2012/02/09 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2012/02/04 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第220回神戸松蔭チャペルコンサート)
オープニング演奏:J.S.バッハ/ファンタジア(幻想曲) ト短調 BWV542/1
《私はあなたに叫び求めます、主イエス・キリストよ》 BWV639
フーガ ト短調 BWV 542/2 (以上、Org:鈴木優人)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1730-40年代のカンタータ 2〕
《わがなす すべての営みにおいて》 BWV 97
~休憩~
《救いは我らに来たれり》 BWV 9
《私はあなたに叫び求めます、主イエス・キリストよ》 BWV 177
指揮:鈴木雅明
コーラス(*=独唱[コンチェルティスト])
ソプラノ :ハナ・ブラシコヴァ*、緋田芳江、藤崎 美苗
アルト :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
テノール:ゲルト・テュルク*、谷口 洋介、藤井雄介
バス :ペーター・コーイ*、浦野智行、藤井大輔
オーケストラ
フラウト・トラヴェルソ:菅 きよみ
オーボエI/オーボエ・ダモーレ/オーボエ・ダ・カッチャ:三宮正満、オーボエII:尾崎温子
ファゴット:村上由紀子
ヴァイオリンI :若松夏美(コンサートマスター)、パウル・エレラ、竹嶋祐子
ヴァイオリンII:荒木優子、廣海史帆、山口幸恵
ヴィオラ:森田芳子、成田 寛
〔通奏低音〕
チェロ:鈴木秀美 ヴィオローネ:西澤誠治
チェンバロ:鈴木優人 オルガン:今井奈緒子
(BCJ事務局提供の資料による)
コラール・カンタータの、奥義。
17年に及ぶBCJの教会カンタータ全曲チクルスも、達成まで3公演を残すばかりとなりました。前回9月定期の華々しい名曲群とは対照的に、今回はぐっと渋いコラール・カンタータ3作品をまとめてお聴き頂きましょう。これらはいずれも、1724年に完成しようとした〈コラール・カンタータ年巻〉の欠けを補うために1732~34年の間に作曲されたものです。が、1724年とはひと味違い、いずれもより手の込んだ対位法が用いられています。特にBWV9《われらに救いの来たれるは》の第5曲ソプラノとアルトの二重唱は、フルートとオーボエ・ダモーレをも加えて、ほぼ全曲に亘って四重(!)のカノンを繰り広げる驚くべき作品です。また「年巻」では第一作以来のフランス風序曲による合唱とヴァイオリンの重音奏法を駆使した名テノール・アリアをもつBWV97《わがなす
すべての業に》や、主の護りを願う大規模なコラール合唱を彩る協奏的なヴァイオリン・ソロと珍しいファゴット・オブリガートの活躍が印象的なBWV177《われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ》など、華やかな技巧と構成の合間に、深々とした知性が湛えられ、時に甘い旋律が私たちを魅了する、何にも代え難い高貴な作品ばかりです。
久々に金管楽器が登場しませんが、却ってしみじみと味わい深いバッハ音楽の深遠に、今回もご一緒いたしましょう。
バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督 鈴木雅明
(チラシ掲載文)
皆様、ようこそおいでくださいました。 J. S. バッハの教会カンタータは、現存するおよそ190曲のうち、その90%以上が1730年以前に作曲されたものなので、1730年代から没年の1750年にかけては、わずか15曲ほどの新作しか伝わっていません。ですから、おおむね作曲年代順に進んできた私たちは、昨年ようやく1730年代前半の作品に到達したところで、もう残すところわずか1年で完結してしまう、というわけなのです。 今、いよいよJ. S. バッハの晩年(と言っても、まだ40代後半ですが、)に向かって視線を移すとき、期せずして多くのコラールカンタータと再会することに、特別な意味を感じざるを得ません。 コラールカンタータとは、よく知られた会衆賛美歌(コラール)の歌詞第1節を、カンタータの第1曲に、最終節を最終曲にあてはめ、その他の節は、随時いくつかをつなぎ合わせて自由な形に改変し、第2曲から後のレチタティーヴォやアリアにあてはめたものです。しかし、1730年代以降のコラールカンタータには、このような改変が行われず、コラールの歌詞の詩節をそのまま、すべての楽章にあてはめる方法が用いられる時もありました。今日、聴いていただく、カンタータ第97番と第177番などはそうした例で、通常のコラールカンタータに対して、コラール・テクスト・カンタータと呼ばれることもあります。 ホーフマン氏の解説にもあるように、J. S. バッハは、ライプツィヒ着任2年目1724年6月の三位一体後第1主日から1年間にわたって、ルターの会衆賛美歌制定200年を記念する壮大なコラールカンタータ年巻を計画しました。が、推測によると、恐らく1725年1月に、テクストを上記のように改変してくれる編者が亡くなってしまったので、この年巻は完成を見ることができず、1725年3月25日受胎告知の祝日(その年は、イースターの1週間前)まで、ちょうど40曲で中断してしまったのでした。 また、その年には巡ってこなかった教会暦、あるいはバッハがライプツィヒに不在であった日曜日など、年巻にはいくつかの欠けが生じました。そこで、そうした欠けを埋めるため、後年、同じ教会暦の日曜日が巡ってくるたびに、バッハは同様の手法でカンタータを作曲しては、『コラールカンタータ年巻』の穴埋めをしようとしたのです。 例えば、昨年9月に演奏した有名なカンタータ第140番《目覚めよと、われらに呼ばわる声》は、コラール以外の歌詞も含むので、コラールカンタータとしてはやや例外的ですが、欠けていた日曜日を埋めようとした好例です。これは三位一体後第27主日のためのものですが、この27番目の日曜日は、イースターが3月26日以前に来ない限り巡ってこない日ですので、1724年には、この日のためのカンタータを書く機会がなかったのです。ですから1731年に第27主日が巡ってきたときに、同様のコラールカンタータの手法を用いて、この曲を完成したのでした。また、今回演奏するBWV 177(三位一体後第9主日)もBWV 9(同第6主日)も、それぞれ該当する日曜日に、バッハがライプツィヒに不在であったり、他の祝日に重なったりして、1724年にはカンタータを書くことができなかったのでした。 |
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J. S. バッハは、このコラールカンタータ年巻を完成させることに、よほど大きな使命を感じていたように思われます。というのは、特別な機会のものを除けば、1730年以降に生まれたカンタータの大半は、結局、このようなコラールに基づくものであったからです。バッハは、当然、宗教改革以来200年にわたるコラール編曲の歴史を強く意識していたに違いありません。ルターが1526年に発表したドイツ語での礼拝 Deutsche Messe において、初めて会衆が積極的に礼拝に参加できるよう制定されたコラールは、説教者の言葉にも匹敵する会衆の言葉として、礼拝を構成する最も重要なもののひとつとなりました。ですから、当時から18世紀にいたるプロテスタントの作曲家は、あらゆる技術を駆使して、コラールに基づく合唱曲やコンチェルトと呼ばれるアンサンブル作品を生み出しました。しかし、J. S. バッハが生み出した形式は、それまでのどこにも見られないユニークなものだったのです。 多くの場合、冒頭楽章では、ソプラノがコラール旋律を、ほとんど装飾のないシンプルな形で歌い、その他の合唱と器楽が伴奏する形になっています。その際、器楽パートは完全に独立した楽想を持っていることが多いのですが、その楽想は、実に自由で、かつ当時知られていた器楽の色々な形式を採っています。特に、今回演奏するカンタータ第97番《わがなす すべての営みにおいて》や第177番《私はあなたに叫び求めます》のように、フランス風序曲やコンチェルト形式と組み合わされて鳴り響くコラールを聞いた人々は、きっと度肝を抜かれたことでしょう。 また、20曲以上のカンタータにおいて、レチタティーヴォやアリアの中にもコラールが忍ばせてあり、聴くものをはっとさせるのですが、これもJ. S. バッハの大胆な発明と言ってもよいでしょう。例えば、第93番《愛する御神にすべてを委ね》の第2曲と第5曲のレチタティーヴォ、第3曲のアリアなどは、その驚くべき技法の顕れのほんの一例です。 |
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晩年に向かうほど、こうしたコラール旋律をあからさまに意識した技法は影をひそめ、むしろ、より深くテクストの内容を表現する方向に変わってきたように思います。今回聴いていただくカンタータ第9番《救いは我らに来たれり》もそのような意味で、驚くべきコラールカンタータです。 他のコラールカンタータと同じく、第1曲の器楽パートは、独立した楽想を持っています。しかもそれは、旋律的には明らかではありませんが、和声的には、明らかにコラール旋律冒頭を意識したものです。このスペラートゥス作のコラールは、冒頭に4回同じ音が繰り返され、その後短3度上行するところに大きな特徴があります。J. S. バッハは、第1曲でも最終曲でも、冒頭の音にはホ長調の和音を与えているので、このコラールの旋律は、和音の根音から数えて第5音(この場合はロ音)から始まることになります。このことが、冒頭の器楽の楽想を導いていることは明らかで、フルートがいきなり2 点ロ音(h’’)から始まるのは、まさしくその理由によるのです。そして4小節間同じ和音が続き、第5小節でニ音のナチュラルが出てくることは、まさしく第5音で短3度上がるコラールの旋律を意識していることがあきらかです。 その同じ観点で、第5曲に目を移すと、この二重唱もまた第5音から始まっていることに気づきますが、実は、このカンタータの白眉は、この楽章にある、と言っても過言ではありません。これは、フルートとオーボエ・ダモーレによって伴奏される、何気ない二重唱のように見えるかもしれませんが、これらのパートは、全カンタータ中、二度と出現しないほど見事な二重のカノンによってできているのです。つまり、曲の前半では、フルートとオーボエ・ダモーレの間、およびソプラノとアルトの間の両方に、完全5度の音程を隔てて始まる完璧な5度のカノンができあがり、ふたつのカノンが同時に進行するのです。後半では、ソプラノにフルートが、アルトにオーボエ・ダモーレがそれぞれ重なって、ユニゾンになり、カノンはひとつになりますが、このような構造を作り上げることは、たとえバッハであっても、決して簡単なことではなかったでしょう。ホーフマン氏は、解説の中で軽く触れられているに過ぎませんが、これは、普通ならば到底完遂できないミッションなのです。 なぜ、バッハはこれほどの課題を自らに課したのでしょうか。このような問いに、必ず答えがあるところが、J. S. バッハの音楽の最も大きな魅力です。 このカンタータは全体として、イエス・キリストの救いと律法の成就ということについて歌っています。聖書によれば、そもそも人間が救われなければならないのは、神が与えられた律法を自らの力で守ることができず、堕落してしまったからです。そこで堕落した人間を救うために、イエスが救い主として来られたのです。が、それは、律法を廃止するためではなく、むしろ、律法はその一点一画も滅びることなく(マタイ5:18)、イエスによってその神の義を全うするため、というのです。つまり、それは、罪なきイエスが、私たち罪人の罪を一身に担って、身代わりとして十字架につけられる、ということであり、だからこそ、その十字架を仰ぎ見るものは、救われる、と聖書は告げているのです。 さてそのような脈絡の中で、この第5曲を見てみましょう。まず、J. S. バッハの音楽の中では、カノンという音楽用語が元来「律法」や「法律」を意味する言葉であることから、律法について歌われる時に、カノンが用いられる例は少なくありません。最も典型的なものは、オルガンミサ曲(クラフィーア練習曲集第3巻)のコラール《これぞ聖なる十戒》でしょう。しかし、このカンタータの第5曲においては、二重のカノンになっているので、さらにそこに特別な意味が込められていると思われます。 二重唱が「2」という数字にまつわることから、神の第2の位格であるイエス・キリストについて歌うときには、二重唱が用いられることは少なくありません。例えば、ロ短調ミサ曲キリエの第2曲。ここでは、第1曲の「神よ、憐れみたまえ」に続いて、「キリストよ、憐れみたまえ」と歌いますし、もうひとつの典型的な例は、一昨年演奏したBWV 36《嬉々として舞い上がれ、星々の高みにまで》の第2曲です。バッハは、これをクリスマス用に改変したとき、第2曲にコラール「いざ来ませ、異邦人の救い主」に基づくソプラノとアルトのカノン風二重唱を挿入し、しかも、それぞれの声部にオーボエ・ダモーレをユニゾンで重ねて、徹頭徹尾「2」を強調してみせたのです。 ですから、BWV 9の第5曲でも、2組の2声部のカノンが展開されることは、明らかに神の第2の位格であるイエス・キリストを意識したものでしょう。しかも、カノンでは、常にひとつの声部が先行声部を追いかける構造になっていることで、「従って行く」ということを表しています。ですから、ここでは、明らかにイエスに従って行くことを表しているに違いありません。 さて、このような厳格なカノン構造は、いうなれば音楽における律法である対位法の規則を、完全に実践したもの、と言えるでしょう。そうでなければ、カノンが完成しないからです。ところが、そのカノンに乗せて歌われるテクストは、「神は善き行いではなく、信仰のみを受け入れられる」と言っているのです。つまり、神が顧みられるのは、このようなカノン(律法)による「善行」ではなく、「信仰」だ、と言うのですから、何と皮肉なことでしょうか。しかし、そのことに思いが至ったとき、この二重唱の中でただ2ヵ所カノンを放棄しているところの意味が、初めて理解できます。第41小節と73小節からのそれぞれ4小節は、それまでの部分の結論として、非常に意図的にカノンを放棄して、もういちど „Nur den Glauben nimmst du an“ 「ただ信仰のみを、あなたは受け入れられる」と念を押すのです。まるで、カノンを放棄したところこそ、このテクストの本来の目的がある、と言っているかのようにさえ見えます。 この作品は、作品そのものというより、それを作り出したJ. S. バッハの行為にこそ、私たちが学ぶべきものがあるでしょう。つまり、ここでバッハは、私たち凡人には到底到達できないほどの完全さで律法を全うして、この上もなく美しいカノンを出現させておきながら、そのカノンを使って「神はそれを顧みられない」と歌わせて、自らを否定しているのです。私たちは、ここに、天才的な作曲家の技を見るのではなく、むしろ、天才的な技が駆使できたからこそ表現し得た、自己否定の「へりくだり」の姿をみるべきではないでしょうか。 |
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(12/02/04掲載:資料提供・BCJ事務局)
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