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プライベート・ライアン
1944年、第二次世界大戦。
フランス・ノルマンディの海岸では、連合軍とドイツ軍の激しい銃撃戦が繰り広げられていた。
そしてその3日後、数多くの戦死者を出したその激戦をくぐり抜けたミラー大尉(トム・ハンクス)に、
軍の上層部はさらに過酷な命令を言い渡す。
それは、戦闘中敵地で行方不明になった、生死不明のライアン二等兵(マット・デイモン)を救出せよ、
というものだった。
ライアン二等兵は3人の兄と共にこの大戦に参加したが、3人の兄はそれぞれに戦闘で全て戦死してしまった。
軍最高首脳マーシャル将軍は、息子3人を一度に失ってしまったライアンの母親の気持ちを考え、
残った1人の息子を母親の元に返してやろうと思ったのだった。
ミラー大尉はライアン二等兵が居ると思われる最前線の敵地へと向うため、7人の部下を選出する。
「新兵1人の救出に、なぜ8人の命を賭ける価値があるのか?」
そんな疑問をそれぞれに抱きながら、8人の兵士たちはライアン二等兵を探し始める。
原題は「Saving Private Ryan」。
ここで言う「プライベート」とは「私的な」という意味ではなく、
「兵士(最下位の軍人)」という言葉を表しています。
つまり「Saving Private Ryan」を直訳すると、「ライアン二等兵を救う」というような意味になります。
この作品は2時間50分のほとんどが、戦場での戦いのシーンばかりです。
8人の兵士が軍上層部の命令を受けてひとりの兵士を探しに行くという、
大まかなストーリーと僅かな人間ドラマは用意されていますが、
この作品の中で「それ」が占めているの割合はほんの少しなのです。
だから「それ」を期待して観る人には、きっと物足りないと思いますし、
スピルバーグという名に娯楽性を求める人には、きっと長くて退屈な映画だと思います。
私がこの作品を観て分かったことは、スピルバーグが見せたかったのは「それ」ではないのだということでした。
物語が始まってすぐ、ノルマンディ上陸作戦のシーンが始まります。
そこにはストーリーは全く無く、主役のトム・ハンクスが在籍する連合軍とドイツ軍の戦闘シーンのみが
延々と約30分間映し出されるのです。
そのシーンでは頭を打ちぬかれたり、腕や脚を吹き飛ばされたり、
胸を撃たれて苦しみながら息絶えていく兵士の姿が実に生々しく描かれています。
それは、とても誰かに感情移入出来るシーンではありません。
約30分間、ただひたすら「第三者」として、スクリーンのこちら側でその惨劇を見つめ続けるしかないのです。
人間同士が殺し合うということが、どんなに醜くて悲しいことなのか。
それを観ている人たちに伝えるために、スピルバーグは30分もの長い時間それを見せつづけたような気がしました。
「もう、いい加減やめて欲しい」「ここまでする必要があるのか?」と観ている者に思わせること。
それがスピルバーグの目的だったように感じられるのです。
そしてそれがひと段落したところで、今度はトム・ハンクス演じるミラー軍曹に、
軍の最高司令者からライアン二等兵を探せという命令が降ります。
ここからが僅かなストーリーと人間ドラマの始まりなのですが、
それも簡単に納得出来るものではありません。
ひとりの二等兵を探すために、なぜ8人の兵士が危険にさらされなければならないのでしょうか?
しかも当然のごとく、命令を下したお偉いさんは、自分の身は危険にさらされることはありません。
どんな身分の人間でも、その命に重い軽いの差は無いと思います。
でも、いくら何でもその命令はあまりにも理不尽な気がするのです。
そして、その私の疑問は選ばれた8人の兵士本人たちの疑問でもありました。
映画を最後まで観ても、この理不尽な疑問には、結局私は答えを見つけられませんでした。
しかし、答えが見つけられないことが、そのままこの映画が投げかけた問題の答えになりました。
それは「戦争」自体が理不尽なものであるため、そこで起こった理不尽な出来事に答えを見出そうとしても、
到底無理なことであり、その理不尽な時代が過去に確かに存在していたということ。
そして、ラストシーンの年老いたライアンの姿が、その全てを物語っているように、
私たちの現在の平和な暮らしは、その過去の惨劇の上に成り立っているということです。
娯楽性を一切排除し、ストーリーやきれいごとの人間ドラマさえ最低限に削って、
「戦場」を見せることに徹したスビルバーグの信念は素晴らしいと思いました。
彼が50年以上前に起こった第二次世界大戦の生き証人が存在しているうちに、
それを後世に残すべく、その「記録映画」とも言える作品を撮ったことには大きな意味があると思います。
ある意味では完璧な作品だと言えましょう。一度は観ておくべき作品だと思います。
でも、残念だと思ったことは、せっかくその中に用意されていた、泣けるような「人間ドラマ」が、
戦場シーンの迫力に完全にかき消されてしまっていたことです。
私は泣けなかったし、「もう一度観たい」と思う気持ちは起こりませんでした。
レベル4
ダイヤルM
実業家スティーブン(マイケル・ダグラス)の妻エミリー(グウィネス・パルトロウ)は、
実家に莫大な資産を持ち、数か国語を操って米国大使の側近として働く知性豊かな女性。
それ故に、自分を思い通りに操ろうとする夫との結婚生活に嫌気が差し、
その心の隙間を埋めるべく、才能ある無名の画家、デイビッド(ヴィゴ・モーテンセン)との浮気に明け暮れていた。
しかし、スティーブンが彼女の浮気を知るのは時間の問題だった。
妻の裏切りに、スティーブンの彼女への愛はいつしか憎悪に変わり、
彼は破産寸前の自分の事業を救うために、彼女を殺して遺産を手に入れる計画を思い付く。
もちろん、そのためにはスティーブン自身が手を下す訳にはいかない。
彼が50万ドルの報酬で妻殺しを依頼したのは、エミリーの愛人デイビッドだった。
スティーブンは、デイビッドが資産家の夫人ばかりを狙った札付きの詐欺師であることを突き止めていたのだった。
ヒッチコック監督の名作サスペンス「ダイヤルMを廻せ!」を現代風にアレンジしたリメイク版。
ヒッチコック版を観たことが無い私には、この作品を先の見えないサスペンスとして楽しむことが出来ました。
スティーブン、エミリー、デイビッドの三人三様の騙し合いは、かなりの緊張感があり、
スティーブンが徐々に追いつめられていく様もなかなか見ごたえがありました。
ただ中盤までの緊迫した展開に比べ、オチが全く面白くありません。
もっととんでもない大ドンデン返しを期待していた私には、かなり不満のラストシーンでした。
語学に堪能なエミリーが、外国人である警察官と2人しか分からない言葉で会話を交わすというエピソードも、
ストーリーの中で全く生かされていないのも残念。
変に期待を煽るようなエピソードだっただけに、余計にラストシーンでがっかりするハメとなっとしまいました。
「ダイヤルM」というのも、ストーリー全体から見たらなんだか変なタイトルです。
確かに電話は殺人の小道具として使われていましたが、それが占めていた割合はほんのわずか。
それに「ダイヤルM」の「M」というのも、この映画を観る限りでは何のことかさっぱり意味が分かりません。
原題の「A Parfect Murder=完全なる殺人」の方が、この作品のタイトルにはピッタリなのに。
ヒッチコックの「ダイヤルMを廻せ!=Dial M for Murder」にこだわり過ぎたタイトルのような気がします。
しかし、この作品を観て初めてグウィネス・パルトロウの良さが分かりました。
彼女は決して美人だと思えないし、なぜハリウッドでそんなにウケているのかが分からなかったのですが、
この作品では、殺人犯に突き飛ばされ、投げ飛ばされるという体当たりの演技を見せており、
その女優根性と演技の上手さに感心させられました。
派手過ぎない顔つきが、かえって作品を引き立たせているような気もしました。
レベル3.5
フラッド
アメリカ西部一帯に、記録的な大雨が降り続いていた。
ミシシッピー川流域に位置するインディアナ州ハンティングバーグの住民たちは、すでに非難を済ませている。
このまま大量の雨が川に流れ込む状態が続き、ダムの水位が上昇すればダムは決壊、
大洪水が町を呑み込むことは明らかだった。
そんな豪雨の中、町中の全ての銀行の現金を非難させるため、
トム(クリスチャン・スレーター)は相棒のチャーリーと一緒に現金輸送車を走らせていた。
しかし、川の氾濫で道路が寸断され、輸送車は立ち往生してしまう。
彼らは無線で救助を要請するが、そこにやって来たのはジム(モーガン・フリーマン)率いる
現金輸送車襲撃グループだった。
突然発砲を仕掛けた一味に、チャーリーは撃たれて死んでしまう。
一人残されたトムは、荷物室から現金袋を取り出し、襲撃グループのすきを狙って逃亡を図る。
舞台になっているのは、大雨によって川が決壊し、水浸しになっている町。
邦題は「Flood=洪水」ですが、原題は「Hard Rain」で、
水浸しになっている町に更に大雨が降り注ぎ、町は崩壊寸前といった状況。
“大洪水もの”と言っても、町の住人たちは既に非難したあとで、
自然災害をテーマにしたパニックものではなく、水浸しの町の中にあえてとどまっている人たちの
水上での大金の強奪をめぐるアクション作品となっています。
大雨で浸水して立ち往生した現金輸送車を強盗団が狙う、という設定は面白いと思いますし、
主演のクリスチャン・スレーターもヒロインのミニー・ドライバーも全身水浸しになって頑張っていました。
でも、この映画はアクションシーンと“予想出来ない展開のストーリー”を見せることに重点を置きすぎ、
登場人物の設定がいい加減すぎます。
主人公を含め、全ての登場人物の全ての行動が理解出来ないことばかりなのです。
“予想出来ない展開”とか“大ドンデン返し”を売りにしていますが、その目玉も明らかにB級品。
観ていて呆れてしまいました。
それに、ミニー・ドライバーが手錠でつながれるシーンは「タイタニック」のパクリじゃありませんか?
いや、あんな有名な作品からパクるなんて考えられません。あれはパロディだったのでしょうか。
それにしても、何といっても一番腹立たしいのは、モーガン・フリーマンの役どころでしょう。
しばらくは彼の姿をスクリーンの中に見たくないと思ってしまいました。
レベル2
「チェーン・リアクション」や「スピード2」が許せない人には、この映画はきっと許せないと思います。
シティ・オブ・エンジェル
ロサンゼルスの街には、人の目には見えないが、あらゆるところに黒い服を着た翼のない天使がいた。
彼らの役目は人間たちの営みを見つめ、死期を迎えた人のそばにそっと寄り添うこと。
彼らには“感覚”というものがなく、空を飛ぶことは出来ても風を感じることは出来ない。
そんな天使のひとりセス(ニコラス・ケイジ)は、手術室で容体が急変した患者を懸命に蘇生させている
心臓外科医マギー(メグ・ライアン)に強く惹かれる。
結局患者を救うことが出来ずに自信を無くしてしまった彼女にそっと寄り添い、
セスはマギーの心の声を聞くのだった。
マギーに恋をしてしまったセスは、彼女を立ち直らせてあげたいと思う気持ちから、
とうとう彼女の前に姿を見せる。
セスと言葉を交わしたマギーもまた、セスに不思議な魅力を感じるのだった。
セスの恋心は次第に募っていく。
しかし、セスには彼女に触れても、彼女を感じることは出来ない。
そんなある日、セスはふとした事から、天使が永遠の命と引き換えに人間になれることを知る。
「ベルリン・天使の詩」のハリウッド版リメイクということですが、
私は「ベルリン・天使の詩」は観ていないので、比較することは出来ませんし、
全く新しい作品のつもりで、この「シティ・オブ・エンジェル」を観ました。
お茶目な役どころを得意とする“ラブ・コメの女王”メグ・ライアンが、
今回はラブ・ストーリーながら、とてもシリアスな役を演じています。
しかし、いつもの様にはじけた役ではないとはいえ、キュートな魅力はそのまま。
むしろシリアスな役どころの中での、彼女の笑顔が一層魅力的に見えたりもしました。
物語の前半は、メグ・ライアン演じる女医・マギーの患者を救えなかった悔しさ、
マギーに触れたいのに触れることが出来ないセスの悲しさが伝わってきて、泣けました。
マギーとセスというキャラクターの魅力も十分に伝わり、
ふたりが一目で恋に落ちてしまう様子も上手く表現出来ていたと思います。
しかし、後半がどうもダメでした。
ネタばれになってしまうので詳しくは書きませんが、
前半であれだけ魅力のあったセスが、後半全く魅力的でなくなってしまったのです。
確かに状況が変化して彼自身の気持ちも大いに変化しているので仕方ないのかもしれませんが、
前半の“憂い”を秘めた彼がかなり良かったので、
そんな彼がマギーと盛り上がっていくと同時に、私の気持ちは盛り下がってしまったのです。
途中までの流れから考えれば、後半のクライマックスの“あの出来事”も予想出来ました。
前半の恋愛の導入部の見せ方が良かっただけに、後半尻すぼみ状態が残念な作品でした。
やっぱり、映画はラストに向かって盛り上げてくれないとダメです。
レベル3
あの予告編で流れてた素敵な曲は、劇中にもエンドロールにも使われていませんでした。
ただのイメージソングだったのでしょうか。
予告編で過大な期待をしてしまったために、期待外れになってしまった作品でした。
仮面の男
17世紀のパリ。国王ルイ13世が死去したあと、
親政は若きルイ14世(レオナルド・ディカプリオ)の手に委ねられていた。
かつてルイ13世に仕え数々の武勇伝を残した親衛隊のアラミス(ジェレミー・アイアンズ)、
ポルトス(ジェラール・ドパルデュー)、アトス(ジョン・マルコヴィッチ)は、
今では引退して平穏な日々を送っていた。
その中でただ一人、ダルタニアン(ガブリエル・バーン)だけが
銃士隊長としてルイ14世に仕えている。
しかしその若き国王は、権力と富を使った派手で贅沢な暮らしを好み、
度重なる戦争で飢えに苦しめられたフランスの国民が暴動を起こしても、
民衆の声には耳を傾けることはせず、ヴェルサイユ宮殿で贅沢な宴にうつつを抜かす日々を送っていた。
ある日、アトスの一人息子・ラウルのフィアンセに一目惚れしたルイ14世は、
彼女を手に入れるためにラウルを戦場に送り、彼を戦死させてしまう。
愛する息子を失ったアトスは、いつの日かルイ14世に復讐を遂げることを心に誓うのだった。
そんな折り、国王に不満を持つアラミスは、ダルタニアン、ポルトス、アトスを一同に集め、
ある秘密と計画を打ち明ける。
それは、かつてバスティーユ牢獄の地下に自分が閉じ込めた、ある高貴な身分の男を救い出し、
その男と国王を取り替えるという計画だった。
そういえば、この作品の日本での公開が決定した時、邦題は「ディカプリオの仮面の男」でした。
その時は何でそんなふざけたタイトルを付けるのか不思議に思っていましたが、
知らないうちに「ディカプリオの」という冠文字は外されていましたね。
それでも配給会社は、あくまでディカプリオを主役のように宣伝。
ですが、この作品の主役はまぎれもなく“おじさま四銃士”でしょう。
ディカプリオ君も初の悪役に挑戦するなど、とても頑張っていましたが、
今回は“脇役”に過ぎませんでした。
大ヒット作「タイタニック」の次の出演作、という難しい作品選びに、彼があえて脇役の
それも悪役での出演でこの作品を選んだことに対しては、私は評価してあげたいと思いますが、
作品全体から見たら彼だけ何だか浮いてしまっているような感じ。
どう見てもフランスの国王には見えず、豪華な衣装も“服に着られてる”という印象です。
“目玉”であったはずのディカプリオが、足を引っ張ってしまっている気すらしました。
物語は面白かったと思います。
観ている時は全く退屈しませんでしたし、かなり入り込んで観ることが出来ました。
でも、スケールが大きな作品なので、この映画の枠の中ではストーリーを追うので精一杯で、
かなり端折っている印象を受け、観終わったあとに少し物足りない気もしました。
国王のエピソードを減らしてでも、もう少し四銃士の気持ちの中まで踏み込んで欲しかったと思います。
“あー、面白かった”と観終えることは出来ましたが、
あとで何が一番印象に残ったかと尋ねられれば、やっぱり“おじさま四銃士”のカッコよさ!
作品の印象がそれに尽きるって言うのも、変な話ですね。
でも、いいんです。カッコよかったから。
レベル4
英語でフランスの中世の歴史ものをやるっていうのもちょっと変な感じ。
中国人が中国語で「忠臣蔵」をやっているようなものじゃない?
スクリーム2
カリフォルニア州ウッズボローで起った連続殺人事件から2年が経った。
シドニー(ネイヴ・キャンベル)は大学の演劇科に進学、新しい恋人デレクや友人たちに囲まれて
少しずつ平和で穏やかな生活を取り戻していた。
しかし、レポーターのゲイル(コートニー・コックス)が2年前の事件をまとめた本がベストセラーとなり、
その本が『スタブ』というタイトルで映画化されることになると、シドニーの周りは俄かにざわつき始める。
前回の殺人犯を真似たイタズラ電話がシドニーのところにも頻繁にかかってくるようになるが、
彼女は“映画が上映されている間だけのこと”と、気にも留めなかった。
しかし、事件はまた起こった。
『スタブ』の試写会の会場で、シドニーと同じ大学に通うモーリーンとフィルが惨殺されたのだ。
大学のキャンパスには報道陣が溢れかえり、再びシドニーの周辺は騒然となる。
レポーターの先頭を切ってゲイルがシドニーの前に現れ、彼女の胸には忌まわしい記憶がよみがえった。
映画に感化された、悪質な模倣犯が起こした単発事件だと考えたいシドニーは、嫌な気分を追い払おうと、
友人のハリーに誘われるまま、その夜パーティに参加する。
しかし、そのパーティのために無人になった女子寮に再び死神マスクの殺人鬼が出現し、
ひとりきり留守番をしていたシーシーが殺されてしまう。
そして殺人鬼はついにシドニーの前に姿を現し襲いかかるが、
間一髪のところでデレクが現れ、彼女は窮地を救われる。
これは新たな連続殺人の始まりなのだと気付き、誰も信じられなくなってしまうシドニー。
そしてゲイルは取材を進めていくうち、
3人の犠牲者の名前が2年前の犠牲者の名前と一致していることに気付く。
たいていの映画では、続編というのは面白くないものです。
しかし、この作品に関しては“続編は必ず面白くないというシリーズものの法則を打ち破っている”
という評判を前々から聞いていて、私自身とても楽しみにしていました。
実際この「スクリーム2」の中でも、“続編は低質と相場が決まっている”という大胆なセリフがあり、
前作からの続投となった脚本家ケヴィン・ウイリアムスンと監督ウェス・クレイブンの
この作品に対する“自信”がうかがえました。
そしてそんな私の大きな期待を裏切らず、本当に面白かったです。
ホラー映画続編の“お約束”らしく、確かに1作目より死亡率はアップし残虐にもなっていますが、
ホラー色よりサスペンス色が濃くなっているので、
ホラーが苦手な私でも、むしろ1作目より面白く感じられました。
1作目を観た時は“ホラー”として観ていたので、“犯人探し”は私の中では二の次だったのですが、
今回は最初から誰が犯人なのかが気になり、
“ホラー”を観るというより“犯人探し”に夢中になっていたからでしょう。
なんせ出てくる人出てくる人が、みんな均等に怪しいのですから。
その辺の見せ方が、監督ウェス・クレイブンはとても上手いです。
それに前作を観ているだけに、主人公のシドニーに気持ちがすんなりと入ってしまい、
シドニーが襲われるシーンが増えていたこともあって、ドキドキ度が増したのだと思います。
前作で生き残った人たちを全員重要な役柄で登場させているという部分はもちろん、
前作のパロディもふんだんに使われていて、その部分でも楽しめました。
絶対に1作目を観てから、この作品を観ることをオススメします。
そうじゃなきゃ、楽しめません。
レベル4
結局、私は最後の最後まで犯人が分かりませんでした。残念。
でも、それだけに余計面白く感じられたのかも。
「スクリーム」の感想はこちらです。
モンタナの風に抱かれて
13歳の少女グレース(スカーレット・ヨハンソン)は、友人とふたりで乗馬中に事故に遭い、
無二の親友であったその友人と、自分の右足を失ってしまう。
一生消えない身体の傷と共に、心に深い傷を負ったグレースは絶望で自暴自棄になり、学校にも行かなくなる。
一方、グレースと共に重傷を負った彼女の愛馬ビルグリムは、
事故のショックから人間に対して凶暴な敵意を示す暴れ馬になってしまっていた。
ニューヨークの雑誌の編集長である、グレースの母親・アニー(クリスティン・スコット・トーマス)は、
『ビルグリムと一緒に自分も安楽死させて欲しい』というグレースの言葉を聞き、
馬と娘がいかに強く結びついていたかを知り、同時に馬を治すことで、娘の心を癒せると悟った。
やがてアニーは、馬を癒す特殊な才能を持つと言われるカウボーイの存在を知る。
そして、アニーは弁護士の夫ロバート(サム・ニール)をニューヨークに残し、
自分の仕事を部下たちに任せ、嫌がるグレースとビルグリムを連れて、
そのカウボーイ、トム・ブッカー(ロバート・レッドフォード)が馬のクリニックを開業しているという
何千キロも離れたモンタナの牧場へと車で旅立った。
モンタナの牧場に到着した2人は、手の付けられない凶暴なビルグリムをトムが少しずつ手なづけて行くのに驚き、
そこで過ごす穏やかな時間の中で、トムの誠実な優しさはグレースの心の傷も少しずつ癒していった。
自分勝手な行動で出版社の局長の怒りを買ってしまったアニーは、編集長の仕事を外されてしまうが、
彼女もまた、ゆっくりと流れる時間とトムの存在に安らぎを感じ始めていた。
やがてアニーとトムは、ごく自然に恋に落ちて行く。
「普通の人々」「リバー・ランズ・スルー・イット」「クイズ・ショウ」などで
監督としての才能も見せつけた俳優ロバート・レッドフォードが、
初めて自分を主役にして監督を手掛けた作品。
「リバー・ランズ・スルー・イット」でも、美しい映像で多くの観客の心を奪ったレッドフォードでしたが、
この作品でもその映像の美しさを思い切り堪能することが出来ます。
そして映像の美しさもさる事ながら、物語の前半で見せてくれた母と娘の心の葛藤を描いたシーンは見事でした。
ぶつかり合うふたりのそれぞれの気持ちが、どちらもきちんと伝わってくるのです。
そればかりか、傷ついた馬の感情までもが見事に表現され、美しい映像を撮れるということばかりでなく、
レッドフォードには監督として、気持ちの表現力ということに関しても素晴らしい力量を感じました。
それに『時間の流れ』の表現の仕方がとても上手いです。
北野武もよく使う手法ですが、余計なセリフやシーンを省き、時間が経過した次のシーンを見せることで、
その間に起こった架空のシーンを観客に想像させる、というものです。
『私は行かないわ』と言っていた娘が、次のシーンではムスっとした顔で母親の車に乗っている・・・・
それだけでふたりの間にどんなやりとりがあったのか、観客は想像出来てしまうのです。
無駄の無い、素晴らしい表現方法です。映画の見せ方をよく分かっている人だと思いました。
このままいけば、文句の付けどころがない作品になるように思えました。
しかし、母娘の二人がモンタナに到着し、レッドフォード扮するカウボーイのトムに会う所からがダメです。
レッドフォード自身が画面に登場してから、なにか空気がガラリと変わってしまったような気がしてしまったのです。
それまで痛いくらいに伝わってきた母と娘の心の内側も、突然表現が大雑把になってしまったような気がしましたし、
トムが馬の心の傷を癒すことによって、二人の気持ちが微妙に変化していく様も、
画面に登場しているレッドフォード自身の強い個性にかき消されてしまっているように思えました。
なんだか、レッドフォードが『自分』を見せる方に走ってしまっているような気がするのです。
それが少し鼻に付き、兄嫁の『トムは良い人よ』というセリフにさえ、
素直に反応出来なくなってしまうのです。
それに、アニーとトムの恋愛は、この作品には全く不必要な気がしました。
どうしてトムが傷ついた少女の心を癒す話だけにとどめておかなかったのでしょうか。
そもそも、アニーと夫であるロバートとの関係が最初から曖昧なので、
アニーがロバートにどんな不満を持ってトムに惹かれて行くのかが分からないのです。
そしてラスト近くに、モンタナという地とトムという男性に心を惹かれている妻に対して、
ロバートが言うセリフの意味が全く理解出来ません。
夫だったらあんなこと言わないよ、普通。
最後にはもろ「マディソン郡の橋」になってしまい、ガックリ来てしまいました。
一体、何なんだろうと思ったら、この作品の脚本を書いたのは「マディソン郡の橋」の脚本を書いた人でした。
あれはやめて欲しかったなぁ・・・・。
全体的に見れば決して悪い作品ではないのですが、盛り上がりの少ない作品なので、
2時間47分という長さでは、中盤以降退屈になってしまい、
いい作品という印象すら残らなくなってしまいました。
レッドフォードの演じたトムの役を他の俳優に演じさせ、
母親とカウボーイの恋愛は省いて少女と馬との話だけにとどめておき、
2時間47分もの作品をもっと短縮すれば、素晴らしい作品になったと思うのですが。
レベル3
「マディソン郡の橋」のクリント・イーストウッドといい、この作品のロバート・レッドフォードといい、
いい爺さんが、なんで自分を主役にムリムリの恋愛ものを撮ろうとするのでしょうか。
他の俳優にやらせて、自分は撮ってるだけでいいじゃん、と思うのは私だけ?
ゴジラ/GODZILLA
アメリカ東海岸で、沖を走る船が次々に海中に引きずり込まれ
ばらばらの残骸となってしまうという不可解な事件が続発した。
また、ジャマイカ、タヒチ、パナマでは、陸上で何かが通り過ぎ、巨大な足跡が残されていた。
アメリカ政府は生物学者、ニック・タトポロス(マシュー・ブロデリック)に調査を依頼。
パナマの丘陵地帯に刻まれた巨大な足跡の調査を開始する。
同じ頃、ジャマイカの海岸には、船体に幾筋もの巨大な傷跡をつけられた日本の大型漁船が漂着した。
その漁船の乗組員で、ただひとりの生存者だった老人は、
恐怖のあまりに普通の精神状態を保つことが出来ず、何かに脅えるように「ゴジラ・・・」とだけ呟くのだった。
ニックはゴジラと呼ばれたこの巨大生物を南洋の水爆実験の影響で生まれた全くの新種ではないかと推測する。
そしてその数日後、ニューヨークの魚市場に突如ゴジラが現れた。
街を徘徊し始めたゴジラは、ニューヨーク市民を大パニックにおとしいれる。
即座にニューヨークに戻ったニックだったが、
ゴジラがニューヨークに卵を産みつけ、巣を作ろうとしているという推測をアメリカ政府には聞きいれてもらえず、
その上情報を外部に漏らしたという疑いをかけられて、調査のメンバーから外されてしまう。
しかし、そんなニックにフランスの特殊諜報部員・フィリップ(ジャン・レノ)が、
フランス側のゴジラ調査メンバーになって欲しいと依頼、
彼らはニューヨークの地下に潜り、ゴジラが産み付けたと思われる卵を探すべく、調査を開始する。
さすが「ID4」のローランド・エメリッヒ監督の作品だけあり、
『そんなバカな〜』という、突っ込みを入れたくなる要素が満載でした。
オープニングがいきなり笑えます。
日本の漁船で相撲を見ている日本人がいるのですが、相撲の試合を映すテレビ画面の左上に
『相撲・NIPPON』の文字が・・・・。
ゴジラの生まれた国である、日本人向けのサービスカットかもしれませんが、
『相撲』を『すもう』と読める人の中には、テレビで繰り広げられている取っ組み合いが
『相撲』だと知らない人はいないはずなのに、わざわざ無駄な説明をして下さる親切さが可笑しかったです。
そして、バリバリの日本人であるはずの襲われた漁船の生存者の老人が、
バリバリの英語で『GODZILLA・・・』と呟くのにも苦笑です。
せっかく出す必要もないと思われる日本を、わざわざ引き合いに出しているのだから、
その辺は観てる日本人が納得できるように作って頂かなければいけないでしょう。
ニックの居たテントの近くで、薬局が何もなかったように開店しているのもおかしな話です。
あの場所はゴジラが潜んでいる場所にほど近いはずだし、普通なら薬局を閉めて逃げ出すでしょう。
まるで、ニックが妊娠検査薬を手に入れるために都合よく作られたシーン以外の何ものでもありません。
それに、ゴジラにバリバリとかみ砕かれそうになった自動車が、
そのあとボロボロになりながらもちゃんと走ってしまうのは拍手ものです。
エンジンはイカれなかったのでしょうか。タイヤはパンクしなかったのでしょうか。
もう、徹底的に物語が展開するのに都合よく作られているのです。
笑わせようとしているシーンでは全く笑えない代わりに、マジなシーンで笑えます。
ハリウッドパニック映画お約束の『どんな危機に瀕しても主人公はゼッタイ死なない』という法則も守られ、
故にハラハラドキドキは全くなくて、彼らが真剣になるほど面白くなってしまうのです。
あれだけ多くの登場人物がいても、主人公以外は選りすぐったようなバカばっかというところにも、
この作品の強引さが表れています。
昔からのゴジラファンからは『あんなのゴジラじゃない!』という声をよく聞きますが、
昔のゴジラシリーズを一作も観ていない私が観ても、
「ジュラシック・パーク」や「ロスト・ワールド」のパクリにしか見えませんでした。
観終わった時に、そういえば日本でも「ゴジラ」は基本的にお子様向けムービーだったということに気付きました。
CGが凄かったり、有名な俳優が出ているから、その部分を忘れて観てしまいましたが、
終わってみれば『ハリウッドが巨額を投じて製作したお子様向けムービー』という印象だけが残りました。
レベル2
核爆弾の落し子であるゴジラを、ニューヨークに核爆弾を落として死滅させる、という展開だったら
ちょっとは評価してあげても良かったんだけどな。
アメリカは自国にはそんなことしないでしょうねー。