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日本漢學史

牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記
世界堂書店 1938.10.2 336p


※ <strong class=sum></strong> 小見出し <p class=note></p> 補足説明部分 <name ref=""></name> 人名 <work title=""></work> 書名 <periodical title=""></periodical> 誌名 <year value=""></year> 年号(値は西暦年) <div class=title></div> 詩題・詞書 等のタグを使っている。また、(* )は注記、入力者によるフリガナ等を表す。
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※ なにぶん昭和13年の文章である。歴史解釈については、時代背景を念頭に置いて見てもらいたい。
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上古平城朝平安朝鎌倉・南北朝足利・織豊時代徳川時代明治時代

日本漢學史 目次
 第3章 平安朝  
  1. 概説
  2. 詩文集  

日本漢學史

牧野謙次郎述
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第三章 平安朝

1 概説

桓武天皇 桓武天皇が都を京都に奠め給うてから以後、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた迄を平安朝といふ。蓋し政治の中心が京都に在つた時代を指すのである。

桓武天皇は未だ帝位に陞り給はなかつた以前は山部親王と申し上げた。甚だ儒教に精通し給ひ、士官して大學の頭とならせ給うた。即位し給ふに及んで、政治を改革し、聖武孝謙二朝の弊を除き、都を平安に奠め、百代不易の都と爲し給うた。

勸學田 その大學に於けるや、費用が不足であるところから勸學田(越前に水田一百二十町歩)を設け、大いに文學を奬勵し給うた。 漢音 又諸學士に詔して漢音を學ばしめ給うた。 呉音 而して當時亂雜してゐた發音を正し、佛教は呉音、儒教は漢音を以て讀むべき詔勅を下し給うた。

斯くして之に繼ぐに平城嵯峨淳和の三天皇皆好文にまし\/、殊に嵯峨天皇は最も學問詩賦を以て著はれ給ひ、小野篁釋空海は並びに詩賦文藝を以て帝寵を被つたのである。次にその人々に就いて略説しておかう。

空海 空海は讃岐の人。書生を以て身を起し、後感ずる所あつて十八歳の時桑門に入り、遣唐使に從つて留學すること二年、歸朝して眞言秘密の法を傳へた。又最澄と前後して本地垂迹説、兩部習合説を唱へた。是に於て佛教は大いに行はれるに至つたのである。

初め儒學が百濟から我が國に傳來するや、時恰も漢末に當り、經學は訓詁に止まり、潜心思索して哲理を闡發するといふに至つては、佛教を除いては殆ど求むるに由なきに至つた。故に和氣清麿の如きも佛教に傾心するを免れなかつたのである。また吉備真備が合掌膜拜して甘んじて衆人の觀となつたのも怪しむに足らぬ。 本地垂迹説 而して釋氏には最澄(傳教大師)・空海(弘法大師)の傑僧があり、在支二年、内外兩典を兼綜し、歸朝の後本地垂迹説を唱へた。蓋し佛教が始めて傳はるや、物部守屋は國神説を主張し、聖徳太子蘇我馬子等はこの説と相容れなかつた。然し太子守屋を滅ぼすに及んで佛教は盛に行はれるに至つた。而して國神と佛教と相容れないのを憂ふる者も亦少くなかつた。是に於て遂に最澄空海の本地垂迹説、所謂神佛の調和を唱へる者が出るやうになつたのである。その後神社は伊勢の神宮を除く外は悉く浮屠の祀る所となり、明治維新に至る迄廢止されなかつたのである。

平安朝に入つてから、文章院・勸學院・學舘院・淳和院・弉學院等、諸氏の私學校が創設された。然しそれは上流社會に限られたものであつた。 綜藝種智院 是に於て空海は貧賤子弟の爲に京都に綜藝種智院といふ學校を創立した。

空海の著書には『三教(がう)指歸』がある。又『文鏡秘府』(*文鏡秘府論)の著述がある。尚伊呂波歌は空海の作と爲し、而して平假名の作者も亦空海であると傳へられてゐる。

小野篁 小野篁は參議岑守の子である。少年の頃は弓馬を好んで學問を事としなかつたので、嵯峨天皇は之を詰り給うた。は慚悔し、そこで始めて學問に志したのである。後に遣唐副使となり、才氣ある爲に正使參議常嗣と合はず、篁は病氣と稱して歸朝し、「西道謠」を作り、以て遣唐使を剌つた。嵯峨天皇は大いに怒り給ひ、これを隱岐に竄し給うた。篁は路次に在つて「謫行吟」七十韻を賦した。奇麗優長で、人々は爭つて之を傳誦した。明年赦されて歸京し、朝に仕へた。

當時文章はを無雙と稱した。 三蹟 は又、草隷書に工であつた。嵯峨天皇は殿閣諸門の題號を改めて榜を掛け給うた。北門・玄武門の額は御親筆、東面は橘逸勢、南面及び應天門は空海の筆である。皆當時の書を善くするもので、世に之を三蹟といふ。その他空海の書いたものは甚だ多い。は之を誹つて曰つた。「美福田廣、朱雀飽米」と。

白氏文集 この時『白氏文集』が初めて我が國に傳つた。當時御府に唯一部を藏してゐたのみである。嵯峨天皇の才を試みようと欲し、嘗て河陽館に幸して、「閉閣唯聞朝暮鼓。上接遙望往來船。」といふ詩を賦してに示し給うた。は、遙を空に改め給へば、聖作は更に妙であらうと申し上げた。天皇は驚いて、「是は白氏の句である。本空に作つてあつたのである。の詩思は已に樂天に同じきか。」と感嘆されたといふ有名な話がある。

蓋し當時は文章が隆盛であつた。然し學問は支那六朝の浮華を承け、駢四儷六でなければ訓詁章句で、徒らに力を彫琢記誦に勞して實用に乏しいものであつた。然し亦實學篤行の君子もないことはなかつた。

良岑安世 大納言良岑安世桓武天皇の皇子である。姓を良岑と賜つた。少時鷹大を好んで騎射を事とした。成立するに及ぶ頃、始めて『孝經』を讀んで、歎じて曰く、「名教の極、其れ茲に在る乎。」と。遂に專ら勉學して名臣となつた。

山田古嗣 山田古嗣は阿波介であつた。天性篤行、母歿して後母に事へた。後父の喪に遭ひ、哀哭禮に過ぎた。嘗て書を讀んで「樹靜ならんと欲すれども風停まず。子養はんと欲すれども親待たず。(*樹欲靜而風不停、子欲養而親不待。)」の句に至つて流涕禁ずる能はず、卷帙は之が爲に沾濡したといふ。

白氏文集の流行 當時『白氏文集』が盛に行はれた。單に文集とのみいへば、問はずしてその『白氏文集』たることが知れた。菅相公の詩の如きも亦白氏の詩を學んだものである。樂天に、

遺愛寺鐘欹枕聽。香爐峯雪撥簾看。

といふ句があるが、相公にも亦、

都府樓纔見2瓦色1。觀音寺只聽2鐘聲1

といふ句がある。是は只その一を擧げて證したのみである。降つて一條天皇の朝に至つてかの清少納言が「香爐峰雪捲簾看」の句を知つて簾を捲いたといふ有名な話がある。又高倉天皇の時、使丁が「林間煖酒焚2紅葉1」の句に因つて紅葉を焚いたといふ名高い話もある。尚後村上天皇の御製の文に「露濃緩語園底花、月落高歌御柳蔭」といふ句がある。 是は天皇親らも佳作であると信ぜられて、菅三品文時の作「西樓月落花間曲、中殿燈殘竹裏音」と比較せしめ給うた。文時天皇の問に答へて、「自謂臣詩犯帝座升一等(蓋し客星帝座を犯すとは東漢嚴子陵の故事である。)」といつた。即ち因つて席を逃れて去つたとの話も傳つてゐる。斯くの如く、人君臣下共に白氏を熟習してゐた。

前に「漢文學が国文學に及ぼせる影響」の章に於て引用した如く、『拙堂文話』には當時の文を論じて、「物語草紙の作の中、枕の草紙はその詞は多くは李義山雜纂に沿ひ、伊勢物語唐本事詩章臺楊柳傳(唐氏の小説)より來り、源氏物語はその體は南華寓言に本づき、其の閨情は漢武内傳飛燕外傳及び唐人の長恨歌霍小玉傳の諸篇より得來れり。其他和文に凡べて序・記・論・賦等と云へるは、既に漢文の題目を用ひたるなり。即ち眞假の別ありと雖も、是漢文の體裁に依れるのみ。」と記してある。

古今集序 紀貫之の「古今集序」には眞假の(*一字脱。「兩」か。)文があり、假名序は既に古今に冠絶したものであるが、その眞名の序も亦觀る可きものがある。(但し眞名の序は後人の作なりといふ。)その中、六歌仙の人に就いての體格を詳にした句の品藻の妙は、臨川王の『世説』〔宋劉義慶著〕から來たのである。

橘直幹 駢儷の文章には橘直幹(モト)の如き學者があつた。初め直幹は文章博士となつた。先例として文章博士は皆他官を兼ねた。直幹は現状に不滿を懷き自ら申文を作り、小野道風に書かしめて之を上つた。 村上天皇 村上天皇はその不平なるを見て悦び給はなかつたが、讀んで「瓢箪屡空、草滋2顔淵之巷1、藜■(艸冠/霍:かく::大漢和32406)深鎖、雨濕2原憲之樞1。」といふ一節に至り、歎じて曰はく、「一世の文士なり。窮して乃ちこゝに至る、亦朕の過なり。」と。即ち民部大輔に任じ給うた。

天皇は嘗て冷泉院に遊び、「花光水上浮」といふ題を以て、菅原文時に詩を送らしめ給うた。文時は熟思したが出來なかつた。天皇は之を促し給うた。屡〃促されて乃ち一詩を賦した。

誰謂水無心、濃艶臨兮波變色、誰謂花不語、輕漾激兮影動唇、

時に駕は將に囘らんとしてゐたが、天皇は之を見給うて大いに感賞し、再び盛宴を開いて以て天明に至つたといふ。

當時は詩文が流行し、殆どその盛を極めたが、浮華輕薄に流れ、人心は頗る墮落した。 三善清行・菅原文時 然し經國の文章にも亦、三善清行菅原文時意見封事の如きもので、後世までも傳つたものもある。清行意見封事は、大學の情状を論じたが、その論の中に

坎■(土偏+稟:らん::大漢和5530)(カンラン)之府、凍餒之郷

と曰つてゐるが、是は大學を貧窮者の寄合であるといつてゐるのである。蓋し藤原氏は外戚を以て專横を極め、門閥家のみ政權を專らにし、學才はあつても用ひられなかつた。菅公の如き賢を以てしても而も貶斥を免れなかつたのである。學士は皆轗軻不遇にして下流に沈滯した。故にこの語があつた所以である。

當時の學者 然してこの時代と雖も全然學者がなかつたとは謂へない。唯藤原氏專横の爲に、元來貴族であつた源平二氏の如きも昇殿を許されなかつた程であるから、學者も亦その途を塞がれてゐたのである。菅公の貶謫の如きはその一例である。他はいかなる博學の士と雖も、その位は博士に止まるに過ぎぬといふ有樣であつた。 大江匡房 後に至つては、天子三代に仕へ、後三條天皇の皇嗣時代の師として、即位の後藤原氏の專横を抑制し給へるを翼贊したる、大江匡房の如きも出たのである。 清原頼業、學・庸表章 又高倉天皇の侍讀であつた清原頼業の如きは、支那に於て朱子が『大學』・『中庸』なる『禮記』中の二篇を獨立單行せしめて『論語』・『孟子』と共に『四書』とした時代より十數年前に既に、世必ず達悟の士ありて『大學』・『中庸』の二篇を表章する者があらうといつたといふ。斯くの如き儒者もあつたのである。

斯くの如き人を一々擧げると相當ない事もないが、何分門閥政治の爲一般には甚だ振はなかつた。 藤原頼長、藤原信西 然し門閥それ自身である藤原氏の内でも學者がなかつたのではない。即ち惡左府と稱せられた頼長の如きは非常な學者で、藏書も許多あつた。藤原信西(通憲)の如きは博學多識にして、讀む所の書も頗る多くあつた。保元・平治の亂が起つて前後にその生命を殞した人であるが、その何れも亦學を好み、特に韓非子の刑名の學を愛好したといふ。而して性格は兩人とも慘忍酷薄であつた。 平重盛 又平重盛の如きは、一般には君子人として著名であるが、學問にも相當達してゐた事は、その父を諫めた言によつて見ても明らかである。彼の「聞2王事1家事、不2家事1王事。」の語の如きは、『春秋公羊傳』に出てゐる。

菅原道眞 是から先、遣唐留學生を送つてゐたが、是時(宇多醍醐天皇)に至り、菅原道眞は唐が亂れた爲に、奏して使者並に留學生派遣の事を罷めた。是から唐との交通が絶えて漢學は稍〃衰へて來た。

文章 そして文章には和漢混合の雜體が生じ、遂に後世の諸文體を爲すに至つた。榊原芳野〔明治初期の人〕の『文藝雜纂に曰く、

上古には文章なく、唯古傳祝詞の類、人の口を以て人の口に傳へ、祭祀に臨む毎に之を唱す。故に傳つて佚はず焉。然れどもその人を失へば以て傳ふる能はず。故に言詞に重きを置き、その言詞たるや頗る洗練せられたるなり。言靈(コトバ)の國と云はれ、其語婉麗粲然として章を成し、其辭對偶を爲し、自然支那の駢體と相似たり。古事記風土記に載する所を見て知るべし。

と。その朝廷にあつては應神天皇の時漢學傳はり、仁徳天皇の時より漢學行はれ、文章の必要が起つて又使用されるやうになつた。 宣命體 聖徳太子頃から公文は總べて漢文を用ひて記載せられ、唯大禮の時は舊言語(國つ言の葉)を用ひ、漢文又は漢字の音を假つて綴つた。何時頃から始まつたかは未詳であるが、歴史に據ると、文武天皇の時から始まつたやうである。『續日本紀』に此事がある。後世は之を稱して宣命體といふ。『日本書紀』は元正天皇養老四年に出來上つたもので、神代から記載せられてゐる。是には殆ど純粹の漢文を用ひ、宣命體に似たものは殆どない。(天武紀に僅かに宣命體に類したものがあるのみである。) 詔勅 歴朝の詔勅は悉く漢文を用ひてある。『續日本紀』に至つて、詔勅の眞を失ふことを恐れて、その當時用ひられた文を用ひた。これが宣命體の起る所以となつた。而してこれを除く外、公文には漢文を用ひ、且大學に於ては學生は主として漢文を學んだ。而してその學ぶ所は初唐聯體であつた。故に作る所の序詩から書簡、紀事文に至る迄皆對偶を用ひ、その對偶から出て一種の和文をなした。(漢和混合の對句和文)後世、宇多醍醐天皇の時に及んで、菅公が遣唐使を廢し、留學生は熄んだ。その爲に漢文は直接支那から入れられることが出來なくなつた。 官府文・往來書簡文 支那との關係が絶えた爲、こゝに一種の文章が起つた。その文形は漢文體で、語の位置は邦語を以てした文である。純然たる漢文から見ると、文章の作法上、文の顛倒錯置のあるを免れない。これから文法は漸く亂れ、又亦一種の文體をなすに至つた。これ後世の官府文、往來書簡文の文である。

女子の文體 大抵以上の如くである。而して古文から出て女子の消息文をつくるに至る迄には、その間に大いに年月があつた。先に朝廷は文學を以て士を採用した。士は皆漢文を學び、漢文を能くする者は官に任ぜられた。貴族は漢文を學ばないものでも、亦その日用の文字は勢ひ漢文の體に從はざるを得なかつたのである。或は人に命じて作らしめ、或は自ら模倣し、皆我が國が固有の言語を用ひることを愧ぢた。然し女子は深閨にあつて多くは文字を修めず、而して中古に制せられた假字を學び、直ちにその言語を寫した。故にその法は古に異ると雖も、然もその趣味は即ち同じく、以て事實を録し、以て音信を通じた。醍醐天皇延喜の朝に至り、紀貫之はその雅馴なるを見るや、「古今集序」・「大井河和歌序」等は皆この女子の文體に從つて作つた。而して漢文流行の習慣が久しかつた爲に、かへつて我が國語を使用するのに勞したやうである。姪(*おい)の淑望に命じて漢文を用ひて撰せしめ、之を更に和文に譯し、排對の體を以てした。「古今集序」が是である。その土佐守に任ぜられ、任期が滿ちて歸る時、始めて散文を用ひて『土佐日記』を著はした。(是より先に竹取宇津保物語等があるが、作者が不詳であるから省いた。)

王仁漢書を傳へてから官府の文は皆漢文を用ひた。『古事記』を上る表、及び歴史中の詔勅(聖徳太子憲法も亦同じ。)、『古語拾遺』より以下その書の文體は皆然りである。

然るに留學生の往來が止むに及んで、漢文に暗く、後世の官府下行文(朝野群載政事要略擧げる所の者)・御家日記(文學家の記す所を除き外の通常記録)等の文章は、前に述べた所の如きものと、從來行はれた所の漢文と異つて一種の文章をなした。文法は錯亂して遽かに讀み難いものであつた。而して『東鑑』・『貞永式目』等の如きは、文法は益〃亂れ、後には遂に近來の通用書簡文體を成したといふ。

文體 漢文から生じて來た各文體を左に(*下に)表にして掲げる。
(*罫線文字〔NEC文字〕を使ったので、画像を参照用に掲げた。)

漢文から生じた各文体

                     ┌─勅撰和歌序
               ┌─和歌序─┤ 
        ┌─祝詞─┐ │     └─家集和歌序
        │    │ ├─日記
 古文(國文)─┤    ├─┼─消息文───後世女文章
        │    │ ├─紀行文
        └─宣命─┘ ├─物語文
               └─漫筆文
                    

          漢文排對 ┌─對和文
    ┌─六國史─┬────┴─官府通用文
 漢文─┤     ├─戰記文
    └─律令等 ├─往來書簡文─┐ ┌─後世法令文
          │       ├─┤
          └─日記記録文─┘ └─後世書簡文


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2 詩文集

詩文集

凌雲集 小野良岑
文華秀麗集 仲雄王嵯峨淳和二天皇及びその餘の作る所を收む。原三卷、今存一卷。
經國集










良岑安世滋野貞主等撰、原二十卷、今存六卷、卷一(賦)、卷十(詩九、樂府)、卷十一(詩、雜詠)、卷十三(詩、十二雜詠)、[卷十三(詩、雜詠)](*[ ]で囲んだ部分は、原文では枠囲み。)、卷十四(詩十三、雜詠)、卷二十(策下賦)、卷首に東宮學士從五位下滋野朝臣貞主の序がある。曰く、
「…爰詔2正三位行中納言兼右近衞大將春宮大夫良岑朝臣安世1。令3臣等鳩2訪斯文1也。詞有2精麁1。濫吹須辨。文非2一骨1。備善維雜。…自2慶雲四年12天長四載1。作者百七十八人。賦十七首。詩九百十七首。序五十一首。對策三十八首。分爲2兩帙1。編成2廿卷1。名曰2經國集1。…先入2秀麗1者。即不刊之書也。彼所2漏脱1。今用兼收。人以爵分。文以類聚。…」
扶桑集 殘缺。
本朝麗藻
本朝無題詩 中に多く藤原忠通〔九十首〕・少納言通憲の作を載す。
本朝文粹 藤原明衡撰十二卷、嵯峨天皇より一條天皇に至る。
續本朝文粹 藤原季綱撰、十三卷、原十四卷云。
朝野群載






三善爲康撰(崇徳天皇頃の人)、原三十卷、今存二十三卷、自序に曰く、
「多集2反故之體1以爲2知新之師1。部類成2三十卷1。號曰2朝野群載1。時永久〔鳥羽天皇佳號〕三暦丙申之年。(*永久4年か。)善家儒爲康之。」
この書は『本朝文粹』に類してゐるが、多く關官府の文を擧げてゐる。又雜文中に田地賣買券等を載せてゐる。
性靈集 釋空海撰、十卷、第一(詩)、第二(文)、第三(詩)、第四(文)、第五・六・七(詩)、第八・九(文)、第十(文並詩)
文鏡秘府論 釋空海撰、六卷、論詩式文法、卷一(天)調四聲譜、卷二(地)論體勢等、卷三(東)論對、卷四(南)論文意、卷五(西)論病、卷六(北)論對偶。
菅家文草 菅原道眞撰、十二卷、詩文(一卷−六卷)、詩(七卷−十二卷)。
菅家後草 菅公貶謫後所作の詩文、原三卷、今存一卷。
都氏文集 都良香撰、一卷、菅公の師である。作る所の「富士記」も亦この中に在る。
江吏部集 大江匡房撰。
田氏家集 島田忠臣撰。
法性寺關白集 藤原忠通撰。
和漢朗詠集 藤原公任撰。近江朝より一條天皇寛弘年間に至る。
歴朝詩纂 松平頼寛輯〔水戸の分藩守山藩主〕。
日本詩紀 市河世寧〔寛齋〕輯。
金石私志

要するに平安朝時代は、支那の六朝から唐初の漢學を承け傳へたものであるから、思想上の研究は遺憾ながら至つてゐない。詩と文章の方に重きを置き、諸經の義理研究の方は未だ及ばなかつた。


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