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貞心と千代と蓮月 —大田垣蓮月—

相馬御風
(春秋社 1930.2.20)
※ 原文中、傍点の語句は強調文字で表した。(* )は入力者注記。

 緒言  目次  良寛に愛された尼貞心  貞心尼雜考  加賀の千代  千代尼雜考  我觀蓮月尼
 【古典テキスト】  貞心尼遺稿(蓮の露、他)  千代尼句抄  蓮月尼歌抄

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我觀蓮月尼

 蓮月尼と貞心尼  越後と蓮月  蓮月と原宏平  蓮月尼と遊女  蓮月の前半生  美人蓮月
 尼としての蓮月の生活  蓮月とその時代  曙覽の蓮月訪問  蓮月の藝術  結語
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○ 蓮月尼と貞心尼

良寛和尚に愛された尼貞心尼を、或る人々は「越後の蓮月尼」と呼んでゐる。さうでなくても、貞心尼についていろ\/と調べたり考へたりしてゐた間に、最も多く聯想したのは蓮月尼であつた。
以上の如き兩者の類似點の存する以上、貞心尼によつて蓮月尼をおもひ、蓮月尼によつて貞心尼をおもつたことも決して偶然ではなく、或る人々が貞心尼を以て越後の蓮月尼に擬するのも強ち貞心尼を擔ぐ爲のこじ付とのみ解することは出來ないわけである。

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○ 越後と蓮月

更に妙なことには、越後ではその國の生んだ貞心尼の遺墨が甚だ稀であるのに、遠い京に住んでゐた蓮月尼の書いたものが、これは又驚くべく多いことである。中には僞筆も少なからずあるやうであるが、而も眞筆と信じていゝものも甚だ多いのである。
は一時歌の短册の蒐集にかなり熱心になつたことがあるが、越後では他の何人の短册よりも蓮月のものが比較にならぬほど多くあるのに驚かされた。しかし、當時にはその理由がどうしてもわからなかつた。
ところが昭和二年に出版された村上素道氏編著「蓮月尼全集」の中で、
蓮月の陶器の流行し出したは、始め越後新潟の人與板屋といふがの作品を貰ひ、國に歸つて大いに吹聽した。處が其吹聽が「京の美人が尼となり名を蓮月といひ…」と、甘く言うたので何時の世も好奇心に驅られる者が多く、我も人もと蓮月々々と囃したて、お膝元の京都より却て遠隔の新潟で大評判となり、其評判が京都へ逆輸入して、遂に斯く高名に成つたといふ。」
といふことが何かに書いてあつたといふ記述を讀んで、「成程さうか」と肯くことが出來たのであつた。
そこで、はその事をさうした方面の趣味の豐かな或る老人に話すと、その人は言下にこんなことを語つた。
「わしはその與板屋云々の話は聞いたことがないけれども、一時越後で蓮月が大ばやりをしたことはあつた。その頃一番氣の利いた、品のいゝ京土産といへば、蓮月の茶器か短册であつた。そればかりでなくうそでも何でもかまはぬ「俺は蓮月に遇つて來た」といふのが何よりの京戻りの自慢話とされて居た。しかし、今思ふといろ\/な人が京土産に持つて歸つた蓮月の茶器や短册には、商人の手から買つて來た贋物の方が多かつたかも知れない。が、どうしてだかわからぬが、一時無暗と好事家の間に蓮月のはやつた事だけは事實だ。」
いづれにしても蓮月尼の評判が越後から京都へ逆輸入されたものだといふ浮説があるだけでも越後に住んでゐる私達には一寸愉快な事である。

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○ 蓮月と原宏平

ところで、越後と蓮月との妙な關係をおもふにつけても憶ひ出すのは、先年亡くなつた越後新發田出身の歌人原宏平翁蓮月尼との關係である。
原宏平が初めて蓮月に逢つたのは明治四年であつた。其年各藩では知行奉還が行はれた。新發田の溝口家でも其事を行はうとするに當り、先づ以て他藩の奉還の實況を探つて見ることになり、夫々藩士を手分けして各地の模樣を視察させる事になつた。其時原宏平もその役に選ばれた一人であつた。が京に上つて蓮月を訪ねたのはその時である。そして其の事について自身の書いた左の如き文章は、今では或中等學校の國語讀本にまで載せられてゐるといふほどに名高くなつてゐる。
明治四年四月ばかり、おのれ京都にありける時、西賀茂の里に蓮月尼を訪ひしに、外へ行て家になしときこえしが、折しも雨のふりければ、
一聲もきかで歸らばほとゝぎすぬれて訪ねしかひやなからむ
と書て、かへりたまはゞこれを見せまゐらせね、といひてかへらむとしけるに、その媼あわたゞしうあとを追ひて、おのれは蓮月なり、いざたまへとて請じいれて、さていひけるは、このごろみやびならぬ人あまたとひきて、わづらはしければ、さきのやうにいひしなり、むらい(*無礼)の罪はゆるされよとて、木の芽煮て何くれとものがたりしけるほどに、午のかひふく(*「貝〈ホラ貝〉吹く」か。)ころとなりぬれば、ひるげたうべたまへとすゝむるなど、いとねもごろなりけり。さていとまごひしてたちいでむとせしに、みづからつくれる陶器くさぐさにそへて
いたづらに君をかへさばほとゝぎすひとりや啼かむ聞人なしに
と書ていだしければ、こは何よりもうれしやなどいひて、やがてわが宿れる家にぞかへりける。」
これは、蓮月尼その人及びその生活の一端をも窺ふことの出來る、いかにも味ひの豐かな話である。
が、それとは全く趣の變つた、しかもそれ以上に面白い逸話が、此の兩者に關して傳へられてゐる。そしてそれは宏平翁と最も親しい間柄であつた越後五泉の式場靜亭氏によつてしるされたところである。
靜亭氏はいふ。
宏平翁が晩年即ち八十三歳の折から八十七歳の秋まで、毎年一度づゝ五泉へ參られ、の家に一二ケ月宛滯在して筆をとつて居られた。其時折にふれ左の若い時のローマンスを語られた事がある。
 宏平翁蓮月尼を訪れしはまだ三十四歳の血氣ざかりの時であつた。或る時蓮月尼が「君はまだ若いが島原へ遊びに行つたことがあるか」ときかれた。はまだ一度も足を踏み入れたことがないと申したら、島原の某樓に薄雲太夫といふ花魁がある、夫れは妾の歌の門人で中々歌才のある女なればチト逢つて見たらばと勸められた。
 にとりては猫に鰹節ではあるが、いとすゝまぬ顔にてさやうかと生ら返事(*「生ま返事」か。)で直ちにの許を辭して、其夜は島原へと進撃した。
 扨薄雲太夫なるものに逢て話して見ると、案外歌才もあり、美貌であり、又眞心もあり、茲に打ち解けて連夜の樂みをつゞけた。終には偕老の契とまで話しが進んだらしい。乍併君侯からの言ひつけられた責任は最も大切である。何時までも京地に滯在する譯にはゆかない。あかぬ別れを太夫に告げて大切の役目を果し、數月の後歸國して復命に及んだ。
 歸國後太夫から頻りと音信が舞ひこむので親父から大に怪まれた。或日の事親父さんからお前さんのところへ時々女の手蹟の手紙が舞ひ込むが、何處から來るのかと尋ねられた。
 は答辯に困つたが、イヤ夫れは京地の宿の娘で歌の添削を乞ひによこすのだと胡麻化したが間もなく親父から妻帶を勸められた。色々事を構へて斷わつたが終に其効はなかつた。加茂町の眞柄氏より迎へることになつた。は親父の命には背く事は出來ない、太夫へはよき樣に言ひやり、其後琴瑟相和して平和の月日を送つてあつたが、不幸にして眞柄氏には相續者絶えて、夫人はやむなく實家に入りて家名を繼ぐ事となつた。其後則清の井上氏から濤子夫人が參つたのだと原翁の實話である。」
これはいかにも面白い話である。あの清淨閑寂の生活を營んでゐた尼蓮月によつて、おもひがけなくも花魁といふものを紹介され、しかも終には其の女と夫婦約束まで結ぶに至つた人が實際にあつたとは、何といふ不思議な因縁であつたらう。
蓮月原宏平に島原を教へ、薄雲といふ花魁まで紹介したのは、そも\/どんな考からであつたらうか。いづれにしてもさうした事實があつたとすると、蓮月といふ人は案外さばけた人であつた事が想像される。無論さうした世界に對する世間一般の考へ方も感じ方も、亦さうした社會そのものゝ事情も、あの頃は今日とはよほど異つてゐた。しかしそれにしてもやはり蓮月がさばけた一面を持つた女性であつた事だけは、その事件によつて想像しても差つかへあるまい。

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○ 蓮月尼と遊女

ひとり此の逸話ばかりでなく、「近古歌話」にと最深い關係にあつた故富岡鐵齋翁談としてこんな事が書かれてゐる。蓮月は、
「當時「おばあさま」と立てられて、一ふしある女流に崇はれたり。或日祇園の上田ちか子、島原のさくら木の兩人岡崎のを訪ひ、四方やまの話の末、小町の歌を本として詠みたるは、三人各々其の身分を言ひあらはしたるぞをかしき。
蓮月  — さそふ水あるにはあらで浮草の
流れて渡る身こそやすけれ
ちか女 — さそふ水あらばといはぬ色ながら
下ゆく水に花の亂るゝ
さくら木 — さそふ水あらばあらばと川竹の
流のこのみ浮草にして
ちか子は富める青樓の女ながら好みて歌妓となり、長澤伴雄に思はれてその妾となり、歌を教へられ、詠み口勝れたり。後伴雄のために財をつくして救ひしこと少なからざりき。
さくら木も時の宗匠能勢春臣の門に入りてこの道に心を盡せり。この兩妓さすがにを相談相手にたのめるだけありて、歌の秀逸なるのみならず、いと氣概に富めり。
更にこんな話も書いてある。これは霜堤居士(*近藤清石〔1833-1916〕か。名は忠嘩、のち四郎、居名霜堤居。近藤芳樹らに学ぶ。)の文章をそのまゝ載せたものである。
わかゝりし頃、太田垣蓮月(*ママ)がり行きて語らふはしに、島原の遊女櫻木が短册を見つ。手もあしからず。いへらく、『太夫ならねど才子なり。さいつ日、ある御人の來まして文かきてこれを櫻木來たらんが時とらしてよとたのまれぬ。その後來ぬればとらせたるに、あな長々しやとてよく見ず、かへりごとをもいふにうるさしといへりければ、そはあるまじきことなりといさめたるに、机のかたはらにちりぼひありける紙に「人づてはおぼつかなしや郭公うちつけにきく一聲もがな。いらせ玉へや、とはせ玉へや。」とかいつけぬ。などが及ぶべきにあらず。』とほめたりき。」
これらの事を綜合して考へると、原宏平との逸話も無論事實であつたと思はれる。そしていよいよ以てそのさばけさ加減の尋常でないのに驚かされる。
しかし、さう考へたからとて、それは決して蓮月尼の徳を傷つけることにはならないと信ずる。原宏平翁蓮月によつて紹介された遊女に一時夢中になつたからとて、それは蓮月の罪にはならない。蓮月の心はあくまでも自然そのものゝ如く無私であり、無邪であつたに相違ない。
女性として蓮月尼ほど交際の範圍の廣かつた人は、おそらくさう多くあるものではなからう。高僧あり、學者あり、畫家あり、歌人あり、文人あり、志士あり、政治家あり、武人あり、商人あり、農人あり、歌妓あり、娼妓あり、殿樣あり、下郎あり…といふ風に、あらゆる方面、あらゆる階級に、は殆ど無數の知己を持つてゐたと傳へられる。而も高名時代に冠たりし人々より、無名の下郎貧婦に至るまで、或は慈母の如く、或は愛姉の如く、或は「おばあさま」の如く、或は「おばさま」の如く、を知る凡ての人々から敬し愛し慕はれてゐたといふことである。
これだけでも全く大變な事である。おそらくの眼からは清も濁もその間には存しなかつたであらう。たゞ慕ひ來るものゝ一切を抱擁する自然の如き心 — それがの心であつたらう。自ら求めざる心の廣さ — それが寧ろの求められ慕はれた所以でもあつたであらう。即かうが爲に苦むだけ苦み、惱むだけ惱んだ果に、一切を捨て去ることを得た — そこに廓然として展開された蓮月尼のさうした心境は何といふ尊い心境であらう。
ところで、「屋越屋の蓮月」と綽名されたほどに蓮月は頻繁に居を移し廻つたといふことで、尼になつてから死ぬまでの間の移轉の囘數は少くとも數十度を以て數へられたといふことである。而もその最大の理由は俗客の襲來を避けるにあつたといはれてゐる。又時にはさう\/轉居も出來ぬところから、門口を締切つてそこに「蓮月るす」の貼札をしたとか、甚だしきは自分で「蓮月さんは今お留守です。」と斷わつたことさへあるとも傳へられてゐる。
しかし、かうした事と、眞に慕つて來た多くの人々を私心なく抱擁したといふ事とは、一見矛盾してゐるやうで、實は最もよく一致してゐた。此の離れよう\/としてゐた彼女の心こそ、眞に抱くことの出來た彼女の心であつたのである。
はその點を寧ろおもしろく思ふ。

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○ 蓮月の前半生

蓮月尼の前半生はまことに悲慘なものであつた。自筆の履歴に、
「ちゝはいなばの國の人、太田垣光古みつひさといへり。ゆへ(*ママ)ありて、みやこ東山にすむ。そのころ文政三出生名のぶとよぶ。はゝは早うなくなりて、ちゝにはぐゝまれて人となる。三十あまりにてつまも子もなくなりて、
つねならぬ世をうきものと三つぐりのひとり殘りて物をこそおもへ
やがて、ちゝのもとにありて、四十あまりにおくれて、
たらちねのおやのこひしきあまりには墓にねをのみなきくらしつゝ
このちかきところにをらばやとおもへど、山の上にて人のすむべきところにもあらねば、なく\/かぐら岡ざきにうつりぬ。もとよりまづしきみにて、せんかたなく、つちもて、きびしよ(*急須。出雲他の方言)といふ物をつくる。いとてづゝ(*無器用)にてかたちふつゝかなり。ゑりたる歌も、たゞすきにてよむとはすれど、むかしより、いとまなくいやしき身にて、よき大人によりてまなぶことをせざりければ、人の口まねにてかたことのみなり。
てすさびのはかなきものをもちいでゝうるまのいちにたつぞわびしき 」
と書いてあるのによると、幼くして母に別れ、長じて夫を持ち子をも設けたが、その夫にも子にも三十餘歳の頃先立たれ、と二人ぎりのわびしい暮しをつゞけてゐたが、それも十年ほどで父に死なれてしまひ、全くの孤獨な貧生活に陷り、そこで初めて生涯の大轉機に立つことになつたといふのである。
成程これだけの事實を以てしても、彼女の前半生は不幸なものであつたことは否みがたい。しかし、これほどの不幸の程度ならば、世間にその例乏しくはなく、まだ\/敢て悲慘と云ふべきほどではない。
ところが、村上素道氏の「蓮月尼全集」(これは蓮月に關する著述として最も權威あるもの)中の傳記によつて、これまで世に知られなかつた蓮月尼の悲慘な前半生の事實が初めて明るみへ出されたのである。
それによると、蓮月尼太田垣光古の實子ではなくして、藤堂姓を名乘る名門の落胤で、母は京都の三本木に住んでゐた町藝妓(?)であつた。そして蓮月尼即ちのぶは藁の中からこつそり太田垣家に引取られたものであるとのことである。無論、庶子であらうがなからうが、又母が藝者であらうが何であらうが、それが蓮月尼その人の徳を聊かたりとも傷けるものとは思はぬが、それにしても本當の自分の素性をそんな風に明らさまにすることが出來なかつたことは決して幸福であつたとはいへない。蓮月尼自身最後までそれを全然知らなかつたとすればそれまでゞあるが、前半生のいかなる場合かにそれを知つたやうなことがあつたとすれば、たしかにそれは一つの惱みの種であつたに相違ない。
いづれにしても蓮月尼の前半生はその出生そのものから既に好運に惠まれたものではなかつた。而も彼女の十三歳の時に太田垣家の一人息子の賢古が死んだ爲に彼女は自然その家の世繼となつたが、その年のうちに今度は養母に死なれて父一人子一人の頼りない境涯に投げ落されてしまつたのである。
だが、蓮月の一生中最悲慘を極めたのは彼女の結婚生活であつた。十八歳で養子を迎へて婚を結んだが、その養子といふのは無頼漢に近い遊蕩兒で、その爲家庭内には常に波瀾の絶え間が無く、その結果同棲生活僅に八年で養父の意見に從ひとう\/夫を離縁するのやむなきに至つた。そればかりか二人の間には八年間に三人まで子を設けたが、三人とも三四歳位で夭死したのであつた。その原因は夫の放蕩にもあつたであらうが、兎にも角にも引き續き三人までもの愛兒の死といふ人生最大の悲痛事を經驗しなければならなかつたといふのは、よく\/の不運といはなければならぬ。
夫の放蕩無頼、それから起つたさま\〃/な家庭の悲劇、三人の愛兒の死、夫の離縁 — かうした人間悲劇中の最大悲劇を十八歳から二十五歳までの最樂しかるべき時代に演じつゞけて來た彼女の運命は、全く悲慘此上ないものであつたといつてよからう。
更に夫を離縁して後のと二人ぎりの彼女の寡婦生活のいかばかり内的苦悶の烈しいものであつたかは察するにあまりある。互に口にこそ出さなかつたであらうが、夫の離縁問題その他から釀された彼女との間の感情の縺れだけでも、それは容易に堪へがたいところであつたらう。
しかし、如何に苦しくとも二人は生きて行かねばならなかつた。心の縺れに惱みながらも、二人はやはり互に父と子として結び合はずにはゐられなかつた。それにしても、日一日と著しくなつて行くの老衰は如何ともしがたく、それに伴ふ活計上の不安は、お互の心を弱くせずには措かなかつた。
さうしたところから、寡婦生活五年の後誠子は再び養子を迎へるのやむなきに至つた。しかしその再度の夫が前のとは異り至極温良な人物であつたにも拘らず、結婚後僅に五年で病死し、二人の間に生れた一子も亦夫の死後三年で夭死してしまつた。
悲慘事また悲慘事、蓮月の俗生活はあまりにも暗Kであつた。而も不思議なのは彼女と養父大田垣光古との縁である。實父母を知らず、義兄、養母を初めとして、二人の夫と四人の子とまで別れた彼女は、つひに養父とだけは最後まで別れなかつた。そして此の二人の孤獨な父と娘とは、俗世に對する絶望からつひに相共に剃髪して佛門に入つた。永い間の悲慘な生活を共にして來た七十歳に近い老武士たる、その養女たる三十歳を越えたばかりの美しい若寡婦とが、手に手をとつて知恩院大僧正に就いて得度の式を擧げた光景は、涙なしには想像することは出來ない。
蓮月といふ法名はその時授かつたのである。のは西心であつた。そして此の二人の今道心はその頃五歳であつた女兒を伴うて知恩院内眞葛庵に住むことになり、太田垣の家督は新に貰ひうけた養子夫婦に讓られた。眞葛庵に移つてから三年目に女兒は七歳を一期として世を去つた。浮世を捨てた蓮月尼にあつても、愛兒を失うた悲痛は一しほであつたに相違ない。
しかし、最後に取殘された二人の道心にとりて、初めてそこに念佛三昧の生活に入るべき時が來たのであつた。

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○ 美人蓮月

蓮月が非常な美人であつたといふことはあまりによく知れ渡つてゐる事實である。しかしには娘としてのその人の美しさよりも、若い妻としてのその人の美しさよりも、初めて髪をおろした頃のその人の美しさはどんなであつたらうといふ事の方が遙に深い興味を以てさま\〃/な想像を描かされる。況んや目のあたり蓮月のさうした美しさに接した男性の中には、その美しさに心を惹かれた者もおそらく少くなかつたであらう。
しかし、蓮月が初めて尼僧姿となつた頃はまだ何といつても老父西心との二人暮しであり、住居も知恩院山内の眞葛庵といふやうな人目離れたところであつたから、よし稀に心を寄せる異性があつたにしてもおそらくそれは自身が氣づくほどのことはなかつたであらう。けれどもその後十年にして唯一人の頼りとしてゐたの死に逢ひ、はいよ\/うるさい世間を相手に獨立して行かなくてはならなくなつた。そればかりかを失うたことは、同時に住み馴れた庵をも失うたことであつた。
「このちかきところにあらばやとおもへども、山の上にて人の住むべきところにもあらねば、なく\/かぐら岡ざきにうつりぬ。」
と自らしるしたやうに、は結局その美しい姿を市井の間にさらさねばならなかつた。而も單に自分の姿をうるさい世間の前にさらすだけでなく、何とかしてそれを相手としての自活の道を講じなければならなかつた。
そこでは最初自分の最も得意とした碁の師匠をしようかと思つた。しかしそれは多くは男相手の事であるのでやめた。次に和歌の師匠を志した。しかしそれもやはり多くの男性を相手としなければならぬ事なのでやめて、最後に或人(*『和歌文学大辞典』〔明治書院〕では、粟田に昵懇の老婆という。)の勸めるまゝに陶器を造りそれをひさぐことによつて細々ながら活計を立てゝ行かうといふ事に決心したのであると云はれてゐる。
それにしても、やうやく四十を出たばかりの尼僧姿の世にも稀な美しいひとり身の女性が、手づから雅趣ある陶器を造つて賣る店を出した。しかも、その陶器には特色のある美しい文字で、才氣の豐かな和歌が書かれたり、彫られたりしてゐる。かうした事が何で世人の好奇心をそゝらないで措かう。
かくして蓮月の歌が評判になり、蓮月の書が評判になり、蓮月燒の名が高くなつた反面には、尼僧姿の若く美しいひとり身の後家さんとしての蓮月に對する世上の浮薄な男性の好奇心のいかばかりうるさいものがあつたかは想像することが出來る。
けれどもは、そのことについて人口に膾炙してゐる逸話 — 蓮月がある男からあまり執拗につき纏はれるので、それを逃れる最後の手段として自分の齒を折り、顔を傷つけたといふあの逸話は何となく信じがたい。蓮月はそんな馬鹿げた眞似をしなければ、男性の誘惑をのがれることの出來ないほどの小人物ではなかつたであらうとおもふからである。
そればかりでなく老年に達してからの蓮月尼に逢つた近藤芳樹が、その折の印象をしるした言葉に次の如きがあり、
「今は昔、おのれ都にてあひし頃は、墨染の衣あららかなる姿ながら、猶眉のあたり打ちけぶりて、いかなればかかる樣にかへつらむと、そぎすてけむそのかみの、いぶかしきまで麗しき顔なりしを云々」
野村望東尼の書簡の中に、
「此日蓮月尼をとひ侍り。たにざく(*短冊)三葉ばかりもらひ歸りしかど、歌思ひでず。こゝになければ書いつけ侍らず。いと面白き歌なり。早よはひ七十五なるよしながら、いまだ五十ばかりと見え侍る、いと\/うつくしき尼ぞかし。昔はいかに花さきし人ならむと思ひやられ侍る。」
とも書いてあるといふことである。
これによつて想像しても、蓮月尼は決して自らの手で天成の容貌を傷けるやうなことはせず、最後までその美しさを持ちつゞけてゐたことがわかる。
はあのやうな馬鹿げた逸話によつて蓮月尼えらさをおもはうよりも、寧ろ天より與へられた肉體の美しさをさながらに持ちつゞけながらも、自らはそれを超越し、ひたすら心の力によつて清き生活を生き了せ得たところに、蓮月尼の本當のえらさをおもふ者である。
それにしても、若しあのやうな逸話が事實であつたとすれば、はそんな事をした頃の蓮月はまだ人間として一向膽の出來てゐなかつたのであつたとして置きたいものである。

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○ 尼としての蓮月の生活

尼となつてからの蓮月の生活は、しかし、純粹の尼僧生活ではなかつた。その物質生活は布施にのみよつてはゐなかつた。はおそらく托鉢などはしなかつたらう。又他家へ讀經の爲のみに招かれて行くやうなこともなかつたらう。
無論説教などはしなかつたであらう。
姿は僧形であり、心は念佛三昧の法悦境に住しながらも、蓮月は肉體を生かす爲には働くことをやめなかつた。陶器をつくつたり、短册を書いたりすることは、いふまでもなく一面には自身の趣味を滿足させる爲でもあつたらうが、しかし他面にはそれはにとりては自分の肉體を生かして行く上の勞働であつた。
一切を佛の前に捧げて、ひたすら布施にのみよつて自己の肉體を生かして行くといふ佛者の生活には無論たふとさがある。しかし、蓮月のやうにたましひは佛に捧げながらも、なほ且自己の肉體を生かす爲に俗人の營みを續けて行つた生活にも、私達は稀有な貴さを認めずにはゐられない。
蓮月が佛門に入つたのは、決して衆生の濟度が目的ではなかつた。彼女はたゞ彼女一人の救ひの爲にのみ佛に縋つたのである。衆生の濟度を目的としたり、救世の大願を抱いたりするやうな心もちは、寸毫も蓮月にはなかつた。さうした大それた願ひや、さうしたおもひ揚つた心は塵ほども蓮月にはなかつた。終始一貫彼女の求めたところのものは、たゞ自分一人の「救はれ」であつた。此の謙虚さ、つゝましやかさは、私達をして一層蓮月その人を懷かしく思はせるのである。
しかも、蓮月の日常生活は、一衣一鉢の雲水生活のそれの如く簡素至極なものであつたらしい。隨て當時の「はやりつこ」としての蓮月の物質的收入を以てしては、餘つて\/困つたほどであつたに相違ない。
しかし、蓮月はそれらの一切を喜捨した。貧しき人々の爲に又は世の爲になるさま\〃/な事業の爲に、蓮月は凡てを投げ出して顧みなかつた。傳記者の傳ふるところによれば、蓮月が生涯に行つた慈善事業や公共事業は、巨萬の富を擁する人々と雖遠く及ばぬところであつたといふ。而も蓮月自身にとりてはそれは大した事ではなかつたであらう。むしろ物を持つてゐることそのことの方が彼女には堪へられない煩ひであつたであらう。隨て他を救ふことよりも、自らをして常に無一物の境界に置くことの方が、寧ろ先に立つ求めであつたであらう。そしてそこに限りない豐かさがあり、無上の安らかさがあつたであらう。持つてゐる者、持たうとのみ願ふ者よりも、捨てようと求むる者、持つまいと願ふ者にこそ、本當の豐かさと安らかさがある。その豐かさと安らかさとを蓮月は得てゐた。

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○ 蓮月とその時代

さま\〃/な外的及び内的變遷を經て蓮月が上述の如き生活に徹底し得た頃は、世間は我國の歴史上空前の大動亂の起りつゝあつた時代であり、而も彼女の住んでゐた京都が何といつてもその大旋風の中心であつた。
勤王、佐幕いづれもの勇士達が續々として京都に集り來つた當時の有樣は、書物の上で讀んだだけでも今日なほ血湧き肉躍る感がある。ましてそれの渦中に住んでゐたその當時の都人の心持は、それこそ文字通りに戰々兢々であつたに相違ない。
世の中騷しかりける頃
夢の世と思ひすつれど胸に手をおきてねし夜の心地こそすれ
蓮月は歌つてゐるが、いかにもそれは實感であつたことゝ思はれる。なほ
伏見よりあなたにて人あまたうたれたりと人の語るをききて
きくまゝに袖こそぬるれ道のべにさらす屍は誰が子なるらむ
かういふ歌もある。
ところで、さうした中にあつても、なほ且次のやうな逸話が蓮月について語り傳へられてゐる。それはかの明治戊辰の役の折、有栖川宮熾仁親王を征討總督宮に戴き、西郷隆盛を總參謀とした官軍が、堂々として京都を繰り出した時のことであつた。
三條大橋詰にそれを見物してゐた群集の中から、突如として一人の老尼僧が總參謀西郷隆盛の馬前に立現れ、悠揚たる態度で「これを!」といつて一葉の短册を差出した。そして西郷の傍にゐた一人の兵士がそれを受取つて西郷に渡すのを見屆けるや否や、その老尼僧は再び群集の中へまぎれ込んでしまつた。
その老尼僧が即ち蓮月で、短册には次の如き歌が書かれてゐた。
うつ人もうたるゝ人も心せよ同じ御國の御民ならずや
感激性に富んだ西郷南洲は此の一首の歌に、すつかり感じ入つてしまつた。そしてその折の西郷の感激が、後日に於ける山岡鐵舟勝海舟との接衝にの心の動きに深甚な影響を與へたといふことである。
此の蓮月の逸話は、後に福地櫻痴によつて戲曲化され、歌舞伎座に上演したこともあつたりして、蓮月の最も代表的な逸話として人口に膾炙するに至つたのである。
いかにもこれは劇的な事件である。しかし果して眞に語り傳へられるが如き事件があつたであらうか。無論蓮月その人は一個の女丈夫であり、胸に時世に對する感慨の欝勃たるものがあつたに相違ない。しかし、生涯を通じてどちらかといふと隱れよう\/としてゐたあの謙虚な、つゝましやかな蓮月が、いかに感激に驅られたからといつて、傳へられるが如き劇的場面に自ら進んで乘り出すほどに我を忘れるやうなことが有り得たであらうか。私はそれを疑ふ。
無論さうした話が美談としてひろく傳へられた以上、それは無根ではなかつたに相違ない。蓮月があのやうな歌を詠んだことも、又それを何等かの傳手を求めて西郷隆盛に贈つたことも、それが西郷を感動させたことも、その歌がさま\〃/な場合に西郷の口から人々に語られたことも、そしてそれらがやがて國家の大事變の上に隱然として大影響を與へたことも事實であつたと思ふ。しかし、わざ\/三條の大橋に官軍の繰り出すのを待ち受けて云々といふやうな、大袈裟な芝居がゝりな事を敢てするほど、それほどその頃の蓮月は亢奮しようとはにはどうも考へられない。そればかりでなく、宮樣を總督に戴き、錦の御旗を飜へした堂々たる大軍が、今將に都から繰出さうとしてゐた、さうした非常の場合に、如何に何でも雜沓した群集の中から一人だけ飛び出して行つて、總參謀の馬前に立つなどゝいふことが出來よう筈がない。
要するに蓮月の此逸話は、あまりに劇的な修飾が施され過ぎてゐる。前にも述べた如く何等かの機會を得て、蓮月があのやうな歌を西郷に贈つた事だけは事實であらう。そして、それが西郷を感動させもし、又の口から他の人々にも傳へられもした、それも或は事實であらう。或はさうした事がもとになつて、甲から乙へ、乙から丙へと語り傳へられ\/してゐるうちに、いつしかあのやうな芝居がゝりな話が出來上つてしまつたのであらう。けれども、よしそれが後人の附會であつたにしても、さうした話をつくられたり傳へられたりした事だけによつて考へても、蓮月その人のいかにえらかつたかゞ窺はれるのである。而も徒らに勤王黨のやつてゐたことを無條件に是認するやうなことなく、勤王とか佐幕とかいふ差別を超えて、眞に一個の國民としての自覺の上に立つて、時勢の成行に深く心を動かしつゝあつた蓮月の態度は、全くその當時にあつては餘程な非凡人でなくては持し得ないところであつたに相違ない。此の逸話といひ、又、
聞くだにも袖こそ濡るれ道のべにさらす屍は誰が子なるらむ
の歌といひ、更にK舶來の噂に全國の人心が馬鹿げた恐怖におびえてゐた頃詠んだといふ、
ふり來とも春のあめりか閑かにて世のうるほひにならむとすらむ
の歌といひ、蓮月その人の見識の高さと、その同胞愛の博さとは、全く驚嘆に値する。
しかし、かうした高い見地から、又かうした博大な同胞愛を以て、時勢の推移に深く心を寄せてゐたにも拘らず、蓮月は當時或種の人々から徒らに勤王黨にのみ味方する者と見られ、その爲に佐幕黨の一味から怖るべき迫害をさへも蒙らうとしたことがあると傳へられてゐる。
その事について甞てこんな話さへ書いた人があつた。
が岡崎聖護院にゐた時分のこと、或夜丑みつの頃、大の男が戸を外して這入り『尼さん金を出せ。』と云つた。
 は臥したまゝ『お前さん門違ひをして這入つたのぢやないか。金でも何でも意に叶つた物があつたら持つて行きなさい。』と云ふ。それから自分も起きて火鉢の火を掻きながら、強盜のする處を見てゐる。
 と、押入の中から衣類などを取り出す。は大風呂敷を出して遣る。さうして、『お前さん定めてお腹が空いてゐるだらう。湯を沸して上げるから茶漬でも食べて行きなさい。』『いや、そんな悠長な事はしてゐられん。』『左樣か。それなら昨日他所から貰つたハッタイの粉(*麦こがし・香煎)があるから、あれをぬる湯でまぜて食べてはどうか。』『うん、それなら暇も入るまい。よばれて行かう。』といふので、蓮月は貰つたまゝの麥香煎を重箱から茶碗に移し、鐵瓶のぬる湯でまぜまぜして、三杯まで食べさせてやつた。
 賊は食べるなり出て行く。は賊を見送り元の座に戻つて、
白浪のあとは見えねど岡崎に寄せ來し音は猶のこりけり
など口吟んで、そのまゝ臥床に入る。
 うと\/としたと思ふと、戸を叩く者がある。眼をさますと最早夜が明けてゐた。戸を明けて見ると南禪寺の知合ひの百姓だ。
 『お早う御座います。』
 『早くから何御用。』
 『いや、蓮月さん、私がなア、今朝早く畑へ小便を擔いで行くと、蹴上けあげへ出る道に人が倒れてゐるから、これはしたりと荷を卸して側へ寄つて見ると、一人の男が大きな風呂敷包を背負つたまゝ死んでゐますのや。處がその風呂敷の端に蓮月と書いてあるので、これはアンタの使の人に相違ないと思つて知らせに來た譯どす。アンタ大津へでも使を出しなはつたか。』といふ。
 蓮月も少しく駭いたが、
 『それは御苦勞樣でした。は別に使を出しませんが、實は昨夜夜更けに、顔馴染のない客人があつて、いろ\/と困るやうな話でしたから、の詰らぬ物を何やかや取出して、風呂敷も一しよに進ぜた譯です。それでは其人が倒れてゐるのでせうか。』
 『あゝそれだ。アンタは又泥棒に這入られなはつたか。屹度その泥棒に違ひない。兎に角アンタも關り合せだ。來て見てやりなハレ。』
といふので、蓮月も據ろなく往つて見ると、擬れもない昨夜の賊で、大變に吐血して死んでゐる。遉がの蓮月もこれには愕いた。は此事に座して數囘役所へ喚問された。が、麥香煎の出處に就ては、何遍詰問を受けても、
 『は獨身者で、ハッタイの粉は便利で御座います處から、毎度諸方から頂きまして一向覺えが御座いません。』の一點張で通した。
 遂に此事件は結局有耶無耶に葬られてしまつた。何者かゞ、ハッタイの粉に毒を混ぜ、近所の老婆を使つて蓮月の許へ運ばせたのである。」
これもあまりに因縁話じみてゐて、どうもそのまゝうけ入れ難い話であるが、しかしこれによつて見ても、蓮月が如何に世間から勤王黨視されてゐたかゞ窺はれる。
尤も蓮月の交つてゐた人々の中には、梅田雲濱とか梁川星巖とか云つたやうな勤王の志士が少くなかつたから、が世間からさう見られるのも無理はなかつた。しかし、蓮月の本當の心もちは、さうした差別境を超越した博い同胞愛に基いたものであつたことは前述の如くである。又それであつたればこそ、あのやうなわが國の歴史上空前の大變動期ともいふべき時代に、しかもその中心地であつた都に住みながらも、なほ且あのやうな靜かな清い心を以て生活することが出來たのであつた。
この時勢に對して無關心どころか寧ろ積極的な關心をもちながらも、而もあのやうな稀有な清閑な生涯を送り得たところに、蓮月の本當のえらさがあるのだと思ふ。それであればこそ、當時動亂の渦中にあつた人々にさへも、蓮月の庵はありがたくも貴い、たましひの休息所として懷まれ慕はれたのであらう。そこにあの時代に於ける蓮月尼といふ一個の人物の存在の最大價値と意義とがあつた。
蓮月の讃美者は徒らに彼女を女丈夫扱ひのみしないで、何よりも先づ此の一點に着目しなくてはならぬのではなからうか。

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○ 曙覽の蓮月訪問

蓮月の名はあまりに高かつた。蓮月を訪ねた人はあまりに多かつた。蓮月みづからは常にその煩はしさから遁れよう\/としてゐた。ひたすら自らのたましひの靜かさを求めてゐた蓮月にとりては、そこに大きな矛盾があつた。遁れようとすればするほど、ます\/慕はれる其の矛盾の爲に、彼女はどんなに苦まされたことであつたらう。
しかし、時代の荒浪に揉まれながらも、心の奧の靜かさを求めずにゐられなかつた人々にとりては、蓮月の庵は得易からざるたましひの休らひ場所であつた。而もさうした心の奧深い眞實の求めを以て自分を慕うて來る人を蓮月はよく知つてゐた。そしてさうした人々と共にあることは蓮月にとりても大きな慰めであつた。
そのやうな眞實な心を以て蓮月に向つて交りを求めて來た人も、また決して少くはなかつた。さうした人々の中に、は私の最も好きな古人の一人であるところの越前の井手曙覽(*橘曙覧)のあつたことをたまらなく愉快に思ふ。而も蓮月を訪ねた折の光景は、また何といふ曙覽式なものであつたらう。
貧歌人曙覽蓮月を訪ねたのは、文久元年九月であつた。その年の八月廿七日は長男今滋を伴うて伊勢參宮の旅に上つた。京都に立寄つたのは、その歸途であつた。その時曙覽は五十歳、蓮月は七十一歳であつた。
九月二十五日京都に着いて一夜を五條邊の旅舍に明した曙覽はその翌日親戚に當る醫師安藤精軒の家を訪ねて旅裝を解いた。そしてその日直に蓮月の庵を訪ねた。曙覽はその折のことを、其の旅の日記「榊の薫」の中にこんな風にしるしてゐる。
「廿六日。ひよし。人のかねことつてたる、東洞院に、村上某のもとにもてゆく。むろ町なる安藤氏とぶらふ。茶くだ物いだし、ひるのまかなひくさ\〃/物す。あるじこゝにやどりて、ゆくらかに物見ありき給へ、はた旅のつかれもやすめ給へなど、ねもごろにいひけるにより、やがて二人ともに此家にうつろひやどる。
 蓮月尼とぶらふ。安藤氏より人つけてあないさす。丸太町すぢの川ひがしなか處なり。聖護院宮のしり給ふ御さかひ内にて、植木屋某のうしろのかたに、さきみだれたる秋の花どもおしわけ、柴の戸うちたゝく。うちより誰にやとゝがむ。あないの人、こしのあけみといふものに侍りと先いひけるに、いとうちおどろきたるけはひして、そよ\/(*そうだ、そうだ。)と出むかはる。此いまだたいめ(*対面)はえせざるなからひなれど、此春ばかりなりけん、せうそこしはじめて、かたみに心かよはす思ふどちなれば、物のついでにおとづれ物しけるを、いたくよろこびて、かねて、なつかしうは思ひわたり侍る物から、まのあたりかうたいめし侍らんとはゆめ思ひよらざりしなど、かへす\〃/いたはりいふ。やゝ時うつるまで物がたりし、いまはかへりなんといふに、みやどりはいづこにかし給へると問へば、室まちなる安藤氏に今日ものし侍りつるが、明日よりは、三ぼん木なる山紫水明處とかいへるに、かり居し侍らんとすとこたふ。(山紫水明處はもと頼山陽の幽居なりけるが山陽なくなりてのち、安藤氏かひとりて今は此家の別業にせられたるなり。おのがこの度都に物しける、同じくは靜かなるところよかめりとて、安藤氏、此の別業をしばらくかしくれたるなり。)(*原文割註)
 さあらんには、こゝにはいと近く侍り、かならずあまたゝび物し給へなどいふ\/、あたり見まはし、おほきなる急注(*急須)、また茶のふくろにいりたるなど、おのがまへにつきすゑ、これもて行給ひてよ、かりやは物たらはぬがちなるものなり、ようじ給ふもの侍らば、わく子(*井手今滋)して告給へ、御こゝろをなおき給ひそと、かへす\〃/いふ。いとかたじけなうとて、うなづく\/わかる。かへさに山紫水明處見にものし、しばらくゐて、安藤氏にかへる。」
これが曙覽蓮月との初對面であつた。その折二人の間に取りかはされた會話のいかなるものであつたか書いてないのは遺憾であるが、大體に於て、蓮月の應接ぶりから彼女にとりて此の越前の貧歌人が如何に氣にいつた客人であつたかは推察することが出來る。
ところで、面白い事には、曙覽がその折蓮月から貰つて歸つた急注を、その翌日あまりに強すぎる火にかけた爲に破つてしまつたのである。その事をはこんな風に書いてゐる。
「 … 酒あたゝめんとしけるが、おこし火のあまりにするどくて、かの蓮月尼のかしくれたるきふす(曙覽はそれを貸してくれたものと思つてゐた)(*これは御風の注記)碎けゆく。心ぐるしう思へどすべなし。」
それから十日後の十月五日に曙覽はふたゝび蓮月を訪ねた。
「五日。雨いたくふり、風つよくふく。きのふ物ども雨にあひて、ぬれくたれけるより、女あるじさらにあだしき物とり出できせたる、いといまめきたる物なりけり。家にある程の事なりければ、をんなのきものゝ、たよりよきところにあるとて、とりてかりそめにきせたるなりけむを、さなりとも心づかで、此衣ながら蓮月尼がり行。
 今滋うしろより、のき給へる衣は、女のなりと見えて、袖ちひさく、つまいと長く侍り。さる故にやあらむ、あふ人ごとにめをつけて、わらひつゝうちすぎ侍りぬといふ。
 雨にて加茂川すぢ水高し。橋いたのうへまでうちひたす。雨なほこきたれふる。鶴はぎ(*臑を長く現わすこと)になりて、橋わたり、ところ\〃/あふれあがりたる水のあるをもかちわたり、今滋尚綱がりやりて、見せおきたる文とりかへさす。ひとり蓮月尼のもとにはいたり、明日はこゝ出たゝんとする心がまへのよしつぐ。さきにかりたりし急注、こゝろならずわらしたるよしいひ出て、そのあやまちを返す\〃/わびつゝ、
ゆく水のゆきてかへらぬしわざをばいひてはくゆるかもの河岸
などいひつくろふ。かの物はぬしにまひらせんの心なりける物を、そこなはし給へりとて、なにのくるしき事かはあらんとて、物もいはせず、かねてあつらへたりしたにざく出してくる。おのれも此ごろ書すさびたるをまゐらす。何くれ歌物がたりしをるうち、今滋岡崎より歸りたりとて柴戸あけて入る。あるじの尼まめやかにものして、今滋にものとらす。時うつりぬれば、わかれをつぐ。また雨にぬらされて歸る。 … 」
これを讀むと、飄逸無頓着な曙覽その人の面目の躍如たるものがある。雨に逢つて自分の一張羅をずぶ濡れにした爲、宿の女主人の着物を借着し、而もそのとりわけ今樣な女着物を着たまゝ、尻はしよりをして京の市中を平氣で濶歩してゐたその折の曙覽の樣子こそ全く見ものであつたらう。
途中で同伴の忰今滋にそれを注意されて、初めて道行く人々が自分を見て變な顔をして笑つて通りすがつた理由がわかり、我ながら唖然としはしたものゝ、「なあにかまふものか。」とそのまゝ引返しもせずに淡々として蓮月の庵を訪ねた、その曙覽の洒脱にはたゞ\/驚嘆の外はない。
蓮月曙覽のこの珍な訪問振りをどんな風に感じたであらうか。曙覽の日記にはその折蓮月尼に笑はれたといふやうな事を少しも書いてゐないところを見ると、蓮月も亦それをたいして氣にもとめなかつたのであらう。或はそれと氣付きはしたものゝ、さうたいして問題にはしなかつたのであらう。
この二人の對面振には、たしかに双方の心境の現れがある。はその光景を想像する度に嬉しくなる。

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○ 蓮月の藝術

人としての蓮月はたしかにすぐれてゐたが、然らば歌人として、若くは藝術家としての蓮月はどうであつたか。
これまで人々によつて傳へられたところによると、蓮月ほど多藝の人は少かつたといふことである。
歌に秀で、書にもすぐれ、繪もよく書き、蓮月燒といふ名を天下にひろめたほどに陶工としても非凡な才能を示した。そればかりでなく薙刀その他の武藝に於てもかなりな域に達して居り、碁の名手でもあつたといふことである。
さういふことから考へて見ると、蓮月といふ人は、生れつき才の勝つた、器用な人であつたに違ひない。而も一個の人間としての蓮月は、世にも稀な浮世の辛酸を甞め、幾度となく暗い運命のどん底にまでもたゝき落されての試練を經た上に、佛教によつて魂の救ひを得たお蔭で、あれほどの生活の高さと清さとに達することが出來たのであつた。
しかし、飜つて歌人としての蓮月を見ると、遺憾ながらはそこに其人の持つて生れた才氣のあまりに多く煩ひしてゐる事實を否定し得ないのである。
當時にあつては歌人としての蓮月の名聲は素晴らしいものであつたらしい。しかし、今日私達が靜かに蓮月の歌を讀むと、そのあまりに才氣に走り、文字の遊戲のあまりに多いのに、甚しい失望を感ぜずにはゐられぬのである。
この事については、最近「明治大正短歌史概觀」を書いた齋藤茂吉氏も、次の如く云つてゐる。
蓮月の歌の『宿かさぬ人のつらさをなさけにて朧月夜の花の下臥』といふ歌は有名だが、この歌をは感心しない。ただかういふ、尤もらしい、人心の機微をあらはしたものだなどゝ思はせるやうな歌が、當時有名になつたといふことは、當時の歌壇乃至一般の鑑賞者の氣持が分るのであつて、當時の歌壇風潮を知る一つの目安となるのである。」
一體蓮月は最初何人について歌を學んだのであらうか。或は上田秋成彼女の最初の師匠であつたといひ、或は小澤蘆庵に最深く私淑してゐたといひ、或は千種有功が本當の師であつたといひ、又彼女みづからは別に定つた師といふものがなく好きのあまり見まね聞まねで詠みおぼえたと云ひ、いまだにその眞實がたしかめられてゐない。
しかしいづれにしても、蓮月の歌を讀んで見ると、あまりいゝ系統を引いてゐないだけはわかる。どちらかといふと蓮月の歌は、頭の先と筆先との器用さがあまりに露出してゐる。調子が甚だ輕く、懸詞などを無暗に弄使した拵へ歌が甚だ多い。
あれだけの高く清い生活をしてゐた人がどうしてこんな薄つぺらな輕い歌ばかり多く詠んでゐたのであらうか。これは加賀の千代の句に對した場合と同じやうに、には一つの大きな疑問である。而も兩者とも甚だしく俗受してゐた點に於ても相通ずるところがある。
おもふにこれは、千代の場合に於けると同じく蓮月にあつても、其の師匠の惡かつた事が第一の原因であつたのであらう。更に第二の原因としては、蓮月自身も略歴の中に書いてゐるやうに、
「 … ゑりたる歌もたゞすきにてよむとはすれど、むかしより、いとまなく、いやしき身にて、よき大人によりてまなぶことをせざりければ、人の口まねにてかたことのみなり。」
彼女自身たゞ好きだから詠むといふ風な輕い氣持で取扱つてゐた、その作歌態度にあつたのであらう。
蓮月の家集は明治三年に刊行された「海人の苅藻」がそれで、近藤芳樹渡忠秋が序文を書き、さくら戸玉緒上田ちか女が跋文を書いてゐる。近藤芳樹の序文によると、蓮月には自筆の歌集などはなく、無頓着にたゞ詠みつぱなし書きつぱなしゝてゐたものらしい。その無執着な態度は誠にゆかしいが、しかし歌そのものに對してもどうもさうした無造作な心もちが働いて、それが少からず煩ひしてゐたのではなからうか。
近藤芳樹の序文にも、渡忠秋のそれにも、蓮月の人柄や生活は賞めてあるけれども、その歌をどう見てゐたか、殆んどその點には觸れてゐないのは惜しいが、これらの人達には相當に高く評價されてゐたことは疑へない。
蓮月の歌は大多數題詠である。そしてその多くは機智が先に立つてゐる。
ながれ來る氷にそひて鶯のこゑも流るゝ谷の下水(早春)
青柳の下ゆく水にかげみえて聲もながるゝ春のうぐひす(鶯)
とけわたる氷にそひてはるのよの月も流るゝ井堤の玉川(河春月)
かういつたやうな歌を見ると、どうもやはり氣のきいたおもひつきが先に立つてゐるとしか見えない。
宿かさぬ人のつらさをなさけにて朧月夜の花の下ふし
といふ名高い歌を讀んで、「花のころ旅にありて」と詞書がしてあるにも拘らず、何となく實感味の乏しいのを感じずにはゐられない。「人のつらさをなさけにて」などの言ひ現はし方も、頗る氣が利いてゐるやうであるが、而もわざとらしさが目に立つ。
現に題詠の歌にも、
このもとの花のみゆきを枕にて春の夜さむき月を見るかな(春月)
といふのがあるところを見ると、「花の下ふし」も想像の上の興味が主になつてゐるとしか思はれない。
同じく題詠であつても、
水邊鶯
おりたちて朝菜洗へば加茂川のきしのやなぎに鶯の鳴く
うぐひすの都にいでん中やどにかさばやと思ふ梅咲きにけり
山春月
ぬえ怩フ榎のこずゑほの見えて粟田の山にかすむよの月
新樹月
日をさへし葉がくれ庵のうれしきはすこしもりくる夕月のかげ
秋山
はらはらとおつる木のはにまじりきて栗のみひとり土に聲あり
冬獸
毛衣のぬるるにたへぬ子狐やみぞれ降夜を鳴明すらん
山家
山ざとは松のこゑのみ聞なれて風ふかぬ日はさびしかりけり
K
としを經しくりやの棚にくろめるは煤になれたる佛なりけり
きりぎりす
老いて病むまくらのしたのきり\〃/すおなじ寢覺にきく人もなし
秋夕
古池にそらとぶ雁のかげ見えて柳かつちる秋の夕ぐれ
これらは作意もさして目に立たず、自然に心にしみ入るところがあるが、かういつた風の歌は甚だ少いのである。
更に實感の歌に至つては一層少いが、それでもその少數のうちにはやはり歌として最も佳いのがある。例へば
山王祭のかへさ志賀の山ごえにて
朝かぜにうばらかをりて時鳥なくや卯月の志賀の山越
八月十五夜
岡崎の月見に來ませ都人かどの畑いもにてまつらなん
初て田舍に住みけるとしのくれに
柴の戸におちとまりたるかしのみのひとりもの思ふとしのくれ哉
世の中さわがしかりける頃
夢の世とおもひすつれどむねに手をおきてねし夜の心地こそすれ
ふしみよりあなたにて人あまたうたれたりと人のかたるをきゝて
聞まゝに袖こそぬるれ道のべにさらすかばねは誰が子なるらん
つちもて花がめを造りて
手ずさびにはかなきものを持出てうるまの市に立ぞわびしき
花のころ山ぢにて
わけきつる花のかをりにわれゑひてここにねむたくおもほゆる哉
山がらすねぐらはなるる聲すなりおきて佛にあかまつらまし
たびにていとくるしければ、とくやどりとらましとおもふに
はたごやのすのこのはしにゐる猫のせのかぎりこそ日はのこりけれ
戊辰のはじめ事ありしをり
うつ人もうたるゝ人もこころせよおなじ御國の御民ならずや
あだみかたかつもまくるも哀なりおなじ御國の人とおもへば
述懷
あけたてば埴もてすさびくれゆけば佛をろがみおもふことなし
辭世
ちりほどの心にかゝる雲もなしけふをかぎりの夕ぐれのそら
これらには多少技巧のうまさが目につくところはあつても、やはり實感は實感だけに胸をうつところがある。そして蓮月尼その人をおもはせるに充分である。
しかし、どちらかといふと、人としての蓮月と、歌人としての蓮月の間には、高さに於てよほどの隔りがあることだけは、いなむことは出來ない。歌の道に於ては蓮月は謂ふところの月並歌にあまりに囚はれ過ぎてゐた。それはあのやうな生活を營んでゐながらも、なほ且戀の部に屬すべき題詠の歌の少くないのでもわかる。
更に蓮月の他の藝術、即ち彼女の陶器、彼女の繪、彼女の書はどうであらうか。遺憾ながらはその陶器の味や繪の特色について語り得るほど、それらの多くを見てゐないが、少くともの見た少數の作品によつて知り得たところを以てすれば、やはり歌に於けると同じくそれらにも巧みさはあるが、氣品の高さが乏しいやうである。手ずさびの味はあつても、魂の潤ひが足りないやうである。
だが、それらに比べると、蓮月の書はずつと妙味に富んでゐはしないだらうか。面相筆で書いたといはれる、あの一種獨特な蓮月の書風には、たしかに心を惹きつける何ものかゞある。不思議に書に於ては蓮月は何ものにもとらはれてゐない。極めて自由に自分獨特の字を書いてゐる。達者さはあるが、厭味がない。奇拔のやうでゐて、わざとらしさがない。ともすれば騷々しく感じさせさうでゐて、而も妙に一種の靜けさと、落ちつきとがある。蓮月の藝術としては、やはり書が最もすぐれて居り、且最も自然に自己を表現してゐるのではないかと思ふ。少くともには蓮月の書は懷かしいものゝ一つである。
しかし、蓮月の陶器や書が盛に世にもてはやされるにつれて、その贋物を造つて賣る者が續々現れて來たのに對して、蓮月自身は平氣でそれをゆるし、自分の物の贋物で渡世が出來るなら寧ろそれは結構な事だといふ風にまで考へてゐたといふ。その蓮月の無執着は、一面その人の心の高さを思はせると同時に、他面その人の藝術に對する態度を明らかにしてゐるものである。
人としての蓮月のめざしてゐたところは非常に高かつた。しかし、彼女は藝術に對しては、どちらかといふとそれを第二義的に取扱つてゐた觀がある。そこが人としての蓮月と藝術家としての蓮月との間に、かなりの隔りを生じた所以ではなからうか。

[見出し]

○ 結語

要するに蓮月尼えらさはその人にあつた、その生活にあつた。しかし、世間の或種の人達がするやうに、蓮月を以てはいたづらに女丈夫呼ばゝりをし、烈婦よばゝりをすることによつてその人をえらく見ようとはおもはない。無論、蓮月にはさうした一面はたしかにあつたに違ひない。しかしはそれよりも寧ろあのやうな社會的大動亂の時代にあつて聊かも取亂すやうなことなく、却てその反對に宗教と藝術とによつてつくり出された清く、高く、美しい平和な魂の世界を社會の一角に確保し、それによつて多くの傷いたり惱んだり狂つたりし勝ちな時代人に世にも稀な魂の安息所を與へた、その點にこそ蓮月の眞のえらさを認める者である。
而も又蓮月によつてつくり上げられた其の稀有な安樂世界は、彼女みづからの血みどろな心の苦みから彼女みづからの爲に求めた救はれの世界であつた。即ち蓮月その人は決してそれを世の爲、人の爲になど求めたのではなかつた。即ちたゞ自分一人の爲に眞劍に求めた蓮月の救はれの世界が、やがて同時に多くの人々の魂の安息所となつたのであつた。更に云ひかへれば蓮月一人がたゞ自分一個の爲に求めた救ひが、期せずして同時に多くの人々の救ひとなつたのであつた。はあのやうな社會の大動亂時代に於て、あれほど高く、清い、靜かな魂の世界を、世の一角に確保し得た、その點にこそ蓮月その人のえらさと、又その人の社會的存在の意義と價値の偉大さを認め且讃嘆する者である。
更に一方にさうした偉大な社會的使命を果しつゝありながら、蓮月みづからは聊かもそれを意識せず、却てます\/つゝましく謙虚に身を處してゐた — そこにその人の此上ないゆかしさがある。現はれゝば現はれるほど、みづからはます\/切に隱れることを望んだ。而も彼女がひたすら自分一人の救ひを求めて辿り入つた法悦の世界が、おのづから萬人の爲に魂のやすらひを與へる世界であつた。
女性、而も人並すぐれた美しさに惠まれた女性であり、人並すぐれた豐かな趣味と藝能とを持ち、更に\/血みどろな體驗を經て來た上に得た法悦の世界を持つてゐた蓮月その人を慕うて、志士、文人、政治家、武人、學者、下郎、遊女等あらゆる種類、あらゆる階級の人々が、貧しい彼女の草庵へと集つて行つたあの當時の光景を想像する時、は何とも云へない懷かしさを感ずるのである。
物質的には貧しさの限りをつくしたやうな蓮月尼の庵ではあつたが、そこには多くの傷ける魂を無言のうちに和らげ、あたゝめてくれる、宗教と藝術との不可思議な渾融によつて釀された貴い雰圍氣があつた。そしてそれによつて蓮月は求めずして大きな功徳を施し、期せずして大きな社會的使命をも果した。
あの時代に於てかうした社會的使命を果した人は、おそらく蓮月尼ばかりではなかつたであらう。越前の貧歌人井手曙覽の如きも正にその人ではなかつたか。要するに社會はさうした隱れた靜かな魂の把持者等の功徳によつてこそ、如何なる動亂を經てもその根底の靜かさを保ち得るのであつた。蓮月尼を以てさうした人々の一代表と見做すことによつてこそ、眞に蓮月の名を讃へたいのである。

(*我観蓮月尼 <了>)

 緒言  目次  良寛に愛された尼貞心  貞心尼雜考  加賀の千代  千代尼雜考  我觀蓮月尼
 【古典テキスト】  貞心尼遺稿(蓮の露、他)  千代尼句抄  蓮月尼歌抄

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