画の検討を企てたが、この計画は村岡軍指令の容れるところとならず、そのまゝ一時棚上げに陥つたのであった。翌々五月に、張爆殺事件の処置として河本が内地に呼び戻された後に在奉天・歩兵第三十三聯隊長の板垣征四郎が高級参謀として着任したが、板垣は前年三月から同聯隊長として在満中で既に満洲の政情にも略々通じていた上に、石原とは漢口の中支那派遣隊司令部勤務以来の旧知の間柄であった。「北満現地戦術」が七月三日から十二日間に亘つて結局実施の運びとなったのは板垣の新たな尽力に多く負ふた模様であるが、三ヶ月の遷延の間には原案との間に多少の変更も亦生ずるに至つた。即ち日数に於いて三日間短縮された他、統裁官も石原自身から板垣に移り、専習員中にも転出等の為めに細木少佐、川越大尉、川股大尉が不参となったに代つて、旅順要塞参謀・加藤少佐、関東軍参謀部付・佐久間大尉、同・堀内大尉が新たに加はるに至つた。今や実施されるに至つたこの参謀旅行は、石原にとつてはかねての特独(注:ママ。独特?)の主張と眼前の内外の政情に対するその適用とを現実的に展開させる上に無二の好機を供したものであり、即ち前者は第二日目に配布された「戦争史大観」(三五頁)によつて、後者は第三日目及び以降に討議された「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」(四〇頁)と「関東軍満蒙領有計画」(四二頁)によつて、こゝにそれぞれその骨子を現はして、その非河本的な徹底ぶりによつて聴取者を驚倒したのであつた。それらは殲滅戦争としての日米戦争、その準備段階としての日米持久戦争、この持久戦争の一環としての満蒙の領有と開発、といふ三個の連鎖的観念を樹立して、当時誰しもが唱道した満蒙問題解決に向つて独特の謂はば軍事的な歴史哲学的位置づけを試みたものと謂ひうるであらうか。この歴史哲学的な部分への諒解の点は何れにしても、関東軍自体を以てする満蒙問題の武力的解決といふ石原の提唱に対して演習参加者の中から根本的な批判が現はれなかつたことは、やがてはその提唱が関東軍参謀部の信条となりうることをも予告するものであった。
 爾後の石原の論策も従つて、すべてかやうに位置づけられた独特の満蒙問題解決の趣旨を関係方面就中(注:就中=なかんずく)膝下の関東軍参謀部に諒解させ納得させる為の産物であつた。それはまづ満鉄調査部に対し(四六頁)、或は参謀実習旅行又は陸大学生戦史旅行に際し(四八頁)、資源局事務官に向つて(五〇頁)行はれたが、殊に石原の務めた相手は当然ながら関東軍自体の参謀部なのであつた。北満地戦術に参加した佐久間大尉はその第二日に「行政組織ヲ如何ニスベキヤ」の調査を分課され、爾来一室を提供されて約一年間全く自由に研究に没頭の結果五年九月に至つて「満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究」(その抜粋は五二頁)を脱稿し十二月にはその印刷をも完了した。六年一月から三度関東軍参謀全員と調査班有志との間でその検討が行はれて石原も亦「所見」(五一頁)を述べたが、三月に入って年来の宿望の関東軍調査班が設置されその陣容も一応整備を見るに至つたことは石原の主張の現実化への歩みの上には心強いものがあつたのであらう。石原の説得は殊にこゝに集中して、四月には着任以来筐底に蔵して来た「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」(五八頁)を始めとして「戦争史大観」(新たに「現在ニ於ケル我国ノ国防」の一節を附す)も亦印刷されて之に配布され、「〔欧洲戦史講話〕結論」(六九頁)、同別冊「満蒙問題解決ノ為ノ戦争計画大綱(対米戦争計画大綱)」(七〇頁)の二論も四月之に続いて配布されたのであつた。
 この間南京政府による革命外交スケジュールの宣言と部分的履行、満洲に於ける東三省当局系、国民党系、コミンテルン系、朝鮮系それぞれの日本駆逐運動の実力行為化、之に応ずべき筈の幣原外交の空転と行詰りは、相俟つて満洲における日中関係を危局に追込みつゝあり、事態は前年三月に石原の唱へた通り「小策ヲ止メ支那ヲシテ益々増長セシメ自然ニ好機ヲ招来スル如クスル」(四七頁)ことへと正確に進行するに至つた。関東軍司令部内の説得を略々了つた石原にとつて残る問題は最早「好機ノ招来」のみであり、六年五月以来の諸論述――「満蒙問題私見」(七六頁)、「情勢判断ニ関スル意見」(七三頁)、「対支謀略ニ関スル意見」(七四頁)、「中村大尉捜索ニ関スル件」(八二頁)、「永田大佐宛書翰」(八三頁)は何れもこの一点をめぐる微妙な思考の跡なのであろう。なほこの間の石原の活動の跡を辿りうる記録としてその「日記」(頁)を冒頭に掲載した。以下も之に倣つて日記の存するところはそれぞれの時期の冒頭に之を掲げた。

 石原の本来の主張は端的な「満蒙領有」にあつたが、事変勃発以後における陸軍中央部では殊に共鳴の色濃かつた建川・参謀本部作戦部長(当時在満中)でさへも親日地方政権樹立策を堅持して之には全く反対であった為に、石原も己むなく満蒙独立国案にまで後退して勃発五日目の九月二十二日に「満蒙問題解決策案」(八五頁)を中央に具申したのであった。但しその際にも「好機再ビ来リテ遂ニ満蒙領土論ノ実現スル日アルベキヲ期スルモノ」との余韻をなほ揺曳(注:揺曳とは、ゆらゆらとただようこと。)させてゐたのであり、その年の十月一日付「満蒙統治方案」(八六頁)ではむしろこの余韻はやゝ表面化し、次いで十二月二日付の「満蒙問題ノ行方」(八八頁)に至つては直裁な委任統治論を表明するものであった。にも拘らず石原は六年々末には領有論から完全に新国家独立論に転向するに至つたのであり、後年の談話「満洲建国前夜の心境」(九〇頁)はこの転向の理由を卒直に披瀝したものであつた。
 之に先だつ十二月中旬第二次若槻内閣は倒れて犬養内閣が之に代つたが、森書記官長と荒木陸相とを擁するこの新内閣は満洲新政権の成立に強く傾いて、十二月二十三日付陸軍省部案「時局処理要綱」も七年一月には陸海外三省関係者間の協定「支那問題処理方針要綱」として確認されるに至つた。之に力を得た関東軍は一月二十七日には「満蒙自由国建設順序」を決定する迄に至つたが、石原もこの動きに応じて一月二十五日付「新国家内ニ於ケル日支人ノ地位ニ就テ」(九三頁)及び二月付「満蒙ノ開発ニ就テ」(九四頁)を認めたのであつた。四月に作られた「満蒙ト日本ノ国防」(九六頁)と「満洲平定方略」(九八頁)とは、それぞれリットン調査団の満洲来訪に具へる政略上の思想統一と馬占山(注:馬占山は、満州出身の軍人。)反抗への戦術上の策案である。
 満洲国は三月一日に建国宣言を発し九日には溥儀の執政就任をも見るに至つたものの、間もなく五一五事件によつて政友会内閣は倒れ代つて斉藤中間内閣の出現となるに及んで勢ひ満州(注:引用元では概ね「洲」を使っているが、ここは「州」になっている。)国の承認もそのスローモーション方策の対象となるに至り、関東軍一部の満洲国に対する態度にも占領軍的志向が兆すやうであつた。六月五日付の「満洲経略方針」(九九頁)、六月二十五日付「為磯谷大佐」(一〇〇頁)及び七月四日付「板垣大佐来哈」(一〇四頁)はかやうなやゝ停滞的空気を前にしての初一念たる対米持久戦的立場への復帰の叫びであり、中国人の政治能力への新たな信頼をも潜めた独立建国論の趣旨貫徹の要請であつた。六月二十六日付「関東軍ノ人事ニ就テ」(一〇三頁)は之を軍の人事の面から警告したものであつたが、皮肉にも七月末の内命を以て関東軍は軍司令官、参謀長以下幕僚殆んど全部(石原を含む)の一整交迭(注:ママ。一斉更迭?)を迎へるに至つた。武藤、小磯を中核とする新陣営の志向は恐らく石原をして新生満洲前途に憂慮を抱かせるに足りたのであり、八月十二日付の「板垣少将へ」(一〇五頁)は唯一人軍司令部付の閑職に僅かに留められた板垣に対する切々依嘱の言であったが、参謀本部に出頭すれば昵懇の永田鉄山すらも石原が四月下旬に小畑に示した満洲独立論の真意、「為小畑少将」(九七頁)は「初メテ知ル意見ナリ」と驚く仕末であつた。八月二十三日付「満蒙ニ関スル私見」(一〇七頁)は之に応へたものであらう。

 世上板垣石原のコンビ論が盛行するが、その板垣と訣れて満洲を去り軍司令官であつた本庄とも亦別々となつた石原は今や一、二の心酔的後輩を除いては殆んど孤立し、中央の状況も永田の片言から察知しうる通りであつた以上、全軍内においては元より著しい少数派となつたのであつた。従つて対米持久戦の一環と中国人の統治能力への信頼を二個の焦点とするその満洲国育成の構想自体も勢ひこゝに棚上げとなつて、満洲事変が現実に産み落したところは却つて――日本の満洲独占、関東軍の満洲政治の壟断(注:利益や権利を独り占めにすること。)、対ソ関係の軍事的危殆(注:危殆=あやういこと。)、中国との協調への致命的暗礁の形成、中国領土の逐次的分離の工作、殊に米国との間における国家的信用の失墜、広くは国際環境蔑視的な冒険主義といふ連鎖的な波紋であり、狭く陸軍内に限つて眺めても出先軍幕僚の下剋上、謀略優先、現地独走の諸気風が惹起した国策軽視と外交二元化といふ圧倒的潮流であつた。
 惟ふに満洲特殊権益論を更に飛躍させて「満洲事変丈けは特別のこと」、「満洲丈けは中国から切り離しても差支へない」とする石原一派の主張は中国との間では勿論のこと日本の国内に於いても説得力不足の論であつたのであり、一端生起した以上満洲事変は、現実政治の波の中では、石原の企図とは合致しない結果を次々と内外に誘致して行くのであつた。そしてこの趨勢を洞察したか否かはともあれ、石原は自らの越軌(注:ママ。?。)につき上司の処断を促がして六年末には辞意に(注:ママ)表明したにも拘らず、満洲事変を追認しつゝ之に便乗して御手盛で男爵となつた荒木陸相は、その辞意を許さずに却つて之にも功三級勲三等を奏請して「死刑囚の無期出所」と長大息させたのであつた。満洲国は「今次世界大戦の導火線となれり、我等は全世界に向ひ衷心より自己の不明を陳謝し謹んで全責任を負はんと欲するものなり」(五〇七頁)との石原の戦後の手記の一節も因みにこゝに挙げて置き度い。

    二 聯 隊 長 時 代
 満洲離任後一端兵器本廠付となつた石原は、間もなく松岡全権の輔佐兼監視の含みから七年十月ヂュネーヴ派遣を命ぜられてその聯盟脱退の演説を聞届けて帰国し、八年八月に至つて歩兵第四聯隊長に任ぜられた。爾来十年八月仙台を離任するまで満二ヶ年の間石原は専ら部隊の訓練に打ち込んだのであり、その精励ぶりは離任に際しての後任者への「申送事項」(一一八頁)からも察知しうるであらう。なほ聯隊長発令に少し先だつて石原は腹心の今田新太郎の要めに応じて「軍事上ヨリ見タル皇国ノ国策竝国防計画要綱」(一一三頁)を執筆したが、之は「戦争史大観」の趣旨を履みながら始めて「東亜聯盟」を提唱したものであり、それに従つて「満洲国ノ成立ハ亜細亜団結ノ基礎」とも規定されたのであつた。この規定は聯隊長時代の最後に認められた「為花谷君」(一一六頁)の中では「満洲国ハ東亜聯盟精神的団結ノ基礎ヲ確立スベキ使命ヲ有ス」を一層精密化されて、日米持久戦の一環として領有開発を要請された満洲は今やこゝに一段と新しい性格を賦与されるに至つたのであつたが、それは亦日米持久戦遂行の為の基礎が満洲から「東亜聯盟」へと拡大されたことなのでもあつた。九年三月付の〔満洲国育成構想〕(一一五頁)は上記二つの論策と共に満洲国がかやうな性格を宿すよう要望を重ねたものである。因みにこの「皇国ノ国防計画要綱」がソ英米中国に対する四国同時の持久戦を予期してゐたことはこの時期の特徴であらう。

    三 参謀本部時代
 十年八月十二日恰も永田軍務局長が斬殺されたその日に石原は参謀本部作戦課長に着任した。丁度三年前の七年七月に内地に転任して来た石原は同じ永田に向つて軍中央部は「満蒙経略ニ続イテ来ルベキ情勢ニ対スル国策ノ決定及準備ニ全力ヲ傾注セザルベカラズ」と書き送つて、その中の対外問題中「速カニ解決ヲ要スル重要問題」としては
 () 支那本部特に(注:ママ。引用元がひらがな。)先ヅ北支那ノ開発ヲ実現スル方策
 () 蘇国(注:ソ連)ノ極東政策ヲ断念セシムル為最モ経済的ナル方策
 () 対米戦争計画(一〇九頁)
の三個を挙げたのであつたが、石原がヂュネーヴ次いで仙台と中央を離れてゐたその三年間に、陸軍首脳部(大臣は荒木、林、次官は柳川、橋本、次長は真崎、植田、杉山)は荒木の下剋上迎合の派閥人事のもたらした部内抗争に概ね引きまわされる丈けに終始して、永田の凶死すらも防ぎえなかつたのであり、石原の指摘した上記三個の重要問題の処理の如きも殆んど棚上げにされたまゝ何時しか行方不明の姿なのであつた。
 従つて作戦課長に着任した石原が先づ発見したところが、かような陸軍首脳部の懈怠曠職(注:懈怠(かいたい)=行わなければならないことがあるにもかかわらず、これを怠ること。曠職(こうしょく)=職務をおろそかにすること。)の累積の所産――端的には極東ソ軍と日本の大陸兵力との間に於ける均衡が破れて最悪の危機に陥つてゐたことであつても、そこに何の不思議もないのであつたが、それにしても十年末の彼我兵力比が地上において十対三、航空において十対二・三の開きを示すに至つては、対ソ作戦計画上における従来の日本側の利点は今や全く喪はれて確信ある計画の立案そのことが至難に向い始めてゐたのであつた。翌九月に「為参謀次長」の中で「有事ノ場合遂ニ敵ニ優ル兵力ヲ集結シ得ル機会ヲ失ハントシツツアリ目下ノ情勢ニ於イテ少クモ在満兵力ヲ倍加スルヲ要ス」(一三四頁)と断言したのはその警鐘の第一であつたが、「先ヅ露国ノ極東攻勢ヲ断念セシムル」ことを目指すこの満洲第一主義的国防充実の実施には尠なくとも予算上からも海軍側の諒承が当然必要であつた為に、石原は秋には福留・軍令部作戦課長に向つて、満洲国の育成強化、日満の協同戦力協同生産力の画期的向上を通じて日ソ間の軍備競争の停止を導き、更に進んで日ソ不可侵条約の締結、満ソ間非武装地帯の設定を介して日ソ提携を図りうるとの意向を打明けて、その為の海軍々備の充実着手の繰延べを懇請し、同年末には更に〔現下国策ノ重点〕を起案して海軍側の説得に努めたのであつた。之は
 蘇国ノ飛躍的発展ニ対シ満洲国ノ防衛ハ危殆ニ瀕シツツアリ…現下国策ノ重点ハ蘇国ノ極東攻勢ヲ断念セシムルニアリ
と明言した上で
 皇国ノ経済的要求ハ支那及南洋ニ期待スル処多シ…之ニ対シ経済的文化的発展ニ努力スベキコトハ勿論ナルモ之等ノ工作ハ平和的ニシテ軍部ハ自ラ表面ニ立ツ事ヲ避ケザルベカラズ北方ノ脅威去リタル後実力モツテ南洋及支那ニ対シ積極的ニ我国策ヲ遂行ス
 対蘇兵備ノ急速ナル充実ト共ニ米国海軍ニ対シ西太平洋ノ制海権ヲ確保スルニ足ル海軍力ヲ保有スルコトハ…絶対的要件ナリ(
一三六頁)
と謳つて、海軍の主張する南方進出、艦隊拡充を原則的に承認した上で北方脅威の去る日までその実施繰延べを要望したものであつた。
 かやうな在満兵力の倍加及び軍の機械化殊に大陸においてソ聯の三割にも満たぬ航空兵力の増強を眼目とする兵備充実が、その基盤として生産力の拡充を要求するのは当然であつたが、政府にも民間にも日本の経済力の綜合判断に関する調査が存しないことは石原をして重ねて愕然たらしめたのであり、石原はこゝに己むなく満鉄調査部以来の旧知の宮崎正義に依頼して十年秋には日満財政経済研究会を創設し自らの庇護の下に生産力拡充計画の策定に従事させたのであつた。「日満財政経済調査会」(一三九頁)はこの会の大要を述べたものであり、附載の宮崎の「業務報告書」(一四〇頁)は、同会の努力によつて「重要産業五ヶ年計画要綱」(一四八頁)及び「同要綱実施ニ関スル政策大綱」(一五一頁)が十一年夏から十二年春にかけて概成して石原の対ソ軍備兵備充実案がこゝにその財政経済上の検討をも一応終つたことを語るものである。
 作戦課長として軍備兵備、財政経済の上から対ソ充実の方向を樹立し終つた石原は、次いで参謀本部内に戦争指導課の創設を主張して、それが容れられるや十一年六月自らその初代課長に転出した。「戦争発達史要綱」(一七四頁)はこの新設課の部員にまづその独特の戦争史観を諒解させようとした際の覚書であらう。この戦争指導課の担当すべき業務は云ふ迄もなく戦争指導計画であり、六月十二日付「第二課業務進捗計画」(一七五頁)はその名称の示す通り之を進捗させる上の予定表であつたが、それは同時に新設課が自ら課した任務の内容を明らめるものでもあつた。之に基づいて同課は六月十八日から翌年一月十九日にかけて矢継早に六個の要望を省部関係方面に提示したが、これらはすべて生産力拡充計画の策定と相呼応するものなのであつた。

 前年末から石原の懇請をうけてゐた軍令部は十一年四月ごろには却つて海軍省との間に南進含みの「国策要綱」を決定して、石原の願ふ国防上の綜合的検討と段階的施策とを撥ね除けた上進んで軍事予算上の陸海対等の確認をも政府に強硬に迫り始める状況となり、こゝに石原は海軍の諒承獲得に最後の努力を傾注するに至つたのであり、参謀総長の決裁を得て手続上部内では公式案となつた六月三十日付の「国防国策大綱」はその所産なのであつた。
三 先ズ蘇国ノ屈伏ニ全力ヲ傾注ス而シテ戦争持久ノ準備ニ就テ欠クル所多キ今日英米少ナクトモ米国トノ親善関係ヲ保持スルニ非ンバ対「蘇」戦争ノ実行ハ至難ナリ
  又我ガ兵備充実ニ当リテハ外交的手段ニ依リ蘇国ノ対抗手段ノ緩和ニ努ム
四 兵備充実ナリ且戦争持久準備概ネ完了セバ蘇国ノ極東攻勢政策ヲ断念セシムル為積極的工作ヲ開始シ迅速ニ其目的ノ達成ヲ期ス
  而シテ戦争ニ至ラズシテ我目的ヲ達成スル事ハ最モ希望スル所ナリ
六 ……対蘇戦争ノ為現下ノ対支政治的工作ハ南洋方面ノ工作ト共ニ英米特ニ米国トノ親善関係ヲ保持シウル範囲ニ制限スルヲ要ス(
一八三頁)
 軍令部はこの案にも遂に同意を拒み石原も最早陸軍限りの策案に赴くの他ないに至つたが、その際にあつても日満財政経済研究会に生産力拡充計画案を依嘱した際に「案ノ基礎条件トシテ少クモ十年間ノ平和ヲ必要ト認メタリ」(一三九頁)とした点は、この策案において当然に決定的な因子なのであつた。第二課の業務進捗計画においては戦争指導計画大綱の樹立は「先ヅ対「ソ」戦争ヨリ開始セラルル場合ヲ基礎トシテ計画ス」るものであつたが、七月二十九日付の「戦争準備計画方針」(一八五頁)と八月付の「対ソ戦争指導計画大綱」(一八六頁)はその成果なのであつた。それらは十年平和維持の希望が達成されずに対ソ戦争が勃発する場合を想定しての計画であつたが、しかも前者が
 昭和十六年迄ノ…期間外交ニヨリ平和ノ維持ニ努メ開戦ノ己ムナキニ於テモ英米少クトモ米国ヨリ軍需品ノ供給ヲ可能ナラシムル…コトニ努力ス之ガ為所要ニ応ジ極東「ソ」領、支那本部、「フイリツピン」、安南及蘭領印度ノ不侵略ヲ声明スルコトヲ得(一八五頁)
と力説し、後者も
 「ソ」国ノミヲ敵トスルコトニ全幅ノ努力ヲ払フ…英米ノ中立ヲ維持セシムル為ニモ支那トノ開戦ヲ避クルコト極メテ緊要ナリ(一八六頁)
と強調したところに、ソ英米中国に対する四国同時の持久戦の予想が三年を経て長期段階論によつて根本的修正を加へられた点を看取しうるであろう。
 第二課業務進捗計画は又「支那ノ将来ニ関スル観察即チ支那ハ如何ニナルベキモノナリヤ又之ヲ如何指導スルヤノ方針ニツキ研究ス」と定めたが、九月一日から翌年一月二十五日に亘つて之も矢継早に省部関係方面に提示された「対支政策ノ検討」、「帝国外交方針改正意見」、「対支実行策改正意見」、「改正ニ関スル理由竝支那観察ノ一端」、「日支国交調整要綱」、「冀東ノ指導開発ニ関スル私見」、「対支政策ニ関スル意思表示」(一九二頁以下)はその所産なのであり、すべては「国防国策大綱」に則つて陸軍省更に政府に向つて之までの対華政策の根本的出直しを要(注:ママ)めるものであつた。

 石原の督励に淵源(注:淵源(えんげん)=物事の起こり基づくところ。)する「重要産業五ヶ年計画要綱」が戦備課岡田菊三郎の熱烈な協力に扶けられて陸軍省の採択するところとなつたのは十二年五月二十九日であり、この要綱の「実施ニ関スル政策大綱案」も試案ながら六月十日には同省採択となつて石原の首唱以来一ヶ年半の策案を経てその軍備兵備充実計画はこゝに物的国力上の計算と接触し得るに至つたのであつた。この計算が可能となつてその上に軍備兵備の充実が展開される為には、対内的因子は別としても、尠くとも対外的になほ十年の平和を必須の前提とせざるを得ないのであつたが、事態の現実の歩みは却つてその正反対の方向に進んで、上記の試案採択の後僅か一ヶ月余には蘆溝橋事件の発生を迎へるに至つた。そしてこの小事件が見る見る中に「北支事変」、「支那事変」と拡大して行くにつれて、十年不戦の要請は元より之を大前提とした生産力拡充計画引いては軍備兵備充実案も亦日中戦争の課する日々の消耗の中に一歩一歩潰されて行き、石原の国策と国防の構想はこゝでも亦破綻を閲するに至つたのであつた。
 勿論蘆溝橋事件の発生に先だつて例へば十二年四月決定の「北支指導方策」は経済工作を通ずる国防資源の獲得を主眼とすると謳つて石原の対華政策上の要望を一部摂取するには至つたものの、その要望する「帝国外交方針」の改正も「対支実行策」の改正も全然行はれるには至らず、殊に西安事件を契機として石原の高唱した
 支那ノ統一運動ニ対シ帝国ハ飽迄公正ナル態度ヲ以テ臨ム
 北支分治工作ハ行ハザルコト(
二〇六頁)
という二個の基本的提言は元より、陸軍自ら部内に於て豊台の兵力を通州に後退させ天津軍の冀察政権への政治経済指導権を廃止する、といふ具体策すらも何ら顧みられる迄には至らなかつた。まして
 現在軍部ノ意思ガ対支外交上ニ於テ骨幹ヲ為セル見地ヨリシテ一大転換ヲ軍自ラ行フノ責ヲ有ス(二〇三頁)
といふ陸軍の対華姿勢の転換の要請が空文に終つたことは、蘆溝橋事件に対する中央部の反応ぶり――陸軍省事務の元締の田中軍事課長、石原の膝元の武藤作戦課長、同じ部内の永津支那課長連が一整に中国蔑視的な一撃論に合意した、その状況からも優に推定しうるのであつた。
 又石原がその生産力拡充計画の実現に焦慮の余りとは云へ、広田内閣辞職の後に林首相、板垣陸相のコンビの出現を企図して、この観点から佐藤、片倉等の幕僚政治温存の見地に立つ宇垣組閣の流産工作に合流したこと、林の組閣に当つては石原の旧知の十河信二、浅原健三、宮崎等が板垣陸相の実現をめざして組閣の指導権を握らうと暗躍したこと、更にその際宮崎、浅原が組閣本部に於て陸軍省部代表と僣称したこと等は、穏和な軍上層部の顰蹙を買はざるを得ず、元々甚しい少数派に在る石原の孤立の勢を一層深くするものであつた。
 更に考へれば、由来国防国策とは石原の造語であり、「国防トハ国策ノ防衛ナリ」(二二八頁)といふ石原の断定に照せばこの国防国策とは「国策の外殻としての国防」若しくは「国防によつて衛られる国策」という新規独特な観念なのであろう。通例には国防とは概ね国家の地理的歴史的な存続の防衛を指すのであり、この際には謂はば生物的に存続しつゝある国家自体が客観的実在である為に、国防をめぐる諸見解の間にもこの実在に即する大局的帰一がなほ可能なのである。然るに之に反して国防を国策の防衛と規定する場合には、その折々人々の国策の立て方如何によつて国防の内容も全く各人各説の主観的一家言に赴かざるを得ないのであり、例へば石原が「惟フニ帝国国策ハ〔国防〕国策大綱ニ示サレアルガ如ク東亜聯邦ヲ成形シ支那ヲ東亜聯盟ノ一員タラシムルニアリ」(二〇二頁)と断定する時には、同じく主観的水準の上に立つて之と正反対の国策を提唱することも理論上は全然可能なのであつた。しかもこの「国防国策大綱」は総長の決裁を経たにしてもなほ参謀本部部内限りのものであり、そのままでは陸軍省を含む政府に対しては何らの拘束力を具備するものではなかつた。従つて之を実質的な国策とする為に陸軍省の説得から始まる別段の政治的努力が払はれなかつた限り、それは要するに参謀本部内での空転に止まつたのであつた。のみならず「東亜聯盟」の辞句自体も亦この「国防国策大綱」の中にはこの片鱗をも仄かしてはゐないのであつた。従つて石原が国策の本質を「東亜聯盟」の形成にありと断定することは、石原その人の主観においては首尾一貫するものであつたにしても、なほ国防国策大綱の解釈においては普遍性を欠くものであり、極く少数の、殲滅戦としての日米戦争、日米持久戦争、その一環としての東亜聯盟といふ独特の連鎖的観念を諒解し納得してその国策引いては国防の構想を導奉(注:ママ)する人々を除いては、省部を通ずる大多数は国策引いては国防の構想の内容において殆んど石原に共鳴するものではないのであつた。十二年春を迎へて石原は今や対華観察、幕僚政治、国策構想の面から三重に孤立するに立(注:ママ)つたのであり、かやうな孤立の中に蘆溝橋事件は石原の意に反して拡大して行き石原自らも間もなく作戦部長の任を解かれてその参謀本部時代を終るのである。
 抑々(注:抑々=そもそも)のところ石原の満洲国育成の構想、東亜聯盟の構想、国防国策の構想はその何れも謂はば本質においては革命的な構想なのであり、その達成の筋道としては自ら政界に打つて出て国策決定の実権を握るのが最も確実な方法だつたであろう。元よりそれは石原の資質に合はぬところではあつたらうが、それにしても、石原が現実に採つた如くに、陸軍省部という在来的機構の中で在来の紀律の下でしかも省部間の事務処理を通じて之らの革命的構想の達成を図ることは正に難中の難事なのであり、之をしも(注:ママ。もし?)あへて可能とした殆んど唯一の途は、中央の幕僚陣に広く呼びかけ之を営々と教育し分厚い共鳴者の層をここに着実に創り出し拡大して行くこと、換言すれば自身及びその後継者を以て幅広く軍の主流を占めて行くことであつたであろうか。しかも石原自身はかやうな努力を派閥形成としてむしろ嫌悪排撃したのであり、中央の幕僚陣中の事務処理上優秀精強な面々からなる有力な層はこゝに石原からは却つて遊離して共感の途を欠き、この時期を通じてその周辺に集まるものはむしろ概しては、有為無為を問はず軍内民間を問はず一方に偏した人物、信望より少い人物若しくは菲力な人物から成るところの少数者のみであつた。軍上層部が石原の才幹には一目も二目も措(注:ママ)きながら之に衷心からの好意を寄せず、その満洲事変以来の活動をもむしろ苦々しく思ふ風のあつたことも既に眺めたが、かやうな軍中央部の一般的な状況の下では石原の主宰した切角(注:ママ。折角?)の戦争指導課の活動も陸軍省は元より参謀本部内更にはその作戦部内においてさへも感情的な反感を招いてゐたのであつた。有為な実行力と画策力とに加へて参謀本部作戦課長次いで作戦部長といふ国軍の枢機に坐したにも拘らず、石原の構想が結局挫折の運命を辿つたその間の事情については更に後考に俟ち度いのである。
 なほこの参謀本部時代の石原の活動は更に二・二六事件処理、対ソ作戦計画、国防方針改訂、海軍の対支全面戦争要請の拒否、日独協定締結等にも亘るが、遺稿がそれらに関する文書を一切欠いてゐる為こゝでは言及を控へた。その中二・二六事件については第三部末所載の石原六埌氏の追憶を、その他については拙稿「石原の対ソ不戦構想と防共協定、石原の日中戦争防止」(「現代史資料・日中戦争・3」巻頭所収)をそれぞれ参照され度い。

    四 関東軍参謀副長時代
 十一年六月戦争指導課創設と共に石原が立てたその業務進捗計画は、戦争指導大綱について「先ヅ対「ソ」戦争ヨリ開始セラルル場合ヲ基礎トシテ計画ス次デ対支戦争ヲ開始セラレタル場合ヲ研究スベシ」と規定したが、その後蘆溝橋事件の勃発までの一年間には「対ソ戦争指導計画大綱」が完成した丈けで「対支戦争」に関する分はなほ未成のまゝであつた。一方年々策定上奏の陸軍作戦計画も実質上は対ソ作戦計画なのであり、中国に対するものはその要域若干に対する政略出兵の計画のみなのであつた。かやうな状況にも拘らず蘆溝橋事件の直後に省部中堅層の多数派が期せずして一撃的強硬論に合意するに至つたのは、彼らの甚しい中国軽視を前提とせずには殆んど解し難いところなのであつた。既に年頭に
 西安事件を契機トシテ隣邦支那ハ次ノ二個ノ観点ニ要約セラル
 一ハ内戦反対ノ空気ノ醞醸セルコト二ハ国内統一ノ気運ノ醸成セラレタルコト而シテ二者ハ共ニ自然発生的傾向ヲ有ス(
二〇二頁)
と指摘してゐた石原は元よりこの中国軽視とは相容れぬものがあつたが、「対支戦争指導計画大綱」も未成、対華充当可能兵力も僅少と云ふより切実な理由がその一撃論反対の具体的根拠だつたのであり、石原は七月二十日には陸軍省に於いて杉山陸相、梅津次官、田中に向つて
 現在動員可能師団は三十ヶ、この中対ソ守勢防衛に必要の十九ヶをさし引けば十一ヶしか支那方面の作戦に宛てられず、その中から中央予備の五ヶをとり除けば、現在現実には支那に使用しうる兵力は六ヶに過ぎず、到底全面戦争は出来ない、現状のままでは全面戦争の危際(注:ママ)大きく、その結果恰もスペイン戦争におけるナポレオン同様底なし沼にはまることになる
と訴へると共に、その頃には又風見・内閣書記官長に対しても近衛蔣の間の直接交渉を要望したのであつた。しかも「事変は一月で片づく」と奉答する杉山の安易論に政府も亦同調して、事変はここに石原の虞れた(注:おそれた)底なし沼へと直進し始めたのであつた。
 武藤らの一撃的強硬派の画策によつて石原が作戦部長から関東軍参謀副長に転出させられたのは九月二十七日であつたが、この少し前の九月十五日から翌年六月三日にかけて石原は三通の「戦争計画要綱(戦争指導方針)」(二二一頁)を単独に作成した。(之らは大同小異であるが、第一通、第二通のみはそれぞれ末尾説明を伴ふ)今それらを通観すれば作戦部長離任直前から徐州会戦の頃に至る間に於ける石原の「支那事変」指導の構想は明瞭であり、それは対華持久戦、戦局縮少、対英米国交調整、生産力拡充計画の繰上遂行等を主眼としてかねての主張を武漢作戦発起前の戦局に適用したもの、と看做しうるであらう。
 他方の対ソ作戦計画についても石原は満洲に着任して現地の状況に一応通じた上で十三年三月には〔対「ソ」国防建策〕(二二五頁)を多田・参謀次長に提出したが、この建策の末尾に既に「関東軍司令部ノ簡易化、満洲国内面指導ノ縮少撤退」が謳はれてゐるのは充分注目に値する点であつた。七年八月板垣に依嘱の言を残して去つてから五年振りに住みついた満洲は、この間に関東軍の政治壟断(注:壟断(ろうだん)=利益や権利を独り占めにすること。)と日系官吏の「法匪」的行政とに荒らされて最早「建国の理想」(二三五頁)の見る影もない程の変り様であつた。四月に起案された「現在ニ於ケル我ガ国防」(二二八頁)の眼目は、満洲国の政治について「日支提携ノ楔、東亜聯盟ノ精神的核心、対蘇国防ノ根拠」にまで之を恢復しようとしてその改革点を列挙したところにあり、之に次いで来るものは当然に六月付の「関東軍司令官ノ満洲国内面指導撤回ニ就テ」、「同撤回要綱」(八月両者を合体修正)(二三四頁以下)の要請なのであつた。そして五月に東条(注:ママ。東條?)と代つた昵懇の磯谷参謀長も往年の同志の片倉第四課長も共にその賛同を渋るに至つて石原は八月辞表を提出し、植田・軍司令官の慰留と勧告とによつて静養の為に内地に戻つたのであつた。
 しかし乍ら既に五月に「戦争史大概」(注:ママ。「戦争史大観」のようです。)の訂正稿(二三〇頁)が作成されたこと、同じ五月に東京で行つた講演座談(二四四頁以下)が現職官吏としては頗る忌憚ないものであつたことから忖度(注:忖度(そんたく)=他人の心をおしはかること。)すれば、「支那事変」の泥沼的拡大、対ソ正面兵力の激減の趨勢(やがて満鮮兵力十ヶ師、中国戦面二十六ヶ師、手持動員可能師団皆無等)、満洲国の致命的傀儡化等の状勢に直面して、石原の辞意は五月には或は最早固まつてゐたものであろうか。八月執筆の〔軍ノ政治退却ニ関スル意見〕はかやうな辞意の上に立つ軍への直言であり、それは満洲国への内面指導撤回の要望に沿つて、まづ満洲国政治からの退却の、次いで日本の政治からの退却の自主的断行を軍に期待したものであつた。

    五 舞鶴要塞司令官時代
 石原の内地静養は独断離任と解された節が多く、軍紀保持の見地からの東京憲兵隊長のつき上げに遭つて東条(注:ママ。東條?)次官が板垣陸相に処断を迫るといふ一幕も生れたが、板垣の計ひによつて十四年一月舞鶴要塞司令官の閑職に落ちついたのであつた。
 十四年二月付の「軍ノ政治参与ニ関スル意見」(二八四頁)は石原自身の之までの政治的活動に照らせば撞着(注:撞着(どうちゃく)=つじつまが合わないこと。)の観を免かれずその説得力の程も危ぶまれるものではあつたが、なほ、一方では「支那事変」を漫然と拡大しながらも他方では政治に深入りして精強な軍隊の創成を後まわしにし始めた当時の軍中央部に対しては、苦言を呈さずには居られなかつたのであろう。即ち「支那事変」そのものが前年晩秋の武漢作戦、広東作戦を以て既に攻勢終末点に到達して一撃論的武力解決の破産を実証するに至つた状況に於いては、この事変を持久戦と解し国民政府の背後にソ聯の陸軍力と米国の海軍力の支へを看取した石原としては、「国防上ノ要求ヲ国家ニ明示」して長期国防計画の方針を確立すると共に、「国軍ノ練成ニ努力ヲ傾注シ明日ノ大作戦ニ備」へるよう要請したのであり、それは〔軍ノ政治退却ニ関スル意見〕の積極的反面を展開したものとも眺められるであらう。そして近衛声明によつて「東亜聯盟ノ結成ガ国家ノ大方針トシテ確定セラレタリ」と認定した石原は進んでその東亜聯盟を守り得る国防力として、日本が極東においてソ聯が使用しうる兵力、西太平洋に出現しうべき白人の海軍力に夫々同等以上の兵力と世界第一の精鋭な空軍とを建設する要ありと主張したのであつた。かやうな大兵力を、「支那事変」による日々の消耗を制しながら、建設維持すべき基盤たる生産力の大拡張の実施は、しかしながら果して軍の政治退却によつて可能であつたであらうか。石原の含みは恐らく東亜聯盟の育成強化がその政治力を創り出すといふにあつたであらうが、当時の政治的現実においては「支那事変」の収拾=生産力の大拡充は却つてその反対に軍の強大な政治関与への途を再開するものではなかつたであらうか。一まづ疑を存して置き度い。それらの主張を開陳した「日本皇国ノ東亜聯盟国防ノ担任」(二八七頁)は十三年十一月頃起草された「東亜聯盟建設綱領」の中から第三、聯盟ノ各国家一、日本皇国、()国防ノ担任の節の全文を抜き出したものである。
 板垣の陸相時代を一貫した外交上の重要案件は云ふ迄もなく所謂防共協定強化問題であり、十三年八月の笠原携行案に端を発するこの案件において陸軍中央部は、伝統の対ソに新たに英米をも対象中に加へてまでドイツとの間の軍事同盟締結を一貫して固執したのであつた。先年防共協定成立の動因の一を為した石原はその当時から引続いてドイツとの「政治的協力ノ限度ニ関シテハ常ニ深甚ナル考慮ヲ必要トスベシ」との見地を維持するものであり、十三年十一月付の「外交国策ニ関スル所見」(二九一頁)、十四年五月付の「町尻軍務局長宛書翰」(二九三頁)、六月二日付の「本庄大将宛書翰」(二九四頁)は何れもこの趣旨に立つものであつた。但し前者中の英国牽制圧迫を目的とする独仏了解の斡旋策、その具体的な諸条件、後者におけるポーランド、蔣政権を犠牲とする英国のドイツ、日本への譲歩要求等は当時の国際政治上の現実においては具体性は皆無に近かつたであらうし、更に「欧洲戦争勃発せば適時独伊と結びシンガポールを奪取一挙東亜より英国を駆逐」すべきであるが、この「戦争長引けば米国の参戦を覚悟せざるを得ずかくて欧洲戦争の好機を活用する回天の偉業成功の基礎明確を欠くに至る」恐れありとして支那事変の急速処理を要請するところも、ドイツ軍の西部電撃戦の奏功に眩惑した明後年春の「時局処理要綱」とその発想においては相通ふ点多く、共々に注目を牽くのである。「国防国策大綱」におけるソ屈服、英駆逐、米との大決勝戦といふ段階的施策の立前を、よし「支那事変」の発生、欧洲戦争の勃発といふその後における新情勢を加算するにしても今やシンガポール奪取は「国防国策大綱立案当時と方針に於て何等変ること無之」とまで推移させうるものであつたか否かも、やはり吟味を要する点であらう。六月十七日付「本庄大将宛書翰」(二九六頁)はこの関聯において東亜聯盟の観点からする「支那事変」処理、満洲国民生安定の方策を論じたものであり、六月の「満洲建国ヨリ支那事変へ」(三〇九頁)と題する講演は之を敷衍(注:敷衍(ふえん)=おし広げること。)するものである。三月講演の「世界戦争観」(二九七頁)は「戦争史大観」への解説であるが後半の信仰的裏づけにおいて「戦争史大観」に本来潜む形而上学的要素を卒直に提示したところに、又「ナポレオンの対英戦争について」(三一二頁)も陸大講義に基づく通俗講演ながらその末尾の英帝国崩壊の観察と欧洲戦争におけるドイツの有利の観察とにおいて、それぞれ見逃し難いのである。

    六 師 団 長 時 代
 舞鶴要塞司令官は概して待命予定者の任地であり石原の待命もここに切迫したかの感を与へたのであつた。偶々多田と相竝んで軍上層部に僅か二人丈けの石原の知己であつた板垣が陸相であつた為に、その庇護によつて十四年九月には却つて第十六師団長に補職されるに至つたのであつた。支那派遣軍に転出した板垣陸相のやゝ強引な置土産だつたのであろうか。
 この年二月軍の政治参与に反対して陸軍は「国軍ノ練成ニ努力ヲ傾注シテ明日ノ大作戦ニ備」(二八四頁)へるよう要請した石原の師団長就任の第一声は、登庁第三日の九月十六日の団隊長会議訓示(三七三頁)の冒頭における「軍ハ本然ノ任務ニ邁進ス」といふにあり、この為には石原は隷下団隊長に向つてこの師団が「新戦術ヲ正確ニ把握シ訓練方法ヲ革新シテ速ニ最新最鋭ノ軍隊タルベキコト」(三八九頁)を厳格に要求したのであつた。かやうな「戦力ノ飛躍的増進」の方途としてその席上石原の更に述べたところは、まづ前年の張鼓峯、半月以前に終息したばかりのノモンハンの両度の会戦において獲得した対ソ戦訓を検討しつゝ改正新操典(注:操典(そうてん)=旧日本陸軍が作成した、各兵種の教育および戦闘についての典拠書。)をも進んで拡充解釈の上、極東ソ聯軍に対する新戦法を確立し之を習得することにあつた。十二年前の昭和二年晦日に石原の起案した「現在及将来ニ於ケル日本ノ国防」はその中の戦争進化景況一覧表において第一次世界大戦の戦闘は隊形において戦闘群→面、単位において分隊であつたが、将来戦においては戦闘の隊形は〔?〕→体、単位は個人と既に規定してゐたのであり、個人を単位とすべき将来戦における戦闘法の構想は爾来石原の脳裡を恒に(注:恒に=つねに)去らぬところであつたであらう。新操典がはじめて戦闘群隊形の戦闘に立脚するものであつたに拘らず、石原はあへて之に拡充解釈を下して「新戦術ノ要領ハ分散シテ行動シ而モ適時所望ノ地点ニ其分散セル戦力ヲ統合的ニ発揮スルニアリ」(三七三頁)と断定し、敵への『前進ハ水ノ如ク「流レ作業」ノ如クナルベシ』(三七五頁)との趣旨から「之ヲ滲透(注:滲透=浸透)戦法ト名付」(三九〇頁)けて、十二月七日の「第一期教育ニ関スル指示」(三七五頁)においても之を強調し、この期間内において「第二期教育以後ニ於ケル「計画的戦闘指導」ノ基礎ヲ確立センコトヲ期」したのであり、以下七個の文書(三八二頁以下)もすべてこの滲透戦法の練成をめぐるものであつた。就中優秀兵には能力を発揮させて「兵ハ「ソ」聯中隊長ノ能力」を習得するところまで企図したこの新戦法は、蓋し(注:蓋(けだ)し=ここでは「まさしく」の意か?)純粋の武人としての石原の面目を最も発揮した局面なのであつた。聯隊長時代の日記が存在しない故に、この間の日記は石原の活潑な訓練指導の跡を日々に辿り得る唯一の記録なのである。
 この第十六師団は十五年早々には北満チチハル附近に移駐の内命を受領し、この北満移駐に関する物心両面からの準備にも亦石原は師団長としてその肝胆を砕いたのであつたが、十五年四月二十四日におけるその訓示及び説明(四〇一頁以下)はその万般に亘る行届いた配慮と之らを貫ぬく竝々ならぬ意気込とにおいて出色の文字であつた。宿縁の満洲の地においてソ聯軍と直接向い合つて、兼々唱道する東亜聯盟の国防第一線を担当することは元より石原の素懐(注:素懐(そかい)=かねてからの願い。)に違いなく、この文字の間に滲む(注:にじむ)異常な意気込も亦こゝに淵源(注:淵源(えんげん)=物事の起こり基づくところ。)するものだつたのであらう。
 しかし乍ら前々年来軍の政治参与に苦言を呈し十五年三月には「為阿南次官」(四二四頁)之を繰返したその石原が、この時期中にも東亜聯盟運動普及の講演活動を止めず、「東亜聯盟協会運動要領」、「昭和維新論第二章」を起草配布し、杉浦晴男の名義で「昭和維新論」を刊行してその中で「昭和維新方略」を策定して「天皇親政ノ下ニ新組織体ヲ結成シ皇国政治ノ指導ヲ為ス」との「国内ノ政治革新」を提唱するに至つたことは、中央部幕僚の政治参与とは別個ながらも、それ自体が政治活動と目されたのも否み難いところなのであつた。従つて陸軍内における統制の恢復をその抱負の一とした東条(注:ママ。東條?)陸相が之を看過しえなかつたのも強ち(注:あながち)単なる個人的な感情上の軋轢とのみは看做し難く、東条(注:ママ。東條?)は十六年一月の閣議声明を以て暗々裡に東亜聯盟の解散の意図を表示するに至つた。既に陸相としての板垣を喪つて(注:うしなつて)ゐた石原が次いで三月待命となつたのはその自然的な帰結であつたが、石原の薫陶をうけて東亜聯盟思想をも鼓吹された第十六師団を石原宿縁の地満洲に移駐させることも之に関聯する予防措置として取止めとなり、石原の孜々(注:孜孜(しし)=熱心に努め励むさま。)として練成した対ソ滲透の新戦法の北満展開もこゝに一場の夢と化したのであつた。但し翌年満洲に第二十八師団が新設された際には第十六師団の中から奈良聯隊丈けがその組成聯隊として呼び寄せられて、遼陽附近の駐屯地における訓練においてこの石原戦法を墨守し、自ら関東軍の対ソ新戦術の参考ともなり他の在満洲部隊にも暗々の影響力を及ぼして行つたのであつた。
 この時期における建言類を一覧すれば「為木村中将」(四二八頁)は満洲国の政治指導について、「所謂総力戦ニツイテ」(四三〇頁)はその抱懐する総力戦の諸要素についてそれぞれ簡明に述べたものであり、「支那事変処理方針」(四二六頁)はそれらの実行について本庄内閣の出現を期待したものであつた。十六年一月附の二通の「書翰」(四三二頁)は日米関係切迫の徴候を迎へてその事前に蔣政権との和平達成が必須な旨を力説したものであり、石原はその為には「如何なる犠牲も面目問題も躊躇拘泥すべきにあらず」とまで主張したが、それは先に「昭和維新論」の中で「中華民国の東亜聯盟加入、その基本的条件としての民国による満洲国の承認」を主張し、半年前執筆の上記「支那事変処理方針」の中でも之を繰返したところとどう関聯したのであつたのであろうか。前年九月まで半ヶ年間断続した所謂桐工作の打切りの主因の一つは、支那派遣軍総参謀長に転出した板垣が石原の提唱を容れて蔣政権の満洲国承認を和平条件の一として固執したに対して、蔣政権が之を受諾しなかつた、正にその点に存したのであつた。何れにしても前年九月の三国条約締結と共に日蔣間の対立は日独伊対英米蔣の世界的対立の一環にまで昇格してその後は日蔣間の単独妥協は最早原則的に不可能に近く、蔣政権の方はむしろ日米開戦の勃発に前途の希望を托するに至つたのであり、日本を日米戦争に専念させる為に之と妥協の途に出ることは満洲国取扱いの如何に拘はらず蔣政権の最も欲しないところだつたかと眺められるのである。
 「石原中将回想応答録」(四三二頁)は十四年秋参謀本部支那事変史編纂部の為に行つた一問一答であり、その際同部は竹田宮を特に質問者に充てて卒直な回答を引き出すよう配慮をも払つたのであつた。十一年八月策定の「対ソ戦争指導計画大綱」の中には戦争指導機関について既に総括的な研討(注:ママ。検討?)が加へられてゐたにも拘らず、「支那事変」の当初期は石原の省部内における甚しい孤立と共に省部内における前後ない乱脈ぶりをも露呈したのであり、この回想は十一年夏に行つた検討と十二年夏における現実との交錯に向つて苦渋な反省を加へたものであらう。十六年三月付〔退官挨拶〕は現役軍人としての石原の告別の辞であつたが、冒頭「今度宿望叶ひまして」と述べたところは惟ふに抑揚修飾の言ではなくその衷情だつたのであらう。石原が満洲事変後及び二・二六事件後共に辞意を表明したこともこゝで自ら明にした点であり、之に関東軍参謀副長時代のそれを加へれば、この度の宿望と合せて石原は前後実に四度び辞意を固めたのであつた。今試みに例へば武藤等の行き方と較べるならば、石原の諸構想も新戦法も何れも彼らより遥かに革命的であつたにも拘らず、之を達成する上の機構人としての執拗さと図太さにおいては石原は彼らに遥かに劣つてゐたのであつた。四周が呆気にとられる迄の思い切つた政治的活動とそれに相表裏する淡泊な弱気、この両面の対照は石原の人間的魅惑の一要素ではあつたにしても、その構想や戦法の現実的挫折においては亦その一要素を為したのであろうか。

    七 民 間 時 代
 予備役編入を以つてこゝに自由な民間人となつた石原は、退官の挨拶で予告した通りに講義に講演に積極的な活動を始めるに至つたが、現職武官としての拘束が解消したこの時期においてはその活動の基調も自づと運動指導者、思想家、宗教家としての観点へと推移して来た模様であり、国防に関係ある諸論策と雖もこの時期に入つて執筆されたものはむしろ如上(注:如上(じょじょう)=前に述べたとおり。)の観点からの理解を必須とするやうなのである。この小文は専ら「軍人としての石原」を、殊に政策担当の武官々僚としての石原の構想とその運命を瞥見して来たものであつたが、今や之までの石原自身の運命の得失さへも如上の観点からは別個の照明を浴びるに至つたと眺められ、こゝに始まる新しい風光を前にしてこの小文も最早その筆を擱く(注:おく)べきであろう。






【参考ページ】
1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)
1931年 柳条湖事件(満州事変へ)
「満州事変」に関する資料集(1)
「満州事変」に関する資料集(2)
「満州事変」に関する資料集(3) 〜このページ
1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。)
1937年 廬溝橋事件(支那事変へ)
「支那事変」に関する資料集(1)
「支那事変」に関する資料集(2)
「支那事変」に関する資料集(3)
「支那事変」に関する資料集(4)


【LINK】
石原莞爾
LINK 石原莞爾 - Wikipedia
LINK クリック20世紀石原 莞爾
LINK ようこそDr.町田のホームページへマイエッセイのページ石原莞爾再考
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 新日本の進路 石原莞爾將軍の遺書
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 戦争史大観




参考文献
「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―」角田順 編、原書房、1967年
「東亜の父 石原莞爾」高木清寿著、たまいらぼ(発行者:玉井禮一郎)、1985年(注:この本は復刻版で、元本は錦文書院 1954年です。)
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK コトバンク晨星 とは
LINK コトバンク揺曳 とは
LINK 馬占山 - Wikipedia
LINK コトバンク壟断 とは
LINK コトバンク危殆 とは
LINK コトバンク懈怠 とは
LINK コトバンク曠職 とは
LINK コトバンク淵源 とは
LINK コトバンク閲する とは
LINK コトバンク忖度 とは
LINK コトバンク撞着 とは
LINK コトバンク敷衍 とは
LINK コトバンク操典 とは
LINK コトバンク浸透・滲透 とは
LINK コトバンク素懐 とは
LINK コトバンク滲 とは
LINK コトバンク喪 とは
LINK コトバンク孜孜 とは
LINK コトバンク如上 とは

更新 2013/11/7

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