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 松下見林  松下真山  羽黒養潜  栗山潜鋒  国造塵隠  鳥山芝軒  原雲渓

先哲叢談續編卷之三

                          信濃 東條耕子藏著

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松下見林
名は慶攝、字は諸生、西峯散人と號す、通稱は見林、浪華の人なり、高松侯に仕ふ、

見林、其先は世々河内の人、楠氏の庶族なり、松下邑に居る者あり、地名を以て族と爲す、父見朴始めて平安に移り、醫を以て業と爲す、後、浪華に住す、見林寛永十四年丁丑正月元日を以て、天滿街に生る、始めて諸經の句讀を父に受く、歳十三にして古林見宜の門に入り、自ら素・難・傷寒等の醫書を誦して、勤苦すること最も多し、同學の人、其右に出づる者なし、
古林見宜、名は正温、字は桂菴、播磨の人なり、方技の暇、性博洽を好み、啻に醫事を研究するのみならず、經史百家より、雜傳稗官に至るまで、講習せざることなし、殊に我土の正史實録に通ず、嘗て學行ある者一人を擇びて、家塾の諸事を管領せしめ、又學術ある長者三人を擇びて、己に代りて子弟を教導せしむ、見林十五歳より其事に預り、之が都講となる、二十一にして見宜に背せらる、此より而後、塾を退きて堀河に僑居し、徒に授くと云ふ、
見林、見宜翁の傳を著して刊行す、其擧天和癸亥の冬に在り、傳中言へるあり、曰く、

余少にして外祖妣の族、新田氏の命に從ひて先生の門に遊ぶ、松山の一心寺、天誉上人といふ者は、新田氏の族なり、先生の室、佐谷氏は上人の檀越なり、故に上人、先生と善し、慶安二年八月十六日、上人、余を攜へて先生に謁し、贄を門下に執る、時に年十三なり、後、先生余が勤學を嘉し、常に命じて醫籍を講説せしめ、自ら試みて之を善しとし、欣然大に喜ぶ、嘗て饗讌を設け、高足先輩數人を會招し、歎賞して已まず、余時に十七なり、亦丁寧に告て曰く、子益勤學し、宜しく經史曁び我土の記傳を講究すべしと、先生の別館は二條城下に在り、是より先、京尹板倉重宗の附與する所なり、久淹の際、先生余をして此に寓せしむ、先生歿後、余亦洛に入り、業を醫術に行ひ、傍ら初學の士の爲めに、儒書・醫籍、曁び我土の記傳を講説す、
蓋し寛文・延寶の間、醫を爲す者は、必ず講義を爲し、儒を爲す者は、必ず方技を爲す、皆當時の風習なり、
見林、毎年人をして長崎に往き、舶來の書籍を購求せしめ、而して自ら之を閲し、亦子弟をして之を讀ましむ、故に其儲藏する所、彼我を兼并して殆んど十萬卷あり、未だ熟知せざるの人と雖も、就て借覽を請ふ者あれば、親疎を言はず、之をして專ら其欲する所に從はしむるのみ、敢て愛吝の色なし、
見林、志を我土の典詁に留め、儒醫を以て居る、蓋し當時文學未だ甚だ闡けず、詞翰の美、稱するに足らずと雖も、講學の各家、能く以て本末を辨別するを覩るべし、我土、昔より明經・記傳兼學互習、專門に名るは、縉紳の家相傳へて之を述ぶ、記傳は我土の正史實録を謂ふなり、今時の學者徒に班・馬・諸史以下を讀み、能く彼の海外の群籍を明にするを知りて、我土の記傳に暗し、本を知らずと謂ふべし、見林、既に此に著眼し、後進を誘くと云ふ、
見林、業を平安に講ずる時に當り、同じくて記傳の學を唱ふる者、白井宗因〔字は眞純、白雲山人と號す、伏見の人なり〕・和田宗翁〔字は以悦、一華堂と號す、播磨の人、京師に移居す〕・弟宗允〔字は子誠、靜觀窩と號す、後龍野に仕ふ〕・黒川道祐〔字は玄逸、梅林と號す、大和の人なり〕等の若き、皆其趣旨を同じうす、就中、見林最も博洽の聲あり、
見林、嘗て三代實録を校正し、遂に之を刊行す、蓋し當時華本を購へば、奇編珍籍、卷帙多き者と雖も、求めて到らざるはなし、故に手を此に下し易し、我土の記傳に至りては、是より先き刊する者なく、悉く寫本を以て傳へ、僅に神社佛閣の什物に藏し、或は縉紳舊葉の儲秘に存し、購索最も難し、見林の此擧ありてより、後世永く其賜を受け、掃討訪探の勞を、謄寫對鈔の煩とを省く、豈偉ならずや、
見林、編輯する所、異稱日本傳、三十年を經て■(宀/浸:::大漢和7253)く成る、常に其稿數册を一笥に藏して、珍重甚だ至る、一日出行、近隣火を失し、家人子弟周章奔遽、先づ書笥を負ひて、之を池邊に避く、見林、還りて門に及んで曰く、日本傳恙なきや否やと、子弟對へて曰く、全しと、餘は問ふ所なし、
見林、日本傳を纂するや、禹貢を讀み、始めて和夷績を底すの我邦たるを識り、是より而降、漢晋歴代の諸史より、元明衆家の叢説に至るまで、我邦に及ぶ者あれば、一言半句も收載せざることなし、今にして之を觀れば、遺漏することなきに非ざるも、其博渉の勞は勤めたりと謂ふべし、近時山本北山異稱日本外史三百六十四卷・尾崎蘿月續異稱日本傳三百三十卷・増島■(三水+豐:::大漢和18739)水異稱日本事實百卷・岡部菊涯異稱日本外史拾遺百六十四卷の若き、各見る所あり、以て考を資くるに足れり、然りと雖も、皆是れ見林を待ちて興る者なり、
見林、尤も算術に長じ、毫釐を明晰し、能く貨殖を爲す、家自ら富饒なり、嘗て晋書王戎が傳を讀み、戎性利を興すを好み、積實聚斂、紀極を知らず、毎に自ら牙籌を執り、晝夜算計し、恒に不足を苦むと曰ふに至り、翻然として自ら省みて曰く、吾過てり、人生百年豈に厚養豐育に役々たらんや、遂に蓄あるを以て、親故窮乏の者に賑濟す、晩年生計之が爲に漸く衰ふ、
見林、詳に我土、周孔の道を奉崇するの事實を論じ、名けて本朝學原と曰ふ、考證精核、實に諸家未だ嘗て之れあらざるの説なり、而して苟くも學に志し書を讀むの家、宜しく一本を架上に儲ふべし、其刻、寛文十一年辛亥正月に成る〔原刻は、京師柳馬場二條下町、吉田權兵衞の刻する所〕、又二版あり、後七年を經て、尾張の眞野時繩、之が註解を作り、詳に其典故の據る所を標はす、以て七卷と爲し、本朝學原浪華鈔と曰ふ、書に名くるの字、蓋し諸を博士王仁浪華津の歌詞に取ると云ふ、其刻、正徳六年丙申三月に成る、〔按ずるに今年四月十五日享保と改元す〕是に由りて之を觀れば、其書當時に行はるゝ以て知るべし、最後其鏤版、天明戊申の火災に罹る、流傳■(宀/浸:::大漢和7253)く少なり、故に世人多く知らず、
見林、半百の後、高松侯に筮仕し、其■(食偏+氣:::大漢和44316)稟三十口糧を受く、猶ほ京師に住す、侯之を優待し、責むるに職任を以てせず、志を著作編纂に專にせしむ、嘗て偶懷の詩を作りて云く、
官途跡を遁れ難し、風雅未だ心灰せず、舊識鉛槧を榮とし、新詩別材を貯ふ、經年墳籍去ぬ、追日詠歌來る、歎息す疎慵の甚だしきを、百尺臺に由る無し(*官途難遁跡、風雅未心灰、舊識榮鉛槧、新詩貯別材、經年墳籍去、追口詠歌來、歎息疎慵甚、無由百尺臺)
皆其實を記するなり、
延寶中、京尹忠昌〔從四位下侍從戸田越前守〕屡〃之を延致し、其講説を聞き、大に學術に服す、親炙の久しき、嘗て之を朝廷に奏し、法印の位を授けんと欲す、見林固辭して受けず、其辭状に云く、
近時醫流及び儒生多く僧位に敍せられ、以て勞と爲す者は、皆其學識の不正と操持の不確とに坐す、謹で按ずるに、昔在より官職自ら常員の定數あり、中世以降氾濫已に甚し、今は乃ち其官に任ぜられ、其禄を受くるも、敢て衆に違て之を異とせず、則ち何ぞ道を知り、義に向ふことを用ゐんや、醫流の此位を經るは、諸を典詁格別に徴するに、名實大に乖く、而るを況んや儒生を以て、其位を受くる者に於てをや、所謂法印・法眼・法橋は、納言・侍從・諸大夫の類と、通じて當今の官員と爲す、儒者をして之を受け、還た浮屠僧尼と伍を爲さしむ、豈に榮と爲すか、辱と爲すか、然れども專ら此を以て儒者を寵待す、而して儒者之を甘受す、名を亂り實を敗る、皆其道を知り義に向はざるを以てなり、宋の眞宗、道教を尊崇し、詞録官を設け、老いて自ら陳し、賢にして退く者、速に其禄秩を奪ふに忍びず、皆盡く祠官を以て之を處く、優待の恩旨を示すなり、故に衙官に拜し、敢て其意を■(三水+于:::大漢和17132)さず、師徳を禮し、老成を敬する所以なり、方今僧位授受の際、此と大に異なる、故に衆に違うて而して獨り之を異とせざるを得ず、
と、忠昌之を見て、益〃其言を■(題の繞+韋:::大漢和43176)として、再び之を言はず、
見林、元禄十六年癸未十二月七日を以て沒す、歳六十七なり、内野大雄寺に葬る、遺言して曰く、謹んで墓碣を建つること勿れ、吾後人に期する所は、著述の在るあり、以て百世に朽ちざるに足れりと、著述編纂する所の者極めて多し、前王廟陵記三卷・諸大臣執柄年表録十二卷・將軍稱制年表録八卷・國朝佳節録一卷・補遺二卷・異稱日本傳六十五卷・拾遺二十卷・公事根源集釋三卷・評閲神代卷二卷・童蒙先習一卷・神國言葉遺式二卷・職原鈔參考五卷・太玉命社記古林見宜翁傳各一卷・運氣論疏鈔三卷・習醫規格一卷・國朝諸禮分類八十卷・讀史隨録十卷・神國字原考二卷・西峯筆記二卷・雜説考一卷、又其校訂する所の書數種あり、三代實録古語拾遺等、皆世に行はる、


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松下眞山
名は慶績、字は子節、眞山と號す、通稱は見櫟、越前の人なり、高松侯に仕ふ、

眞山は、越前福井の人なり、本姓は坂上氏、歳二十一にして京師に遊學し、遍く諸名士に交はり、遂に見林(*松下見林)に從ひ、業を門に受くること數年、見林其勤學懈らざるを嗟賞す、歳卅一の時、見林、其女を以て之に妻し、家に贅婿し、松下氏を冐さしむ、眞山能く其後を繼ぎて、嗣子と爲り、先業を墜さず、儒醫を以て行はる、縉紳貴族の從學する者衆し、
眞山、歳三十七にして見林の卒するに遭ひ、特に之が爲に三年の喪を服す、或人之を難じて曰く、本生父の爲に之を服せず、苟くも義父の喪を服す、不可なるに幾しと、眞山曰く、既に之が嗣と爲り、其鞠養を受け、出て他姓を冐す、此の如くせざるを得ずと、
眞山、常に■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)社の徒を笑ふ、謂ふ糟粕の餘を嘗め、範圍の迹を逐ひ、粉繪雕刻、時目を眩耀して、詞宗の作者と爲らんと欲す、譬へば猶ほ童蒙樸素にして、師教を遵奉し、謦咳惟謹み、摸(*「莫/手」)傚是れ善とし、一見解なきが如し、豈に愚ならずやと、
眞山、嘗て曰く、今世讀書の人少からず、而して聖賢の言に於て、口誦するのみ、未だ自ら諸を心に存するを聞かず、人の爲にするのみ、未だ反つて諸を己に求むるを聞かず、學士文人猶ほ且つ然り、況や華閥世禄の家、徒に典籍を以て、玩弄の資となす者に於てをや、是に由り益〃天資高邁、脱塵超俗の人、得易からざるを識ると、
眞山、資性淳篤、學を好みて倦まず、尤も詩に長ぜり、今其集を讀むに、磨勵の功頗る勤むと雖も、修飾の力未だ熟せず、峻異超拔に餘ありて、淹雅融會に足らず、然りと雖も、當時原雲溪鳥山芝軒の輩、何ぞ能く之を企て及ばんや、江邨北海、稱して云く、眞山の詩、氣骨深雄、一時に翹首し、書法も亦蒼勁にして潤美なりと、
眞山、詞學に從事すと雖も、平生詩を以て世に稱せらるゝを好まず、故に舊故に非ざれば、輕く人に示さず、是を以て、其詩名を喧傳するなし、而して詠鷹の七律は、諸家の選、既に之を收載し、人口に膾炙す、今集中に就き、秋懷十首を此に鈔すと云ふ、

蟲響鴈啼て秋趣長し、竹參差たる處茅堂に着く、南■(片+總の旁:::大漢和19883)才に明月を通すべく、西樹偏に夕陽を掛るに宜し、客を畏て常時多く戸を閉づ、兒を攜へて勝日或坊を過ぐ、雨居晴出唯心に適せば、紫陌塵中も也妨げず(*蟲響鴈啼秋趣長、竹參差處着茅堂、南才可通明月、西樹偏宜掛夕陽、畏客常時多閉戸、攜兒勝日或過坊、雨居晴出唯心適、紫陌塵中也不妨)〔*其一〕
短髪梳らず過ること月餘、風は落葉を吹て郊墟に入る、園中咫尺歩を移すに堪へ、■(片+總の旁:::大漢和19883)底尋常書を讀むを好む、一飽去るを歌ふに應ぜず、終年且に歸るを歎るを免るべし、顧ふ吾性本と岑寂に耐ふを、亦任す親朋の日日疎なるに(*短髪不梳過月餘、風吹落葉入郊墟、園中咫尺堪移歩、■底尋常好讀書、一飽不應歌去矣、終年且免歎歸歟、顧吾性本耐岑寂、亦任親朋日日疎)〔其二〕
却て門庭を掃て久く游を絶つ、自ら俗事の心頭に到る無し、蒙莊苦李眞に樂を知る、鄒軻・魯丘何ぞ憂を抱きし、口を開く間非と間是と、心を委ねて斯去り又斯留る、蟒巖虎穴終に試み難く、淡飯■(鹿3つ:::大漢和47714)茶謀り易きを覺ゆ(*却掃門庭久絶游、自無俗事到心頭、蒙莊苦李眞知樂、鄒軻魯丘何抱憂、開口間非與間是、委心斯去又斯留、蟒巖虎穴終難試、淡飯■茶覺易謀)〔其三〕
遮莫あれ傍人の鄙頑を笑ふ、素情世と相關せず、朱楓錦の似く著くるに由無く、碧蘚錢を成す却て是れ姦なり、陸自ら沈むに堪へば何ぞ遠く遁れん、霞は服すべきに非ず高く攀る莫かれ、市底と山足を兼るを論ぜず、唯我れ能く嘗む一味の間(*遮莫傍人笑鄙頑、素情與世不相關、朱楓似錦無由著、碧蘚成錢却是姦、陸自堪沈何遠遁、霞非可服莫高攀、不論市底兼山足、唯我能嘗一味間)〔其四〕
奧壤名區控ふべからず、楓時夢思呉江に入る、人間何れの處か岡千仭、士氣平生屐一雙、指園蔬を摘て衣未だ補はず、手山茗を煎て鼎能く扛ぐ、三文にて鷄毛の筆を買得て、塗抹す暮鴉の行紙窗(*奧壤名區不可控、楓時夢思入呉江、人間何處岡千仭、士氣平生屐一雙、指摘園蔬衣未補、手煎山茗鼎能扛、三文買得鷄毛筆、塗抹暮鴉行紙窗)〔其五〕
家具移來て突未だ黔せず、世途又看幾く嶇■(山/欽:::大漢和8464)、列侯の華第烏有と爲り、諸老の新阡徳音を絶つ、雲雨須臾飜覆の手、江山特地に隱淪の心、一歡忽東流の水を逐ひ、薄暮唯聞く風外の砧(*家具移來突未黔、世途又看幾嶇■、列侯華第爲烏有、諸老新阡絶徳音、雲雨須臾飜覆手、江山特地隱淪心、一歡忽逐東流水、薄暮唯聞風外砧)〔其六〕
誰か爭ふ江上と山間と、風月人に於て未だ敢て慳ならず、是れ眉妝の時世を背かず、只那ぞ骨法枯間に屬せん、衡門客無く彌旬閉ぢ、奮稿心に隨て過半刪る、蓴滑に鱸鮮にして力て貧喫す、秋風歎を免る大刀環(*誰爭江上與山間、風月於人未敢慳、不是眉妝背時世、只那骨法屬枯間、衡門無客彌旬閉、奮稿隨心過半刪、蓴滑鱸鮮力貧喫、秋風免歎大刀環)〔其七〕
何日か山林茅を結ぶを得ん、詩書一味病來抛つ、聲を寄す猶鶯鶯の友有るがごとく、膝を容る曾て燕燕の巣無し、曉に尖風の枯葉を墜すを聽き、暮に片月の寒梢に上るを看る、烟霞骨に到る知ぬ治し難きを、奇方に値ふ毎に仔細に抄す(*何日山林得結茅、詩書一味病來抛、寄聲猶有鶯鶯友、容膝曾無燕燕巣、曉聽尖風墜枯葉、暮看片月上寒梢、烟霞到骨知難治、毎値奇方仔細抄)〔其八〕
一箇の團蒲一素の屏、烏皮の几は明瞑を在了す、生を養て毎に誦す青牛の句、死を畏れては寧ろ修む白馬の經、儘間鴎と曾て半面、依然病鶴殘形を守る、尺渾却て勝る清千丈、漁父當時笑獨り醒む(*一箇團蒲一素屏、烏皮几在了明瞑、養生毎誦青牛句、畏死寧修白馬經、儘與間鴎曾半面、依然病鶴守殘形、尺渾却勝清千丈、漁父當時笑獨醒)〔其九〕
浮生戚むに堪へ又■(立心偏+宗:::大漢和10718)ふに堪ふ、變態雲を看て短■(竹冠/工+卩:::大漢和59830)に倚る、傲て數枝を採る霜後の菊、貞百尺を憐む雪前の松、楊君始て■(屬+立刀:::大漢和2284)す三三の徑、晁子曾て棲む六六峯、古人の中に於て誰か是れ最なる、晉時の徴士高蹤有り(*有高蹤?)(*浮生堪戚又堪■、變態看雲倚短■、傲採數枝霜後菊、貞憐百尺雪前松、楊君始■三三徑、晁子曾棲六六峯、於古人中誰是最、晉時徴士有高蹤)〔其十〕
龍草蘆(*草盧)、眞山詩集の序を作つて云く、
予弱冠の時、都下に眞山先生といふ者あり、學術醇正、詩歌に巧なりと聞きて、景仰日あり、未だ一度び其堂に上り、垂青に沐親するを獲ず、憾を爲すもの多し、坂上元孝氏といふ者あり、蓋し先生の裔孫なり、來て弊門弟子の員に列するを索む、予一諾して情好相熟す、後、先生三十三辰の忌に丁り、其奠祭を主る、因て先生の詩集を持ち來り、之を示して序を請ふ、
今按ずるに、元孝、何許の人なるかを詳にせず、蓋し眞山の孫にして、本氏に歸復する者ならん、詩集鏤版、火に罹りて燼す、
眞山、延享三年丙寅九月十九日沒す、享歳八十なり、先塋の側に葬る、其著述の書十四種、卷數三百卷に至ると云ふ、嚮に之を先友越前の侍讀高野容齋〔名は絢、字は君素、總左衞門と稱す〕に聞く、其祖穆王、眞山と友とし善し、故に能く眞山の人と爲りを識ると、余が爲に其事歴を言ふ、又眞山文集四卷・詩集六卷を貸致す、余既に抄寫して之を藏す、後、皆之を火に委ぬ、今にして之を念へば、容齋世を謝し、再び獲べからず、聊か憶記する所を以て、十一を存するのみ、男元明字は昌林、秀山と號す、能く家學を繼ぐと云ふ、


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羽黒養潛
名は成實、字は養潛、字を以て行はる、牧野老人と號す、近江の人なり、

養潛、初牧野左平治と稱す、彦根侯に仕ふ、中年志を得ずして致仕し、講説を業と爲す、後姓名を變じて加賀に遊ぶ、金澤に寓居し、專ら性理を唱ふ、從學する者多し、室鳩巣岡石梁(*岡島仲通)の若き、此時に在り、皆之に從遊して其教督を受く、
養潛舊と山崎闇齋に學ぶ、闇齋、其人と爲りを稱して置かず、佐藤直方桑名松雪淺見■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)齋、皆之を畏敬す、而して養潛、天質敦樸、學術を以て世に顯るゝを欲せず、專ら躬行實踐を以て主と爲す、故に當時の人、其の學術操行を知る者少なし、
金澤の地、北陸道に在り、號して一大鎭と爲す、一時有名の士、奧村修運〔字は子復、源左衞門と稱す、秩禄三千石、金澤の家老〕・青地齊賢〔字は伯孜、藏人と稱す、秩禄二千石、金澤の用人〕・弟禮幹〔字は叔貞、俊新と號す、藤太夫と稱す、仕へず、生徒を教授す〕・小谷繼成〔字は勉善、伊兵衞と稱す、秩禄七百石、金澤の奉行〕・葛卷信祥〔字は有禎、寛軒と號し、權助と稱す、金澤の儒員、上疏して謫所に死す〕等の若き、皆門下より出づ、或は政事を以てし、或は文學を以てす、其學行はれ、以て世に傳ふるに足る、養潛、薫陶の化する所、少からずと謂ふべし、金澤の地、文學の起る、養潛此に寄寓してより、始めて風に嚮ふと云ふ、養潛沒して後、其遺命に從ひ、五人皆鳩巣の弟と作る、
養潛、業を彦根に講ず、彦根の士大夫勇武を誇尚し、概ね文學を以て迂緩と爲して顧みず、乃ち文武偏廢せざるの論を著し、以て之に示す、其論の略に云く、文武素と一道、偏廢すべからず、豈其れ用を相爲さずして、反つて相害する者ならんや、聖人天下を治む、固より文を釋て以て治世を爲さず、亦必ず成を講じて以て變に備ふ、其教を設けて學校を爲り、人を絃誦の間に導くと雖も、然れども田獵騎射、武を講ずる所以の者、未だ嘗て廢せず、亦將に以て其支體を勤め、其怠■(卷+力:::大漢和2366)を率ゐ、以て柔懦振はざるの患を防がんとす、是に由りて之を觀れば、武固より文治の一端と爲す、而して文武其名を異にするのみ、其一介の利を爭ひて、睚眦の怨に報ずるに當り、奮然として憤怒し、剱を拔きて起ち、其意氣固より畏るべき者の若きも、其平生を顧みれば、則ち婦女を愛し、飮酒を好み、甘旨美服、歳月を玩■(立心偏+曷:::大漢和10933)し、志氣衰弱して振はざるに至りては、獨り何ぞや、蓋し文教此に行はれざるを以て、素と理氣の人心を養ふなし、故に奮然として怒る者は、血氣に發し、而して其柔懦の振はざる者は、私慾に溺るゝなり、安ぞ能く其大節に臨んで奪ふべからざるを保たんやと、
養潛曰く、古人云ふ、氣象好き時百事是れ當ると、學者宜しく粗暴を防ぎ、慓悍を戒むべし、然る後此等の病を去らんと欲する、格物窮理に若くはなし、居常此心をして義理を涵泳せしめば、優游自得の久しき、則ち以て客氣を奪ひ、俗習を變ずべし、而して易直慈良の心、油然として生じ、輕薄浮躁の念、漠然として消す、道を求むる者、此より近きはなしと、其言皆實踐して、今人の言ひ及ぶ所に非ず、
養潛、嚴毅方正にして甚だ敦重あり、其彦根に仕ふる時に當りて、禄微にして俸少く、自ら給する能はず、僅に飢寒を免るゝのみ、然れども、他の雜技を以て世用を給資するを欲せず、毎に弊袴を著て几案に對す、
養潛、病に臥して蓐に在り、赤穂の遺臣大石良雄等の擧を聞き、嘆息して曰く、嗚呼士風の振はざるや久し、獨り是等の輩ありて、同じく死を國難に決す、義烈凛々、以て頽風を激するに足ると、遂に之を稱するに義人を以てす、室鳩巣義人録の作ある所以なり、
養潛、元禄十四年辛巳の夏、疾に罹り、將に痾を郷里に養はんとし、金澤を辭して彦根に還る、翌年壬午正月十一日を以て沒す、時に七十四なり、著す所、四書翼十卷・天道流行圖説二卷・講學筆記六卷あり、
室鳩巣、牧野翁を祭る文に云く、

嗚呼天の善人に報施する其れ何如ぞや、士の一材の美、一行の懿あるも、不幸にして世に用ひられずして卒し、以て下位に沈沒するものあらば、猶ほ且つ咨嗟慷慨して、以て不遇にして死するを哀む、公の知識の高遠なる、徳性純備する如き、獨今の世に■(::〈=罕〉:大漢和25426)に有るのみならず、亦古人に配して愧ること無し、其學以て天人の理を窮むるあり、而して老・佛の詭異に流れず、其材以て王覇の略を盡すべき有り、而して管・晏の功利に溺れず、固より以て振古の豪傑、一代の人瑞と爲すに足れり、而して其をして廟堂に位し、素薀を■(手偏+慮:::大漢和12932)べて一たび試みせしめば則ち當に漢唐を凌轢して、上は三代の治を追ふべし、乃ち今棲々一生、屯■(之繞+亶:::大漢和39175)困躓、以て老死に至つて、其志を伸ぶる無し、天下の有識の士をして、之を聞かしめば、敢て公の爲に痛恨して、涙を拭はざる者あらんや、矧んや故舊交遊の人に在りては、哀恫の情、曷ぞ以て已むべけんや、嗚呼、公にして此に至れるか、天の善人に施報する、果して何如ぞや、始め吾公を京師に見る、尋て復た北陸に來辱す、爾來議論を上下し、往復切偲、忠告善道、一に道義を以て相期す、而して不肖弱質、公に頼りて勉強し、以て學に進む者、此に十有七年なり、公方に南に歸り、疾病に是れ罹る、一たび臥して年を逾え、神氣日に疲る、猶ほ能く疾を力めて手書す、累幅の淋漓たるを見る、始めて醫藥の效を言ふ、請ふ子幸に以て思を爲す無かれと、卒に死生の命あるを言ふ、庶幾くは身を修めて以て之を俟たんと、曾て日月の幾何ぞや、忽ち訃音の來り隨ひ、吾をして失聲して驚呼せしむ、前言を感じて深く悲む、嗚呼、公や遂に吾を棄てゝ死せるか、自今以往、惑あるも、將に誰か之が爲に辨ぜん、過あるも、將に誰か之が爲に規せんや、之を瞽にして相け無きに譬ふ、■(人偏+長:::大漢和742)々として其れ何くに之く、嗚呼哀哉、惟公人となり恭敬にして禮を好む、志たるや忠信にして欺く無し、之を内にしては道徳に涵濡し、之を外にしては威儀に洋溢す、故に其言を國に獻ずれば、則ち君之を信ずること耆龜の如く、其道を家に講ずれば、則ち衆之を尊ぶこと父師の如し、嗚呼、此の如くして死す、亦以て恨なきに足れり、公是に於てか奚ぞ疑はんや、其窮達榮悴の間の如き、公固より此を以て爲さず、而して區々猶ほ言ふこと無き能はざる者の如きは、蓋し將に上は以て天下の聽を竦動し、下は以て吾交情の私を親結せんとす、嗚呼哀なる哉、尚くは饗けよ、
按ずるに、鳩巣の此文、以て其授受の事を知るべし、故に之を録す、


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栗山潛鋒
名は愿、一名は成信、字は伯成、潛鋒と號す、通稱は源助、平安の人なり、水府に仕ふ、

潛鋒は長澤氏、故ありて栗山氏と改む、父良節、儒術を以て淀侯憲之〔石川殿主頭、今の龜山侯の先封、〕に仕ふ、侯著述を好み、常に良節をして、之を筆記せしむ、良節、鵜飼石齋桑名松雲と友とし善し、故に潛鋒をして松雲に從遊し、業を門に受けしむ、
貞享中、八條王〔彈正尹二品尚仁親王〕學を好み士を愛し、儒生を招致す、石齋の男錬齋、既に王門に曳裾し、屡〃當時の人物を談ず、竊に潛鋒を薦む、王喜んで之を徴す、時に歳十五なり、
潛鋒、好んで國史を讀み、常に保元以降建久の時、綱紀解弛し、政柄武將に移るを慨歎し、白河帝の即位而還、三十年間、事の最なる者數條を録し、名けて保建大記と曰ふ、之を王府に上る、體裁を范祖禹唐鑑に擬し、旨趣を朱文公綱目(*資治通鑑綱目)に取る、其政事の得失、人物の淑慝、一一之を擧げ、斷ずるに古義を以てし、是非を評論す、其意謂へらく、亂幾の起る所を詳審し、而して鑑戒を後世に昭示す、其議論正確、文草富澹、之を讀むもの其卓識に服す、時に歳十八なり、〔按ずるに、今世に行はるゝ所の保元大記は、三宅觀瀾安積澹泊相謀りて之を校刻す、其擧潛鋒沒して、數年の後に在り、又土佐の谷重遠保元大記打聞二卷あり、其説を論辨して、遺漏する所の者を註す、〕
潛鋒、松雲に陪從して、花を郊外に看る、歸れば則ち未だ衣裳を替へず、梧に據り書を讀み、寸陰を惜しむ、松雲に老僕あり、竊に之を偵知し、常に他の弟子に勸め、專ら經史に從事せしむ、特に此事を擧げて以て警戒と爲す、遂に能く學業を成就する者數人ありと云ふ、
元禄元年戊辰、八條王薨ず、故に柳の馬場に退居し、講説して徒に授く、而して多く時好と合はず、或人之を非笑して曰く、世に處するに拙しと、潛鋒聞きて曰く、拙を以て我に命ず、甚だ當れり、吾れ其小巧ならんよりは、寧ろ大拙たらんと、因て自ら大拙生と號す、
歳二十三にして始めて江戸に遊ぶ、是を元禄六年癸酉と爲す、是より先き、水府彰考館を設け、國史を編修し、文學の士を招致す、鵜飼錬齋既に此に仕へ、修史の事に預る、因て潛鋒を薦擧し、俸三十口を受けしめ侍史と爲す、後累遷して史官總裁に至る、府最も此職を重んず、三宅觀瀾安積澹泊と、局を分ちて編纂す、二人常に謂ふ、才識遠く此に及ばずと、不幸にして四十に至らずと雖も、編纂の任、檢討の擇、其力最も多し、〔按ずるに、稻葉默齋先達遺事に云く、三宅觀瀾、潛鋒を水府に薦むるといふは全く誤れり、潛鋒、義公に奉仕する、既に癸酉に在り、觀瀾の江戸に到るに先だつこと五六年なり、近人の書、信ずべからざる極て多し、〕
潛鋒、少年より豪氣を抱負す、常に云ふ、寧ろ虎と爲りて早く死するも、鼠と爲りて長生する勿れと、
潛鋒、嘗て礫川の邸舍に在り、會〃火災に罹る、平生剳(*「答+立刀」)記する所の著述草稿、及び家財器具盡く灰燼と爲る、僚友之を弔す、自若として曰く、太極は元と無極なりと、
潛鋒、志を我土中世以降、諸家の記傳に留め、異書を收集し、珍籍を訪捜し、自ら謄寫する所、六十有餘種あり、嘗て明人毛晉が、汲古閣に叢書を彙集して、津逮秘書を校刊するの擧に傚はんと欲す、校訂未だ全からずして早世す、近時瞽者塙保喜乙(*塙保己一)、天資強記、讀を傍聞に得、博く典故を識り、旁ら群籍に通ず、嘗て我土中世以降、遺編餘録の散佚に就くを惜しみ、千二百七十三部を校訂し、題して群書類聚(*群書類從)と曰ふ、世に刊行す、後進其賜を受く、其功甚だ偉なり、然れども其創意する所、潛鋒の首唱する所に因ると云ふ、
義公、館舍を捐て、肅公、潛鋒曁び中村公溪に命じて、殯葬の諸儀を掌らしむ、公二人に謂て曰く、寡人、先公を諡るに義を以てせんと欲す、如何と、二人對へて曰く、諡法に事を制し、宜に合ふを義と曰ふ、義を見て終を能くするを義と曰ふ、君公の言極めて是なりと、是に於て諡議竟に定まる、
肅公、潛鋒及び篁溪(*村篁溪)・酒泉竹軒(*泉竹軒)・澹泊(*安積澹泊)をして、義公の行實を撰ばしむ、四人相議して草創し、討論精覈し、編成つて之を上る、潤色皆潛鋒の筆なり、澹泊、潛鋒より長ずること十五歳、畏友とし之を視る、嘆賞して曰く、行實の文一字を増損すること能はずと、
潛鋒、國史後編を作爲し、而して史官編修の跡に繼がんと欲す、私に先づ數卷を編纂し、稿既に成る、後小松稱光後花園の三帝紀、皆能く其體例を成し、盡く本紀に傚ふ、室町將軍を敍するに至り、則ち編年の體を兼ね、臣下の事蹟、皆備に之を書す、其の出づる所を註して參據と曰ひ、其緒餘を述べて支生と曰ふ、事の議すべき者あれば、則ち論を著して之を斷ず、剴切透徹、悉く肯(*「冖/月」)綮に中る、其志蓋し帝紀は後奈良正親町の二帝に至り、將軍は義輝義昭に至り、以て室町の盛衰を究め、而して衍いて後陽成帝に至り、以て安土・大坂の興廢を敍せんと欲す、稿を起すこと六十卷、其全く成る者、僅に五卷にして、病に臥して果さず、
潛鋒、生れて羸弱、衣に絶えざるが如し、資性明敏、精力人に過絶す、常に博通を以て專務と爲し、毎月新五代史を讀み、或は唐鑑を讀み、循環して罷まず、
寛永三年丙戌四月七日、■(病垂/祭:::大漢和22458)を病んで沒す、歳三十七なり、駒籠龍光寺に葬る、弟敦恒字は平藏を養ひ、嗣と爲し、禄を襲がしむ、敦恒又學行あり、參考源平盛衰記等を編輯す、亦早く歿す、子なし、嗣絶ゆ、
潛鋒、著す所、保元大記(*保建大記)二卷・神功皇后論一卷・義公行實一卷・弊帚文集六卷・雜著十卷、皆家に傳ふ、文集・雜著、後、火災に罹る、敦恒、嘗て燼餘の文數篇を諸書中に輯録して、二卷と爲す、弊帚遺集と曰ふ、


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國造塵隱
名は熈、字は玄貞、塵隱と號す、長崎の人なり、私に思靖と諡す、

塵隱、其先は世〃出雲の人なり、中世土師連といふ者あり、世〃出雲國祖神の祠官長と爲る、稱して國祖大祝と爲す、專ら祭祀修齋の事を主る、朝家土を胙し氏を命ず、故に之を國造氏と謂ふ、其據る所を詳にせずと雖も、宗を紹ぎ統を承け、自ら其家を世々にす、天地開闢、人民此に降つて、久遠相傳ふ、血脈緜聯、百世遷さず、京の加茂、尾張の熱田、伊豫の河野、常陸の香取、信濃の諏訪等の諸祠と、同じく更に變置せず、世號して六大社と曰ふ、其第一なり、高祖某、庶子を以て宗を別ち、支部祠官と爲る、父正隆に至り、告老の後、自ら修めて國氏と爲す、長崎に移居し、塵隱を此に生む、
塵隱、幼にして聰慧、目を過ぐれば誦を成す、明人蒋眉山〔名は遊峨、字は士洋、勾越の人なり〕、崎に留淹するに從つて、業を門下に受け、經藝を講習す、又明の僧、道亮〔字は澄一、杭州の人なり〕に從ひ、醫術を肄ひ、方技に精し、教授の暇、又濟世の説を以て、■(彳+扁:::大漢和10174)く世に施す、回春の聲價、崎■(奧/山:::大漢和8542)に振ふ、
塵隱、平生敦實、人を教へて倦まず、人之を推尊し、以て郷師と爲す、從學する者殆んど七百人あり、長崎の地、郷師ありてより、未だ嘗て此の如く、徒弟の盛なるを見ず、
塵隱、醫を行ふ、苟も請に應ぜず、設し劑を投ずるあれば、驗あらざることなし、僉良功と曰ふ、窮乏の者の爲に、藥と餌とを施し、其報幣を受けず、乃ち曰く我が餘あるを損し、子の足らざるを補ふ、是れ天の道なりと、
塵隱、終身妻妾を納れず、官吏に交らず、貨殖を欲せず、厚養を好まず、然れども生計に勞せず、衣食常に足る、書畫を玩び、琴酒を弄し、情に適して終る、
塵隱、志を音韻に留め、律呂調聲に於て、該通せざることなし、最も華音に達し、旁ら杭閔の方言土語に及ぶ、悉く皆記得す、舶來の清客と對語するに、通詞を用ひず、當時譯を以て崎に聞ゆる者、多くは皆授受の者に係る、
塵隱、歳四十を踰え、自ら熈々子と號す、三樂堂を丸山に築き、世榮を廢棄す、葛巾野服、恬澹自娯、婦人兒輩と雖も、其名を知らざる者なし、稱して熈々子先生と爲す、
塵隱、寛文元年辛丑五月某日を以て生れ、正徳三年癸巳正月七日を以て沒す、歳五十三なり、病間句あり、

貪り看る風月青山の影、若かず流を遡つて歸り去り來るに(*貪看風月青山影、不若遡流歸去來)
其灑落以て想ひ見るべし、門人相議して、茶臼山中に葬る、私に思靖先生と諡す、
塵隱、著す所、内丹要訣醉郷醒語各一卷、平生作る所の詩文草稿若干卷あり、姪に遺囑して之を焚かしむ、隻言半句も後に傳ふること勿れと、侃之を灰燼にするに忍びず、編次して詩四卷・文六卷と爲し、題して三樂堂遺稿と曰ひ、之を刊行す、盧草拙岡島冠山等、之が序を作る、


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鳥山芝軒
名は輔寛、字は碩夫、芝軒と號し、又鳴春と號す、通稱は五郎太夫、伏見の人なり、

芝軒は、新田の庶族なり、伊賀守里見義成の第三子時成、上野鳥山の莊に居るを以て、鳥山三郎と稱す、是を鳥山氏の始祖と爲す、其曾孫太郎家成、元弘中、新田義貞に從ひ、鎌倉を討ず、是より而後、南朝に左袒し、屡〃武功あり、室町幕府の海内を統制するに及びて、新田の衆族、流離播遷し、所在聞ゆるなし、其後裔輔成といふ者あり、伏見に居る、乃ち芝軒の祖なり、
芝軒の父輔忠、字巽甫、鶴仙と號し、又入齋と號す、通稱は孫兵衞、伏見の人なり、東福門院に給仕し、從五位下に敍し、若狹守に任ず、臨池の癖あり、所謂御家流なる者を學び、別に機軸を出す、寛文中、旨を奉じて、萬歳の御旗、禁城の下馬牌等を書す、能書の聲、朝野を振傾し、從遊する者衆し、今に至りて其遺墨世に珍重せらると云ふ、
芝軒、少壯より歌詩を好み、唐人に刻意し、專ら詩を作るを以て、生徒に教授す、常に三體・唐詩・杜律集解・唐詩訓解等を講説し、此を以て門戸を作し、自ら稱して詩人と爲す、〔按ずるに、是より先き、石川丈山平巖仙桂・僧元政等、目するに詩人を以てすと雖も、皆經史を講じ、子弟に教授す、未だ曾て唐詩を講説するを以て專業と爲す者あらず、元禄・寶永の間、芝軒始めて之を首唱す、〕
芝軒、我土の詩人に於て、元政を愛慕し、常に草山集を誦して措かず、嘗て曰く、丈山は、詩歌を以て一世に著聞すれども、未だ我土の風習を免るゝ能はず、元公に至りては、復た華人の聲調に異なるなしと、
芝軒の詩、僧元政上人の墓を過ぐる詩あり、云く、

政公墳墓在り、傳ふ是れ此に栖遲すと、三年の竹有るを除けば、終に隻字の碑無し、人は高しとす霞谷の隱、我は愛す草山の詩、重ねて過ぎ留題して去る、祇だ應に地下に知るべし (*政公墳墓在、傳是此栖遲、除有三年竹、終無隻字碑、人高霞谷隱、我愛草山詩、重過留題去、祇應地下知)
〔自注に云ふ、上人は浮屠氏、詩に工なる者なり、嘗て深草山の霞谷に隱る、今墓あり、其舊庵の側にあり、只だ植竹三竿を植ゑ、別に碑碣を存せず(*と)、〕
龍草廬南遊草に、交蘆主人を訪ふ詩一首を載す、蓋し主人は芝軒の裔孫にして、名は輔世、字は長民、交蘆と號する者なり、其子孫今伏見に住すと云ふ、〔其詩に云く、 交蘆庵は大江の邊に在り、三世の風流昔賢を認む、況や主人沽酒の設有り、醉て吟ず御覽舊時の篇 (*交蘆庵在大江邊、三世風流認昔賢、況有主人沽酒設、醉吟御覽舊時篇)、 其引に云く、主人鳥山氏は、巽甫・芝軒・香軒三先生の裔なり、今や衰ふと雖も、舊風猶ほ存す、昔は芝軒先生伏見に在り、詩を以て海内に鳴るは、世の遍く知る所なり、公美(*龍草廬)伏見に生れ、飽くまで先生の名を聞き、欽慕すること久し、而も時異にして相見るを得ず、以て憾となす、今や主人を訪ひて、其志を語り、則ち以て少しく慰するに足る、矧んや主人情■(疑の偏+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)の切なる、豈悦ばざらんや、最後に主人靈元上皇御覽ずる所の芝軒の詩を出して、公美をして拝觀せしむ、即ち驚歎の餘、小詩を賦す(*と)、〕 又交蘆の爲めに、橋梓聯璧の序を作りて云く、古より今に至り、橋梓美を■(女偏+篦の旁:::大漢和6571)ふ者極めて尠し、實に崑山の玉、桂林の枝なり、然れども鳥山氏の父子、雙美を一家に聯璧にす、蓋し世の遍く知る所なり、父巽甫翁は則ち寫字、子芝軒翁は則ち詩藻、所謂崑玉桂林なる者か、非か、夫の巽甫翁の勅を奉じて、萬歳の御旗と禁門の下馬牌とを書し、芝軒翁の、幕府より盛藻を賜りて之を褒賞し、朝廷、吟稿を御覽ずるが若きは、則ち人世の至榮なり、百年以降、海内嘖々として、人口に膾炙するもの亦宜ならずや、之を父に有して、之を子に有すと謂ふべし、豈盛ならずや、其後裔輔世、余に從て遊ぶ、此に年あり、其才清灑、蓋し乃家の風あり、今二翁の手澤を採り、卷と爲して家に藏す、余をして言あらしむ、余素と其橋梓■(女偏+篦の旁:::大漢和6571)美を景慕する者久し、敢て其請を辭せず、以て敍すること爾り(*と)、
芝軒、詩學を以て世に喧傳すと雖も、其作爲する所、今體絶律に過ぎず、原雲溪と其歩趨を同じくす、今其集を讀むに、聲律格調遠く雲溪に及ばず、其詩學は之に過ぐ、其著す所、芝軒略稿五卷・芝軒吟稿七卷・和山居詩一卷あり、皆之を刊行す、
芝軒、其沒年を詳にせず、今集中に就きて之を檢考するに、元禄壬午十一月四日冬至、正に余が四十八生辰に當る、時に病の愈ゆるに逢ひ、喜んで作ありの詩あり、是を以て此を推すに、蓋し明暦元年乙未十一月四日を以て、伏見に生れ、正徳五年乙未春某の月日を以て、平安に沒す、歳六十一なり、終に臨み、男輔門に示す詩に云く、
末後の風光簀を易るの時、五位位を失ひ已に持し難し、兒を呼びて遺囑す何事に縁る、菽水慇懃に母慈に奉ぜよ (*末後風光易簀時、五位失位已難持、呼兒遺囑縁何事、菽水慇懃奉母慈) (*と)
〔余集中を考ふるに、其卒年を記する已に此の若し、最後田中富春が芝軒の傳を得たり、故に此に附載す、曰く、吾國百年風雅繁茂し、千古の調を追還す、村野市井の間、藻繪菁華の士、多く其身を寄す、是れ文明の化の然らしむる所にして、昇平の光なり、余聞く伏江の隱士、鳥山輔寛、字は碩夫、鳴春と號する者、詩極めて精練にして、四方の向慕する所と爲ると、且つ其詩を見て、世の耳剽目■(手偏+又4つ:てつ・たつ・せつ:拾い集める・抜き取る:大漢和12241)の輩と其調を同じうせざるに感ず、■(施の「也」を「冉」にする:::大漢和13664)れに加ふるに、家屡〃空しくして、禄仕を爲さず、權貴に折腰せず、高吟自得、得失の外に放浪す、男輔門其母と枯澹に安んず、門庭瀟洒たり、後、水の爲に家を蕩し、移つて浪華に居る、時に一藩侯、輔寛の招致すべからざるを以て、特に輔門を聘す、其意輔寛をして、武陵に遊ぶを欲せしむるに在り、遂に以て相見んと、輔門先づ往く、是に於て輔寛・輔門の禄を得るの故を以て、遂に武陵に到る、侯喜ぶこと甚しく、厚■(疑の偏+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)最も盡せり、日ならずして辭し歸る、輔門も幾くもなく亦致仕す、是より而後、徴命を杜謝し、生徒に教授す、弟子益々衆し、毎歳初春・中秋・除夜の作を纂し、世に梓行し、以て社盟を修む、偶〃猶村西疇を伴ひ、箕山の瀑布を觀、大に胸塊を盪す、醉中扇面に書す、西疇其扇を乞ひ得て、以て家珍と爲す、輔寛、行年六十一歳にして家に沒す、輔門、其徒と相謀つて其遺稿を編し、名づけて芝軒吟稿といふ、輔門、其業を墜さず、孜々として教授すること若干年、一たび病んで起たず、歳僅に四十餘なり、西疇今余が社中に遊ぶ、一日舊藏の扇頭の詩を出し、以て題跋を求む、余時に求に應ず、於戲、關以西の風雅、特に鳥山氏父子を推して巨擘と爲す、況んや卓然として高尚の操ある者は、石川大拙の後、其れ誰ぞや、余豈樂んで此が爲に記傳を作らざらんや、〕
芝軒の男輔門、字は通徳、香軒と號す、通稱は岡之助、京師の人なり、詩風、乃父に似たり、香軒吟稿六卷・香軒遺稿二卷を著す、皆之を刊行す、


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原雲溪
名は龍鱗、字は魯子、雲溪と號す、通稱は玄蕃、平安の人なり、

雲溪は、小笠原氏なり、修して笠原氏と爲す、後、再び修して原氏と爲す、近世物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園服赤羽の輩、李王修辭の説を以て一時を風靡せしより、鼓動の士、其の爲す所に傚うて、複姓を斷裁し、修して單と爲す者極めて多し、今に至りて操觚の徒、概ね以爲く、其事正徳・享保の間より始まると、其實既に元禄・寶永の間に在り、雲溪を以て之が發端と爲す、
建■(嚢の冠+咎+木:こう:武具を入れる袋・弓嚢・鎧嚢とも:大漢和15818)而還、文學■(宀/浸:::大漢和7253)く闡けて、鴻匠輩出し、其人に乏しからず、然りと雖も、只だ詩藻を以て生徒を教道する者は、是より先き、未だ曾て之あらず、專ら此技を以て一家を作すは、雲溪及び芝軒(*鳥山芝軒)のみ、
世に詩人と稱する者、輦轂の地、芝軒・雲溪を以て、之が首唱と作す、江邨北海龍草廬の輩に至つては、其拙劣を極むと雖も、聲價、經義・文學の士と雁行する者は何ぞや、一首沈吟の詩、勞せずして自ら世人の耳に入る、半行間の揮毫、煩はすことなくして、能く俗士の眼を娯ましむ、潤筆收め易く、謝資速に至る、是を以て詩人と稱する者、極めて多し、其徒博く經史に通ずる能はず、僅に法を李・杜・蘇・陸に誦し、寡陋自ら甘んじ、傲然として恥づる所を知らず、此弊近時に至りて、輦轂の地、曁び大阪・江戸を論ぜず、諸方皆然り、雲溪才氣あれども、惜しいかな、時習の爲に錮せられ、遂に詩人を以て世に知らる、
物徂徠、嘗て雲溪を評して、以て石川丈山の流亞と爲す、詩風五山叢林の徒と相伯仲するのみ、其體格聲律は、以て論ずるに足らずと雖も、亦近時の人の及ばざる所なり、
雲溪、室鳩巣の才學に心服し、一たび之と交らんと欲するも、相見るに由なし、言を金澤の諸勝を探るに托して、將に北加賀に遊ばんとす、時に鳩巣、加賀に在り、嘗て京師を發して、程に上ること數日、會〃同行の人、病んで歩を進むることを得ず、雲溪、義棄つるに忍びず、之を扶持して、半途にして還る、旅費半を亡ふ、故を以て再び抵る能はずして罷む、鳩巣聞きて歎じて曰く、將に余を數百里の外に顧みんとし、旅裝途に上り、同行の病を視て、其志を果さずして還る、事を以てすれば則ち偉なり、義を以てすれば則ち高し、古人と上下するに庶幾し、今の世絶えて無くして僅に有る者と謂ふべしと、
雲溪、性最も強記、常に唐詩一千首を暗誦す、嘗て一貴紳の坐に在りて、話、唐高僧の事蹟に及び、明人毛晉が校刻する所の、唐三高僧詩集一卷を背誦す、貴紳、卷を把りて之を聽くに、一詩を差へず、
雲溪、愛妾あり、名は都留、國訓鶴と同じ、常に戲れて鶴を愛すと謂ふ、都留病んで暴に沒す、惓■(立心偏+遣:::大漢和に無し。)の情に堪へず、失鶴の詩一首を作りて之を悼む、其事一時に傳播して、人口に膾炙す、詩に云く、

化禽一旦塵區を出で、絶境空く餘す老腐儒、千里風を搏ちて碧落を凌(*原文「三水+凌の旁」に作る。)ぎ、九皐月に唳で仙都に向ふ、松巣影動て猶ほ在るかと疑ひ、■(艸冠/惠:::大漢和31968)帳眠驚て誤て呼ばんと欲す、遺愛未だ全く舊主を忘れず、別來夢を引て蓬壺に入る (*化禽一旦出塵區、絶境空餘老腐儒、千里搏風凌碧落、九皐唳月向仙都、松巣影動猶疑在、■帳眠驚誤欲呼、遺愛未全忘舊主、別來引夢入蓬壺)
幾くもなくして、雲溪も亦世を謝す、其方外の友、僧不識といふ者あり、韻を歩して云ふ、
清標端重靈區に止み、眼を曝す螢■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)隱逸の儒、婦は■(青+見:::大漢和42575)妝を謝して樂地に入り、翁は文■(陷の旁+炎:::大漢和19395)を輝して京都に鳴る、風間に楓葉心無くして落ち、日暮て鳥聲我が爲に呼ぶ、生死未だ知らず一唱に堪たり、誰か千歳を經て方壺に到ん (*清標端重止靈區、曝眼螢■隱逸儒、婦謝■妝入樂地、翁輝文■鳴京都、風間楓葉無心落、日暮鳥聲爲我呼、生死未知堪一唱、誰經千歳到方壺)
皆其實を記するなり、
太宰春臺紫芝園漫筆に云ふ、笠原先生といふ者あり、詩を以て京師に名あり、嘗て失鶴の詩を作る、云々、余寶永甲申を以て京師に遊ぶ、僧雲峯といふ者は、笠原の徒なり、余因て笠原の詩を問ふ、雲、時に此詩を誦す、余曰く、此れ笠原の詩か、雲曰く然り(*と)、余曰く、此れ詩學大成品題の詩に非ずと、雲、■(弗+色:ほつ・ぼう・ふつ:気色ばむ・怒る:大漢和30606)然たり、享保癸卯に■(之繞+台:たい・だい:及ぶ:大漢和38791)び、僧眞解といふ者あり、京師に遊ぶより至り、盛に稱す、笠原は良眞の師なりと、因て其詩を見んと請ふ、眞、此詩を出して以て之を示す、良眞蓋し譏る無し、他日余に語りて曰く、失鶴の詩は如何と、余曰く、此れ余の二十年前覩記する所なり、嘗て聞く、笠原詩を作り、得意に非ざれば、敢て人に示さずと、豈に二十年來、更に他の作なからんや、度るに、彼已に六十左右なり、則ち是れ一生の佳境、此に出でざるのみ、然れども其詩を以て海内に名あるは何ぞや、世吠聲の徒多くして、■(虍/丘:::大漢和32700)譽の人を動せばなり、噫、又云ふ、笠原先生自ら言ふ、唐詩二萬首を記すと、若し其れ信に然らば、則ち是人の詩に於ける、知識無しと謂ふべし、宜なるかな、其自運に拙なるやと、今按ずるに、春臺の此言■(此+言:し:謗る:大漢和35344)詆を極むと雖も、其の當時に在りて、雲溪詩名の高きこと、以て想見るべし、
雲溪、未だ卒年の月日を詳にせず、蓋し享保中、六十餘にして沒するなり、雲溪集を按ずるに、庚戌春盡前三日、鷲峯亭に遊ぶ詩を載す、庚戌は享保十五年なり、其の沒する、蓋し庚戌の後に在り、又永正海和尚の結成滿を慶び、兼ねて如山長老楞嚴の講畢るを賀する詩あり、門人野春の註に云ふ、永正禪寺は、洛西の物集邑に在り、先生の高祖、筑前守小笠原善次の創建する所なり、是を以て先生の家世々これを崇ぶ、乙巳の夏、住持乾海師、齋會を施設し、雲衲千僧を安撫す、其徒如山、楞嚴經を講説し、九旬にして畢る、故に之を祝慶すと、是に由りて之を觀れば、雲溪沒する後、蓋し此に葬る、姑く録して以て後人の探捜を俟つ、〔雲溪遺詩、幾んど千首に及ぶ、野春、古今體三百首を選びて四卷と爲す、桐葉篇と名く、剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)未だ成らず、春、病に罹りて起たず、書估梅村秀信能く其志を繼ぎ、又竹溪遺稿一卷を附載す、倶に世に行はると云ふ、野春名は泰和、竹溪と號す、京師の人なり、〕


先哲叢談續編卷之三


 松下見林  松下真山  羽黒養潜  栗山潜鋒  国造塵隠  鳥山芝軒  原雲渓
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