poco a poco Op.8ひどく不安定な日常。 こんなにも近くにいるのに、まっすぐに向き合えずに、お互いに不安を覚えて。 それでも変わらない、確かなことはひとつだけ。 あなたと、一緒にいたいんです・・・。 「書類、明日には回ってくるといいですけど」 「それは、丹羽会長次第ですね」 「王様次第っていうか、中嶋さん次第・・・かも」 「伊藤くん?」 「あ・・・いえ! なんでもないですっ」 放課後の、会計室で手伝いをした帰り道。 今日は仕事の量が少なかったから、帰りの時間もいつもより少しだけ早くて。 美味しいクッキーを取り寄せてありますから、よかったら帰りに僕の部屋でお茶でもいかがですかと誘われるまま、和希と啓太は七条の部屋を訪れた。 淡いグリーンで統一された七条の部屋は、いつもすっきりと片付いている。 余分なものは少ないけれど、生活の香りはあちらこちらに垣間見えて。 たとえば机の上には、七条が毎月購読をしているらしいオカルト雑誌が、無造作に置かれていたりする。 興味を示した啓太が「見てもいいですか?」と訊ねると、簡易キッチンでお茶を用意している七条からは「勿論ですよ」と笑みが返ってきた。 科学か天文学かなにかの専門雑誌のようにも見える、あまり馴染みのない雰囲気のそれをわくわくと手に取って早速ページをめくってみるけれど・・・現れるのは哲学的な話や宗教的な話や、なにやら難しい観念論ばかり。 苦手な英語の長文読解をしているような気分になって、次第に眉間に力が入り、挙句にくるくると目を回しかけた頃、ようやく啓太にも楽しめそうなページにたどり着いた。 今月の星占い。 啓太は気を取り直して、12種類のそれぞれの星座の下に書かれた日付を指先で追っていく。 「ええと和希は双子座で、七条さんは・・・あ、乙女座なんですね」 ある意味ぴったりのような不似合いのような七条の星座を知って、くすくすと笑う啓太の脇から、和希がひょいとページを覗き込む。 「啓太は牡牛座だろ? ・・・・・あ。今週は俺と相性がいいみたいだぞ? 週末にデートでもしよっか?」 「な、なに云ってるんだよ、和希はっ。もう!」 デートってなに! と赤くなって慌てて云い返す啓太が、ぽこりと気安く和希の肩を叩く。 痛いよ、啓太。 軽くしか叩いてないだろ。 なんて甘ったるいやり取りをして、ひとしきり笑いあった二人がひと心地ついたところで。 ソファ代わりのベッドに並んで座っている和希と啓太の向かいに、テーブルを挟んで椅子をセッティングした七条が、おもむろに口を開く。 「オカルトとひとくちに云っても、僕は星占いは担当外なのですが・・・」 ゆったりと椅子に腰を下ろして。 穏やかな口調はいつも通りに。 「ひとつ予言をしてみましょうか」 予言ですか? と尋ねる啓太に。 普段と変わらぬ笑みを浮かべて頷いてみせる。 「ええ・・・双子座の遠藤くんが管轄するエリアに、今夜辺り、大きな災厄が訪れるかもしれませんよ?」 そうして告げられるのは、オブラートで包んではあるけれど、ハッキングの予告まがいの不穏な言葉。 和希はゆっくりと雑誌から目線を上げると、その七条の笑顔を見返したまましばし動きを止めて。 次いで、短い息をついた。 「いつまでよそ見をしているんだろうね、君は」 いつもと違う口調。違う声音。 聴き慣れないそれに、啓太は驚いて和希を見上げた。 「よそ見・・・ですか?」 それはいったいどういう、と。 穏やかに訊ねる調子で、七条が首を傾げる。 「俺が云う言葉では、素直に受け入れられないだろうけど」 そう云いながらも、噛んで含めるような口調で。 大人の顔をして和希は続ける。 「よそ見をして、回りくどい方法ばかりに拘っていては、正面から向けられるものにいつまでたっても気付くことができないということだよ」 意味深な言葉を理解できないのは、けれども啓太ひとりきりらしい。 応じるように和希を見返している七条の気配が、ゆわりと剣呑なものへと変わる。 「あなたのような一癖も二癖もある人に、ひねくれ者と云われるのは心外ですが」 「そうやって壁を作って、いつまで臆病なまま迷っているつもりだい? 君が本当に変わらないつもりなら、俺も・・・」 続けようとした言葉を、一旦止めかけて。 僅かに迷うように。 けれども顔を上げた和希はまっすぐに七条の目を見返して、続ける。 「俺も、本気にならせてもらうよ」 挑発のような言葉を残して、険を増した七条の眼差しを受け流すようにして。 ゆっくりと和希が席を立つ。 おろおろと二人のやり取りを見守っている啓太を気にするそぶりを、ほんの僅かだけ見せたけれど、声を掛けることも眼差しを向けることもせずに。 和希は啓太の脇を通って、そのまま静かに扉を開けて、部屋から出て行ってしまった。 「か・・・和希・・・?」 戸惑うばかりの啓太は、そんな和希の背を瞬きもできずに視線で追って。 扉が閉まってからようやく絞り出した声は、情けなく震えてしまう。 あんな和希は、らしくない。 けれどもらしくないといえばもうひとり。 七条だって同じだ。 啓太だって普段、からかうような言葉で困らされることはある。 だけどあんな風に棘のある物言いをするなんて。 人を傷つける意図で言葉を発するような人じゃないはずなのに。 どうしたんだろう、和希も、七条さんも。 いつもと違った。 なんだかまるで・・・喧嘩でもするみたいに。 でも・・・でも、どっちもが傷ついてるみたいな感じがした。 言葉を発しながら、どうしてか苦しそうに見えて・・・。 そんな風に感じる俺がおかしいのかなと、驚きのあまりにどこか麻痺してしまったような思考をくるくると空転りさせている啓太を。 不意に七条が、「伊藤くん」と呼ぶ。 そうして、心もとない表情を向ける啓太に。 「追い掛けないんですか?」 「・・・ぇ・・」 「遠藤くん、いつもと様子が違いましたよね。いいんですか?」 追いかけずに、いつまでもこんなところにいて、と。 向けられるのは、いつもと変わらない優しい笑顔だ。 優しい笑顔で七条は、啓太からなにかを隠してしまおうとしている。 「七条さん・・・」 胸が痛い。 とくとくと、鼓動が速くなる。 確かにここにいたって、啓太にできることなんかなにもないのかもしれない。 七条の云うように、和希を追いかけるのが正しいことなのかもしれない。 話したいことや弱音を吐きたいことがあるのなら、七条にとってそれを告げる相手は、西園寺なのだから。 七条は誰彼かまわず弱味を見せるような人ではないだろう。 だからもしかしたら啓太がここにいることは、邪魔にしかならないのかもしれない。 けれども足が動かない。 まるでここに、なにかやり残したことがあるかのように。 それに。 「俺・・・っ」 ただ啓太は。 こんな風にいつだって、啓太と自分とを分けてしまおうとする七条が。 悲しくて悲しくて。 「それは・・・俺が、ここにいちゃいけないってことですか?」 たまらない気持ちで。 両手をぎゅっと握り締めた。 |