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 三宅道乙  向井霊蘭  菊池耕斎  田中止邱  彭城東閣  佐々十竹  柳川震沢

先哲叢談續編卷之二

                          信濃 東條耕子藏著

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三宅道乙
名は道乙、字は子燕、鞏革齋と號す、又大遺齋・研山樵夫等の諸號あり、通稱は忠兵衞、晩に道乙を以て稱と爲す、平安の人なり、

道乙は、本と合田氏、父を圓齋と曰ふ、歳十二にして菅玄同に從ひて學ぶ、日に萬言を誦す、耳目の觸るゝ所、一たび度れば忘れず、天資明爽、教督を假らず、才識蚤發、老成者の如し、時に播磨州書寫山の僧松壽といふ者あり、算數に通達し、暦術進歩に長ず、圓齋と友とし善し、京師に到る毎に、必ず來りて之を訪ふ、道乙從ひて之を學ばんことを請ふ、松壽、其の幼なるを以て、之を肯んせ(*ママ)ず、屡〃請うて止まず、竟に之を許す、一年にして其蘊奧を極めて、講習怠らず、十四歳の時、松壽試に道乙の推歩する所を以て、其短長盈縮を測るに、毫も違差なし、因て盡く其秘訣を傳ふと云ふ、
道乙、歳十八にして始めて三宅寄齋に見ゆ、寄齋、其凡ならざるを愛し、又器量の爲すあるべきを識る、嘗て門人に謂て曰く、吾儕輩を見ること亦衆し、未だ此の若き人を見ず、汝が徒の企て及ぶ所に非ずと、後、圓齋に請ひ、養ひて以て嗣子と爲す、故に出でて三宅氏を冒す、
道乙、寄齋の爲めに養はれてより、益〃自ら刻苦し、經史を渉獵す、其子弟を教授する、多くは寄齋の教授する所に從つて、其趣を異にせず、全く繼述を以て志と爲し、敢へて己の見る所を發せず、
道乙、史學に長ず、嘗て二十一史を翻刻するに意あり、而して卷帙の重大なる、容易に其擧を成し難く、荏苒して果さず、史・漢・三國、既に其擧を成す者あり、故に將に晉宋の後を刊せんとして、先づ譯訓を六朝・唐及び五代に附す、當時二十一史の我土に舶來する者は、萬暦版のみ、其の書滅字ありて讀むべからざる者多し、既に三本を購ひ、校勘して之に對比するに、之を句讀すべからず、而も遍く全本を求むるに、未だ之を獲ること能はず、其事果さずして罷む、
道乙、萬暦版二十一史の全本を獲ざるを以て、又綱目通鑑を刊せんと勸むる者あり、訓點既に畢り、遂に自ら資を捨て、雕工數人をして剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)に從事せしむ、葉紙極めて夥し、歳月を積むに非ずんば、功を成すこと能はず、既に緒に就て後、鵜飼石齋も亦此擧ありと傳へ聞く、是に於てか課程を嚴にし、人事を省きて之が董督を爲し、期年にして業を卒ふ、蓋し寄齋より家資豐贍にして、常に餘贏あり、故に一家の財力を以て、此の如きの鉅册鴻卷を翻刻するは、大業と謂ふべし、因て憶ふ三十年以來、鉛槧の徒、將に一書を刊せんとするや、費資に艱み、事を起すも半に廢するあり、或は人の爲めに奪はれて、原稿を失ふに至り、其功を畢ること能はざるあり、而して啻に宿志を果さゞるのみならず、憾を地下に負ふ者、比々として衆し、近時亦此より甚だしき者あり、有土巨室の尊貴を以てして、常に資用の給(た)らざるを苦しみ、貸借を素封の商賈に仰ぎ、僅に以て其常務を辨ずるのみ、何ぞ文藝に從事して、是等に及ぶに遑あらんや、間〃著述・編輯・校訂・寫鈔に從事し、志を文藝詞翰の中に留むる者あるも、之を求むること未だ深からず、之を好むこと未だ切ならず、處置宜しきを得ず、事を監修する者、及局に入るの人、各〃給用・筆墨・賞賜・幣帛を貪りて、速成を欲せず、歳月を淹滯し、恬として意と爲さず、其成書を剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)するに至りては、動もすれば輒ち遲延す、之を要するに實に名教を弘奨し、不朽を庶幾するに意なし、故に世人の言に、某藩、某の史を編輯す、某の邸、某の書を翻刻するとの乾話■(虍/丘:::大漢和32700)■(口偏+奴/糸:::大漢和)あるに過ぎず、則ち之を綱目を刊布するの、儒一人の力を以てするに比すれば、豈に慙愧せざらんや、道乙、平生尤も言語を愼み、專ら誠信を主とす、嘗て釋氏の妄誕を笑ふ、一場の話説と雖も、未だ曾て因縁萬便の事を爲さず、
一日、仙洞御所に和漢聯句百韻の擧あり、當時鴻宗碩匠と稱する者、とく其筵に陪す、後、其詞藻寰■(囗構+貴:::大漢和4842)に傳ふ、道乙、嘗て一たび之を見、復た展卷せず、最後連歌名士、里村道作、時流を家に會飮す、道乙、固より其技に從事せずと雖も、之と友とし善し、往いて其席に在り、坐客偶〃談、聯句百韻に及ぶ者あり、將に請うて其詞藻を見んとす、道作、是より先き、之を他に貸す、今此に有らざるを以て答ふ、道乙、紙筆を乞ひ、自ら其諳記する所を書し、坐客をして之を見しむ、後之を比對するに、百韻一字を差はず、強識の性、大率此の若し、
道乙、常に道義を以て自ら任じ、一事をも苟もせず、門人子姪難を問ひ疑を質す、肯て是非を闌語する者なし、將に益を請はんとする者は、首を俯し鞠■(身+呂:::大漢和38089)として教言を認得し、能く聽いて、而る後揖して起ち、趨り出づ、所謂師道嚴にして、而して道益〃尊き者歟、
道乙、善を聞けば、則ち涙を垂れて感歎し、惡を聞けば、則ち切齒憤疾す、資性に發して、些の粉飾なし、
道乙、歳三十六にして寄齋を喪ふ、當時文學未だ甚だ開けずして、喪祭の禮を知る者寡し、有志の人と雖も、率ね習俗に從ひて、浮屠の法を用ふ、道乙、寄齋を葬るに、文公の家禮に據り、儀禮を■(酉+甚:::大漢和39919)酌して、以て喪服を治む、此擧、都人未だ及ばず、皆之を指笑す、服■(門構+癸:おは:終:大漢和41430)(おは)りて後、喪祭二禮節解を著し、詳に其事實を述ぶ、我土の喪祭の禮節を辨論する者、此より始まると云ふ、
道乙、先業を繼ぎてより、諸生の之に師事すること、猶ほ寄齋の時の如し、教誨諄諄として解怠あることなし、當世の風習各〃時好に趨り、務めて纂組の巧を爲す、藻繪粉飾して、迭に相誇尚し、復た實踐躬行の學あるを知らず、道乙、深く之を憂ひ、專志研慮至らざる所なし、掲ぐるに立身行道を以てし、大義を標準し、生徒をして之に從事せしむ、纓■(糸偏+拔の旁:::大漢和27345)の士、韋帶の客、嘉聲を聽きて翹岐せざるはなし、是より以後、門徒の盛なる、與に其業を比する者なし、
道乙、不惑より耳順に至るの際、屡〃江戸に遊び、往來數回、貴紳相爭ひて之を招致す、紀伊公〔從三位中納言綱教卿〕・備前侯光政〔從四位少將松平新太郎〕・津侯〔從四位少將藤堂大學頭〕・皆弟子の禮を執り、信崇最も至れり、故に時々其邸第に寄寓し、往來する毎に、邸第より肩輿僕從を以て之を送迎す、行李輜重甚だ多し、弟子從行する者數人、陪隨する者數十人、而して諸侯に傳食す、以(はなは)だ泰ならずやの意あり、世皆之を榮とす、
道乙、衡門に居ると雖も、實に遺逸を甘んじて、意を當世に絶つ者にあらず、故に好みて、子姪とともに竊に時務を論じ、或は四方の疾疫水旱、侯國政事の利害を聞きては、則ち憫怛の情、隱然として眉睫の間に見る、
延寶三年乙卯七月、痢を患ふ、鍼藥驗なくして、飮食日に減ず、自ら其の治すべからざるを知り、後事數條を手疏して、丁寧懇告至らざる所なし、其の病革らんとするに及び、舊識・故人・曁び親戚數輩を招きて、悉く永訣を告げ、言笑款々として平素に異ならず、謂て曰く、死生の理、縷々するを待たず、請ふ諸君念と爲すこと莫れと、遂に八月廿一日を以て、熟睡するが若くにして終ふ、歳六十二なり、鷹峯に葬る、遺命に從ひ、浮屠氏の法諡を用ひず、墓表題するに三宅子燕之墓の六字を以てするのみ、著す所、祭禮節解喪禮節解各二卷・愼修筆記四卷・大遺齋文集十卷・詩集六卷・和歌集一卷あり、
道乙、三男二女あり、皆室三木氏の所出たり、三木氏は、平安の人なり、貞淑温雅にして婦行あり、能く書史に通ず、長子昌尚〔一名可三〕字は伯省、衝雪と號す、津侯に仕ふ、歳三十九にして、寛文十二年八月十七日を以て先つて歿す、二子厚元、字は仲循、合田氏に歸復し、阿波侯に仕ふ、三子旬節、字は叔義、備前侯に仕ふ、長女は吉村久保に適き、二女田中升庵に適く、皆京師の人なり、又寄齋の姪、文信といふ者の男某を養ひて子と爲す、之をして出でて中津の子星合氏を冒さしむ、某自ら稱して道乙の季子と爲す、四人の家、緜聯今に至るまで盛なりと云ふ、〔後編寄齋の傳に、道乙を附載す、未だ其事實を詳にせず、後、其墓誌及び遺稿を玄孫錦子といふ者より得て焉を記す、〕


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向井靈蘭
名は元升、字は以順、靈蘭と號す、一に觀水と號す、通稱は玄升、肥前の人なり、

靈蘭の高祖向井伊豫守と曰ふ者は、京畿の人なり、征西大將軍懷良親王に從ひ、菊池氏に鎭西に頼り、遂に菊池郡中に住す、今に至りて郡に向井邑あり、是れ其居る所なりと云ふ、菊池氏の衰時に及び、居を神崎郡に移し、數邑を領略し、始めて此に城く、其子左近將監高圓、龍造寺氏の爲に陷れられ、城邑を棄て、遁れて郡中の酒邑に僣居し、農民と爲る、家甚だ富贍なり、奴僕を畜ふこと百餘口、號して酒邑の土豪と曰ふ、其子藤兵衞覺保、其子左近兼義、字は高甫、三根郡八栗八幡の祠官中氏を娶り、三男一女を生む、靈蘭は其第二子なり、
五歳にして父に從ひ長崎に來る、弱冠にして學に志す、林羅山が此地に遊ぶの時に當り、贄を取り之に師事す、將に儒醫と爲らんとし、習俗に從ひ自ら■(髟/几:::大漢和45359)し、玄松と名づけ、素柏と字す、專ら經史を讀み、方技を講肄す、幾くもなくして羅山歸り去る、是より後、再び贄を他人に執らず、獨學刻苦、琢磨すること年あり、闔郷之を稱す、從遊する者數十人、專ら程朱の學を唱ふ、其業漸く行はる、
長崎の地は、西裔に在りと雖も、關西の諸侯邸を其地に置き、有司をして諸事を監せしむ、衆吏麕臻し、最も繁華と爲す、筑前侯黒田忠之・平戸侯松浦鎭信、嘗て此を經過し、皆靈蘭の學術あるを聞き、國に歸るの後、諸臣と相議し、將に之を招致せんとす、平戸侯禄三百石を以てし、筑前采地七百石を以て皆之を聘す、共に辭して應ぜず、
靈蘭、天質純厚にして、其人に接するや、忠愨にして欺かず、温恭にして侮らず、故に衆之を愛重す、其己を處するや、謙約にして節あり、公廉にして威あり、故に子姪も之を敬す、
歳知命に向ひ、妻兒を提挈して平安に遊び、京極通に寓居す、醫を以て業と爲す、是より先き、嘗て伊勢神廟に詣で、祈祷する所あり、將に誓つて髪を蓄へんとす、自ら深衣を製して、常に之を服す、我土未だ曾て之を創むる者あらず、儒流醫生之に慕效する者多し、其製作の原、證を明儒黄道周が深衣考に資る、典雅にして禮に違はず、給便にして服するに艱まず、
業を平安に唱ふること僅に一年許、名聲一時に振ふ、八條親王〔金剛壽院宮尚仁王〕疾病す、衆醫術窮まる、御(*後か。−『日本偉人言行資料』注)水尾上皇、靈蘭の名を傳聞して、之をして藥方を獻ぜしむ、日ならずして速に驗あり、上皇大に感賞し、■(竹冠/捷の旁:::大漢和26136)二握、如意一秉、蘆杖一莖を寵賜す、人以て榮と爲す、是より而後、東宮・中宮、及び攝家・華族、病あれば、藥を進め劑を呈す、治を爲す者極めて多し、良工の稱、都鄙を傾く、然れども文學の名之が爲めに■(宀/浸:::大漢和59493)く減ず、
加賀の上卿奧村氏、曁び公族大夫前田氏、嘗て重病に嬰り、聘を厚くして其治療を請ふ、幾もなくして全く癒ゆ、加賀侯大に悦び、將に毎月百口の糧を給し、遇するに賓禮を以てせんとす、特に金千兩を賜ひ、以て家塾を造營するの資と爲す、靈蘭衰老を以て、其廩俸を辭す、侯強ひて金を贈る、峻拒することを得ずして之を受けしと云ふ、我土、醫生を崇重する、遠く儒生に過ぐ、優待の厚き、常に格外に出づ、然りと雖も、未だ嘗て千金を以て其勞を謝する者を聞かず、靈蘭、絶無希有の際に逢ふ、實に千載の奇遇と謂ふべし、
永田道慶膾餘雜録に云ふ、

本朝醫を貴ぶこと、大に中夏に過ぎたり、醫をして逢掖の上に居らしむ、古人は方術を以て賤技と爲す、今之を貴ぶ甚しきか、蓋し人君聖賢の道を知らざるなり、醫の老いて顱禿に面皺ある、字を讀むことを得ず、然れども世業醫にして家傳の自るありと稱し、其衣服を美にし、其第宅を華にし、其饗食を豐にし、當路の秉權に媚び、■(土偏+番:::大漢和5467)を貴豪の大家に乞ふ、刀圭を施し、偶〃痊癒を得るに及んで、厚く金帛を餽り、饒く采地を賜ふ、所謂險を用ゐるに徼幸を以てする者か、其子其孫、駑駘の才、菽麥を辨ぜずと雖も、世々秩禄を襲ひ、輿に駕して僕を率へ、衣裳翠粲、纓徽流芳、從容として出入し、神仙を望むが若し、彼平生治療を謬て、民命を下手に殞する者枚擧すべからず、人鬼若し靈あらば黄壤泉下に、相哭泣し、相怨恨するのみ、〔案ずるに、斯の言陽に其誰人たるを曰はずと雖も、陰に大藩醫に謝するの過大を譏詆するなり、是時に當り、百口の糧、千金の謝を受け、遠邇に傳播す、世以て美談となす、輦轂の者、之を聞く者羨歎せざるなし、而して有識者、私に之に嗤笑す、豈に啻當時の醫者のみ此の如くならんや、今も亦然り、吁、〕
靈蘭、嘗て是より先き藤惺窩の外に於て、將に學舍を創起し、諸生を教授せんとし、竊に京尹板倉勝重と區畫を相議し、遂に上疏す、官其請を許して、地を相し處を擇ぶ、會〃浪華の役ありて、其擧を果さずと聞き、寛文中、將に再び建議せんとす、或人其事を推轂する者あり、遂に上疏して施爲する所を言ふ、官將に其請ふ所を肯はんとす、會〃阻格する者ありて、成らずして罷む、
靈蘭、親に事へて至孝なり、郷黨之を稱す、歳四十六にして父を喪ひ、三年の服を爲し、悉く禮制に遵ふ、伊藤仁齋貝原益軒等、皆其謹愼の行を稱す、
靈蘭、慶長十四年己酉二月二日を以て生れ、延寶五年丁巳十一月朔日歿す、享歳六十九なり、洛東の鈴聲山に葬る、元禄六年故ありて、眞如堂に改葬す、著す所の書十七種あり、余未だ其目を詳にせず、余の聞見する所の者、乾坤辨説二卷・庖廚本草十二卷・知恥編廣求經驗秘方靈蘭調劑式各一卷は、皆世に梓行せり、
男名は元端、字は履信、仁焉子と號す、父に從ひて洛に入り、醫を以て稱せらる、後一條府に仕ふ、法印に敍せられ、益壽院と稱す、季男名は元成、字は叔明、兼巖と號す、少うして父兄と同じく洛に入る、歳二十七にして長崎に遊ぶ、時に立山の郷學教授南部艸壽、職を辭して將に歸り去らんとす、之を薦擧す、鎭臺、元成を以て教授に補し、兼て掌書記監を領す、延寶中、立山學舍狭隘にして生徒に便ならざるを以て、官、大に土木を興して、文廟を鑄錢に移し、堂舍を營造して、舊觀に十倍す、學田を附し、資用に給す、是に於て師長を立てゝ生員を置く、絃誦の聲一時に盛なり、元成學政を料理し、新に規式を定む、後府學祭酒に累遷す、之に服事すること四十餘年、遂に業を此の兒孫に襲がしめ、世職今に至ると云ふ、


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菊池耕齋
名は武■(均の旁:::大漢和2497、53613)、一の名は■(均の旁:::大漢和2497、53613)、字は東■(均の旁:::大漢和2497、53613)、又通稱を以て耕齋と號す、平安の人なり、

耕齋は、肥後の望、儼然たる華冑の裔なり、藤關白道隆の玄孫、左近將監則隆、初め采を肥後菊池郡に食む、子孫封を襲ぎ、遂に地名を以て氏と爲す、則隆より十二世にして武時に至る、武時從六位上に敍せられ、肥後守に任ぜらる、後入道して眞空寂阿と曰ふ、蓋し元弘より明徳に至る四十餘年、天下事多く、南北分爭し、干戈相尋ぐ、皇統の正閏ある、神器の去就ある、臣子の敢て議する所に非ずと雖も、然れども、其君子小人の分、賢愚正邪の別、則ち世に公論あり、人明智あり、得て掩ふべからず、是時に當りて、忠義の士、多からずと爲さず、然れども、一門叛心なく、闔族臣節を全うする者に至つては、特に菊池氏曁び楠氏あるのみ、楠氏は身を殺して仁を成し、子孫三世克く遺訓に遵ふ、菊池氏は寂阿首として大義を唱へ、王事に死してより、其子孫累葉、武重武光武士武政相繼いで興起し、能く君父の讐を復す、征西大將軍を奉崇して、節鉞を九州に專にす、兄弟支族、心を同じうして力を協せ、以て王事に勤めざることなし、其英謀雄略、縦横屈せず、三たび九州を復し、四國を併呑す、而も一たび天下を匡して、中原を廓清せんと欲するも、南風競はずして、海西獨り震ふ、土を拓き傳へて二十六世に至り、足利氏の季に至りて相終ふ、忠精義烈楠氏と異なるなし、功は則ち此に加ふることあらん、眞に希世の人傑なり、其式微に及んで遺族散亡す、天文中、相模川の西邑に寓する者あり、七兵衞武宗と曰ふ、自ら蹤跡を晦まし、陽に之を言はず、北條氏康望族なるを認知し、待つに賓禮を以てす、遂に此に遊事す、其子武茂、氏政の豐太閤の爲に陷落せられ、小田原守を失ひ、世子氏直逃れて高野山に入るを以て、沈淪從行す、氏直卒して、其孤を保護し、潛に京師に至り、其遺臣に託して、去つて嵯峨に寓居し、薙髪して安枕と號す、其子武方嵯峨に生れ、始めて儒醫と爲り、元春と稱す、仕るに志あり、參の西尾・勢の龜山諸鎭に漫遊す、皆遇するに賓禮を以てす、是を耕齋の父と爲す、〔二百年來儒醫の稱、比々として起る、蓋し儒は方技をなし、醫は講説を爲す者を言ふなり、慶長中、醫を爲す者は、必ず能く經史に通じ講説を爲す、儒を爲す者、必ず能く治療を爲す、故に儒醫の稱あるのみ、當時逢掖の徒、方技に從事せざる者、藤惺窩林羅山三宅寄齋松永尺五等、僅に數人のみ、
耕齋初め東尹と稱す、中院内府〔從一位通村〕の外家の親戚なり、早に耕齋東遊の志あるを知りて、暗に之を賛成す、菅公の歌詞を取り、之をして東■(均の旁:::大漢和2497)と改めしむ、遂に江戸に到り、業を林羅山に受く、時に歳十六なり、寛文十年なりと云ふ、
童稚の時、四書五經の句讀を菅玄同に受く、玄同歿して後、別に束脩を行はず、獨學研究す、而して玄同、羅山と同じく、惺窩の門に出づるを以ての故に、之に從遊す、江戸に在ること二年餘、還て意を醫術に留む、歳二十二、再び江戸に到り、醫を野間玄琢に學ぶ、玄琢舊と市師に居る、幾くもなくして京に還る、又其行に從ひ、塾に寓すること五年にして業成る、儒醫を以て行はる、
正保元年、久留米侯頼利〔從四位下侍從有馬玄蕃頭〕聘を厚くして招致し、遇するに賓禮を以てす、耕齋久留米に往き、此に遊事すること七年、後、父母の老衰を以て辭して京に歸り、徒に授けて業と爲す、
明暦乙未の冬、韓使來聘し、洛の本國寺に寓す、膳所侯俊次〔本多下總守〕館伴使と爲り、供待例の如し、耕齋をして假に掌書記に充てしめ、委するに文翰の事を以てす、屡〃彼の正副使從事等に應接して、筆語唱酬す、其學士李石湖、耕齋の才學を嘆賞し、以て大海以東第一等の人の言あるに至る、又之が爲に耕齋集の序を作り、極めて褒揚を爲す、耕齋の聲、是に因り大に起る、〔按ずるに、朝鮮の使臣、我に入りてより此に二百餘年、我が土逢掖の彼の製述・學士書記等を蟻慕し、請ひて必ず之に見え、賓館に筆語し、彼の輩文筆を以て自高矜重し、我土の人を視ること甚だ卑し、世人謂へらく、筆札の技、彼の輩平素習熟する所にして、縦横自在、企て及ぶべからずと、彼れ妄意口に任せて諛稱虚誉し、詩文を作爲して、人に誇示す、眞に呵笑すべし、故に各家韓使に應接するの事、見るべき者多しと雖も、略して記せざるは皆之が爲めなり、蓋し彼輩我が士風を畏怖するや久し、惟ふに文事は其陋を飾り其鄙を護るべし、故に之を平素無事の日に揣摩し、講習漸あり、其の我と應接するに及び、則ち文事の薄技を耀衒して、其詞藻の修飾餘裕あるに驕誇するのみ、我、人之を省知せず、盡く其術中に入り、詩歌を唱和する者、其數を知らず、識者舊く既に之を厭薄し、其舊習の是ならざるを歎ず、況んや、其一言を以て學術を褒賞する者に於てをや、是より後、天和壬戌・正徳辛卯・享保庚午・寛延戊辰・明和甲申、皆舊の如し、特に文化辛未之を對馬の府中に館し、都に入るを許さず、故に筆語する者少なし、近時井金峨之を論じて云く、韓の文學我に勝らざる久し、生れて姓名を海外に施す者、傳記に載する所比々として之あり、皆彼の問を致して我より之を求めず、然れば則ち學者の大に欲する所得て知るべし、知らざる者に誇るに、其韓客に接するを以て、豪具と爲し、名を一時に釣るに過ぎざるなりと、此言愉快と謂つべし、〕
萬治三年、家人を携へて江戸に至る、貴紳延招し、其教を受けんと欲する者多し、寛文壬寅、薩摩侯綱貴、賓師の禮を以て之を招く、其國に往き、甲辰江戸に還る、丙午侯に從つて浪華に到る、月餘にして還り、戊申再び國に往く、侯喜びて采地五百石を賜ひ、遇待故の如し、己酉辭して還る、猶ほ裾を侯館に曳き、顧問に備はり、經筵に侍し、老に至るまで變ぜず、
耕齋の學博洽を主とし、雜を厭はず、知命の後、一切公侯の徴聘を謝絶し、志を鉛槧に專にし、著述編纂、一にして足らず、七書講義通考七卷・本朝歴代名臣傳十四卷・百幅畫軸遠遊小志各一卷・文集八卷・詩集十二卷の若き、皆世に傳ふ、又校刊する所、陶靖節全集八卷・郭知達杜詩分類集註卅六卷・顔之推家訓四卷・祝穆文類聚前集六十卷・後集五十卷・續集廿八卷・別集卅二卷・富大用新集卅六卷・外事集十五卷・祝淵遺集十五卷・■(三水+凌の旁:::大漢和58585)稚隆五車韻端百六十卷・王世貞詩學活法四十卷・釋岱宗金湯編十六卷・大江匡衡吏部集四卷、今に至りて盡く坊間に行はる、
耕齋、元和四年戊午八月六日、京師安居院に生れ、天和二年壬戌十二月八日、江戸の京橋に歿す、歳六十五なり、下谷廣徳寺に葬る、小林氏を娶り、四男四女を生む、伯名は武英、業を襲ふ、仍て薩摩侯の廩を受く、仲は武喬、幕府に奉仕し、書院騎士と爲る、叔は武雅、高松侯に仕ふ、其餘は夭す、
武雅、字は子師、半隱と號す、通稱は舎人、初の名は搏、字は九萬、鵬溟と號し、新三郎と稱す、京師に生れ、業を林鵞峯に受く、元禄八年、高松に筮仕し、儒官と爲る、子孫、業を襲ふ、其曾孫桐孫字は無絃、娯庵と號す、蚤に詩藝を以て世に著聞す、豈に耕齋・半隱が徳澤の施及する所ならざらんや、余忘年の交を辱うす、其著す所の五山堂詩話に云く、余が家は累世儒なり、王父に及ぶに至り、重て其業を■(立心偏+捩の旁:::大漢和10732)にす、維れ父維れ兄、箕裘相承け濂洛學を奉ず、始祖元春先生諱は武方、高祖耕齋先生諱は武■(均の旁:::大漢和2497)、曾祖半隱先生諱は武雅、王父■(山/松:::大漢和8209)溪先生諱は武賢、先考室山先生諱は武保、半隱より以下、皆高松の仕籍に係る、家兄繩武字は萬年、守拙と號す、今記室と爲ると、


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田止邱
名は犀、字は一角、止邱子と號す、通稱は理助、田中氏、自ら修めて田と爲す、平安の人なり、水府に仕ふ、

止邱、六歳にして父を喪ひ、十一歳にして兄と同じく小濱侯忠勝〔從四位下少將酒井讚岐守〕に仕へ、若狹に赴く、承應壬辰、侯の命に依りて江戸に到り、業を林羅山に受く、學術既に成り、擢んでられて儒員と爲る、寛文甲辰、母の病を以て致仕し、京に歸りて之を撫養す、幾くもなくして母歿す、丁未の歳、再び江戸に到る、辻端亭〔名は隆、字は聊迪、京師の人〕の推薦に因りて、褐を水府の儒官に釋き、禄を受くる百五十石、後、國史を編修するに預ると云ふ、
少壯の時より、志を史學に留め、史漢を環讀すること數十回、其水府に筮仕するに及び、我土の典詁を講究し、六史に精通す、質問する者あれば、疑義を剖晰し、事件を諳記す、本書を引用するを待たずして、問に答へ尋に對へて、些も澁滯なし、人皆其強識に歎服す、
止邱、朱舜水の府に寓してより、交情最も密なり、常に其屯難に遭ひて、抱負する所、時に展びざるを慨歎す、舜水亦屡〃止邱の時勢に達練し、經濟の才幹あるを稱す、舜水止邱に答ふるの書に、自ら其履歴を述ぶ、其の書に云く、

弊邑天の不造に遭ひ、四海陸沈、僕墳墓を捐て妻子を棄てゝ、漂流瑣尾、其身を潔くせんと欲するに似たり、然れども之を衡するに大倫を以てすれば、■(玉偏+占:::大漢和20895)缺素と多し、幸に貴國寛仁破格の相容るゝを蒙り、感■(揖の旁+戈:::大漢和11617)五中、報を圖るべきなし、乙巳の歳、猥りに上公の招致を辱うし、孟浪命を受く、謂ふに鴻河は細流を擇ばずと、妄に輕塵足嶽を冀ふのみ、今に於て四年未だ少效あらず、若し泰山北斗學海廣淵と曰はば、即ち叨奬之に借さん、夢寐を過ぐとも寧ろ敢て欺ん、上公謙恭士に下る、懇惻眞誠、魏文に邁ぎて荊莊に駕せんと欲す、豈に彼れ區々たる交戌比方萬一ならん、恨らくは僕性執才庸、機に隨ひ變に通ずること能はず、空く後人の話柄と作るのみ、台臺學富み、名高し、意はざりき、自ら晋接を此に得んとは、幸に桃李盡く公門に在り、乃ち猶ほ斗■(竹冠/肖:::大漢和26077)自ら■(人偏+疑:::大漢和1233)して、彼の瑚■(玉偏+連:::大漢和21206)に遜る、台臺其れ亦斗■(竹冠/肖:::大漢和26077)瑚■(玉偏+連:::大漢和21206)の、明粢黍稷に異なる所以を知らん、此を舍て登す莫くば則ち瑚■(玉偏+連:::大漢和21206)と爲す、逐て舒びず隘にして容るゝ能はざれば、則ち斗■(竹冠/肖:::大漢和26077)と爲る、器は則ち人に藉て人を成し、器に因て限らず、貴となり賤となる、皆人の自ら取る所以なり、輦轂に遨遊する若きに至ては、名を煕代に策し、桑弧の初志、父母の夙心、豈故園空老の理あらんや、僕異域に飄零し、亦此に戚々たらず、或は重て天日を見、庶くば其壯猷を展ぶるを得ん、然らずんば荒烟野草安ぞ何の所に埋沒するを知らんや、中秋は知友王侍郎が節を完うするの日たり、惨柴市に逾え、烈文山に倍す、僕其時に至り、備に傷感を懷く、終身遂に此令節を廢す、台臺の爲に道ふ可き者無し、賤恙纏綿、奉復遲滯、前已に面陳す、或は少しく罪戻を■(之繞+官:::大漢和38930)る、統べて鑒■(火偏+召:::大漢和18939)を希ふ、不宣、
其人、平生義膽を以て自ら任じ、苟くも其國事を言はず、而も止邱の爲めに胸臆を吐露し、縷々として盡きず、以て止邱の人と爲りを見るべし、
安積澹泊、初て止邱に學び、後舜水に學ぶ、其人國史編修を總裁するを以て、聲名世に高し、物徂徠に與ふる書中に云ふ、田一角(*止邱)は博學洽聞、僕の兄事する所なり、未だ知命に至らずして逝く、此をして今日に在らしめば、董狐の任、他人に讓らず、弊師朱舜水も亦常に其人を稱し、天資超倫、以て及ぶべからずと爲すと、才學の富贍なること以て規視すべし、
止邱、嘗て陳壽三國志を校刻す、是より先き、史記・漢書・後漢書、皆刊本あり、未だ其他に及ばず、故に將に晉宋南北諸史に及ばんとす、果さずして歿す、若し之をして夭逝せざらしめば、則ち必ずや歴代を校刊せん、三國志序中に言あり云く、方今文學の盛なる、書肆の新刊多しと雖も、而も猶ほ漢本を求むるを待つ者少からず、而して明舶の崎港に到るや、書籍を載する者鮮し、學者これを病ふ、斯の書今新に刊す、延て歴代の諸史を■(金偏+浸の旁:::大漢和40474)し、漢本を求むるを待たずして足らば、則ち繙史の業、以て馬手襟裾の恥を免るに足らんと、今按ずるに、三國志の刻成は、寛文十年庚戌に在り、是時歳三十四なり、
寛文中、水府義公、編述に意あり、始めて史局を置き、題して彰考館と曰ふ、海内の俊彦を招致し、一時の英才を包羅し、編修に從事す、其書數年にして成る、止邱公命を奉じて彰考館を開くの記を作る、云く、
夫れ史は治亂を記し、善惡を陳べ、勸懲の典を用ひる所以のものなり、故に異朝に在つては、則ち班・馬以來作者乏しからず、世々繩々として歴史堆を成す、本邦上古より中葉に及び、猶ほ正史・實録あり、而して昌泰以後は、寥々として聞くこと無し、以て憾むべし、我公嘗て之を歎じ、館を別墅に構へ、諸の儒臣に命じて、廣く載籍を稽へ、上は神武より、下は近世に迄るまで、記を作り、傳を立て、班・馬の遺風に傚ひ、以て國史を撰述すること此に年あり、其治亂を記し、善惡を陳べ、用て勸懲の典に備へんと欲するの志以て見るべし、是歳彌〃其志を遂げ其功を成さんと欲し、史館を本邸に移し、自ら館名を撰びて彰考と曰ひ、且つ自ら之を書して掲て扁額と爲す、傳・常・矩・帆・仙・效・順・犀及び筆生十許輩をして、間日館に入り、以て其事を勤め、警辭を加へ、爭論を止め、囂談を禁じ、書策を敬し、怠惰を起さしむ、又館を守る者あり、館事を監する者あり、使令に供する者あり、廝養に役する者あり、前の書庫以て出納を便にし、後の湯室以て沐浴を設け、行廚を運らし以て飮食を賜ふ、一月六日、別に講筵を設け、群臣をして貴賤となく來聽せしむ、嚴にして惠あり、養て且つ教ふと謂ふ可し、公の如きは則ち君師の道其れ庶幾からんか、嗚呼史を修むる者、勤て懈るなくば則ち以て編を終ふべし、講を聽く者、信じて倦まざれば則ち以て徳に入る可し、然らば則勸懲の典萬世に傳へて、公の名聲無窮に及び、聖賢の道一家に溢れて、群臣の風俗以て化すべし、亦■(加/可:::大漢和3685)らずや、是に於て公臣傅等に命じて、吉日を涓み、新館を開きて盛饌を賜うて曰く、日已に吉なり、館も亦新なり、汝等各燕飮して歡を盡し、以て操觚の初あるを賀し、以て絶筆の終あるを祝せよと、僉、拜謝舞踏して曰く、詩に云ふ既に醉ふに酒を以てし、既に飽くに徳を以てす、とは其れ臣等の謂ひか、書に云ふ、山を爲る九仭、功一簣を虧くと、今より而後、彌〃精力を竭して、其功を虧ぐこと無くば、則ち今日開館の雅會、他年竟宴の清遊と爲らんこと必せり、時に寛文十二年壬申仲夏初三日、備員史臣田犀再拜稽首謹で記す、〔按ずるに、人見傳字は士傳、吉弘元常字は無魚、板垣矩字は宗憺、中村春帆、後名は顧言、字は伯行、岡部仙字は拙齋、松田效字は如間、今井順字は可汲、及び止邱八人、甚初局に入る者なり、是よりして後、編修に預る者數十人、當時人を得るの盛なるを見るべし、其編述する所の者、大日本史禮儀類典諸家系圖類纂等、皆巨卷鴻册なり、其詳なること、河合正修史館舊話小宮山昌秀耆舊傳に見ゆ、故に此に贅せず、〕
止邱、嘗て世の學士、徒に博洽を事とし、五經に精熟せざるを嗟嘆し、建議して漢時專門の學の如くにして、一經に通ぜんと請ふ、公之を嘉納し、諸儒臣をして分つて之を治めしむ、易は則ち人見傳、書は則ち吉弘元常、詩は則ち板垣矩、禮は則ち中村顧言、春秋は則ち止邱、當時史館中に五經分學記二卷あり、詳に其始末を記す、止邱之を訂正す、
止邱、少壯の時、嘗て僧獨庵といふ者〔名は玄光、字は幼華、長崎の人なり、京に居て、獨庵護法集を著す〕詩律を論辨す、之が爲めに摧駁せられ、抗爭する能はず、時人其酬答の文詩を以て話柄と爲す、後獨庵、東遊して、牛籠の長安寺に寓す、其徒其文詩を刊して、儒釋筆陣と曰ふ、其書一時に傳播す、鏤版滅爛し、再三改雕するに至り、又標註を其書に加へ、世に刊行するに至る、余一本を藏す、其往覆詩律を論辨する、固より以て稱するに足る者なし、皆驕觜を以て、其所長を誇るに過ぎず、然れども勇壯の鋭氣、文藝を張皇し、緇流を壓倒するに在り、其意恕すべき者あり、其事寛文元年十一月に在り、止邱歳二十八の時なり、〔按ずるに、儒釋筆陣一卷、刻寛文二年に成る、長安寺の刊する所なり、江戸書肆繼て之を刊す、又二版あり、延寶中、京師に之を刊する者あり、天和の初、上層に標註して之を刊する者あり、餘見る所、總て六版なり、以て其傳流の盛なるを見るべし、〕
磐鴻笠澤筆塵に云く、田麟字は一角、長崎の僧玄光と聲律を論辨し、之が爲めに説破せられて口を發くこと能はず、世の傳ふる所の儒釋筆陣是なり、林鵞峯其答問を讀み、筆鋒の萎弱を嗔て曰く、麟一角今當に犀と作すべしと、是より後、名を犀と改む、
義公、嘗て止邱に謂て曰く、爾向に玄光と詩を論じて、之に勝つこと能はざるは何ぞや(*と)、止邱對へて曰く、臣歳未だ三十に至らずして、學術熟せず、彼が爲に屈抑せられ、甚だ慚愧に堪へたり、若し今日に在らば、敢て之を艱しとせず、何ぞ彼の■(髟/几:::大漢和45359)をして其強辨を擅にせしむるに至らんや、公笑つて曰く、彼れ■(髟/几:::大漢和45359)と雖も、瞑目して徒に居諸を送らじと、
止邱、天和二年八月廿五日、■(病垂/祭:::大漢和22458)を病みて水府の賜第に沒す、時に歳四十六なり、著述する所極めて多し、其稿本盡く安積澹泊の家に傳ふ、澹泊嗣絶え其存する所を知らず、特に(*特り)避塵齋文集十卷・止邱子二卷世に傳ふ(*傳ふるのみと)、亡友立原杏所余が爲に語る、


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劉東閣
名は宣義、字は耀哲、東閣と號す、一に清軒と號す、通稱は仁左衞門、長崎の人なり、

東閣、其先は世々明の閔人、所謂彭城の劉氏なる者なり、彭城は國訓に伊婆羅喜と讀む、故に彭城を以て氏と爲す、世宗の嘉靖中、劉有恒、始めて我土に來り、肥前の平戸に寓す、是を始祖と爲す、父宣承に至りて初て長崎に移居す、醫を以て業と爲す、東閣幼より之に肄ふ、方技を屑とせず、十二三歳にして、日に萬言を誦す、神童を以て稱せらる、
東閣、天資明敏、博洽自ら喜ぶ、最も華音を善くし、方言土語通曉せざるなし、歳十八、鎭臺擢んでて清館の譯司と爲す、承應三年、杭人僧隱元、聘に應じて長崎に到り、錫を東明山興福寺に留む、翌年都に入る、東閣、譯を以て選ばれ從行す、時に歳二十三なり、
譯は易なり、傳は譯なり、五分の民、言語通ぜず、嗜欲同じからず、其意を達し其欲を通ず、東方を寄と曰ひ、南方を象と曰ひ、西方を狄■(革+是:::大漢和42940)と曰ひ、北方を譯今と曰ふ、皆概して譯と曰ふ、言語を交通し、彼此を傳譯する所以なり、蓋し彼の此に通ずるや久遠なり、故に玄蕃寮を置き、鴻臚館を設け、象胥の官、譯語の員、一にして足らず、海内多事、治教張らず、航海稍〃少なるに及び、通詞の學、屏熄するに幾し、慶長以降、華蕃の賈舶更に崎奧に限り、其他に著くるを許さず、是に於て通詞の設、日に盛に月に昌なり、初鎭臺小笠原長理〔通稱は一菴〕始めて明人の少より來りて崎に寓し、能く我土の言語に通ずる者二人を擧げ、號して通詞と曰ふ、或は通事に作る、其職素と貴からずと雖も、之に居る者は、方言に精通し、雅俗に諳熟するに非ずんば、則ち制度を傳へ法憲を述べ、公私を纎悉し、利害を明徹し、用に處し事に供する能はず、東閣、少壯より蚤に此職に居ること四十餘年、一の過失なく、子孫職を襲ぎて今に至ると云ふ、
長崎の地、鎭臺一員を設け、諸務を管轄す、慶長中、天草侯寺澤廣高を以て之に補し、寛永中、一員を増し、貞享中、又一員を増す、其任に當る者、節鉞三年に淹るの久しきあらずんば、上下甚だ之を便とせず、元禄中、又二員を増し、享保中に至り之を罷む、東閣嘗て封事を上り、利害を陳べ得失を論ず、其事當時に行はれずと雖も、鎭臺二員を以て、隔年代治し、通詞大小を分ち、應對に供し、處置を爲すの類、永く後世の制と爲し、今に至るまで廢せず、識者之を■(是+韋:::大漢和43176)とす、
東閣、躬譯司に居ると雖も、文學に長ずるを以て、前後鎭臺の此に臨む者、之を崇重せざるなし、牛込蔭鎭〔通稱は忠左衞門〕尤も其才識に服して、遇待殊に厚し、是時に當りて、林道榮墨池の技を以て聞ゆ、嘗て東閣と宴に便殿に陪す、偶〃杜詩東閣官梅の句を分ち以て韻と爲す、東閣是より後、其得る所を以て號と爲す、故に道榮官梅と號す、
東閣中年の後に至り、家最も豐饒にして、富、王侯に■(人偏+牟:::大漢和597)し、素封の富商巨萬を致す者と雖も、之と抗匹する者なし、長崎闔郷の人、盡く之を榮羨す、
東閣、學濂洛を主として、而も之を專守せず、常に門人に謂て云く、學問の要は、漢唐より元明に至るまで、六件に出でず、一を立本識原と曰ひ、二を踐履躬行と曰ひ、三を文理穩當と曰ひ、四を字義を明晰すと曰ひ、五を古今に達練すと曰ひ、六を長短を取舍すと曰ふと、
東閣、歳六十三にして元禄八年乙亥を以て歿す、向に長崎の人、僧一圭なる者東に到り、屡〃余を訪ひ、談向井靈蘭盧草拙林道榮曁び、東閣等の諸家に及び、頗る能く先輩の名氏を識る、嘗て余が爲に書を桑梓の知れる所に贈り、事歴を捜索し、其墓誌碑碣を寫致す、既にして皆之を記す、原稿火に罹り、一圭道山に歸す、今之を追憶するも、再び問ふべきものなし、噫、
善聰、字は士明、素軒と號す、職を大通詞に襲ふ、余大田南畝瓊浦遺佩を閲するに、長崎楢林公極橙園雜録を引く、其書、善聰の詩文數首を載す、今其二首を鈔す、雪を詠じて云く、

四山の光は新磨鏡に似たり、大地の清は舊染塵の如し、設(たと)ひ人心をして此景に同ぜしむるも、世間何ぞ穢腸の人有らん(*四山光似新磨鏡、大地清如舊染塵、設使人心同此景、世間何有穢腸人)
簪梅花に云く、
花に依て忍びず花を離て抔に、數點香を分ちて滿頭に挿す、雪を踏む歸來草堂の晩、傍人は笑殺す老風流(*依花不忍離花抔、數點分香挿滿頭、踏雪歸來草堂晩、傍人笑殺老風流)
皆清逸にして誦すべし、


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佐々十竹
名は宗淳、字は子朴、十竹齋と號す、通稱は助三郎、讚岐の人なり、水府に仕ふ、

十竹、姓は良岑氏、丹羽、其世系大納言安世に出づ、其孫玄理、初て尾張の丹羽邑に居る、十三世の孫時綱、邑を以て氏に命ず、前野に移居す、加賀と稱する者、始めて出でて岩倉の城主織田信安に仕ふ、佐々成政の姉を娶りて、備前を生む、備前、母の氏を冐して、肥侯加藤清正、曁び其子忠廣に仕へ、後高松侯生駒高俊に仕ふ、高俊封除かれ、織田出雲守高長に寄寓す、其子義齊、七男を生む、十竹は其第五子なり、義齊、備前に從ひ高松を去る、寛永十七年庚辰五月五日、讚岐の一小島に泊し、十竹を此に生む、故に幼名は島之助と云ふ、
義齊、男兒多きを以て、十竹をして僧と爲らしむ、歳十五にして洛下の妙心寺に投ず、薙髪して祖淳と號す、又黄檗の普照國師に參す、禪機超格、與に比する者なし、歳二十にして畢藏經全函を讀む、又南都・北嶺・高野・槇峯等の諸大刹に往來し、遍く名僧を訪ひ、宗旨を質問し、研學百端到らざる所なし、最後多武峯に隱居し、持律清苦して教宗を講究す、嘗て六物輯釈六卷を著し、世に刊行す、緇徒皆之に敬服す、
十竹、博く内典に渉り、通ぜざる所なし、一日梵網經を讀み、父母兄弟六親を殺すも、亦讐を報いる能はずと曰ふに至り、■(艸冠/遽:::大漢和32509、56387)然として卷を廢して謂ふ、我今父母兄弟あり、不幸にして非命に死するあらば、浮屠に入ると雖も、豈に讐を報ぜざらんや、且つ我數葉武辨たり、儻し仇敵あらば、未だ嘗て報ぜずんばあらず、而るを恬として怪しまざるは、豈人情ならんやと、是に於て疑似を宗旨に發し、竊に佛説を厭薄するの意あり、又論語(*の)子路鬼神を問ふの章を讀み、衆説を參考し、忽然として生死の理を省知し、遂に立志論一篇を著す、衣鉢を毀破し、其徒を謝絶し、髪を蓄へて俗に還る、時に歳三十八なり、
十竹、既に意を決し俗に還る、身を投ずる所なく、猶ほ寺院に在り、僧侶或は之を肯ぜず、状を院長に告げ、將に之を放逐せんとし、衆議一決す、十竹大に憤り、鐘を鳴らし板を撃ちて、滿山の緇流を招致す、桑門・道衆・支院・上足を論ぜず、僧侶盡く集まる、悍然として曰く、我蚤に三乘を信じ之に歸依す、今始めて佛説の妄誕たるを識る、故に將に俗に還らんとす、敢て腹心を布くと、道衆・上足皆之に驚駭し、詰問盤言、紛然として起る、喧嘩呶叨、■(言偏+焦:::大漢和35976)責して息まず、十竹毫も屈する所なく、■(言偏+黨:::大漢和36168)論辨晰す、衆皆慌然として去る、
十竹、髪を蓄ふるの後、笈を負ひ■(竹冠/登:::大漢和26530)を擔ひて、東江戸に到る、其京を出づるの詩に云く、

誤て空門に入る二十秋、衣を改め此日東州に赴く、功名・富貴吾が願に非ず、學業成らざれば(*成らずんば)死すとも休まず(*誤入空門二十秋、改衣此日赴東州、功名富貴非吾願、學業不成死不休)
水府義公、傳へ聞きて之を壯とし、辟して近習と爲し、十口の糧を賜ふ、
十竹、禄仕の後、命を奉じて四方に歴訪し、我邦中世の遺書を訪捜す、神祠・佛閣の藏する所、世官・舊家の■(去/廾:::大漢和9605)る所、其獲る所の者最も多し、後屡〃加増して、禄二百石に至る、遂に彰考館編修國史總裁に累遷す、義公西山に老するに及び、世子鳳山公嗣ぐ、擢んでて扈從長と爲し、眷遇殊に厚し、
十竹、資性遲重、平時温厚、一言半語も諸を口に出さざるが如し、其經史を講説し、古今を開列し、是非を參考するに及び、之を時事に託し、以て警戒の意を致す、聞く者股栗せり、
元禄十一年戊寅六月三日、疾で歿す、時に歳五十九なり、水府城西増井邑の勝樂寺に葬る、始め志村氏に娶る、先て歿す、再び淡河氏に娶る、二女を生む、男なし、故に姪宗立を以て嗣子と爲し、禄を襲ぐ、著す所、南行雜録六卷・西行雜録四卷・■(車偏+酋:::大漢和38436)軒小録三卷・十竹齋文集十卷・詩稿二卷あり、


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柳川震澤
名は順剛、字は用中、震澤と號す、又■(雨冠/言:::大漢和42296)溪釣叟と號す、通稱は平助、近江の人なり、

震澤は、家世々近江の柳川邑の人なり、天正中、曾祖掃部助信好、國主佐々木氏に屬し、屡〃戰功あり、佐々木氏衰ふるに及び、其遺臣四方に流落す、信好、大溝小川の間に潛匿して農と爲り、子孫此に藉る、震澤幼にして父を喪ひ、叔父に鞠養せらる、歳十七にして京師に遊學し、木順庵の門に入る、塾に寓すること七年、順庵、加賀侯の聘に應じ、時々金澤に往く、震澤之に代つて諸生を誨督す、順庵の男菊潭、曁び岡島石梁向井滄州(*滄洲)等、皆常に其教授を受く、
震澤、木門に在りて尤も先輩と爲す、榊原篁州(*篁洲)・南々山(*南山)・西山健甫室鳩巣等、皆之に兄事す、其人夭逝するを以て、其學術・操行を知る者少し、新井白石停雲集に、同門の士の詩數首を載すと雖も、嘗て震澤に及ばず、雨森芳州(*芳洲)の橘窗茶話に、詳に同門の士の學術を評すれども、亦之に及ばず、祇南海(*祇園南海)の鍾秀集に、親友の詩、同門に係る者を收録すれども、亦之に及ばず、順庵の玄孫、靜字は正直、天明中、順庵遺稿を校刻し、題して錦里集と曰ふ、柴栗山(*柴野栗山)序を作り、其門下人を得るの盛なるを稱揚し、其姓名數人を標擧すれども、亦之に及ばず、蓋し時に早晩あり、人に顯晦あり、出處一ならずと雖も、湮沒して傳はらざるは、其不幸のみ、余向に其著す所の、平庵漫録靈溪日録二書を讀み、始めて其學術の富贍なる、木門諸子の下にあらざるを識る、此書、原と浪華の木世肅が蒹葭堂に出づ、亡友石田醒齋の儲藏する所なり、今之を捜索すれども、亦得べからず、僅に其記する所を以て、好事の人をして之を知らしめんと欲す、世二酉五車の之を藏する家ありと雖も、震澤の名を知る者なし、何ぞ能く其遺書を捜索するに及ばんや、今時逢掖多く古人を尚論するを好まず、輕俊の質、先修を蔑侮し、概して近人の遺編、固より以て見るに足る者なしと謂ふ、嗚呼寃なるかな、
震澤始め平庵と號す、後震澤と改む、蓋し江州に大湖あり、故に此を以て其桑梓を忘れざるを示す、大湖の地形唐山の震澤に似たり、故に爾云ふと、
平庵の記、震澤日録の中に載す、今傳はらず、恐らくは散逸せしならん、故に此に附すと云ふ、

稱の用は之が衡を取り、車の行は之が轍を通ず、衡平なれば則ち毫釐も差はず、轍通ずれば則ち轅轂滯ることなし、稱若し之を毫釐に失へば、則ち權衡正しからず、車若し之を轅轂に虧げば、則ち轍跡通じ難し、稱の平ならんことを欲すれば、則ち之を毫釐に愼み、轍の通ぜんことを欲せば、則ち之を轅轂に治む、兩者相存せば、則ち之を天平に地成ると謂ふ、乃ち易象に取るに、上天下澤は履なり、君子以て上下を辨じ、民志を定む、履の時用大なる哉、夫れ安に居て危を慮り、平を履んで蹶を慮る、禮に積んで能く散じ安じて能く遷ると云ふ所以にして、此れ君子の平を履みて進むことを思ふなり、傳に云ふ衣領を擧げざる者は倒れ、走りて地を視ざる者は顛ずと、自然の勢なり、士若し逸遊に耽り、財色を好み、嗜慾を專にすれば則ち平地にも坑坎を生じ、安處にも危亡あり、易に云ふ、九三は君子終日乾々、夕■(立心偏+易:てき・ちゃく:謹む・懼れる・愛する・ここは人名:大漢和10803)若すれば■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)けれども咎なしと、又云ふ、道を履む坦々、幽人貞吉と、皆危を履みて平に就くの至れるを謂なり、吾窮達の分を識りて、稱車を衡轍に言ふ、聊か記して弊庵に題すと云ふ、
震澤、幼にして孤なり、喪に居るに及ばず、弱冠を逾えて母を喪ふ、素と昆季なし、形影相憐む、能く酒食を絶ち、聲色を近けず、三年の服を爲す、其儀一に順庵の行ふ所に從ふ、是より先き、順庵親の喪に居り、能く禮制に遵ひ、三年の服を爲す、
震澤、懸弧より後、孱脆脆■(立+令:::大漢和25746)、躬衣に勝へざる者の若し、然れども甚だ害を爲さず、弱冠に至るに及びて、疲病交〃侵し、動もすれば危篤に至る、珍嗇調護、漸く舊態に復る、壯年疝を患ひ、纏綿起伏、全く愈ること能はず、胸腹常に痛む、故に自ら養衞す、鍼藥の攻むる所、少しく快驗を得と雖も、氣宇竟に平なること能はず、■(兀<尢>+王:おう:弱い:大漢和7559)羸言ふべからず、精神■(宀/浸:::大漢和7253)衰ふ、故に意を婚官に絶つ、然れども性の好む所、筆硯に從事し、萬言を誦すること、二十年一日の若し、順庵常に其人と爲りを稱して、他の子弟を勵警す、
震澤曰く、天の才を生ずるや、然かく異なるに非ず、而して栽る者は之を培ひ、傾く者は之を覆ふ、才は天に懸り、學は人に由る、而して人惟だ學ばず、故に才從つて暗し、然らば則ち學問の道、余が若きの多病と雖も、一日も已むべからざるなりと、平生志を立つるの堅確なる、率ね皆此の如し、
寶永・正徳の間、物徂徠、誇博(*ママ)の識、傑出の才を以て、嘉隆李王の緒論に左袒し、專ら其教を唱ふ、是に於て李王の詩風大に世に行はる、其實は震澤が早年好みて其集を讀むに創起す、是より先、那波活所備忘録永田善齋膾餘雜録平巖仙桂忘筌窩筆記等、皆論説の七子の詩に及ぶと雖も、之を唱へて未だ和する者あらず、徂徠起るに至り、其機已に熟し、推奉極めて至る、世人惟徂徠の之に影響するを知り、未だ嘗て端を震澤に開くを知らず、其他新井白石祇南海(*祇園南海)等の若き、唐を宗とすと曰ふと雖も、均しく是れ之を要するに、氣格雄壯、聲律高華、皆嘉隆七子の遺音なるのみ、寛文の初、震澤、陳繼儒が嘉隆七子の詩集註解を校定し、書舖をして之を刊せしむ、又延寶中、李卓吾正續明詩選を校刻す、我土明詩を刻する者、此二書を以て始めと爲す、
江邨北海詩史(*日本詩史)に云く、本朝千家詩に、震澤元日の七律一首を載す、其後聯に云く、
乾坤我に於て鷄肋たるを知る、邱壑何ぞ必ずしも■(曷+鳥:::大漢和47124)冠を負はん(*乾坤於我知鷄肋、邱壑何必負■(曷+鳥:::大漢和47124)冠)
頗る錚々たりと、余按ずるに、豈惟此首のみならんや、天和二年、京師坊間刻する所の、和韓唱和集七卷に、震澤が詩數十首文數篇を收載す、富贍の材、以て其梗■(概の旁/木::〈=概〉:大漢和15363)を窺ふに足る、
震澤、烟草を詠じ、朝鮮製述官成翠■(虍/丘:::大漢和32700)に贐別す、五古一首録して之を傳ふ、其詩に云く、
烟草一に何ぞ奇なる、原始阿誰にか問はん、神農も未だ曾て嘗めず、東璧も遂に知る無し、千歳空く寂寂たり、只だ言ふ南夷より傳はると、滋蔓中外に滿ち、玩賞翁兒を共にす、近くは呉興の客有り、洞筌禁忌を論ず、張皇爾が爲に誇る、我に於て稍〃疑を釋く、宴を設くるに酒果に代り、圃に耕して菜葵を拔く、酒は人をして迷亂せしめ、果は人をして傷疲せしむ、酒果始めて權を奪はれ、菜葵或は時を失ふ、一吸も廉と爲さず、百吸も卑と爲さず、天性最も慓悍、辣澁頤を摺んと欲す、爾を愛すれば能く滯を散じ、飽を消し復た飢に充つ、嶺南の檳榔子、好述倶に期すべし、若し眉山の老に遇はば、未だ必ずしも遽に譏■(此/言:し:謗る:大漢和35344)せず、夜夜西窗の下、唔■(口偏+伊:::大漢和3579)皐比に坐す、數〃睡魔の至る有り、動もすれば首を伏せ癡ならしむ、此の物一たび口に入れば、悶を排して霧披くが若し、然りと雖も祝融を助け、暗中精魄褫る、一身十二脈、一時忽ち走馳す、榮衞常度有り、敢て憊衰に堪ふべし、利害常に相半ばす、取舍其台を如、大羮鷄肋を薄しとす、逸韻密脾を重す、猗猗たり猗蘭の花、幽谷何ぞ■(艸冠/威:::大漢和31456)■(艸冠/豕の繞+生:::大漢和31995、56328)なる、英を含んで毓徳香し、胡爲ぞ華を揚る滋き、亭亭たり嶺上の松、千年■(三水+凌の旁::〈=凌〉:大漢和58585)寒の姿、幽人と君子と、久しきに耐へ■(土偏+員:::大漢和5360)■(竹冠/虎:::大漢和26132、57581)を結ぶ、想ふ渠れか遠思無からん、小草も班資を計り、豈に席珍に登るに足らんや、誰か言ふ甘きこと薺の如しと、朝鮮の成學士、使を奉ず東海の■(三水+眉:::大漢和17809)、一面丹忱を推し、再逢白眉を仰ぐ、鸞鳳丹穴に翔る、一鳴感池に冲す、燕雀枋楡に上り、■(口偏+周:::大漢和53526)啾自らは量らず、踊躍聊か暫く窺ふ、萍遇彈指に在り、星■(車偏+召:::大漢和38272)將に載ち脂んとし、朔風衣袂に灑ぎ、明月天涯に滿つ、何を以て芍藥に代らんや、幸に煙草の貽もの有り、知らず君嗜むや否や、姑く茲に■(人偏+比:::大漢和404)離を慰す、之の子佳名有り、微意請ふ此を事とせん、異域天の一角、雲樹更に相思ふ(*烟草一何奇、原始問阿誰、神農未曾嘗、東璧遂無知、千歳空寂寂、只言傳南夷、滋蔓滿中外、玩賞共翁兒、近有呉興客、洞筌論禁忌、張皇爲爾誇、於我稍釋疑、設宴代酒果、耕圃拔菜葵、酒使人迷亂、果使人傷疲、酒果始奪權、菜葵或失時、一吸不爲廉、百吸不爲卑、天性最慓悍、辣澁欲摺頤、愛爾能散滯、消飽復充飢、嶺南檳榔子、好述可倶期、若遇眉山老、未必遽譏■、夜夜西窗下、唔■坐皐比、數有睡魔至、動使伏首癡、此物一入口、排悶若霧披、雖然助祝融、暗中精魄褫、一身十二脈、一時忽走馳、榮衞有常度、敢可堪憊衰、利害常相半、取舍其如臺、大羮薄鷄肋、逸韻重密脾、猗猗猗蘭花、幽谷何■■、含英毓徳香、胡爲揚華滋、亭亭嶺上松、千年■寒姿、幽人與君子、耐久結■■、想渠無遠思、小草計班資、豈足登席珍、誰言甘如薺、朝鮮成學士、奉使東海■、一面推丹忱、再逢仰白眉、鸞鳳翔丹穴、一鳴冲感池、燕雀上枋楡、■啾不自量、踊躍聊暫窺、萍遇在彈指、星■將載脂、朔風灑衣袂、明月滿天涯、何以代芍藥、幸有煙草貽、不知君嗜否、姑茲慰■離、之子有佳名、微意請事此、異域天一角、雲樹更相思)
震澤將に病みて歿せんとす、木菊潭(*木下菊潭)・向井滄州に遺言して、平生作る所の文數十百篇を以て、之を身に傳へんと欲す、曰く、請ふ必ず十一を千百に存し、醇疵を沙汰し、能く天地の間に不朽にせよと、他事に及ばず、其志實に愍惻すべし、順庵、滄州をして震澤の後を繼ぎ、柳川氏を冒さしむ、家宅財具凡百の有する所の遺物を相受け、其徒に教授す、滄州此に因り、全く其嗣子となる、義宜しく先志を繼述すべし、幾くもなくして順庵世を謝す、菊潭、滄州と謀りて、其遺稿を刻せんとす、校勘既に成る、滄州■(:::大漢和37473)弛して果さず、室鳩巣屡〃之を勸め、宜しく速に其擧を成すべきを以てす、滄州恬として意を爲さず、荏苒果さず、最後本氏に歸復し、別に門戸を爲し、殆んど柳川氏を棄廢するに似たり、夫れ既に其氏を冒して、又其蔭を受く、之を在世の日に受けずと雖も、則ち其嗣子となれば、義父子たり、固より識者を待たずして之を知る、況や誘掖の恩を被むり、教訓の勞に服するに於てをや、藉令ひ一石の禄無く、一錠の資なきも、先業を繼述し、能く遺命を成すは、人情の常なり、何ぞ之に負背するに忍びんや、今時の文士此に類する者多し、將に自己の脚■(足偏+郎:::大漢和に無し)(*「足偏+朗」か。)を立てんとせば、人の蔭庇を仰ぐべからず、之を要するに名利の心、去就を顛倒し、各自ら道義に違馳するを覺らず、世の譏る所と爲る、嗟乎、出でて人家に後たる者、省みずんばあるべからず、〔室鳩巣、柳川三省に與へて云く、
五月廿三日、直清白す、去歳の秋、稻若水(*稻生若水)此に來り、爲に賢兄存問の意を致す、感謝實に深し、且つ動履清健強學解する無きを審にす、甚だ震澤の爲めに之を慶ぶ、謂ふに他日能く震澤の後を昌にする者は必ず賢兄なりと、念ふに嘗て京師に別れてよりこのかた、忽ち二紀を經、震澤世に即き交遊人無し、震澤を懷ふて見るべからず、則ち一たび賢兄を見、與に震澤が平生を道はんと懷ふ、又見るべからず、之に加ふるに吏務倥偬(*「人偏+總の旁」)、一書を裁して以て寒暄を述べ而して離索を慰する能はず、固に故人に負くあり、然れども私心竊かに謂ふ、音問來往は是れ禮數(*ママ)の末のみ、相愛するの心、必ず此に在らず、而して一事あり、賢兄の爲めに之を言はんと欲する日久し、今稻丈に憑り書を左右に致す、庶幾くは以て朋友仁を輔くるの道に違ふことなからん、惟賢兄幸に察せよ、吾友震澤博物の識、人に過ぐるの材、宜しく世の用ふる所たるべく、而して遂に以て窮死す、未だ甞て震澤を知るあらざる者と雖も、苟も稍〃學を好む者、猶愛惜して之を嗟嘆す、況んや、清之れと友たり、交遊の久しき、一念此に至る毎に、未だ曾て慨然として大息し、之に繼ぐに泣を以てせずんばあらず、又況んや賢兄の如き、嘗て親炙して從游する者をや、清固より啻に區々の情のみならざるを知るなり、然りと雖も君子學を積み、徳を身に蓄ふ者、豈に其れ汲々として知を一世に求めんや、申包胥曰く、人衆き者は天に勝つ、天定て亦能く人に勝つと、古より賢人君子、時に遇はざる者、往々覊旅に困厄し、身を側陋に終ふ、此天未だ定らざるなり、然れども其名後世に稱せらる、愈久しうして愈彰るゝは天定るなり、是故に學を積み徳を身に畜ふは、己に在る者なり、知と不知とは、人に在る者なり、其己に在る者は、我力を肆にして之を致すを得、其人に在る者は、我之を如何せん哉、蓋し天の定るを待つて、而して己文辭あれば、以て其言を言ひ、故舊門人あれば、以て其道を傳ふ、此の二者君子特に天の定るを待つ所以の者なり、然れども凡そ身沒して言を立つる者、未だ嘗て其徒に由り、以て之を成就せずんばあらず、夫子は聖人なり、其道天下に洽し、其言生民に被る、固より文辭を恃まずして立ち、其徒を待たずして傳ふる者あり、然れども詩を刪し書を序し、易を繋し春秋を作る、亦手を文に假り以て教を立つ、其沒するに及んでは、則ち七十子の者、相與に討論して之を傳ふ、然らずんば孔子の書、未だ曾て必ず亡びずんばあらず、而して孟子七篇、亦公孫丑・萬章の徒弟にして之を次ぐに頼り、乃ち今に至りて泯びず、其餘鉅儒文人、楊雄王通韓愈柳宗元の若き、其著す所の書、作る所の文、當時に稱せられずと雖も、遂に以て後世に述るあり、亦侯芭王凝之李漢劉禹錫の徒ありて與に力あり、豈に然らずと謂はんや、嘗て聞く震澤遺言して、平生爲る所の文を以て、木先生(*木下順庵)及び菊潭(*木下菊潭)・賢兄に託し、委するに編輯を以てし、旁ら序引の事に及ぶと、嗚呼其志悲しむ可きのみ、清、竊かに謂ふに、震澤不幸坎軻にして沒すと雖も、然れども木先生あり、以て其美を褒揚して而して世に信あるべく、又菊潭と賢兄と在るあり、以て其言を讃述して後に傳ふべし、人誰か死せざらん、震澤死して託する所あり、暫らく一時に屈すと雖も、而も久しく百々世に伸びん、震澤の若き者、不幸にあらざるなり幸なり、然れども震澤の亡ぶる今に十年、未だ一家の言を編次して、以て傳ふべきあるを聞かざるなり、豈に夫れ蒐輯論選して、未だ底讀せざるか、將に待つことあつて敢て爲ざるか、久要平生の言を忘れざるを士と謂ふべし、矧んや死せんとするに於て其言を丁寧にし、棄て而して■(目偏+卷:::大漢和23447)みざるは、仁人の忍ぶ所ならんや、二賢兄其れ之を講ずること審なり、意ふに其人の爲に之を謀て忠、敢て易として之を成さず、故に遲延して今に至る、良に以あるなり、然れども志は委靡を懼れ、事は精敏を尊ぶ、孔子云はずや、敏なれば則ち功ありと、故に事の成るを欲すれば、時に及びて速に爲すに若くはなし、若し今日爲ずして明日を待ち、今年果さずして明年を待つ、其弊や明年に至り亦爲さす、明年亦た果さず、凡そ志あつて而も成らざるに終る者、率ね皆此に坐す、今賢兄春秋に富み、京師に優游す、此時を以て之を爲さず、而して我待つありと曰ふ、則ち恐らくは它日婚官の爲に迫られ、爲すに暇あらざるなり、嗚呼、震澤の學、其克く勤むること此の如く、震澤の文章、一時に傑出すること亦此の如く、其賢師友親門人ある亦猶ほ此の如し、而も猶ほ晦沒して傳ふること無し、則ち是れ死者遺恨あつて、而して生者徳に慙づるあり、清、嘗て震澤の知を辱うす、愛念の深きこと二君に次ぐ、今默して言はずば、清も亦罪無しと爲さず、故に狂言を發して敢て懷ふ所を布く、伏して惟れば賢兄震澤附託の意を追念して委靡を戒め、精敏を務め、蚤に成就するあり、以て朋友の望を慰せば則ち幸甚なり、〕
震澤、其卒何年に在るを知るべからずと雖も、天和壬戌、韓使と筆語す、壯歳を過ぐと雖も未だ娶らずと曰ふ、是時蓋し三十有餘歳なり、滄州僅に十七歳にして隨行し、相與に韓使に接す、震澤歿後、順庵の指揮に依り、出でゝ其氏を冒す、時に二十五歳なり、是に由りて之を觀れば、震澤の沒する蓋し元禄庚午に在りて、僅に不惑を踰ゆるのみ、著す所■(雨冠/言:::大漢和42296)溪日録六卷・續録六卷・平庵漫録二卷・長語十卷・韓館酬和集二卷、及び遺文集若干卷あり、


先哲叢談續編卷之二


 三宅道乙  向井霊蘭  菊池耕斎  田中止邱  彭城東閣  佐々十竹  柳川震沢
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