2001年沖縄の旅2(2001.6.21 - 25)



6月22日(金)晴れ

まるできのうの梅雨明け宣言が聞こえたかのように、朝から太陽は元気よく照りつけています。近くのコンビニで買ったパンとヨーグルトドリンクを部屋に持ち帰って朝食をすませ、居間に出て行って一服しました。テレビでは、「汗をちゃんとかかないと汗腺が萎縮してしまって身体によくない」という話題をとりあげていました。実にいいタイミング……だったかもしれない。その日から、いやというほど汗をかきまくる日々が始まったのです。

大量に持ってきたハンカチは次から次へと汗でびしょびしょになり、毎日宿で洗って乾かしてフル回転(だからあえてタオルハンカチではなく、すぐに乾く普通のハンカチを持ってきた)。のど、というより身体全体が渇ききったときに飲むお茶やジュースのおいしいこと。普段冷房のきいた部屋にこもっていると、さほど「のどが渇ききる」という体験をしないので、この身体のすみずみまで水分がゆきわたる実感というのは、こういう時にでもないと味わえません。もっとも汗をかくこと自体はいつもいつも気持ちのいいシチュエーション、とは言いがたかったけれど、そのたびにこの日の朝見た番組を思い出し、「身体にはこっちのほうがいいんだから」と自分に言い聞かせた4日間でした。

今日は久高島に移動します。安里さんが安座真港まで送ってくれることになったので、2時ごろ待ち合わせる約束をして、荷物をコバルト荘にあずけ、那覇の街に出ました。まずとにかく、国際通りを歩きます。ここもまた、新しいお店がずいぶん増えたような気がします。
ぶらぶらと歩きながら途中おみやげ類にチェックを入れ、安里T字路に突き当たったところで右折。しばらく歩くと、そこには小さな三線屋さんがあります。「仲嶺三味線店」……わたしの愛用する三線は、ここのお店で生まれました。

仲嶺三線店






仲嶺三味線店
那覇市街

久茂地交差点より松山方向を望む。
モノレール(建設中)の向こうの鉄塔はRBC(琉球放送)。
沖縄タイムスはその隣に……


3年前の秋、消耗品を買い込み、ついでに、ちょっと調子のよくない所を調整してもらおうと、三線持参でわたしはこの店を一度訪れています。店を入ってすぐの作業場には一見気難しそうなおじさんがすわっていて、おじさんが三線の弦を巻く部品「ムディ」を削って調整している間、わたしは愛想のよいおばさんと店先でゆんたくを楽しんだものでした。
でも今回、ガラス戸を開けると、そこに座っていたのはまだ若いお兄さん。職人気質のおじさんは今年の初めに亡くなられ、あとをついで店をあずかっているのはその甥にあたる人だそうな。

「すみません、三線のバチ探してるんですけど」

実は前回沖縄に来た時、わたしは同じことを近くの「又吉楽器店」で言っています。そのとき買ったバチは大きさ・重さとも悪くなかったのですが、実際に演奏に使ってみるとどうもしっくりこない。なかなか自分の感覚にぴったりくるバチを見つけるのは難しいのです。わたしはいつも使っている白いバチとこの間買った大型の黒いバチを見せ、「太さはこの黒いのぐらいで、長さはこの白いのよりほんのちょっと短いくらいで……」と説明しました。お兄さんは店の在庫のバチをいろいろ見せてくれましたが、どうもぴったりくるのがない。そこでお兄さんは、「その黒いバチの先を切って短くしたらどうですか」と提案してくれました。今手元に道具がないけど、2〜3日あずからせてくれたらきれいに仕上げてくれるといいます。わたしはもちろんそのほうが助かるので、月曜日に取りに来ますと約束してお店を出ました。

バチ(改造前)

バチ(改造前)
バチ(改造後)

バチ(改造後)

それから再び国際通りを久茂地方向に戻り、途中でちょこちょこ買い物をして、沖縄タイムスにいるはずのHさんに電話しました。沖縄タイムスではこのところ、「沖縄タイムス芸術選賞 伝統芸能部門選考会」を開催しており、Hさんは「三線の部(最高賞)」に出ます。出番はずっと後なので、電話くれれば見学させてあげるよ、と言われていたのです。

「あ、Hさん? 今国際通り。後10分くらいしたら行くからね〜」

ところが、電話を切って歩き出してすぐ、わたしは失敗を悟りました。まだ完全に沖縄モードに切り替わっていない頭で「10分」と言ったものの、東京と同じペースで歩いては、この暑さと日差しのもとではすぐにバテてしまいます。結局わたしは、すぐに歩くペースを落とし、東京だったら10分もあれば着いてしまう沖縄タイムスの玄関前に、20分くらいかかってようやくたどりつきました。

Hさんに連れられて、沖縄タイムスの2階にあるホールへ。舞台中央には赤い毛氈が敷かれ、そこには黒紋付に袴姿の男性がひとり、三線を手に正座し、わたしには何のどこを唄っているのか見当もつかない難しい曲を唄っていました。
客席の前のほうには審査員がずらりと並び、その演奏にじっと聴き入っています。ホールのうしろ半分は一般の観客(といってもほとんどは出場者の友人・知人・親族郎党なんだろうけど)のための席になっているのですが、腰をおろすとすぐ前に、折りたたみ椅子が数客配置され、その背もたれに「選考中です、お静かに」との張り紙。
ホールの中は「針の落ちる音も聞こえるほど」しーんと静まり返り、出場者の唄だけが響いています。うっわ〜。たまんないな、こりゃ。

こういう審査というのはほとんど「心理的サバイバルレース」みたいなもので、出場者にとってアガル条件をこれでもかこれでもかと積み重ね、その中で平常心を保って唄いきった者のみが、賞を手にすることができるのだそうな。中にはものの2〜3フレーズで基準以上のミスをしてしまって「ブザーが鳴って退場」の人もいれば、ろくすっぽ声も出さないうちに、「だめだこりゃ」とあきらめ、みずから一礼して退場してしまう人もいるとか。だからひとつの曲を最後まで唄いとおすだけでも大変。わたしの聴いている間には中途リタイアの人は出なかったけれど、「あー声うわずっちゃってる、ふだんはきっと上手なんだろうに……」という気の毒な人もいました。

「音楽とはもっと自由で楽しいものであるべき」という意見もあると思うけど、その一方で「伝えられてきた文化をできるだけ正確に次の代に引き継ぐ」という観点からは、こういうちょっぴりしんどい世界もやっぱり必要なのかもしれません。およそてーげーでなんくるな沖縄にこんな世界があったのかー、と驚きでもあるけど、それだけにやっぱり、こういう賞をとった人はウチナンチュからも一目おかれる存在になれる、という話。

審査が昼休みで一時中断になったので、わたしはHさんとパレット久茂地までお昼を食べに行きました。本日のランチは「ゆし豆腐定食」。かんかんと照りつける日差しのおかげで水分抜けきっているためか、こういう水気たっぷりのおかずが妙においしい。熱いお茶でさえ、あー身体にしみる、うまい。
食事の後で沖縄タイムスの社内を見学し(昔筑紫哲也がいたという朝日新聞の沖縄支局とか、タイル貼りの床が時代を感じさせる給湯室とか)、Hさんと別れてコバルト荘に戻ると、しばらくして安里さんも戻ってきました。

車に乗って知念半島の安座真港をめざします。少し早く着きすぎてしまったので、隣にある人工ビーチ「安座真さんさんビーチ」でちょっと休憩後、斎場御嶽まで足をのばしました。一年半前に来た時は、たぶん世界遺産指定を受けてのことと思われる整備工事が入口付近で行われていたのですが、それもすっかり終わったようです。駐車場から入口までの道にはサンゴのかけらが敷き詰められ、歩くとシャリン、パリンと音がします。神社の玉砂利よりはもっと軽やかで澄んだ音が、沖縄の御嶽にふさわしく感じました。

斎場御嶽を見た後、まだ少し時間があるというので大急ぎでもうひとつの有名観光スポット、新原ビーチの「浜辺の茶屋」まで。安里さんの運転する車は、一年半前わたしがひーこら言って歩いた道を快調にとばします。今にして思えば、よくこんなところをひとりで歩いたものです。あの時は冬だったからよかったけれど、今やったら熱中症ものだね、こりゃ。
「浜辺の茶屋」名物の海の風景を楽しみながらアイスコーヒーを飲んで、下の浜に降りてこれも新原名物(?)宮本亜門邸を見物して、わたしたちは再び安座真港に戻りました。

浜辺の茶屋 浜辺の茶屋

安座真港と久高島の新徳港を結ぶ連絡船は2種類あります。わたしが乗ったのは少し大きいほうの「ニューくだか」でした。20分ほど波に揺られた後、船はイラブー(エラブウミヘビ)が産卵にやってくるというイラブーガマのある岩場を回り込むようにして、久高島の徳仁港にすべり込みましだ。
港に降り立ち、わたしはまず今夜の宿である「西銘」を探しました。西銘ハナさんというおばあちゃんひとりでやってる民宿と聞いていたので港へのお出迎えは期待していなかったけど、案内の看板があるわけでもない。集落の中心に向かってぶらぶらと歩き、途中木陰でゆくって(のんびりくつろいで)いるおじぃ、おばぁに道を聞いて、なんとか民宿「西銘」に到着しました。
「西銘」の看板 民宿「西銘」

ハナさんから畑でとれたというスイカをごちそうになって一服。この民宿、世間一般の民宿を予想して行くとちょっとカルチャーショックを受けるかもしれません(とはいっても、沖縄の離島にはときどきこんな宿があるらしいけど)。家の裏手に一部屋離れがあるほかは、独立した客室というものはなく、言ってみれば「ハナおばぁの家に泊めてもらう」という感覚に近い。この日「西銘」に泊まっていたのは離れに男性がひとりと母屋に男性ふたり。離れの客とはほとんど顔を合わせなかったのでよくわからないけど、母屋に泊まった男性とは夕食の時に少し話をしました。久高島には何度か来ているらしく、滞在の目的は「魚を見ること」だとか。どうやらふたりとも、シュノーケリング愛好家のようです。わたしも今回はシュノーケルの道具を持ってきたのですが、結局久高島で海に入ることはありませんでした。波が荒くて、ひとりで泳ぐのは危険と判断したからです。

猫
さて、民宿「西銘」の住人は、夕食の時などには近くに住む姪御さんが来て手伝っているようですが、基本的にはハナさんひとり。しかし、ここの庭をテリトリーにしている猫が数匹いて、考えようによってはけっこうにぎやかな宿なのです。猫たちは庭のあちこちで好き勝手にくつろいだり、時にはケンカしたり追いかけあったりしていますが、家の中に入ってくることはない(食事時に物ほしそうにじーっとこっちを見守っていたりすることはある)し、ことさら人間様に媚びる様子もありません。どいつもこいつもスリムな体型を保っているところをみると、ハナさんが猫たちを甘やかしていないのは一目瞭然です(のびのび運動できるせいもあるだろうけど)

宿を出てちょっと歩くと、すぐに東側の海岸に出ました。「西銘」がことさら海に近い場所にあるわけではありません。久高島は南北に細長い島なので、住まいと海との距離がとても近いのです。台風の影響か、波がけっこう荒い。しばらくその景色を眺めてから引き返しました。

この島に着いて以来、ずーっと気になっていたことがひとつあります。それは「潮騒」の音。久高島が細長いせいか、島のどこにいてもサンゴ礁のリーフに波がぶつかるざわめきが聞こえてきます。それはここ民宿「西銘」の部屋にいても、やっぱり聞こえてきました。以前石垣島の白保で聞いた潮騒は、もっとエコーのかかったような音でしたが、ここは島からリーフまでの距離が短いせいか、もっと直接的な、荒削りな感じがします。もっともこれは、台風2号が接近していたせいもあるのかもしれませんが……結局、この潮騒はわたしが島にいる間中、BGMのように意識のどこかで流れていました。年がら年じゅう聞いている島の人は、この音をどんなふうにとらえているのでしょうか。普段は意識にものぼらないで、たとえば沖縄本島に渡ったときなんかに、その音がなくなってはじめて気がつく……そんな存在なのかなあ。

夕食後、わたしはこの島で「海ぶどう」を養殖しているNさんに電話をかけました。実は、冒頭にも少し触れたように、わたしは今年の春、とある沖縄関連ベンチャー企業の社員になりました。そこで扱う沖縄産のさまざまな食材の中にこの「海ぶどう」もあり、Nさんとは何度か電話で話したことがあります。旅行の少し前、Nさんに送ってもらったサンプルがちょっとした手違いで予定時間に届かなかったことで、ふたりで大騒ぎして宅急便を追跡したことがあり、そのときのお礼がてら、せっかく島に来たんだからあいさつのひとつでも……というわけで連絡を取って見ると、Nさんは港の近くに新しくできた食堂にいるといいます。今からおいでよと誘われて、わたしはハナさんにことわりを入れて、港の食堂に向かいました。

食堂は港の待合室のすぐ隣にある、ログキャビン風のきれいな建物で、ちょっとしたみやげ物も置かれています。昼間は観光客もよく利用するようですが、夜のこの時間は、完全に島の人たちのコミュニティスペースになっていました。食堂に入ってみたら、Nさんたちは酒宴の真っ最中。まあまあビールでも一杯、とさっそく仲間に加えてもらいます。
獲れたてのスクもごちそうしてもらいました。よく売ってるスクガラスと違って、塩漬けしていない生のスクが大根おろしであえてあります。噛みしめると生の魚のぷりっとした感触。この近海で獲れるというサザエの壷焼きもごちそうになりました。わたしのよく知っている伊勢志摩のサザエと違って、角がありません。海人のおじさんたちは「朝鮮サザエ」と呼んでいましたが、味は同じ……だと思います。わたしがなにげなくサザエの身を殻からくるくる回して抜き出し、パクリとかぶりつくと、おじさんたちは「ほー、やっぱり全部食べるんだねぇ」と言いました。

なんでも昔久高島では、サザエのワタの部分を食べる習慣がなく、入口から数センチの「身」の部分だけ食べてあとは捨てていたそうな。「オレはやっぱりワタは苦手だよ」と身だけしか食べない人もいます。まあ、わたしも子どもの頃はワタが苦手で食べ残し、親に叱られたものだけど、大人になると別に抵抗なく食べられるようになりました。今ではこのほろ苦さもけっこういいもんだな、と思うのは、ゴーヤーに適応する過程と似ているような気がするんだけど。

話はあれこれとはずみ、そのうちわたしが「三線が弾ける」と口に出したとたん、Nさんが自宅にひとっ走りして三線を手に戻ってきた……
というわけで、その日の晩は「海人のおじさんたちに囲まれた唯ねーねーのワンマンショー」となってしまったのでありました。

海人のおじさんたち、となにげなく書きましたが、久高島の男たちは基本的にほとんど海人です。久高島の土地はあまり肥沃ではない(プラス離島という地理的条件のため、水が豊富ではない)ので、大々的な農業はできません。夏場はほとんど野菜ができないので、民宿の賄いが大変だと「西銘」のハナおばさんもこぼしていました(スイカは作れるらしいが、トマトはダメで、沖縄本島の高い野菜を仕入れなければならないらしい)。だから男は海に出て生計を立て、女は留守をあずかってささやかな畑を守りながら、男の無事を祈る……「女はカミンチュ(神人)、男はウミンチュ(海人)」という役割分担は、必然的な結果でもあったような気がします。

おじさんたちの会話を聞いてとても印象的だったのは、「久高の海人」のプライドの高さでした。わたしなどが沖縄の海人というとまず思い浮かべるのは「糸満の海人」であり、「八重山の海人(最もこれは民謡歌手の安里勇さんや「海人Tシャツ」の影響かもしれないけど)」なのですが、久高の海人も琉球王国の時代には、進貢船の乗組員として重用されたのだそうです。実際戦前までは、北は奄美から南はいわゆる「南洋」といわれる地域(インドネシア・ミクロネシア)まで漁に出て、活躍していたということです。
久高島というと「イザイホー」をはじめとするさまざまな神事や、島のあちこちに点在する聖域や「神の島」というイメージから、なにかとても閉鎖的でよそ者を寄せ付けない島、という印象があるらしく、わたしも帰ってきてからよく人に「どうだった?」と聞かれたのですが、少なくとも短期滞在の一観光客のわたしには、まったくそんな雰囲気は感じられず、遠来の客を一定の作法にのっとって、きちんと迎える島、といった印象を受けました。自分たちの住んでいる島は小さいけれど、活躍の場所は広かったのだ〜という思いのせいなのでしょうか。

港の食堂の閉店時間は午後10時。宴はその後、食堂のすぐ外の芝生に置かれた屋外テーブルに場所を移して続けられました。外はまさに「満天の星」。海から吹いてくる風も心地よい。いつまでいても楽しいだろうけど、わたしは1時間ほどでお先に失礼して、海人の中では若手のにーにーのエスコートつきで「西銘」に戻りました。食堂と宿とは歩いて数分の距離だし、久高は平和な島だけど、旅行者、なおかつ一応若い独身女性(異議は認めない)にはそれなりに守るべき「分(ぶん)」がある。それがひとり旅を楽しく続けていくための条件だ、とわたしは思っています。


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