菊水隊


イ36潜 イ37潜 イ47潜(創始者仁科中尉の出撃)

昭和19年11月8日出撃

>> 当時の日本の状況




イ36・37・47潜出撃記念


短刀伝達式(S.19.11.7.大津島)


 イ36潜・搭乗員


回天搭乗員・左より今西少尉、豊住中尉、吉本中尉、工藤少尉



艦上の長官訓示


今西太一少尉の遺影・遺墨

十一月二十日ウルシー環礁(北泊地)を攻撃。
今西太一少尉(慶大・経済)、発進戦死。吉本中尉、豊住中尉、工藤少尉の回天は故障のため、発進不能。十一月三十日帰還。



今西太一

遺書

お父様
フミちゃん


太一は本日、回天特別攻撃隊菊水隊の一員として出撃します。日本男子として生まれ、これに過ぐる栄光はありません。勿論生死の程は論ずるところではありません。私達はただ今日の日本が私達の突進を必要としていると言うことを知っているのみであります。

上御一人に帰し奉るこの道こそ太一二十六年の生涯に教えられた唯一のものであり、そのままの生き方を為し得る今日を喜ぶものであります。(中略)

最後のお別れを充分にして来る様にと家に帰して戴いたとき、実のところはもっともっと苦しいものだろうと予想して居ったのであります。しかしこの攻撃をかけるのが決して特別のものでなく、日本の今日としては当たり前のことであると信じている私には何等悲壮な感じも起らず、あのような楽しい時をもちました。坂本竜馬、中岡慎太郎、木戸孝允と先輩諸兄の墓に詣で、ひそかにその志に触れたく思ったのでありました。何も申上げられなかったこと申訳ないこととも思いますが、これだけはお許し下さい。(註:当時この部隊は機密部隊であり、また家族の気持ちを考慮して、出撃前の最後にもらう休暇では皆特攻出撃であることは口にしませんでした。)

お父様、フミちゃんのその淋しい生活を考えると何も言えなくなります。けれど日本は非常の秋に直面しております。日本人たるものこの戦法に出ずるのは当然のことなのであります。日本人としてこの真の生き方の出来るこの私、親不孝とは考えておりません。淋しいのはよくわかります。しかしここは一番こらえて戴きます。太一を頼りに今日まで生きてきて下さったことも充分承知しております。それでも止まれないものがあるのです。フミちゃん立派な日本の娘となって幸福に暮らして下さい。これ以上に私の望みはありません。お父様のことよろしくお願い致します。私は心配をかけっぱなしでこのまま征きます。その埋合わせはお頼み致します。他人が何と言えお父様は世界一の人であり、お母様も日本一立派な母でありました。この名を恥かしめない日本の母になって下さい。この父の母の資質を受け継いだフミちゃんにはそれだけの資格があるのですから。何にも動ずることのない私もフミちゃんのことを思うと涙を留めることが出来ません。けれどフミちゃん、お父様泣いて下さいますな、太一はこんなにも幸福にその死処を得て行ったのでありますから、そしてやがてお母様と一緒になれる喜びを胸に秘めながら。

軍艦旗高く大空に揚るところ、菊水の紋章もあざやかに出撃する私達の心の中何と申上げればよいのでせう。

回天特別攻撃隊今西太一唯今出撃いたします。




イ37潜・搭乗員



回天搭乗員・左より宇都宮少尉、上別府大尉、村上中尉、近藤少尉


 
パラオ、コスソル水道に向かう途中の十一月二十九日、米軍護衛駆逐艦により撃沈。
宇都宮秀一少尉(東大・法)、上別府宜紀大尉(海兵70)、村上克巴中尉(海機53)、近藤和彦少尉(名古屋高工)、以下全員戦死。



上別府宜紀

妹にあてた手紙

御手紙有難う。目出度く卒業の由、何よりと存じます。愈々怒涛の人の世に出て一人前の女性として国に尽くせることは多いに喜ぶべきと同時に責任の重大なるを深く肝に銘じなければいけないと思います。開国以来の国難に際会せる我々日本国民各自の毎日の生活そのものが戦争であり、国家の存亡を担っているのです。戦争は決して我々軍人のみで行うものではありません。『冬来りなば春遠からじ』厳寒の冬を過して桜花爛漫の春が来ると同様、あらゆる苦境を忍び、一途に光明の彼岸に邁進するところに我々日本人の生甲斐があり、生命があるのだと思います。

それから、先日送ってきた写真は転勤の途中でごたごたにまぎれて行方不明になりましたから何卒御了承下さい。しかし若人の溌剌さに満ちた姿に思わず微笑みました。

あの写真中の誰やら忘れたが手紙が来たのに多忙に取り紛れ未だに返事を出していませんから何卒宜しく御伝え願います。『女泣かせの中尉殿』もいよいよ来月一月からは三つ星となります。益々責任も加わり、且働き甲斐ある生活が出来ます。では今日はこのへんでやめます。

昭和十九年四月二十七日

京子殿


ナオチャンゲンキデスカ、アイカワラズゴホンヲヨンダリ、ジヲカイタリシテマスカ、ダイブオジョウズニナッタデショウネ。
ミンナマイニチガッコウニイッテシマウノデサビシクアリマセンカ。ナオチャンモモウジキニガッコウデスネ。
コノアイダ、ゴホンヲアリガトウ。マイニチヨロコンデヨンデイマス。
トキドキナガイオテガミヲクダサイ。オネエサンヤオトウサン、オカアサンソレカラオバアサンニモヨロシク、ダンダンサムクナリマスカラネビエヲシナイヨウニ。
デハサヨウナラ

ヨシノリ

ナオチャンヘ 


妹・京子女学校時代の作文

「…本当に兄の総ては愛情そのもののような気がします。肉親を思う愛、国を思う愛、職場に捧げる愛、この愛の総てで、二十四歳の若さを惜しげもなく自己の任務に捧げ尽くしたのだと思うのでございます…」 

 
*資料・回天特別攻撃隊潜水艦戦死者名簿/伊号第37潜*

>> 「頭上の狼、眼下の敵」




イ47潜・搭乗員


回天搭乗員・左より佐藤少尉、仁科中尉、福田中尉、渡辺少尉



見送り内火艇に別れ(左より二人目仁科中尉)



総員帽振れの位置(前進微速)


 
一路豊後水道を目指すイ47潜と、バンクで見送る基地水上偵察機

 
十一月二十日、ウルシー環礁(南泊地)を攻撃。
仁科関夫中尉(海兵71)、福田斎中尉(海機53)、佐藤章少尉(九大・法)、渡辺幸三少尉(慶応・経済)、発進戦死。

>> 菊水隊の給油艦ミシシネワ撃沈
>> 「菊水隊ウルシー攻撃に関する一考察」


 

仁科関夫 (創始者)



「・・子孫を残すことが出来ないのが、
たった一つの心残りだ・・」(光人社・重本俊一著『回天発進』より)

略歴)大正十二年、四月十日、滋賀県大津市鹿関町で生れる。
大阪女子師範学校付属小学校、大阪天王寺中学をほぼ主席で通す。
天王寺中学四年在学中(主席)に海軍兵学校を受験。トップに近い成績で合格(詳細不明。手元にある海兵一学年時の成績では600人中第5位)。剣道四段。

(註:旧制中学は現在の高校にあたるもので五年制。昭和十五年で25%の者が進学。なお、海兵合格者は、毎年おおむね一流中学の主席で約一割、五番以内で約六割、残りのほとんどもその二十番以内で占められ、無名中学からの受験では答案すら見てもらえないと噂された、当時の最難関の一つでした。昭和10年以降は入学定員も増し、若干入学は容易になったものと思われます。)
  

父・染三の手紙より

・・人生は公人であろうと私人であろうと生徒であろうと、ただ敬神を第一とし、誠心をもって神に対し、人に対し、事に対し、遠謀深慮のもとに最善をつくし、自己を大ならしめることです。神は己を大ならしむべく努力するものを助け、確固たる意志に道を与えるものと信じます。


遺書

謹啓、皆々様にはいよいよ御清適お暮らしの段、大慶至極に奉在候。次に関夫儀お陰をもって無事消光まかりあり候間御放念遊ばされ度。さて戦局益々苛烈皇国民一丸となりて只大君の御為全力を傾注しあるは祝賀の至り、神州不滅の真理を如実に具現致しあるものにて、この精神とこの信念を弛緩せしめざること肝要と存ぜられ候。関夫儀只古人桜井のいたり「更に残す一塊の肉」と嘆じたるその一塊の肉無きを遺憾恨事と切歯の至り、長夫、周夫、秀夫の奮起に期待致す処極めて大なるあるもこれあり、何卒自重の程、切に御願い奉り候

関夫

十九年十一月十日
父上母上様皆々様

君が為只一筋の誠心に
当たりて砕けぬ敵やはあるべき

 

福田斉

遺書

親を想う心に勝る親心
今日の音づれなんときくらむ


此の世に生を承け二十有三年何等の御恩に報ゆる事無くして御両親様に先立つ不幸何卒御許し被下度

今や皇国は存亡の極めて重大なる岐路に在る秋、選ばれて此の壮挙に参加し得るの光栄例えん方無之候。此の事の成ると否とは、天命に候も、皇国三千年の歴史を擁護し奉らんとする小官等の志の赴く所何卒御酌取被下度尚斉死すといえども魂は永久に生きて皇土を守護し奉るものに有之候、最後に御両親様始め皆々様の御多幸ならん事を祈り申上候。

益田先生、山崎先生、並に田尻部落御一同様に宜敷く御伝言下度

御両親様

 


佐藤章

妻への手紙

まりゑ殿

かねて覚悟し念願していた「海い征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。

短い間ではあったが、心からのお世話になった。俺にとっては日本一の妻であった。

小生は何処に居らうとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。

子供も、唯堂々と育て上げてくれ。所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ、小生も立派に死んでくる。

充分体に気をつけて栄へ行く日本の姿を小生の姿と思いつつ強く正しく生き抜いてくれ。

大東亜戦争に出陣するに際して

昭和十八年九月二十一日

まりゑ殿