真夜中の脳みそ
詩集「半熟卵」(Update:2001.
9.16.)
コラム「午前3時の天気予報」(Update:2004.
8.21.)
AIBO日記(Update:2003.11. 3.)
アルバム(Update:2003.1.31.)
「紺野」とは?(Update:2004.
8.21.)
Links(Update:2002.10.20.)
更新ログ(Update:2004. 8.21.)
Mail Me !
|
第50回 コラム:アスラン・J・カーレンリース追悼
少年の名はアスラン・J・カーレンリース。通称アッシュ・リンクス。吉田秋生氏著のマンガ「BANANA FISH」の、ミドルネーム"J"(jade:翡翠)のような緑色の目をした知能指数180以上の天才超美形主人公である。1986年に連載が始まり、主人公が世を去ることで1994年に7年にもわたるこの長編大作に終止符が打たれた。連載は7年にもわたっているが、「BANANA FISH研究白書」アッシュ・リンクス追悼委員会編(岡文出版、ISBN 4-8103-7541-2)によれば、物語中では1986年から1987年の2年間の出来事であり、その記述を信じると2000年3月はアッシュの13回忌(享年18歳)となる。
BANANA FISHはマンガである。が、決して掲載誌が少女マンガ誌だからといって少女向けなのではない。内容はハードボイルドであり、読み応え、ストーリー性、描写されているリアルさ、緻密さ、それらの構成全てをとっても男女問わず年齢層をこえた、(万人にとって、とまでは言わないが)読んでおいて損はない作品である。今読んでもあまり古さを感じない(しかし、冷戦の時代を物語の背景として用いているので、その部分はさすがに古さを隠せないが)。現在文庫版(小学館)が入手可能。また、古書店、マンガ喫茶で目にすることもあるだろう。
少女漫画としての要素である、美形、天才主人公というものは持っている(実は劇中の初盤では「美形」というより「やんちゃな少年」という感じがしないでもない。が、話が進むに従って、というより著者が描き込んでいくに従って「美形」になっていく)が、定番の「愛」はほとんど全く描かれない。登場するキャラクターの9割以上が男性(さらに同性愛嗜好者も少なくない)で、しかも欲望と暴力とストリートギャングと銃とドラッグ、マフィアと大国の陰謀等おおよそ普通の社会生活を営んでいればあまり身近に感じることのない要素で構成されている(舞台が1980年代後半のニューヨーク、マンハッタンということで、あえて現実と異なることを示しているのかもしれない)。描いた著者も凄いが、このマンガの掲載を了承した編集者、編集長は只者ではないといえよう。
まぁ、いかにもマンガ、という描写も少なからず見られる。
例えば主人公アッシュはSmith&Wessonの3.5インチ銃身リボルバー拳銃(口径0.357インチ、コンバット・マグナム)を愛用しており、百発百中のガンファイトを見せてくれる(リボルバーを愛用する理由としてオートマチックだと自分自身に歯止めが利かなくなる、とアッシュは言っているが、格好のよさと単発での命中精度はさておき、実戦の実効制圧力から考えればオートの方がはるかに有利だ。よって世界中の軍の制式銃は全てオートである)が、一般に銃身が短くなれば短くなるほど命中精度は落ちる。銃弾も軽くなれば軽くなるほど命中精度が落ちる(反動がその分小さくなってぶれは少ないが)。劇中彼は10mほど離れた地点からストリートギャングの眉間を正確に撃ち抜いている(しかも夜、レーザー照準なし、片手、速射)のだが、いくら彼が天才的射撃技術を持っていても無理だ。オリンピックの射撃選手が精神を集中させて慎重に両手で昼間撃っても必ず満点となるわけではない。いくら天才とはいえ図抜けすぎである。
また、アッシュの師匠であるブランカがアッシュの盟友シンの肩にライフルの銃身を乗せて遠方のヘリコプターのパイロットを射撃する描写(当然のように二人ともイア・プロテクター(耳の保護器具)装着なし。現実の射撃ではたいてい装着する)があるが、実際にそのようなことをするとシンの鼓膜が破れる可能性が高い(また、ライフルのような遠距離の射撃の場合、射手の鼓動や呼吸すらも命中精度を下げる要因となるので、肩を貸してくれる人間の微妙な動作も考慮に入れなければならないとなると、これも現実離れしている)。
銃は身を守るための道具ではなく、相手を殺傷するための道具である。よって、使用は管理され、社会的に許された範囲内でのみに限定されるべきと考える。私は競技用の的以外を狙うべきではないと思う(狩猟生活を営まざるを得ない者以外は)。だが、マンガや映画といったドラマにとっては魅力的なアイテムであることは否定のしようがない事実である。この点を誤解のないようにお願いしたい。
私とアッシュとの出会い(いやBANANA FISHとの出会い)は大学3年(1990年)の時であったので、BANANA FISHを読む人間としてはかなり新参の方である。それまで書店で単行本の黄色い表紙を見かけることがあって、かなりひかれてはいたのだが、実際に手に取るまではいかなかった。大学時代私は学生向けの学類(普通の大学では学科)情報誌の編集を手がけており(学生が自主的に行っていることであり、報酬は一切ない)、その編集者、編集者と仲がよい者たちが学生控え室をたまり場としていた。その学生控え室にはありとあらゆるマンガ(単行本、マンガ雑誌)があった。学生控え室に出入りするものが、互いにマンガを供給し合うことによってその関係が持続していた。ある日私より2年後輩がBANANA FISHの単行本を持ち込んだ。当然その日は一気に読み進み、そして続巻を渇望するようになった。
なぜひかれるのか、という問いに対しては「カッコいいから」と言うしかないのだが、アッシュの天才ゆえの、社会の暗部に属するがゆえの孤独、苦悩、危うさが伝わってくるのもまた事実である。「辛くてどうしようもないとき、死は甘く誘惑に満ちたもののように感じられる。」この台詞がそれを象徴している。そしてアッシュは完全に心を許したたった一人、奥村英二に対してだけにしかプライベートな面を見せない。その頑なな姿勢が私の心を熱くする。その孤独から解放させるただひとつの手段でさえも自らで拒む。それが「カッコいい」。勝手な読み手の戯れごとと取ってもらってもかまわないが、アッシュの存在は今の私に対して影響を与えたひとりであると言える。
そのためか、読み出すとついついBANANA FISHの世界観に引き込まれてしまうため、最初からでも途中からでも何度も読み返しては最後まで読んでしまう。しかし、私には未だにあまりにも最後のシーンが辛すぎる。アッシュの死なくば物語を終わらせることができない、死があるからこそドラマとして美しく終わっている、それでこそドラマとしての完成度を保っているのと理解してはいるのだが、それでも私には辛い。
著者もその(アッシュを死なせた)罪悪感があるからなのか、連載終了後いくつか外伝を描いている。その外伝もまたできが良く、本編とのつながりも違和感がない。読み手に納得させるものに仕上がっている。改めて著者の構成力を感じる。
私はアッシュ(いや、BANANA FISH)との出会いが自分にとってプラスであったと思っている。だからこそ、今現在連載中の同じく吉田秋生氏著「夜叉」(小学館)を読み続けているのかもしれない。
(2000. 3.20.)
今回参考にしたもの
- BANANA FISH 吉田秋生著 小学館
- BANANA FISH 研究白書 アッシュ・リンクス追悼委員会編 岡文出版
- GUN 用語辞典 Turk Takano監修・編集 国際出版
Prev Next |