貞心と千代と蓮月 —貞心尼—
相馬御風
(春秋社 1930.2.20)
※ (*入力者注)
緒言
目次
良寛に愛された尼貞心
貞心尼雜考
加賀の千代
千代尼雜考
我觀蓮月尼
【古典テキスト】
貞心尼遺稿(蓮の露、他)
千代尼句抄
蓮月尼歌抄
*口絵4頁。 @「千代尼の自畫自讃」A「富岡鐵齊(*ママ)畫蓮月尼像」(伴時彦著蓮月尼の人と歌より)B「蓮月尼畫讃」(村上素道氏著蓮月尼全集所載)C「貞心尼の辭世と絶筆」(柏崎圖書館藏)
緒言
○先年來私が良寛和尚に愛された尼貞心についていろ\/しらべたり考へたりしてゐた間に、兎角何かにつけて私の聯想をよび起したのは、加賀の千代女と、京の蓮月尼とであつた。そこで私はこれをいゝ機會として、此の二人の女性についての私の考を一通り纏めて置く氣になつて、いろ\/と讀んだり考へたりした結果出來上つたのは本書である。
○本書に收めた文章は「良寛に愛された尼貞心」以外凡て未發表のものである。さゝやかなものではあるが、私はかなりな日子をその爲に費した。
○なほ本稿をまとめる爲に、貞心尼に關しては越後の上杉涓潤、高野智讓、桑山太市、野口精一の諸氏、千代に關しては、加賀の殿田良作、藏月明の二氏を煩はしたこと多大であつた。深く感謝する所以である。(昭和五年一月二十五日著者記)
目次
良寛に愛された尼貞心
貞心尼雜考
-------------------
加賀の千代
千代尼雜考
-------------------
我觀蓮月尼
-------------------
貞心尼遺稿
千代尼句抄
蓮月尼歌抄
良寛に愛された尼貞心
一
古來男女の間に唱和された歌で廣く世に知られてゐるものは、無論少なくない。しかし、今日までに私自ら讀んだものでは、萬葉集中の少數を除く外は、その表現の切實味を以て胸をうつやうな作には、あまり多く接することが出來なかつた。
ところが、十數年前はじめて良寛和尚の歌を讀み、その中に彼と彼の最愛の弟子貞心尼との間に唱和された五十餘首のあつたのに接して、私はかくも淳眞な、かくも切實な、かくも無礙な、かくも温かな、そしてかくも清らかな男女間の愛の表現があり得るものかと驚嘆措く能はなかつたのである。
そも\/此の良寛貞心唱和の歌は、良寛歿後貞心尼が苦心蒐集した良寛歌集「蓮の露」の終りに添へてあるものであつて、これほど數多く男女唱和の歌が一まとめにしてあるといふ點でも、古來あまり多くその類を見ないところであらう。
それには尼貞心が僧良寛と初めて相識つてから、最後に良寛の死によつて永遠の別れを告げたまでの間に、兩者の間に詠みかはされた歌の大部分がしるされてゐる。そしてその歌集の序文のをはりに貞心尼自ら
「こは師のおほんかたみと傍におき朝夕にとり見つつ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ。」
と云つてゐるやうに、もと\/それは彼女みづからの追憶の料としてしるし集めたものであつた。そこに此の集に對して一段のゆかしさを私達に覺えさせるものがある。
さて然らばその良寛貞心唱和の歌といふのはどんなものであらうか。先づこゝにその殆全部を掲げて置くことにする。
師常に手毬をもて遊び玉ふときゝて
これぞ此のほとけの道に遊びつつ撞くやつきせぬみのりなるらむ
貞心尼
御かへし
つきて見よひふみよいむなここのとをとをとをさめて又始まるを
良寛
はじめてあひ見奉りて
君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ
貞心
御かへし
夢の世にかつまどろみて夢をまた語るも夢もそれのまに\/
良寛
いとねもごろなる道の物がたりに夜もふけぬれば
白たへのころもで寒し秋の夜の月なか空にすみわたるかも
良寛
されどなほあかぬここちして
向ひゐて千代も八千代も見てしがな空行く月のこと問はずとも
貞心
御かへし
心さへ變らざりせばはふつたのたえず向はむ千代も八千代も
良寛
いざかへりなむとて
立ちかへりまたもとひこむ玉鉾の道のしば草たどり\/に
貞心
又も來よ山のいほりをいとはずば薄尾花の露をわけ\/
良寛
ほどへてみせうそこたまはりけるなかに
君や忘る道やかくるるこのごろは待てどくらせど音づれもなき
良寛
御かへしたてまつるとて
ことしげきむぐらのいほにとぢられて身をば心にまかせざりけり
貞心
山のはの月はさやかにてらせどもまだはれやらぬ峰のうすぐも
同上
こは人の庵に在し時なり
御かへし
身をすてゝ世を救ふ人もますものを草の庵にひまもとむとは
良寛
久方の月の光のきよければ照しぬきけりからもやまとも
良寛
昔も今もうそもまこともはれやらぬ峰の薄雲たちさりてのちの光とおもはずや君
良寛
(*「昔も…まことも」は題詞か。後述の引用では長歌の一部。)
春の初つかたせうそこ奉るとて
おのづから冬の日かずのくれゆけば待つともなきに春は來にけり
貞心
われも人もうそもまこともへだてなくてらしぬきける月のさやけさ
同上
さめぬればやみも光もなかりけり夢路をてらす有明の月
同上
御かへし
天が下にみつる玉よりこがねより春のはじめの君がおとづれ
良寛
手にさはるものこそなけれのりの道それがさながらそれにありせば
同上
御かへし
春かぜにみ山の雪はとけぬれど岩まに淀む谷川の水
貞心
御かへし
み山べのみ雪とけなば谷川によどめる水はあらじとぞ思ふ
良寛
御かへし
いづこより來(*春)はこしぞとたづぬればこたへぬ花にうぐひすのなく
貞心
君なくば千たび百たび數ふとも十づゝ十をももとしらじを
貞心
御かへし
いざさらばわれもやみなむこゝのより十づつ十をもゝと知りなば
良寛
いざさらばかへらむといふに
りやうぜんの釋迦のみ前に契りてしことな忘れそ世はへだつとも
良寛
りやうぜんの釋迦のみ前に契りてしことは忘れず世はへだつとも
貞心
聲韻のことを語り玉ひて
かりそめのこととおもひそこのことば言の葉のみとおもほゆな君
良寛
いとま申すとて
いざさらばさきくてませよほととぎすしば鳴く頃はまたも來て見む
貞心
浮雲の身にしありせば時鳥しばなく頃はいづこに待たむ
良寛
秋萩の花さく頃は來て見ませいのちまたくば共にかざさむ
同上
されど其ほども待たず又とひ奉りて
秋萩の花咲くころを待ちとほみ夏草わけて又も來にけり
貞心
御かへし
秋萩のさくをとをみと夏草の露をわけわけとひし君はも
良寛
…中略…
ある時與板の里へわたらせ玉ふとて、友だちのもとより知らせたりければ急ぎまうでけるに、明日ははやこと方へわたり玉ふよし、人々なごりをしみて物語り聞えかはしつ(*つ)打とけて遊びける中に、君は色くろく衣もくろければ、今より「からす」とこそまをさめと言ひければ、げによく我にはふさひたる名にこそと、打笑ませ玉ひながら
いづこへも立ちてを行かむあすよりは鴉てふ名を人のつくれば
良寛
とのたまひければ
山がらす里にいゆかば子がらすもいざなひてゆけ羽よわくとも
貞心
御かへし
いざなひて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし
良寛
御かへし
鳶は鳶雀は雀さぎはさぎ烏はからす何かあやしき
貞心
日もくれぬれば宿りにかへり、又あすこととはめとて
いざさらばわれはかへらむ君はここにいやすくいねよ早あすにせむ
良寛
あくる日はとくとひ來玉ひければ
歌やよまむ手毬やつかむ野にやいでむ君がまに\/なして遊ばむ
貞心
御かへし
歌もよまむ手毬もつかむ野にも出む心ひとつをさだめかねつも
良寛
秋は必おのが庵をとふべしと契り玉ひしが、心地例ならねばしばしためらひてなど、せうそこたまはり
秋萩の花のさかりもすぎにけり契りし事もまだとけなくに
良寛
其後はとかく御心地さやぎ玉はず、冬になりてはたゞ御庵にのみこもらせ給ひて、人々たいめもむづかしとて、うちより戸ざしかためてものし給へる由、人の語りければ、せうそこ奉るとて、
そのままになほたへしのべ今さらにしばしの夢をいとふなよ君
貞心
と申し遣しければ、其後たまはりける言葉はなくて
梓弓春になりなば草の庵をとくとひてまし逢ひたきものを
良寛
かくてしはすの末つかた、俄に重らせ玉ふよし人のもとより知らせたりければ、打おどろきて急ぎまうでて見奉るに、さのみ惱ましき御けしきにもあらず、床の上に座してゐたまへるが、おのがまゐりしをうれしとやおもほしけん
いつ\/と待ちにし人は來たりたり今はあひ見て何か思はむ
良寛
むさしののくさばの露のながらへてながらへはつる身にしあらねば
同上
かゝればひる夜、御片はらに在りて御ありさま見奉りぬるに、たゞ日にそへてよわり行き玉ひぬれば、いかにせん、とてもかくても遠からずかくれさせ玉ふらめと思ふにいとかなしくて
生き死にの界はなれて住む身にもさらぬ別れのあるぞ悲しき
貞心
御かへし
裏を見せおもてを見せて散るもみぢ
良寛
こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへの玉ふいとたふとし。
何といふ純眞な愛の表現であらう。「いざさらばわれはかへらむ…」の如き、「歌やよまむ手毬やつかむ…」の如き、或は「梓弓春になりなば…」の如き、さては「いつ\/と待ちにし人は…」の如き、よむ度毎に私達はその情緒のみづみづしさと、温かさと、清さとに感動させられずにはゐられぬのである。而もそれが七十歳の老僧と、三十歳の美しい尼との間にとりかはされた愛の表現であることを思ふ時、私達はそこになみ\/ならぬ清い愛の世界の展開を想はずにゐられぬのである。
甞て私は此の二人の關係について書いた折にも云つたやうに、この七十歳の老法師と三十を越えたばかりの此の尼僧との關係は、一面に於ては正に佛門に於ける師弟の交りであつた。又同時にそれは歌の道、藝術の世界、美の天地に於ける師弟でもあり、又道づれでもあつた。而も現身の人間としての兩者の關係は、或時は親子のそれであり、或時は兄妹のそれであり、或時は最も親しき心友のそれであり、更に或時は最も清い意味での戀人のそれでさへもあつたらう。清くして温く、人間的にして而も煩惱の執着なく、靈的にして而も血の通つた、美しく尊く、いみじき愛—まつたく私はいつも此の良寛と貞心との交りをおもふ毎に、何ともいへない心のうるほひに充たされるのである。
齋藤茂吉氏も甞てその著「短歌私鈔」の中で此二人の交りについてこんなことを云つてゐた。
「良寛と貞心との因縁は極めて自然である。この事を思ふ毎に予はいゝ氣持になる。良寛は貞心に會つてます\/優秀なる歌を作つた。その歌は寒く乾き切つたものでなく、戀人に對するやうな温い血の流れてゐるものである。人間は生の身であるから、いくら天然を愛したとて、天然は遠慮なく人間に迫つて來る。そこにゐて心細くないなどゝいふのは虚である。良寛は老境に達してから淨い女の貞心から看護を受けた。本當の意味の看護である。良寛にとつては、こよなき Gerokomik の一つであつたらう。世に尊き因縁である。」
この齋藤氏の見方には、私達も眞に同意することが出來る。いかにもそれは世にも稀な尊い因縁であつたのである。
良寛和尚の美しい生涯を考へる上に、私はどうしても此の最晩年に於ける和尚と貞心尼との交りをおろそかにすることは出來ないと同時に、良寛和尚の生活に對すると同じく貞心尼その人の生活に對してもやみがたい興味をおぼえるのである。
二
然らば、良寛和尚のやうな人に、あれまで深く愛された貞心尼とは一體どんな人であつたらうか。
貞心尼—彼女はもと越後長岡の藩士奧村五兵衞といふものの女であつた。寛政十年に生れた。兄弟は一二人あつたらしいがよくわからぬ。又俗に居た時の彼女の名も今は知るよしもない。しかし、彼女が非常な美人であつたこと、そしてその美貌ゆゑに十七八歳の頃同國魚沼郡小出郷の醫師關長温(?)に望まれてその許に嫁したこと、そして同棲六七年で愛する夫に死なれた爲に實家に歸つたこと、それから間もなく柏崎に來て剃髪の身となつたことなどは、ほゞ明らかな事實である。
彼女の美貌であつたことは、彼女が後半生を住み暮した柏崎で今日でもなほ廣く語り傳へられて居ることによつてたしかであるが、更に私は彼女の遺弟で今なほ柏崎釋迦堂の庵主として生きながらへて居る今年七十七歳の高野智讓老尼の直話によつてもたしかめることが出來た。
此の智讓尼にとりては貞心尼は唯一の受業師でもあり、且七歳から二十歳まで十四年間起居を共にしてゐたのでもあるから、その語るところには充分信をおいていゝわけである。智讓尼は云つた。
「わしらが庵主さんほど器量のえい尼さんは、わしは此の年になるまで見たことがありませんのう。」
かう云つてから老尼は更に心にその面影を想ひ浮べでもするやうに靜に眼をとぢながら、
「何でもそれは目の凛とした、中肉中背の、色の白い、品のえい方でした。わしの初めておそばに來たのは庵主さんの六十二の年の五月十四日のことでしたが、そんなお年頃でさへあんなに美しくお見えなさつたのだもの、お若い時分はどんなにお綺麗だつたやら…」
といふやうなことも話した。
さうした話を聞いて、更にそのやうな美しく生れた女人が、二十五六の若い盛りにどうして出家剃髪の身とならなくてはならなかつたかをおもふと、私はそこにいろ\/の涙ぐましい光景を想像せずにはゐられぬのであるが、しかし、今日までに私の知り得た限りでは、彼女の出家は主として愛する夫に死に別れた悲嘆の極の厭世からであるといふ漠然とした消息以上には出ないのである。
尤も、彼女の生家である奧村家からは、彼女以前に越後西蒲原郡燕村萬能寺十三世の住職であつた光大和尚といふ禪僧をも出して居るといふことであるから、彼女の出家も全然無因縁のことでもなかつたらしい。このことは良寛和尚の場合に於ても同樣である。
兎に角二十四五の年頃で愛する夫に死なれ、いやし難い悲みを胸に包んで生家に戻つて來た彼女が、つひに自ら意を決して出家遁世の一路に進んだことだけは明らかである。つまり彼女の出家は他から強ひられたものでなくして、彼女自らのやむにやまれぬ要求からであつたのである。その點では貞心尼の出家は蓮月尼のそれと甚だよく似て居る。而も蓮月尼も貞心尼も共に非常な美人であつたといふことも面白い。
それにしても貞心尼が何故自分の剃髪の地として特に柏崎を選んだかといふに、それにはかうした因縁がある。それは彼女がまだ長岡の生家に愛育されてゐた頃のことであつた。彼女の家の隣家に柏崎の佐藤彦六といふものゝ娘が女中奉公をしてゐた。その女は少女時代の貞心を殊の外かあいがつて、時々柏崎の話をして聞かせた。わけても長岡では見ることの出來ない海についてのいろ\/の話が、少女の好奇心をそゝらずにはゐなかつた。そして彼女の十二歳の時、つひにその海に對するあこがれに驅られて、彼女は隣家の女中に連れられて柏崎へと海を見に出かけた。初めて見た海の光景は、彼女にとりてはたしかに一種の驚異であつた。就中柏崎郊外の中濱といふところにあつた藥師堂附近の明媚な風光が、兎角物に感じ易かつた彼女の心に消し難い印象をのこした。「いつまでも\/こんなところにゐたいものだ」といふやうなその土地に對する愛着が其の場合彼女の胸に湧き起つたのであつた。
こんなわけで、後年彼女が人生の無常を感じて出家遁世の志を抱くやうになつた際にも、先づ第一に彼女の心に描き出された隱棲の地はその柏崎郊外の藥師堂であつた。しかし、さうした切なる願望を抱いて彼女が其の中濱の藥師堂を訪ねた時には、折あしくそこの庵主は不在であつた。と云つて一旦發念した出家の志をそのまゝ抑へていつまでも安閑としてゐるわけにもゆかなかつたので、彼女は勸める人のあるにまかせて矢張柏崎郊外の下宿村新出(しで)の山といふところに庵を結んでゐた眠龍、心龍の二人の尼僧を訪ねて、そこでいよ\/剃髪の身となつた。(因にいふ、貞心剃髪の新田の山の庵室はその後眠龍、心龍の兩尼が柏崎の釋迦堂に移つてからはひどく廢頽して今日ではその跡方もないといふことである。)
二十五歳の若さで、しかも人並すぐれた美貌の持主であつた剃髪當時の貞心は、兎角土地の人々の噂の種となつた。師匠の命令で山へ薪採りに行つたりすると、村の人達が目をそばだてゝこそ\/何かさゝやき合つたりしてかなりうるさかつたといふ話である。そしていつの間にか村人達の間に「姉さ庵主(あんじゅ)」といふ仇名さへ云ひふらされるやうになつた。
此の眠龍、心龍兩尼の受業の下に、貞心は二十七歳の頃まで苦しい修行をつゞけた。そして二十八歳(?)の時に師の許を離れて古志郡福嶋村の閻魔堂に住むことになつた。福嶋は彼女の郷里長岡からは僅に二里を隔てたところであるから、彼女がそこに住むやうになつたのも郷里に近いといふことが一つの原因でもあつたとおもふ。
此の福嶋の閻魔堂に貞心尼は十餘年間住んでゐた。年齡からいふと二十七八歳頃から四十歳前後までゞある。而もその十餘年間が貞心尼にとりては一生涯中での最意義あり、且最光輝ある時代であつた。彼女が初めて良寛和尚に見えたのも、兩者の間に世にも稀なる美しい交りの結ばれたのも、又彼女が良寛和尚の死に遭つたのも、實にその間のことだつたからである。
三
貞心尼が初めて良寛和尚に見えたのは、前にも述べた如く彼女の二十九歳の時であつた。その時良寛は既に七十歳の老齢に達してゐた。そしてそれは丁度彼が三嶋郡嶋崎村の木村家邸内の小庵に移り住んだ年であつた。
これより先良寛和尚は四十五六歳の頃から六十歳まで十五年ほどの間かの國上山の中腹にあつた五合庵に孤住して居り、六十一歳の時に老衰の結果薪水の勞に堪へられなくなつたので山を下つて山麓國上村乙子神社境内の草庵に移り十年間そこに住んでゐたのであつた。しかし、
行く水は
せけばとまるを
高山は
こぼてば岡となるものを
過ぎし月日のかへるとは
ふみにも見えず
現そみの人にもきかず
いにしへもかくしあるらし
今の世もかくぞありける
後の世もかくこそあらめ
かにかくにすべなきものは
老にぞありける
ねもごろのものにもあるか年月は山の奧までとめて來にけり
と彼みづからも嘆じたやうに、いかに世を捨て去つた身の上にも、老いの波の寄せて來ることは避け難かつた。山中の孤獨と寂寥とを愛する心は年一年深まつて行つたにも拘らず、肉體の老衰はつひにそれをゆるさなかつた。甞ては孤獨と寂寥とを求めて一歩々々人里から遠ざかつて行つた彼ではあつたが、今は反對に一歩又一歩人里へと近づいて來なければならぬ彼であつた。そして最後に彼が人里の中に、あたゝかな人間愛のうちに自らの老躯を投げ出したやうな形で、嶋崎村の木村家邸内に身を寄せることになつたのが其頃の良寛の生活状態であつた。
さうした光景の中へ、折よくも現はれたのは二十九歳といふ若さと人並すぐれた容貌の美しさとを備へた尼貞心であつた。而も彼女はそのやうな肉體の美しさの上に、稀に見る堅固な道心を持つて居り、且それまでに交つた誰よりもすぐれた歌ごゝろと洗練された趣味とを持つてゐた。さらでだに老の悲みの爲に心弱くなつてゐた良寛が、一見直に貞心に向つてなみ\/ならぬ愛を寄せるやうになつたのは、自然すぎる程自然なことであつた。
前にも云つたやうに、貞心尼はその頃は長岡在福嶋村の閻魔堂にたゞ獨で住んでゐた。若い美しい尼がたゞ一人で、あの怖ろしい顔をした閻魔大王と共に、荒れ果てた堂内に住んでゐた光景を想像すると、何ともいひやうのない尊い感にうたれる。
當時貞心も良寛和尚と同じやうに、その生活は托鉢だけによつて支へられてゐた。現存してゐる貞心の遺弟智讓老尼の話によると、貞心のゐたそのその閻魔堂は臺所の道具にすら事缺くほどの貧しい堂で、村の者がそこでお講などを行ふ場合には、各自茶碗を手に持ち、箸を髪に挿して來るといふやうな有樣であつたといふことである。
二十九歳といふ若さと人並みすぐれた美貌とを持ちながらも、さうした貧しさと、淋しさと、わびしさとの中に、たゞ一人住んでゐた當時の貞心尼の心持は果してどんなであつたであらう。それも幼い頃からさうした生活に慣れて來たのであつたのならばさほどにも感じなかつたかも知れぬが、相當な身分の武家に育てられた上に短い年月であつたとはいへ醫を業とする貧しからぬ家に嫁してゐた經驗までもある身で、しかも二十四五の年頃になつて初めてさうした變り果てた生活の中へ飛び込んで來たのであるから、その苦みと惱みとは決して世間普通の尼僧達のそれの比ではなかつたに相違ない。其點でも、かの名主の家の若旦那の境界から一躍して禪寺の小僧となり變つた良寛和尚との間に一味相通ずるものがある。
兎に角、さうした生活裡にあつて、若い貞心はいみじくも其の不退轉の修行を續けたのであつた。而も又貞心尼は良寛和尚と同じく、佛道の修行と共に文學に心を寄せてゐたことも一通りでなかつたといはれてゐる。彼女のその方面での師匠は何人であつたか不明であるが、何でも彼女は少女時代から深くその方へ心を向けてゐたといふことである。そして彼女の出家の原因が夫に死別した悲みからの厭世にあることは勿論であるが、それと共に自由に自分の好む學問の出來るやうな靜かな超世間的な境遇への思慕が與つて力あつたことも亦事實であるといはれてゐる。
こんな風で、貞心尼が二十九歳で初めて良寛和尚に見えたまでには、佛道の修行に於ても、又文學の造詣に於ても、既にかなりの境地まで進んでゐたのであつた。それは前に掲げた彼女の歌が、良寛と初めて會つた時の唱和に於て既にあれだけの秀作を見せてゐるのでも充分わかることである。
しかし、どちらかといふと貞心尼は良寛和尚に師事するやうになつてから、初めて眞劍に歌を詠むやうになつたらしい。而も妙なことには貞心尼の歌は良寛和尚との唱和に於てあれほど秀れた作を遺してゐるにも拘らず、他の場合に詠んだ歌にはさほど私達の心を惹きつけるやうな作が甚だ少いのである。貞心尼には良寛和尚に於けると同じくこれといつて纏つた歌集はなかつた。あつたのかも知れないが傳つてゐない。それでも、あちこちに書き殘された歌を拾ひ集めると相當の數にはなるのであるが、どうもいゝ歌が少いのである。
そればかりでなく良寛の歌には題詠が殆ど無いのであるが、貞心尼の歌は良寛との唱和を除く他は殆ど凡て題詠であるといつてよいほどである。それに調子も良寛のそれが萬葉調であるのとは違つて貞心尼のは今古調(*古今調)若くはそれ以下の低い調子のものが多いのである。あれほど良寛に接近して感化を蒙つてゐた貞心尼の歌が、良寛との唱和の場合を除く外、あまりにその影響の少いのは何としたことであらうか。
これは、しかし、貞心尼に限つたことではなく、良寛と交つてゐた多くの人に於て見られる共通點である。良寛の實弟山本由之を初め、解良叔問、阿部定珍、原田鵲齋、同正貞等、良寛の周圍にはかなり多くの歌人がゐたのであるが、いづれも申合せたやうに良寛との唱和贈答の歌に於てのみ良寛の影響が著しくて、他の多くの場合に於ける彼等の歌には一向それが見えないのである。
一體、良寛といふ人は、他人の歌を添削したり、批評したりすることなどは大嫌ひであつたらしい。他人の詠歌の態度がどうであらうと、その調子がどうであらうと、そんなことには良寛は一向頓着しなかつた。そして自分は自分だけの歌を詠んでゐた。そして人が作歌についての用意を尋ねたりしても、たゞ萬葉集さへ讀めばよいとだけしか答へなかつたといふことである。隨て周圍の人々の歌の上にもその影響が及ばなつたのであらう。
しかし、それは良寛に力がなかつたのではなくして、寧ろ周圍の人の天分が足りなかつたからである。自分達の近くに良寛のやうな秀れた歌を詠む人を得てゐながらも、彼等の多くはそれらの影響を受けるべくあまりに天分が低かつた。さすがに良寛と相對して歌を詠み合つた場合には、おのづからその高い調べに同化されていゝ歌も詠めたが、そこから離れて一人で詠む場合には、彼等の多くは其の時代の一般の傾向に動かされ勝ちであつた。此の事は一面に良寛のえらさを示す證據であると同時に、他面その周圍の人々の天分の低さを示す事にもなる。歌の上では、あれほど人として良寛に愛されもし感化されもしてゐた貞心尼も、やはりその數に洩れなかつた。これはまことに遺憾なことである。
貞心尼は又書に於てもかなり優れてゐた。なか\/達者な、いゝ字を書き遺してゐる。型にはまつた美しさ一遍の女文字ではなく、相當獨特の妙味を持つた書である。しかし、形の上にいくらか良寛の影響が認められるやうな字を時々書いた位なもので、質に於ては全く良寛のそれとは異つてゐる。やはりその歌に於けると同じく、良寛の書の本當の影響は受けることが出來なかつた。これもまことに遺憾なことではあるがしかたがない。
四
貞心尼が三嶋郡嶋崎村木村家邸内の小庵を訪ねて初めて良寛和尚に見えたのは、文政九年の秋であつた。良寛和尚の高徳の聞えは、ずっと以前から彼女の耳にも入つてゐた。敬慕のあまりどうかして一度その人に會つて見たいものだとは、彼女の久しい前からの念願であつた。そこで人を介してその意のあるところを和尚の許へ通じて貰ふと同時に、和尚が常に好んで手毬を弄ぶといふことを聞いて詠んだ歌にかこつけてさうした自分の敬慕の心を傳へて貰つたりした。
これぞこのほとけの道にあそびつゝ撞くやつきせぬみのりなるらむ
すると思ひがけなくも和尚からその歌の返しが屆いた。
つきてみよひふみよいむなこゝの十とをとをさめてまた始まるを
そんなわけでつひに彼女はたまらなくなつてみづから訪ねたのであつた。
君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞおもふ
まつたくそれは彼女にとりては半ば夢心地の歡びであつた。そして初めて相見たその瞬間から、彼女は既に良寛のひろやかな、あたゝかな、そして澄み切つた明鏡のやうな心に、一切を委ねていだかれたやうに感じた。今迄感ずることの出來なかつた欣求の力強さが同時に彼女の心の底に感じられた。これまでの自分の苦しい求めは、結局かういふ聖者に會ふ爲の求めであつたといふやうにさへ感じられた。
その日は初めての見參であつたにも拘らず、貞心は夜更けるまでも良寛のそばを離れ得なかつた。
白たへのころもでさむし秋の夜の月なか空にすみわたるかも
こんな風に良寛の方で夜の更けたのに驚いてゐるにも拘らず、貞心の方では、
向ひゐて千代も八千代も見てしがな空行く月のこと問はずとも
と名殘を惜みもし、未練を殘しもしてゐる。良寛の方でもその心根を察して、
心さへ變らざりせばはふつたのたえず向はむ千代も八千代も
とやさしく慰め、
又もこよ山のいほりをいとはずば薄尾花の露をわけ\/
といふやうに、しみじみとした思ひを寄せてゐる。
近來頓にわが身の老衰を感じ、山陰の岩間を傳ふ苔水のやうに澄み切つた孤獨と寂寥の心境に住しながらもなほ且切々として胸に湧く我となき人間愛慕の情のやるせなさを感ぜずにゐられなかつた其頃の良寛にとりて、自分を慕ふこの若く美しく而も清い一個の女人の思ひがけなき出現は、これ又夢の如き歡びであつたに相違ない。そして一たび貞心に會つた後の良寛の心には、我ながらも不思議な一種の切なる愛慕の燃え上るのを禁じ得なかつたのである。それはその後程經て彼の方から貞心へ左の如き一首の歌を書き送つてゐるのでもわかる。
君や忘る道やかくるゝこのごろは待てどくらせど音づれもなき
こんな風にして良寛と貞心との交りは、會ふ度ごとに、會つて別れる度ごとに、ます\/深くなつて行つた。齡七十を越えた老僧良寛と、漸く三十になつたばかりの美しい尼僧貞心との間に結ぼれ(*結ばれ)た此の愛は、まことに世にも稀な微妙なる人間愛慕の結ばれであつた。それは師弟の愛よりは深く、肉親の愛よりは強く、戀人の愛よりは淨い、一種不可思議な聖愛であつた。
良寛の居た嶋崎と貞心のゐた福嶋とはかなりの里數を隔てゝゐた。しかも、二人は時々訪ねつ訪ねられつして、その度に親愛の度を深めて行つた。初めのうちは何かと求道の上の話もあつたらしいが、しまひにはさうした境界からすらも超越して二人はまるでこども同志のやうにあどけなく遊び戲れることを何よりの樂みとしてゐたらしい。それは或時良寛が貞心の庵を訪ねた折に貞心の詠んだ
歌やよまむ手毬やつかむ野にやでむ(*いでむ)君がまにまた(*まにまに)なして遊ばむ
といふ歌、及びそれに答へた
うたもよまむ手毬もつかむ野にも出む心ひとつを定めかねつも
といふ歌によつてもほゞ窺はれることである。
しかし、そこへ行くまでには、時に心の陰のさすやうなこともないではなかつたらしい。殊に貞心の方にそれが著しく窺はれる。
山のはの月はさやかにてらせどもまだはれやらぬ峰のうす雲
春風にみ山の雪はとけぬれど岩まによどむ谷川の水
貞心が良寛に贈つたこれらの歌は何となく私には求道の上の惱みを訴へたゞけの言葉として片づけることが出來ない。又これに答へた良寛の
昔も今もうそもまこともはれやらぬ峰のうす雲たちさりて後の光とおもはずやきみ
とか、
み山べのみ雪とけなば谷川によどめる水はあらじとぞおもふ
といつたやうな歌も、決して單に信仰上の道破をのみ主としたものとは思はれないのである。
けれども貞心尼の聰明と、敬虔と、純眞と、隨順とは、いつとなしに白雲の如く又流氷の如き良寛の悠々淡々たる心に同化されて行つた。そしてつひにはそこらを歩き廻るのに自分も連れて行つてくれろと頼んだ貞心に對して、良寛が
誘ひて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし
といふやうなからかひ半分のあどけないはにかみを見せたのに答へて、
鳶は鳶雀は雀鷺は鷺烏はからす何かあやしき
とまでのほがらかさを示す自然な自由な心を得てゐる。
かうして二人はつひには師弟の關係、年齡の相違、性のけじめをさへ超越して、全くのあどけない幼兒の如き交りにまで進むことが出來た。七十餘歳の老僧と、三十餘歳の美しい尼僧とが人目など寸毫も憚らずに、或は毬をつき、或はハヂキをし、或は野に出て花を摘んだりして嬉戲してゐた—さうした光景を想像すると、私はそれだけでも得がたい朗らかな氣分に誘はれる。何といふ不思議な貴い愛の姿であらう。
しかし、そのやうな樂しい月日の間にも、良寛の肉體上の老衰は年一年とその度を増して行つた。そして貞心と相識つてから五年目の冬になつて、つひに再び起つことの出來ない病臥の身となつた。
梓弓春になりなば草の庵をとくとひてまし逢ひたきものを
良寛が貞心を慕ふ思ひは、そこまで行つて全く極度に達した。深い積雪に閉ぢこめられた此頃をか弱い女人の身でどうして遠い道のりを歩いてなど來られるものかと思へば思ふほど、良寛にはます\/貞心にあひたい思ひが増すのであつた。
しかし、いかに雪が深からうとも、貞心はぢつとしては居られなかつた。彼女はつひに萬難を排して師の許へ驅けつけたのであつた。
いつ\/と待ちにし人は來りたり今はあひ見て何か思はむ
良寛は泣いて喜んだ。彼はもうその時は自分でも眼前に死の闇の横つてゐることを充分覺悟してゐたのであつた。
それにしてもかうして最後の十日あまりを最愛の尼弟子のやさしい介抱をうけて靜に此世を去つて行くことの出來た良寛和尚は、何といふ惠まれた人であつたらう。
生き死にの境はなれて住む身にもさらぬわかれのあるぞ悲しき
泰然として死に直面してゐた良寛和尚の前に、貞心も亦何等の躊躇もなくかうした最後の言葉を示すことが出來たし、良寛は更にそれによつて心の靜けさをいさゝかたりとも動かされるやうなことがなかつた。良寛の口からはそれに應じて次の如き誰の作とも知れぬ一句が靜かに洩らされた。
裏を見せ表を見せて散るもみぢ
かうして裏も表も見せつくした玲瓏たる心の安らかさを保ちつつ天保二年正月六日良寛和尚は穩やかな最後の眠りに就いたのであつた。
そして同時に此の稀有な淨さと、あたゝかさと、ほがらかさと、美しさとを持つた老僧と尼僧との現世に於ける交りも永遠の結末を告げたのであつた。
五
良寛和尚を此世から失つたことは當時の貞心尼にとりていかばかり大きな打撃であつたかは云ふまでもない。又その後の彼女の生活がいかに淋しく頼りないものであつたかも想像に難くない。
しかし、この大試練を經て後の貞心尼の求道は一層の眞劍味を加へて來た。良寛和尚を此世から失ふことによつて、彼女の心からは何ものかに頼らうとする弱さ、何ものにか縋らうとするあまえ心が、初めて拭ひ去られた。生死の界を離れて住む身にさへもかうした別離の悲みのあることに驚かされた彼女は、初めて眞の孤獨寂寥の底に沈潜することの出來る不退轉の道心を得た。
福嶋の閻魔堂に於ける彼女の獨居生活には、いよ\/眞の寂味が加はつて來た。
朝餉焚くほどは夜の間に吹きよする落葉や風のなさけなるらむ
その頃の彼女のかうした詠懷も、無論一つは良寛和尚が生前好んで口すさんでゐたといふ
焚くほどは風がもて來る落葉かな
の句の影響によつたものであらうが、それにしてもその頃既に彼女自身の生活そのものもほゞその境地にまで進んで居たことも信じていいであらう。
かくて四十歳頃まで貞心尼はかの福嶋の閻魔堂に住みつゞけてゐた。孤獨の底に自然の寂味を味ひ、貧しさのうちに魂の安らかさを得つゝ、彼女の心は年一年と渾成の域に進んで行つた。
そのうち彼女の最初の受業師であつた心龍尼の妹である眠龍尼が天保九年四月十五日に示寂し、續いて天保十一年六月廿八日彼女の師心龍尼も圓寂した。そして天保十二年三月彼女は正式に柏崎洞雲寺泰禪和尚について得度の式を了し血脈を相續して、改めて師の跡を繼いで柏崎釋迦堂の庵主となつた。それは彼女の四十四歳の時であつた。
それ以後に於ける貞心尼の生活は貧しいうちにも極めて平和であつた。良寛和尚と同じやうに彼女も亦多くの人々から愛敬され、彼女の庵は一面それらの人々にとりての道場であると共に、他面常に春風に惠まれた樂しい遊び場所となつてゐた。そして嘉永四年彼女の不在中火災に遭つて釋迦堂の燒失した後に於ても、彼女は彼女の歌の友であり且道の友であつた山田靜里を初め多くの人々の寄進によつて眞光寺と稱する寺の側に新しい草庵を結んで貰ひ、そこに安らかな生活を續けることが出來た。その草庵は施主山田靜里によつて不求庵と名づけられた。それは八畳と四畳と三畳との三間しかない狹い庵であつた。彼女はそこに二人の弟子と共に住んでゐた。しかし、それでさへも彼女には勿體ないほど廣く感じられた。
なほその庵を不求庵と命名したについて施主山田靜里はこんなやうに書いてゐる。その文章は當時貞心尼その人が世間からどんな風に見られてゐたかの證左ともなると思ふから、ここにその全文を掲げて置くことにする。
「よろづのものおのれに求めむより、求めずしておのづから得るこそ、まことの得るとはいふべけれ。されば佛説にも聖經にもさるすぢにをしへありとぞ。
此庵のあるじ貞心尼のぬしは、年頃佛の道のおこなひは更なり、月花のみやびより外にいささか世に求むることなく、よろず
(*よろづ)むなし心に物したまふ。月日を和歌の浦波に心をよせて、あま衣たちなれぬる人々はかねてよりよく知り侍りぬ。しかるにことしの永月の末つかたまがつ火の災ひにてもと住まひたまひしあたりも一つらのやけ野となりぬれば、かの心しれる人々諸ともにことはからひつゝ、あらたにさゝやかなる草の庵を結びて、あるじをうつしすゑまゐらすことゝはなりぬ。これや、さは求めずしておのづからに得るとも云ふべけれとて、不求庵とは名づけ侍るになむ。
もとめなき心ひとつはかりそめの草の庵も住みよかるらむ
こは嘉永四年亥の長月半ばのことにぞありける。かくいふは方寸居のあるじの翁靜里」
かうした里人達のあたゝかな愛敬のうちに、貞心尼は二人の弟子達と共に清く安らかな晩年を送ることを得たのであつた。そして明治五年二月十一日午前二時過ぎに、その不求庵で靜かな往生をとげたのであつた。しかもその享年が良寛和尚と同じ七十五歳であつたのも奇縁といつていい。
貞心尼の死病は俗にいふ水氣であつた。前年の秋頃から床に就いてゐたといふことであるが、死についての煩悶などは少しもなかつたといはれてゐる。死の前日主治醫であつた矢代文郷がいよ\/その末期の近いことを告げ、何か遺言がないかと訊ねたに對して、貞心尼は、
「何もいゝ置くことはありませんが、わたしが死んだら、あの柳の木の下に大きな釜を据ゑ、豆腐のおからの雜炊をうんとこさとこしらへて、町中の犬に腹一ぱい振舞つてやつてください。」
かう云つただけであつた。
なほ臨終の四五時間前に、彼女は次の如き一首を詠んで弟子達に示した。
たまきはるいまはとなれば南無佛といふより外にみちなかりけり
これが彼女がこの世に遺した最後の吟詠であつた。
しかし、現在洞雲寺裏山にある貞心尼の墓には、彼女の辭世として
くるに似てかへるに似たりおきつ波たちゐは風の吹くにまかせて
といふ一首が彫つてある。これは示寂の前日みづから辭世だといつて弟子達に示したものだといふことである。
それにしても既に良寛和尚の生前、和尚との唱和に於て貞心が
くるに似てかへるに似たりおきつ波
と云つたのに應じて、良寛が、
あきらかりけりきみがことのは
といふ下句をつけたといふことが、彼女の遺稿『蓮の露』に明らかにしるされてゐるのを見るとその歌は貞心の心に永く用意されてゐたものであるらしい。
そればかりでなく貞心尼は、既に七十二三歳の頃から遠からず自分の死期の遠からぬこと(*ママ)を覺悟してゐたらしく、折に觸れてさまざまな辭世めいた歌を詠んでゐるのであつた。即ち七十三歳の秋には、
此世だにねがひしことのたがはねば花のうてなもまさしかるらむ
露の身のきゆるは秋をねがひぞとおもふものから袖ぞぬれける
などと詠み、七十五歳病中にあつても、
あとは人先は佛にまかせおくおのが心のうちは極樂
いつまでか長きいのちとわびにしも今は限りとなりにけるかな
などとも詠んでゐる。
いづれにしてもその最後が極めて安らかな大往生であつたことは疑ふよしもない。それは今尚生き殘つて、釋迦堂の庵主となつてゐる高野智讓老尼の直話によつても、私はたしかめることが出來たことである。
六
貞心尼の生涯の輪廓は以上述べたところでほゞ盡されてゐるとおもふが、更に前記高野智讓尼その他の人々について聞き得た彼女の行状、逸話等に關する斷片を書き添へることによつて、一層彼女の面目を鮮やかにして置かうとおもふ。
×
貞心尼は容貌に於ては人並すぐれた美しい女性であつたが、聲があまりよくなかつた。お經を讀む時など、そのきい\/聲がひどく聞きにくかつた。それで晩年には自分でもそれがいやであつたらしく、多くの場合須磨琴と稱する一絃の琴を彈いて、それに合せてお經を讀んでゐた。琴に合せてお經を讀むなどは普通の尼さんなどには到底出來ない藝當であると遺弟智讓尼も笑ひながら話した。
×
貞心尼の所持品中には、云ふまでもなく良寛和尚の書いたものが多くあつたのであるが、不在中庵が火災に罹つた際に大半燒失してしまつた。殘つてゐたものも少しあつたが、人にやつたりしてしまつて、最後まで殘つてゐたのは、遍澄といふ良寛和尚の弟子の書いた良寛和尚の肖像に良寛の弟由之の讃をした一幅だけであつた。
それについて面白い話が一つある。それはかの戊辰戰爭の時柏崎に來てゐた薩摩の武士で吉田某といふ人が、柏崎西卷家の紹介で一日貞心尼を訪ねた。何でもそれは體格の立派ないかめしい顔をした人で、頭髪を切つてゐた。貞心尼はその人に向つて、
「今の世では髪を切らぬと戰爭が出來ませんかのう。」
などと打とけた質問をしたりした。その後その人は屡々貞心尼の庵を訪れた。そして貞心尼の秘藏してゐた良寛和尚の假名手本を見てひどく感心し、別れにのぞんで無理やりにそれを貰ひ受けて行つた。弟子達ですらそれを非常に惜しがつて、何故あのやうな寶をあんな人になんか呉れてやつたかと訊ねたのに對して、貞心尼は、
「因縁でほしいといふんだもの、くれてやればいゝさ。それに良寛さまのお書きなされたものが、あのやうに遠い國へまで行つて人々に感心されるとすれば、なほさら喜ばしいことではないか。」
といふやうなことを云つて、少しも未練がましいところがなかつた。
×
明治二年三月二十七日の夜、不求庵へ二人の盜人が這入つた。貞心尼は目をさましてそれと知るや、
「おい\/、こんな七十になつて手鍋さげてるやうな者のところへ來たつて何があるものか。金が欲しかつたら旦那衆のところへ行かつしやれ。」
と平氣で怒鳴りつけた。する(*と)盜人はいきなり貞心尼と弟子達をつかまへて足を縛り、上から夜具をかぶせて押へつけた。さうして置いて手あたり次第に何といふことなく奪つて行つた。
ところで盜人が出て行つた後で貞心尼は別に盜まれた物を惜む樣子もなければ、又少しも怖ろしかつたといふやうな風もなく、早速硯を持ち出して來て次の如き數首の歌を認めて弟子達に示して大笑ひをした。
盜人のはひりて物みなとりければ
前の世になしゝむくいかしら波のかゝるうきめを我にみすとは
盜まれし品々をよめる歌
袈裟、衣
しらなみのよるの嵐に立入りてけさはころもの一つだになし
からかさ、かつぱ
いづくへかさしてゆきけむ雨の夜にぬすみにきたるかつぱからかさ
ちやうちん
提灯を何の爲とや盜みけむ闇をたよりのわざをしながら
たび
いそちかみあまのとまやに白波のたび\/いらばいかにしてまし
この恬淡さは全く良寛和尚の壘をも摩するものである。而も後で盜人の身の上をおもひやつて
輕からぬ罪を背負ひて死出の山こえゆく時はくるしかるらむ
我が爲に仇なすものもにくからで後の世までをあはれとぞ思ふ
とあたゝかな憐みをさへ寄せてゐる。まことに貴い心境である。
さうかとおもふと貞心尼は、更にそのことについて
「いや前の世に借りたものを返濟したのだとおもへば何でもないことだ。それにしてもわしは前の世に大泥棒の女房でゝもあつたと見えて、よくまあかう度々盜人に這入られるこんだ。」
こんなことを云つて笑つたりした。さうした超越ぶりには何人も感心させられたものであつた。
×
貞心尼の庵の周圍にはいつも草が蓬々と生茂つてゐた。弟子達がそれをむしらうとしても決してむしらせなかつた。そして
「大事な蟲の棲家だ。このまゝにして置くがよい。それに草だつて同じ生きものだ。かあいがつてやれ。」
こんなことを屡々云ひきかせたりした。
×
貞心尼には不思議に尼さん同志の友達がなかつた。尼さんで貞心尼の庵に訪ねて來る者などは殆ど無かつた。その代り男の人には多くの知己を持つてゐた。明放しに何でも正直に思つた事を云ふ貞心尼のやり方が女の人には向かなかつたのであらう。殊に晩年になるに隨つて隨分と惡まれ口をきいたらしい。しかし、その惡まれ口も心ある者には却つて面白くも、意味深くも聞きなされたものであつたといふことである。
×
貞心尼は非常に犬を好んだ。弟子達が使に出て道草を喰つて歸りがおくれたりしても犬と遊んでゐたといへば叱らなかつたほどに犬を愛してゐた。
犬が庵室の縁の下に來て子を生むやうなことがあると、貞心尼は毎日豆腐のおからを煮ては食はせてゐた。
×
貞心尼の臨終に於ける最後の言葉は、
「さむい\/火を焚け\/」
といふ一語であつたといふことである。
七
貞心尼その人のいかにすぐれた人であつたかは、上來述べ來つた如くであるが、よしさうでなかつたにしても、今日私達が貞心尼に向つて衷心からの感謝を捧げなければならぬ理由が他にある。
それは良寛和尚の歌の最初の蒐集者であり、又和尚の詩の最初の蒐集者であり、且刊行者であつた上州前橋龍海院藏雲和尚にとりても最大切な相談相手であつたことである。貞心尼の集めた良寛歌集は「蓮の露」と題されて、天保五年に編纂を終つてゐる。又藏雲和尚の編んだ「良寛道人遺稿」と題された詩集は、慶應三年に江戸芝尚古堂によつて刊行されてゐる。而もその詩集の卷頭に掲げられた藏雲筆の良寛和尚の肖像の如きは、實に良寛和尚の二遺弟貞心尼と遍澄との苦心に成る原圖がなければ出來なかつたものである。
此の二大功績の存する限り苟も良寛和尚に心を寄せる者である以上何人と雖貞心尼の前に頭を下げずにはゐられぬわけである。良寛和尚の晩年は貞心尼によつて稀有な美しさと、一段の光輝とを添へられ、良寛和尚の歿後その歌と詩とは貞心尼を得て初めて今日にまでかくも豐富に傳へらる(*る)ことが出來た。
良寛和尚の光輝の失はれざる限り、貞心尼も亦永遠にその輝きを共にするであらうことを疑はぬ。(完)
貞心尼雜考
○
貞心尼が良寛和尚の詩集の開板者である上州前橋龍海院の藏雲和尚に宛てた手紙の中に、學者某が良寛和尚の詩を集めたのはいゝが、それに文字の誤りがあるといつて所々改め直したのはけしからぬ、又序文の如きも俗人又は眞に良寛その人を解しない者の書いたのは無きに劣るといふやうな事をいつてゐる。さうした點では、貞心尼もなか\/一家の見識を高持してゐたらしい。
世間並の尼さんでなかつたことは、こんな事からだけでも想像出來る。
○
これは禪宗の尼さんに多くある例であるが、貞心尼もどちらかといふと男性的な、あつさりとさばけた人であつたやうである。殊に晩年に近づくに隨つてそれがます\/醇化されて行つて、しまひには性を超越した極めて自由な境界に達してゐたらしい。
貞心尼の庵が、尼の晩年に於ては、あの地方の風雅人達の絶好の遊び場所となつてゐたらしいといふのも、尼のさうした態度が人々を快く寛ろがせるにふさはしかつたからであらう。
○
貞心尼から良寛和尚への手紙、良寛和尚から貞心尼に寄せた手紙、それを私はかなり以前から探してゐるが、これまでに私の目に觸れたのは良寛和尚から貞心尼への左の如き一通ぎりである。
先日は眼病のりやうじがてらに與板へ參候。そのうへ足たゆく腸(はら)いたみ御草庵もとむらはずなり候。寺泊の方へ行かんおもひ、地藏堂中村氏に宿り、いまにふせり、まだ寺泊へもゆかず候。ちぎりにたがひ候事大目に御らふじたまはるべく候。
秋はぎの花のさかりもすぎにけりちぎりしこともまだとけなくに
八月十八日 良寛
良寛和尚の健康はその頃からひどく衰へてゐた。そし(*て)それから間もなく死病の床についたのであつた。
しかし、良寛和尚が最後の病床に於て貞心尼といふ美しく、若く、やさしい異性の看護者を得たことは、此上ない慰めであつたに相違ない。
○
貞心尼の住んでゐた不求庵の跡は今はないが、不求庵に移る以前住んでゐた釋迦堂はその後再建されて、そこには今高野智讓老禪尼が住んでゐる。私は度々その老尼をたづねて貞心尼のおもひ出話を聞いた。
智讓老尼はある時私にこんなことを云つて笑つた。
「そんなことなら師匠が生きて居りなされたうちにさう云つといておくんなさればよかつた。さうしたら私も出來るだけ注意もし、出來るだけ何でも師匠に聞いて置くがんでしたにのう。」
いかにもその通りである。私もそれには笑はずにゐられなかつた。
○
貞心尼の墓は、尼の剃髪の寺である柏崎郊外の洞雲寺にある。私は昭和三年の五月二十七日に初めて上杉涓潤和尚に連れられてその墓に詣でた。見はらしのいゝ丘の上の道を、雨あがりの泥深さになづみ\/歩いて行つた。
をり\/を空に千鳥の鳴きすぐる丘邊のみちの草のつゆけさ
雨あがりの丘邊の小みち下駄につく土の重さをかこちあひつゝ
いづこか近く田植すらしも田植唄の聲はきこゆるここの丘邊に
寺庭の苔のしめりを快み足につきたる泥をぬぐひつ
この寺の白藤はすでに盛すぎしなび垂れたり花の幾房
裏山は松の林をしげみかもまなくひまなく鳴く鳥の聲
うら庭の孟宗藪のたけのこの伸びはすばらし一丈もあらむ
伸びきはまり皮をぬぎたる筍のみどりの肌のすが\/しもよ
見はらしのよきこの松山のいたゞきを誰が見たてけむこの墓どころ
松風の音にこもらふ山鳩の聲は靜けしこの墓どころ
孝室貞心比丘尼の墓と明らかによみてしかる後はじめて拜むわれらなりけり
松かげにさびしく咲けるつゝぢ花折りて手向けて拜むこの墓
墓いしのおもてにゑりし辭世の歌われらいくたびよみかへしけむ
おらが庵主さんほど美しい尼は世になしと弟子智讓尼がほめし貞心尼
春にならばとく來よ蓬(*逢)ひたくてたまらずと良寛さまに待たれし貞心尼
歸途
ながき日もはやくれちかしいざやとてわれらが下る坂のこごしさ
くれかゝりそよぎしるけき葦原にこもりをふかくよしきりは鳴く
よしきりの聲はするどしたちとまり聞くをわびしみ歩みながら聞く
以上はその折の印象をうたつた私の詠草である。
貞心尼の墓のあり場所は、いかにも眺めのよい靜かな丘の上の松蔭である。私達はその時話し合つた。
「こゝもいゝが、それよりも良寛さまのお墓と並んで貞心尼の墓があつたら一層感慨を深くすることだらうが…」
「それもさうだが、貞心尼はやはり貞心尼で、かうした淋しい所に埋められてゐるのが却ていゝかも知れない。」
丘を下つて田中の道を町の停車場へと急ぎ出した頃には、もう黄昏の色が濃くなつてゐた。空は雨を含んで曇つてゐた。やはり時々鳴き過ぎる千鳥の聲が聞こえた。
○
貞心尼の生れた舊長岡藩士の奧村家の後はひどく零落しながらも今なほ長岡に住んでゐるといふことを聞いた。そして私の友人がその地の警察に頼んで探索して貰つた結果、それは今夫婦とも盲目で、妻は三味線をひき夫は五色軍談を語りつゝ辛うじて口を糊してゐる大道藝人であることがわかつた。
さうした報告を初めて受取つた時、私は暗然とした。と同時に、
「然らば良寛和尚を出した出雲崎の名門橘屋の後は如何…」
それを併せ考へて私の心は一層暗くなつた。
○
良寛和尚と往復した頃貞心尼の住んでゐた長岡在の福島といふところにも、今はその跡がなく、又さうした尼がそこに住んでゐたといふ話も傳はつてゐないといふことである。
私はいつか一度はそこをたづね、當時良寛和尚の住んでゐた嶋崎とそことの間を歩いて見たいとも考へてゐるが、いまだにその機會を得ずにゐる。兩者の間はかなりの道のりであるが、その中間に與板の町がある。その町へは良寛和尚は度々行つた。貞心尼ともそこで會つたことがしばしばであつたらしい。
その町には良寛和尚の(*弟)山本由之が庵を結んでゐた。しかし、貞心尼と由之との交際は極めて淺かつたらしい。
○
貞心尼が或人に話した話だといつて語り傳へられてゐるのにこんなことがある。
「良寛さんの御實家橘屋の御主人(その頃の橘屋の主人は左門泰樹であつた)が、人が良寛さん\/といふのに、實家に何もないといつては惜しいから、何か書いて貰ひたいが、良寛さんを呼ぶからお前さん(貞心尼)も一つに來て書いて貰つてくんなさいといつて二人を招待された。二人は御馳走を頂いたが、お膳が濟むと毛氈を敷いて何か書いて下さいといふと、良寛さんさつさと出ていつてしまはれた。人は皆不淨にゆかれた事とおもつてゐると、いつまでたつても歸つて來られない。とう\/そのまゝ嶋崎の庵室へ歸つてしまはれたのであつた。私が嶋崎へ歸つて良寛さんに「人が折角御馳走して何か書いて貰ひたいといふのに、お前さんも何か書いてやんなさいばよいのに」といふと、良寛さんは「それぢやお前、御馳走を食へば何か書かんけりやならんかい。おれはよばれて來いといふからよばれて行つたので、お膳がすめばもう用事がないからさつさと歸つて來たんさ。御馳走を食へば書かなければならなかつたのなら、お前何か書いて來いばよいのに」と言はれました。」
或はそんな事もあつたかも知れない。
惜しいことは、貞心尼が傳記の外にさういつたやうな良寛和尚の逸話を書き殘して置いてくれなかつた事である。二人の間には隨分多く面白い事があつたであらう。
○
貞心尼は字も能く書き、歌も能く詠み、文章も能く書いた。良寛和尚に遇つた最初から歌の贈答をしてゐるところから見ると、娘時代から相當に教養を與へられてゐたのであらう。
兎に角娘時代から貞心尼がすぐれた才女であつたであらうことは想像出來る。そして又かなり勝氣な性質の女であつたらうことも窺はれる。
○
前にも書いた如く貞心尼の力を借りて良寛和尚の詩集を編み、これを開板までした人は、上州前橋龍海院の藏雲和尚であつた。
しかし、此の藏雲和尚といふ人は、直接良寛和尚を識つてゐたのではない。和尚が良寛和尚といふすぐれた人のあつたことを知つたのは、良寛和尚の歿後越後に巡錫し、諸處で良寛和尚の墨蹟を見たり、その人に關する話を聞いたりしてからである。その事は糸魚川の牧江靖齋(阿部定珍の子で牧江家に入婿した人)に送つた手紙によつても明らかである。而もそれは貞心尼に遇ふ以前のことであつたらしい。
そんな事から考へると、藏雲和尚といふ人も餘程眼識の高かつた人であつたに相違ない。貞心尼が此の人と相識つたことは良寛和尚を後世に傳へる上には、まことにありがたい事であつたといはねばならぬ。
〈*「貞心尼雜考」以上〉
緒言
目次
良寛に愛された尼貞心
貞心尼雜考
加賀の千代
千代尼雜考
我觀蓮月尼
【古典テキスト】
貞心尼遺稿(蓮の露、他)
千代尼句抄
蓮月尼歌抄