日本漢學史
牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記
世界堂書店 1938.10.2 336p
※ <strong class=sum></strong> 小見出し <p class=note></p> 補足説明部分 <name ref=""></name> 人名 <work title=""></work> 書名 <periodical title=""></periodical> 誌名 <year value=""></year> 年号(値は西暦年) <div class=title></div> 詩題・詞書 等のタグを使っている。また、(* )は注記、入力者によるフリガナ等を表す。
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上古・
平城朝・
平安朝・
鎌倉・南北朝・
足利・織豊時代・
徳川時代・
明治時代
日本漢學史 目次
第2章 平城朝
- 平城朝時代の漢學
- 漢文學と國文學成立との關係
- 漢文學が國文學に及ぼせる影響
- 漢文及び詩賦
- 漢文の著作
日本漢學史
牧野謙次郎述
第2章 平城朝
1 平城朝時代の漢學
平城朝の範圍 持統・文武兩天皇三十年間を藤原朝といひ、元明天皇和銅三年平城に遷都し給うてより後、元正・聖武・孝謙・淳仁・稱徳・光仁の六天皇七十餘年間を通して平城朝といふ。然し今は便宜上藤原朝をも合して此に平城朝と稱する。
漢文と大化革新 大學寮 漢文と大化の革新とは極めて密接な關係を有つてゐる。蓋し孝徳天皇の朝に大學寮の設置があつてから歴朝は益〃力を文藝に用ひ給うた。 僧詠 天智天皇の時、百濟から歸化した僧詠を學問があるといふので還俗せしめて大學頭とした。斯の如く、苟も才學ある者は唐韓から歸化した者でも必ず之を官に用ひ、浮屠の徒と雖も、よく科業に達する者は還俗せしめて之に姓を賜ひ、必ずそれに職を授け、或は田地を賜ひ、或は封戸を與へ等して之を奬勵遊ばされた。 大學・國學 而して文武天皇の御宇に至り、大寶律令によつて、始めて大學・國學の制が備り、大學に於ては釋奠を行はせられた。大學・國學は式部職が之を管轄した。大學は京都にあり、國學は諸國の國都にあつた。 學人・貢人 而してその學生の才學優等なるものは、大學と國學とを論ぜず、皆之を式部職に貢した。大學よりせるものを學人といひ、國學よりせるものを貢人といつた。學人・貢人は式部に於て之を試驗し、その科試及第の士は皆之を選敍して相當の官職に就かしめた。
大學 次にその大學に就いて大體を述べてみよう。
科目は經書を研究する明經、法律を研究する明法、史學の紀傳及び算の四道(四科目のこと)で各々之に主任を置き、又外に文章博士・音博士等を置き、その規模は粲然として頗る具備してゐた。
明經道 明經道は經學を專修せる學科で、經學を大、中、小經に分ち、『禮記』『左傳』は各々大經とし、『毛詩』『周禮』・『儀禮』は各々中經とし、『周易』・『尚書』は各々小經とした。而して『論語』と『孝經』は何れの科にも兼通であつた。『周易』は漢の鄭玄・魏の王弼の注を並び用ひ、『尚書』は漢の孔安國・鄭玄の注を用ひ、『三禮』『毛詩』は鄭玄の注を用ひ、『左傳』は東漢の服虔・晉の杜預の注を用ひ、而して公羊傳・穀梁傳は廢して用ひなかつた。(然し桓武天皇の延暦十七年に至つて公羊・穀梁傳を用ひ、小經に屬した。)『論語』の注は鄭玄・魏の何晏を用ひ、孝經の注は孔安國・鄭玄を用ひた。
尚ほ大、中、小經の別は品位の上からいつたのではなく、字數によつて之を定めたのである。
毛詩 | 39,124字 |
尚書 | 25,700 |
周禮 | 45,806 |
禮記 | 99,020 |
周易 | 24,207 |
春秋左氏傳 | 196,845 |
論語 | 12,700 |
孝經 | 1,903 |
孟子 | 34,685 |
合計 | 484,095 |
日々三百字を誦して四年半で畢る。日々一百五十字を誦しても亦九年で畢る。
紀傳道 紀傳道は歴史を專修する學科で、兼ねて文章を練習し、『史記』・『漢書』・『後漢書』・『文選』・『爾雅』等を修めた。
明法道 明法道は法令を專修する學科で當時現行の法律條令を習つた。
算道 算道は算數の術を專修する學科で、孫子・五曹・九章・海島・六章・綴術・周髀・九司・三開重差等を學んだ。
生徒 生徒定員は四百人、資格は五位以上の人の子孫、并に東西史部の子若しくは八位以上の子及び國學生の貢擧せられた者。國學は國によつて異つた。定員は大國は五十人、上國は四十人、中國は三十人、下國は二十人、長官の子孫を收容し、若し定員に滿たない時には庶民の子弟を以て之に補充した。年齢は十三歳以上十六歳以下。學制の完備せる、教育の盛なること斯の如しと雖も、然も門閥に拘はり、大學・國學の學生となることを得るものは、前述の如く皆郷(*卿)太夫の子弟に限り、庶民であれば如何に俊才と雖も入學が出來なかつた。是に於て高才未だ必ずしも貴種ならず、貴種未だ必ずしも高才ならずとの論は、遂に聖武天皇の天平二年に至り、明法生十人、文章生二十人を限り、雜任白丁の子孫と雖も、苟も聰慧なる者は簡び取つて、年の高下を問はず大學の學生となることを許すに至つた。此の如くにして漢文は長足の發達をし、文辭を尚ぶ風は益〃盛となり、その神龜三年、内裏に玉來〔伴信友云、玉來は玉英の誤ならん(*と)〕が生ずるや、朝野の文人に勅して玉來の詩賦を作らしめたところ、制に應ずる者百二十人の多きに上つた。以てその文華の如何に盛であつたかを想見することが出來よう。
音博士 音博士は字音を教習し、凡そ入學した者は必ず先づ之を講習した。字音には漢音、呉音がある。(呉音は支那正雅の古音、漢音は唐の方音である。今日の漢音といふものは古音を傳へてゐない。)桓武天皇の時儒者に命じて漢音を以て讀ましめ給うた。然し今日多く呉音を混じへてゐるのは、佛教が鎌倉時代全盛を極め、學校はその掌握するところとなり、以て徳川時代に及んだ爲と、日本人の口にしやすい爲である。
私學 又諸國に國學があり、王族貴族に私學があつた。和氣廣世〔清麻呂の子〕が創めた弘文院・藤原緒嗣が建てた勸學院・橘氏公〔右大臣〕が設けた學習院・在原行平が建てた奬學院等が是である。かくして都鄙共に學校は盛になつた。
孝經 而して孝謙天皇は天平寶字元年、天下に詔して家毎に『孝經』一本を藏めしめ給うた。その詔に曰く、「古ハ民ヲ治メ、國ヲ安ンズルニ必ズ孝ヲ以テシ、以テ理トナス。百行ノ本、孝ヨリ先ナルハ莫シ。茲ニ於テ、宜シク天下ヲシテ家毎ニ孝經一本ヲ藏セシメ、精勤講習セシムベシ」と。〔唐玄宗天寶三年天下に詔して家毎に孝經を藏めしむと唐書玄宗本紀に見ゆ。〕
當時の漢文が隆盛であつた事は以上の如くであるが、その之を致した所以のものは、蓋し亦他に原因がなければならぬ。
律令格式 律令、格式は國家の法典、政治の準則である。之に熟達しなければ、以て仕途に入り要路に立つことは出來ぬ。而して當時の大寶令以下皆漢字、漢文を以て之を記し、而してその立法は主として我が國固有の精神を主とするといつても、然も亦支那に取つたものがある。故に有爲の士は皆力めて漢文を學び研鑽しない者はなかつたのである。所謂當時の各大臣は、必ず學術があり、文筆を善くし、政典に通曉してゐた。身を書生から起して位台品に陞り、而して帝師となつた吉備真備の如き者があり、忠直秉義、侃諤正論し、以て妖僧の心膽を挫いて社稷を完うした和氣清麻呂の如き者がある。
唐制の模倣 佛教の研究 また是より先、推古天皇の朝に小野妹子を以て遣隋使となし、高向玄理・僧旻・南淵請安等を遺して留學せしめてより以來、專ら彼の國の文物を吸收するに務め、平城朝に入つては唐制の模倣と佛教の研究とは益〃盛になると共に、歴朝その擧あつて、從つて學生の才學に秀でたるものが彬々として輩出するに至り、我が文學に貢獻した結果、こゝに平城文學を形成した。而して就中その最も有名なものは、粟田眞人・阿倍仲麿・藤原清河・吉備眞備等である。
粟田眞人(*原文「眞備」は誤植。) 姓は粟田、眞人はその名である。好んで經史を讀み、能く文を屬した。大寶元年節を持して唐に使した。時に高宗既に崩じ、太后武■(嬰の「女」を「空」に作る。:::大漢和に無し)が大位を僭竊して大周と號してゐた。乃ち眞人に宴を麟徳殿に賜つて之を勞つた。その楚州鹽城縣の界に至るや、唐の人はその風采(*原文■(ノ+米:はん・へん:分かつ・分れる〈采の誤字〉:大漢和40115)を使う。)を見て嘆じて曰つた。日本國の人民は、豐樂にして禮儀が敦く行はれてゐると聞いてゐるが、今使人を看るに、儀容高潔にして君子國といふ名は全く虚名ではないと。慶雲元年七月唐から還つた。詔して眞人に田二十町、■(穀の偏の「禾」を「釆」に作る。:こく::大漢和27067)千斛を賜ひ、以て使節の功を賞し給うた。官は中納言より太宰帥となり、靈龜中正三位に陞り、朝政に參議し、文武・元明・元正の三朝に歴事した。
阿部仲麿 阿部仲麿 姓は阿部氏、本名は仲麿、中務大輔上船守の子である。元正天皇の靈龜二年、年十六にして遣唐使に從うて唐に留學した。性聰敏にして好んで讀書した。太宗はその材を愛して之を遇し、遂に留つて玄宗に仕へ、姓名を改めて晁衡といつた。官は秘書監を經て左補闕に至つた。孝謙天皇の天平勝寶五年に遣唐大使藤原清河の船に乘つて將に歸國せんとした。時に友人、王維・李白の徒が皆詩を作つて之を送つた。
既に明州海岸に抵つて將に舟に上らんとした。別を惜んで夜に入つた。その時かの有名な「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を作り、譯して唐人に示したところ、皆大いに嘆賞した。既にして海中■(風+揚の旁:よう::大漢和43909)風に遇うて安南に漂到したが、或は海中に沒したと流言があつた。李白は之を聞き左の如き詩を作つて之を哭した。
哭■(曰/一/黽:ちょう::大漢和48274)卿
日本■(曰/一/黽:ちょう::大漢和48274)卿辭帝京。征帆一片遶蓬壺。明月不歸沈碧海。白雲愁色滿蒼梧。
已にして安南より唐に歸りて肅宗に仕へ、位は北海國開國公に至り、遂に唐に留つた。大暦五年に歿した。年七十九。
光仁天皇寶龜元年(1430)(*西暦 770年)に當る。天皇は正二位を追贈し給うた。今左に彼の有名な詩を録してみよう。
銜命使本國〔一人一首引文苑英華及び全唐詩〕
銜命將辭國、菲才恭侍臣、天中戀明主、海外憶慈親、伏奏違金闕、駢驂去玉津、蓬莱郷路近、若木故園鄰、西望懷恩日、東歸感義辰、平生一寶劔、留贈結交人、
吉備眞備 本姓は上道、名は眞備、元正天皇養老二年唐に入り、留學すること凡そ二十年、經史を研覽し衆藝に該渉して唐土に於ても高名であつた。その歸朝するや、天皇は正六位を授け、大學助に任じ、學生四百人をして各々科業に隨ひ、五經・三史・明法・算術・音韻・篆籀等の六道を學習せしめた。是より先大寶の初には、釋典の儀制が未だ備つてゐなかつたが、眞備の歸るに及んで細かに禮典を稽ひ、その器物を修め、大いに禮容を改めた。蓋し眞備の學は博渉深造で、精練至らざる所なく、その振鐸の力は能く平城朝の文學を起した。天皇の恩寵甚だ渥く、姓を吉備と賜ひ、官は中納言から右大臣に陞つた。
片假名 世に孝謙天皇の天平勝寶中、吉備眞備が我が國に通用する所の假字四十五字〔即ち眞字を假りて用ひたもの。古事記の文字の如きもの〕を取り〔右大將藤原長親〔正平年間〕倭假字反切義解序及卜部廉倶神代卷抄を見よ。〕偏旁點劃を省いて片假名を作つたと傳へられてゐる。然しこれは一人の手によつて出來たものではない。恐らく多人數の手を經て成つたものであらう。今未だ何時から始つたか詳かにしない。姑くこゝに附識して考を俟たう。 野馬台詩 俗に傳へてゐる吉備公の作といふ「野馬台(*ママ)詩」は後人の僞作に係るといふ。「野馬台詩」は廻錦文字で作られたものである。廻錦文字は東漢頃から始まつたもので、中央から左右に讀者の力によつて讀むものである。
2 漢文學と國文學成立との關係
國文發展の次第を尋ねるに、その最も古きものは歌謠、壽詞、祝詞及び宣命である。歌謠、壽詞、祝詞は太古に興り、宣命は上古に始つた。 口誦相傳 然し當時國内に廣く行はれる文字がなかつた爲、その言詞を記すべき便がなくして口誦相傳の風であつたから、その發達も一定の範圍に止つて、特に口唱に便ならしめる一方にのみ偏したのは自然の勢であつたやうである。 漢字の用法 然るに應神天皇の朝に漢字が渡來し、履仲天皇の朝に諸國に史官を置き、初めて成文を見るに至り、推古天皇の頃から漢學が稍〃盛となり、漸く漢字の用法に慣れるやうになつた。漢字の用法が次第に自由になるに從つて漢字の音を假つて歌謠等を書き記すやうになつた。然し字音に頼つて國語を寫さうとすれば、極めて冗長に陷るを免れないのみならず、その字音も當時は漢音・呉音共に相用ひたから、その文は佶屈にして讀み難く、甚だ不便であつたことが想像される。故に當時既に盛になつてゐた漢文を措いて、特に不便な國文を用ひる必要はないから、當時の國文は、平城朝以後にあつても和歌を除いては一定の發達を遂げることが出來ないで頗る不振であつた。
和漢混淆文 純粹の國文の外に、亦上古から一種の和漢混淆文がある。大體は漢文體で、一句の中でも字音を假つて記した國語を交へたものである。是れは恐らく我邦最古の文體であらう。即ち履仲天皇の朝の史官の文もこの體であつたやうである。この文體は漢文が未だ十分盛でなかつた孝徳天皇の頃から以後にあつては甚だ多かつたのであらう。 薬師佛光背銘・天壽國曼陀羅の繍帳・釋迦佛銘・古事記・風土記・姓氏録・東鑑 現今存するものでも、推古天皇の十五年に成つた法隆寺の藥師佛光背の銘、同二十九年に成つた同寺の天壽國曼陀羅の繍帳、及び同三十一年に成つた同寺の釋迦佛の銘等がある。平城朝以後にあつては『古事記』・『風土記』等がある。降つて平安朝の『姓氏録』、延喜以後の記録、鎌倉幕府時代の『東鑑』等、亦この系統に屬すべきものである。然し斯の如き文體が、國文・漢文等の如く、一種の文學として完全なる發達を遂げることが出來なかつたことは、固より論を俟たない。 萬葉集 然るに獨り和歌のみは平城朝に至つて頗る隆盛に赴き、我が邦の『詩經』とも稱すべき有名な『萬葉集』を出すに至つた。是れは固より他に原因もあるが、和歌が散文よりも用字の困難が比較的に少き爲と、漢字の用法が漢文學の進歩と共に益〃發達して來た爲である。即ち和歌は多く短篇で、韻文的規律があるから、散文と同一の用字を用ひてもその困難は自ら少ない。且『萬葉集』以前の和歌は主として字音を用ひ、その記法が甚だ拙かつたが、以後次第に進歩して、『萬葉集』の和歌に至つては、或は字音のみを用ひ、或は字訓のみを用ひ、或は音訓并せ用ひ、又字音を用ひるにも正音即ち萬葉假字に頼り、或は略音に頼り、又字訓を用ひるにも正訓あり、略訓あり、約訓あり、借訓あり、特に戲書法を用ひたるが如き、頗る自由を極めてゐる。是れ亦和歌發達の一原因である。
韻文時代 要するに國文學に於ける平城朝時代は、尚ほ韻文の時代に屬し、和歌の外に祝詞・宣命等の如きものがあるが、此等は只自然の感情、或は自然の必要から興つた文學で、此等の外には未だ眞正なる國文學が盛に發達して來たのを見ない。即ち小説、歌序、紀行、日記、隨筆等が旭日の勢を以て一時に現はれて來たのは、平安朝時代以後である。すれば國文學が平安朝以後に於て一時に振興して來たのは、抑〃何が爲であるかは注意せねばならぬ問題である。要するに是れは、既に發明された萬葉假字が進歩して、片假名及び平假名が成立した爲である。初め國語を寫すのに用ひた漢字の用法は甚だ拙かつたが、次第に進歩して萬葉假字を發明するに至つた。然しこの假字を以て國語を寫さうとすると、僅に一語を記すにも點畫複雜なる數文字を連らねればならぬから、その繁雜に勝へなかつた事は知られる。すると萬葉假字及び一般の漢文を書寫するに當つて、字畫を省略し、偏或は傍のみに頼つて記號的の文字を作るに至つたのは自然の勢である。而してこの記號的文字は、その初は固より各自が隨意に作つたものであつたが、平城朝の終頃に至つて字形が一定して、終に片假名を生ずるに至つた。世に片假名は吉備眞備の作つたものであると傳へてゐるが確證がない。此の如くにして片假字(*ママ)は成立したが、次に平假字は如何にして現はれて來たか。既に片假字が成立してからその便利を得たることは大であつた。その後漢字草體を以て和文を寫すことが始まつて、之を草(サウ)假字と稱した。然るに、草假字の中から同音を雜へない四十七音で和讃の體の歌を叙して當時に於ける國語の標準を示したものが出來て、之を女子の習字用に供した。之を「假字手本」といつた。かくてその字體を一定したのは傳へて弘法大師の作であるといはれてゐる。「假字手本」は女子の習ふものとなり、漢字は男子の習ふものとなつたので、草假字を「女文字」「女手」といひ、漢字を「男文字」といふに至つた。さて女文字は書くのに容易な所から之を「平(ヒラ)假字」といふこととなつて今日に及んでゐる。「假字手本」を後に「イロハ波」(*ママ)(*イロハ歌)といふことゝなつたのは、その歌の首の言葉を取つて名としたものである。要するに、五十音圖は國語の字母表、イロハ歌は國語書體の標準表である。平安朝以後、和歌や國文學が勃興したのは漢字を崩して平假字を作り、自由に國語のまゝを書寫する利便を得たことに由るものである。故に和歌國文の發達は一に漢文學進歩の結果と謂ふべきであらう。故に平安朝以後國文學は、王朝聖代の進運に伴なひ、一時に振興するやうになつたのである。すると國文學の成立も、要するに漢文學進歩の結果に外ならぬと謂ふべきである。尚ほ漢文學が國文學に及ぼした影響に就いては次章に於て論じよう。
3 漢文學が國文學に及ぼせる影響
國文學が盛に興つたのは漢文學が大いに行はれた後であるから、國文學が漢文學の影響を蒙つたのは固より自然の勢である。今少しく之を細別して論じよう。
先づ漢文學が和歌に及ぼしたそれを説き、次に散文に及ぼした影響を論じよう。
萬葉集と漢學 『萬葉集』を見るに、その結構、資料及び用語等が漢文學及び佛教から來たものが甚だ多いのに留意せざるを得ないであらう。是れ當時漢文學及び佛教が盛であつたのみならず、漢學者及び僧徒の歌を詠ずる者も少くなかつた爲である。 柿本人麿 今漢文學の影響に就いてその著しきものを擧げんに、歌聖柿本人麿が輕皇子の安騎野の遊獵の時作つた長歌一首と短歌四首との意義、及び順序を玩味するに、その結構は巧妙で各首相承應し、恰も詩の起承轉結の如くである。是れ恐らく漢文學間接の結果であらう。
山上憶良 又山上憶良は山邊赤人、柿本人麿を除いて第一流の大家であるが、その詠歌には道義彝倫に關するものが甚だ多い。而してその風調の雄健にして思想の奇警なるが如き、又その結構布置は漢文に類してゐる。又その歌詞が他の諸家に比して稍〃粗大なるの觀がある如き、皆漢文學の影響であらう。殊に「思子等歌」の如きは、或評者は、以て韓昌黎の「原道」に似てゐるといつてゐる。要するに憶良の歌の貴ぶべきは、異彩爛然として別に一機軸を出した點にあり、而して是れ即ち漢文學から得た所であらう。憶良が漢文學に通じてゐたことは、大寶元年、少録となつて粟田眞人に従うて唐に使した一事に依つて察せられる許りでなく、『萬葉集』第五卷に載せた「沈痾自哀文」及び「悲2歎俗道假合即離易レ去難1レ留詩」等を見ても知る事が出來るであらう。以上の外資料及び用語の漢文學から來た歌が少くない。
大伴旅人 又大伴旅人が作つた讃酒十三首の中「酒ノ名ヲヒジリトオホセシ古ノオホキヒジリノコトノヨロシヤ」の如きは、支那の故事、即ち三國の世の『魏略』に、「太祖〔曹操〕酒を禁ず。而も人窃かに之を飮めり。故に酒と言ひ難くして白酒を以て賢者となし、清酒を以て聖人となす。」とあるに基づき、又「古ノ七ノ賢キ人ドモモ欲リスルモノハ酒ニテアルラシ」といふのは、竹林の七賢人の故事に據り、又「ナカナカニ人トアラズバ酒壺ニナリニテシカモ酒ニシミナン」といふのは、『呉志』に、「鄭泉卒するに臨みし時、同輩に語りて曰く、必ず吾を陶家の後に葬れよ、化して土と爲り、幸に取られて酒壺とならば、實に我が志を獲ん。」とあるに據つたのである。是皆漢土の史書の故事に用ひたものである。
反歌 又『萬葉集』に於て、和歌・長歌の終りに短歌を添へ反歌といつてゐるが、この反歌は『古事記』所載の歌、並に『萬葉集』上代の歌にはないことである。この反歌に就いては諸説あるが、是れ亦漢文學から出たもので、木村正辭は「漢土にて賦の末に一篇の括りを述べたるものありて、之を荀子に反辭といふ。荀子の楊■(人偏+京:けい::大漢和780)注に反辭、反覆叙説之辭、猶2楚辭亂曰1といへり、本邦の反歌は全く是に擬したるなり。そは此の方の長歌は彼の國の賦の如きものなればなり。已に本集卷十七には長歌を賦と記したるものあるをや。又同卷家持卿の池主に贈りたる文の後に詩一首と短歌二首とを載せて、式擬レ辭といへり。そも\/推古の時より、何事も隋唐の風をまねびうつされたる事なれば、長歌を賦に擬し反辭にも倣ひて反歌といふをも作り設けたるなるべし」といつてゐるが、この説は最も正しい。 書名の出據 又『萬葉集』なる書名の出據も、『文選』の顔廷之が「曲水詩序」に「貽レ統固2萬葉1」の句があつて、註に「葉代也」とあるのを採つたもので、萬代に遺すべき書の意であるといひ、或は『史記』の魏の世家の註に「萬滿也、左傳云、萬盈數也、葉歌義也、釋名(漢劉煕著)云、人聲云歌、歌柯也、如3草木有2柯葉1也」とあるに據つたもので、萬の言葉の意であるといふ。二話未だ孰れが是なるか知らぬが、然しその出據は漢籍にあるやうである。(今日では前説「萬代」と定めるやうである。)漢文學が萬葉時代の和歌に及ぼした影響の大略は以上の如くである。
竹取物語 平安朝以後に興つた諸種の國文中、最初に現はれ、且最も主要なるものは小説即ち物語で、是れ假字文の最古のものである。而してその物語の中で最も古きものは『竹取物語』である。この物語の著作年代及び作者は未詳で古來種々の説があるが、要するに延喜より稍〃以前に於て、才學の秀でたる男子の作のやうである。而してその主人公を月界の仙嬢にとりたるが如き、之を人界に下さんが爲に竹節中に現はさしめたるが如き、又この仙嬢が五人の貴人に誂へたる事物の如き、最後に昇天せしが如き事を見ると、この物語が漢籍及び佛教に據つたことは明らかである。契沖は『寶樓閣經』『漢書』西南夷傳等、その他諸種の佛經及び漢籍中の説と、我が邦の舊譚とを撮合して作つたものであるといつてゐる。
蓋し漢文の小説には、既に平城朝の初に『浦島子傳』があり、又風土記中にも天女が羽衣を人に取られたといふが如き舊聞が間〃傳はつてゐるものがあり、又平安朝の初に至つては、『日本靈異記』の如き、亦小説の材料たるべきものがあり、且當時は『捜神記』・『續齊諧記』・『遊仙窟』等の支那小説も亦渡來したから、『竹取物語』の著者は、此等の書にも據つて發意し且着想したものであらうか。この物語が一たび出でゝから諸種の物語が續出し、延喜以前にあつては『伊勢物語』があり、以後にあつては『宇津保物語』・『大和物語』・『落窪物語』等があり、又一條天皇の頃から以後に至つては『源氏物語』・『狹衣物語』・『住吉物語』・『とりかへばや』・『濱松中納言物語』等がある。又『唐物語』等の飜譯小説をも出すに至つた。 源氏物語 而して此等の物語中最も優絶して、歌文千古の寶典とせる『源氏物語』の如きも、亦漢文學の影響がないとはいへぬ。然し乍ら當時の小説は、『竹取物語』に比すれば既に大いに進歩して來たから、『源氏物語』にあつては、その材料とする所が『竹取物語』の如く漢籍及び佛經中の奇怪なる故事を用ひるが如きことをせずして、人情世態を曲盡するを主眼としたから、直接漢文學に據つたやうなものはない。斎藤拙堂は、この物語の體は南華の寓言を本とし、その閨情を説くのは『漢武内傳』・『飛燕外傳』及び『長恨歌傳』・『霍小玉傳』等から傳來したものであるといつてゐるが、これ固より直接の影響を見ることは出來ない。然るにこの物語の文法に至つては、漢文から來た事が明らかのやうである。即ちこの物語全部を通讀すれば、記の體あり、論の體あり、序の體あり、書の體あり、又抑揚頓挫、波瀾曲折等盡く具つてゐる。安藤爲章は「紫家七論」にこの物語の文を論じて次の如くいつてゐる。「全體は傳にして、又自ら序の體あり、跋あり、記あり、書ありて諸體備り〔中略〕、論破あり、論承あり、論腹あり、論尾あり、麁より細に入り、俗より雅に趨き、繁より簡に歸し、波瀾頓挫、照應伏案などいふもろこしの文法おのづから具れり。その氣脈は悠暢として寛裕に、その文勢は圓活にして婉曲なり。之を漢文にて見ば史記・莊子・韓・柳・歐・蘇にひとしかるべし」と。蓋し著者が五十四帖の長篇を作るに當つて、その單調を避けんが爲、必要に應じて漢文の諸體を應用し、以て宏大優婉なる全體を殘すに至つたものであらう。著者紫式部が漢文學に通じてゐたことは、その幼少から學才あつて、兄が『史記』を習ふを傍聽し、兄より先に覺え、父藤原爲時をしてその男子でないのを歎息せしめた如き、又晩年、上東門院に召されて『白氏文集』を講義した如きを以ても想察されよう。
歌序 物語に次で興つたのは歌序の文體である。是より先き延喜五年に成つた紀貫之の『古今和歌集』の序を以てその始とする。『古今集』にはこの假字序の外に、貫之の養子淑望の漢文の序がある。この両序は全く同一のもので、文に和漢の差があるのみである。古來この両序の前後に就いては種々の議論があるが、『萬葉集』の和歌に漢文の序があるものが少くないやうに、元來『古今集』以前の歌序は漢文を以て作つたものであるから、『古今集』にも初め漢文の序を附し後に之を飜譯して假字序を作つたものであらう。この序が一度出でゝから、集序及び小序が續出するに至つた。小序の中で最も古きものも亦貫之の作、大井川行幸和歌の序である。而して總て此等の歌序は、表面は純然たる國文であるが、その裏面は全く漢文の口調文法を以て滿されてゐる。即ち大井川行幸和歌の序の如き、當時の駢儷體を模倣して婉麗を極めてゐる。以後の歌序も多くこの體に類してゐる。
歌序に次いで興つたのは紀行、日記、隨筆及び史體の文等で、貫之の『土佐日記』、道綱の母の『蜻蛉日記』、清少納言の『枕草子』及び『大鏡』等を以てその始とする。 枕草子 此等の書は漢文學直接の影響と見るべきものはないやうであるが、然し『枕草子』は舊説の如く、その體が唐の李義山の雑纂に酷似してゐるのを見ると、或は之に據つたものかも知れぬ。以上の如く、漢文學が國文學に及ぼした影響も亦少くなかつたことを知るであらう。
4 漢文及び詩賦
天智天皇が始めて學校を創立し給ひ、大寶中大寶令が制定せられ、養老に至つて養老刊修の律令が完成してから學制は大いに具はり、且推古天皇の朝に隋・唐との通聘が始まつてから以來、舒明・孝徳・齊明・天智・文武・元正・聖武・孝謙・光仁の諸朝毎に遣唐使留學生を派遣した爲、學業は益〃進み詩文は漸く巧となつて來た。然し當時の名家にして詩文の全く傳らないもの、及びその大部分の散迭(*散佚か。)したものが少くないから、以て當時の漢文學の詳細を知ることが出來難い。今現に傳つてゐる詩文中主なるものを擧げると、四六駢儷體にあつては太安麿の古事記の序、伊預部馬養の浦島子傳、對策文等、散文にあつては律令の文、日本書紀等、和漢混淆文にあつては古事記、風土記等である。賦は僅かに二三首を見るに過ぎない。
古事記序 『古事記』の序は、文辭爛然として駢儷體中の名篇である。文筆の盛なることは彼土を凌駕し、而して氣象の雄大莊重なることは、固より之に過ぎたるものがある。即ち左にその一節を録してみよう。
臣安萬侶言、夫混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形、然乾坤初分、參神(天之御中主、高御産巣日、神産巣日)作造化之首、陰陽斯開、二靈(伊邪那岐、伊邪那美)爲群品之祖(下略)
浦島子傳 『浦島子傳』は日本書紀編纂の頃の口傳小説を駢儷體に作つたもので、僅かに一千字に滿たない短篇ではあるが、文筆に上つた我が邦小説の嚆矢である。對策文は何れも華麗で觀るに足るべきものが少くない。
日本書紀 『日本書紀』は支那の史體に倣ひ莊麗な漢文を用ひて我が國史を作り、以て唐土に誇稱しようとして撰修したもので、『史記』・『漢書』・『文選』等に模し、その成語を採つたものが少くない。然し叙事に法があり字句も亦た能く格に合つてゐる。
古事記 『古事記』は大體漢文の格に從つてゐるが、言詞の儘を字音を以て記したところも甚だ多く、又その漢文も純然たる漢文としては讀み難い所も少くない。然し乍ら間々實賞すべき所が無いではない。著者安麿の能文を以て此の如き雜體を用ひたのは怪しむべきやうではあるが、古老の傳説の儘を記す爲に止むを得なかつたのであらう。
風土記 風土記は大抵漢文であるが、地志であるから文辭の修飾が少ない。希には口碑舊聞等は國語の儘を記した所がある。
懷風藻 我が邦の詩は漢文より稍〃後れて興り、平城朝に至つて初めて見ることを得た。即ち天平勝寶三年に成つた『懷風藻』一卷が、我が邦詩集の嚆矢である。依つて今『懷風藻』を解剖して、我が邦詩體の淵源を紬ねよう。『懷風藻』に集むる所の百二十首の中では、五言の絶句、律及び排律等が最も多く、七言は僅かに八首である。
五絶の祖 五言絶句の祖は天智天皇の皇子大友皇子にして、「侍宴」、「述懷」の二首がある。
侍宴
皇明光2日月1。帝徳載2天地1。三才竝泰昌。萬國表2臣義1。
述懷
道徳承2天訓1。鹽梅寄2眞宰1。羞無2監撫術1。安能臨2四海1。
是れ即ち書册中の詩の創見である。
五律の祖 五言律の祖は天武天皇の皇子大津皇子にして、「春苑宴」・「遊獵」の二首がある。
春苑宴
開レ衿臨2靈沼1。遊レ目歩2金苑1。澄徹苔水深。■(日偏+奄:あん::大漢和14013)曖霞峰遠。警波共レ絃響。哢鳥與レ風聞。羣公倒載歸。彭澤宴誰論。
遊獵
朝擇2三能子1。暮開2萬騎筵1。喫レ臠倶豁矣。傾レ盞共陶然。月弓輝2谷裏1。雲旌張2嶺前1。曦光已隱レ山。壯士且留連。
五排律の祖 五言排律の祖は紀麿にして「春日應詔」の一首がある。
春日應レ詔
惠氣四望浮。重光一園春。式宴依2仁智1。優遊催2詩人1。崑山珠玉盛。瑤水花藻陳。階梅鬪2素蝶1。塘柳掃2芳塵1。天徳十2堯舜1。皇恩霑2萬民1。
この後排律を作る者は續々出でたけれども長篇のものはない。以上の諸體の外は甚だ少ない。 五古の祖 即ち五言古詩の始とすべきは文武天皇の「述懷」の一首であらうか。
述懷
年雖レ足レ戴レ冕。智不2敢埀1レ裳。朕常夙夜念。何以拙心匡。猶不レ師2往古1。何救2元首望1。然毋2三絶務1。且欲レ臨2短章1。
七古の祖 七言の端は大津皇子の「述志」の聯句「天紙風筆畫2雲鶴1。山機霜杼織2葉錦1。」に發したが、これは只一の聯句に過ぎぬ。完全なる詩としては、紀麿の子古麿の「望レ雪」の七言長篇を以てその始とする。これ即ち七言古詩の始であらうか。
望レ雪
無爲聖徳重2寸陰1。有道神功輕2球琳1。垂拱端坐惜2歳暮1。披レ軒■(寒の二を衣に作る:けん::大漢和34513)レ簾望2遙岑1。浮雲靉靆■(榮の木を糸に作る:えい::大漢和27733)2巖岫1。驚飆蕭瑟響2庭林1。落雪霏霏一嶺白。斜日黯黯半山金。柳絮未レ飛蝶先舞。梅芳猶遲花早臨。夢裡鈞天尚易レ涌。松下清風信難レ斟。
七絶の祖 七言絶句の始は古麻呂の子男人の「遊2吉野川1」の一首である。
遊2吉野川1
萬丈崇巖削成レ秀。千尋素濤逆2柝流1。欲レ訪2鍾池越潭跡1。留2連美稻1逢2槎洲1。
七律の祖 七言律の始は藤原宇合の「秋日於2左僕射長王宅1宴」の一首であらうか。
秋日於2左僕射長王宅1宴
帝里煙烟雲乘2季月1。王家山水送2秋光1。霑レ蘭白露未レ催レ臭。泛レ菊丹霞自有レ芳。石壁蘿衣猶自短。山扉松盖埋然長。遨遊已得レ攀2龍鳳1。大隱何用覓(*原文「不/見」に作る。)2仙場1。
詠物 その他詠物の始は中臣大島の「詠2孤松1」一首である。
詠2孤松1
隴上孤松翠。凌レ雪心本明。餘根堅2厚地1。貞質指2高天1。弱枝異2萬草1。茂葉同2柱榮1。孫楚高2貞節1。隱居脱レ笠。
和韻 和韻の始は大津首の「和下藤原太政遊2吉野川1之作上〔仍用前韻〕」の一首である。然るにこの和韻は元白劉酬和の前に在つて頗る奇といふべきである。而して藤原太政即ち不比等の「遊2吉野川1」の作は『懷風藻』の中に載するものがあるが、然し首の作と韻が同じでないところを見ると、不比等の本韻は今傳つてゐないやうである。又我が國の聯句は後世五山等で盛になつたものであるが、大津皇子の「述志」の一聯を以てその始とすべきである。此くの如くにして諸種の詩體は、大抵既に『懷風藻』時代に始つた。而して以上の「望レ雪」「遊2吉野川1」等の如きは平仄に拘らないもので、總てこの時代から平安時代の初に至るまでは、聲律に拘らないものが甚だ多い。蓋し當時にあつては、專ら『文選』の古詩を尊びて、未だ唐詩の格律嚴正なるものに接しなかつた爲であらう。
賦 賦の現存せるものは、『經國集』第一卷に載せた二三首のみであるやうである。その中で最も古いものは藤原宇合の「棗賦」で、之に次げるものは石上宅嗣の「小山賦」である。賀陽豊年の「和2石上卿小山賦1」の一首も、亦この時代のものであらうか。而してその文辭は當時一般の文學の如く極めて華麗である。
要するに平城朝の漢文學は專ら六朝に倣うて華麗を貴んだ爲、駢儷體に最も觀るべきものがある。詩も頗る現はれたが、後世から見ると未だ瑕瑾を免れない。
5 漢文の著作
この時代の著作は大抵前節に於て説いたものであるが、今假に之を二大別にし、略ぼ年代の順に依つて列擧すると凡そ左の如くである。
第一 詩文の類
對策 二首 |
百濟倭麻呂 慶雲四年九月八日 |
(經國集卷第二十) |
浦島子傳 |
伊預部馬養(養老より以前の人なるべし) |
(群書類從卷第百三十五) |
對策 二首 |
刀利宣令 |
(經國集卷第二十) |
對策 二首 |
下毛野蟲麻呂 |
(同) |
對策 二首 |
葛井諸會 和銅四年三月五日 |
(同) |
對策 三首 |
葛井廣成 |
(同) |
藥師寺東塔擦銘 |
舍人親王 |
(古京遺文) |
棗賦 |
藤原宇合 |
(經國集卷第一) |
東大寺造立金銅牌文 |
聖武天皇 |
(群書類從卷第四百卅五) |
對策 二首 |
船沙彌麻呂 天平三年五月八日 |
(經國集卷第二十) |
對策 二首 |
藏伎美麻呂 天平三年五月九日 |
(同) |
對策 二首 |
大神蟲麻呂 天平五年七月廿九日 |
(同) |
東大寺願文 |
孝謙天皇 |
(東大寺獻物帳) |
讃佛 |
孝謙天皇 |
(經國集卷第十) |
對策 二首 |
紀眞象 天平寶字元年十一月十日 |
(同卷第二十) |
銜命使本國 一首 |
阿倍仲麻呂 |
(唐詩品彙) |
私教類聚 |
吉備眞備 |
(拾芥抄中卷) |
三月三日於西大寺侍宴應詔 一首 |
石上宅嗣 |
(經國集卷第十) |
小山賦 |
同 |
(同卷第一) |
和石上卿小山賦 |
賀陽豊年 |
(同) |
於内道場觀虚空藏菩薩會 一首 |
淡海三船 |
(同卷第十) |
扈從聖徳宮寺 一首 |
同 |
(同) |
聽維摩經 一首 |
同 |
(同) |
和藤六郎出家之作 一首 |
同 |
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贈南山智上人 一首 |
同 |
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大安寺碑文 |
同 |
(好古雜誌四編上) |
懷風藻 一卷 |
淡海三船の撰なりといふ 天平勝寶三年 |
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第二 史傳地誌及び律令の類
古事記 三卷 |
太安麻呂 和銅五年 |
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常陸風土記 一卷 |
和銅六年か |
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播磨風土記 一卷 |
同 |
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令 十卷 |
藤原不比等等 養老二年 |
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令義解を見て知るべし。全部三十篇、但し倉庫令第廿二、醫律令第廿四の二篇は完からず。 |
律 十卷 |
同 同 |
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全部十二篇・その中名例第一(後半を失ふ)・衛禁第二(前半を失ふ)・職制第三・賊盜第七(一條を失ふ)等四律現存するのみ。 |
日本書紀 三十卷 |
舍人親王・太安麻呂・紀清人等 養老四年 |
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別に天皇系圖一卷ありたりといふも今傳らず。但し釋日本紀に收めたるもの、即ち是ならんといふ。 |
出雲風土記 一卷 |
天平五年二月卅日 |
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肥前風土記 一卷 |
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豐後風土記 一卷 |
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白山縁起 首欠 |
釋泰澄 |
(續群書類從卷第七十四) |
唐大和上東征傳(鑑眞和尚東征傳) |
淡海三船 |
(群書類從卷第六十九) |