J.S.バッハ/コラール《われらキリストの徒》 BWV612&710
プレリュードとフーガ ト長調 BWV541 *オルガン独奏:今井奈緒子
皆様、バッハの没後250回目の夏をどのようにお過ごしでしたか。私にとっては、この夏は本当に実り多き季節でした。BCJのスペイン、イスラエル、そしてライプツィヒへの旅行、そして命日前後のヨハネ受難曲演奏を経て、スウェーデン・イェーテボリでの画期的なオルガンプロジェクト、さらにバッハ・オルガンツアー。一体何からお話しようかと思い悩むばかりです。しかし中でも、バッハへのイメージを左右するような大きな体験は、8月後半のオルガンツアーでした。
バッハの体験した音色がどのようなものであったか、ということが、しばしば私たちの議論の的となります。その手がかりとして、現在も数多く残るオリジナルの楽器、なかんづく、歴史的オルガンが重要な働きをすることは言うまでもありません。彼は20才で最初の就職をする直前に、すでにオルガンのエキスパートとしてアルンシュタット新教会に設置されたオルガンの鑑査と検認を任されているのです。そのようなバッハがオルガンに求める響きと、カンタータを演奏する時のオーケストラや合唱の響きの理想は、一体どこでどのように交錯するのか。オルガンは言うまでもなく管楽器であり、オーケストラの中心は何と言っても弦楽器なので、この根本的な相違が、彼の思いの中ではどのようにして統一されていたのか、常に疑問に思ってきたのです。
そのような意味で今年の夏、ハラルド・フォーゲル氏と共に、テューリンゲンとザクセンのオルガンを見て廻ることができたのは、大いなる幸運でした。というのも、有名なゴットフリート・ジルバーマンのオルガンばかりではなく、テューリンゲン地方のG.H.トローストのオルガンを再発見することができたからです。今回初めて訪ねたヴァルタースハウゼンでは、トローストの真価を味わうことができました。またさらに重要なアルテンブルク城教会は、東独時代に一度訪ねたことがありましたが、記憶はすっかり薄れていました。バッハは、このお城を1739年9月7日に訪れ、お披露目前のオルガンを試奏して絶賛したと言われています。
その響きの本質は、「ストリング属」と呼ばれる細いメンズールのパイプ群、実に弦楽器的な柔らかな細い音を出すストップにあります。特に「ヴィオラ・ダ・ガンバ」や「ゲムスホルン」、また「ヴィオロンバス」と呼ばれるレジスターは、ほとんどオルガンの音であることを疑うほどに、細く薄い弦楽器の響きがするのです。これはあきらかに、ジルバーマンとは異色の、つまりザクセンではなくテューリンゲン独特の伝統にほかなりません。
これは、少なからずショッキングな体験でした。バッハの音楽における北ドイツやフランスの影響が云々されることはあっても、自分自身が生まれ育ったテューリンゲン地方独自の響きについて語られることはほとんどないからです。リューネブルクでの3年間を別とすれば、バッハは実に生まれてから22歳までをテューリンゲン地方で過ごしていたわけですから、その地方の美意識が体に染みついていたであろうことは、疑う余地がありません。
テューリンゲン地方がどんなに音楽活動、特に教会の音楽が盛んであったかは、今回訪れたトレヒテルボルンという、人口わずか数百人の村の教会でさえ、18世紀半ばの23ストップの大きなオルガンが設置されているばかりではなく、オルガンギャラリーには、その当時から、一対のティンパニ用の枠が客席にせり出して作られていることからもわかります。ティンパニを使うには、必ずトランペットが3本セットされていなければならず、さらに必ずや弦楽器の一群やオーボエなどと共に演奏されたに違いないのです。つまりこれは、しかるべき歌い手とオーケストラがこの小さな教会にもいたという最も雄弁な証拠と言えるでしょう。このティンパニの枠は、テューリンゲンの至るところ、アルンシュタットにも、エアフルトにも残っていました。
バッハは恐らくごく小さい頃から、このような教会音楽の体験を通して、弦楽器の響き、そしてそれを手本としたオルガンの響きに慣れ親しんだにちがいありません。彼にとっては、ヴァイオリンとオルガンの響きの間には、何の違和感もなかったでしょう。むしろ、そこには共通の柔和な響き、しかし集中力が高く、細く、かつのびやかな響き。弦と弓が擦れあうような味わいを残しつつ、上質の絹のような光沢がイメージされていたのではないでしょうか。
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