☆ゲームで南北朝!!☆

PCエンジンCD-ROM版
「太平記」

(1991年、発売元:インテック)


◎リプレイその1(尊氏編)◎

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 さて、それではいよいよCD-ROMゲーム「太平記」のリプレイ記事です。まずは順当に初心者向けとも言える足利尊氏でのプレイです。藤夜叉の「では、はじめとうござります」という挨拶とともに、レッツ・プレイ!

◎序盤〜足利軍、関東制圧へ

 ゲーム開始時点は、中先代の乱平定のために関東にくだった足利尊氏が、ついに建武政権に反旗を翻す決意をした1335年10月。その時点での北朝・南朝勢力分布は下図のとおりである(2画面を合成している)。



 青が北朝(武家方)、赤が南朝(宮方)というわけだが、南朝勢力は敵の大将・新田義貞のいる畿内、北畠顕家 がおさえる東北に強力な軍団を配置している。北朝勢力というか我が足利勢力は鎌倉のある南関東を押さえているが直轄地は紀伊・加越・備前美作・讃岐阿波と各地に点在し、連携が悪い。また一見青色の味方が多いように見えるのだが、多くは独立勢力で、状況次第で転ぶ油断のならない連中である。
 史実では新田義貞が尊氏を討つべく東下し、これを撃退した尊氏が逆に西上…という展開だったのだが、ゲームでは義貞も尊氏もお互いに自分の本拠地近くに強力な敵を抱えており、うかつに動けない。また史実では尊氏は東北から攻め上った北畠顕家軍に背後を襲われたので、尊氏プレイヤーとしてはどうしても、まず東日本制圧を優先する戦略をとることになる。

 このゲーム、「戦わずして勝つのが最上」という孫子も説いた戦略をとるのが必須である。CPU思考もそうなっていて、さっそく義貞が近場の北朝勢力・佐々木道誉に「交渉」コマンドを連打し始める。「婆沙羅」パラメータの高い武将は大金や名刀を贈られるとあっさり寝返っちゃうのだ。ことに婆沙羅数値ナンバー1(そりゃそうだ)の道誉は近江と石見安芸に領地を持っており、これが寝返ると情勢に大きく影響する。こちらも義貞に負けじと道誉に「裏切らないでね」と送金交渉を行う。
 同時にこちらも手近な南朝勢力に交渉をしかける。上図の色の薄い勢力はその天朝への忠誠度が低いことを意味するのだが、南関東の房総を支配する千葉貞胤がかなり薄い。わたくし尊氏はさっそく千葉さんに大金を贈り、あっさりと北朝方に鞍替えさせた。
 あと色の薄い南朝方といえば、長門周防を支配する小田治久がいる。史実では常陸にいた人のはずだが、とにかくこのゲームではこの位置の独立勢力。これを味方に鞍替えさせれば中国地方の足利軍がかなり動きやすい。

 この小田氏を説得する道具を得るため、わたくし尊氏は光巌帝に拝謁してみた。このゲームではいつでもどこでも帝に会えるんだから便利(笑)。もっともたまに「不快のため」とかで追い返されるけど。
 拝謁して「献上」を実行。ドーンと奮発して金100を献上すると、左図のとおり「綸旨(りんじ)であるぞ」と綸旨を下される。史実でも尊氏は光巌上皇の院宣を受け取って「我こそが官軍」と主張したものだ。
 さっそく下された綸旨を小田治久に送って見た。まあまあの反応だったが、すぐには寝返ってくれない。さらに「名刀」をプレゼントし、「説得」コマンドで交渉を繰り返すが、寝返りには至らず。危険に気付いた義貞も反撃して小田治久に説得攻勢をかけている模様。
 この間に楠木正成から「戦場にて見参つかまつる」と挑戦の手紙が届く。とくに意味はないのだが、敵対度の高い独立勢力からはこんな調子で挑戦状がやたらに届くのだ。

 千葉氏を味方につけて背後を突かれる心配が消えたところで、わたくし尊氏は鎌倉は弟の直義に任せ、大河ドラマよろしく一色右馬介を従えて、となりの武蔵へと進軍した。ここに控えていた高師直上杉憲房ら足利軍団と合流し、関東における新田直轄領・上野の攻略にとりかかる。ちょうど高師詮も元服して戦線に加わったので好都合。
 年も明けて1336年2月、尊氏・師直・師詮・憲房の軍勢が上野へ侵攻した(左図)。数の上では一見いい勝負だが、こちらは統率力の高い武将4名の構成のため、それぞれの部隊の兵士数が断然多い。新田軍は戦闘力は高いが統率力に欠ける武将が多いため各部隊の兵士数は少なく、我が軍はそれらを各個に包囲殲滅する、という戦法をとる。戦闘は終始こちらの優勢で進み、かなわぬと逃亡を図った大館氏明も捕縛、最後は義貞の子・新田義顕を利根川のほとりの城(反町館?)に包囲し、全滅に追い込んだ。
 このゲームでは厳密な意味での「戦死」は存在せず、部隊が全滅した武将は全て捕縛される。合戦が終わると捕らえられた武将達の処分が行われるという手順だ。新田義顕はさすがに敵の大将の一子であるから速攻で斬首。大館氏明は「召抱える」を二度も断ったが無理やり三度目の説得で家臣に加えた。新田四天王の一人の猛将・篠塚重広は降参をすすめた途端に「敵の手に落ちるぐらいなら死んだほうがましじゃ」と自害してしまった。上野にいた他の新田家臣も簡単には投降に応じないのでとりあえずみんな放免してやった。
 

◎西国の大激戦

 翌月(1336年3月)は西日本各地で一斉に動きが起こった。まず土佐の新田配下・土居通増の率いる軍勢が、足利直轄地である阿波讃岐に侵攻してきた。この地の国主である細川頼らがこれを迎え撃ち、激闘の末に敵の大将・土居通増を捕縛する事に成功した。当然ここで合戦は終わりで、通増は斬首(君主クラスは斬首以外選択肢が無い)。土佐の新田軍は忽那義範が引き継ぐことになった。

 なんとか土居軍に勝利した細川軍であったが、辛勝のうえ軍勢はかなり減っていた。これを見逃すCPUではない。伊予の南朝方・四条隆資がさっそく大軍で阿波讃岐に攻め込んできた。細川頼春はやむなく総退却を選択し、瀬戸内海を越えて備前へと逃亡。細川和氏は下野し、河野通盛は四条軍に投降してしまった。
 中国地方では足利直轄の備前美作で大軍をそろえていた高師泰斯波義将らを出陣させ、山陰の南朝勢力・名和長年を攻略させる。しょせんは「鰯(いわし)売り」なのかあまり強くない名和軍、包囲攻撃の前に長年自身の部隊が全滅して合戦終了。長年は首をはねられ、初の滅亡勢力となり「栄枯盛衰は世の常にして名和長年滅ぶ」と字幕が出る。直前に元服していた息子の名和義高は投降に応じ、以後どういうわけか我が足利軍の主力の一人になったりする。ついでに塩冶高貞も投降してきた。

 同年4月、名和軍滅亡で背後の憂いがなくなった備前美作から、細川顕氏・細川頼春らの足利軍が阿波讃岐奪回のために海を渡った。合戦が始まったら、南朝軍で出陣していた河野通盛が戦場でいきなり北朝方に寝返りを打ち、敵味方のバランスは一気に崩れた。やはり降参したばかりの武将を味方に加えて出陣させるのは、この時代危険なんである。かくして四条隆資は捕らえられ、史実よりかなり早い「戦死」とあいなってしまった。独立勢力・四条軍は土居通世に引き継がれた。

 上野を占領した尊氏だったが、忠誠度を上げるヒマもないうちに降参したばかりの大館氏明が逐電し、なぜか赤松円心のところに転職してしまった。まぁ敵に回るよりはマシだし、その後上野からは先の戦いで浪人化した新田家臣が頭を冷やして就職しに来たので(「捜索」コマンドで埋もれた人材として発見できる)、あたま数は揃ってきた。
 関東制圧・東北遠征のためには下野の結城親光をなんとかしなければならない。しかし下野には大軍がおり、これを仮に破ったとしてもこちらも兵数を減らすのは確実で、そうなると東北の北畠軍がなだれこんでくるのも必至。ここは一つ下野の兵数を減らそうと軽く出兵してみる。一色右馬介を大将に15000の軍で武蔵から下野に侵攻してみると、結城軍は23000で迎撃してきた。川(渡良瀬川?)を挟んで死闘が続いたが右馬介は戦闘力はあるが身分が低い(統率力が低い)ために部隊の人数が少なく、無理せず早々と撤退。兵士の数さえ多ければたいてい無事に撤退できる。

 さて7月になり、先ほど主君を失った伊予独立勢力に対して豊前豊後の北朝独立勢力・少弐頼尚が渡海して攻撃をかけた。阿波讃岐侵攻戦で細川軍に敗れたばかりの伊予勢はひとたまりもなく敗れ、君主の土井通世は処刑された。ここにまた一つ独立勢力が滅亡したことになる。
 ひとたび軍勢が動き、合戦がおこればどこかの兵力が少なくなる。するとただちにそこへ隣国が侵攻する…という合戦ドミノ現象はこうしたゲームにはよくあること。直後に伊予への侵攻で手薄になった少弐氏の拠点・豊前豊後に肥後の菊池武敏の軍勢が侵攻し、あっさりこれを占領してしまった。南北朝でも見られた九州の三つ巴乱戦状態がまさに再現されつつある。

 一連の合戦ドミノが一段落し、各勢力ともしばし休養・補給体勢に入る。この間にも義貞と尊氏の間で道誉に対する激しい交渉合戦が展開され、予断を許さぬ情勢になっていく。尊氏が腰をすえてしまった上野には北条高時の亡霊が出現、「尊氏に天下をとらせてなるものか〜」と怖い肉声を発し、3700名の兵士が恐怖で逃亡してしまう(笑)。このゲームでは武将としての登場はしないんだけど、別の意味でやたら存在感がある高時サンである。
 12月になると、尊氏の庶子・足利直冬が史実よりかなり早い元服をして戦線に参加してきた。尊氏の実子だがこのゲームではあくまで直義の子ということで直義のいる国に出現する。このあたりに微妙な父子関係が再現されてるわけだが、観応の擾乱は起こらないこのゲームでは、尊氏でプレイしている限りこの息子と戦う心配はあまり無い。

 この12月、畿内で大きな動きが起こった。畿内北朝方の有力勢力・播磨の赤松円心がついに軍を動かしたのだ。攻撃対象は摂津河内の楠木正成 。悪党出身で山岳ゲリラ戦を得意とした似た者同士のガチンコ対決、南北朝ファンにはたまらない対決なのだが、どちらも独立勢力ゆえに合戦の見物はできない。合戦はCPUで自動処理され「赤松軍の勝利」との字幕が表示されるだけだ。賢い正成は無理な合戦を避けて兵力のあるうちに伊賀大和に退却した模様。楠木の重臣・恩地左近はこの戦いで円心に投降し、結局ゲーム終了時まで赤松家臣の立場を貫いてしまった。やはり似た主人ということで気が合ったか?(笑)
 その直後である。ついに義貞の説得攻勢に佐々木道誉が南朝方に鞍替えしてしまった!これにより彼の支配する近江と石見安芸がこちらにとっての敵地となり、戦略の練り直しを迫られる。


◎昨日の敵は今日の友
 
 史実と異なり意外に外交巧者の義貞、道誉だけではなく摂津を占領したばかりの赤松円心にまで説得攻勢をかけ始めた。これはヤバいと思ったわたくし尊氏も必死に道誉・円心への説得工作を仕掛ける。こういった連中には綸旨はほとんど効き目がなく(バサラは権威を認めないのだ!)、大金と名刀を贈ってご機嫌をとるのが基本である。実はこの辺も尊氏の史実を髣髴とさせる。
 しかし道誉軍の動きが予想外に早い。ちょうど名和攻略と讃岐奪回で手薄になっていた足利直轄の備後美作に、佐々木領・石見安芸を治める佐々木貞氏の軍勢が攻め込み、あっけなくこれを占領してしまった。

 年が明けて1337年1月。留守の間に本拠地を失った少弐頼尚はついに血迷ったらしく、伊予から新田直轄地の土佐に侵攻して手痛い敗北を喫した。これを見た我が軍は手薄になった土佐に、讃岐阿波から細川頼春らの軍勢を差し向け、あっさりと土佐を占領。連戦連敗で兵力を減らした少弐軍を見て、豊前豊後から菊池軍が伊予へと侵攻、そのまま少弐軍を全滅させてしまった。ここに独立勢力・少弐氏も滅亡することとなったのだが、頼尚の父・少弐貞経は隠居のためかこのゲームでは家臣扱いで、菊池氏に投降して終盤まで生き延びるという変な事態になってしまった。
 この時点での全国情勢は下図のとおり。



 4月、ついに武蔵の足利軍を動かし、下野の結城氏を滅ぼしにかかる。足利直義・直冬父子に一色右馬介らの組み合わせの2万7千の軍勢で攻め込み、右馬介部隊が全滅するハプニングもあるも、直義・直冬父子の大軍タッグは強力で次々と敵部隊を撃破。籠城戦もかなわぬと見た結城親光は最後に逃亡を図ったが捕らえられ斬首。ここに独立勢力・結城氏も滅亡した。
 関東平定が実現し、鎌倉のある相模伊豆と武蔵は用の無い安全地帯となる。こういうところは生産国にして「捜索」コマンドを打ちまくり、金や名刀をためこむのがセオリー。そうした金や名刀を道誉や円心にせっせと贈って交渉をしかける。このプレゼント攻勢に道誉のセリフも「天子が二人おわす以上、いずれにつくかは我が存念次第」「足利尊氏殿、我も武士なれば帝のためにのみ事を運べましょうや!」と次第に変化。ようやく7月に道誉は北朝方にとんぼ返りを打った。口惜しいが天下のために備後美作はくれてやることにする。その後も義貞は道誉・円心に交渉工作を仕掛け続けるので油断がならない。
 このころから北朝方の独立勢力から「天下統一のためにお使いくだされ」と献金が相次ぐようになる。それほど優勢な情勢になったとも思えないのだが、島津氏や今川氏といった手堅い北朝勢力から献金が毎月のように来る。これで財政事情は問題無しとなる。それとこの月、足利尊氏の嫡子・足利義詮が元服して父のもとに出現。身分が高いということで統率力抜群のためかなり頼りになる。しかしこの時期の義詮ってまだ10歳前後じゃなかったっけ?

 このゲーム、敵国の情勢は面倒くさがらずにマメにチェックしたほうがいい。何となく伊予の情報を調べたところ、当主の菊池武敏は九州に帰っていて不在で大した武将もいないことが判明(統率の低い武将ばかりだと出陣できる兵力が減る) 。すわチャンスを逃すな、と讃岐阿波から細川顕氏らに2万3千の軍を率いて伊予に侵攻させる。守っていたのはもと四条軍や少弐軍の投降組ばかりの15000で、山岳地帯の戦闘にいささか手間を食うがどうにか大将部隊を全滅させて伊予占領。ここに四国は足利軍が全占領することとなった。

 佐々木道誉が北朝方に鞍替えしたのを見て、南朝方・長門周防の小田治久が手薄な石見安芸に攻め込み、これを占領した。それを見て出雲伯耆にいた高師泰・高師冬・名和義高ら3万の足利軍を石見安芸に侵攻させる。小田軍もそこそこの数で迎撃してきたが、佐々木軍から投降したばかりで忠誠度が低い大森義継厚東武実がそれぞれ3千・5千の大部隊を率いたまま戦場でコロッと寝返りを打ったからたまらない。あっという間に劣勢に陥った小田治久は無理せず早めに長門周防へと退却して行った。この一戦により道誉という不安定要素はあるが、中国地方もおおむね北朝方の支配地域となる。

 9月に入り、伊賀大和では正成の子・楠木正行が元服して登場した。跡継ぎの不安がなくなって安心したのか、正成は摂津河内奪回に出陣し、円心とのリターンマッチを制して摂津河内をみごとに奪回した。そして驚いた事にそのまま海を渡って我が直轄地である讃岐阿波に侵攻してきたのである。
 確かにこのとき阿波は四国平定戦で手薄となっていた。赤松軍が摂津を占領しているうちは安心だったのだが、赤松軍が敗退した現在、この地はまさにがら空きだったのだ。武将も手勢も少なく、先の戦いで浪人化していた細川和氏を発見・登用したばかりで迎撃に出たが、なんとこの和氏が戦場で楠木軍に寝返りを打ってしまう。用心して少数の兵しか与えなかったので大事には至らなかったが、楠木軍とは勝負にならないと判断、足利軍はとりあえず土佐へと退却した。
 その直後に伊予から細川顕氏ら3万の大軍が讃岐阿波奪回のために出撃。正成は城に立てこもって抵抗し、こちらはとにかく正成一人に集中包囲攻撃をかけまくる。さしもの正成もついに部隊全滅。他の楠木家臣たちはあらかた退却に成功した。

 そして捕らえた正成の処分を行わねばならない。ああ、惜しい!惜しいが君主クラスは「首を斬る」以外の選択肢はないのだ!嗚呼忠臣楠子之墓。大河ドラマの尊氏の気分であるが、首を正行のところに送ってやることもできず。
 当主を失った楠木軍は弟の楠木正季が継ぐのかと思ったらさにあらず、元服したばかりの嫡子・正行が当主の地位を継いだのだった。

 惜しいとか言っておきながらも、敵の弱みにつけこむのは戦乱の世を生きる知恵。手薄になった楠木勢に追い討ちをかけるべく、足利直轄地・紀伊の畠山国清ら3万の大軍が伊賀大和へとなだれこんだ。大和盆地での戦いは足利軍優勢のまま進み、楠木正季の部隊も包囲殲滅された。捕らえた正季には投降を勧告したが、さすがにウンとは言わず、三度目の勧告で自害をしてしまった。さすがは「七生報国」の元祖である。
 しかし直後に山城(京)から義貞率いる大軍が伊賀大和奪回に進撃してきて、畠山らは傷が広がらないうちにとさっさと紀伊に撤退することになった。


◎北陸・畿内の激戦

 讃岐阿波奪回のために手薄になった伊予に、今度は日向の南朝勢力・阿蘇惟時が攻め込んでこれを占領した。するとそれで手薄になった日向に薩摩大隅の島津貞久軍が攻め込み、あっさりと占領。帰る国を失って慌てふためく阿蘇軍に、石見安芸から高師泰・師冬・名和義高の山陰軍団が襲い掛かり、これまたあっさりと伊予を奪回。阿蘇惟時は処刑され、独立勢力・阿蘇氏も滅亡である。
 島津氏が占領した日向だったが、今度はそれを菊池軍が奪い取り、九州は菊池VS島津の死闘が続く。このゲームではなぜか肥前にいる大友氏は北朝方だが、この両者の死闘を横目に見物してまったく動かない。結局ゲームの最後まで肥前は平和のままに終わった。まぁこれも乱世の一つの生き方だろう。このプレイ時には常陸の佐竹、房総の千葉、駿河の今川、信濃の小笠原、因幡但馬の山名などが最後まで何もしないで乱世を見物していた。献金だけはしっかりとしてたけどね(笑)。

 1338年1月、義貞と尊氏の両方からラブコールを贈られ続けていた近江の佐々木道誉がついに動いた。新田直轄地で船田義昌 が治める若狭丹後に攻め込み、これを占領したのである。しかしこれは道誉らしからぬ軽率な行動。越前に逃れた船田義昌はただちに大軍をととのえ、手薄になった道誉の本拠地・近江に攻め込んであっさり占領してしまった。そこまでしながら義貞は道誉に金銭での説得攻勢をかけ味方になるように誘っている。
 この戦況により北陸の軍事バランスが崩れた。わたくし尊氏は足利直轄地・加越を治める斯波高経を2万3千の兵と共に越前に攻め込ませた。越前の戦場マップはあの「金ヶ崎城」となっており、守る新田勢の大将は堀口貞満。斯波軍は海陸から金ヶ崎城を包囲攻撃してこれを攻め落とす。捕らえられた堀口貞満は降伏を拒んで自害した。

 こちらが戦後処理やら何やらで油断している間に、義貞の説得に応じちゃった道誉がまたまた南朝に鞍替え。北陸・中国の情勢にまた異変が起こる事になってしまった。斯波軍が留守にした加越には越後から新田軍が攻め込み、占領してしまう。
 そして道誉が味方になって背後の憂いがなくなった近江から船田義昌が2万5千の軍で越前奪回のために攻め込んできた。迎え撃つ斯波高経軍は1万8千。金ヶ崎城に籠城しても勝ち目は無いと判断して、斯波軍は城を出て戦場をあっちこっちと走り回る作戦に出た。なぜなら、このゲームでは守備側は20日間守りきれば勝利というルールなのである!
 とにかく大将部隊が全滅しないようにと逃げ回り、どうにか20日間を耐えしのいだ(左図)。船田軍は強制的に退却となり、船田経政は捕らえられ、投降を勧めた途端に自害してしまった。
 しかしその直後に近江から栗生顕友率いる9600の第二軍が越前に攻め込んできて、3800しか兵のない斯波軍は善戦空しく全滅。斯波高経は新田軍に投降することとなった。だが間もなく高経は新田軍から逐電してなぜか駿河の今川氏に転職してしまい、ゲーム終了時まで平和に暮らす事になる。途中でしっかり一子をもうけていたりしたな(笑)。
 
 忙しいことに4月になって道誉はまた北朝に寝返りをうち、この越前に攻め込んで占領した。するとこれに呼応するかのように美濃飛騨の北朝方土岐頼康が近江に攻め込んでこれを占領。すると今度は伊勢志摩の北畠親房軍が初めて動いて近江を奪取。それを見てこちらも紀伊の畠山軍を動かして伊勢志摩に侵攻・占領。そしたら伊賀大和から義貞の大軍が紀伊に攻め込んでたちまち占領…とまさにドミノ倒しな展開が畿内周辺でも起こっていく。

 この畿内の混戦に乗じるべく、こちらも讃岐阿波から細川頼春ら3万の大軍を楠木家拠点・摂津河内に侵攻させる。楠木軍は険峻な千早・赤坂の堅城にたてこもって応戦。それでもCPUはついつい敵の大将を取り囲もうとする思考ルーチンを持っているので頼春を近場にウロウロさせると我慢できずに城から出撃してしまう。これを各個包囲殲滅していくが、さすがに千早赤坂の地形は険しく、山地を移動するだけで時間をロスしてしまう。そうこうしているうちに20日間の時間切れが迫ったため、やむなく頼春は退却した。ところで敵の楠木軍には先ごろ足利軍から寝返った細川和氏が武将として加わっており、思わぬところで兄弟対決になっちゃったりしていた。
 いったんは退却した細川軍だが、小田治久も北朝に鞍替えして平定が済んだ中国地方から援軍を呼び、8月に改めて摂津河内攻略に乗り出した。細川顕氏・頼春・斯波義将ら率いる5万の大軍で満を持して臨む。楠木軍は3万5千の軍勢で千早赤阪の山岳地帯に拠って迎え撃つ。細川軍は先ほどもやった戦略どおり、大将の顕氏をおとりにして楠木軍の各部隊をおびきよせ、その隙に他の4部隊で千早赤坂の城壁にとりつき、城中の正行を包囲攻撃(右図)。さすがに時間がかかったが16日目についに正行軍全滅。正行は処刑され、独立勢力の楠木家もここに滅亡することとなった。楠木軍に加わっていた細川和氏は二度の降伏勧告を受け入れて足利陣営に戻ってきた。


◎九州・北陸・東北平定

 九州では菊池VS島津の泥仕合が続き、いつの間にやら島津が北九州、菊池が南九州を支配する逆転状況に。日向の菊池軍が手薄と見て、伊予に駐留していた高師泰・名和義高ら山陰軍団を日向へ侵攻させる。日向を守るはこのゲームでも屈指の勇将・菊池武光 で、さすがに手強い。しかしこちらも強力な大軍で武光一人に集中して包囲攻撃をしかけると、さしもの武光部隊も全滅。捕らえた武光を召し抱えようとしたがさすがに二度の投降勧告に応じず、三度目をやったら自害する恐れ大と考えてとりあえず逃がしてやった。で、この直後に「捜索」をやると埋もれていた人材として武光が発見され、以後この九州平定軍の主力の一人となっちゃうのである。

 北陸では佐々木道誉の軍が越前からさらに加越に侵攻し、これを占領。しかし越後の新田軍がただちにこれを奪回する。すると越後の軍勢が少なくなったと見たわたくし尊氏は、息子・義詮に高師直をつけて3万の大軍で越後へと侵攻させた。信濃川を眺めつつの戦いは数にものを言わせた足利軍の圧倒的優勢で進み、城にたてこもった大館氏清は全滅して捕らえられ、降伏勧告を聞かずに自害してしまった。
 加越の新田軍は越後奪回は無理と判断したようで、越前の道誉軍に攻撃をかけ、一度は撃退されるも二度目で越前を占領した。ということは加越は手薄になるわけで、越後から高師直に率いられた2万の軍が加越に侵攻。守る船田義昌は衆寡敵せず、国中を逃げ回って時間稼ぎを図ったがついに捕らえられ、自害して果てた。ここで瓜生保ら、北陸南朝武将が数名足利軍に投降してきた。
 年が明けて1339年1月。天下の情勢は下図のようになった。日本列島が北朝の青色でかなり染まってきた。


 さて足利軍にとって脅威なのは東北にいる北畠顕家勢力である。陸奥南部(ゲームでは陸前)に顕家自らが率いる6万5千という大軍が控えておりうかつに手を出せない情勢が続いていたのだが、情報収集を行ってみると顕家ら主力が越後攻略のためか出羽に移動していることが判明した。それっ、とばかり直義・直冬・右馬介らの軍団を陸前に侵攻させる。迎え撃ったのは元服したばかりの顕家の一子・北畠顕成(この時点ではまだ赤ん坊だったんと違うか?)だったが、足利軍団の大軍の前にはとてもかなわず、海上に逃げたところを捕縛した。一応降伏を勧めてみたが、幼いながらも南朝忠誠心は厚いようで自害してしまった。
 
 一方、九州では菊池氏が支配する最後の南朝国となった薩摩大隅に、日向から高師泰・名和義高ら山陰軍団が攻め込んだ。登用したばかりの菊池武光も味方として出陣させ、菊池武敏らとの同族対決のオマケもついた。もはや菊池氏に撤退する隣国はないので、武敏だけに集中攻撃をかけ、ついに全滅させる。ここに菊池氏は滅亡し九州も北朝勢力で統一された。薩摩の統治は投降した少弐貞経に任せて、高師泰らの軍団は四国へと戻り、畿内攻略の機会をうかがうことになる。

 2月。顕家軍主力が出羽から陸奥に戻ったことを確認して、越後から足利義詮率いる2万9千の軍が出羽に攻め込む。迎え撃ったのはこのゲームでは顕家軍武将となっている(実際にそうだったこともある)宇都宮公綱 の率いる2万4千。ここでも足利軍は大将・公綱への集中攻撃に徹し、ついにこれを全滅させて捕縛した。降伏を勧めてみたらあっさり一発投降し、名刀を何本か与えてみたらグイグイと忠誠度を上げ、以後宇都宮公綱は足利軍主力として活躍しちゃうのであった。この辺も史実どおりである。
 東北北畠領もついに陸奥一国。1339年5月、ついに尊氏も上野を出て直義軍に合流し、足利兄弟&両方の息子のファミリータッグの4万5千で陸奥に攻め込んだ。顕家の逃げ場はもうないから、とにかく顕家一人を足利一家で集中攻撃。右馬介部隊がまた全滅するという誤算もあったが、とうとう顕家軍全滅。顕家は処刑され、ついに東北全域が尊氏の手に落ちた。意外にあっさり降参した結城宗広に陸奥の統治を任せ、足利軍団は尊氏・直義軍が中山道を、義詮・師直軍が北陸道を平定しながら機内を目指すことになった。
 なお、このゲームでは直轄地の統治を国主に「委任」することもできる。この頃になって来ると支配国が多くなって面倒なので裏切りそうにない家臣に統治を委任(つまりCPU処理)することになる。金集めなんかはCPUのほうが得意なぐらいだ。

 もはや畿内にしか味方がいなくなった義貞は焦ったか、自ら3万の軍を率いてこちらの直轄地・伊勢志摩に侵攻してきた。迎え撃った畠山国清は2万8千と劣勢の軍勢ながら、新田軍の各部隊を各個撃破して持ちこたえ、義貞もついに諦めて退却していった。


◎畿内攻略戦〜天下統一へ

 7月。足利義詮・高師直・宇都宮公綱らの4万の大軍が加越から越前へ進撃、何度目かの金ヶ崎城攻防戦が行われ、足利軍は海陸から城を包囲攻撃して陥落させた。新田軍の武将達はなかなか投降せず、あらかた逃がしてやる。義貞はもう何もできないのか、しきり道誉に説得攻勢をかけるばかり。
 尊氏の天下取りが近い事を感じたか、あちこちの大名から献金が相次ぐ。合戦が減ったために経済的に余裕があるのか献金額は上昇気味で、尊氏は常に限度額の999金を持って歩くことに。高時の亡霊が領内に出現して「尊氏に天下をとらせてなるものか〜」と肉声でわめくのを尻目に、尊氏直属軍団は甲斐・信濃へと進軍する。甲斐は武田氏、信濃は小笠原氏の領地で、こうした味方の独立勢力のところへ進軍できるのは総司令官クラスの尊氏と義貞だけに出来ることなのだ。

 ここで三河にしぶとく南朝方で孤立する井伊道政の勢力を調査する。すると、驚いたことに先ほど亡霊で出てきた高時の遺児・北条時行が井伊軍の配下にいるではないか!一緒に中先代の乱を起こした諏訪頼重も一緒だ。これは面白いと信濃で徴兵、尊氏自ら三河へ侵攻することにした。
 1340年1月、尊氏直属軍団は三河に侵攻した。足利軍4万対井伊軍3万で、意外に苦戦も強いられたがどうにか勝利。井伊道政を処刑して井伊家滅亡。北条時行に投降を勧告すると二度目で家臣となることを承知してくれた。ふがいない主人を見て絶望したのか、諏訪頼重は誘いを蹴って自害してしまった。

 この1340年はゲーム最後の元服ラッシュで、義貞の子・新田義興、尊氏の子・足利基氏らが登場。また楠木家が滅亡しているため元服と報告は出ないが、楠木正時楠木正儀兄弟が浪人として登場する。このプレイ時には正時は足利軍に、正儀は新田軍に就職して敵味方に分かれてしまった。
 今回のプレイは全武将データを確認することも重要な目的。この時点で233名を確認しており、あと2人を残すのみだ。あと2人となるとこの世代では細川清氏・細川頼之あたりしか思い当たらず、彼らの登場を待つべくのんびり攻略を進めることにする。

 この年9月、紀伊の義貞は再び伊勢志摩に侵攻した。双方ともに3万5千のほぼ同数で、攻撃をしかけるにはいささか無謀の感のある兵力で、義貞の焦りっぷりを感じてしまう。同数勝負で人間がCPUに負けるわけはなく、足利軍は新田軍を各個撃破、最後に残った義貞部隊は先ほどのように退却するかと思いきや、国内の城に立てこもって篭城戦を始めてしまった。ああ、義貞くんやっぱり頭が良くないなぁ、などと思いつつこの城を包囲殲滅。ついに捕らえられた義貞は当然処刑。なにやら場所こそ違えど史実を髣髴とさせる死に方ではあった。
 主君を失った新田軍、先ほどの楠木軍の例からすると一子・義興が後を継ぎそうなものだが、まだ幼いという判断なのか、義貞の弟・脇屋義助が南朝総司令官の地位を継いだ。

 もう勝負は見えているので、尊氏はのんびりと軍勢を進め、光巌帝に拝謁してそのコメントのバリエーションを調べたりして遊んでいた(笑)。このゲームでは後醍醐・光巌の両帝はいろいろとありがたいお言葉をくれ、たまに攻略のヒントを教えてくれたりするのである。その一部を以下に紹介すると、

「近江国領主の北畠親房は南朝に心を寄せておる。交渉には気を配らねばなるまいぞ」
「統率の低い武将には篭絡するのがよいであろうぞ」
「婆沙羅の高い武将には金と名刀を贈るのがよいであろうぞ」
「敵の思うがままにさせてはならぬ。一刻も早い天下の統一を念じておるぞ」
「百万の大軍を得た思いじゃ。そちの働きに期待しておるぞ」
「朕の鑑みる理想の御世を一刻も早く招来させてくれよ」
(本来後醍醐用のセリフなんだろうな)
「天下統一には関わりないが合戦場には秘密も隠されておる。解き明かしてみるのも一興であろうぞ」
「インテックの『戦国関東三国志』はおもしろいゆえ一度やってみるがよい」

 …こら、なんなんだ最後のは(笑)。ええ、同社のPCエンジンゲームのCMです。
 
 1341年3月、尊氏はついに近江へ侵攻し、琵琶湖を眺めながらの合戦で北畠親房軍を撃破。こうして独立勢力・畿内北畠軍も滅亡することとなった。しばらく近江を畿内平定の基地とすることにし、北陸道を攻め上って来た義詮・高師直・宇都宮公綱らもここに合流、まさに最強の足利軍団が結成された。

 どうせタイムリミットの1350年までのんびり進める気なので、丹波の南朝独立勢力・千種忠顕には合戦ではなく投降工作を仕掛けてみた。南朝忠臣の中では婆沙羅度の高い千種くん、金と名刀を贈り続けたら案外コロッと北朝に寝返ってしまった。その後は逆に熱心に献金に励むようになり、卑屈なやつめ、と思うところも。
 義貞のあとを継いだ義助も負けじと道誉に説得工作をかけ続けていた。こちらが油断してたら道誉がまたまた南朝に寝返る一幕もあったが、資金力は豊富なわたくし尊氏がバシバシプレゼント攻勢してあっさり北朝に帰参させた。意外なところでは四国にいた高師泰が義助の贈賄攻勢に負けて出奔してしまい、なぜか尾張の吉良家に転職という事態が起こった。

 いつまで待っても頼之たちが登場する様子が無いので、尊氏はついに山城攻略を決意。最強軍団6万を率いて脇屋義助のいる山城に攻め込んだ。山城といっても実質京都で、南北朝時代にはたびたび行われた京都争奪戦の再現が楽しめる(右図)。
 中央に大きな城砦があり、これが京都市中である。ちゃんと宇治川・鴨川の流れも再現され、渡河して京都に攻め込むのは源平合戦の昔から繰り返された構図。これで京都に大軍がいたらかなり手強いのだろうが、現在の脇屋軍にはそんな余裕はなく、3部隊で必死の抵抗。しかし義助は兄貴に比べると引き際を心得ていたようで、兵力を温存したまま京都を捨てて伊賀大和へ逃走していった。

 この時点で一気に攻め続ければ伊賀大和・紀伊も落として天下統一は出来ただろう。事情があってわざと遅らせていたが、今回のプレイの状況なら1340年中には天下統一が出来た気もする。しかしあと2名の武将が出てくるのではないか、との期待もあり、ズルズルとスケジュールを遅らせ、1346年2月に伊賀大和攻略、そしてタイムリミットぎりぎりの1349年12月に最後の紀伊を攻略することになった。この間、南畿のみの勢力となった脇屋軍は交渉工作以外何もできず、その姿はホントに南朝末期を思わせるものがあった(笑)。1340年代には下のような情勢である。



 なお、タイムリミットの1350年になるとどうなるかも確認してみた。この年になると「天寿を全うするも覇業ついにならずして足利尊氏死す…」と字幕が出て、プレイヤーは自動的に病死してしまうのである。そして下図のようなバッドエンディング画面とナレーションが出てゲームオーバーとなる。


「天朝をになう英雄の死の知らせは、人々に衝撃を与えた。
大河の如く流れゆく歴史の中で、英雄が再び立つのはいつなのだろうか…」

ちなみにプレイヤーが戦死(正確には敵に捕まって処刑される)の場合にもこのエンディングである。

 さて、そんなことにならないように紀伊で最後の合戦を行おう。出陣した足利軍団は、尊氏・直義・義詮・直冬の足利父子兄弟のファミリーに、高師直・宇都宮公綱・北条時行を加えたなかなかの面子。いずれも連戦連勝で統率力・戦闘力を上げてきており(勝つと数値が上昇、負けると下降するようになってる)、総勢6万1200の軍勢である。
 迎え撃つ義助軍も息子の脇屋義治、正成の遺児・正儀、陸奥からはるばる移動していた伊賀兼光などそこそこの武将もいいて4万の兵力があった。しかし歴戦の大軍団足利軍の前に各個に包囲撃滅されてゆく。最後には城にたてこもった義助軍を6方向から完全包囲攻撃(左図)。包囲効果150%の猛攻についに義助軍全滅。捕らえられた義助はもちろん処刑、子の義治は投降を拒絶したのでどこなと行きさらせ、と放免。伊賀兼光は自害。楠木正儀があっさり投降勧告に応じていたが、やはり北朝・南朝を行き来した史実をふまえた性格設定なのだろうか。

 さて、ついに天下統一はなった。本来の敵の親玉・後醍醐天皇がどうなったのかは全く語られないのが気になるが、足利尊氏が史実でもなしえなかった天下統一がなり、エンディングが始まる。



「南無八幡大菩薩!」と天下泰平を祈る尊氏。
以下、スタッフ・キャストロールとなる。





キャストを見ると結構有名な声優さんも出てますね。

それにしても…最後まで残り2人の武将は確認できず。見落としたかな?
それはいずれ新田義貞リプレイで解決してみたい…


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