著 者 ・ 本の名 ・ 出版社 ・ 対 象 ・ 区 分 |
澤地久枝 『おとなになる旅』 ポプラ社 (中上) NF
著者の子供時代をつづった作品。貧しかった少女期、辛いこと、悲しいこと、そして敗戦までを語る。が、六年の通信簿を載せるなど編集者の神経を疑う。内容に起伏無く、単発的な思い出が連綿としてつまらない。自伝。
テーマはその他。1981年。
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飯田栄彦 『昔、そこに森があった』 理論社 (中上) FTLF
平凡な教師が名もない田舎の農業高校へ非常勤講師としてくる。けれどとんでもない学校だった。正面のトンネル(森)をくぐると動物に変身してしまうのだ。そして教師と生徒の奇妙な交情が始まる。彼は怠惰な生徒をどうしたら授業にひきつけられるか悩む。作者はちょっぴり現代教育を批判しながら決して気張らない。やがて木との不思議な交感。繩文時代に生きた少年ジンの霊が数千年のときを越えて彼に語りかけてくる。森こそがあらゆる生き物を生みだし守る母なのだ、と。そして森はなくなっても生徒達の心に甦るであろう、と。THERE&BACK形式。社会型ファンタジーの力作。
テーマは人間と母なる自然。1985年。
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「もののけ姫」について(1)(1997)中上 CR
97年7月に一般公開された「もののけ姫」がロングランを続けている。日本映画興行史上「ET」をはるかに凌ぐ入場者動員と興業収益なのだそうだ。かくいう私も実は2回見た。この映画のどこにそんな魅力があるのか、考えてみたい。
「もののけ姫」のヒーロー・アシタカは、設定によれば、関東から奥羽にかけてのいずれかの地の古代アイヌ民族(エミシ)である。そして時代は室町から戦国時代(鉄砲が出てくる)。テーマはパンフレットにある通り「荒ぶる神々と人間の戦い」、キャッチフレーズは「生きろ」であった。
エミシは同じ日本に住みながら、大和朝廷によって侵略を受け、滅びるか同化を余儀なくされた。アテルイやアザマロといった指導者たちが果敢に抵抗を試みたが、802年、桓武天皇の命により坂上田村麻呂が胆沢城(岩手県)を築き、東北エミシを平定した、というのが歴史である。映画では戦乱の世を背景に鉄の権益をめぐるなか、銃弾を受けた巨大な猪が「たたり神」となってエミシの村を襲うところから始まる。象徴的な幕開けだ。致命的な傷を受けたアシタカが己の運命を見定めるため西方への旅に出て知ったのは人間同士の醜い戦い、そしてその混沌と荒廃を嘲笑うかのように立ちはだかる荒ぶる神々だった。
緑の野山を破壊する人間に立ち向かうのがヒロインのサン。そして人間の論理を強引に推し進めるエボシ御前。共存はありえないと対立する二人の間に入って和解の道を探るアシタカ。三者それぞれの生き方をめぐって物語は展開する。三つの主張にはそれぞれに正義があり、安易に一つだけを正しいとしなかったところに作者・宮崎氏の巧みなストーリー設定がある。
森こそが縄文時代という日本史上もっとも(物も心も)豊かな日本人の生活を生みだしてくれた。鉄こそが近現代の日本の繁栄を支えた。そして今自然といかに共存するかが人間の生き延びるための重要なテーマになっている。
私たちはこの三人の生き方に対してほぼ等分の共感を憶えたはずだ。この映画は私たちに21世紀をどう生きるべきかという課題をつきつけたと言える。(つづく)
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「もののけ姫」について(2)(1997)中上 CR
アシタカヒコ(エミシにしては日本的な名前だ)一族は大和朝廷の圧迫を逃れて隠れ里とも言うべき地にひっそり住んでいたが、押し寄せる時代の荒波と無縁ではいられなかった。「たたり神」の到来で無理やり歴史の表舞台に引っ張りだされたのである。「なぜ我々をそっとしておいてくれないのか」というのが彼等の本来の願いだったはずである。たぶん、今日の世界においても同じことが起こり、また起こりつつある。
東南アジアの国々をみるがいい。日本に材木を輸出するため際限なく樹木が伐採され、畑を作るため山は焼かれている。世界経済のエゴイズムが後進国の人民の生活を圧迫し、彼等をして自然破壊の行動に駆り立てている。
アシタカヒコはそうした己の運命に予感を得た一人なのである。彼は自分の運命を正しく見定めなければならない。無縁でいるわけにはいかなくなった周りの世界を探索し、己の運命がどのように組込まれてしまったかを認識しなければならない。あるいはそこにエミシ一族を導く道が見つかるかもしれないからだ。アシタカヒコはあくまで人間的であろうとする。エボシ御前がなぜ鉄の利権にこだわるのかを彼は理解する。
タタラ一族の社会では男も女も対等に働き、生きる喜びを謳歌している。不治の病を持った人々でさえ、生きる意味を見だしていたのである。こうした場面だけを切り取ってみると、理想の社会と言えないだろうか。現実の社会では差別され、隔離される障害者(病者)も生きる場があるのである。
いかに重い障害者(病者)であれ、人間同士共存できるのなら、自然とも共存できるはずだ。アシタカヒコはそう考えるに違いない。そう信じなければ、征服者大和民族と被征服者エミシ族の和解はまったくむなしいものになってしまう。
太平洋戦争で東南アジアへの侵略者となった日本にとって、この和解は自戒的な課題なのであろう。(つづく)
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「もののけ姫」について(3)(1997)中上 CR
タタラ一族を率いるエボシ御前は時代の典型的な人物象である。一族の頭領として権力をもつだけでなく、一族の民の生活を保証する義務をも負っている。彼女は外敵からタタラ一族を、そして鉄の利権を守らなければならない。敵が武士であろうと天皇であろうと、また神であろうと、関係はない。頭領として一族を治め、障害や病気があろうとなかろうと、等しく生活の場を与える。それは彼女なりの「理想の社会」なのかもしれない。男には男の役割があり、女にも役割がある。障害者(病者)にもすることがある。生き馬の目を抜くような厳しい社会にあって、これを実現することは容易でない。なりふり構わず身を守ることが必要なのだ。このエゴイズムは、しかし
ながら、私たち自身を厳しく問い詰める。
マイホームを得て開発された土地に移り住む。住み着いたとたんに、新しい開発に反対する住民。自らが、自然の破壊と言う犠牲の上に土地と家を手に入れたなど、とうに忘れてしまって。しかし、私たちにそれ以上のなにができよう。エボシ御前のエゴイズムを否定するのは簡単である。けれど、彼女の行動こそがさらなる富を求めようとする人類の営為、さらに現在の私たちの豊かな生活を築き上げてきた祖先の努力そのものであったことに思いを致すなら、真にエボシ御前のエゴイズムを否定することがどこまで可能なのか、私は聞いてみたい。私は自分の発言の底に矛盾を感じている。感じながら、どうにもならないことにも気付いている。縄文時代こそ日本人のもっとも心豊かな時であったと主張しても、すでに失われた歴史である。一度転がりだした鞠はその終わりまで転がり続けるしかないのだろうか。(つづく)
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「もののけ姫」について(4)(1997)中上 CR
この映画のヒロインのサンとは何者であろう。
モロ(母犬)に拾われ息子の犬たちときょうだい同様に育てられたらしい。どこで人間の言葉を憶えたかなどという愚問はなしとして(そう、かつて石も木もものを思い、感じ、言葉を話した時代があったのだ)、森とともに育ち、生き、自然を我が物としてこれを破壊しようとする人間に立ち向かう自然の「在りよう」そのものなのだ。
人間のコントロールを離れた力、それゆえに危険視される。どの時代にあっても、人が自然をないがしろにしようもなら、たちまち牙をむいて襲いかかってくる。時に友であり、警告であり、また
図り知れぬ冷酷な壁である。
彼女は言う。「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」と。アシタカは答える。「それでもいい、私と共に生きてくれ」と。許されざる人間への拒絶、それでもなお受入れてほしいと語りかける。拒絶されてなお共に生きるよう言わしめる自然の力とはいったい何なのだろう。
私は仕事がらこの関係をどうし ても「母と子」にだぶらせずにすまない。母(母的存在)の本性は「受容」である。それは偏見であるという非難があるならあえて受けよう。しかし、自然はやはり「母」である。何度も繰り返すが、森は縄文時代と言う日本史のかけがえのない一時期を作ってくれたのである。その母を裏切ったのは子供=人間の方だ。だから、私たちの方から和解を求めなければならない。どんなに拒絶されても、私たちには母親が必要なの である。「アシタカは好きだ」と言った裏に「お前だけは信じているよ」と語りかける母親の最後の希望が 隠されてはいないだろうか。
エボシ御前の論理は男の(力の)論理である。だから、サンは母親の論理で対抗するのである。アシタカ(子供たち)はその間で大きく揺れ動く。もしかすると永遠に共存することのない二つの論理、このゲームの中で子供たちは明日を生きるエネルギーを得るかもしれないし、また自己破壊へ転落するかもしれないの
である。(つづく)
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「もののけ姫」について(5)(1997)中上 CR
この映画を見てすぐに気付くのは「風の谷のナウシカ」との相似である。テーマが同じであるのだから物語が似るのは当然だが、それ以上に人物配置がそっくりである。サンは風の谷のナウシカ、エボシ御前はトルメキアのクシャナ殿下、アシタカはペジテのアスベルである。クシャナは力の論理の代弁者。人間も王虫も腐海も力で抑えつけようとする。ナウシカは腐海の本質の代弁者。人間が汚した大地を回復する森と虫を守る。アスベルは少し役割が異なる。たたり神は「火の七日間」であり、蘇った巨神兵とも言える。
ダイ ダラボッチやコダマは毒を中和する森そのもの。風の谷の村人はタタラ一族の男女にそっくりではないか。森の生命ダイダラボッチを狙うジコ坊と彼を差し向けた朝廷こそ巨神兵をめぐって争い、また腐海に手を出しいたずらに生命の神秘を弄ぼうとしたしたトルメキア帝国とシュワの兄弟皇帝であろう。そして、人間と自然の対決のモメントは、一方が鉄であり、他方がセラミックなのだ。
けれど、違いもある。「風の谷のナウシカ」では明らかに自然(腐海)が人間を圧倒している。「もののけ姫」では、人はけっして自然のなすがままではなく、「神殺しがいかなるものか、よく見よ」とまでエボシに言わせている。鉄を鍛え、富を生みだし、人と自然を変えてきた過去の歴史。これに対してセラミックに覆われた大地が人に手厳しい仕返しをするぞという未来への予言。
私たちは21世紀に向かってどう選択すべきなのか。富は無限にあるわけではない。いずれ石油は掘りつくすであろうし、森林の伐採速度は致命的である。私たちは未来に残すべき富を先取りしてしまっているのかも知れないのである。(つづく)
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「もののけ姫」について(6)(1997)中上 CR
「もののけ姫」に登場する異界の存在について考えてみよう。
ダイダラボッチ(シシ神)、モロの君、乙事主、そしてコダマである。ダイダラ坊には古くから山に結びついた話が多い。富士山はこの巨人が一夜で作ったと言う伝説もある。ダイダラ坊の足跡と称する遺跡や窪地には泉の湧くところがあり、むかしから水の神信仰との関連が指摘されている。また、東京都世田谷区の代田の地名起源にもなっているらしい(以上、「民俗の事典」岩崎美術社)。昔の人は海から離れた場所にある貝塚を不思議に思い、巨人が長い手を延ばして海岸の貝を取って食べたという昔話を残している。また、てっぺんの平な山は巨人が腰掛けたため潰れてできたと考えた。問題は泉の湧く地であることだ。水は生活に不可欠で、もし枯れれば移動しなければならない。だから人々の生存そのものを左右した。生命の泉と考えても不思議ではない。
モロの君はまさに母そのものである。サンの保護者であり、戦いのエネルギーの源泉である。前回述べたように、エボシ御前が男(父親)の論理なら、サンとモロは女(母親)の論理を具現している。二頭の息子犬はその使い魔というところだろう。
乙事主。名前の由来は大国主、事代主、一言主あたりか。いずれも異郷から幸福をもたらす神と考えられている(大国主は大黒様に、事代主はエビス様に習合したとする説がある)。大国主は古事記で国津神として登場し、天津神によって征服される。だから、国津神たる乙事主は天津神の末裔である大和朝廷(ジコ坊一
味)に敗北するのが運命であった。
コダマはユングのいうトリックスターである。自分自身に力はないが、あちこちに現れては主人公を助け、物語を進行させていく。「もののけ姫」にあっては森の命の揺らぎである。その存在はかげろうのようにはかない。シシ神が撃たれて森が消滅すると、あっけなく運命をともにする。コダマはしょせん木霊なのかもしれない。しかし、百年を経た古木には神が宿るのだ。人はそこに立ち入ってはいけないし、まして切り倒すことは禁じられている。そう、シシ神を撃ったため人はそのタブーを侵し、心の安住の地と生命の源泉を失ったのである。(つづく)
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「もののけ姫」について(終)(1997)中上 CR
最終回は「たたり神」ついて考えてみる。
御霊(ごりょう)信仰は奈良時代から平安時代あたりに京都を中心に広まったと言われる。ちまたに災厄や病気が流行すると、これを失脚した権力者の御霊の祟りであると考えた。太宰府に流された菅原道真は日本最大級の怨霊とされ、彼の死後、洪水や疫病が頻発し、道真を失脚させた藤原時平、皇太子であった保明親王と慶頼親王が相次いで死んだ。また清涼殿に雷が落ちて人が死に、そのショックで醍醐天皇も崩御。京の街に道真の祟りであるとの噂が流れ、やむなく道真を右大臣に復して正二位を追贈したが、それでも災厄はおさまらない。道真の霊を「天満自在天神」にまつりあげて、ようやく祟りはおさまった(「日本の呪い」
小松和彦 光文社)。これが北野天満宮で、いまや学問の神様として信仰を集めている。
この例で分かるように、日本の御霊信仰は怨霊をいかに鎮めるかがテーマであった。怨念を残して死んだ者は「たたり神」となると信じられたのである。「もののけ姫」の中で乙事主は人間に敗れ、その怨念から「たたり神」となった。彼の霊は祭られただろうか。物語の最初に登場した「たたり神」はアシタカに倒されたが、鎮められてはいない。それゆえ、アシタカは呪われてしまった。「穢れた」アシタカは、従って「清められ」なければならない。彼の腕の傷痕はその象徴である。物語の後半で分かるように、乙事主を鎮めたのはシシ神である。この神は生と死を司る神と考えられる。別の言い方をすれば、「清め」の力を持った神である。アシタカとサンは奪われた首を返すことで清められた。穢れた大地も清められた(しかし、森が戻ったわけではない)。
人間は今も大地を穢し続けている。一体、誰がこれを清めてくれるのか。誰がシシ神の勤めを果たしてくれるのか。物語の中のように、いつも救世主が現れるとは限らないのだ。
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乙骨淑子 『十三歳の夏』あかね書房(1974)中上
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主人公は幼い頃母を亡くし、(離婚した)父とも別居。およそ人生の起伏というものを持たない伯母の家に預けられている。しかし少女は何の屈託もなく父に会いに行く。父と一緒になった人は下町育ちのあっけらかんとした気のいいおばさん。「うちの子になってくれたらねえ」といってくれる。だらしないが人情厚い父の家、ひからびた家にひからびた生しかないような伯母の家。<それでも>と、主人公は父の家に移ろうとは思わない。十三歳の夏、東京の下町と鎌倉の間を揺れ動く心。子供から大人に変わりつつある少女が回りの人々と優しく触れ合う姿をすがすがしいタッチで描いている。しかし言葉使いが軽妙すぎて中学生らしくない。描いている感受性はすばらしいが、どこまで理解されるだろうか。佳作。テーマは思春期、自立と選択。
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