更新中 2020年7月
1.はじめに
三島市は、箱根山の麓を流れる大場川と愛鷹山の麓を流れる黄瀬川に挟まれた幅約3Kmの南へ傾斜した扇状地にある。また 富士山、箱根山、愛鷹山に囲まれている。
富士山は約10万年前に誕生した青年期の活火山で噴火が心配されている。※1
箱根山は約50万年前に誕生した年老いても元気な活火山で、大涌谷や小涌谷のような噴気活動を行っている。
愛鷹山は約30万年前に誕生し、10万年前から活動していない。
火山の一生は、単成火山のように一回の噴火で終わる火山やホットスポット火山のように数百万年も活動する火山もある。島弧の噴火をくり返すような火山は、複成火山という。複成火山の寿命は約40万年と考えられている。富士山、箱根山、愛鷹山は複成火山である。複成火山の山腹で噴火する側火山(寄生火山)は単成火山である。
三島市を覆う扇状地堆積物の下には、富士山が噴出した三島溶岩流が分布している。しかし、三島駅、楽寿園を中心とする地域には、三島溶岩が地表へ露出している。三島溶岩全体を表現するときには、三島溶岩流とし、岩石として部分的に表現するときには、三島溶岩とした。
富士山、箱根山、愛鷹山に降った雨のうち地下へ浸み込んだ水は、伏流水となり、やがて三島の各所で湧水となる。
※1 火山の年代は火山岩に含まれる40Kー40Arなど半減期が長い放射性鉱物を分析して測定する。
複成火山 | |
図1.静岡県東部地質図 1:第四紀層、2:第四紀の火山、3:第三紀層の山地、4:第三紀の火成岩山地、 5:古第三紀とそれ以前の古い地層からなる山地。 PAC:太平洋プレート、EUR:ユーラシアプレート、PHS:フィリッピン海プレート (Imanaga 1989) |
2.三島の地形
南へゆるやかに傾斜した三島市の扇状地はどのようにしてできただろうか。
富士山は、約2900年前、東斜面が大崩壊した。この崩壊は「御殿場岩屑なだれ」と呼ばれている。以後、御殿場付近へ堆積した岩屑なだれの堆積物は、洪水のたびに土石流となって、古酒匂川や古黄瀬川へ運ばれた。古黄瀬川では、愛鷹山と箱根山との間の谷に運ばれ、三島溶岩流を覆って、南へゆるやかに傾斜した台地の三島扇状地を作った。この土石流は「御殿場泥流」と呼ばれている。三島扇状地には、もちろん箱根山麓や愛鷹山麓から運ばれた土石も含まれている。
扇状地の等高線は、開発が進んで分からなくなったが、明治20年の地形図を見ると、等高線が扇状に分布しているのが分かる。(2図)
御殿場泥流の堆積物は、崖や建設の掘削現場で見ることができる。(図3)
(扇状地の海抜高度:幸原町約50m、楽寿園約35m、南本町約20m、長伏約10m)
図2.三島市付近の古地形図 昔の等高線の分布を見ると、三島市や清水町は、扇状地の地形を示している。(明治20年陸地測量部 2万分の1地形図) |
図3.竹原の扇状地堆積物 竹原の湧水池(窪の湧水)は、扇状地堆積物(御殿場泥流)の崖下からの湧き水がたまっている。この崖は、砂礫層が主で、赤褐色のスコリアやマサと呼んでいる細粒の砂層も堆積している。 メジャーは1m 2011年10月21日写す。 |
図4.三島市の地質断面図 鮎壺の滝付近には三島溶岩の下に愛鷹ローム層が分布するのでEW-3,EW-5へ加筆した。 |
@箱根火山と愛鷹火山に挟まれた古黄瀬川の時代(旧石器時代 3万年前頃の様子)
三島付近は、箱根火山と愛鷹火山に挟まれた谷底で、流れる川を古黄瀬川と呼ぶことにする。三島溶岩(約1万年前)に覆われる前の時代である。
この谷底の中心は、現在の黄瀬川と大場川の中間付近にあった。地質断面図の三島溶岩の基底にある火山砂礫層は、この谷底を流れる古黄瀬川の砂礫に違いない。古黄瀬川が流れる谷は、現在の地表から約70m地下にあった。この時代は氷河期で海面が現在より低かった。(図4の茶色破線)
旧石器時代、箱根山西麓には人類の生活の跡がある。初音ヶ原遺跡(三島市谷田)は箱根火山の火砕流によってできた暖傾斜な丘陵地に位置し、面積約3万平方メートルに及ぶ広範なものである。初音ヶ原遺跡にはA.T(姶良丹沢火山灰3万年前)に覆われた土坑(pit)や石器が見つかっている。土坑は小動物を捕獲するための落とし穴と考えられている。
図5 箱根火山と愛鷹火山に挟まれた谷の時代(模式図) |
A三島溶岩に覆われた時代 (縄文時代 約1万年前)
約1万年前に富士山南東麓の大野原から噴出した大量の溶岩は、流動性に富む玄武岩質溶岩で古黄瀬川の谷に流れ込み、冷え固まらず三島まで流れてきた。三島市付近は、この溶岩のたまり場となり、厚さは約75mあり、三島溶岩流と呼ばれている。
度重なる溶岩の流出と固結で谷の中に溶岩の高まりが生じ、谷を流れていた古黄瀬川は東側と西側に分かれて流れるようになった。
縄文時代、箱根山西麓の源平山遺跡(三島市夏梅木)や愛鷹山山麓の大谷津遺跡では柄鏡形敷石住居跡が見つかり、縄文人は箱根山麓や愛鷹山麓で生活していた。三島溶岩流の噴火活動は、長くても数百日続いたと思われるが、縄文人の生活に支障はなかったようである。
図6 富士山からの溶岩に覆われた時代(模式図) ピンク色:三島溶岩 |
B御殿場泥流に覆われた時代(約2500年前)
約2900年前に富士山の東斜面は崩壊を繰り返した。崩壊した多量の土石流は現在の御殿場市付近を覆った。この崩壊を「御殿場岩屑なだれ」と呼んでいる。御殿場岩屑なだれによる土石流は、以後数百年にわたって、洪水のたびに古酒匂川と古黄瀬川の谷に流れ、堆積台地を作りながら、相模湾と駿河湾へ運ばれた。古黄瀬川の谷では、三島溶岩流を覆い、三島市や清水町の扇状地を形成した。この土石流を御殿場泥流と呼び、観察できる露頭は、丸池、柿田川、竹原の湧水池など各地にある。
図7 御殿場泥流に覆われ、扇状地が形成された。(模式図) 黒灰色:扇状地堆積物(御殿場泥流、箱根火山と愛鷹火山からの砂礫) |
C扇状地を大場川、御殿川、源兵衛川、柿田川、黄瀬川などが流れる時代(現在に至る)
主に御殿場泥流、そして箱根山や愛鷹山からの砂礫も堆積した扇状地には河川が流れるようになった。
大場川は箱根山麓の水を集め、柿田川や御殿川や源兵衛川は扇状地の湧水を集め、黄瀬川は富士山麓や愛鷹山麓の水を集めて流れ、狩野川へ合流する。
図8 扇状地を河川が流れている。(模式図) |
4, 三島溶岩流
富士山は縄文時代(約1万年前)、ケイ酸分の少ない流動性に富むゲンブガン質溶岩を流出する活動が盛んであった。富士山北麓では桂川の猿橋まで流れた猿橋溶岩流、南麓では大渕を流れて富士川河口まで流れた大渕溶岩流、東麓では西川や黄瀬川の谷を流れ下り、三島に達した三島溶岩流(大野原溶岩流)などがある。
三島溶岩流は楽寿園内のボーリング調査の結果、上部溶岩層(厚さ約32m)、中部溶岩層(厚さ約15m)、下部溶岩層(厚さ29m)の3つに分けられている(土、1985)。それぞれの溶岩層の間には、川の砂礫層が挟まれている。
三島溶岩流が流れた年代は、「鮎壺の滝」から取り出した木片によると10,800年 B.P、楽寿園付近によると14,000年 B.Pという測定結果がある。(炭素の同位元素による年代測定には誤差がある。)
図9は(株) 富士和 2005へ加筆した三島溶岩分布図である。
三島溶岩の地表露出地域は@三島駅や楽寿園を中心とする地域、A黄瀬川に沿った地域(鮎壺の滝、割狐塚、いずみばしなど)に分けて溶岩地形などを説明する。
図9 三島溶岩分布図 |
@三島駅や楽寿園を中心とする地域
三島駅、楽寿園、白滝公園などは、三島溶岩の溜り場の中心部に当たり、分布する三島溶岩の厚さが約75mもある。地表に露出する三島溶岩は上部溶岩層である。三島駅周辺の開発が進み、楽寿園、白滝公園以外には観察できる露頭が少なくなった。残された三島溶岩の露頭を大事にしたい。
図10.三島駅や楽寿園を中心とする三島溶岩 カーソルを画像へ |
A 楽寿園の縄状模様のある溶岩(パホイホイ溶岩 Pahoehoe lava) (2012年3月11日) 流動性に富む玄武岩質溶岩が流れた溶岩地形である。ボールペンの方向が溶岩流の方向である。 |
B 白滝公園のかわいい溶岩塚(ショルレンドーム schollendome) (2010年5月12日) 溶岩塚は、溶岩の表面が固結し、高温で柔らかい内部から溶岩や水蒸気が押し上げてできる。押し上げるとき、天井の固結した溶岩は、多くの場合、吹き飛んで破壊してしまう。このようにきれいな形の溶岩塚は珍しい、大事にしたい。(メジャーは1m) |
D 鏡池 (菰池公園の西100m) 2014年11月18日 (メジャーは50cm) 鏡池は三島市指定文化財に溶岩樹型として指定された。(広報 みしま 2014年11月15日 文化振興課より) 「溶岩樹型」について 溶岩樹型は軟らかい溶岩に取りこまれた樹木が、その型を残した空洞である。近くでは、「鮎壺の滝」の溶岩樹型が知られている。この溶岩樹型は、樹木が生えた愛鷹ローム層地帯へ、三島溶岩が流れてできたもので、樹木が生えた垂直方向にできている。また、静岡県教育委員会から依頼されて、富士山麓の西臼塚の南にある「富士山麓山の村」周辺の地質調査をしたことがある。この周辺には、西臼塚からの溶岩流によってできた多くの溶岩樹型があった。土地の猟師は、猟犬が溶岩樹型の穴に落ちて行方不明になることがある、危険なので注意するようにと話していた。横に倒れた木の溶岩樹型と思われる珍しいのがあったのを覚えている。 「鏡池にある小さな溶岩トンネル」 鏡池の空洞は、地下水が溶岩の熱によって気化した水蒸気が吹き抜けた穴(スパイラクルspiracle)と考えるのが自然である。三島市周辺は、ボーリング調査から、前述したように三島溶岩のたまり場で下部、中部、上部の厚い溶岩層に覆われている。三島市周辺の樹木は、下部や中部の溶岩層に覆われたとき、燃えてなくなった筈である。鏡池のある地表は上部溶岩層の最上部である。上部溶岩層の最上部に直径36cmの大木は、有り得ない。一つづきの噴火活動は一輪回(りんね)の噴火という。一輪回の噴火活動の日数は過去の噴火例から調べると、十数日から長くて数百日続くようである(宝永噴火16日、三宅島14日、昭和新山480日、クラカトア火山100日、十勝岳7日)(中村、1998年)。三島溶岩流は、全体で厚さが約75mもあるが、側火山(単成火山)であり、長くても数百日で噴火は終った筈である。樹木の成長は無理である。 鏡池は、楽寿園の深池と同じように、水蒸気が吹き抜けたときの小さな水蒸気爆発によってできた池と思われる。鏡池や深池の小さな溶岩トンネル、三島駅北の溶岩トンネル、三島北中学校運動場の下にあるといわれている溶岩トンネルなどは、三島溶岩のたまり場へ入り込んだ地下水が熱せられて蒸発した水蒸気に関係した穴と考えられる。(2019年6月) |
E 三島北高校 紫苑の森の三島溶岩 (2010年6月3日) |
G 三島駅北口の西 東レへの取り付け線路脇 (2010年6月4日) 三島溶岩流の上部層が垂直に切られている。1枚の溶岩単層の観察に適した露頭である。 |
「三島溶岩トンネル」について 三島駅北口と三島長陵高校の間付近(元 三共製薬の工場敷地)に溶岩トンネルがある。筆者は、溶岩トンネルが発見された頃(1970年頃)、静岡大学の鮫島輝彦教授(火山学者)と大きくて複雑な、この溶岩トンネルへ入って調査した懐かしい思い出がある。その後、溶岩トンネルは、落盤の危険があるため埋められたようである。 早稲田大学探検部は、昭和46年4月(1971年)この溶岩トンネルを三島溶岩トンネルと呼び、次のような調査資料が残っている。 溶岩トンネルは、全長210mあり、南北方向へ分布している。入り口から80mは、天井の高さが、2mある。 トンネルの南部には、図中太い線で示す大きな空洞があり、地下水の流れがある。筆者は、この地下水が楽寿園の湧水の一部になると思っている。 トンネルの北部は、三島市立北中学校まで達し、校舎の裏に開口があったが、危険なため塞がれている。 |
三島溶岩トンネル 早稲田大学探検部の調査、昭和46年4月(1971年) |
H 三島北中学校の三島溶岩 (2010年7月8日) 三島溶岩単層(厚さ約1.2m)の節理、気孔など観察できる。 三島溶岩単層の中心部は緻密で、気孔が少なく、表面にいくほど多くなる。大きな気孔は球形ではなく、溶岩流の方向へ細長くなっているようすなど観察できる。 三島北中学校にある溶岩トンネルは運動場の地下にあるといわれているが、上記の三島溶岩トンネルと思われる。 カーソルを画像へ |
I 上岩崎公園の「鮎止めの滝」 2019年4月23日 すこやか橋より撮影 「鮎止めの滝」は三島溶岩流(厚さ約3m)が大場川へ流れ込み、ここで冷え固まり、滝となった。二段になっている。 |
A黄瀬川に沿った地域(鮎壺の滝、割狐塚、いずみばしなど、上流へ向かって調べていく。)
黄瀬川の三島溶岩流は鮎壺の滝から上流、所々で砂礫に覆われるが、河川敷に多くの露頭がある。
長泉中学と黄瀬川の間には割狐塚を中心に三島溶岩流が点在している。
この地域の三島溶岩流は愛鷹ローム層に接している。
図11 鮎壺の滝 2012年3月3日 溶岩の厚さ 約7m 三島溶岩の下に黄褐色の愛鷹ローム層が見える。(松の下付近)この愛鷹ローム層は滝の東にある公園の崖でも観察できる。 |
図12 長泉町 稲荷神社のある割狐塚(かっこづか)の三島溶岩流。 2012年3月7日 |
図13 長泉町 納米里(なめり)を流れる黄瀬川の三島溶岩流。 2012年3月7日 野鳥はイソシギ |
課題
三島溶岩の下面の海抜高度を図4の地質断面図から推定すると、−40〜ー50mとなる。どのように説明すればよいか、考えてみよう。
(ヒント:ウルム氷河期による海面の下降、フィリッピン海プレートの運動による伊豆半島の隆起や沈降など)