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日本漢學史

牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記
世界堂書店 1938.10.2 336p


※ <strong class=sum></strong> 小見出し <p class=note></p> 補足説明部分 <name ref=""></name> 人名 <work title=""></work> 書名 <year value=""></year> 年号(値は西暦年) 等のタグを使っている。また、(* )は注記、入力者によるフリガナ等を表す。
※ 他に漢文の返り点に <sub>1</sub>、<sub>2</sub>、<sub>レ</sub> 等、傍点に <hi rend=""></hi> という独自タグを使っている。
※ なにぶん昭和13年の文章である。歴史解釈については、時代背景を念頭に置いて見てもらいたい。(入力者)
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上古平城朝平安朝鎌倉・南北朝足利・織豊時代徳川時代明治時代

日本漢學史 目次
 序説
 第1期(上古・平城朝・平安朝)
 第1章 上古  
  1. 漢文學東漸の時期
  2. 漢學傳來當初の影響
  3. 佛教の傳來と漢學の必要竝に十七條憲法の制定
  4. 隋唐との交通・使節及び留學生の派遣
  5. 大化の革新と漢學
  6. 上古の漢文  

日本漢學史

牧野謙次郎述
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序説

漢學の範圍 漢學が我が國に傳つてからは既に久しい。今は漢學と一概にいふけれども、儒教があり、道教があり、兵學があり、法學があり、その他諸般の學問がある。佛教は印度に起つたけれども、支那・朝鮮を經て我が國に來り、その教義、經文等は漢文に飜譯せられたものであるから、文形の上から觀ると矢張り漢學の範圍にあるを免れない。而して應神天皇以後は漸次漢文漢學が採用せられ、國の歴史記録を始め、法制に政治に教育に經濟に、これ等あらゆる文化は、皆多少の程度はあれ漢學の影響を受けないものはない。 漢學傳來以前の文化 然らば漢學が未だ傳らなかつた以前の我が國の文化は果して如何であつたか。蓋し我が朝の皇祖皇宗(*以下、いちいち断らないが、本書の歴史的背景を考えて読んでほしい。)は、國を肇むること宏遠に、徳を樹つること深厚に在して、良風美俗は儒教なしと雖もその實は存してゐた。今その一二例を擧げれば、天祖が神器を天孫に授け給ひ、寶祚の天壤と共に無窮なるを誓はせ給ひしより、神武天皇が始めて大和に奠都し、即位の禮を橿原宮に行ひ給ひし時、神器を正殿に奉ぜられ、又鳥見山の靈畤に於かせられて特に皇祖大神を祀り、繼述大孝の範を垂れ給ひしが如き、景行天皇が熊襲征伐の時、取市鹿文が父を殺したのを責めて之を誅戮し給ひしが如き、又之を先にしては、事代主命が父の大國主命に勸めて國土を天孫に奉獻せしめしが如き、木華咲耶媛の結婚は父の命を待ち、之を後にしては、橘媛の貞烈にして難に殉じたるが如きは、皆儒教の根本義とせる五倫五常の道を實現したもので、文字こそ無けれ、如何にその事實は不言の中に行はれたかを觀ることが出來る。然しながら上古は■(瑞の旁+頁:せん:愚か:大漢和43600)蒙にして文運が未だ開けなかつたことは亦掩ふことは出來ぬ。

漢文の效果 我が國の國體の尊嚴にして宇内に冠絶したることは、何人も誣ふべからざることであるが、神武天皇が恭く寶位に臨み、元々を鎭し、然る後に六合を兼ね、以て都を開き八紘を掩うて都となさんと宣り給ひ、崇神天皇が、惟れ我が皇祖諸天皇の宸極に光臨するは、豈に一身の爲ならんや、蓋し神人を司牧し、天下を經綸し給ふ所以なりと仰せられたるが如きは、漢文傳來後になつた日本紀の文であつて、修辭に技巧はあるが、宏遠の皇猷、深厚の叡旨は、漢文に頼つて千萬年の下に於ても窺ひ奉るを得べきではないか。若し當時文章の記載がなかつたならば、果して如何であらうか。

漢學の必要 以上の如く數へ來數へ去れば、漢學が我が國に於て忽にすべからざることは、思ひ半ばに過ぎるものがあらう。これより、その如何にして我が國に傳播し變遷して、二千有餘年の間に消長盛衰したかを語るのは、亦必ずしも無益の業でないと信ずる。


次に説明の便宜上時代を四期に分つ。上古・平城朝・平安朝を第一期とし、鎌倉時代から戰國時代までを第二期、徳川幕府時代を第三期、明治時代を第四期とする。


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1 第1期 (上古・平城朝・平安朝)

第1章 上古

1 漢文學東漸の時期

漢學の傳來 漢學の傳來は、歴史によれば、應神天皇の朝百濟の王子阿直岐が經典を貢し、皇太子稚郎子が之に就いて學問され、尋いで王仁が『論語』・『千字文』を齎し來朝貢獻したことから始まつたやうである。然し阿直岐・王仁の渡來以前にあつて、我が國には文字がなかつたか、又漢字漢語が絶えて我が國に傳はらなかつたか。凡そ物は時に異例外はあるが、大抵卒然的に突發するものではない。必ず前兆とか先驅があるものである。又人と人との交りの間には、何等か他日契約的の印があることは、今日蒙昧なる蠻人に就いても觀ることが出來る。 神代文字 世に大己貴命の製作と傳へる神代文字と稱するものがある。一例を示せば、一二三四等の數を文字で記すと、

神代文字
(*右図参照。)


の類である。これ果して神代より傳へてゐるものか、後人が僞造した所のものであるかは未詳で、議論のあるところである。姑らく之を支那の結繩の約を後世文字の祖となすに徴すれば、則ち我が國にも亦、必ず何等かの文字的符號があつたのであらうと思ふ。上代文字の有無に就いて古書を繙いてみるに、『日本書紀』、欽明天皇二年の本注には「帝王本紀、多有古學、撰集六人、屡經遷易、後人習讀、以意刊改、遂致舛雜」とある。これは上代に文字があつたことをいつたのである。『古語拾遺』には「上古之世、未有文字、貴賤老少、口口相傳、前言往行、存而不忘云々」とある。これは文字が無かつたことをいつたのである。 語部 古事を傳誦する者に已に語部なるものがあつたことを以てみると、文字の用が、未だ甚だしく多くなかつたことは推察出來る。世に日文・天名地鎭・秀眞等と稱する文字を傳へるものがあるが、果して神代の文字であるか否かは今之を知るに由ない。

漢字の渡來 抑〃漢字の渡來は、應神天皇の朝にありと傳へるが、然し上古の歴史によつて之を考察すると、その時代は確定し難いが、それより遠く以前にあつたことは亦疑を容れない。 韓土との交通 何となれば、支那の文明は早く韓土に波及し、韓土と我が國との交通は已に神代の頃から開け、我にあつては素盞鳴尊(*素戔嗚尊)が新羅の地に往來し給ひ、彼にあつては王子天日槍がその種族を率ゐて歸化した事(その裔は播磨・但馬・河内の間に居て、常にその本國と往來してゐた。)に就いて之を推察しても、當時已に多少漢字が傳來したかも知れぬ。況んや新羅は神武天皇の皇弟稻飯尊の後であると稱するに於てをやである。降つて崇神垂仁天皇の頃に及んでは、彼我交通の路は益〃開け、韓人の投化交聘は益〃多く、從つて戸口を調べる必要さへ起つた位である。その種族は壹岐・對馬から西海の諸國に散在し大抵その方言に通じ、文字を習つてゐた爲、當時使節の派遣、外交の文書は、皆この種族を用ひた。然れば文字が我が國に傳つたのは、恐らくはこの時代であらうか。

支那との交通 我が國と三韓の關係が獨り此の如きのみでない。支那本國との交通も、亦既に太古の時代にあつたやうである。蓋し我が國の事實が支那の歴史に見えたのは、東漢の王充の『論衡』に「周成王時、倭人貢鬯草」とあるを以て始とする。周成王の代は我が國に於ては人皇以前である。惟だその後絶えて歴史に見えない爲にその詳かなるを知ることが出來ぬ。『後漢書』東夷傳に至つて、「倭在韓東南大海中、依山島爲居、凡百餘國、皆稱王、自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、皆稱王、世世傳統、其大倭居耶馬臺國」とある。武帝が朝鮮を滅したのは漢の元封二年にして、我が國に於ては開化天皇の四年に相當してゐる。耶馬臺國は乃ち大和國の漢音譯であるから、漢時代に至つては彼我交通のあつたことは推知される。即ち武帝の代に我が國の使譯が漢に通ずるもの三十餘回あつたことを録してゐる。すると西海の縣主等が支那に通じたのは、武帝の頃に始つたことを知る。熊澤蕃山は説をなして曰く、呉の太伯既に荊蠻に之き、漁獵して風に逢ひ、漂泊して我が國に至り、遂に之に君臨した。故に我が國の文化は王仁の來朝に先ち、已に粲然たるものがあつたと。この説は固より誕妄にして信ずるに足らないが、後世傳へるところの野馬臺詩に、東海姫氏國などとあるのは、此等の説から出たのである。後漢光武帝の代に至つてはその往來益〃繁きを加へ、從つて『後漢書』には彼國に朝貢し光武帝から印綬を賜つたことを載せ、而して天明中に筑前の國に於て「漢委奴國王」の五字を刻した蛇紐金印を發掘したことに據つても、その事實を證することが出來よう。又崇神天皇本紀に、「十一年、異俗多ク歸シ、國内安寧」とあり、同十一年に、「異俗重譯、海外歸化ス」と載せてあるが、この頃徐福が童男女五百人を率ゐて秦から逃げ來つたといふ。欧陽修に「徐福往時書未焚、逸書百篇尚猶存、」〔日本刀歌〕といふ詩がある。支那との關係が以上の如き時は、漢字は惟だに韓土から渡來したのみならず、當時直接に支那本國からも輸入せられたことが推察出來る。これから後西海の縣主等は專ら支那政府に畏服し、三韓の後援を恃んで我が政府に服從しなかつた。仲哀天皇の頃に至つては屡〃叛亂をなして抗敵し、二十餘年を閲して猶ほ戡定せず、天皇は中途にして崩じ給うた。 新羅征伐 是に於て皇后は先づ新羅を征服すれば、西海は刃に衂らずして自ら平定することを看破し給ひ、遂に新羅を征してその國都に入り、重寶府庫を封し、圖書文籍を收めて凱旋せられた。蓋しこの一段は經籍が我が國に入つた濫觴で、我が文化をして文華開明に進ましめたものである。その年更に荒田別等を百濟に遣はしたのは、當時經籍を讀む者が無かつた爲、特に識者を徴したのではなからうか。此等によつて之を考察すると、皇后の末年には、我が國に已に漢字に通ずる者があつて、彼我往復の文書を掌つたことは爭ふことが出來ぬ。

應神天皇の朝に至つては、三韓との交通は年を逐うて加はり、外交は益〃頻繁になり、一層漢文の必要を感ずると共に、勢之が研究を促すに至つた。 阿直岐 是に於て十五年阿直岐が入貢するや、 菟道稚郎子 その能く經典を讀むを以て皇子菟道稚郎子の師とせしめ、更に荒田別命巫別を百濟に遣はして博識の士を徴し給うた。 王仁 辰孫王 その明年王仁辰孫王が來朝し、『論語』十卷及び『千字文』一卷(魏の鐘■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)撰の千字文で梁の周興嗣編次のものでない)等を獻じた。我が國に漢籍があるのは實に此に■(日偏+方:::大漢和13796)まる。此の如くにして稚郎子は更に王仁・辰孫王を師として經典を學習し給うた。 高麗の上表 後二十八年に高麗は使を遣して上表した。皇子はその表を讀み、「高麗王教日本國」の文があるを怒つて之を破棄し給うた。天皇は新羅の凌辱を免れたことを喜び、大いに皇子を鍾愛し給うたと同時に、益〃文教の重んずべきを悟り、之を弘むるを以て急務と認めるに至つた。之を要するに、高麗の上表は王仁の來朝後十二年を過ぎなかつた。然るに皇子は能く漢文に通じ給うたのみならず、その表文を讀んで直にその文體の不敬を責むるに至つては、實にその進歩の速かなるに驚く。 難波津の詠 況んや王仁の難波津の詠に至つては、その來朝日尚ほ淺きに拘らず實に巧妙を極め、本邦倭歌の父母とも稱せられ、後世の模範とせらるゝが如き、何ぞその甚だ容易なることか。今日文明の世、學問の方法の周到完全な時に際して、我が邦人が能く洋學の書籍を精讀し得らるゝに至るには幾多の星霜を要すべく、又彼の外人の我が國に移住せる者は、能く我が言語に熟達するに至る迄には、少くとも二十年を經過しなければならぬ。況んやその文學を咀嚼して能く詩歌を賦するに至つては、最も困難なことである。然るに上代數千年以前、斯道の未だ發達してゐなかつた日に在つて、皇子は此の如く一朝にして精通し、王仁は彼の如く巧妙であつたといふことは、畢竟するに漢字の渡來は、早く應神天皇の御代以前にあつて發達した例證である。然し公然朝廷に採用して之を講究したのは、この朝を以て最初とする。

誦讀の方法 而してその最初誦讀の方は果して如何なる法を用ひたであらうか。或人曰く「音を用つて直下して之を讀み、一に支那人の爲す所の如くす。奈良朝に至りて吉備真備讀方を發明し、音訓竝び用ひ、上下に顛倒し、前後に廻環し、語尾を助くるに國語を以てせり。今傳ふる所の漢文の讀方は、實に吉備氏より始まる」と。物徂徠等(*荻生徂徠)はこの説である。又或人曰く「百濟の言語は名詞を先にし動詞を後にす。その語格は漢土と相反す。漢文を誦讀するに皆顛倒廻環上下して始めてその義に通ずることを得たり。又助聲を添へて之を按讀し、我邦の弖爾波の如くす、朝鮮に諺文あるは、我が國の假名の如く漢字の下に細書して音訓相交へ、顛倒廻環、以てその國語となして之を讀めり。王仁漢書を傳へて我が國人に教へしは、即ちこの法を用ひしなり。朝鮮の古代には我が國の如きものあり。王仁の詠ぜし梅花歌及び三國遺事に載する所の歌謡は皆この類なり」と。更に藤井貞幹(*『翁草』の著者)曰く、「應神天皇の朝王仁難波津を詠ず。この歌は三十一字の口調にして八雲以下の神詠に類す。八雲歌は素尊(*素戔嗚尊)の詠ずる所にして、則ちその三十一字は倶に韓辭たること知る可き也。王仁の難波津の歌も亦之と同じ。所謂咲くや此の花以下は、皆百濟の調をなせるも亦知るべき也。然らば則ちその歌は、文字の多寡を問はず、韓の古俗たりしや明らかなり。後漢以降に及んで、三韓は西土に遊びこの俗絶えて傳はらず(掲鈔)」と。この説は頗る穿鑿に失すと雖、然も亦以て参考となすことが出來る。今日にあつては俄かに孰れが是なるかは亦考證の餘地があるであらう。姑く二説を掲げておく。

然るにこの時代は、漢文の用は未だ甚しくなく、百濟から博士を徴して研究に從事したが、然し固より漢文を讀み且、解するに過ぎなかつた。

漢文東漸 履仲天皇(*履中天皇)の朝に至つて、諸國に國史を置いて言事を記し、官物の出納を録せしめ給うた。これ朝廷に漢字の應用を見た濫觴で、實に漢文東漸の徴證となすべきものである。

佛教傳來 その後欽明天皇の十三年、我が國に傳來した佛教は、西國から漢に至つて三百年、漢から百濟に至つて百年を過ぎ、始めて我が國に入つたもので、その經文は皆漢文に譯せられたものであるから、佛教が傳播すると共に漢文は漸く世に行はれ、從つて支那の政體を知り、支那の學説を究むるに至り、遂に大化の革新となり、從來素朴であつた風は一變して華美盛大の新境を開き、衣冠・車馬・宮室・器用に至るまで天下の耳目を改めるに至つた。

要するに上古の漢文は、遠く神代に濫觴し、三韓の役が勃興の端を開き、佛教の傳來に至つてその基礎を確立したと概言することが出來る。

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2 漢學傳來當初の影響

國體の尊嚴を示す 應神天皇の皇子菟道稚郎子が、王仁を師として儒學を學び給ひ、應神天皇二十八年に、高麗國王が使を遣はし朝貢し、因つて表を上つた時、その文に高麗王教日本國の語があり、皇子は大いに怒つてその使に無禮を責めて表を破棄し給うた。天皇は之を稱し、汝之を讀むに非ざれば、國朝誰か失禮かくの如きを知らんやと宣ひ、益〃之を鍾愛し給うたことは前節に於て述べたところであるが、これは後世徳川幕府の時、朝鮮國が我が武人不學の人の多きを侮つて、その使者が長崎から江戸に至る道中、彼の國にて國内を王命によつて樹てる清道旗を前驅に立てしめたのを、新井白石 がその不敬を責め、旗を沒收して謝罪せしめたことゝ相類似してゐる。殊に我が國文化の未開の時に當つて、國體の尊嚴を醜虜に示し給うた皇子の識見は、固より天性に出で給うたことであるが、王仁が儒學の教訓も亦與つて力がある。

歸化人 仁徳天皇の御代に、百濟から弓月君(秦始皇帝の裔)が所部の人民を率ゐて歸化し、分つて之を諸國に置き、織蠶の事を營ましめ、秦氏と稱した。而してその文學を解した者には、皆史人(フビト)の姓を賜ひ、朝廷の文事を掌らしめた。

是より先、王仁の子孫は河内に居て、世々文學を以て朝に仕へ、内藏の出納を掌り、文首(フミオビト)の姓を賜はり、西文史(カウチノフミ)と稱した。漢の靈帝の曾孫阿智使主(オミ)は、その同類を率ゐて朝鮮より來つて大和に居り、亦文學を以て朝に仕へ、子孫に漢書直(アヤノフミノアタヘ)の姓を賜はり、東文史(ヤマトノアヤノフミ)又は倭漢直(ヤマトアヤノアタヘ)と稱した。王仁に先つて來朝した阿直岐の子孫も亦文學を以て朝に仕へ、阿直史の姓を賜つた。應神天皇の朝に百濟の貴須王の孫辰孫王が來朝し、皇太子菟道稚郎子の師となり、書籍を傳へ、大いに儒風を開いた。その子孫は船の長となつて船舶の税を取るを掌り、船史(フネノフビト)の姓を賜つた。雄略天皇の朝に、秦の酒公は造る所の絹綿を朝廷に貢し、大藏を建てゝ之を藏し、蘇我麻智宿禰に命じて三藏を檢校せしめ給うた。秦氏はその出納を掌り、東西文史は簿册を勘録し、東文史は内藏大藏の姓を賜はり、秦氏と内藏大藏の主鑰となつた。三藏とは齊藏(イミクラ)(*齋藏か)、内藏、大藏をいふ。内藏は外蕃の貢獻せる者を納め、大藏は國内の庸調を納めた。蓋し當時の東西文史と秦氏とは、宮内、大藏、外務三省の權を掌握したものである。

星野恒曰く、漢學來傳の初、我が邦の在位者は皆官職世襲にして、襁褓中より已に大臣たる者は多くは愚■(豈+犬:がい::大漢和20599)にして、大抵不學無術政要に適せず。又海外の事情に暗し。百濟の歸化人は、學術に明らかにして、政務に練達し、而して國家の事務に■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)(カナ)へり。然れども古は門閥尚ばれ、直ちに要路の長官に登るを許さず。乃ち文書記録計算等の事に任じ、之に史(フビト)の姓を賜ひ、世々その長官を佐くるを以て職とす。是に於て長官は木偶人の如く、史官は猶傀儡師たり。又長官は賓客の如く、史官は宰夫の如し。專ら事務を擔當し、機要に居り、官局必須の欠くべからざるの人たりしなり。

此の如くにして、當時の漢文は別に著しい發達は見なかつた。王仁來朝の後百八十年を歴て履仲天皇の朝に至り、始めて諸國に國史を置き、四方の言事を記さしめたが、多くは歸化の人を用ひた。次いで繼體天皇の朝には、五經博士段楊爾漢高安茂馬丁安等が百濟より徴に應じて相次いで來朝し、欽明天皇の朝には、五經博士王柳貴・易博士王道良・暦博士王保孫・■(醫の「酉」を「巫」に作る。:い:<=醫>:大漢和16701)博士王有■(立心偏+凌の旁:りょう::大漢和10743)陀・採藥師潘量豐丁有陀・樂人徳三斤己麻次進奴進陀等が交代入貢して各種の學術を傳へた。

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3 佛教の傳來と漢學の必要竝に十七條憲法の制定

佛教傳來 欽明天皇の朝に、百濟が始めて佛像佛經論を貢し、佛教が始めて我が國に入つた。佛教は、東漢孝明帝の時〔永平八年(、)我が垂仁天皇九十四年皇紀七百二十五年〕支那に入り、又百濟を經て我が國に入つたのである。支那の學者と僧侶とは漢文を以て佛教(*ママ)を飜譯した。故に佛經を讀む者は漢文を讀まざるを得ない。漢文を讀まなければ亦佛教(*ママ)を完全に讀むことが出來ぬ。是を以て佛教が盛に行はれるに從つて、漢學も亦從つて盛に行はれたのは自然の勢である。殊に推古天皇の時に至り、聖徳太子が攝政とならせ給うたが、太子は佛教を尊信し、亦儒教に通じ給うた。彼の有名なる憲法十七條を觀ても、如何に漢學の素養が在したか想像されるであらう。これは次に説明しよう。

佛教は支那南北朝に盛に行はれ、(北朝は即ち魏で、道教を崇び之が大いに行はれた)儒老佛の調和が此時に■(日偏+方:::大漢和13796)じまつた。晉の孫綽は儒佛一致を論じ、宋齊の間に張融の門論がある。周■(禺+頁:ぎょう::大漢和43599)は門論を難じ、儒老佛一致を論じ、齊の顧歡は道佛同體異用を論じた。

我が聖徳太子の時は正に隋煬帝の時に當つてゐる。此等の論説は、蓋し又支那から傳つたものがあつたのか、抑〃太子聰明にして自ら之と暗合したのであるか、未だ知ることは出來ぬ。

十七條憲法 太子は漢土歴朝の政教治教を討究し、之に倣つて冠位を制し、憲法十七條を定め給うた。太子は佛教を高麗の僧惠慈に學び、儒教は博士覺阿に習ひ給うたとある。その文は純然たる漢文にして、祖宗建國の大義を骨子として、潤飾するに儒佛の二教を以てし、而して儒教に據る者亦多い。今その大略を述べてみると、第一に憲法十七條は「ウツクシキノリトヲマリナヽツノクダリ」と國讀し、以下皆漢文學を用ひたけれども讀方はその例によつて讀んでゐる。而して第二條の篤敬三寶の條項と、第十條の絶憤棄嗔の條項との佛教思想なるものを除いては、殆ど概して儒教經典及び子史に據つてゐるものゝやうである。乃ち第一條に、「以和爲貴」とあるのは禮記から出て、論語にも「用和爲貴」とある。「人皆有黨」は左傳にある。「上和下睦」は孝經に見えてゐる。第三條の「四時順行」は、論語に「君則天之、臣則地之」と、「天覆地載」は禮記に見えてゐる。第五條の「有財之訟、如石投水、乏者之訟、似水投石」は、文選李蕭遠の「運命論」にある「其言如以石投水、莫之逆也」より出てゐる。第七條の「人各有任、掌宜不濫、其緊哲任官」は、書經の咸有一徳に「任官惟賢材」とあり、第八條に「公事無■(監の一を古に:こ::大漢和23076)」は詩經の「王事無■(監の一を古に:こ::大漢和23076)、我心傷悲」から、第十條の「如環旡端」は史記田單傳から、第十六條の「使民以時、古之良典」は、論語の「節用而愛人、使民以時」から、第十二條の「國非二君、民無兩主」は、禮記の「天無二日、土無二王」から來たものである。此等の出處を究める時は、その儒教に負ふ所、亦大なりしを知ることが出來よう。又この憲法を單に文學上から見ても、漢魏の遺風ありと稱せられ、又漢文に點し、始めて和訓を創めたのも、この憲法から始まつたといふ。

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4 隋唐との交通・使節及び留學生の派遣

太子は又隋に好通した。而して國書に「東天皇敬白西皇帝」といふ語があり、又「日出處天子白日沒處天子」等の語がある。支那と對等に相敬し、その大國なるを以て少しも屈下しなかつたのである。更に又、太子は自ら「勝鬘經」・「法華經」を講説し、且その注疏を著はし、天星(*ママ)記(*天皇記)、國記臣連、伴造、百八十部並に公民本紀等の史を編成し給うた。

是より先き、應神天皇の朝に儒教の東來はあつたけれども、多くは經學の大旨を講究するのみで、漢學の如きは、主として外交の文書、史官記録の用に供するに過ぎなかつたが、此に至つて衣服の詞、文章の體は舊來の面目を一新し、文物蔚興、上下之に化し、靡然として文教に嚮つた。是に於て、今まで三韓より輸入してゐた文物を以て尚足れりとせず、進んで支那本國に就いて之を補はうとした。 小野妹子 即ちその十五年(三六七)小野妹子を隋に派遣し、彼の「日出處天子、致書日沒處天子、無恙云々」の書を送り、始めて隋との隣交を通じ、翌十六年四月、妹子は隋使裴世清を從へて歸朝した。九月隋使歸國する時、妹子が大使となつて之を送り、八人の留學生が之に從つた。 八省百官 僧旻 高向玄理 國博士 孝徳天皇の朝に及んで始めて八省百官を置き、而して式部省には大學寮を建て、僧旻高向玄理を以て國博士として生徒に教授し、益〃求法僧及び學生を遣はして留學せしめた。 僧詠 天智天皇の朝に至つて、百濟から歸化した僧詠は文學に秀でゝゐるを以て擢んでゝ大學頭となし、佐平余自信沙■(口偏+托の旁:た::大漢和3302)紹朋は法律に明らかに、達率谷那晋(*ママ)首木素貴子憶禮福留答■(火偏+本:ほ:〈国字〉:大漢和65366)春初は兵法に明らかに、■(火偏+本:ほ:〈国字〉:大漢和65366)日比子贊波羅金須鬼室集信達率徳頂上吉大尚は靈藥に達し、角福牟は陰陽に習ひ、許率母は五經に明らかにして各々文學に貢獻した。 大友皇子 是に於て生員は益〃滋く文運は愈〃盛になり、大友皇子の如きは才學竝び進み、文辭を好み詩賦を善くし給うた。我が國の詩を翫ぶ者は實に皇子を以て嚆矢とする。之を要するに、上古草昧の世、歸化の種族によつて傳へられた漢文は、その始や一道の熹光僅かに■(火偏+爵:しゃく::大漢和19614)火の如く、■(宀/浸:::大漢和59493)々明に■(宀/浸:::大漢和59493)〃(*ママ)廣り、此に至つて全く冲天の勢を呈し、赫々として光被せない所はないやうになつた。

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5 大化の革新と漢學

大化の革新 大化の革新は、政治上からいへば、上は神武の創業を繼ぎ、下は遠く明治維新を闢いたものである。神武天皇東征の當時、都を大和に奠め給ひ、創業の始めは政治は天造によつて多くは改められず、群雄の割據する者が降れば赦し仍つて之を用ひ、佐命の功臣と互に錯へて之を置き、以て國造・稻置等の職となし、之を因襲すること久しく、恰も封建の形勢をなしてゐた。地方では豪族扈り、中央では物部・蘇我の二氏が迭に代つて政權を專らにし、王權は益〃衰へ兼併が益〃行はれた。是れ大化の革新を催したる大因である。孝徳天皇が即位せられるに當つて、天智天皇は皇太子の身を以て政治を輔けられ、藤原鎌足と謀つて更に庶政を擴張せられ、地方の行政には、國には守・介、郡には大領・小領があつて宣化の治を布き、而して天子が之を總統し給うた。民政には支那の班田制に學んで班田の法を定め、租・庸・調を區毎に課し、太政官八省を置き、位階十六階の冠を制し(隋唐の制に倣うたもの)、又遣唐使の官を設け、留學生が相繼いで彼の國に渡つた。制度文物は斯に於て盛となり、漢學の流行も亦隨つて大いに興つた。

南淵請安 天智天皇は皇太子で在はしました時、中臣鎌足と謀つて蘇我氏を滅ぼさうと遊ばされたが、その方法、その場所等は秘密裡に謀られたのである。即ち當時南淵先生といふ學者に從つて周公孔子の教を學ぶといふ事に託し、車中に於て謀を議したのである。南淵先生とは、推古天皇の朝(一二六八)の留學生南淵請安である。周公の教は聖人經世の學問である。太子孝徳天皇の皇太子となつて政治を輔け、而して能く大化の革新の後を行ふにまで及んだのも、亦以て本づく所のあることが知られよう。

僧旻 高向玄理 前述の如く大化元年僧旻(唐への留學僧)・高向玄理(クロマサ)(*ママ)(唐への留學生)が竝びに國の博士に任ぜられた。この人等は各々大學の教官であつたけれども、而も實は制度創定の顧問官に充てられ、法律原案の起草者であつたのである。此等の人々は大抵漢韓から歸化した人で、留學生、留學僧の選に中つた。そして漢土に留學する者は十有餘年、若しくは二十餘年、多き者は三十三年の久しきに至つた。能く彼の土の道徳・制度・教育等の事を調査し、歸朝の後我が國の文化に貢獻した者も亦少くない。文學の方面は斯くの如き状態で頗る隆盛となり、政治も亦整頓したやうであつたが、文藝は未だ起らなかつた。然しその機運は已に生じてゐた。

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6 上古の漢文

上代の漢文は史部の記録を以て最も古いものとする。然るに佛教が東來してから、端なく神佛兩派の軋轢を生じ、物部・蘇我二家の一大闘爭を惹起し、遂に物部氏の敗に歸した結果は、その藏せる朝廷の文書を擧げて共に烟燼に付してしまつた。是に於てか史部の記録は、亦その斷簡零墨をさへ見る事が出來ぬ。獨り名山古刹に傳つてゐる金石の文に於て、僅かに上古文體の一斑を窺ひ知ることを得るのみである。而してその最も古きものは、河内國古市郡古市村西琳寺の金銅彌陀佛像光明銘を以て最なるものとする。然るにその文字の奇古駮雜(*はくざつ)にして多く佛語を使用するを見れば、顧ふに當時歸化の僧侶等の手になつたものであらう。尚ほ次いで法隆寺金銅觀世音造像記(崇峻天皇四年)・法隆寺金銅釋迦佛像記(推古天皇二年)等がある。

金銅彌陀佛像光明銘 金銅彌陀佛像光明銘 宣化天皇四年の文にして、西琳寺の古記に引いてある。

葢聞法身無相。非2色求1。本姓寂寂。非2生滅1(*以下、原文では「得倶」から「往生」まで△傍点を付す。<hi rend="dot_triangle"></hi> でマーク付けするほか、HTML では <em></em> で示す。)得倶四生。殊菓六道。各國所以法藏比丘卅八願上輩往生。是以大阿斯 高麗子支 彌高2行佛法1。草2創西琳寺1。以2子栴 高首 土師長冗 羊古 韓會古1、敢奉2寺塔1。寶元五年己未正月。一種智識。敬造2彌陀佛像併二菩薩1。願此功徳以。現在親族。延2萬世1。七世父母。隨意住。含識之類。同2斯福力1

碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるものである。

道後温泉碑 道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた。

法興元年十月。歳在2丙辰1。我法王大王。與2惠總法師。又葛城臣1。逍2遙夷與村1。正觀2神井1。歎2世妙驗1。欲意。聊作2碑文一首1。惟夫日月照2於上1而不私。神井出2於下1給。萬機所2以妙應1。百性所2以潜扇1。若乃照給無2偏私1。何異2于壽國1。隨2萃臺1而開合。沐2浴神井1而■(病垂/廖の旁:::大漢和22453)疹。■(言偏+巨:きょ・ご:豈に・何ぞ・苟も・止まる・至る:大漢和35370)升2于落花池1而化溺。窺2望山岳之巖■(山偏+愕の旁:がく::大漢和8263)1。反冀2子平之能往1。椿樹相■(广/陰:いん::大漢和9463)而穹窿。實相2五百之張葢1。臨朝啼鳥而戯(*ママ)吐下。何曉2亂音之聒1耳。丹花卷葉映照。玉菓彌葩以垂井。經2過其下1。可2優遊1。豈悟2洪灌霄庭1。意與才拙。實慚2七歩1。後定君子。幸無2蚩咲1也。

宇治橋碑 宇治橋碑 孝徳天皇二年になつた文で、『扶桑略記』に載せてある。

■(三水+免:ばい::大漢和17510)■(三水+免:ばい::大漢和17510)横流。其疾如箭。條條往人。倚騎成市。欲■(之繞+台:::大漢和38791)2重次1。人馬亡命。從古至今。莫2杭葦1。世有2釋子1。名曰2道堂1大化元年。丙午之歳。攝2立此橋1。濟2度人畜1。即固徴善。爰發2大願1。結2因此橋1。成果彼折。法界衆生。普同2此願1。夢裡空中。導2其苦縁1

船首王墓誌 船首王墓誌 天智天皇即位元年の文で、西琳寺に藏してある。

惟船氏故王後首者。是船氏中祖王智仁首兒那沛故首之子也。生於乎娑■(玉偏+施の旁:た::大漢和20929)宮治2天下1天皇之世。(*返り点−ママ)奉於等由羅宮治2天下1天皇之朝。至於阿須迦宮治2天下1天皇之朝。天皇照2見其才異1。仕有2功勳1。勅賜2官位大仁品12第三1。殞2區於阿須迦天皇之末1。歳次辛丑十二月三日庚寅故成辰年二月。殯2葬於松岳山上1。共2婦安理故能刀自1。同墓2其大兄刀羅古首之墓1。並作墓也。即爲2保萬代之靈1。基牢2固永劫之寶地1

蓋し上代の文章は、聖徳太子に至つて全く固陋の體を一洗し、その製作は大いに前代に超越した。是より先き倭王と稱して支那と交通した我が國は、此に至つてその國書に「日出處天子」と稱するに及んだ。その全文は今日傳つてはゐないが、その十六年隋帝に贈つた第二の國書を見るに、莊重謹嚴にして能く國書の體を得てゐる。

隋帝に贈つた國書 東天皇敬白2西皇帝1。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清■(余/心:よ::大漢和10632)。此即如常。今遣2大禮蘇因高、大禮雄成等往1。謹白不具。

十七條憲法 太子十七條憲法に至つては、高古樸茂、その筆力の雅健なることは、優に先秦の文に駢肩することが出來る。世は之を『尚書』の訓謨に比してゐる。

伊吉連博徳の紀行 紀行文の古きものは、齊明天皇の五年、遣唐使伊吉連博徳の海外の紀行を以て最とする。今その一節を録しておかう。

十月十五日乘驛入京。二十九日馳到2東京1。天子在2東京1。三十日天子相見。聞2説之1日本國天皇平安以不。使人謹答。天地合徳自得2平安1。天子問曰。執事卿等好在以不。使人謹答。天皇憐重。亦得2好在1。天子問曰。國内平以不。使人謹答。治2講天地1。萬民無事。天子問曰。此等蝦夷國在2何方1。使人謹答。國有2東北1。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有2三種1。遠者名2都加留1。次者麁蝦夷。近者熟夷。今此熟夷毎歳入2貢本國之朝1。天子問曰。其國有2五■(穀の偏の「禾」を「釆」に作る。:こく::大漢和27067)1。使人謹答。無之。食肉存活。天子問曰。國有2屋舍1。使人謹答。無之。深山之中止2住樹木1。天子重曰。朕見2蝦夷身面之異1。極理喜怪。使人遠來辛苦。退在2舘裏1。更相見。

此等の作は恐らく是丈に止まらぬであらう。今姑くその記憶せるものを擧げたのみである。


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